2010年3月20日

経済学

資本主義が決して救いきれないのは勤労を好まない上その成果を欲しがる層。彼らをここでねぎらわぬ層と呼ぶと、勿論事情はあるが、彼ら丈が資本主義による社会建設へ最後まで反対し続けるのは明らか。又賃金と開かれた社交場での富の偏りを不穏とみれば、勤労と労組の均衡条件しか資本主義の性能を充分発揮しきれる気勢はない。つまり労働者の権力が常に資本家のそれより高く見積もられる法的条件付けこそが資本主義の性能へは必要条件。
 私の考えるケインズ最高の洞察は、有効需要の低減が金利生活階級の自然消滅をいざなう、という一点にある。が細かい経過への展望は彼の眼になかった。だから彼の体系自体は疎漏でもある。某途中段階でも人間は暮らすをう。故少なくとも心理的圧迫が、そこでの労働者の日常では除き切れない。いつ公的資本の限界効用とやらが訪れるのか見通しの効かない段階では、霧の中の運転をヒヤヒヤながら続けるしかない。
 この五里霧中の結論をいえば公的資本の限界効用という観点はケインズの勘違いであり、それは誤りでもある。我々は残念ながら科学と技術を結び付ける習性を文化素へ獲得してしまったので(工学の誤訳か意訳が起こりだとして)、何事かを新たに学ぶ限り永遠に、技革の終点は訪れない。スタートレックの未来(工学段階が発展の限界へ至りほぼ定常化した世界)は幻で、対して無限階層論と同じく科学認識には全く限度という面がないだろう。但し、我々自身の遺伝変形より機械の技革はおもにずっと速い革新を行うので、仮に変化が起こっても殆どは細部建築の自動化機能とその重畳でしかない。活きている間でさえもその速度が速まり続けるのみ。
 従って、資本の効用は自己拡張性を伴う。もっと別の言い方なら、富の格差は技革投機が禁忌されねば永遠に連なり拡がりゆく。だから累進課税の方式にしか全く、資本経済を公認した法的社会がこの拡がりを食い止める手だてはありえない。計画規定の域をこえて勤労習性は科せない。奴隷制度は人間性やその為の自由権へ反するとされているから。ならば、普通みられる資本選好の衝動は勤労層が彼らの体力を累進課税分も含め、取り分と誇る為にいだかれている。こうして資本主義経済内では決して経済秩序の労使関係が終ることはない。もし有効需要の低減が起きてもそれは旧技術での効用の程度が、であり次の技革は新たな需要を必ず掘り起こしてくる。つまりケインズ最高の洞察はマルクス思想へ知らぬうち感染した知識人一流の回顧趣味だったのだ。
 累進課税方式の限界効用仮説は之へ反論して漸進的真理を主張する。もし強すぎる累進制を敷けばそれは社会主義化を伴うか、でなくば国家単位での世代間負担を合理化する福祉主義論と同じになる。なぜ近代の個人が資本主義経済を択んできたかといえばそれが勤労の恵みを最も享受させやすい世界観だったからだ。同じく、累進課税のある程度の制動機能のいつの間にかの導入の訳といえば富の極度の片寄り振りは市民社交の健全さを失わす、というかなりの共同体思想がそうさせてきた所が大きい。
 この両面の利害は、ケインズ以降の経済学で最も要となる改良点が公共事業投資の対象を公共財の自己選択論へおろすという、地域趣味説を明かす。ある地域では地を這う浮浪者の救済より皇帝直属の園を豪華に装うのを当然の公益対象と見なすだろうが、一方では生活保護を一切の賭け事や飾り気より重視する國柄もありうる。この場合の國をいわゆる近代国家の内部へ分立された地域単位とみれば、公費がどこへ用いられその蓄えが人々をどこへ導くのかも同じ原則で因果応報の趣を執るし、そうたる方が効率の促しと各風土体制の冗長さ維持へ叶う。一般に累進課税の微分化の本性は従って、一国家にかなりの風土差か民俗差があるときに強調され採択され易い。もし広域に及ばず単純な民族構成のなりたちゆえ国家に生活嗜好の違いが微小な時は、彼らは調整的正義を普遍性の観点から、あまねく一律にしか鑑みないだろう。
 ハイエク等の新自由主義論が市場介入の撤廃を狙うのと違って、この財政領域も込めた純粋に資本主義的な考えでは有効需要拡大の矛先自体を市民とそのおのおの細分化された単位ごとへ再分配(調整済み分配)せねばならない。つまり元は手詰まり防止策として考え出されてきた財政出動を常識としておいた上で、どこへなら支出しても良いか、郷の趣をえらぶ智恵の民度が地方自治面へ広く譲り渡されればよい。この手法を郷國ごとの再分配の趣意あるいは地域選択型投機の拡充、もしくは短く地域投機と呼べる。より簡潔にいえば、全体を統制するのではなく、財政投機に限ればできるだけ小さな自治組織の選択制でこの対象を決められるべく勧めると、新自由主義の欠陥である自然や地方事情ごとに希少な文化秩序の無防備な破壊という外部不経済を含む、市場原理的な見落としが随分減るか、最低でも郷國同士の隣接文化反作用的な展開競走で前よりそれら不可逆な文化資本のありかへ人々はずっと注意深くなるだろう。なぜ再分配への権限が細分化して手渡されるべきかいえば、実はその方が手間が掛からないからだ。
 経済勘定に疎い地域は元々そちら側へ進もうとする人民らの意欲や適性に欠けており、しかも出来る者の足を引っ張ったり持てる者をやっかみ陥れたりする厄介者どもの巣窟と化している場合が大変多いのが、本当のことなのだ。彼らの幸せは旧態の維持や頽廃した暮らし方の愛顧、及び土民仲間内での野蛮な慣習の絶対視であるのが殆ど。こういう地域は通常かたいなかと呼ばれているが、その中でもさらに後退地域と比較的進歩を受け入れる余地のある半市民社会が村と呼ばれているのであり、いわば僻地の奥へは我々が国家思想からの経済的進展への啓蒙をおしつけようとも根本から、退行層はそういう理念へは共感も協調もしないもの。彼らの合言葉はみな文明へのうらみつらみであり、本質的に何事でも以前の人類より優れた生活経験はなかったことにしようとする、野生で彼らが自慢している分には楽な、但し、かれらとしても面白くない旧世界への故なき愛着なのである。こういう社会環境がしかも多く遍在している国家体制である限り、全体統制論による発展趣意はなおも空想的といわれざるをえなかった。統一国家の体裁は対外戦争の上で皆兵需要がきえさればそのまま時代遅れとして見捨てられて構わないものだ。もし上述の理論、乃ち郷國単位での公益増進が常識化されれば、全く労働や勤労所得なしにかなり旧くしかも低い程度の暮らし行きを好ましいとみなす怠惰か逃げ腰の生活感覚者たちにも、ほぼ永住権と共に狭くはない居場所が与えられるだろう。だがそういう地域は、きっと時代と共に他の外界とは常識でさえ乖離し始め、いなかという以上に島内の外邦化を伴う。とはいえそれでも幸福指数などちょっと風変わりな各種指標で彼らの自己満足度は、資本原理主義社会の全面的おしつけのときよりずっと彼らと、我々にも高くおもわれるだろう。