2010年3月9日

現代数学仮説

経験則は常に公理系内へ編み入れが起こっている数理公式の集まり合わせと定義すると、意識の他の公理系への真偽命題の決定力は経験則の補集合特性つまり補いの無限に限りう。経験則は補公理系。故所謂決定可能さは学習可塑さが残る限りで真。逆に補いへの編み入れが起きない孤立のいとまきではその脆さを突く決定不可能命題が生まれる。原則として、経験則は開放的公理系でもある。造り数学の最短化規則は経験則増大でなく、孤立した公理系の証明過程が厳密化へ寄与しその道具らしさが高まるのを期待する。ここでもし私の意見を差し挟めば、究極の経験則集合は哲学系と呼ぶをう。この集合は忌憚なくいってまったく任意でない体系づけへの方法論をもちあわせていない。哲学系は既存論旨の脆さを穿つため矛盾した経験値からの作り上げた論理、日常生活で言い訳か最高でも合理化とよばれる何事かをいう権利や立場であり、この止揚的啓蒙運動乃ち弁証法の本質は数理科学の知見が全知へ達しえない、という戒め機能または学習継続の動機づけ規制に働く。哲学系は冗長さしか達しえない。つまり真理をふやかす中で多矛盾度や曖昧さを維持か促進させる余計量への機構を出ない。だから『実践理性批判』にある如く善意しか哲学には実現しえないだろう。そしてそれは知識量に対する啓蒙度に、乃ち無知なる領域への気づかせに叶う限りで。
 数学の厳密化が経験則をみな公理づけきるのは難しい。故今の段階で数学が為すべきは、経験則の母集合化も極力最短化の規則で行う計画を始めること。入力を除きこの出力作業自体の自動化も視野に入れねばならない。
 造り数学分野は、この作業つまり経験則の母集合化計画へかなり使われるをう。なぜなら最短化がなくば秩序を見つけることはできない。どの論理記号も同値の単位重畳さへ叶う複合さで測り、文字か字単位での規則づけを科学知識の一層の精密化へ向けて働かせるをう。

あの家系

幾ら説教しようと大多数の東京人はちっとも行いを変えない。それらの生命体は、関西人の気が入っているので頭が悪いのだろう。そもそもボスですらあれだし。
 かと言って、放っておけばそれらの生命体は星中へ汚猥をまきちらす。いつものことではある。江戸土民とはそういうものだ。救い様がない。尤も、たしかに関西人そのものよりはましだ。関西ではヒトがいない。サルしかいないのだ。感覚というものがない。

 世の中と付き合えと教え込まれてきたが、どうしてそう教えたのかいえばあのボスが悪者だからだ。あの家系は昔から搾取をなりわいとしてきたので、世の中で商売してほしくて仕方ない。その差額を脅して奪うのが本領なのだから、ああしておのれが偽造した学校では、世の中とのへばり付き合いを叩き込むに違いない。世間とは家畜だと思っているのだから。
 単純に、そのサルは馬鹿すぎるので必ず地獄に堕ちるだろう。そうでなければ辻褄が合わない。九州の血とまざった関西人のracismなど語るに落ちる。その国の正当性が疑わしいと感づいてから、全てが邪悪に他ならないのを十分観察してきた。救い難さをこれほどまでに理解しようとも、なおも目の前で東京人は江戸の文法を守り続けていった。彼らは愚鈍でよこしまなボスの手下になり、散々わるさをしてよの風紀を乱し続けた。
 だが、宇宙の広さに比べていかにその虫類がみにくく卑小でも、業のリターンはどんどんと膨らみつづけていく。東京人のなす悪がどれほど膨大か、日々メーターを測る仕事の中で私は群れになった馴れ合いの邪悪さを、とても精密な記録にすることができた。そして私は未来の世代へとその記録を余さず持って行くつもりだ。

2010年3月8日

商品開発

茹卵製造機。
市場価格は千円台から三千円程度で、タコ焼き機の形を二つ迄おとした姿をもち、電源をいれて二、三分から十分で1.半熟、2.温泉風、3.完熟からボタン毎に出来上がりを択べる。白と赤の二色展開。
開発費を抑えるに既存電気ケトルの機構を工場へ直接出向いて転用か抜粋する。
継続的製造そのものはパナソニックの子会社が名乗り出そうなので託すか、又は製造委託しブランドは自ら得る。がサザエさん等の庶民級の番組へCMできる利点は前者をより望ましくするだろう。

負の呼び水効果

東京都が万引き防止のポスターをあちこちに張り出した。しかし自分が見るに、これは呼び水効果を伴い逆効果の部分も大きい。
高級品店や開放的な店では万引きなどゆめにもおもい寄らなかったが、そんな所に突如万引き禁止を喚起する場違いなポスターが張り出されていたのでそういう悪徳がこんなところにもありえるのだ、とかえって犯罪可能性が逆啓蒙されてしまった感が私にはあった。

税収を欲しがる都の下司根性が、こういう負の誘引で自業自得の結末を呼ぶとしても不思議はない。万引きをよく行う層が出入りしそうな猥雑な雑貨屋の如き界隈と、決してそうではないだろう大手百貨店の見分けくらいつくだろうに。
悪政貪たり。税は人民が進んで支払いたい分量を以て臣下共々節制篤実に甘んじるのが徳政の本旨だが。

生態学

地球型生態の本質は地球の上での適応度にある。大多数の理想がそうであるのと等しく、地球上で行われる生態反応は特有の傾きを担い、それは僻地さを伴う。地球が他の星団とやりとりできない間は真に。
 この生態を適応度の面でいくつもの類型に分けるのは容易。が生態は不可逆さを少なくとも維持面で伴う。故生態已に省みれば類型は時代類型。かつ大多数の類型は系統樹の末節を継ぎ足すか衰えさせ為す。生態の適応度は時代環境なりの変容を引き連れる。故類型は遺伝の法則でも維持の在り方を時代毎に違う方向へとぐ。
 生態の適応度は、星団の特質を含むどの系外惑星内ででも固有さへ赴く。故生態の在り方は常に境らしさとの折衝条件による。境さは適応の質を変え、別の変りを尊ばす。ならば生態法則は場の恒常的特質を内部化した傾向。但し、この定まりは決して時代類型をこえない。
 生態が一定りの群生をもつ大きな訳は適所での境さが幅を伴う類型だったから。→境は適応形質の文化素。境が遺伝子への選び因みになる。この因みは境らしさを追う。
 遺伝子の偏りは、つね適応度を世代交代速度で微分する。それは
Δ速度/Δ世代数∫function(時間)・・常適応度
の定積分を
limitation[世代数]時間/突然変異出現率‥重複世代数
の平均さで割った値、即ち
常適応度/重複世代数×0.5%=遺伝偏差値
が境らしさ毎に恒常さの原始関数であると示す。故遺伝子の偏りは生物量と見れば資源と同値。
 生態の適応度偏差は何れこの観点から、塩基対情報量用の燃料か解体後の秩序度の抽出しとして資料にされう。でないと偏りある資料は永久に偏り続け、境らしさを崩壊させる。つまり遺伝子資源の利用か単に捕食は縮小された戦争行為の省略形で、より合理な熱量循環の規則。遺伝の因みは形質が境の再生産率へ不可欠に結んでいる事、かつ全反応の底に突然変異出現率という文化素への影響波の強さを選び抜きの原理と定める中で、実質的には外部系への可逆反応の程度を重要な単位重畳化の比例としたと明かす。この点でも世代間の再利用可能さを鑑みた境らしさへの貢献が、社会型生態にとっては再生産率に対する環境での適応方向へ一定。

2010年3月7日

海の香

走り去れる通勤自転車きよし川
あさがすみ海の香をきくわが庭に
あおぞらにきこえる若さは今も清けり
水色のまちに染むなり潮風よ
わが愛すまちはひろけり響く凪
山奥でしんみり待ちける水芭蕉

救い

必ずしも救われる可でない人もいるのだ。
罪が裁かれる次元が、
もし腐りきったこの世の法廷の外であっても。

共生思想の位置付け

自然との共生という思想は、自然征服への理性にとっては過程と見做される。自然と一体化している間はその支配などには思いも寄らない。
 多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
 今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代のさとりとは、それ自身を経験則下での実際の生き残りに想えば凡そ確かだったのだろう。先駆種が生じる余地にとってさえも、極相化への一極適応よりもある程度の中継団が残っている方が有利なことは、溢れる生態現象のなか何が真に新しい変異かへ多様さの光明を照らすのに役立っている。著しい多様さがない場では、珍奇さとして一般的に進化と思われる変異でさえ排他的か淘汰的に差別され、大多数派である極相種の支配力によって潰されゆく。
 自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異のあつまりを引き連れるかさもなくば支配し直す。そしてこういう経過全体にみた生存確率の面から、円滑な進化の為に自然共生論は量感を伴う母系となる。言うまでもないが、にも関わらずそこには常に矛盾か自己満足か自己適所化を伴うので、審美感覚の超中庸論のため以前とは大きく違う新変異に類する品種を選択しきれないだろう。だから自然共生型への最適化系統からは生き残りはあれ生態的な進歩はない。

国会中継の電網適性

インターネット最大の利点は情報発信量あたりの維持費面であり、この為、既存の地上波では放映しきれない濃やかな動画チャネルの解放は、行う意志さえあれば今でも可能である。
一般に、公務への不信はその不透明度といらぬ隠蔽場面の多さによるので、国会審議をインターネット中継しつづける政府チャネルを設け置くならそれは各国へ先駆ける大いなる革新といえる。

しかも、この為にはもし最高級の画質など無益な豪勢さを廃し、市販の質のデジタルカメラと必要充分な市販パソコンを通じた実用的中継へ限れば、いわゆる批判にさらされがちな公営法人NHKを使いまわすよりずっと最小限の費用で最大公益が図れることだろう。
だから計略担当大臣の直下の部下数人へこの仕事を託せばそれは大袈裟な手間をとらず即日行える。国会動画の保存の始末だけ、既存の官僚機構、おもに書記官関係者へあとはしっかりやってくれと流せばいいに過ぎない。

2010年3月6日

商品開発

インターホンからの文章入力で用事記録を保存できるシステム(『interlog:インターログ』)を。いくつかの定型文からも択べ、音声記録ものこせるよう。

文化の特徴

科学精神による侵略は世の一契機でしかなかった。対応に見た生態秩序は趣をことにしたのみ。
 科学精神が無用ではないが、それ丈が世界精神の本性とは考え辛い。特に数理による自然比例の認識がその侭、生態侵略への道具へ転用された事は決して唯一の法ではないのだ。この用法自体、西洋哲学の縁起説の未消化を実証している。
 ベーコンの自然征服論にとって縁起説は蚊帳の外に置かれた。彼らが依存している自然界の諸条件は、極相化した自身らの支配圏拡大の土台としか見做されなかった。
 従って、科学精神の導きさえも民族の智恵の総量に基づいて構想されゆくのは明らかだ。なにをよしと見なすのかにとり民族の目指す理想は、自然への考察の結果のみならずそれを用いる主体に対しても違いを生む。善意の程度は今日でも最も信頼できる智恵のありかだろう。この程度は常に神の意いに劣るだろうが、にも関わらず現世系で至りえる最高の指導力は理念の上に花開く人知の限界にある筈。
 科学精神の用途をもし共生界へ限れば、藝術はやはりそこでの最も究極された目当てだといえる。わざ自体は彼らの特徴を誇り示せるにすぎないが、それでも我々はこれより過ぎた何らかの神意の顕れを見つけ行く仕組みをもたない。最高のわざはまた同時に科学精神の技術へと仕組まれた顕現として、我々の智恵の壮観を個々の芸術のあつまりたる街の上に花咲かせる。家、村、町、市、県、府、道、都、国、などこういった今ある領域の幅は決して個性と矛盾しない。芸術があつまった結果として全ての風趣は形作られゆく。自然界と人間界の調和の姿は技術そのものを活用した芸術界とよばれるべき世界をつくる。風趣の目的はこの芸術界の在り方に求まる。よって、科学は技術の、技術は芸術の道具である。芸術界自身は神の計画を実行していく一手順でしかありえないだろうが、対してその調和から想像できるあらたな生態がこそは育まれるべき本当の進歩であり、そこでは生態が真に多様さへの導きたり得る証なのである。
 もし支配のみを目的とした適応行動があったとしても、補集合は常にその個性を取り囲んでいつしか分解し、次の世代への土壌となす。故に自然界と縁起説の土台に基づいて適度に協調する世界観は、文化とよばれていいだろう文明化の間にある土壌の養生にとっては最適たる。文化が次世代への投資であることは、農耕文明が何れ文化の程度を自身の理由づけとしてきた証だろう。このさなかに咲く生態条件が真に芸術界とよべる場所なのだ。土壌がうまくなければ次の世代は惨めだろう。文化は土地定着型の風趣にみれば最適化の一様態と考えられる。

2010年3月5日

吾むかし椎名町えきまえのマックで息つきし冬おもふ
しるし受け生くそのときがいずれなるなり輝きし日々
上京しみし数々の出来事ありてつき/\゛し練馬眺むるそら
保谷まち隅の賭け事わずらゐのくるまや矢張り消えき
朝早く池袋のまち歩きしなかに柔肌愁ふ頃の匂い
借りつ高き志聴き道なおくわざをただ修むる青春うら若し
絵の具の香たのしきころの趣をおさめ磐となりしき

現代経済学

留保資本主義の本質は、大多数の生活者が朝三暮四の連鎖を公認してでも生存したがる生態本能を社会系に依存して成り立たせたい限り、我々の文明が蓄えられた資本の量にこの性特徴を集める合理さにあるらしい。
富んだ家の目立ち方を極端にするしくみは、群衆が再生産率を自らの生態行動の目当てとする「商さ;あきないさ」を維持する限りつねにその偏りを指数関数的増大へ導く。つまり商務への軽蔑が殆どない群衆の中のいわゆる中産層では、おもに再生産率の高い生態を美化してみる欲望によって以前より富む事、今より物資や奉仕の豊かな生活程度を夢見る事が生存計画の動機づけとなりがち。
留保資本主義はこの目先の利益追求の衝動を、富の量感で誘なう計略として最上等。もしそれ以外の資本をえり好んでも所詮は露と消え去るか維持費の嵩みでおしつぶされるかのどちらか。乃ち利益は蓄えを功利とし、でなくば中産層は育成されない。

 この道理は留保済み資本が商さを自体で選好み且つ中産層の進退と軌を一にしていると教える。資本経済の本性は、中産層が利益追求の体面を社会の表で大袈裟に振る舞えるほど強くなる。
結論として言えるのは、資本と呼んでいる対象物はこの利益追求の仕事量自体だということだ。商さが実質的資本であり、留保されるべき社会間資源の中身なのだ。これ以外に価値づけられていい何もない。

 資本主義の文化素は群衆が体面を保ちたがるほど強まる。留保量が仕事についての強制力を引っ張り込むわけだ。中産層への魅了には最も羽振りのいい社会内行動を誇示できねばならず、それにはつねに増強されるべき財産を要する。
だから留保資本の本能とはその蓄えを自らの体面とほぼ摩擦なくなるまで増加させる「見栄:みえ」なのだ。この見栄への誘引は群衆からの注目に正比例する。

以上を冷静に分析した者は次の事に気づくかもしれない。
仕事量の定義は流動的であり、別の資源や技術をつねに追い求めるという技革法則は産業の内部にあって常々かれらとかれらへの選択をくみかえずにおかない。故もし社会内行動の複雑そうな係わり合いに最も基本となる順列規則をあてれば、留保資本主義の目指す所とは中産層との共生体を維持していこうとする考え方の差や違いなのだ。
簡潔に言って、我々は行動すべき範囲で何かを別の所へ形を作り替えるか変えないかして移す行為だけをするのであり、これは商さの選好みに繋がっていく。だから留保された資本量は見栄え;みばえの中にその考え方を埋め込む為の装置か智恵。でないと仕事の動機づけはなくなる。

留保資本主義そのものが現代の荒廃(こういった高い理想からくる失望感は常に全時代の思索を浸すのだと私は信じるが)へ何らかの効き目ある救済措置への全能処方箋ではないのだが、この機能には人知の及ぶ解決策への万能さが宿っている。
具体的に、有徳な金持ちとそうでない者との間には社会改良の為に使える仕事量へ、また評判にさえ大いに違いがあるだろう。そしてこの違いが、社会哲学と我々の個別の科学知を動かす被雇用者との兼ね合いの上で花咲かせる唯一の道である。
失敗した富裕者もある一方で、見栄のため規制される利他行為への転用により自らの持てる資源を最大限に使った、また使おうと事業を行う者はそうでない者よりつねに中産層からの尊重と愛護を受けやすいに違いない。
 全てが誰か一人や一家の下に吸い込まれ独占支配されるのをよしとする原理主義社会に比べれば、或いは成果と努力如何に関わらず公有づけたがる福祉主義社会の誤って捉えられた先天平等の楽観すぎる視野に比べれば、資本経済を前提とした中でも更に先鋭的な「富の格差」を認める留保資本主義社会はその個々配分への合理的秩序に於いて一層の強調と擁護や援護をしてよい安定した体系である。
より賢く能力の高い個性や血筋をそうでない部類よりも尊び、或いは頼りとして歩を進める思想は、何の根拠もなく生まれつき全人間生態の平等だとか出過ぎなさだとかなにかの偶然で成った地位だとかを保守したがる触れ方よりずっと資本量の自ずと偏るしくみへ適っている。

富の格差が広がれば広がるほど我々の社会は前に比べて裕福で、なおも先行き明るいものとなる。これは維持できる財産家や個性はそうでない者よりも優れた考えや資質によって群衆を、よりよき秩序へ導く為の蓄えが豊富だから。
そうでなければ一様な貧しさと足の引っ張り合い、又は馴れ合いが及ぶばかりで暗澹たる社会事情を他の国との折衝や悪巧みで別の世界へ伝染したがるばかりであり何一つ尊敬すべき点はない。
最低限度の生存資源公有化でさえも、極力政治的公的には節制され、篤志厚き富裕家の私の建前をとった慈善事業として営まれゆくのを待つ方が必ずや優秀な社会秩序を用いるのだ。なぜならばそこでは自ら立つ個々人の意欲と努力とが、他者への依存と恵まれを当たり前と考える怠け癖より遥かに尊重を受けるのだから。
 私はこの考えをほか一切の妥協した社会主義と区別する為に、『資本原理主義』と呼んでいいと思う。成る程それは全能の神には遠く及ばないが、なおも人間界では最善の考え方なのが今のところ疑えない。
人間は保有や留保できた資源の量について群衆と同類である間、決して何事かを成し遂げられはしないのだ。先ず資本がなければならない。この為にはどの様な手段でも、無論倫理を全否定はしないが結果的に肯定を得る。

2010年3月4日

川柳

端ない外タレ回すテレビ局

岡村さんお金はあれど家庭なき

矢部っちは一人で笑うFCぞ

かなしけりテロリスト龍馬映す俗

2010年3月3日

人類生物学

逆選好で人間の性選択が進化を抑制されている事実は、来世勘定が宗教の領域へおしやられつつ彼らが長い期間を諸形質の類人猿との近しさを転用する丈に済ました深い訳らしい。逆選好は最も審美的な感覚からのそれへ集められがち。故人間の逆選好は量化の傾きを強める。もし進化に見れば、自己僻地化は量化への解除を適応要因とする最初の段。故まず幼型が示されねば皆人類が彼らの轍を抜け出す理由も生まれない。もし皆が量化の逆選好を続けていけばその社会誘因は皆審美さを高め、代わりに新規か珍奇な物をとぐ。審美さは超中庸さともいえ、故量化の誘引は皆その生態的な多産さへの記憶を素にす。全て人間が文化に高みを得た地域では初期発生期たる幼児時代にしか魅惑感覚は残らない。私は経済圏の消失が多くの場面で発情を抑うと見た。人間は商業で再生産率の高い生態を企む。故皆人口比の密度辺り多い地域では下町気質と云われる再生産率に適った性格が珍重され多くは生き延びるのを許される。
 人口内で商圏の必要が少なくなるほど集団に見る誇示の要請は弱くなり、彼らは例えば地味な鳥類と同じく魂の問題を見栄えより高く見積もる。商業都市では一切が値段で決められる傾向をこの種のとぎと等しくす。何が目あての生態なのか。このといは人間へ向けては、もし芸術を演劇と芸能界なるその秩序の低まった姿でも合目的さの形と考えると、他の全ての生態と埒を設けえなくなる。集団や群れの誇示は国か文明を造る。故人間は社会の誇示を一つの姿とするのが明らかで、しかも之は個々人の総計の身。人類がいきのびている訳が社会性にあるなら彼らの理は全てを他の個性との関りの内に求めたがるより起きの間柄へ当たる。全てのヒトらしさは無人島での生態をとぐ因みにあたらぬ上で文明らしさの個々の形質へ当たる。社会的知性を理性と名づくと結局、全て人間の営みはかなり高度でかさね合わされた誇り示しのかわりばえ已。感情なる能力は実質之誇示の形式已。何がヒトのあつまりで貴ばれてきたか、そして性選択の自然な対称さの余地をより体制の低いすこしであれ原始級の生殖そのものへの感心を成人して後にも意識の上で保つ、この子育てか幼児教育への必然さと併せ省みられた社会性は、女性の雌らしさ、乃ち女々しさの中により保存されてきている。之が何をヒトが最も小さな構えとして今日ありえたかの訳。
 感情を原始級の特質が保たれた結果と考えた者はそれが合目的さの広がりにとっては今なお営まれ続ける生態の理と気づかなかった。寧ろ全ての理知はこの特質への補い。でないと社会らしさは奥行きのないちごらしいたちへ留まる。理知の総量が社会性の誇示にとって基準となる。之は見比べの容態を舞台にみたてる生態論とも符合して証なしている。

2010年3月2日

葉っぱ

渚のまのびの山
たまに忍ばれたそういう
みずらみずらが運んだ
チャイニーズ・ビーム
とっても典雅なクラシックは
竜巻だ
ぱっぱっぱっぱ
弾けてまざる菜の花の実はね
ぱっぱっぱっぱって
回りゆくむかしのおどりです
よく見つけたねー
そうかも知れなくもない朝焼けそら
聖蹟桜ヶ丘のえきまえの
雫のねアーケード
ふらーとふる明かりとり
ぱっぱっぱっぱっパって
ちりふるのがたのしや葉っぱ
秋の落ち葉ももうないの
だもんでだもんで

けがれ

東京大阪の人身売買文化滅びろ

官僚再構築の原理

リストラとはrestucturing即ち再構築のことだから必ずしもクビだけを意味してはいない。だが現状でも平均的給料夫よりも少ない月給で甘んじている大多数の国家公務員を、さらに厳しい分け前で生きながらえさせるのにも問題がある。
これは構造が重たい、という効率改善の課題であり、もし政治主導あるいはより正確には「議会主導」の旨(なぜなら全ての政府機構は政治界と呼べるのだから)を果たそうとすれば一般企業がそうしてきた様に、縮減人員での効率よい経営計略が練られねばならない。
 専門官僚の優秀さを擁護する発言も少なくない様だが、問題は数であり、国費への負担だろう。いうまでもなく宮内庁関係と最低限度以上の防衛警備予算は(政府が倒れようとするその時まで)まず切り崩せないのだから、最も穏便に事を進められる部位こそ妥協点となる。

勿論、自称政治家の身の上であられる国務大臣以上の面々が相応の覚悟で給与返上もありうるが、今までのこの種の小手先偽善改革の経験上いえることは、やわすぎる仕種を少しでもみせれば明治維新すら合理化したええじゃないか庶民感情というものはどこまでも彼らのいまある上官を貶めるものなのである。
毅然とした態度でどれだけ自ら当然の分け前を独占しても、寧ろ全身全霊で仕事に取り組んでいる姿勢をこそ公に私に報道する方がずっと、年功序列と株取引にのった不平等な取り分へ不満を抱く者の溜飲をさげる効果も将来世代の挑戦への意欲すらも期待できる。

率直にいえば見えない蚊帳の奥でなされている部分を(外交策謀上での致命的欠陥がない限り)最大限とりつぶしていく「政務透明化」を徹底することで、官僚へはいかなる仕打ちでも国民の支持は維持できる。なぜなら、この過程の大袈裟な報道はまるで劇団の様で、彼らも世の不正を暴いている気で豪傑のあらごと芝居に迫りえるのは公開事業仕分けで実証済みなのだから。
天下りならぬ官僚再就職の斡旋は、それが議院立法の中で原則政治家によっては禁止にされ、なおかつ各省庁をつかさどる長自身の口から、独立自尊の貫徹を公に告げゆくことで自動的に東京都付近の平均的業務遂行能力の底上げにもなる。誰しもへ報道されれば人材を欲しがる雇用側の同情も多くなるだろう。

2010年3月1日

ゆめに見た簪が
ほとんど奥行きないプールの
底でゆらゆらとゆれるのを
真夏日におぼえる
大気は音もなく震え
まちがいなく訪れる小鳥の
さえずりを受け流し
遠い島国の曲をかなでさす
ゆずられた席は
ただの一人分の小さな
座布団が敷かれた間だ
勿来の駅舎に居る
私は横切りつづけていく
すべての車や波や云が
それ自体として完璧な
幻であると思う

一粒の月

空蝉うつせみの身の上を
案じているのだとして人は
どちらにせよ独り
その証に観る
この余りに広い宇宙の
どこをさがしても二度
おなじ人生は出てこない
にもかかわらず勿論
わずかな呼吸の合間は
少しずつであっても命を
刻みつづけていくばかり
すでに全ての星々が
あっという間に散りさってから
駅舎の真上に架かった
なんということもない一粒の月を
眺めるともなく見ている

もてなしの趣味

もてなしのよしあしに程がある、とはデリダの論拠になかった。彼は無条件の歓待ということばでの、当為となる奉仕の定義づけでその哲学を卒える。だから見返りなきもてなしがそれ自身のうちに差をもつという感じのよしあしを問題にしない。
 客への態度、は見返り以前に感じを持っている。この感じはおよそ条件づけによらず一定。なぜなら条件は変わるが主の趣味には客への態度の一貫性を保つ動機がある。要は、もてなしには条件以外にも元々目指されるべき的があって、この座りには趣味観なる馬のあうあわないが前提とされる。そして趣味一般は審美感覚論だから、もてなしの程は客体的一貫性へ条件以外の余地たる主の品位を差し挟むいくらもの余白を持っている。論旨の結びからいうと、趣味の合わないもてなしには如何に無条件でも汚らわしさしかおぼえないのでなんの有り難みもない。貧者の一灯という諺は趣味観が心にあること、混同されやすいが奉仕向きのこまやかな精神そのものでさえないことを示す。それは昔風の言い方では魂の問題らしい。先ず以ってよきもてなしは心の限りでなければならない。だからそれはいわゆる絶対帰依の旨を仁の概念と既に深く結んでいる。岡倉のいう譲り合いの心はもっとも分かりやすい心の限りを端的に説明している。茶の湯がこの種の心づかいを啓発した面はたしかにある。成分からくるおちつきは言い争いや格闘よりは穏やかな歓談をより好ませがちだった。しかし茶道のみが心づかいの唯一の道とは念われない。道具に頼っている間その魂は装いである。もてなしのよしあしにはつねにうらみなさや形へのこだわりなさが求められる。もし形のこだわりをもてなし方へ打ち付けたがる風流心の欠けたひとがいても、彼は有り体に感心されはせよ、有り難がられはしない。ここにも程度問題がある。必ずしも歓待がすべての理想をつくる訳ではない。だがただの社交性にみれば、それはもてなしのよしあしではかれる。よき社交性は度重なる印象をよくし、好感をいだかせる。この結果は哲学の上では面白みを意味させるにすぎないが、なお無いよりはましだろう。置かれた社交の条件とは別に、乃ち置かれた取引や交易の関係とはまったく分けて考えてもより面白い性格は、そうでない性格よりも尊ばれるべき。この性格にはよきもてなしの心の基礎が備わっているからで、真昼の唐突な雪のごとくその訪れは別の社交性の持ち主よりも客にとってはまこと有り難い。不躾とは冗談を抜きにすればこころよさが面白みとは違和している習慣づけのこと。以上から、よりよき躾とは心の面白味を鍛えることであると導ける。滑稽味やおかしみは刺激のつよいたちから、不可欠に過度を煽るのでおそらく最善ではない。ここにも中庸の穿ちという実践的善意の限度がある。寧ろ、極端なそれらは面白さか興味深さの部分の形らしい。面白さはもと趣味感覚の鋭敏さからのみ鑑みられる微妙なきもちのゆれなので、見出だそうとすれば普くあるし、無いひとには何もない。教養や演技力と結合することはさらに希で、普通これを才能と呼んで貴ぶ。おもしろさが最良の段階へ高められるとそれは芸術性、或いは芸術味を伴う事柄の風格となる。ところで崇高は芸術の美には及ばないので面白みやもてなしとは関係せぬと公理づけると妥当。自然は我々をもてなすことも楽しませることもとりあえずなく、ただ無条件で広がりをもつ。乃ち神の作品に及ぶものがない限り人為はみなそれを少しずつ恐る恐るも借りてつくりかえ、自らの信じる面白みへ向かって再び玩べるにすぎない。これが本来たえざる息抜きとして活動の重複さへ求まる趣味らしさの意義。このつくりなおし活動は我々にとっての面白みが我々を超越した何者かにとっては愛玩か便利の、おもに興味深い鑑賞を目的とした概念らしいと説き明す。

地球生態学

地球風知覚は感覚原理を人間向けに改めたもの→感覚原理は人間向きの知覚をもたない⇒人間向きの知覚領域は偶々有る補集合∴可塑的←人間感覚は不動¬。
|主観原則が境の抽き出し→可塑∥唯一←地球型惑星確率∴可塑⇒境は主観原則の基。

主義対布教

日進月歩之自由主義対独裁万歳之共産主義如何
民族同胞無問題故漢文簡略化叉無問題揚揚
天下泰平之核開発中嗚呼
不可不再興仏教徒故千別斗共産党否定已也
唐変木之孤立症多多共産圏宣言保持要

生態学

最も原理的に世界の構造を考えれば、それは入れ子状の連鎖で巨視にも微視にも無限階層論をあてう∴世界の中で最も合目的な秩序は、主観原則にとってそう←→無限階層のどこにも秩序はありえない。
主観原則∩感覚原理∪人間原理
感覚原理は主観原則に生物主体の出来映えでかなりの違いを及ぼす→主観に偏り∴無限階層内では主観\秩序しか生物主体の実なし。世界構造の連鎖には、観察範囲の妥当さが主観原則へ認識拡張として求まる已。
 感覚原理は無限階層内でとがれた形質が生態秩序内に編み入れた特定の反応環→感覚原理は観察範囲での適応に原因が求まる∴観察範囲が広がればその適応度は変わる∵主観原則は感覚原理の共通部分。主観原則は感覚原理とその和集合たる人間原理による←∃感覚原理¬∩人間原理→主観原則は偏りある∴人間原理は地球型感覚原理の補集合。
人間原理⊂地球型感覚原理∋主観原則
主観原則は地球型感覚原理の共通集合→人間原理は人間主観原理を共通集合に導く。
 人間主観原理は一切の感覚をその地球型成分比へとしつける→人間主観原理は感覚の知覚化を地球型にとぐ。可塑的知性はそれが地球型である限り特有の偏りをもつ∧その偏りは人間主観原理の管轄下でのみ淘がれる→知覚は地球風にみられる。|知覚が地球風¬→人間主観原理は唯一不動⇒感覚原理は無い∴矛盾→地球風知覚は真理。

2010年2月28日

Ones

I used to be in my town other day
All other fighting spirits vast
Useful expressions under the Africa
The whites do not mean every swans abused
You might be to be liked all ones

分解

人は作りすぎた巣の所為でおのれらの生存圏を過密にし、結果として共食いを始めていた。この競争はかねという餌の奪い合いで、同類をいたぶり殺すところまで進んでいた。人は愚か過ぎる脳の容積しか持たないので、我々には憐れみすらもてないが。そもそも彼らは、生態系全体の中ではごく少数の気味のわるい変異なのだから。それら人というものは、かねを貪る以外には何一つも特徴がなく、巣を無限に拡大するつもりでおのれらの餌を食い尽くして行った。だが彼らの餌には限りがある。
 虫かごの中の世界はあまりに醜悪で、二度と観察したくなかった。だから僕はその網入りの箱を研究室の奥の棚で放って置いた。数年振りに見てみたら、すでに土と少しの荒れ草しかなかった。全ては分解されたのだ。

地球生態学

変化しつつ一定の法則で世界が認識できる、という法則知性は地球場の、しかも特有の時代経験らしい。∵この法則は地球場では極相化した定常さの元でしか自然哲学の内へ栄えなかった。⇒系の秩序が法則適所と違えば違うだけその定常場では別の知性が求まる。秩序の良さは系の定常観が固有の境:さかい条件へ当たると知らす。→秩序に見た時代経験は知性に彩りを用いる。この経験則は知性の彩りを自然哲学内での趣へ違える。→地球場の知性内でも、その外側でも同じ。∴自然哲学では系の知性は固有の秩序段階を目当てとして動く。|秩序段階が非法則なら、その系は網羅的。←→法則は詳細的。∴時代経験の中で個々の観察がふるまう文化素への収集は、網羅か詳細を最大の範畴とす。
 知性が範畴化できる、とは法則能自体がある生態機能な証。→知性は固定した能力でない。⇒知性は可塑的。

2010年2月27日

空き地に咲いた力強き薄
水走る川辺の腰掛け
海からの声を聴く為の陸
上手なり東の京のちいさき家
心たかく咏えばみな晴れ世は流れ

災害地誌

東京で
「オイ、ヤクザ天皇逃げるらしいぜ」
「マジでか? 今更かよ。こんだけ散々東京戦禍に巻き込んどいて、嫌になったから帰るって、それ責任逃れもいいとこだなあ」
「でもさぁ、所詮ヤクザの天皇だよ。行くとこ行くとこダメにして、そんでも天皇なんだよ。自称だけど」
「うーむ。右翼に頼むか」

京都では
「なんやきなはるわ。よーけいっとったに、なにしに」
「飽きたんとちゃいますか。舞妓はんもぎょーさんまちごうて、あっちがたいってましたやろ」
「せやけど。なんでまた急に。御所が閉じてまいますわ」
「おーきに」

水戸では
「んだぁ、亀井の野郎。余計な事しやがって」
「放っとけ。ろくなことにならねぇ」
「金儲けばっか考えやがる」
「ほっとけって。関西人のやることだ」

鹿児島では
「ようがす、天皇制の復活でごわす」
「オー! オー!」
「おいどんの志。遂になったでごわす」
「オー! オー!」
「今度こそ心置きなく征韓ばい、むふ。わいむしゃっぽか」
「オー! オー!」

仙台では
「なんじゃ実家にお帰りか」
「んだって、仕方なかっちゃよ」
「まずスペインに派遣じゃ」
「なにをすんのだっぺか」
「訳ありんす、屏風の買い付けっちゃ。一儲けすっぺさ」
「わぁ、さすが伊達に様子見してんとなかっぺぇ」

川柳

国内じゃ値をつりあげるソニーかな

やる瀬ない多国籍の企業なり

あっちで売りこっちで絞る安泰な

儲かればなにをしようが国跨ぐ

文化など潰して建てれば使い捨て

論理学

知識を記すか言う言語体系はもし微差がなければ皆記号論理の地平に入る。微差は知識でなく訳語の問題。故科学言語を記号論理へ統一したがるのは合理。全て科学言語の記述方法は記号論理の充て填め。科学言語に日常言語か日頃の言葉が入り込むのはそれが記号論理の規則を曖昧化している詩的要因による。この揺れは知識の伝達には合理でない。記号論理の日常言語版は詩的解釈を差し挟み辛い一定の埒を要する。全て、詩的解釈は記号論理の中で最大限に除く可。造り数学もこの為に働く。
 論理記述が単位長さの順列である事、之は幾何学図形と単位複合さを増したそれらの図式化とは別に、全ての数学が論理学にとっての部分作業であると教える。且つそれらの図式化はこの作業が記号のみの仕事であるとしらせる。つまり図式は特定の記号への注解か解法で目当ては単位長さへの説明の省略。図式を数学視するのは必ずしも合理でない。この為に、図式の測量と解析のみが本来の幾何学。
 論理記述の形式を最短化したがる比例は、皆論理哲学の手段が既存解法へのくみかえであるところから順列づけられた注釈を他よりも義務的とす。故皆之比例は鍛えられた違った体系をそれ以前より圧縮的とする為よい。←→記号論理は巧み¬⇒科学言語⇔日常言語∴矛盾。
 記述のよさは同時に口語的たる可。ライプニッツの考えた普遍数学は、実質はこの科学言語の日用程度に等しい。哲学はこの成果をとりこむ。

2010年2月26日

国風の形而上学

芸術への蔑視、これはアリストテレスにとって変化するものへのそれに等しい。観想にとって制作は変化への対応だったので、西洋哲学に於ける場所のよしあしにもこの変化への適応方法はあてられた。不動の座が神の理想界にふさわしい、という理論上の立場がそこにはある。
 実際には、芸術は確かに変わり易いまわりへの対策から生まれるといえる。変化し続ける世界への驚嘆の念が定着されると、ほぼ自然と同等となった何らかの秩序の高度な完成がみられる。ダヴィンチのいう神の弟子という芸術家か工人の立場は、変化していく自然界での位置付けに想えば精確。この立場で実現していくのが、不動の座の建設。だからどこへでも適応し直せる可塑さの上で、芸術家が観想人より劣るのではない。自然界に完璧な不動点はみいだせない。この面で誰もが工人たらざるをえないのだ。神は、もしカントが考えた様に理念そのものでしかありえないなら、世界外存在の如きものは現世系では信仰内のほか確かめる方法がないのだから、神への道の上で芸術家とその仕事はどの立場にある生態であれ不可欠。奴隷制度の不平等と機械的使用の土壌が、そのからりと晴れた変化の少ない温暖な環境で発酵したとき、当時の古代ギリシア型自由市民の頭には芸術の蔑視が正当だと思えた。ルネサンス時代のイタリア自由人がこの偏見を内側から突き破ろうとしたのは、復興が別の土壌で行われた結果だろう。同じく、自由精神が自覚されるかなりの経済的余裕と安定した政治環境がのこされた場所で、その地霊は違う原理を各々目覚めさせる。これらに優劣をつけようとしても、生態が生存競争のどこかにある限りは次のそれを止め揚げた理想によって乗り越えられていくだろう。
 おもとして小刻みな季節変化を他と比較したときの特徴とした日本国風の世界観では、彼らの理念を常に多かれ少なかれ芸術化する。だからその哲学は芸術へのそれとなる可能性がとても高い。それ以外の智恵は、彼らの中では多数決を占めないかさもなくば傍系とみなされがちとなる。地霊がそう指揮しているのだ。芸術場としての国風は、和辻の指摘がただしければ情緒へ過度に耽溺しがちな欠点でもある。だからその国風のぬぐいがたさを各々特徴づける智恵こそ芸術哲学の命題となる。千差万別の芸術観がありうることがこの智恵にとって本質的なのだ。ゆえ趣味なるものをこの概念と捉えるのは適当だろう。重要なのは如何なる趣味が真の智恵と呼べるか、への考究となる。他の風土ではいざ知らず、大部分の日本の国土ではある程度より独立してであれこれと似た考え方がいずれあまねく理解されるだろう。風趣の理念はこの趣の違いがゆたかであるだけ真に芸術性を伸ばしきる土壌として、各々適応的な習性を身につけた証であるとしらせる。

2010年2月25日

国鉄線路の公有化構想

JRが独占している国鉄時代の線路は、それと同等の広がりを持つ敷設をどこかの私鉄が行えないかぎり永久に独壇場として一社にのみ独占利用される。よって鉄道運賃は国内では永久に安くなりはしないし、なったとしても物価に比べてのことなので実質は財閥であるJRにはまったく競争相手がいない。
このおかしな完全独走状況は、おろかな旧世代の政治屋がつくりあげた意図的な錯誤だ。

以上を省みれば、「政府が線路を再び買い上げ、そのJR一社の独占を禁止すること」、「時間毎の運行へ競争関係をつくりあげる交渉の余地を設けること」は民営化の改良にとって不可欠と思える。空中や地下へ二段以上の増設の計画も、或いは競合各社の実力が伴わない間は国土交通省の管轄にした方が効率が高いかもしれない。
というか、放置すれば間違いなくJRはJALの二の舞になり倒産する。今の時点でも腐敗が進み、末梢サービスに支障があるのは、駅員の日頃のはなはだしい傲慢ぶりが実証している。

氷びと

相撲かな裸で踊る氷びと
猥談でとれた地位なら墓場まで
子息へと還流されゆく都税かな
ほなやろかバックに差がある公聴会

比較文明学

人類がその末裔迄を過ごす大きな条件は彼らの僻地さ已。国連系統は皆宇宙文明の中で別の変異を被る。故人類がその侭で遠い世代へ伝わりはしない。∵惑星外との折衝は違う姿をとる。只の系内秩序にみた人類生態は巣の広さ已。全産業もその部分集合。∴文明さは巣作りの程度已。文化反応はこの感覚原理版。
 文明らしさには一つも種内生態の外に出る事実なし。系にはその他の生態をある程度より含む。故縁起体とみた生態は文明らしさの偏りをとりこむ系の秩序度に鑑みる。地政文明史はそれらの移ろいが単なる仮囲いであること、又常に隣あう系との縁起体として已成り立つ形也と教う。地政文明史は生態論へ、その物理化け学条件が皆かれらの既存条件也と教う。|生態論已にみれば生態の系統的進化は縁起界の理想条件で一応の定式づけ可。←→文明系統樹は一部。それらの複ね合せは生態論を理念に与える。⇒物理化学は文明界を記述すべき塩基順列に(¬∀地球型では)条件化している。∴生態論から皆文化素の流れも演繹できる∨確率法則化できる。
 引力場の強さ他置かれた恒星等環境のもつ化学条件が元々の宇宙斥力に与える何らかの当たりはその多様化へ働く。→生命力の当たりとは生化学の比較論に入る事実で、何らかの外力によらない。宇宙斥力はそのおもち状の形が外側から引っ張られる事による単純な逆二乗則の分量しかないが、ここへ加えられる生化学場の条件には千差万別がある。
 生態論が文明単位で省みられてすらそうなので、全て宇宙系同士ではこの違いは決定的。→生化学の比較論には自らの体系が不可欠。←→基準となる原子量の無限階層論には足場が築けない。秩序場の単位が全て比較文明の基礎。←→秩序は比較級を持たない∧∧秩序は不動。|宇宙に偏りがない→秩序は不動、これは矛盾。∴宇宙に偏りある限り秩序は可動(QED)。
 先ず引力場の大きさはその足枷を除く。次に比較文明はより望ましい秩序を知性づける。原子量の単位が違えばそこへ働く化学変化も地球型¬。
秩序の偏りは微分界にも当たる。∵微小条件は引力場の強さに対する反作用系の定常観→大引力場の最周縁圏に定常化された系では微分界に著しい多様さが用いられる¬¬小引力場の中心圏は流動観の高さから化学変化に非法則種への条件がある。遊牧文明と農耕文明という二大分類にしても、この二種の偏りに全く符合しきる訳ではない。⇒狩猟文明界はそれらを跨ぐ。∴僻地系を除き全文明場は競争か共生的。全ての中立さはそれらどちらかの系統へ繰り入れられがち。狩猟文明界は移動的、遊牧文明界は流動的、農耕文明界は定住的。之らに運動か地政が生まれるのは必然∵合理化は先駆種を育む∴「進歩の文化」のみ系統樹を接ぎ木し、他は滞る。

2010年2月24日

記号論理学

逆⇔←→
裏⇔¬¬
対⇔→←

逆←→裏
逆→←対
裏¬¬対

2010年2月23日

西洋形而上学の批判

言文間の写像関係は、またうつつと夢とのそれにも当たる。故、物語という形で流された写像は、まぼろしへの誘ないを言文間の二重さの内にも映し込んだ。言文の重なりはそれらが口語と文語での間延びを前置きにした並び替えの規則なことで、写像を夢現と言文との間へとさらに移し替えた。
 この綻びはわざの写像さとして、プラトンのたとえから引き続いて今にある。みわざと呼べるものは神の作品ばかりであり、その引き写しにすぎない間はすべて人のわざといえるものは像を写した模造品である。この考え方が、理想と訳されていいだろうイデア概念を抽き出した。よって、言語分析で行われている西洋の大陸系形而上学が写像についての映し込みを最も源まで遡ろうとするのもみなイデア概念に戻る。わざの像写しとして、芸術はすべて神のみわざへの真似ごとでしかありえない。そしてこの言語へのまず夢現の間での、つぎに言文の間での投影は、最終的に文面となったものを入れ子造となった世界の最低でも四重の写像とする。否定の否定は肯定と同値(¬¬⇔→)だから、文面は文面としての実在をもつ。
 分析哲学はみな文面での実在さへの考え究めをプラトンとアリストテレスの時代にあった像写しへの定義づけに戻る。形而上学といわれる体系が常に改め良くなる学殖なら、文面と世界との間に現象学とフッサールからハイデガーへのドイツの学派が呼ぶあらたな世界をつくりあげようとすることは決して最善でない。なぜならこれらの入れ子造になった写像の関わりは、みな語学の問題でしかありえない。最終的に実在するのは文面と世界だけである。よって文面の形式だけを相手どる語学は、他の文芸批評や言語分析などよりも一層のこと実証的で事実に基づき易い。想像力の領域を学殖化しようとする試みは趣味論から外へ出ない。何が到達されるべき理念かへ警鐘を鳴らす試みは、一切の審美感覚への啓蒙とも起源を同じくしている。乃ち理念界での最短語句化へ、いずれ文芸での作劇技法の界隈にしかなりたちえない現象学とやらの試みは必ず還る。この文面語学の考え方を、いわゆる創作の余地を含まない再定義づけとして文学と呼ぶのは、日本語に於いて功利。そこには文面以外への沈降や耽溺は許されるべきでない。何が書かれているか、だけが文学の問題。そしてそれは、最高の理想としての理念のみの問題を考え究める形而上学とは多かれ少なかれ関係なく、哲学の途の上での一課程でしかありえない。

論理学

言語の論理はそれが一定の手順で何事かを伝えられる期待に基づく。論理はこの単位。論理が方法視されるのは以上から妥当。
 論理に論理は説明できない、之はゲーデルの無駄に煩瑣な証明が自己証明した。論理の連綿は決して論理学の智恵でない。寧ろ論理知識はあらゆる最短化をめざす。造り数学は数理記号へ最短化か最小化を施したものだが、論理学は之を最小限度の口語へまとめたがる。故代数記号でない時間順列も対象とせねば。記号論理の整理丈では論理学の全対象は賄えない⇒口語の単位を定型づける合理化が目的。←全口語は補えない。∵おもいをもたない音符は論理の単位にならない。

日本の信教について

日本では資本経済が信仰の弱さと共に広がった所に固有の特徴がある。神道を国教化し、しかもそれに及んで敗戦した記憶は、彼らが信教自体を胡散臭いものと見做し勝ちな変わった勘違いをつくりあげる。
孤立指数の極端な高さは、こういう勘違いの元で彼らに資本経済への順応をこえた全ての生活面での協力の為の文法を失わせる。
 之等の条件は決してそれとして不全でない。つまり国風の一時の特徴でしかない。
が問題は、この種の孤立界を再び個人主義の程度をこえた掌握へ向ける狂信への煽りが行われうる所だろう。
最も間接的な協調への兆しは政治行動の必要さにある。これがなければ公共さはなくなり、彼らの生活する場がたえず勝手主義の超利己的暴威でおびやかされ続ける。
なので、「民主政治の協調界」は他一切の個人主義行動よりも一層の堅持を要する。これがないと現実に於いて、我々の過半数は常に孤独であり続けるだろう。

 尚且つ、信仰の自由はいわゆる確立された世界宗教へのそれが今よりも公に奨励されねばならない。
夥しい分派が散見されるにも関わらず、『キリスト教、仏教、イスラム教』の世界三大宗教は最も信頼の置ける枠組みであることが疑えない。それらを内心のよりどころに生きている人々が如何に多いことか知れない。
 と同時に、この古来から確立済みの三大宗教ではない何らかの体系への帰依を誘なう邪教徒は、想像できる限り彼らの倫理的欠陥を批判されねばならない。
 前三者の中で時によっては暴力への報復も辞さない信仰体系はイスラム教だけだが、なおこの過激な因果応報の心が相手方の人道に反した暴力を抑え止める限りでは法律の範囲内でのみ場合によっては許容されねばならない。
たとえば、運動競技での公式な勝利や芸能界での人気での追い上げなど当代に許容されている誇示の方式での激情へと、この信じられている応報心は向けかえられるべきだろう。

地政経済学

社会計画の内に選良の構えを造るには先ず建築学で地霊ともよばれるその風趣の別の分析をう。この土地勘のよさは地政学の知り方を前置きとし、猶特徴を強める何らかの細かなくみかえが要る。制度にも同じ。風趣は統一化に逆らう。もし選良の分かれ振りを社会になせる効率面から省みれば、この構えは支える才能分布の広さによる。もし人材が揃っているなら汎用がその母市場のせまさのため否応なかった故。∴遺伝子の母系が多く、また育む土地が気候の変わり方に伴って広いほどそこからの文化素は専門化効率のため特徴づけられ易い。土地のひろさそのもの丈でなくそこでの大幅な気候差が、人工比\選良度⇒文化率にとって本質的。
 選良一般は汎用種に比べ能率の高い勤労をものともしない。ゆえ経済力、とよべるだろう各種の指標にとっても各々の持ち前をより発揮し易い。
 もし効率だけでなく、いかに将来の産業変化へ耐えるかの粘り面では、この文化はつねにゆとりをもつ可き。いかに選良の多岐を保つか答えるには所得を込めた経済力外での交換差額以前の品物生産が趣味的に認証されねば成らない。この文化財の認めがないと、選良は永久に品種視されない。金という鉱物もそれが余る土地の元では全く価値とならない如く文化財が理解されない間は、選良すべき生産性への趣好が励起されない。ゆえ先ず媒介する思想が全ての前置きにありう。この思想が元々あった種の偏りへの何らかの後押しを担う。だから趣好が全ての文化率の素で、これはある風趣の媒介力による。全て分業は部門毎の効率を上げるので、経済化を試みたい地域は特定の品種へ向けて風趣をできるだけ違えると細かく合理化できる。しかし経済化には転用の可能性があるのだから、必ずしも商分業へのみこの概念をあてなくていい。単に節制を合理的と考える地域へは趣好の強調は正の働きをもつ。
 似た地域の広がりはそれ自体が反復か真似でうまれた似た形質への選び抜きとなるので、経済化にとっては量的効果しか望めない。∴文化の事情を目指す方へできるだけ隣接毎に大きな違いをもたせるよう環境をつくると巧み。でないと文化は均質さのため亡ぶか押し除けられる。

2010年2月21日

雪だるま

艸艸艸さやさやさやどこまでもひろきくさむらよ
宇宙のはてまで広がる星と月の広場
建ててから少しくよくなる打ち放し
あまふりの音もさめ/\゛ベンチ濡る
月さやか街も待つなり雪だるま

宇宙物理学

宇宙の始まり→空間問題⇔最初の一撃のそれ→宇宙には質量の偏り已∴創造は偏りを意味してきた∧物理上は、時間の停止⇔最大の偏り→万物の創り始め⇔時間停止問題が最大の偏りの内に⇒極限内微分時空間が有り得る⇒時間は相対的には完全な停止¬→∃宇宙系が最大…この停止点¬∵宇宙おもちに偏り→∀質量の中枢は可変~∀宇宙系の始点→可動⇒創り始め手→時間差→微時空の縁起∨相互依存∧宇宙おもち→比べた可動場⇒始点→普通点∵時間差→流れ⇒四次元の流率⇔光流率c4/π~大きな宇宙系→少ない微時空地帯∵光流率一定の原理∧半径\質量=恒常円周率←宇宙おもちの時代さ⇔時代おもち

やくざの国

やくざの親分はこういう社会を見下しみくだし大金を奪った。そしていつも大量の武器と棍棒とピストルをもつ大群の用心棒に囲まれながら、おかわいそうにとほざいていた。おかわいそうにと。
 全員が、一人のこらず何かの環境異変で死滅しさえすれば。大地震で学校が潰滅するだけでは十分でない。知能のない、ヤクザの親分に従属するしか何一つ行動規範のないこれらの猿は、僕が生まれてから何一つ善行をしたところを見たことがない。もう遅いんだ、お前らが弱い中国人を殺し尽くし、強いアメ公に媚びいった結果すべてをこうしてしまったんだから。卑怯者の政権では二度と正義は実現できない。

2010年2月20日

文明生態学

人類の文明が唯一つの文明らしさではないのが明らか。これは人類の感覚原理が特定の場の条件へ大幅によっているところからも。→文明色は違う生態へも系を恵む。生態系の重なり論は当然ながら文明色の間へ一定の学識を与えう。これは非法則地位も考えに入れてかなりの確率的幅をもつ。感覚原理の理論は主観がなくば法則さへのきっかけがないこと、つまり特定の感覚原理、その一つは人間の感覚原理とよべるだろうが、からのえり好みが法則さの基調となると示す。文明色はここへ次の光を当てる。生態系はその極相化しきった支配種の間で自己僻地化か内部選好の連続した変形の中へのみ、法則観への世代を跨ぐ言い伝えへの条件づけを行う。このため、知性と目される才能はほぼ生態系がとても安定していた時期の蓄えに他ならない。神のみ知性を与う、とはこの条件が幸運も含み、偶有的でしかも確率としては希なことを教える。無論この広すぎる世ではこの確率は膨大に膨らむが、対して特有の知性に限れば感覚原理の傾向がほぼ同等を除く唯一回さをもたないとはいえない。なぜなら自然界の不可逆反応は文明色についてもかなりの基盤差を常とするのだから。
 文明が互いに隔たっている程それらの感覚原理への共有の余地は少なくなりがち。だが比べ対称さで想えば、裏か反対側の居場所ではこの原理は何らかの類似をもつ。ジオイド、もし宇宙規模でみれば(大変な膨らみと歪みゆきの複雑さから)このお餅は、偏った銀河系も定まり続けないことを前置きとす。流れがあるので、それらは引力と、巨視すれば外部系から引かれる斥力の間で移り続ける。恒星燃焼の先行きもまた流れのさなかにある。
文明の恒久しさは引かれ続ける逆二乗則なりの各混沌化への背きに求まる。ゆえ一文明が久しさについての永久観をもてはしない、少なくとも土着文明では。
 星外交渉か親交の内に一つの土着さは別のそれとであう。がここには所謂やりとり用の配列基がある共有さをももつをう。ゆえ記号のみならず最小の単語が、先ず共有されるをう。この情報量は、事実上既存の文化率をもとにする。星の外との交わり渉りの真の意義は、それが感覚原理の拡張へきっかけを与えること。感覚は環境から抽き出した何らかの特徴ゆえ、この原理のくみかえはおもむきごのみの面からも以前とはことなる変りばえへの始め。

数学内論理記号

← ただし、が but 但

解釈学及び京学批判

ハイデガーのいう解釈学はもし記号論の中へみれば、意味のとりこみを学仕立てにする立場をもちいる。解釈学は分析哲学の母語系内での沈澱で、それは意味解釈についての世界を理念界の中へ確保する。よってこの立場は意味使用の語学に含まれゆく。語学外では解釈論に留まる可で学仕立てに定型化させようとする考えは決して脱構築の立場より有徳でない。
 脱構築は解釈の非定型さへの警句。もし警句が定まった型に嵌まればそれは既に構造であり、学的意味を付加されているかされるべき何らかの体系へ従属している。意味が定まりえないこと、差延とよばれるこの運動は特定順列の文字ことばが別の論理の双対を伴うという写像関係を奥行き保つ。意味はまたおもいと味わいへ分けられる。意い界はそれを整えた側の、味わい界は読み解く側の解釈論をつくる。論理の双対さは殆ど果てなく学問の世界に入り込む。論理があるところ皆双対さにもどる。
 主客未分の純粋経験というこの双対さを経由しない直観を目的とした西田幾多郎の考えは、それが京学派の源氏物語など中世の風物を引く感覚論へ戻るので、いわば幼稚さの愛だと言っていい。直観は原始的世界では最善の選択要素だったろうが、既に知識が栄えた後でもこの経験を最高とみなすのは退行的。知的経験は全ての理性のまやかしを一つずつとりのぞいていく認識の透明化への道であり、これは純粋経験を最も原始的な始りの点としてしか省みない。直観は系統発生知に基づけば概念のない段階での世界認識をいいあらわす言葉を出ない。
 双対関係は比例への愛好を抽き出す原理で、我々の知性が捉える世界解釈への切符。之なくしては透き通った認識はできない。感情論にとってすら、鋭い表現手法がその裏付けとなるのかも。解釈論は比例の学習をその他の曖昧な未分経験よりも高く見積もる。なぜなら分析哲学上、道具はその包み括れる母集合のふわけに有効。さもなくば道具なく解釈する者は自らの認知できる世界概念を不足させ、知らずしらず偏見や理念のまやかしに堕ちる。

国際警邏

吾せんづてテレビという旧型の卑しい媒体を久し振りにみかけし。そこでポルトガルへの旅を映してありし。取材の下郎、あさましきキタナキ仕種にしてみるにたえず。その種のげすを国外へ不用意に出しあたかも日本国人の代わりかと思わせる悪念、必ずや報いあらむ。一部の賤業者ども、之種の手口いとあさましき。何れ逆翻訳型の売国奴どもみなは処分のてくだあるべし。

深い業

とても冷たい世の中に出て
競争させられた
べつに争いたくもなく
どうでもいい友達を蹴落とさなきゃならない
どうしてこうなのか知る為に
社会の一番底まで下りてみた
そこはとても広がっていて
まるで天国みたいに緑ゆたかだった
ほとんど苦労を知らせずに育てようと
大金持ちとやくざの親分が夢中で
自分らの子供だけをその天国みたいな環境に
囲い込むため僕らは日夜働かせられていた
地獄ではその様な野蛮なルールに則ってしか
相手をやっつけることもできなかった

宇宙の中で少しの隙間があって
じっくりと世の中のしくみを考えた
出した結論は
世の中はとても汚い所だから
どう頑張っても何もかもを綺麗にはできそうにない
戦いの限界だった
関西を見に行ってみたら
そこには山ほど下品な人だかりがあって
細やかな心遣いなんて全然お呼びじゃなく
彼らは東京よりもっと汚い暮らしを幸せそうにしていた
いなかを見に行ってみると
そこでは理解力ない人たちが仲間の輪を大事そうに
守っていた。そして僕は世の中を
深い業の中にある付き合いたくない場所だと感じた

「SP連れで御苑走っとるオッサン
おみゃーさんなにしとんねや?」と愛知人がいう
「クックック
偽善の政体
テレビ局の繕った
嘘っぱちの八百長国家
どこまでもみにくい
極東の邪悪な
テロリスト政権
あなたも体験してみる?」と悪魔がいう
暴力革命で打ち立てた
南蛮人の裏切り地獄
どこまでもずるずるとひきこまれる
地獄沼の悪党競走だ

平左衛門

衆愚政一喜一憂庶民感情
とるに足りない衆愚の世論
公共放送まだまだ貪る平左衛門

2010年2月19日

化学

無限階層論を真と仮に定めると、感覚原理は生涯のみではその全体像をみせなくなる。つまり、算術数学の命題は化学や宇宙論については当たらないだろう。それらは、極限か喩えをいわゆる造型数理で補ってのみ無限内の全世界をときあかす。無限階層論が真だと定める証明は出されていないらしいが、ライプニッツ哲学のモナド論を引けばその構想が少なくとも単子原理にとっては真だと定められる。乃ち最小単位は常に算術で量れる一定量の仮設物として求まり、それはさらに細分化できるので物の無限階層の奥には比例単位系だけがある。
 原子量ごとに物が異なる性質をもつのは外界とのふるまいで。ゆえ物質とは比例単位の規則づけで、しかもそれは感覚原理下の分類。物質は微小な引力場の(現状では中間子力とされている)引っ張り合いからみれば、別の宇宙系では光子かその束への初速度条件が(花火効果から)違っているので物質の化合とそれらのふるまいも違う。無限階層論の妥当さは、光子がさらに分割されるという見方を波ではなく、より小さな粒状体のいわば光砂の動きへ描く所にも。この砂は光束が波打つ光の巨視観でしかないとしらせる。光粒子はこの光砂を単位として波と束の性質を兼ねる。この物理化学的には砂力学を必要とする世界は、流体力学を一定の微視引力条件下で特有の動き方へとしつける。砂は粒子としてそれより小さな粒子の風か、大きな粒子からの移動をこうむる。ゆえ光粒子がある単位では束として細かな波らしい性質をもつことは、それより小さな粒子を構想せねばなりたたない。仮に空子とこれをよぶと、次の入れ子造が分かる。
クォーク⊇光子⊃空子
事実上、
光子∩光束∪光砂∪空波
の集合関係があり、光子はこの中で対称さを真空効果を以て仮想的にうみだす引力子(これはエネルギー励起への対称さの仮定として、陥没状態へ置かれた微小空間の歪みにしか見つからない)と共に水銀風な砂状の波としてふるまう。光子に重さが見つからないならそれは空子以下の世界への計測方法がないからで、そこに速さがあれば同時に重みは生まれう。

迎賓

ネット規制わるもの扱い派遣かな
多国籍大企業製CDで天引き
細々しい手続き大変だが極貧
お役所にゃ入れば一生安全ぞ
迎賓の為に拵え税の家

物理化学

偶有さは量子規模の動きが単子ごと相互いへの干渉を、極めて弱まった引力のために普通とすることのたとえ。ゆえ量子論にみる確かめられなさは波束単位とすれば捉えきれる。一つの単子は別の近くのそれを動かすので、常に全体は流れ動きのさなかで一定の法則をもつ。トンネル効果はその波束同士のすり抜けで説明できる。全ての物質は量子規模では確率的にしか固まりや物らしさをもたない。この固まりは同位元素の集まりがかなり安定した環境の中では定常視できる、という偶然の機会によっている以上、違う引力や光速の条件下では時間の間延びのため個々の単子もことなるすり抜けを行い易い。もしすり抜けの確率をとれば、確率としてはおよそ一定だろう。この種の確からしさは数理的であり、砂流率へ赴く。円形の熱放射はπ・R2・T故、単位時間の流量は
(π・R2・T)/t・・Flows⇔F
R: 半径
T: 絶対温度
t: time、時間
所で熱は摩擦で損なわれるので
F-S・・Sand Flows⇔莎、サ、すなぼこり
S: Entropy
ここで、原子量を重畳さで割ると
Atomy÷Perplexity=定量A/H(x)
H(x): 期待値xについての重畳さ
∴莎××定量A/H(x)・・砂流率Θ
××: テンソルの転送、二がけ
単位重畳さは逆数にすると
t/(π・R2・T)∴Θ=π・R2・T××H(x)\A××t
⇒原子量の流率は単位熱放射の損失確率で割れば一定。これはテンソル上でのことなので、二行二列以上の確率の任意の値が確かでなさ、つまりあやふやでも成り立つ。砂流率を原案にもとづいて考察すれば、量子のすり抜けは熱損失の部分形といえる。ゆえこの確率は量子力学を微小空間での摩擦問題と考えさせる。

2010年2月18日

財政再建策

赤字財政の根本は、お役所仕事の非効率にある。
長引く不況でいまだに業績をあげている企業をみれば、いかに最少人員で最高効率をめざし日々研鑽をつんだか理解できる。
だからまず日本政府が国内最悪の事業体であること、いますぐ破滅させられておかしくない破産勧告待ちにあるのを反省し、巧いリストラの手法を考えださねばならない。この期に及んで増税と述べている者は民衆がいかに節制しのびない暮らしに甘んじているか想像ができないのだ。

私は百円の缶を買えないので我慢して水を飲んでいる過労しそうな若者を見た。同じ時間に、片方は彼が払った国税で息をつき高級ホテルの外酒を飲みながらよっぱらった。どちらがよりおおやけの共感を得るだろうか。民主主義は党派内の情実でなく公道の総意を尊ぶ。

巨視的にみれば各種の流通業の内に最低限度の公共サービスは含まれ、そして摩擦でしかない流通業はむしろ無償化された方が全体にみた産業の効用は高くなる。小泉路線にあった小さな政府構想への途上で出鼻をくじく施策を行おうとする揺り戻しは、「民営化による合理化の効率」を無視している。

ゆりもどしを主導した者の悪意の有無にかかわらず、民営化なくして効率は決してあげられない。故いかなる工夫を用いても、可能な全ての領域をまずは民営化してしまわねばならない。
それから、こまやかな想像を超えて瑣末な犠牲を伴ったらしい最低限度の文化的生活の領域を、再び囲い込んで公共財とすべく政府が公開株式の過半を買収する必要がある。
この全ての建前に、地方自治へのお役所事業切り捨てのためのこまかな決定権限の委譲がいる。なぜなら大変こまかなところには中央からはとてもではないが目が及びがたいのだから。
 現政府には金がないので一般株式の方式では購買の余地がない。従って、まずは国家公務員人員数の徹底的な削減でその為の事前の貯え分だけは確保しておかねばならない。
なおかつ、いまあるほとんどの非効率すぎるお役所仕事ぶら下がりサービス分野の仕分けで、それら浪費能力だけがやけに誇大化した大赤字事業群が野の土に還ることによる市場化の活性を狙うべきだ。そうすればいずれは競争のなかで栄えてきた再商業税収も、次第に期待していていい。

しかし、次のことは原則だろう。
『市場の寡占状態にある分野は民間事業体が力をつけるまでは保有しておく』。
さもないと、独占市場として堕落していったJRやJALの二の舞になるので。

2010年2月17日

Damaged glasses

I used to be long vacation guilt abandon
All snows vanished plane green field
Thou lite small my posts full filled
Winter morning stars hearing our knows
Damaged my glasses now talk my old ages

警俳

訳もなく頼る祈りか国税庁

尽くやけな贅沢NHK

百円を節する吾から税絞る

泣きながらかえれど保険はなお親し

借金取りが借金するやくざ界

文明生態学

最もはじめに宇宙の合目的さを見つけた者はそこが広がる中で一定の法則を保つ領域を感覚原理の恒常さ、恒久しさの中へ確かめえた。そしてこれに宇宙と同じ名義を付し、彼らがあてられる自らの理解できる比例に応じて世界を捉えて行った。この方法で確かめられたのは、宇宙は普く法則的というより、彼らが認識できる所でそうなこと。←→全知は現世で可能。→法則知性はその感覚原理を元にした理想の程。∧この程は、彼らのもつ比例論の道具による。
 宇宙の審美観は彼らが感覚原理にもとづく快適さや快さをその生態論の延長へ投影できる環境認識による。このため比例のあてはめが法則知性の既にある秩序と合えば合うほど彼らの主観には生存への希望が生まれる。∧恵まれた生態という信仰が法則知性の推論の規則の連なりの先へと育まれゆく。⇒客観では人類の主観としての感覚原理は決して普きものでない→|法則世界への快さの信念が一つの宗教界を科学界として形作ったとしても、知性はそれを主観でしかうなずけない。→主観の規律を如何に築き上げても、∨その代替可能性や代替できそうさが他の知識体系との間の交流の道を開いたとしても、尚もこの科学界は知識の主観からの選択を免れられない。生物学上の趣好の原則は全知識界のもつ傾向にもあてられる。だからこの原則が当て嵌まる限り、異なる文化圏からはまた異なる知識体系が選び抜かれる‥。そして、彼らが未来像へもつ快さへの理解もかなり違う。⇒科学の趣好は彼らの主観を反映する。同様に、法則観はそれを見つけだす能力について等しく選好を行い、しかもこの能力はかなりの世代に渡って行われた自然や社会選択の比例論へと彼ら自身が宛がわれた文明場誘因によるだろう。
 文明場の種類はかれらが趣の向きを好む知識の質的傾きへまとめつけることを普くのりとらせる。もし文明場の原則にみた知識界の感覚原理からの反映を、世代間の淘汰されるべき傾きへしつけるなら、なぜ文明の同位種が同じ感覚原理をもたないか、彼らの出がことなるのに交易か分かち合いができるかを程度問題で解決できる。知識系統の同位さは比例論への潜在か顕在の選択誘因の既存系列によっており、この出か配列に類比があればあるほど趣の向きには一定の規則のやりとりができることになる。
 純粋数学面からいかなるやりとり不能さもない、と定義できるとして、その実践面ではやりとりの間にかかる機会費用は感覚原理の系統的同位さへよっている。→やりとり可能さは度合いとして遺伝子か文化素の、又は両方の、或いは両方の積和たる育まれ方つまり育種因にほぼつづく。比例差が現れやすい育種因のみに仮に注目すると、文明場の本質は何らかのまれな配列でこのちなみをつぎつぎ組み替えていく仕組み。だから文明場とは一定の様式ではなく、つねに置き換えられている仕組み。∧おきかえは速さのみならず多さにも当たる。これが誘因にみた文明の場に重なり合いが可能な最大の理由。|多さだけの置換えならそれは移動化や遊牧化したろう。速さだけなら遺産よりも再生産率がのぞましかっただろう。
 文明場そのものにも選びと趣向の変異がかなり普くある⇔やりとりと発展とはそれらの出会いを宿命づけているよき秩序。←→秩序は孤立し、環境収容力的偏差をとりかえせない限り同系配列で衰退しきえゆく。

さむき朝

さむき朝お茶漬け啜る冬しずか
あきないのみちをあゆめど冬ねむし
名前なく静々と流る玉川よ
われの着る支度もいつしか春近き
車ばしるこみちのどこに落書きよ

2010年2月16日

居直る君

借金し喫茶でわらえる首脳かな

借りまくり倒産できずに居直る君

わかものを見下しながら浪費やな

漫画ならいくらでもあるぞほら買えよ

Blog見てだまって儲ける出版社

文明生態学

いくつもの生態間にみつかる共通項としての法則はそれがもし感覚原理下のほぼ等しさを担保とすれば、違った興味のもとに似た知識体系へのきっかけとなるかも。これらは文明のくみかえを促し、彼らが生態上に違った秩序をそれぞれ鑑みるに値す。もし最小作用の面からみれば知識はその記録形式へも違った秩序を導入しやすい。これらの関係は別の研究要素となる。ゆえ文明史は可能で、それは系統、達成、特徴についての知識を分岐させゆく。もし知識文明が交易すれば当然、性質に違った化合を催す。ゆえ文明のくみかえは生態学の一種。哲学の面からは構造主義の流れを、比較文化論をこえてこの化合資質の連綿として捉える観点がいる。なるほど構造主義は形而上思想のうえでの流行だが、人類の科学の営みとしてみれば工業文化だけの近代さを大きな目では部分集合と考える視野は社会生態学に入り、総合すれば生態知識という社交生物の生物学野に含まれる。ならば実証できる。
 耕作、店舗、すみかの順で発展する社会生態密度のかわりばえは、もしあつまりのおかしさ、いいかえると突然変異の出現率で鑑みるかぎり文明のくみかえを本質とする。それらの間には化合の系にいくつもの可塑さをたもつ条件がある。仮に文化適合の上等さでみると、文明のうつろいには系の經緯が「一定の等しさ×少しの違い」を理由とするほど多くは望ましい、新たな変異をつくる働きがある。配偶子の異系か同系のみのり豊かさへの接続と似た規則がみつかる。逆に拡散し系統には安定した母集団がなくなる。
 もしこの微差の適度さを考えれば、当然ながら好ましくない変異も違いに入るので稔りのよしあしに限って、繁殖力か強壮さの議論になる。極めて繊弱だが有用さや審美さの高い、また稔りには特徴がないが別の特徴を伸ばしている変異も文明の内にはある。これらの変異はいわゆる樹木遷移用語での表相種的な立場にはないだろうが、系統にみると要素たる文化面での品質を問える。

数学内論理記号

| もし if 若
∥ どちらか other 他 
∧∧ ともに、や both 共、且且
∨∨ みなは、に each 皆

2010年2月15日

現代経済学

福祉国家論か福祉主義の社会思想は、それが先ず閉じる傾向のつよいクニをつくる所に注目されるといい。福祉主義はマルクス主義風の平等観には全く関心をよせないが、商業道徳を批判しつつ公共財を政府の力で裕か;ゆたかにしたがる。ゆえ福祉主義は常に税率を高く設定しなければなりたたない。
(なぜ20世紀後半にイギリスの政策がこの向きを改めたかを問えば、それが国家間の競争状態の否定か誤認らしいと覚ったから。)
福祉主義政策では、ある程度の階級平等観をも否定せずに議会の中で大きな貧富差は修正しようとする社民主義または民社主義よりもさらに税率が高くなる。そして税は国民が払うので、もし貿易をつづけながら福祉政策をやりすぎると、今の自由貿易前提の世界で当国民は他のクニよりも次第に(箇所々々での所得面で貧しくとまではいえないにせよ)みすぼらしくなっていく。
これは立地や取引の関税が、国連やとある世界ルールで決められていない間は誠にさみしくも全く挽回がきかない。乃ち慈悲心からの調整込みの眼差しから言っても、大多数の所得へのえり好みが残っている国際場では資本はつねに雪だるま式に殖えつづけるが、自由貿易環境である限りこの流れには誰も逆らえない。
もしそれを大袈裟に行う者がいても確かに、途上国世論の一部からの少しの同情か注目を除けば彼らは世界資本に、クニもろとも翻弄されて終る。だから主導権のありかをとえばそれは資本量にこそあり、我々や人々の想像を超えこの威光はまだ同じルールの敷かれきっていない世界戦略の中では間違いなく最強らしい。

昔から言われてきたことも含むが社会の中の個々人にみたとき、次のわずらいは資本主義の発想下にある。それは貧富の差のみならず、需要が大多数のうえにある限りは商品取引が他の素朴な品物を追い拂う危うさが高いと。そしてこの類いの商品経済の浸透した場は、歴史経験上、文化の大衆化を誘ない何れ品位に欠けゆくのではないかと。
この問題への改良法を、我々は今まで自由主義:リベラリズムと呼んできた。このliberal(すなわち寛容)への許しが残された社会の方が、あまりにがめつい資本制度への鉄壁の遵守よりは国民の心身のゆとりに働くのではないか、という指摘は一部正しい。
 だが、この傾向が行き過ぎて勝手主義:リバタニアニズムとなれば話はかなり違ってくる。Libertanian(すなわち勝手者)の限界は、国家思想をなぜか否定して話を進めたがるところかも。この否み;いなみは大多数が一時犠牲になったとしても、一人以上の商進歩が果たされれば他はいずれそのお下がり産業化で救済されるだろう、という楽観にもどる。
ゆえ、まとめれば、自由主義には資本主義思想の過激すぎる側面、つまり商業道徳の正当化を避けさせるある程度は望ましい動機づけが余される。だが勝手主義には、個人への優遇の行き過ぎた面が免れず、クニ単位でみればこの傾きはある程度より長い期間では卑しみや蔑みの対象となりがち。その急ぎすぎた進歩のてだてはかなしくも後輩の目からみて、彼らみなの模範に足るほど有徳ではなかったのだから。

 以上の議論から導ける最も進歩的な立脚点がいえば、最新の経済学の成果を最初に実現へもっていけるのは資本量に恵まれた、ある面ではそれに恵まれすぎた社会であり、でないと決して新しい技術はすばらしく広まる動機づけをもてない。
この技術がその段階の商習慣とできるだけ近づき、くらしの進歩と改良が喜ばしく麗しい未来への約束だと信じている人々の権威がつよい丈、この社会では実にクニ単位の自重によって浅ましい商いへの抑制因が働く。
より具体的にいいかえると、クニが望む程度に応じた商道徳、これが最も進歩と品位のやまざる矛盾への解消点にふさわしい均衡。そしてこの値は、およそ資本量がクニの内に留保として蓄えられているほど大盤振る舞いか見栄え;みばえのよさへのえり好みとして、高まる傾向をもつ。
(もし同じ位の製造品を揃えたクニ同士でも、急いでそれを捌く生活費用からの圧迫感に迫られた個性と、飽くまで余裕の範囲での冒険なので仮に捌ききれなくとも社員への格安の提供や地域や慈善団体への寄附など幾らでもより麗しい秩序へ途:みちがひらけている個性とでは、行いの風儀に違いがみられる。これは経営学での銘柄論かブランド論を作りつつある。)
 進歩せねば追い抜かれて地位を脅かされる、という潜在的なあやうさの誘因は植民侵略の時代に造られたものだろう。もし世界のどこかに全く帝国主義征服戦の傷痕をもたないクニがあれば、彼らは外国人へ生態本能をこえた分はなんら警戒心をもつ理由がないかも。
進歩の考えはダーウィニズムを社会進化へあてたスペンサーなどの思想家が吹き込んだ毒だが、又それが「自らの道をゆく」自主的進歩とずれなくひとすじにまとめられれば、害のない普段からの文化活動への努力因かその為の強壮剤として、体面にこだわりすぎてきた矢継ぎ早な今までの外からの近代化とは違った趣をとるだろう。
 クニを単位にした資本主義から勝手主義論を見直せば、というのも全てのヒトは今のところクニに住まうほかないからだが、『留保資本主義』は他の一切の資本主義の傾きよりも優秀な銘柄の誇示に有利であり、それは自らのクニだけの満足をめざす固定資本主義の蓄えよりさらにより進歩的である。なぜならば、法人と個人とをとわず留められ保たれた資本量こそ、クニが他の貪欲な国々の間にあって自ら独立した品位を保つ今日での原因となるからだ。

流動性の罠と呼ばれる流動資本の値動きは、蓄えられたその量よりもずっと、取引額とは些細な問題か若しくは間に合わせのしくみであるとしらせる。動き続ける量感は、既に倉となって増大しつつある蓄えよりも(近い将来を少なからず暗示できる金利生活者が許される経済環境では)常に、かつ明らかに軽いだろう。
 
もし固定資本のみに蓄えの道をみいだせば、なるほどそれは次の世代が再び使える何らかの用途や景観へと自らの世代の流れ動かされ易い財物をかたちをかえてさしおくことになる。すると一般に、固定資産化されすぎた資本は勤労の習慣を失わせ易い、という負の側面も或いは大きくなってくる。
所得への過度のえり好み誘因はこういう貴重な財物の蓄えられすぎた場では(但し、私は環境論の時勢からも和風芸術観からも「自然景趣への保護」だけはこの冷ややかな分析から完く;まったくにとりのぞくつもりだが)、我々の一切をおのれの分の仕事から新しい存在へと進化させゆく独創性よりもあまりに高く見積もられてしまう。
すべての進化が望ましいとは考えにくいがなおあきらめの退化よりましなのは、絶滅への可能性を幾らかは軽くしていくから。

 これらを省みると、現代経済の中で蓄えられるべきものはクニの単位でみた内部留保率そのものであって、決して未来への真の投資になるとは限らない固定資産化へのえり好みではない。そしてこれは比率の問いなので交換価格にみた、いわゆる世界貨幣制度の中で営まれゆく債権の蓄えを最も訳あるえり好みへと据える。
かしこさに鑑みる有利不利の差を将来世代へつらなる国際社交界での評判の内に見抜くなら、「持てる資本の量」こそ真実にそのクニ柄が他の生態よりも優秀であった印しとして確かだ。

2010年2月14日

生態学

世界中に無数の社会秩序がある中で、人類のつくった諸系統は決して普遍でない。様々な動物は彼らの求める特有の秩序をその合法則集へ容れ込む。その中で、物理学で最も正当化できる型をえらぶ際に使われることのある人間原理は、生物学上で姿をかえて感覚原理を指し示すらしい。人類が見る法則さは彼らのもつ感覚を通してしか見渡し辛い。物理でのとても大きな次元や虚次元の様な数理上は想定できる宇宙界でも、我々が全く認め知れない場合その次元は省いて考察を進めるのが妥当となる。そしてこの為の自然科学の指針は、カントが純粋理性批判で与えた直観の次元、いいかえれば感覚の原理に基づいてのみその針の路を正当化できる。
 人類は社会として次のルールをもつ。先ずそこでは空間量を最大の同じ恒常さで満たす巣作りが行われる。これは一般に建築と呼ばれ、すべて彼らの巣。次に彼らはこの拡大を行うべく既存の自然をつくりかえる。初めに開墾を行い、田畑を耕す。そして後にこの上に店舗を建て仲介のみへ特化する。最後に極相化するとそこは単なる彼らが寄り集まった巣となる。
 空間量を彼らが問題にすることは、その巣の様式が四辺形か四角形など直角を多用し最大量の空間容積を求めるところに現れている。この理由は、他の巣作りを行う生態に比べ彼らが室内活動にかなりの幅をもっている所にありそう。なぜならもし強度だけなら蜂の様にハニカムを合理的としたろうし、温度や湿度のみを理由とすれば殆どテントの様な原始的形態で十分だったろう。人類は彼らが求める室内での多くの活動を跳びはねても問題がないほどの空間量で満たそうとした。それが立方体のくみあわせをより許容できる体制とした。
 この規則は彼らが耕す田畑へも広がった。そこでは特に指定はないにも関わらずほぼ一定の直線と直角のくみあげで耕地線が曳かれる傾向にある。空間量を天空率の無視によって、土着的に理解していった彼らは平面上へもこの立方法則をあてはめた。
 その後に建てられる店舗と集居は同じ規則をあつめて反復したもの。そしてこの手順は、彼らの細分化された巣の中でもくりかえして起こる。小さな隙間で何かを栽培し、部屋の一部へ店舗を設け、最後に部屋を区切って違う生態へと貸し付ける。結局、人類生物学の目線からすると耕地、店舗、集居の段階は規模問題のみ。ゆえ立方法則は彼らのすみかを全く同じルールで埋め尽くす原理。
 感覚原理にみると、三次元での立方さはその空間を動いて暮らす種類にのみ当たる。そしてこの外へは出て行かない。ゆえ人類の立方法則はそれが反復と拡幅を続ける間、彼らの生態論を最も基本にのりとった形で整理づけるのに向いている。この規則を共に持つかそれへ似ている生態には、多かれ少なかれ人類自身と類比できる生存上の利害が及んでいるだろう。しかし、非立方のものや拡張とは違った性質の生態下では人類が持ち込める文化反応はとても少ない。

十六行詩

オイ東京土民どうした
長崎だか神戸だかド田舎の京都からでてきた
猥談まきちらす大好きなお仲間はどうしたんだよ?
貴様らを頼みにしてるあの淫売先生は!

寄り集まった穢奴の腰抜け野郎の空威張りに傅き
偉そうな肩書き引っ提げりゃ何でもありだとばかり
お気に入りの淫猥小説をばら撒いて連日連夜ぼろ儲け
散々ぱら真面目な勉強家をコケにしてきたんだったな?

いつ底知れぬ淫蕩地獄に堕とされるべきなのか
煮え滾る血の池の綱渡りはどんな気分なんだろうと
ずっとこっから知らん顔でみてきたが
あのヤクザの親分の猥談好きは大昔からだからな

いよいよ失速しだしたが これだけ充分騙されてても
まだまだやるんだろ? お前ら汚い穢土民には
芥川の墓前でまこと往路浅ましい
罪に恥を重ねる醜い金漁りしかできなかったのだし

金の為に上下関係に適応したふり
してる自分とよく似た若者を
東京の水道橋の道端で見る。
彼は、世の中で生きていくすべだと
そのちょっとした大人のふりを
何気なくこなす。だが
世の中は東京だけではないのだ
その集団内には関西の人がいて
当然いつもの喋り方で彼ら特有の
話題の振り方をする。
漫才を信号待ちに聞かされる人達。
彼は、自らの首尾一貫さを保ちつつ
どうにかよごれた地べたにはいつくばる
言うまでもなくその姿勢じゃ生き残れない
僕は世の中のしくみを見た。ここでは
すべての悪徳は正当化され、
すべての理想は蹂み躙られ、了いには
ボロボロになった壮年後半のあの
給料夫のなきがらだけが残されていく
あまりにも合理的な奴隷制度。
自らの見た侭を見られる者は殆どいない
それ故に、彼らは東京の大人に憧れてきた。
決してかしこいのではなく、ただ狡いだけの
上司へ服従する中でいのちを養う、
そのちいさなスーツ蛍の群れはこうして
今夜も輝くばかりの夜景になって燃えていった

2010年2月13日

サッカー学

日本のフォワードの弱さは常にお雇い外国人系で補った方がいい。クラブチームにこの人材が欠けているなら別のルートで帰化してもらうしかない。
 日本人の性格には和の習性がしみついているので、確率的に何世紀もかけないと、純倭人からは西欧や南米級の超攻撃的フォワードは生まれてこないのだろう。

地球学

生物が行う生産の全般は物質間の流れの調整のみ。ゆえ生産にみれば、物質へは自然さ、乃至混沌の方向付けを行えるのみ。この意味で全生産か制作か作り事は再創造性の埒内に。
 生産は社会性を取引費用面で移ろわせる。もし生産量を取引費用とは別に勘定すると、生産性は何を目的とした方向付けかによる。この性質は秩序色といえる。秩序色は趣味の勘を含む。しかし、秩序色自体は決して生産量を目的づけない。これは消化活動が生態内の単位方向性に依存し、思惑の上には一切の秩序度を留めないから。乃ち取引勘定を度外視した生態がこの秩序の色彩を決める。∴この値は量感として生産の合理のみを追求する生態単位にあたる。
 秩序色は原則として可逆形を主体の生態周囲に経済づける。可逆形はしばしおきかえに耐える。つまり秩序色の密度は生産の反復理由。それは秩序度を単位方向性毎に固有の連続帯域でみたすしくみによる。もし世界を生態密度比でみなせば、秩序色は最も良い生態単位へこの帯域を開け放つ。故に可逆秩序の合理性は順列でなく、単位帯域の最短さを秩序の目安にする。これは生態信号の組織化比率によるから、秩序色は実質上、共通の目あてに集まる細胞量。∴細胞量は摂れる最短の順列を遺伝塩基に配列していく一般原則をもち、又その重複は生態が経由してきた遺伝系統の自然現象比がより連続的に複雑であった訳。
 秩序色はこれらによって細胞量を生態単位の補修へ当てる量感。⇒種類としての秩序色は生態単位を細胞量比で違える。もし秩序色の偏りにみれば、同位種の間にも生産性と生態単位の組織化はかなりのばらつきが見つかる。ゆえ再創造性は次の単位比をもつ。
R=(Ap√S)×П[ep=1→∞]ep log ts
‥秩序色分布
R: Recreationity
Ap: Area productivity
S: entorpy
ep: equal positionity
ts: temporal systemacy
積和はRを同位種間で同時組織間に急激に増大させ、全体は素子としての組織規則に集束する。∴秩序色分布は大まかに次の偏りをもつ。
R2‥帯域性
∧この成立は
ts\∞%‥組織率
によるので、現実の積和は
R2\∞%‥最大細胞率
を単位重畳さの中にみたものとなる。一般に、全生態は秩序色にいくつかの段階をふむ。それは光学化できる。但し、同位種にみた人間原理は免れず、この知識は形としての定式に収まる。仮に比例論を除けば光学化は難しい。ゆえ秩序色は地球学の元。

SL

嫌なくに日本といゝつ去る地なし

東京人いそがしくしては業を積む

金奪い力を奮ゐて威張る知事

関西圏したしき中にも無礼あり

ニコニコしSL乗りしお殿かな

2010年2月12日

十分生きたとは言えない。
だれも詩より私なりの言葉を使えない。
殆どの娘は発狂している。
凡庸が救い難いなら秀才は救われ難い。
神のみ知性を与う。

語学

活動語彙と認知語彙の他に、代謝語彙と潜在語彙が考えられる。これらはなぜ言語性能が理想的かを十分に説得する、語彙の活動はそれらのおきかえが巧みか否かを元にす。潜在語彙は全音素の順列量によっているので最も表層に示される活動中のその系を構造にとり理想に叶う様につくる。潜在語彙は語が一定の音素体を起源とする慣習内にあり、又それらのくみかえでなりたつ過半を保つ限り真。
 活動:認知:代謝:潜在の比率は語彙分類比率乃ちことばながれか詞流となづけていい。それらは伝達性能としては前者ほど活発で後者ほど緩い。しかし可塑性能としては後者ほど滑りよく前者ほど頑固。詞流れは時代毎にかなりの変化をとる。但し、潜在詞の分量は記法化されなかったかなりの方言や微妙な韻をもち、その記録にはほぼ往時の中央語が賄われる。
 認知語は持っている基礎語法内で理解か視認できる単位長さへ分割できる。但し、それは活動させえないかさせるに困難。認知語彙の活動化は単純な練習、たとえば書き方の反復などで可。
 代謝語はそれが確率的に使うかみなせる語彙な間、一定のめぐりゆきで詞をいれかえる。この範囲はもとある活動語彙の総量に対してつねに分子といえる。ゆえ代謝語はもっている語句の総量にとり何が可塑的か、つくりかえできるかを教う。
 これらの偏りは、世界への詞づかいにとって恆に粘りがあること、どの語種にとってもそれを音素と文面の両側からはさみうちによりつくりかえる能動さをたもつらしい理由。もし潜在語列が変われば上部表象へはそれが連動させえたいくつかの紛れで以前とは違う系列式が現れるか現れう。語学の固定は、語種概念にはできない。語種は違った系列との接触で回っているので、覇権語彙の固まりはそれ自体としても新陳代謝のさなかにある。ゆえ語学は語種に向けてでなく、詞づかいに向けてのみ有効。

2010年2月10日

世界計画の見方

地上の法則を世界精神論として捉え様とした哲学はその範畴を地上論というのが妥当。もし宇宙に精神か知能があっても、それが地上の法則をもつとはいえない。似る可能性さえ十全でない。要するに、法則の感覚は人間原理を免れていない。地上論としての弁証法は脱構築の結果運動であり、それは宇宙の中では地球型の人侖に還る。ゆえ世界精神は地球世界のそれ、と再定義できる。
 対して宇宙内に幾つもの道の変異があり、それらの関係は何らかの運動法則を担う。が法則思想は原則、人間原理の地球型を十進法内で保つので、又数理の基本も現代迄にこの代数式へ叶う形を備える。よって理念法則の最大理由は代数学にではなく、幾何学に求まる。三次元内の視覚ではこの法則外への存在法はない。
 理念法則の地球外規則にはいくつかの改めた前書きが要る。その順序は現世弁証法、来世勘定論、系外倫理観の三段階をおよそ践む。これらは論理の集まりが系の中で個性、団性、群性の共有性を一定の生態構造に引き込むゆえ起こる。つまり地球外規則の築き上げには定まった必然的段階がある。
 理念法則は地上論を何らかの手順で脱構築していくべき途中にある。もし来世勘定の段階を調った理想に思えば、系外倫理は相対精神がつくる互恵制度の躾に還る。なぜなら理念界はそれらの理想を規則立った倫理法則の築き上げへと用いる所にあり、もし逆を行うなら現世弁証法による解釈界の輪廻へ戻る。ゆえ理想が相対精神の系外関係論への導きや立証へと向かうのは必然。地上論の合法さは確約しきれない。もし全天上界の法則を理解すればその細密さを標準化できるだろうとも、相対精神の額づきに神格との隔たりがみつけうる地平ではいうまでもなく、全生態の共通規則は生物界の経済原理に叶う弓なりに返る。地上論はこの道徳性を生態規則の分解量に省みる已。仮に地上論の限界がこの生物界の中にある分解比率に法るとすれば、道徳原則の合法さは適所の自然法則が許す一定の生産量を消費する群生に習う。ならこの法則の学習はおもに繁りばえの生態密度によっている。それらの縁起体が複雑なほど求まる規則も同じ。故宇宙論の範畴に道徳法則は文化生態学の名をとって繰入れられる。
 道徳規則を自ら造りつづける能力を合理化の資質に鑑みると、脳可塑性最大の種的利益は矛盾論の維持による絶対変異への厳しい規制にあるといえそうだ。もし宇宙規模にこの法則がみつかれば、カントのいう自然法則との共有できる真意通路としての神学は、それが全知への到達不能さへの喩えに適切だといった中世思想の後付けに過ぎないだろう。それらは相対精神による神話の再生であり、彼らの研究や思索に基づく想像できる未詳の説明なのだから。合法編制はつまるところ説得すべき神話への党派や集合変異に過ぎず、永久に唯一立法の主意は求まらない。この真実には主義間やそれらの混じり合いの運動論が含まれ、最も述べられる可な深慮の不動さ一般と同様、立命の真意は生態法則への参加能力の進化論的基礎に適うものとなるのだ。役者交替説の根本原理はこの相対立命への編制の合理性にあり、機会浮動を除けば全地位の変転は因果応報の理と全くに符合している。宇宙論の広域さに省察し、善意の主格は常に理念界の最高の趣に随う道を摂る。この蓄えは悟りの光にとって用いる手段の多元さへ寄与するので、合理性の着実な歩みは結果では安心の区域を生態的な定常観での趣きよさに適わせる。これらは、地上論は究極では宇宙論や天外論への過程でしかありえず、合理化の趣は業を理想度に換えるものとしらせる。もし最高の理想が、又それ以下か以外の全生態の構造に適している由縁があるなら、この理想の度合いこそ因果の絡まりをできるだけ見物にするという劇場計画にとって最適だから。観覧による感動の程度は彼らが世界を観る理想度による。神性と精神性が共有できる唯一つの性質は、知能によって或いは悟りの光によって世界秩序に見通しが効くということ、道徳観への梯子が無限に連なる階梯として相対的には見渡せる範囲によって同じくできるということだ。世界劇場は彼らに観覧の権利を、夫々の理想段階を見通す鏡として手渡す。そして個々人は魂つまり、遺伝された前世界からの功徳量に応じて宇宙を鑑賞できる。もし魂が曇っていれば世界は悲惨だろう。しかし明るい兆しが射しているとすればそれはよい見通しの為だろう。全ての趣味観は神からの学びによる。つまり自然や社会の全現象を何らかの意図に則り創った原計画者(もし国家が不動ならそれは最初の発見者としての森羅万象の名付け親となる最古の祖先と云われていい。その非対称さは拡大はせよ一致できないので)からの教えとして、考えによってその設計趣意を余すところなく授ける。
 良い考えはよき功徳を思い返すことによる。最高の祖先は又理想の上では比類なき崇意を万物が幸福へ向かう最も適度な秩序として構想しただろう。中庸の実践的善があらゆる場所で優位にまさるのをみればこの深慮が神ながらのものであり、世界劇場では最も穏健な行動こそ趣味観の理想に合うだろうことが明らか。理想立志の節は、健康への余念を生態的保安と一致させている。よって役柄にみた優劣の偏りは、結局に精神の粘りを趣味主義展望の必然的順位と殆ど誤りなく一致させる。この運命選択の必ずの勢いは、偶然とは単なる細部法則か確率論的ばらつきなこと、世界はこの偶有さを含めて必然性のもとに運営されていることをうべなう納得と共に理解させる。つまり考えのよさは世界を支配している設計済みの劇場を最も冷静な魂の上に見通す個性にのみ閃く。

鍛えたる心

初雪のうゑに舞い散る桜花夜の半ばにあかつきのたゑ
旅ゆけば気づく訪れ青き坂いずれの時にか霜ぞ咲きゐる
わる者を懲らす為にぞ鍛えたる心の上に凪ぎも過ぎしき
ゆったりとまちは展がり梅の花まちうける朝に香る清さは
文かさね海は鳴きまし縮む日よいつの浦にぞ夷の来し方

天文生態学

宇宙は無辺を定義しない。もしこの枠組みに不足があるなら、生態とは宇宙によって囲い込まれた秩序の系であると考えられる。無辺がもし同様に、想像力といわれる秩序の分岐に入り込む可なら最大の知能と雖も秩序変数を内部化できる神経容量による。ゆえ数学では定義できる無限∞は、決して無辺さへの喩えではありえない。
 物理内には無限を定義できない。それは宇宙半径式が常に補集合をとるとしてもなお定数で示される。
 最初に世界の有様を考えた主体は次の事情に気づいた。そこでは運動の中に一定の規則をあてはめられる。これは太陽系がもっていた律動を適所とした生命には否応なかった。太陽場の惑星系では法則性への喚起が育まれ易かった。この現象は決して絶対普きものとはいえない。ある程度より不規則な系内の秩序はそれを込めて淘汰を行う。
 法則観知性は地球型知能種の一特徴を出ない。全く逆に、不規則さへの感じをきわめて強い感覚野からの類推で行う命や全く念いを使わずにその機能を外付けに分けてしまった機械依存種などはたやすく仮定できる。この偏りは不動でさえない。もし太陽自体が齢を迎えれば全く同然の環境は人工内に移されねばならず、法則観は地帯定着さの基盤を失う。ゆえこの種の知性は生態系統の上にみれば機会的。仮に法則外知性を分類すると次の種類は想定できる。
非法則類
乱雑種―雲状生態―気体生物界
団塊種―群棲生態―雑性生物界
個体種―孤立生態―崇伊生物界―天游生物界
 団塊種―群棲生態―集権生態―一塊生物
 孤立生態―体制生態―移転生物界
 孤立生態―明滅生態―流転生物界
最も単純な構想、それは既存の地球生態からの類推に今日のところよる他ないが、にも関わらずこれらの分類には最も原理的となる生態と種の分化が唯の非法則性に限っても認知できる。彼らの実在量は次の比率を保つ。
(分子量tensor[a, b]×実在確率tensor[a, c])‥生態量感: ecological mass tensor: Emt
→Emt÷内在秩序度±√(Energy cost)∩法則生態
∧内在秩序度: intensity cosmy: ic∧法則生態: ecologic low living: ell
⇔Emt÷ic±√(Ec)∩ell=一定: 生態行列比率ε
この定数は常に二行×二列の倍数で別の単位系への拡がりを含む。且これらの値は相対論の地平面の値、換言、空間vectorと時間vectorの最も基本となる二元張弦比を繋げ続ける。ゆえ全生態法則は、少なくともこの最も原始的らしい法則と非法則の重なりの中では共通部分を一定に保ってのみ生存できる。∵もしこの比率が崩れれば、生態行列は空間か時間どちらかへの浸透圧の過剰のため拡散し、現存できないか単なる無機物へ戻る。
 無限が微視物理学系列や微化学上、定義されえぬのは無限階層論に最も地道な仕事たる生態法則の自主探求を行わせるに十分。ゆえ全生物知識は何れも主観的変形の土台をもつしかない。もしこのより相対的な矯正に確率があるなら、異星か異生態界からの別の系統知をつぎはぎか刷新して既存の法則能を打ち破るしかなさそう。

国家経営論

経済の繁栄についていえば、印度社会は想像よりその方向へ伸びえないと私は発見した。この理由は、勤労によって繁栄する為には、実は「ある過ごし易い温帯」が前提となっていたことを先進国の民族が見逃した所に有る。
逆に、この条件へきわめて理にかなっている沿岸部の中国圏は、間違いなく繁栄する。但し、おそらく内乱によって現状の統制主義独裁から一般的な資本か自由主義への政策転換があってのちだろう。それまでは潜在的繁栄の土壌は放って置かれる。

 印度やそれより西の諸世界(中東とアフリカ)では近代化を、もし先進国の今ある水準に果たそうとすれば、かなり別の対策を考えねばならない。
勤労するに乾燥か湿潤すぎるとか熱帯か寒冷すぎるとかで好ましくない環境では、機械か会社組織の業務時間を特別なものにさしおき、できるだけ勤労による所得分をへらす向きへ努力した方がずっといい。だから観光立国は、古代遺跡のあるその周辺の土地では全く合理的といえる。

多くの先進国型の経済学者はこの風土差を十分みる習慣がなかったので、所かわれば人かわるという諺のしくみを単に、産業の機械化のレベルでしか調べてこなかった。この種類の雑すぎる植民地経営はだから、単なる産業の合理性の面からかえりみても過ちだったのだ。
 さらに、つぎの観点が文化人類学などの課題として近年自覚されつつある。
 それは産業革命による西洋初の近代化経済体制のみが、余波も含めて、最も正しい社会発展の方向づけではなかったらしいということだ。原則としてこの「近代化潮流」は一部の温帯へしか定着しなかった。民族の性格も慮れば、そのうけいれ方さえ、先進だから即すぐれた文化を達したとは必ずしもいいきれないところがあった。(公害問題や再開発の必要、脆弱な都市基盤や環境破壊の報い等々)
要するに、近代化への反応は民族の個性に従う。そしてこの反応には優劣ではなく、単に違いしかない。この違いは地政史として民族がどう考えて到来した異文明に対処したかを雄弁にときあかす。
そして近代化そのものより希少で、詳しく研究やそれら態度を尊重か奨励されるべきなのは近代化へのこまやかに違った対処にあらわされた「民族の独自な個性」である。時間さえかければまねできる機械そのものよりこちらの方が貴重なのだ。

 惑星文化圏として地球をみれば以上のことはいえる。だから国連内で経済力を地位とひきかえにする様な考え方は、遅かれ早かれ失敗する。さらに地域連合の発言権としてみたときもこの原則、つまり「主権の富との分離」は次第に主張されはじめやがてみなの常識となるだろう。
 もし日本規模の外交権へこの原則をおろしてくると、かつて彼らがなしていた鎖国経済というあまりに特殊な考え方を、ある時代から先へは再び、(だが今度は適度に)使いこなしていく必要性がどうやらありそうだ。
というのも、今は国連参加国のほとんどは先進国水準の経済発展を当然すぐ達せる目標だと信じているとして、ある段階からは不可能さを悟った諦めと悲鳴、そして恐怖政治に最後の希望をたくす塊になった足の引っ張りあいが必ず起こりはじめる。
(風土差を無視した議論では決して地域ごとで大幅に片寄った勤労量をカバーしきれないのだから。主要産業の機械化をなしとげるのは、しかも国家を撤廃せずに進めば当然、先進国が先となる)
この時代に及べば、いくつかに分かれたセクトとなった地域連合は、まずその中での自足できる経済規模を満足とみなす方が穏当だと悟りだす。
そして代わりに、国連議決でODAその他の援助額を税収の累進制度にひっかけて多くの先進国へ、おそらく所得順に科すしくみを求める持たざる派閥が多数決で勝ちを占める。(但し、中国は覇権的な経済規模の潜在性をたもつため最後までこのしくみへ反対するだろう。巨視的には地域連合の周辺や内外でのいざこざか、歴史的経緯としてこれをも事実上は無視できる)
 従って、この結論がみちびける。
 日本は外交上ではやがて鎖国経済を再び考えに入れたくなる。その方が独自の発展にとってよほど理に合うのだから。けれど急進的鎖国への転回は、いうまでもなく周縁圏へいらぬ波風を立てることは免れず、国内的にみればこういう行動を好むのは九州圏とその周辺の郷民性だけだ、或いは推しても彼らがおもになるだろう。
 私はこの予測から、できるだけはやく共に行動していくにはあやうい九州、四国を行政区画として最低でも本州からおのおの分断するか、それを前提とした地方制度のある程度の切り離しを先に行ってしまった方が好ましいと思う。
それは勿論、国連で様々な累進課税的な施策が議論されはじめる前に。
なぜかといえば、日本国民ひとりひとりの勤労による所得を我々自身へ還元する、という『努力の報い』をあまり立派でない人々の悪巧みの横領から守るには、その財産をできるだけ安全な、土地から動かせない固定資産へと両替してしまっておくほうが得なのである。少しなりとも恐怖政治による横取り派へのおもねりや妥協をしてはならない。
もし将来世代も生きていく文化環境への深い慮りからの両替なしに、急進派のいう通りにいままで積み重ねた多くの資産をいきなり我々自身のためだけに使うとでも宣言してしまうことになる(鎖国思想の国内向けテロリズムによる実行で)と、確実に日本人は守銭奴の金満家という汚名を国際的にながらくこうむると断言できる。
もし私の意見に少しは合理性があるなら、それは損得勘定のためではなく「勤労の意義を世界へ模範として示す」ための財産の維持は政治道徳とも一致するところがある、という国家経営論の部分だろう。この国家の財産は今のところ全国区で一まとめにされているのだから、今のところは急進派もふくめて、国際社会内でのよい意味で適切な身の処し方を考えねばならない。

もしいずれ連合間鎖国的な体制をとったとしても、現状の財産の片寄りは実質的な努力の差なのだから、それを煽情的なテロリズムによってまぜかえしてマルクス主義的な一切平等段階までばら分けてしまうよりは、勤労に向いた壮健な郷民が比較的多い地域へとこの固定資産の還元を行うのが正道だ。総合してみればだれもに還流してくる資源の量もその方が豊富になり、生活程度も改善されゆくのだから。
そしてもし私の予想の通りに九州圏の急進癖のため彼らが追ってくる中国圏への訳なき対抗心に燃えて急ぎ足の鎖国実行をあるとき主張しても、それ以前に切り離しが行われてさえいれば悪評を買うだけの恐怖政治支配からは本州の大部分の日本人を救うことができる。その時は彼らだけが道理のない急激な鎖国を行い、過激な排外思想で産業体制等を攻撃型軍備へと用いる筈だ。
けれども本州にある殆どの国家資源は勤労者自身の暮らすまちを今よりよくする為に用いられ、彼ら転覆主義者の無茶に主張する様な、善意の途上国という生まれたての赤子を脅すがごときあしき敵対的戦争費用には決して使われずに済む。

2010年2月8日

社会生物学

大多数が少数の進歩か何らかの新たな変異を伴うときその自由へ逆らい、足を引っ張るか奇異の目で遇する俗性は、おそらく群れを伴う進化過程では絶対に免れない。この中途にある仕事量が大きいほど伴う反作用か足枷も大きくなる。ミルが自由論で論じた真実、この「普通でない」個性への規制は、恐らくその社会系が最も退化への誘いを伴うとき最大になる。もし彼が考えた様に必然さのもとにこのしくみが慮られるなら、我々は連続的退化をその社会系の現れうる形質の固定化と呼べるだろう。そしてこの結果は、一般の僻地への適応に伴う環境収容力形態への変異を最も有力なそれとしていくだろう。
 ダーウィンが人間の逆選好の可能さを示唆していたことは、我々が今日で幼型化として知る一定の変異の向きを、上述の僻地適応の姿に顧みさせるかも。が、社会系で最大の過疎化がこの幼型さのうちに見つかる場合、それは実際、天敵の免れによる自己僻地化作用が彼らの選好みに働いた結果だとも考えうる。そして両方の理論の巧みさをより適当な順位に並べかえるなら、幼型さは社会系の自己僻地化が寧ろ彼ら自身の生存戦略上で有力になった一地勢の必然を指し示すにすぎないだろう。全ての人類から別れた種がこの系統を辿りもしないし、普通でない、何らかの並外れた変異が幼型さの外側へ保たれる為には常に組織化の複雑な選好の重なりをその非僻地部分へ推し広げていなければ。
 この自己僻地さは、実質的には強い天敵の免れを連続した一定の世代と交配関係間へ保ち続ける度合いといえる。この度合いが高いほど、社会では並外れている幼型さをそのかなり初期の侭で維持された文化計画の極度に完成した能力へと一種の選良を図れる。そして一般に、彼ら自身の社会ではこの才能は、大多数の及びえない生得的形質として天才と名付けられること屡々。だから生態論の目からみれば、天才とは社会か文化上に将来の有用さを用いる能力を持たせた大きな普通でない幅で、一息に達した個性へと後発的に問われるもの。
 自由論が生物知識の上へ社会系の可塑さへの推し広げとして推し測らせる認識は、この種の個性は常に大多数にとっては未知か不明なので「他に対して変わりなしとすれば放任すべし」という自由放任の原則を、単なる選種誘因の面でさえ最善とするだろうこと、乃ち自己僻地化さえもし種の新設の場とみれば、大宇宙のわずかな隙間で行われる一つの傾向にすぎないだろうから、それを最高視も敷衍の正当化もできない事実。仮にこれを行おうと、常に他の系列から疑似同位種が生まれ彼らの属した適所をある段階からは支配するかも。ゆえ社会進化論が学習行動の幼型的延長を一つの理想図とすることは決して不動の生態原則でないと理解できる。つまりこの分岐は部分的でしかも地勢によるので、希な進化を生み出す以外の理由づけはできない。もしその新種が、大多数の旧人類への非天敵地位を獲たとしてもなおそうだろう。

経済学

人類が流通業を営む誘因がある限りそこでは商誘因が過半を占めるということはほぼ確実視してよさそう。私はかつてこれを疑っていたが、大多数はつねにより労力の少なく同時に多数派の流れる道へ流れるという人類生態の法則を省みなかった。取引勘定の上はねだけでくらせる条件づけがあれば、大多数の人類はいかにも普通でない個性でなければその暮らしを幸福と感ずるだろう。
 だから人類の改良、この文明化を考えた者が昔ながらの命題としてきた懸案には次の技術がいる。まず流通業の取引費用を時代が許すだけ最小にせねば。この結果、小売りと貿易という製造品の生産とはことなる、商誘因のもとを最大限に断つべき。しかし、無論これには家庭をのぞけば社会か国家の単位、最悪でも生協単位の小型の先鋭化が原則となるだろう。かつこの結果、大多数からの抑圧としての商形質への偏った淘汰の現象、という普通化への潜在的社会環境は捨てられ、以前より個性にとって暮らし易く心安い世界を確実視できる。
 だから資本主義社会が最も公共財として高く、しかも手早くみつもるべきなのはその流通業費用の全面的な代替。これさえ解決してしまえば、奉仕産業の過半は自動化されても構わない領域へと急速に進展を遂げ、我々はあまり有徳でないらしい一部の特殊職へしか商業界に行われる各種習慣をかえりみなくなるに違いない。おそらくこの事実に先に感づいたクニでは流通業は公共事業として営まれ出すのがはじめは知識界での話題から次第に一般論となり、上述の原則にのっとり商誘因は徐々に社会の表から消えていき、我々が個性を大多数からの抑圧としてなんらかの非生産的で交換差額のさっぴきに由来した行動傾向へと無理にしつけるかしつけさせようとする大多数派の繁殖欲の理由は、そのもとから裁てるだろう。

信念

神様に正しい念いがある限り
僕の念いはその部分であり続ける
いかなる不条理も
どの様な不正も
必ず神の法廷では厳格に裁かれるのだ

どの様に些細でわずかな
見つかりそうにない悪業であっても
すべてを精確に量りきって寸分たがわず
来世のいのちへと両替して下さる
僕はその様な

完全無欠の法廷に一介の
無私のしもべとして
あらゆる神経を捧げ
この世のすべてが神様の
計画なさられた通りに営まれるのを
この上ない幸せに念うのだ

2010年2月7日

眠り姫

桜木よ初雪のなかへ消えに入り
昔歌MD×眠り姫
Doctorinいうもいわずもかじかむ代
世の中へふるもおかしき雪印
窓からをひとゑに眺めるダックスフンド

文化史実

知識あればいいとは限らない
彼は共に暮らすに耐え難い
悪さを事とする者かもしれない
だが往々にしてそれは知られない

あるとき戦があって
多くの知識なき者は戦場へ送られた
王様はそれを命じたのだし
のちの国の民がそう信じてもおかしくない

彼らは知識を使い
ひとの足を浚って嘲笑いながら
一秒でも長く生き抜こうとした
その結果隠れ家すらなくなった

一歩でも部屋から出れば
誰かが足を掬ってくる
だがそれを望んだ王様はいまだに
水代からさえ税収を引き抜いて暮らした

論理学

論理の直列さへの分析哲学からの成果は、それが主観による読み替えを許すという字体の間での定義されざる文化習慣を浮き彫りにした事。全て理想言語への試みは順列の無意識的介在を退けえなかった。厳密な体系への道のりは順列の法則性を秩序づける試みだった。同じく、主観からのその定義されざる隙は全て記号の用法の側にある。乃ち、記号代数学の平野は順列とその用法の規則づけにいかなる確立を行えるかの仕事に等しい。全解析もオートマトン上に載せるとこの規則通りに運ばれ、幾何学の全分野は数列の図式化にすぎなくなる。
 順列は表現に使う最小の規則を貴ぶ。造り数学もこの図式論の側面といいかえられる。計算は順列を特有の解法、つまり何らかの一定の繰り返しで満たす様な型、巨視すれば重複さの形式だから、最小の規則は図式論の中へも同様の方法をとらせる。ゆえ算術規則は造型規則の部分集合であり、かつこれらは最小の規則を共有する。任意の順列を最小の規則で方法づける論理、この分かり易い説明は実質上、全数学界を支配する唯一の基礎。ゆえ科学計画の合理性はそれを表現する道具立てとしての数学順列にほぼ補完されている。もし科学計画が進歩にとって十分円滑でないならそれは数学順列が十分に最小でない証。
 全数学は最も直観的には論理形式の順列の規則が特定の説明趣意に最大の可塑性をもつかで測れる。乃ち論理の合目的さはその侭で全数学の審美観を充たす。造り数学は論理記号の一々やそれらの並び替えにも最小則を忍ばせる。これらの現代性は、分析哲学的には趣味論への過程と見なされて然り。

稽古の真意

造型数学の結果計測は次の事象の地平を拓く。我々は数理原則を利用した理解を無意識に行ってきた限り、ヘーゲル式絶対精神論は最大量への信仰か実証論過程だったと。乃ち造型論も又知識か認識の諸平野を理念界への、亦は無辺への崇意で象徴してしまえるに過ぎない。もし論理式の、幾何学的図形論を示す特有数列秩序にみてみても、理念界は不明さへの言及びを指摘風に行える所にしか際立つ特長はない。ゆえ科学成果は認知の世界が歴史精神内にある限り飽きず部分集合たり連なる。論理の積み重ねを、精確な認識が程度問題に過ぎないという極限外の全知性に鑑みその誤解や、生態指向の合理化に基づき行う所の実践理性あるいは単に理性は、我々が知り得ない世界秩序を謙虚な侭に保つという一つの性格形成への訳ある姿勢だった。全知は理念かその中に含まれるありうべき信仰と定義されざるをえなかったかそうしてきたので部分知の個性を免れぬ全生態へは理念界以外の複合の基礎を与えない。乃ち生態論の合法則性は全知の比喩かたとえを逸れない。全認識は知る能力の深慮に念い観ると理念界の生態分析を超えない。
 哲学か智恵が産む全ての稽えは合理化の才覚に還る。ゆえ生態知識たる協調や友情の道理は常に後発的に造られる。認識能力がある限り、又この世界が個体を複数もたせる限りそうなる。だが智恵自体は友情以外を、協調性による生存確率や生存者への古の物語をこえて一切を恵むまい。自然法則にみた社会淘汰の理由は、それが生存法則の内部に育める群生を強壮さに限って繕う故に保存的と教えてきた。だから共通目的への奉仕が理に叶うと云われていいのは智恵自身の為でなく勝利への手段として。いわば智恵は手段であり、容易には見抜きづらい複合観念を標識として起てる作為で、それは彼か彼らよりも理性の分量に余りのない生態をまとめる効き目をもつ。いかなる群れにも理性は、そのかけらは見つかる。しかしこの程度は群れの指南に役立つ能力を保つ合理化の規則をこえては進まない。すると、歴史巻物の真実をこえては理性は、従って世界精神は伝えられない原則をもっている。つまり論理的複合性はそれを生み出せるほど得られた知識の他に余裕幅があった個人かその団りに属した個人の稽えであり、この目的は善意の程度を後生へ伝えること、要は意図された来世計画にある。ゆえ哲学目的は道徳と呼ばれていい。

理想の光

世界ではじめに
理想を見た人は
それが輝きの余り
世の中を占めていくのを
ただわずかな明かりの射す
障子越しに見ていた
おそらくその光は理想の高さを
あまねく照らし尽くし
世の中でけがれた暮らしをする
幾多もの生命体をただ一つの
理由で洗い浄めて行くつもりだった
僕はその光の中に
人類の業も世界の誕生も
宇宙の将来も見た
地球が回るその小さな隙間の中で

東京都

そのひとは俺は偉いんだぞうと思った
そしてそのふりをしていたら
いつの間にか皆が平伏す様になった
だからそのひとは偉いんだと思っていた
昔そのひとは大きな家に生まれた
その土地は豊かで幾らでもお米が実った
そのひとは争いを鎮めながら何代もかけて
そういう大きな家を築いていった
遠く時代が過ぎて
大都会のまんなかにそのひとの家はあった
僕はそんなことは全然しらない遠い土地から
やってきてそのひとがどういうひとかをよく見た
けど僕にはそのひとが
どちらかというとあまりよくないひとに見えた
余ったものを分けてあげさえすれば
あの橋の下の家のない人はもっと優しくされたろうに

2010年2月6日

数学

記号数理は意味数理の分岐。→重畳規則の論理数式は全造り数学に入る。造り数学は論理数式の全営みを最短の順列規則にあて訳のやり取りを最速へ導く。
 造り数学の基本法則は次の通り。
定義
明暗の二色で表す言葉

公理
1.最短画数化
2.最小化
3.同型反復
4.多義化
5.順列化
命題
全現象を説明せよ
証明
言葉は任意の公理系を数学に集める。単位重畳化は言葉を複合化する。言葉の数学では複合率÷単位重畳化で任意の公理系を表せる。∴言葉は法則を公理系の量で補う。→言葉の法則は全公理系の部分集合。以上。
 数学は全現象を言葉の法則性の内部で解析的に説明できる。←→言葉は法則性を持たない。この成果は造り数学の全集合量による。

法律学

人類の悪の現実さはそれが彼らの無知の度合いからくる、という啓蒙論の観点はいまだに社会批評にとって最大の重要さをもつ。もし善意志についての議論が現代版の正義の定義を問うという混沌をともかく回避してこの命題を突き詰めてみれば、悪とは無知の集積を何らかの非福祉目的へと習性づけてしまった行動形のこと。
 悪心の実在論は殆ど疑わしい。人知の偏りは生得形質の発生初期から何者かの手で育てられるという生育偏差を十分に慮ってきていない。悪徳と呼ばれるその最低に堕ちぶれた形にしても無知の習慣を一定の迷惑さへと片流れさせ続けてきたそれでしか。犯罪行動を裁く現世権力は死刑の悪習も含めて無知である。しかし彼らは先に手出しをしない、という上手さの為に微差を利用して悪行を正当化している。民主主義の建前は議会制度への広い参加能動性へとこの責任分けを行うが、なお命を奪う若しくは自由を奪う権力は暴威の無知を彼らの非道さとして免れきったとはいえない。犯罪の定義は神秘を含まぬ。それは迷惑料を払う条件づけを出ない。同様に、悪の定義は決して決定的でありえず、それらは利害の非対称さを一定の公的手続きで正当づける合法の内部でのみ仮設された民の公約。ゆえ悪習が正当化されるかされてきた時代も数限りなくあったろう。もしこの行動を裁く合法の手続きさえとれねば、迷惑料は嫌悪や侮蔑といった心理の中でかとある虚構のやりとりで補われる。例えば欽定憲法の公約と議決憲法のそれとでは本来は役目を違える。前者は法律上許容量の何らかの国交員を規制する為に自ずと、後者は民衆の規律を自らの徳目と矛盾させない為に繕われゆく。迷惑料が彼らの間で一定でも不動でもないことは、外交用費を日用品の買い物と混同しえないのと似る。不文憲法では罪概念の可塑性は最大化する。
 殆どの法典はその決定へ参与できる撰ばれた集団の知識量が、道徳としてみいだす最大限の智恵による。犯罪概念が設けられる時、この赦しに程度があるのは結局それを作った人知の啓蒙され方に適っている。
 犯罪概念が可変であり、猶そのくみかえは議会の総意としてみつかる智恵の程度に依存している事は、罪悪が政治集団によって設けられる自由規範であるという迷惑料の最低限度説を裏付ける。この切符は法規範の現状性による上、もし多数の知識が以前より公民としての理解に及べば当然、省略される傾向下にある。

大河

隙間なくぎちぎちに詰まった道路
意図もなく量産されていく高層ビル
少しでもゆとりがあれば潰してしまう
桜の木を切り倒し拡幅されていく計画
大昔
ここはただの海の底だった
いつのまにか現れて
種をまいたらふえてしまった人の巣だ
話もできないくらい
息詰まる速さで動き続ける電車のダイヤ
少しでも乗り遅れたら
落ちこぼれになって真っ逆さまに転落する
そのはずが
僕の目には違った
この世には変わらない大河があって
すべてをやはり海へと流し続けていた

お金もうけゲーム

大都会にでてきて僕は沢山のビルを見た
あんまり立派じゃない人たちが普通に暮らすそこを
とても冷たい世の中だから僕は誰とも話さなかった
そしてテレビの中で王様が幸せそうに暮らすのを見た
もし母がいなくなってしまったら
僕はもう誰とも話が通じなくなるかもしれない
ほとんどの人はお金もうけが目的で生きていた
そしてそれなしでも話が通じる人はほとんどいない
母は別に意味もなく
僕を産み育てた
だけど僕が世の中に見たのは
それよりもっと無意味なお金もうけゲームだった
お金もうけゲームはどこかからやってきて
その世界のぜんぶを支配してしまった
そして震える僕の全財産を少しずつ蝕みながら
まるで何もなかったかの様に海の砂場へと還していった

2010年2月5日

暴力団

ぼくが働くとそのお金は
みんなわるいやつの手もとに入っていく
ぼくがみんなの為に働いたとしても
ほとんどは税金になって
暴力団のわるさのために使われる
その暴力団は
ぼくが痛い歯をなおすためにあげた
先生からお金を少しずつとっていって
みんなをいじめるために威張っている
昔からそうだ
お金はどんどん回っていって
暴力団の教師に回っていって
教室でみんなをいじめたり
いじめを隠して出来のいい子供の
わるくちを言ったりするひとの手に入る
そして働くほどぼくは貧乏になり
そのお金を吸収して大きくなりつづける
天皇家だけが豪勢なくらしをする
歯が痛くて仕方なくても
ぼくが働いた分だけ暴力団がお金をとる

2010年2月4日

天文学

ごく単純な定理としての宇宙間隔の等しさは、それが中心から出口まで引いた二等辺を平滑にする点(限界等辺)で易しく理解できる。ケプラーの三法則は、宇宙系規模では立体化しその+1次元化が起こるが真。もしこれらの隣り合わせ方を形容してシャボン玉構造というと、各々のシャボン玉はいずれ消え去る様にみえる。∵シャボン玉は張力で受け持たれていて、それが別の力で動かされるとかなりたやすく壊れる。この張力は、次の二つの力の合わさり。
銀河流れの遠心力+暗窟引力=宇宙シャボン玉の張力
遠心力が引力よりも大きなとき、この宇宙系は別の系へと引きよせられ一つになるか合流する。そして銀河の流れでつくられる宇宙系ごとの遠心力が大きくなるのは合流か、後押しがつよくなる条件で。合流のときは他により、後押しは恒星間花火効果の巨視化学変化的まれな高まりによる。さらに、
宇宙シャボン玉の張力±宇宙系間潮汐=宇宙おもち
が画ける。この餅は(地球の場合ジオイドとよばれる)流動さのある回転楕円体で、宇宙シャボン玉らを一定の時間流率の理想眼で見たとき現れる。
 宇宙系間潮汐は次の規則をもつ。先ず宇宙おもちは引力場の潜んだおもみのため中心部を除いて膨らむ。このふくらみは隣り合った宇宙を圧迫し、おしくらまんじゅう式にどの系も自らの姿をかえる。
お餅の三乗立米×光速の差÷宇宙直径
⇔餅log3m3×晶/迂⇔おしくらまんじゅう式
餅: 宇宙ジオイドの外殻径
晶: 宇宙系の間の光速の差
迂: 宇宙系の直径
晶は各引力場の規模により大幅に変わるので、このおしくらまんじゅう運動は引力場にかたよりあるだけおよそ無限に連なる。シャボン玉の生命がきえても、べつの宇宙系がその波動を受けて成長するかぎり波はそれらの流れに生まれ、かなり違った法則の世界をつくりだす。中身の銀河団の抵抗性が過剰摩擦的ならそれは雲状の星屑をおもに、またほぼ停滞的な僻地宇宙なら固まった巌状の体系をなし、それらの流れによるはやい生き死にの期間と共に違った化学反応の性質をかたよらせる。

地味

荒々しき下総の薄拓かれつゝある野原に生え占む

親子ばったさえぶっきらぼうな武蔵野の仕種

相模の荒れ地は人に馴れ染まりし

とぼけた見た目の上野の原っぱようやく疎らなり

鎌倉の海辺は西からの香りのこりし

マシーン

貨幣交換のため動くマシーン
どうせ中身はからっぽだけど
かれらにしても意図はない
壊れたら修理すりゃいいだけさ
目の前を列になって一歩二歩と
芥川賞をとるまで動きつづける
けど一旦それをとってしまえば
途端に動かなくなる金利公演のマシーン
ノーベルの遺産ほしさに血眼で
どっかの高台に通う少年道場
というかもう青年後期なのだが
かれらはとまらない箔付マシーンだ
あれあれどうしたこの島の
グルになった欧米化わっしょい
将軍おっぱらい原爆おっことされ泣きわめく
ええじゃないかをくりかえす自業自得マシーン

2010年2月3日

数学

意味論は最短順列を任意の字画系で満たす。→この法則は公理系を造る。
 意味論の種類には造り数学内で次の趣あり。

1.系列論⇒歴史数学の造型分野
2.方法論⇒現況の使い道を分析す
3.規則論⇒解析風に数理を解く一味読み集
4.体制論⇒国家思想式に中心論と周縁論を読む
5.比較論⇒相対変形のみに的を絞る
 意味論はこれらで意味学をつくる。∧意味学は数学の分野。これらの分野は並列∨共鳴する。∧その重なりは改めて諸分野をつくる。
 意味学は解析幾何学の補集合。→図式論内では最も原理的。

 造型数学内意味学は単独の分野では数理解析にすぎないが、尚も文言で思考できる全生態への通路を踏み分けておく基礎づけ。→意味学を意味数理と名付けられる。意味は特有の単位重畳化の公理系⇒字画系の順列和を持つ。
 意味数理の規則の取り分けはその意味数理に属せる個々を合理的規律へと指数乗数比例で引き上げる。→字画論は∧最短発声論。自然か社会科学の全成果はこの内部集合のみ。

2010年2月2日

銀世界

汀より過ぎし広場に月祈る街
旅あらばよもすがらみるネオンサイン
滝の如く降りしきる雨足か雪の真夜中
銀世界街を侵せりこの朝に
焼き餅も火鉢に据えし新春よ来し

ソネット

神戸から出てきて猥談で金儲けした土民
米語圏に媚びて発情奴隷の倭奴を搾取か
お前らまじで
やっぱり役座の末裔だわ
良かれあしかれ関西人とかほざいて
いまさら言い訳なんだ?
あれだけお笑いでぼろ儲けしつつ
偉そうな肩書きつけて自慢してたじゃん
ほら SLのってる
お前ら近畿やろうの親分
墓参りがてらみてこいよ 末路は悲惨だぞ
あれだけの数の罪なきアジア人を虐待したもんな
救われない印だけを胸に自己正当化に興じる
キリストの十字架を八つ裂きにしたご先祖は

啓蒙の実り

博学を誇るという虚栄心はみな深慮への勘違いから生まれる。啓蒙は常識への消極的態度に起因するとしたカントの博識は、無知の程度に無心所着を重ねる幾らもの歌人にさえあたる、一矢の評論。ゆえ無学の学はその逆理が知りえぬ真への最大の啓発である点で、道家の理屈にとっては虚心坦懐の素だった。
 もし哲学界がなければ人間は機械化する。この道理は、なぜ社会では会話が成り立てるのかに明らかな教えを能える。会話できう内容はみな彼らが交換できる知識量の偏差か変異をもつ、という哲学規律の独自さにある。自らの魂を通してしか世界を観れない、これは理想の趣味観に全く次元や品位の異なる諸種ある自然界と人間らが共有する鏡だ。
 だが、亦どういう手順で計算方式を伝えるかには千差万別の傾きがありう。もし個性が差し挟まれる余地が、単なる時間内での励起された軌道をこえては連ならず、預言の懐をたくわえる自信に依る文化素運動状態でしかないがあるなら、それは鏡の輝き映えに計算量の徳目が織り込まれる効き目次第らしい。つまり詭弁への反駁方法も込めて誰かの批評や啓蒙の才に偏りがあるなら、違いは魂の深さが知識量の全般に亘る限界認識を他の個性より綿密に行ってきたかという反省力にもとづいている。共感した認知と内省した認知とはおもたる二分法で反省力を説き明かす。現代心理学によると共感認知は必ずしも他者理解と一致せず、思いやりといわれる一つの才能か習性をより感情面で強めたそれ。内省側は寧ろ己の念いを語るか悟るざえ。これらは限界認識に社交性の埒を填め、理性にとって極限値をきっかけづく。かくの埒は反省や顧みへ時代風紀のある色彩を浸しゆく。なお文化色は時代風紀の一端を担う。それは文明度を偏らせ、彼らの理性を、従って理想をも様変わりさせゆく。
 国家が最終的なしんがりとして最高裁判長を建てることは彼らが共有できる法規範内の最低限度の品性を社交界のあまねさと矛盾させない様にまとめる所以。ゆえ決して裁判制度は理性の上限を決めず、それは一般に風俗や風紀とよばれている地域なりの理想度が彼らの顧みる社交界にみいだすもの。啓蒙を法廷で行おうと試みる者は欺かれる。最後尾の最低限度規制は決して理性をでなく、適法の常識を彼らなりの反省力で繕う仕業を越えないから。説教師が職業化して教祖となる場合、啓蒙は信仰の吹込み乃ち注魂となる。だが啓蒙がもと否定できる余地への開かれたもてなしをんだわざな限り、この注魂は最も完成された啓蒙態度としての啓発(『論語』の意味から)や知らないふりより尊いものでない。反省力は最も理に叶う方針として教育なしの教育、或いは無言の感化を数限りない徳律の模範である絶えざる理想像へとかえりみる。神格化が相対精神のわざでしかないとしても、なお精神の格に度合いを設けるのは啓発らしさに及ぶ反省力の為。ゆえ精神量はあり、しかもこれは活動中の実在に渉る。アリストテレスが述べた理想状態の段階論は彼らの活動中にある、吹き込まれた魂の深みが因縁的に先祖代々の功徳に及ぶという因果応報の輪廻規模の有様を、古代すでに裏付けていた。インド哲学と世界化した仏教、そしてイスラム教義にみられる来世勘定の趣はこの上位概念。ゆえ慈悲を彼らの食物連鎖に及ぼした、快楽計算のベンサムに希な気づきとさせた生態経済論の考究は道徳面で正しい。

2010年2月1日

工学

共振式誘導電源を用いれば電車という形は一切の駆動系統の重みをなくせる。それはスクーターとよぶ方がいいほど。現状の電車で用いている電磁力の三方性(フレミング左手の原理)を電磁線の敷設かその害のないビーム状にした電波波動帯として、既存か新設の線路に通すと、このスクーターは車輪なくとも動く。
 もし最も合理的な輸送に的を絞れば、この電磁スクーターはいわゆるリニアモーターカーの敷設と同様に、重力に逆らえるある程度の磁力の反作用(積載がみこまれる重量分含む)の上で最小摩擦で運行すべきだろう。そして広域にその小型化が進めばかなりの幅の一般向け専用公道か、空気摩擦をほぼなくした疑似真空状(但し空気のいれかえはその換気口を駅ごとに要するか人工空気の浄化機構を積む)のチューブ路線をピストン輸送専用に、地下や空中もいれて考慮できる。

頭数

似た人のいない世界は遺伝子より頭数が多い
個性発揮教育です集団で
昔の方がドラえもんもいい
投票日に一山当てる
旅ゆけど南国

経営学

商反応を伴わない仕事量は無視されるか過ち多い仕業であると見なす者はそれが及ぼすバタフライ効果をしらない。この蝶々さは任意の商系列についても失われない可逆性の源が、自身の遺伝系統に引っ掛けられた文化素のゆたかさ也と教う。商空間の取引高は仕事量で量れる。この量感は違う系統を伴う情報量を元手にしているから、特定の仕事偏見や文化差別化は商反応の密度に限っては偽か矛盾。
 商系列の概念は現代経営学の内もっとも使い勝手がいい。面白い文化素は、情報量の珍しさに基づく商系列への違和能率にあるといえる。つまり経営学知識の中では商系列の幾つもの重なりあいを実現させる手法が、又その敬われるべき由来が取引勘定高をただの確率論でなく引き寄せる重きを置くべき訳。
 商系列の複合法則は、数学的に説明しきれる。幾つかの商空間内で最も由来のよい、つまり仕事量\情報量の単位時間質量が高い程その取引勘定は他の顧客利率よりも常に高い。
ΔE\ΔI∫[0→t]d(t)M‥取引勘定高
E: Energy
I: Information mass
t: time
M: Mass
この値を商空間内で高める事はそれが経営手法の誇示にとってさえ重きを置くものと知らせる。大物の連動はその他の企業生態にとっては啓蒙的。

政治学

最もはじめに地上の政権を使い出したのはルソーの説によれば土地支配を思い付いた個り。が、土地支配の観念は植民地の原理と同じく暴力を伴わねば不可。ゆえ政権の正当さは起源への沈思を試みても決して神権概念の建前では語れない。ロックの市民政府論の反駁はこの面で正しく、より現実にみた地上権力の据置きは土地独占の暴威を許す特定の族の発生に同じ。
 空中権や地下権はもしこの族観念を引き込めば同然の結論として、国家の強化につながる。ゆえ権力の据置きは起源を忘れる時まで結局どこかの族を護り手に指摘せねばならない。でないと防衛費負担の微分は日用品改良の歩みを妨げる家政摩擦となる。これは経済淘汰的なので政治界の眼差しでは無視できる。国家覇権の原則は族観念にとり過程。国家は族観念を前置きにそれを複合化していくしくみ。
 国連同士の、星外秩序との関連の前に、国連統治は次の順序をとる。それは星内で実現の為の覇権国家とそれ以外に地位の奥行きをある程度とる。もし星外との折衝がそれ以後かなりの間おこらなければ、この国連順位には国際関係内で覇権国との協調の良さがおもに当たる。そして国際協調は国家相互の支配と従属を一定の手順で合理づける。もし国家主権の厳しい手続きをへてこの譲渡が起こるなら覇権国家が圧倒的地位を確保できねばならない。
 国連は星外折衝にとっては、革命が起こる緩さを結局まぬがれない。ゆえ国連自体から星内主権の放棄が起こる確率そのものは低い。但し、もしジーザスの先見の明が正しいとすると、巨大文明との折衝ではもてなしが善いほど生き残り易い。この点で、国家主権は手段であり盤石の覇権やその過程に向けては手続きと言える。
 全て国粋思想はそれが防衛論の中で語られてこそ意義をもつ。逆に、襲来してくる外敵がない段階でこの無粋な考え方に意思を注ぎ込む者は風変わりなばかりか断たざる進歩への認識不足のゆえ迷惑係となるかも。原理主義の有用さは言うまでもない。それらの保守思想の真髄は最も消極的な用法、つまり危機に及ぶ否応なき防衛上の民心統一にある。将軍や武権が普段から猛威を奮うのは従って誤りか、一部の社会場での習慣づけ已。彼らは一括りにできる職能集団をやがてつくり、又この広がりは限定されねばならない。永久平和が理想論でしかないと語れる余地ある丈この防衛階級の自重は一定の慮りから保たれる可で、もし一切の危機がありえない理想郷を想定できない限りはそうなる。
 裏をかえせば、平和な治世にあって最も原理主義的な極度の国粋論を鼓舞したがる者は徹底した説得と批判とでその権威を削がれていい。これは誤った方向付けで部分的な団りや個りの足を引っ張らせない為に。専門職視が進む程、一般の民営人とこの軍事人との郷里や意図は違和し続けるだろうから、彼らに同じ埒を設けるには行政官による厳格な指揮の定式化が必要。この枠をこえた暴威の行使には全て適した刑罰が要る。
 自由主義は財産調整への最低限度の介入しか認めないと勝手主義、libertarianismに代わる。この原則は結果と機会の不平等を他者間に正当化する。だが、勝手主義は政治参加の自由さえ認めないかそれを抑えこむと国家への破壊につながる。もし勝手主義を調整的正義の制御なしに放置すると、必然に内部の徹底不満分子による恐怖政治への転化が生まれ勝ち。もし勝手主義が使えるならそれは何らかの緊急事態に際しての選良独占資本の行使を正当化する一時の方便として。でないとこの継続は当然ながら大多数への抑圧が社会不安の増大として現れる方へつながる。
 政治行為はおもに商覇種の独裁化を群れの論理で調整し直す為のものだから、自由主義の逆用で配分のみを義とみなすとか、悪巧みをくんだ原理主義が共産党独裁への内示に使えるとかこういう資本主義経済の基本秩序を乱すなんらかの非本質な政変は、みな退歩を免れぬ。つまり、覇権国家との折衝の縦横無尽な策立てでは族の政治行為が資本主義への累進徴税の旨を、一定の話し合いで納得できる額へ決めることこそ本質で不可欠。そして各種の政変は、この旨を決めるのに何らかの不合理な慣習がまかり通る場合のみ、その歴史の目から正当化される。但し、政治史は急進派をはらむ犠牲への慚愧の念で処する。これは理由のない正義は別の正義、要するにより知識量の多い側の正当化の規則集合へと繰り入れられるという弁証法的実践過程あるいははかりの組み上げの謂いだから。歴史家が微笑むのは、それが後発の反省点をあげつらう所にまとめられゆくゆえ比較的穏健な正義感を、進歩への一般にあるかあるだろう社交傾向と一致させた集団へ。要するに、社会正義は度合いで、しかもその実際の評定は有利不利の原則を状況改良への切っ先として実現した部分形にあてられる。だから個人か最小集団となることは必須で、これは総意が得にくい群生か民衆となればなるほど難しくなる。議会制政党政治の合理性はそれが際立った個人を単位としてでも改良点を付け加えられる面に。いわゆる独裁制度や猟官制的官位をかしづけたがるたぐいの革命派社会主義ではこれはかなり難しい。

地政経済学

福祉国家論が閉鎖社交への条件づけでもありうる事は社会民主か民主社会の修正主義思想による国家への累進規制よりもなお強い。福祉国家は税収を国営の議会会社:ギカイガイシャへと貯めおく。ゆえ経済界にみれば、国営機関が重たくなりすぎ、投機衝動を冷え込ませ易い。
福祉国家が現実にかなり根付いているのは寒冷圏の社会である事、これは結局、閉鎖社交への潜在欲求が彼らに経済伸長や技術発展よりも不動の体制を尊ばせ勝ちな所に。
 地域分権への指導は、もし資本主義の精華を最大級の生産量へと鑑みるつもりなら斯くの地味分岐も考慮されていい。抑かれらには資本思想は文化適合的でないかもしれず、勝手主義の頒布さえ迷惑や福祉の旨と矛盾するかも。つまり資本給の分配はそれを許容か選択する族の自由だが、決して普く推奨したり、独善視もできない。そうする者はやはり悪習を風趣への微分という認識で理想できるほど賢くない。

成るほど以上の論旨から次の理屈は引き出されるか。
もしそれが地域の資本運営や投機と発展への意志を多く削ぎ落とすとしても、地域分権の裡:うちわけには経済体制への嗜好自体も多くの可塑性を加えられる可だ。そうすれば地域間や国政間の体制矛盾、たとえば裁かれる品性の埒や教育への共有負担率なども経済状態と郷民の満足できる妥当点をみいだす規制へ宛がわれる。
これは「地域経済体制の分権」は地味率が合理的にもっている地政の特殊解を抽き出だし、夫々の相互参照と広域に亘る中央法の枠内で可能な最大の地方競走論が展開の巧妙さと最終的な税収による調整後の豊かさにとっても現実的であると示す。要するに、足を引っ張る郷:くには取り敢えずおいてきぼりにしても全体の税規範に一定の累進税率が及ぼされれば、金融に於けるくみこみ振り子の原理のため決して一地方が破滅したり治世上陥没することはない。

物理学

ロジャー・ペンローズによるねじけ理論の空間は、二方向性か双対さを含む故に複素空間の虚時間が十分それ自身に内部化されておらず、この点で七夕宇宙の創製にとっては未知時間を設けられるにすぎぬ。それは型としては庸視世界の体質を言い訳できる故に説得され易いものだが、虚時間は別の宇宙系との折衝の喩えだから、拗けさせる意味はない。量子概念と時空概念の間に同じ運動法則が支配せねばならぬ訳はない。それは微化学と天体物理の間には規模の論理が働くからだ。それらを同じ法則にまとめる必然性はどこにもない。西洋物理の近代性は絶対法則を信仰してきた様だが、全て論理法則は比較的な精確さを穿つだけ。それらは現象の比喩だが代数学記号のあてはめにすぎず、抽出して概その予測をできる仕事の機能。
 拗け空間は双対性の当て方をホーキング流の虚時間概念に付け足したものだが、双対性は実在せず、複素数面と同じく数学上の空間量としてだけ定義できる。つまり拗けは天文にではなく、寧ろ数理に貢献する概念だ。カントの純理を冷静によめば四次元超過の世界構想は理性にとっては無意味だと悟れる。それは理念界に及び、感覚では認知できない。だから数理型として推論と計算の結果消滅する項としてなら使えるが、物理概念にはできない。実証できないので。時間の停止を暗窟の特異点へ宛てると、虚時間はそこに落ちた現象の行き着く情報場であると考えうる。情報の洩れは暗窟が分解する秩序をほぼ完全に平坦な時空へと還した時に発生する。そしてこの情報量は既存の空間内にあった有機段階による。もし無機物が落ちても、それはかなり瞬時に引力場の元々あるべき平衡さへ還されるのに手間取らない。なぜならそれらの結びつきは情報量として単純で、引力収縮による圧縮でもほつれをつくらないだろう。殆どの有機物はほつれを起こして情報場にある偏った波紋を投げる。これは虚時間にとっては
A=R-c‥秩序ほつれ
A: 引力場の地平面積
R: 宇宙半径
c: 当光速
の中に
ι=p-t‥虚時間の場合の数
が、
A×Σ[n=b, n→n+n!](n)ι
n: 有機体の出現率
b: biomass、生物量
の数だけ引力との取り引きで後退する間に、空間量の中でその潰しが行われる証。もし実験でこれを確かめるなら、単位細胞を有限回の虚時間試行としての強い引力場へ落とせばいい。その結果、消滅した情報量が再び外部へ平坦になった空間、つまり拗けのない量子衝突効果として弾き出されるか時間通りに再び出現するかでこの虚数の地平が計算上妥当かどうかを調査できる。もし試行が、ある時間後に現れた以前と同じかその過去を移した情報量が示されることを明かすなら、この虚空理論は拗け空間は実在するのではなく、時間移動の基本公式であると考え直すのが実直だといえる。つまり感覚直観によらない間としてその複素数をあてた空間概念を、流れる時間の無視によって理解できる。