2010年2月8日

経済学

人類が流通業を営む誘因がある限りそこでは商誘因が過半を占めるということはほぼ確実視してよさそう。私はかつてこれを疑っていたが、大多数はつねにより労力の少なく同時に多数派の流れる道へ流れるという人類生態の法則を省みなかった。取引勘定の上はねだけでくらせる条件づけがあれば、大多数の人類はいかにも普通でない個性でなければその暮らしを幸福と感ずるだろう。
 だから人類の改良、この文明化を考えた者が昔ながらの命題としてきた懸案には次の技術がいる。まず流通業の取引費用を時代が許すだけ最小にせねば。この結果、小売りと貿易という製造品の生産とはことなる、商誘因のもとを最大限に断つべき。しかし、無論これには家庭をのぞけば社会か国家の単位、最悪でも生協単位の小型の先鋭化が原則となるだろう。かつこの結果、大多数からの抑圧としての商形質への偏った淘汰の現象、という普通化への潜在的社会環境は捨てられ、以前より個性にとって暮らし易く心安い世界を確実視できる。
 だから資本主義社会が最も公共財として高く、しかも手早くみつもるべきなのはその流通業費用の全面的な代替。これさえ解決してしまえば、奉仕産業の過半は自動化されても構わない領域へと急速に進展を遂げ、我々はあまり有徳でないらしい一部の特殊職へしか商業界に行われる各種習慣をかえりみなくなるに違いない。おそらくこの事実に先に感づいたクニでは流通業は公共事業として営まれ出すのがはじめは知識界での話題から次第に一般論となり、上述の原則にのっとり商誘因は徐々に社会の表から消えていき、我々が個性を大多数からの抑圧としてなんらかの非生産的で交換差額のさっぴきに由来した行動傾向へと無理にしつけるかしつけさせようとする大多数派の繁殖欲の理由は、そのもとから裁てるだろう。