大多数が少数の進歩か何らかの新たな変異を伴うときその自由へ逆らい、足を引っ張るか奇異の目で遇する俗性は、おそらく群れを伴う進化過程では絶対に免れない。この中途にある仕事量が大きいほど伴う反作用か足枷も大きくなる。ミルが自由論で論じた真実、この「普通でない」個性への規制は、恐らくその社会系が最も退化への誘いを伴うとき最大になる。もし彼が考えた様に必然さのもとにこのしくみが慮られるなら、我々は連続的退化をその社会系の現れうる形質の固定化と呼べるだろう。そしてこの結果は、一般の僻地への適応に伴う環境収容力形態への変異を最も有力なそれとしていくだろう。
ダーウィンが人間の逆選好の可能さを示唆していたことは、我々が今日で幼型化として知る一定の変異の向きを、上述の僻地適応の姿に顧みさせるかも。が、社会系で最大の過疎化がこの幼型さのうちに見つかる場合、それは実際、天敵の免れによる自己僻地化作用が彼らの選好みに働いた結果だとも考えうる。そして両方の理論の巧みさをより適当な順位に並べかえるなら、幼型さは社会系の自己僻地化が寧ろ彼ら自身の生存戦略上で有力になった一地勢の必然を指し示すにすぎないだろう。全ての人類から別れた種がこの系統を辿りもしないし、普通でない、何らかの並外れた変異が幼型さの外側へ保たれる為には常に組織化の複雑な選好の重なりをその非僻地部分へ推し広げていなければ。
この自己僻地さは、実質的には強い天敵の免れを連続した一定の世代と交配関係間へ保ち続ける度合いといえる。この度合いが高いほど、社会では並外れている幼型さをそのかなり初期の侭で維持された文化計画の極度に完成した能力へと一種の選良を図れる。そして一般に、彼ら自身の社会ではこの才能は、大多数の及びえない生得的形質として天才と名付けられること屡々。だから生態論の目からみれば、天才とは社会か文化上に将来の有用さを用いる能力を持たせた大きな普通でない幅で、一息に達した個性へと後発的に問われるもの。
自由論が生物知識の上へ社会系の可塑さへの推し広げとして推し測らせる認識は、この種の個性は常に大多数にとっては未知か不明なので「他に対して変わりなしとすれば放任すべし」という自由放任の原則を、単なる選種誘因の面でさえ最善とするだろうこと、乃ち自己僻地化さえもし種の新設の場とみれば、大宇宙のわずかな隙間で行われる一つの傾向にすぎないだろうから、それを最高視も敷衍の正当化もできない事実。仮にこれを行おうと、常に他の系列から疑似同位種が生まれ彼らの属した適所をある段階からは支配するかも。ゆえ社会進化論が学習行動の幼型的延長を一つの理想図とすることは決して不動の生態原則でないと理解できる。つまりこの分岐は部分的でしかも地勢によるので、希な進化を生み出す以外の理由づけはできない。もしその新種が、大多数の旧人類への非天敵地位を獲たとしてもなおそうだろう。