2010年2月10日

国家経営論

経済の繁栄についていえば、印度社会は想像よりその方向へ伸びえないと私は発見した。この理由は、勤労によって繁栄する為には、実は「ある過ごし易い温帯」が前提となっていたことを先進国の民族が見逃した所に有る。
逆に、この条件へきわめて理にかなっている沿岸部の中国圏は、間違いなく繁栄する。但し、おそらく内乱によって現状の統制主義独裁から一般的な資本か自由主義への政策転換があってのちだろう。それまでは潜在的繁栄の土壌は放って置かれる。

 印度やそれより西の諸世界(中東とアフリカ)では近代化を、もし先進国の今ある水準に果たそうとすれば、かなり別の対策を考えねばならない。
勤労するに乾燥か湿潤すぎるとか熱帯か寒冷すぎるとかで好ましくない環境では、機械か会社組織の業務時間を特別なものにさしおき、できるだけ勤労による所得分をへらす向きへ努力した方がずっといい。だから観光立国は、古代遺跡のあるその周辺の土地では全く合理的といえる。

多くの先進国型の経済学者はこの風土差を十分みる習慣がなかったので、所かわれば人かわるという諺のしくみを単に、産業の機械化のレベルでしか調べてこなかった。この種類の雑すぎる植民地経営はだから、単なる産業の合理性の面からかえりみても過ちだったのだ。
 さらに、つぎの観点が文化人類学などの課題として近年自覚されつつある。
 それは産業革命による西洋初の近代化経済体制のみが、余波も含めて、最も正しい社会発展の方向づけではなかったらしいということだ。原則としてこの「近代化潮流」は一部の温帯へしか定着しなかった。民族の性格も慮れば、そのうけいれ方さえ、先進だから即すぐれた文化を達したとは必ずしもいいきれないところがあった。(公害問題や再開発の必要、脆弱な都市基盤や環境破壊の報い等々)
要するに、近代化への反応は民族の個性に従う。そしてこの反応には優劣ではなく、単に違いしかない。この違いは地政史として民族がどう考えて到来した異文明に対処したかを雄弁にときあかす。
そして近代化そのものより希少で、詳しく研究やそれら態度を尊重か奨励されるべきなのは近代化へのこまやかに違った対処にあらわされた「民族の独自な個性」である。時間さえかければまねできる機械そのものよりこちらの方が貴重なのだ。

 惑星文化圏として地球をみれば以上のことはいえる。だから国連内で経済力を地位とひきかえにする様な考え方は、遅かれ早かれ失敗する。さらに地域連合の発言権としてみたときもこの原則、つまり「主権の富との分離」は次第に主張されはじめやがてみなの常識となるだろう。
 もし日本規模の外交権へこの原則をおろしてくると、かつて彼らがなしていた鎖国経済というあまりに特殊な考え方を、ある時代から先へは再び、(だが今度は適度に)使いこなしていく必要性がどうやらありそうだ。
というのも、今は国連参加国のほとんどは先進国水準の経済発展を当然すぐ達せる目標だと信じているとして、ある段階からは不可能さを悟った諦めと悲鳴、そして恐怖政治に最後の希望をたくす塊になった足の引っ張りあいが必ず起こりはじめる。
(風土差を無視した議論では決して地域ごとで大幅に片寄った勤労量をカバーしきれないのだから。主要産業の機械化をなしとげるのは、しかも国家を撤廃せずに進めば当然、先進国が先となる)
この時代に及べば、いくつかに分かれたセクトとなった地域連合は、まずその中での自足できる経済規模を満足とみなす方が穏当だと悟りだす。
そして代わりに、国連議決でODAその他の援助額を税収の累進制度にひっかけて多くの先進国へ、おそらく所得順に科すしくみを求める持たざる派閥が多数決で勝ちを占める。(但し、中国は覇権的な経済規模の潜在性をたもつため最後までこのしくみへ反対するだろう。巨視的には地域連合の周辺や内外でのいざこざか、歴史的経緯としてこれをも事実上は無視できる)
 従って、この結論がみちびける。
 日本は外交上ではやがて鎖国経済を再び考えに入れたくなる。その方が独自の発展にとってよほど理に合うのだから。けれど急進的鎖国への転回は、いうまでもなく周縁圏へいらぬ波風を立てることは免れず、国内的にみればこういう行動を好むのは九州圏とその周辺の郷民性だけだ、或いは推しても彼らがおもになるだろう。
 私はこの予測から、できるだけはやく共に行動していくにはあやうい九州、四国を行政区画として最低でも本州からおのおの分断するか、それを前提とした地方制度のある程度の切り離しを先に行ってしまった方が好ましいと思う。
それは勿論、国連で様々な累進課税的な施策が議論されはじめる前に。
なぜかといえば、日本国民ひとりひとりの勤労による所得を我々自身へ還元する、という『努力の報い』をあまり立派でない人々の悪巧みの横領から守るには、その財産をできるだけ安全な、土地から動かせない固定資産へと両替してしまっておくほうが得なのである。少しなりとも恐怖政治による横取り派へのおもねりや妥協をしてはならない。
もし将来世代も生きていく文化環境への深い慮りからの両替なしに、急進派のいう通りにいままで積み重ねた多くの資産をいきなり我々自身のためだけに使うとでも宣言してしまうことになる(鎖国思想の国内向けテロリズムによる実行で)と、確実に日本人は守銭奴の金満家という汚名を国際的にながらくこうむると断言できる。
もし私の意見に少しは合理性があるなら、それは損得勘定のためではなく「勤労の意義を世界へ模範として示す」ための財産の維持は政治道徳とも一致するところがある、という国家経営論の部分だろう。この国家の財産は今のところ全国区で一まとめにされているのだから、今のところは急進派もふくめて、国際社会内でのよい意味で適切な身の処し方を考えねばならない。

もしいずれ連合間鎖国的な体制をとったとしても、現状の財産の片寄りは実質的な努力の差なのだから、それを煽情的なテロリズムによってまぜかえしてマルクス主義的な一切平等段階までばら分けてしまうよりは、勤労に向いた壮健な郷民が比較的多い地域へとこの固定資産の還元を行うのが正道だ。総合してみればだれもに還流してくる資源の量もその方が豊富になり、生活程度も改善されゆくのだから。
そしてもし私の予想の通りに九州圏の急進癖のため彼らが追ってくる中国圏への訳なき対抗心に燃えて急ぎ足の鎖国実行をあるとき主張しても、それ以前に切り離しが行われてさえいれば悪評を買うだけの恐怖政治支配からは本州の大部分の日本人を救うことができる。その時は彼らだけが道理のない急激な鎖国を行い、過激な排外思想で産業体制等を攻撃型軍備へと用いる筈だ。
けれども本州にある殆どの国家資源は勤労者自身の暮らすまちを今よりよくする為に用いられ、彼ら転覆主義者の無茶に主張する様な、善意の途上国という生まれたての赤子を脅すがごときあしき敵対的戦争費用には決して使われずに済む。