もし哲学界がなければ人間は機械化する。この道理は、なぜ社会では会話が成り立てるのかに明らかな教えを能える。会話できう内容はみな彼らが交換できる知識量の偏差か変異をもつ、という哲学規律の独自さにある。自らの魂を通してしか世界を観れない、これは理想の趣味観に全く次元や品位の異なる諸種ある自然界と人間らが共有する鏡だ。
だが、亦どういう手順で計算方式を伝えるかには千差万別の傾きがありう。もし個性が差し挟まれる余地が、単なる時間内での励起された軌道をこえては連ならず、預言の懐をたくわえる自信に依る文化素運動状態でしかないがあるなら、それは鏡の輝き映えに計算量の徳目が織り込まれる効き目次第らしい。つまり詭弁への反駁方法も込めて誰かの批評や啓蒙の才に偏りがあるなら、違いは魂の深さが知識量の全般に亘る限界認識を他の個性より綿密に行ってきたかという反省力にもとづいている。共感した認知と内省した認知とはおもたる二分法で反省力を説き明かす。現代心理学によると共感認知は必ずしも他者理解と一致せず、思いやりといわれる一つの才能か習性をより感情面で強めたそれ。内省側は寧ろ己の念いを語るか悟るざえ。これらは限界認識に社交性の埒を填め、理性にとって極限値をきっかけづく。かくの埒は反省や顧みへ時代風紀のある色彩を浸しゆく。なお文化色は時代風紀の一端を担う。それは文明度を偏らせ、彼らの理性を、従って理想をも様変わりさせゆく。
国家が最終的なしんがりとして最高裁判長を建てることは彼らが共有できる法規範内の最低限度の品性を社交界のあまねさと矛盾させない様にまとめる所以。ゆえ決して裁判制度は理性の上限を決めず、それは一般に風俗や風紀とよばれている地域なりの理想度が彼らの顧みる社交界にみいだすもの。啓蒙を法廷で行おうと試みる者は欺かれる。最後尾の最低限度規制は決して理性をでなく、適法の常識を彼らなりの反省力で繕う仕業を越えないから。説教師が職業化して教祖となる場合、啓蒙は信仰の吹込み乃ち注魂となる。だが啓蒙がもと否定できる余地への開かれたもてなしを