2010年2月15日

現代経済学

福祉国家論か福祉主義の社会思想は、それが先ず閉じる傾向のつよいクニをつくる所に注目されるといい。福祉主義はマルクス主義風の平等観には全く関心をよせないが、商業道徳を批判しつつ公共財を政府の力で裕か;ゆたかにしたがる。ゆえ福祉主義は常に税率を高く設定しなければなりたたない。
(なぜ20世紀後半にイギリスの政策がこの向きを改めたかを問えば、それが国家間の競争状態の否定か誤認らしいと覚ったから。)
福祉主義政策では、ある程度の階級平等観をも否定せずに議会の中で大きな貧富差は修正しようとする社民主義または民社主義よりもさらに税率が高くなる。そして税は国民が払うので、もし貿易をつづけながら福祉政策をやりすぎると、今の自由貿易前提の世界で当国民は他のクニよりも次第に(箇所々々での所得面で貧しくとまではいえないにせよ)みすぼらしくなっていく。
これは立地や取引の関税が、国連やとある世界ルールで決められていない間は誠にさみしくも全く挽回がきかない。乃ち慈悲心からの調整込みの眼差しから言っても、大多数の所得へのえり好みが残っている国際場では資本はつねに雪だるま式に殖えつづけるが、自由貿易環境である限りこの流れには誰も逆らえない。
もしそれを大袈裟に行う者がいても確かに、途上国世論の一部からの少しの同情か注目を除けば彼らは世界資本に、クニもろとも翻弄されて終る。だから主導権のありかをとえばそれは資本量にこそあり、我々や人々の想像を超えこの威光はまだ同じルールの敷かれきっていない世界戦略の中では間違いなく最強らしい。

昔から言われてきたことも含むが社会の中の個々人にみたとき、次のわずらいは資本主義の発想下にある。それは貧富の差のみならず、需要が大多数のうえにある限りは商品取引が他の素朴な品物を追い拂う危うさが高いと。そしてこの類いの商品経済の浸透した場は、歴史経験上、文化の大衆化を誘ない何れ品位に欠けゆくのではないかと。
この問題への改良法を、我々は今まで自由主義:リベラリズムと呼んできた。このliberal(すなわち寛容)への許しが残された社会の方が、あまりにがめつい資本制度への鉄壁の遵守よりは国民の心身のゆとりに働くのではないか、という指摘は一部正しい。
 だが、この傾向が行き過ぎて勝手主義:リバタニアニズムとなれば話はかなり違ってくる。Libertanian(すなわち勝手者)の限界は、国家思想をなぜか否定して話を進めたがるところかも。この否み;いなみは大多数が一時犠牲になったとしても、一人以上の商進歩が果たされれば他はいずれそのお下がり産業化で救済されるだろう、という楽観にもどる。
ゆえ、まとめれば、自由主義には資本主義思想の過激すぎる側面、つまり商業道徳の正当化を避けさせるある程度は望ましい動機づけが余される。だが勝手主義には、個人への優遇の行き過ぎた面が免れず、クニ単位でみればこの傾きはある程度より長い期間では卑しみや蔑みの対象となりがち。その急ぎすぎた進歩のてだてはかなしくも後輩の目からみて、彼らみなの模範に足るほど有徳ではなかったのだから。

 以上の議論から導ける最も進歩的な立脚点がいえば、最新の経済学の成果を最初に実現へもっていけるのは資本量に恵まれた、ある面ではそれに恵まれすぎた社会であり、でないと決して新しい技術はすばらしく広まる動機づけをもてない。
この技術がその段階の商習慣とできるだけ近づき、くらしの進歩と改良が喜ばしく麗しい未来への約束だと信じている人々の権威がつよい丈、この社会では実にクニ単位の自重によって浅ましい商いへの抑制因が働く。
より具体的にいいかえると、クニが望む程度に応じた商道徳、これが最も進歩と品位のやまざる矛盾への解消点にふさわしい均衡。そしてこの値は、およそ資本量がクニの内に留保として蓄えられているほど大盤振る舞いか見栄え;みばえのよさへのえり好みとして、高まる傾向をもつ。
(もし同じ位の製造品を揃えたクニ同士でも、急いでそれを捌く生活費用からの圧迫感に迫られた個性と、飽くまで余裕の範囲での冒険なので仮に捌ききれなくとも社員への格安の提供や地域や慈善団体への寄附など幾らでもより麗しい秩序へ途:みちがひらけている個性とでは、行いの風儀に違いがみられる。これは経営学での銘柄論かブランド論を作りつつある。)
 進歩せねば追い抜かれて地位を脅かされる、という潜在的なあやうさの誘因は植民侵略の時代に造られたものだろう。もし世界のどこかに全く帝国主義征服戦の傷痕をもたないクニがあれば、彼らは外国人へ生態本能をこえた分はなんら警戒心をもつ理由がないかも。
進歩の考えはダーウィニズムを社会進化へあてたスペンサーなどの思想家が吹き込んだ毒だが、又それが「自らの道をゆく」自主的進歩とずれなくひとすじにまとめられれば、害のない普段からの文化活動への努力因かその為の強壮剤として、体面にこだわりすぎてきた矢継ぎ早な今までの外からの近代化とは違った趣をとるだろう。
 クニを単位にした資本主義から勝手主義論を見直せば、というのも全てのヒトは今のところクニに住まうほかないからだが、『留保資本主義』は他の一切の資本主義の傾きよりも優秀な銘柄の誇示に有利であり、それは自らのクニだけの満足をめざす固定資本主義の蓄えよりさらにより進歩的である。なぜならば、法人と個人とをとわず留められ保たれた資本量こそ、クニが他の貪欲な国々の間にあって自ら独立した品位を保つ今日での原因となるからだ。

流動性の罠と呼ばれる流動資本の値動きは、蓄えられたその量よりもずっと、取引額とは些細な問題か若しくは間に合わせのしくみであるとしらせる。動き続ける量感は、既に倉となって増大しつつある蓄えよりも(近い将来を少なからず暗示できる金利生活者が許される経済環境では)常に、かつ明らかに軽いだろう。
 
もし固定資本のみに蓄えの道をみいだせば、なるほどそれは次の世代が再び使える何らかの用途や景観へと自らの世代の流れ動かされ易い財物をかたちをかえてさしおくことになる。すると一般に、固定資産化されすぎた資本は勤労の習慣を失わせ易い、という負の側面も或いは大きくなってくる。
所得への過度のえり好み誘因はこういう貴重な財物の蓄えられすぎた場では(但し、私は環境論の時勢からも和風芸術観からも「自然景趣への保護」だけはこの冷ややかな分析から完く;まったくにとりのぞくつもりだが)、我々の一切をおのれの分の仕事から新しい存在へと進化させゆく独創性よりもあまりに高く見積もられてしまう。
すべての進化が望ましいとは考えにくいがなおあきらめの退化よりましなのは、絶滅への可能性を幾らかは軽くしていくから。

 これらを省みると、現代経済の中で蓄えられるべきものはクニの単位でみた内部留保率そのものであって、決して未来への真の投資になるとは限らない固定資産化へのえり好みではない。そしてこれは比率の問いなので交換価格にみた、いわゆる世界貨幣制度の中で営まれゆく債権の蓄えを最も訳あるえり好みへと据える。
かしこさに鑑みる有利不利の差を将来世代へつらなる国際社交界での評判の内に見抜くなら、「持てる資本の量」こそ真実にそのクニ柄が他の生態よりも優秀であった印しとして確かだ。