2010年2月10日

世界計画の見方

地上の法則を世界精神論として捉え様とした哲学はその範畴を地上論というのが妥当。もし宇宙に精神か知能があっても、それが地上の法則をもつとはいえない。似る可能性さえ十全でない。要するに、法則の感覚は人間原理を免れていない。地上論としての弁証法は脱構築の結果運動であり、それは宇宙の中では地球型の人侖に還る。ゆえ世界精神は地球世界のそれ、と再定義できる。
 対して宇宙内に幾つもの道の変異があり、それらの関係は何らかの運動法則を担う。が法則思想は原則、人間原理の地球型を十進法内で保つので、又数理の基本も現代迄にこの代数式へ叶う形を備える。よって理念法則の最大理由は代数学にではなく、幾何学に求まる。三次元内の視覚ではこの法則外への存在法はない。
 理念法則の地球外規則にはいくつかの改めた前書きが要る。その順序は現世弁証法、来世勘定論、系外倫理観の三段階をおよそ践む。これらは論理の集まりが系の中で個性、団性、群性の共有性を一定の生態構造に引き込むゆえ起こる。つまり地球外規則の築き上げには定まった必然的段階がある。
 理念法則は地上論を何らかの手順で脱構築していくべき途中にある。もし来世勘定の段階を調った理想に思えば、系外倫理は相対精神がつくる互恵制度の躾に還る。なぜなら理念界はそれらの理想を規則立った倫理法則の築き上げへと用いる所にあり、もし逆を行うなら現世弁証法による解釈界の輪廻へ戻る。ゆえ理想が相対精神の系外関係論への導きや立証へと向かうのは必然。地上論の合法さは確約しきれない。もし全天上界の法則を理解すればその細密さを標準化できるだろうとも、相対精神の額づきに神格との隔たりがみつけうる地平ではいうまでもなく、全生態の共通規則は生物界の経済原理に叶う弓なりに返る。地上論はこの道徳性を生態規則の分解量に省みる已。仮に地上論の限界がこの生物界の中にある分解比率に法るとすれば、道徳原則の合法さは適所の自然法則が許す一定の生産量を消費する群生に習う。ならこの法則の学習はおもに繁りばえの生態密度によっている。それらの縁起体が複雑なほど求まる規則も同じ。故宇宙論の範畴に道徳法則は文化生態学の名をとって繰入れられる。
 道徳規則を自ら造りつづける能力を合理化の資質に鑑みると、脳可塑性最大の種的利益は矛盾論の維持による絶対変異への厳しい規制にあるといえそうだ。もし宇宙規模にこの法則がみつかれば、カントのいう自然法則との共有できる真意通路としての神学は、それが全知への到達不能さへの喩えに適切だといった中世思想の後付けに過ぎないだろう。それらは相対精神による神話の再生であり、彼らの研究や思索に基づく想像できる未詳の説明なのだから。合法編制はつまるところ説得すべき神話への党派や集合変異に過ぎず、永久に唯一立法の主意は求まらない。この真実には主義間やそれらの混じり合いの運動論が含まれ、最も述べられる可な深慮の不動さ一般と同様、立命の真意は生態法則への参加能力の進化論的基礎に適うものとなるのだ。役者交替説の根本原理はこの相対立命への編制の合理性にあり、機会浮動を除けば全地位の変転は因果応報の理と全くに符合している。宇宙論の広域さに省察し、善意の主格は常に理念界の最高の趣に随う道を摂る。この蓄えは悟りの光にとって用いる手段の多元さへ寄与するので、合理性の着実な歩みは結果では安心の区域を生態的な定常観での趣きよさに適わせる。これらは、地上論は究極では宇宙論や天外論への過程でしかありえず、合理化の趣は業を理想度に換えるものとしらせる。もし最高の理想が、又それ以下か以外の全生態の構造に適している由縁があるなら、この理想の度合いこそ因果の絡まりをできるだけ見物にするという劇場計画にとって最適だから。観覧による感動の程度は彼らが世界を観る理想度による。神性と精神性が共有できる唯一つの性質は、知能によって或いは悟りの光によって世界秩序に見通しが効くということ、道徳観への梯子が無限に連なる階梯として相対的には見渡せる範囲によって同じくできるということだ。世界劇場は彼らに観覧の権利を、夫々の理想段階を見通す鏡として手渡す。そして個々人は魂つまり、遺伝された前世界からの功徳量に応じて宇宙を鑑賞できる。もし魂が曇っていれば世界は悲惨だろう。しかし明るい兆しが射しているとすればそれはよい見通しの為だろう。全ての趣味観は神からの学びによる。つまり自然や社会の全現象を何らかの意図に則り創った原計画者(もし国家が不動ならそれは最初の発見者としての森羅万象の名付け親となる最古の祖先と云われていい。その非対称さは拡大はせよ一致できないので)からの教えとして、考えによってその設計趣意を余すところなく授ける。
 良い考えはよき功徳を思い返すことによる。最高の祖先は又理想の上では比類なき崇意を万物が幸福へ向かう最も適度な秩序として構想しただろう。中庸の実践的善があらゆる場所で優位にまさるのをみればこの深慮が神ながらのものであり、世界劇場では最も穏健な行動こそ趣味観の理想に合うだろうことが明らか。理想立志の節は、健康への余念を生態的保安と一致させている。よって役柄にみた優劣の偏りは、結局に精神の粘りを趣味主義展望の必然的順位と殆ど誤りなく一致させる。この運命選択の必ずの勢いは、偶然とは単なる細部法則か確率論的ばらつきなこと、世界はこの偶有さを含めて必然性のもとに運営されていることをうべなう納得と共に理解させる。つまり考えのよさは世界を支配している設計済みの劇場を最も冷静な魂の上に見通す個性にのみ閃く。