人類の悪の現実さはそれが彼らの無知の度合いからくる、という啓蒙論の観点はいまだに社会批評にとって最大の重要さをもつ。もし善意志についての議論が現代版の正義の定義を問うという混沌をともかく回避してこの命題を突き詰めてみれば、悪とは無知の集積を何らかの非福祉目的へと習性づけてしまった行動形のこと。
悪心の実在論は殆ど疑わしい。人知の偏りは生得形質の発生初期から何者かの手で育てられるという生育偏差を十分に慮ってきていない。悪徳と呼ばれるその最低に堕ちぶれた形にしても無知の習慣を一定の迷惑さへと片流れさせ続けてきたそれでしか。犯罪行動を裁く現世権力は死刑の悪習も含めて無知である。しかし彼らは先に手出しをしない、という上手さの為に微差を利用して悪行を正当化している。民主主義の建前は議会制度への広い参加能動性へとこの責任分けを行うが、なお命を奪う若しくは自由を奪う権力は暴威の無知を彼らの非道さとして免れきったとはいえない。犯罪の定義は神秘を含まぬ。それは迷惑料を払う条件づけを出ない。同様に、悪の定義は決して決定的でありえず、それらは利害の非対称さを一定の公的手続きで正当づける合法の内部でのみ仮設された民の公約。ゆえ悪習が正当化されるかされてきた時代も数限りなくあったろう。もしこの行動を裁く合法の手続きさえとれねば、迷惑料は嫌悪や侮蔑といった心理の中でかとある虚構のやりとりで補われる。例えば欽定憲法の公約と議決憲法のそれとでは本来は役目を違える。前者は法律上許容量の何らかの国交員を規制する為に自ずと、後者は民衆の規律を自らの徳目と矛盾させない為に繕われゆく。迷惑料が彼らの間で一定でも不動でもないことは、外交用費を日用品の買い物と混同しえないのと似る。不文憲法では罪概念の可塑性は最大化する。
殆どの法典はその決定へ参与できる撰ばれた集団の知識量が、道徳としてみいだす最大限の智恵による。犯罪概念が設けられる時、この赦しに程度があるのは結局それを作った人知の啓蒙され方に適っている。
犯罪概念が可変であり、猶そのくみかえは議会の総意としてみつかる智恵の程度に依存している事は、罪悪が政治集団によって設けられる自由規範であるという迷惑料の最低限度説を裏付ける。この切符は法規範の現状性による上、もし多数の知識が以前より公民としての理解に及べば当然、省略される傾向下にある。