2010年2月7日

論理学

論理の直列さへの分析哲学からの成果は、それが主観による読み替えを許すという字体の間での定義されざる文化習慣を浮き彫りにした事。全て理想言語への試みは順列の無意識的介在を退けえなかった。厳密な体系への道のりは順列の法則性を秩序づける試みだった。同じく、主観からのその定義されざる隙は全て記号の用法の側にある。乃ち、記号代数学の平野は順列とその用法の規則づけにいかなる確立を行えるかの仕事に等しい。全解析もオートマトン上に載せるとこの規則通りに運ばれ、幾何学の全分野は数列の図式化にすぎなくなる。
 順列は表現に使う最小の規則を貴ぶ。造り数学もこの図式論の側面といいかえられる。計算は順列を特有の解法、つまり何らかの一定の繰り返しで満たす様な型、巨視すれば重複さの形式だから、最小の規則は図式論の中へも同様の方法をとらせる。ゆえ算術規則は造型規則の部分集合であり、かつこれらは最小の規則を共有する。任意の順列を最小の規則で方法づける論理、この分かり易い説明は実質上、全数学界を支配する唯一の基礎。ゆえ科学計画の合理性はそれを表現する道具立てとしての数学順列にほぼ補完されている。もし科学計画が進歩にとって十分円滑でないならそれは数学順列が十分に最小でない証。
 全数学は最も直観的には論理形式の順列の規則が特定の説明趣意に最大の可塑性をもつかで測れる。乃ち論理の合目的さはその侭で全数学の審美観を充たす。造り数学は論理記号の一々やそれらの並び替えにも最小則を忍ばせる。これらの現代性は、分析哲学的には趣味論への過程と見なされて然り。