2010年2月7日

稽古の真意

造型数学の結果計測は次の事象の地平を拓く。我々は数理原則を利用した理解を無意識に行ってきた限り、ヘーゲル式絶対精神論は最大量への信仰か実証論過程だったと。乃ち造型論も又知識か認識の諸平野を理念界への、亦は無辺への崇意で象徴してしまえるに過ぎない。もし論理式の、幾何学的図形論を示す特有数列秩序にみてみても、理念界は不明さへの言及びを指摘風に行える所にしか際立つ特長はない。ゆえ科学成果は認知の世界が歴史精神内にある限り飽きず部分集合たり連なる。論理の積み重ねを、精確な認識が程度問題に過ぎないという極限外の全知性に鑑みその誤解や、生態指向の合理化に基づき行う所の実践理性あるいは単に理性は、我々が知り得ない世界秩序を謙虚な侭に保つという一つの性格形成への訳ある姿勢だった。全知は理念かその中に含まれるありうべき信仰と定義されざるをえなかったかそうしてきたので部分知の個性を免れぬ全生態へは理念界以外の複合の基礎を与えない。乃ち生態論の合法則性は全知の比喩かたとえを逸れない。全認識は知る能力の深慮に念い観ると理念界の生態分析を超えない。
 哲学か智恵が産む全ての稽えは合理化の才覚に還る。ゆえ生態知識たる協調や友情の道理は常に後発的に造られる。認識能力がある限り、又この世界が個体を複数もたせる限りそうなる。だが智恵自体は友情以外を、協調性による生存確率や生存者への古の物語をこえて一切を恵むまい。自然法則にみた社会淘汰の理由は、それが生存法則の内部に育める群生を強壮さに限って繕う故に保存的と教えてきた。だから共通目的への奉仕が理に叶うと云われていいのは智恵自身の為でなく勝利への手段として。いわば智恵は手段であり、容易には見抜きづらい複合観念を標識として起てる作為で、それは彼か彼らよりも理性の分量に余りのない生態をまとめる効き目をもつ。いかなる群れにも理性は、そのかけらは見つかる。しかしこの程度は群れの指南に役立つ能力を保つ合理化の規則をこえては進まない。すると、歴史巻物の真実をこえては理性は、従って世界精神は伝えられない原則をもっている。つまり論理的複合性はそれを生み出せるほど得られた知識の他に余裕幅があった個人かその団りに属した個人の稽えであり、この目的は善意の程度を後生へ伝えること、要は意図された来世計画にある。ゆえ哲学目的は道徳と呼ばれていい。