さっきうまれて初めて気づいたが、都会に憧れている人達が「有る」田舎に「無い」と、わけのわからない二分法で、一体何を有無といってるのか、私はこれまで何一つわからず完全に疑問のままで、そして彼らが幼稚な二分法で何を差別してるのかさえ全くわからなかったのだが、商品経済のことと悟った。
私は商品経済、いやもっといえば商売なるものに何一つ全然関心がないので、完全に盲点になっていた。確かに私は新宿界隈で生きていたので周りにぐちゃぐちゃと売り場の狭い本店はあったが、逆に郊外の方が巨大で品揃えのいい実店舗が無数にあるのも田舎生まれで知っていたので、意味がわからなかった。
彼ら都鄙差別を二分法でやってる人達を、きのう機会があってある場所で観察したのだが、その人(関西のどこかの田舎の人)は商品や商売生活についてやたらと熱意を込め語っていた。一日経ってその人が言ってたことを思い出してたら、うまれて初めてわかった。ああこの人達、商売の中で生きてるのだと。
一昔前、エコノミックアニマルという言葉で日本人は揶揄されてたが、少なくともその商売猿みたいなものに、ほとんどの人達がほぼ生まれながらに完全になりきっているのだろう。年端も行かない頃から広告入りユーチューブでヒカキンみてりゃそうもなるなと。最近経費で浪費自慢しか持ちネタ無いので。
正確にいうと、その人達はまあ古代以来の皇室含めて、相当の愚人で、都鄙なんて濃淡があって大抵の部分は中間地帯の中小都市、田園都市、郊外、田園、田舎町、里山とかといえるだろうし、ほぼ自然だけのど田舎を都心部と、二極化して捉えてるのは認知力の低さであり言語知能の低さでしかない。
更には、都心は実は買い物には向いてないのは実際に暮らしたら分かる話で、満員電車で大きな物なんて運べないし買ったら送料かかる上に、地価が高いせいで都心の本店は売り場面積が狭く品揃え悪く高かったりする。隙間商店みたいなのがなくはないが、そんなの通販でも買えるご時世で余り優位性ない。
ではなぜその中華思想風の都鄙差別論者みたいなのがいるかだが、彼らからするとその些か単純すぎ、しかも悪意ある思考の型が、青い鳥症候群用に都合がいいのである。パリ症候群の東京版は、実際に都心で暮らさない人達にとって隣の青い芝生幻想で、実際に暮らしてる人達には身びいきな確証偏見なのだ。
米国でニューヨーク、ワシントン、シカゴなどの大都市部から中小都市へ人口流出してるというブルームバーグニュースみたが、恐らく地価・物価高騰や、治安・環境悪化などの影響と思う。所が日本でこういう動きはない。なぜかなら日本人全般はより認知力が低く、二極化でしか物を捉えられないからだ。よく都民でいるのは、田舎暮らしに憧れるといっていきなり北海道のど田舎、というより周りに店すらない大自然の真ん中に移住する人。しかも北国の環境を想定してないので、雪にやりこめられすぐ挫折する。こういう人って一言でいうと馬鹿と思うのだが、すぐ近くに田舎町があるのに全く見えてないのだ。その中間地帯の田舎町の人からすると、中小都市にたまに買い物か通勤通学には出るけど人多くて疲れて家に帰ってきてホッとするだろうし、都心はディズニーランド行くとか受験とか用事がなかったら雑踏なんてまれにでいいだろうし、かといって山奥も不便でキャンプや行楽くらいにしか行かないわけだ。然るに、この都民という存在はこういう田舎町的な「普通の田舎暮らし」を一切合切認知できていない。なぜなら中華思想の二分法脳なので。しかもその中間地帯の、都会のよさも自然のよさも味わえる中庸な暮らしの良さを、徳として理解するほど賢くないので、なぜか逆に侮辱して生きているのである。
そして冒頭に出した、恐らく都会度100~0でいうと20くらい(つまり田舎度でいうと80くらい)の人は、都会度30~70くらいの部分が盲点になっており、白黒どっちかしか認知できない脳なので都会度100には「なんでもある」とか妄想している。一体そんな都心部どこなのか、皇居の隣に暮らしてみろと。
一応、若者文化を考慮すると、都心部に一体子供が好む何があるかというとタピオカランドとかいう児戯に類するお上り搾取空間とかそんなもんと思う。さもなくばコミケだのAKBライブだの汗臭いチェックシャツオタクが戯ける異様な児童買春じみた偶像崇拝空間とかだろう。本気で。逆に隙間は大してない。こうやって考えてみると、中華思想は天皇と名乗っている殺人狂一家が大陸からもってきたとんでもなく陳腐な差別の二分法体系で、現時点でも生き残ってるのは完全に時代錯誤、いやそれどころかはじまりの時点から愚昧の極みとしかいいようがないであろう。都会の方が醜悪な点なんて無数にあるのだから。
唯一ついえるのは、日本人全般は大本営発表をうのみにするのはいうまでもなく大衆媒体の洗脳や、ネットで流布される他人の噂を丸呑みにする正真正銘の馬鹿が腐るほど多く、というか各国でのメディア信用度のデータや近現代日本史みればわかるがほぼ全員がそうなので、東京人に宣伝目的で情報汚染されている。東京人全般がもし賢明で、感性豊か知的謙虚、そのうえ道徳的な人達だったら、残念ながら冗談抜きでそんな東京人一人もみたことがないにせよ、都会なんてこんなに酷いんですよと現実を正直にいい、中間地帯の田舎のよさを誉めたろうし、北海道や沖縄の大自然を過度に賛美したりもしなかったろうと思う。
現実の都民全般は不正直な悪徳商人な上に虚栄心にばかり耽る傲慢極まりない衆愚なので、とかく東京全体を恥知らずに自画自賛しながら汚点を隠し、利己というより暗黒級に田舎差別しまくっている。まあそれも白黒二分法の極論で、大自然には観光地として魅力を感じているらしいが、唯の消費者としてだ。生活する側からしたら観光公害の原因の「観光客の哲学」とかいい頭ごなしに田舎を小馬鹿にしてくる、しかもけちでケガレた俗悪極まりない俗物都民なんざ一切きてほしくないだろうし、いいから地方交付税払って都内の会社の原発とめろよという話で、搾取が生業の東京商人なる存在自体、迷惑なのである。
我々は当事者にせよそうでないにせよ、福島原発を完全に他山の石としなければならない。私は震災も原発事故も現地被災者なんでまったき当事者だから、文字通り自山の石なんだけど。なんでかなら都民全般は観光地扱いしてくる自然をぶっ壊しまくって汚しまくって平気でいるのであって利己しかないのだ。
最初に述べた女。この女は関西のどっかだから、リアル東京都民の下卑た資質を何も身近にみていないのだと思う。まるでKPOPしかみずに韓国全部を分かった気になるみたいなものだ。まあそういう馬鹿を客にしてるから悪質なんだが、新海誠アニメとか、村上春樹小説とか。アマザラシは真実を語っている。
とにかく私はやっと気づいた。こいつら商売人だったのかと。だからやたらめったら商店街だのなるだけ背の高い事務所ビルが密集してないと「無」というのかと。私はそういう超高層ビルで教育受けたからいえるが、建物が高いと偉いと思ってるやつは建築について何も知らない奴である。なぜ超高層ビルができるかというと、地価の高い場所で容積率だか床面積を確保する為だ。つまりあれはケチってるのである。ああしないと建てるだけで赤字になってしまう、悪環境なので、無理やり縦に伸ばしている。だから構造的にも居住環境からも無理してるのであって、設計してみれば分かる話だ。私は建築の専門学校の卒業設計で超高層ビルやった。実際に設計した限り、超高層は流行らないと講師にいわれたけど、当時はそう思ってなかったが確かに、あれは商売のケチくさい要請でああなってしまっている代物なので、贅沢な建造物と思ってるのは何も知らない恥ずかしい輩である。事実として。結局、そんな無理やり天に伸ばして金儲けしたいだけのしょぼい事情の建物で、喜捨せぬ輩と恨みの一撃ぶちまれて倒れてもそれは自業自得といえる様なのが、特に旧WTCのミニマリズムの設計だったわけだ。構造的な冗長性が低い、経済合理目的で建てた、まさに拝金主義の悪徳の象徴。何に憧れるのか?
私は商売が嫌いだ。だから今日、ダンバー数までフォローする実験してみたらおすすめに表示されたかで一部業者アカみたいのがフォローしてきてたぽかったけど、対極だから真性商売人が自分をフォローするのは多分やめた方がいい。同じ意味で私は東京文化なるものに何も馴染めなかった。商売社会だから。そして10年くらい暮らした限り、私は東京なるものが大嫌いになった。なぜならほぼ全員が商人で、しかもどっちかといえば貪ることしか頭にない無能な悪徳商人で、ほぼ全員が全員天敵にしかみえなかったし、環境も物凄く汚くて到底暮らせたものではなかったし、風紀も最悪で特にいいところがなかった。
私が好きなのは何かといえば、主に芸術だ。しかも主には商業性や大衆性をもっていない、かつ、上品なたぐいの純粋芸術で、そうであるからには大衆的・商業的・ありうるかぎり低俗と3絵柄が揃っている東京文化の主流なサブカルチャーは全く好みではないどころか、ほぼ真逆だ。なので余計嫌いになった。気が合わない人は一緒にいない方がいい。人類は四捨五入して76億人ほどいるのだから、好きな人とつきあって生きてればいい。そういうわけで、その関西人女と私は全く馬が合わないに違いないので一切接しないべきと思うが、ここでは人間分析として書いた。
もう少し続きを書く。関西文化の分析だ。
関西地方は近畿と自称する自文化中心主義の権化で、彼らは古代から中世に弥生人として侵入してきた連中を中心に、朝鮮半島からの移民が入り、さらに先住日本人らとも若干混じって成立した。そこでの教祖兼権力者の親玉だった天皇が商業都市を作ったので古くから商品経済に馴染んでいる傾向もある。で、その関西女からしたら、商品経済が人生の大きな部分を占めているのは間違いなく、やれこれが安いあれが高い、都会にはあるがここにはないだのといっていた。私からみると商売上のやりとりが全部嫌いなのでその女の言動全体が地獄的で吐き気を伴ってみえるのだが、関西文化は東京文化に近いのだ。
サイト「都道府県別統計とランキングで見る県民性」の類似都道府県をみると、東京は寧ろ首都圏北部より関西圏に似ている。実際、都民は自分を関東人と思っておらず、東京を別格の地方でない場所と中華思想で言い繕っているが、普通に関東地方なわけだ。京都人が関西地方蔑視するのと似た虚栄心である。で、この関西地方、特に京阪神と東京圏が類似な原因は何か。江戸期に家康が大坂商人よびよせたのに由来していると思われるが、商業地としての性質であろう。まあ一言でいうと商人気質の集団。それで私は全然肌に合わなかった。私はそういうこすっからい連中が悪徳の塊と思ってるので避けているのだが。
その関西女は、関西地方のどっかの田舎から、東京圏に移住したいといっている。さっさとしろよという話だが、なぜか行きもせず田舎を一括りに悪口三昧している。いやお前の関西の特定の田舎がお前個人には駄目なだけでしょって話で全世界の殆どを構成している醇風美俗の田舎人全般に大迷惑でしかない。そして、この関西人は東京人と最初から似た者同士というか、根本的に商人気質に染まっているのか、生まれながら利根なのかでエゴイストである。しかも程あれおつむに問題があるので、自己中心的にしか物をみれない。それで都民一般とか洛中人一般と一緒で、中華思想やその残滓な自文化中心主義に耽る。
まあ私の精神にいわせれば皇室もこういう連中と習性的に似た様な俗物で、自分が中国神話の神の末裔だとかほざいて1400年近く殺人や大量虐殺命じるとか、税を貪りまくるとか、エゴイストどころかダークトライアドとしかいえないし、私は個人的に、皇族は道徳面で人間界で最も軽蔑している人達である。
この関西女も、商品経済しか頭になくなるくらい視野が狭いといおうかわけがわからないと言おうか、なんというのか当人が気づかない関西東京気風に染まっていて、しかもその商売気質がより極まっている場所に行きたいといっているだけなのだ。全体として吐き気がする輩で、私の一番嫌いなタイプである。
じゃあ逆に私がどういう人が好きなのかというと、私は純朴な田舎の人が好きなのである。これは国内でいうと大体の東北人とか私は北茨城だけど凡そ地元の友人とかで、根が素朴なので正直で隠し事がないばかりか、本質は性善的に生まれついていて大抵が信じられる。これは海外の田舎の人もそうだったが。
まあ結局のところ、私は大抵の都会人が人間として嫌いなのだ。どういう面が嫌いかなら、先ず風紀が堕落している様に感じられるほど低俗で、性的に不潔だし(まあ裏を返せば女なら媚態をもってるともいえるのだが)、狡っ辛く金に汚く、とかく性悪が多くてプライド高いのに馬鹿と、ろくな人間がいない。他にも俗物根性の塊で顕示的消費の度合いでステータスをはかり、他人を見下し嘘ばかりつくし、ガヤガヤうるさく下品な話題ばかりしてる癖に頭は悪いので自分が上品と思い上がっているし、頭の中は差別で埋まってるので浮浪者を侮辱するわネットなら田舎や韓国を侮辱してるわ、人でなしみたいなもんだ。
それほど嫌いなのだから私は東京横浜京阪神とか都市部が地上から消えたらいいと思っているのは間違いない。今すぐ原水爆おちても、別にサイコパスでもないけれども「やっと消えたか」と思うくらいで、親族も住んでるけど余り同情の余地がないと感じるくらい、都会人全般の生来の性質が嫌いなのである。
勿論それほど嫌いになったのは、実際にくらした東京全般の環境が現に死ぬほど悪かったし、そこでみた人達の精神構造(というか利己的な商売人気質)も大抵呆れるほど相当ひどかったのは前提として、原発事故が最大の訳だ。あのとき都民全般の醜態を目撃した被災者の一人として決定的に嫌う理由はある。
結論を書く。普段から下衆な連中は、いざとなったらもっとゲスさを発揮する。これが大震災に重なった世界最悪の原発事故を生き抜いた私の人生経験則である。なので普段から軽蔑すべき点ばかりが目につく都民全般に、いざとなっての改心なんて何も期待できないのだ。これが冷酷なこの世の真理である。勿論あの震災中に立派で英雄的な行動をとった人も、超少数派の都民として存在した。具体的には江頭2:50とか、ロンブーの淳とかだ。後者は下関人だった気がするが。でも東浩紀とか石原慎太郎(当時の都知事)みたらわかるとおり普段からゲスい言動してる人はいざとなったら吐き気なしにはみれなかった。
私が致命的災害の現場でみた人間性の真理としていえるのは普段が全てということだ。それで、私は普段の行状が優れない全ての人を忌避し、遠ざけることにした。そこからいうと常々性悪なイケズほざく京都人一般とか、中華思想だの金と娼婦の貪りだの再稼働要請に耽ってる都民全般とか、友になりえない。勿論、商売人もそうだ。当時、広告をとりさげお見舞い述べていた企業群の中で、柳井正のユニクロだけは、震度6以上が数分ごとにくる余震の只中で、原発事故の恐怖と津波被害者の死体の間に広告入れ、相も変わらず金儲けしていた。本当にあれで文化衝撃受けた私は二度と長州商人に近づくまいと誓った。
普段から根っから善意の人、それも自分の利益を省みず、他人へ無償の利他行動を行っている人だけとつきあえ。これが私の得た教訓だ。そうしてきて何も損害したことがないし、得しかない。私自身もそうあろうとしてきているが、何も後悔はない。人は聖人以上の存在であるべきで、至善に止まるべきだ。
商売文化は邪悪なものだ。大震災の中でセブンイレブンは本部に聴かないとなどといい、食べ物は余っているのに被災者を締め出した。地元のスーパー(サンユーストア)は、妊婦がいる事情を説明したら滅茶苦茶になっている店内から食べ物をもちだし売ってくれた。下手すると無償でも配ったかもしれない。私は商売人が嫌いだ。それは彼らが普段から、他人から金を貪る目的で、悪行しているからだ。彼らは言い訳する。その金儲けは価値の提供の見返りだだの、職業がないものは卑しいだの、自分の仕事の対価を得て何が悪いだの。全部嘘だ。震災の最中にみた人間性の真実は何もかもをさらけ出していた。
国内の仏教僧は堕落した。壇家制度で守られ、戒名で金をえたり、金ピカの悪趣味お堂(京都ご自慢の世界遺産全体のことです)で観光客からただただ貪っている。だから連中は商売人でしかない。無論、仏陀となんの関係もない。ゴータマ・シッダールタの名を借りた商人どもは自我ごと消え失せるがいい。
人は商売という悪事に近づいてはいけない。無一文で野垂れ死んだとしても、無償で人のために全力で善行し、その聖人以上の存在を餓死させる様な集団で、長生きしない方が優れている。子がいなければそのうまれるはずだった子にとっても、商人と、天皇と称する邪教祖の共食い地獄から救われているのだ。
その関西女がどうなるか、しったことではない。東京だか大阪だかで金儲け、労働奉仕、経営だか投資だかで一財産築くまで行くほどの知能にはみえないが、少なくとも下級労働者の一員としてネイルだかインスタ映えだかほざきデンプンの塊でも牛乳入りの茶に入れ、ぎゃあぎゃあ田舎差別でもするのだろう。
私にいえるのは、衆愚の集まりにくらして幸福になりえるはずもなく、もしそこで幸いと感じている俗人がいても、それは偽りか、質の低い快楽にすぎないということである。原発で誰かを殺戮しながら発電された電気で快楽を貪っている外道をみよ。その外道の脳内物質では永遠に、良心の満足を得られない。私は商売を否定する。私は労働を否定する。私は投資を否定する。私は経営を否定する。私は搾取を否定する。私は他人を貪らない。だから私は都会に近づかない。私は田舎にいて、与えられた物で満足し、失って悔いず、ことさら何も求めない。私は他人に並べての物を与え、持ち分も恵まれぬ者に寄付する。
2019年8月31日
坂本龍馬ファンは公徳がないかサイコパス説
スコットランド商人から反政府組織に私腹を肥やす目的で武器を流し、外患誘致・内乱罪を犯していた反日テロリストの坂本龍馬を英雄視している人間は、全員が例外なく大馬鹿者である。そしてそういう大馬鹿者がなぜ彼を英雄視しているかよくみると、周りが称賛していたから以外の理由はない俗物である。
この事実から演繹できるのは、坂本龍馬ファンを公言している人間は、根本的に公徳が欠けているかサイコパスかいずれかなので、外患誘致・内乱罪を犯し自国民を大量虐殺しても大して痛痒にも感じないだろうから、高い地位に就けては絶対にいけない。既に就いていたら最大の力で引きずり下ろすべきだ。
この事実から演繹できるのは、坂本龍馬ファンを公言している人間は、根本的に公徳が欠けているかサイコパスかいずれかなので、外患誘致・内乱罪を犯し自国民を大量虐殺しても大して痛痒にも感じないだろうから、高い地位に就けては絶対にいけない。既に就いていたら最大の力で引きずり下ろすべきだ。
2019年8月30日
衆愚の逆張り
一般大衆が一方へ偏り特定の価値観を流布している時、わざわざそれと同じ価値観を主張するのは無益であり、愚かさの印である。赤い海に跳び込む者は、生きて帰れない。衆愚にとって自分が逆張りでも、彼らは無数の角度から只で自見を反証し続けてくれるのだから、己一人は比較的安全に橋を渡れる。
ツイッターで誹謗目的の返信やリツイート・いいねしてる暗愚な連中の正体
ツイッター上で赤の他人を誹謗し、差別し、罵り、集団虐待し、あるいはインフルエンサーによる攻撃的言動の被害者にも通知がきてるのをしってかしらずかいいねやリツイート連打する人達は、2chと違いリスト化して全員追跡できるのでやってみているのだが、全員、悪業をなんとも感じていないのだった。その人達は一言でいうと、無神経な下衆なのである。その人達の普段のツイートをみてみると、大概は本当に低俗だったり愚昧だったりする内容が多い。そして引用リツイートなど含め、いきなり誹謗してくる人に限っては、他の人にも同様にやっている。常習犯が多い。彼らはネット倫理がないのだ。
以前、港区女子なるものっぽい人が、或る自治体を差別してたので注意したら、門地差別の上塗りしてる誹謗ツイートを或る人にされ、しかもそれを大勢が(といっても数十人くらいが)いいねやリツイートし、私を辱めてきたことがあった。この人達をその後も追跡してたのだけど、まさに上の実例だった。特に門地差別を上塗りする誹謗ツイートした人に関しては、他の人達にも2chレベルの誹謗中傷を連打していたので典型的な荒らし、サイコパスだろうと思われた。勿論匿名アカウント。
で、他のいいね・リツイート勢は、眺めてると関西人かなんかで田舎劣等感と東京へ憧れを持ってる人が混じっていた。一体何でその関西人らしきのが(匿名アカなんだが日常的に関西弁使ってるので関西人だろう、多分)、自分が望む東京へ移住しないのかは定かではないが、港区女子を美化してもらえないと困る、かつその人が嫌ってる自分の関西地方のどこか? と違って他の田舎が良い場所だと困るってことみたいだった。
私は北茨城の田舎町で子供の頃生まれ育って、海山川の繊細で美しい自然に子供の頃から親しんでいてとても気に入っている。というか人類の生を遥かに超え深遠で、神々しいと思っている。思春期以後は新宿副都心の超高層ビル街界隈で育ってみたけど、はじめは珍しいものの結局何もいいと思えなかった。
私は港区女子とかいう言葉に象徴される新東京人の拝金根性が、金の亡者の醜悪な顕示的消費まみれの虚栄ごっことして実に表面的で下らないものだという批評的文脈は十分しっている一方で、別に対象が何区だろうが都外だろうが、出身だの居住地への門地差別が馬鹿らしい、憲法違反だと注意したのである。元々のツイートは、港区に夜間通って仕事してる人が都外在住で、それは港区女子じゃないと述べる内容だったのだが、その特定自治体在住者への門地差別みたいなツイートをしてた港区女子ぶろうとしてた人こそ、どっかからのお上りで、しかも新卒で港区の銀行に採用され今春務めるとか書いてたのだ。
まあ一言でいうと、その種のエセ中華思想を必死になって真似るのが「新東京人」の類型的思考形態で、江戸っ子はこれをみて馬鹿じゃねえのと暗に思っていたりするが別に偉くもない自らをなぜかえこひいきしてもいるから己に有利な逆差別でもあり、大抵黙っている。信州人新海誠作品なんかまさにだろう。例えばアダルトビデオの勧誘してる下衆都民なんて、そういう逆差別を思う存分悪用していると思う。全国どっかから集まってくる頭の悪い勘違いした憧れの持ち主を、お上り勢の脳内にしかない東京ブランドなるものでどんどんかどわかし淫行勧誘罪できるんだから実に楽なものだ。全体としてソドミーだが。
その関西女みたいなのが認知的不協和を否定する目的で、いいね・リツイートで晒し上げ済ませた気になっている私への誹謗ツイート(そしてそれに同調する多数のいいね・リツイート群。総数、数十くらい)。私はそれで大変傷ついたわけだけども、「え? 憲法違反を後押しすんの?」というあまりに日本語圏の悪意と悪徳を感じたショックでなんだが、その女らは文脈を読めてない。
そしてである。そもそもが都内の性風俗業界、要は江戸・東京文化の古典的な意味での粋の世界だけど、そこで本意で働いてる女なんざ、件の都外から夜通ってる通勤港区女子だろうが、いわば快楽追求を兼ねその種の成金の掃き溜め空間に自分から加わりにいって、浪費のおこぼれをいただこうという発想である。一言でいえば退廃的世界。しかもその汚泥を生み出す原動力は、件のリツイートいいね関西女らしきのみたいな、勘違いした憧れ、要はメディアに洗脳された東京症候群的な脳内美化なわけである。現実の東京は物価地価が暴騰してるから暗愚な若い女なんざまともに暮らすには身売りしか安易な選択肢がない酷い状態なわけである。
私はそういう都内風儀を逐一眺めてて、とんでもない悪だなここはと感じたので最初こそ義憤を感じ、改革しようと思ってたが、数年戦った結果、これ江戸時代から続いてる根深い人口削減の構造なんだと悟って、諦めてさっさと去った。なにせ都民って性売買罪を、夜の世界を当然視していて直す気は毛頭ない。
じゃあその関西女らしきのに、私が直接話に行き、お前さんのいう憧れの実態はこうだよと解説し、騙され金ぼられるだけで大阪のしくみと大して違わないといった所で、理解する筈もない。なぜならそいつは「都会=善美」と信仰している上に、元が元なので遊里(今でいう風俗)に身を落としても不思議はない。まるで中世に祇園の芸者になりたがってた奴みたいに。
では何が言いたいか。日本にはなぜ芸者がいるかですが、日本女全般が根本的に無知もしくは悪徳だからだと私は思いますね。これは私本人が日本人で子供の頃から色々な国内の事情を眺めていて、今で言えば都内でAV女優に進んでなりたがるくらいの不道徳(性売買罪をグレー化して放置する東京文化そのものを含め、所詮は犯罪者の集まりなのだから現行法でそういわざるをえまい。別の時代ではどうかしらないが)な女とか、その関西女みたいな大いに確証バイアスに耽って多かれ少なかれ不幸な経験によって学ぶ以外なんら反省できないのが大勢現にいるんだからしょうがない。勿論、全員が全員馬鹿ではない。しかし総じてそういう軽薄な馬鹿女が少数、といってもかなりの数いるので、64人に1人だかかなり多い数の人達が、主に大都会へ自ら出て身売りしている。その人達の一部は、紛らわしいが、よくいわれるよう貧しいからじゃなく(貧しい人達の場合は、行政の堕落と怠慢のせいで社会保障を受けられていないわけで、そのかなりの部分が不本意でしょう)、単に淫乱な上に不徳なので身売りしてる。
中華思想という皇室の住む都心を中心に、地域差別、門地差別する発想。これも馬鹿の証拠である。世界中どこの国民と会話しても、元ネタの中国人すら中華思想は昔の愚かな考えだといってたくらいで、いまだに素で履行してるのって日本人全般しかみたことない。今の日本人全般は中国人全般より馬鹿だ。私が都民は本物の馬鹿だなと思ったのは、満員電車へ駅員に毎朝、無理やり尻だか背中だかでおしくらまんじゅうタックル状態でつめこまれてるのをみた時だ。あれに耐えてくらすって奴隷以外考えられない。「まだ東京で消耗してるの?」は完全に正論で、要するに雑魚の集まりだからああなるのです。
その関西女らしきのも、或いは港区女子ごっこを中国人すら放棄した門地差別のパターンでしかない中華思想の猿真似でやろうとしていたその銀行新卒採用女も、はっきりいってしまえば雑魚の一種でしょう。なにせ差別思想で都会が上と妄信し、それに反した現実を封殺してるのですから。まあ皇室も雑魚だけど。
(なお私は都鄙二分法でいずれかが善美の塊で優位、いずれかが醜悪の塊で劣位という実に単純すぎる分類の誤り、そして門地差別の発想を弁証法的に批判しているのであって、都鄙逆転の逆中華思想に耽っているわけではない)
そんでだ、そのエセ港区女子ワナビー銀行員に返信した時私が直感的に感じてたのは、こいつはおおかた金持ちと交尾し贅沢三昧したいだけの下衆女だろうなということだった。特有の差別観の中でそいつは港区在住をステータスと思っていた。成金根性の発露として。人権は無論、人格的価値や幸福論など何も見えていない。いまどき新卒で、しかも港区のどっかに配属されたのは偶然にせよ、何らかの都市銀行に就職する時点で、まあ底がしれている。こういっちゃなんだが時代の空気が読めていない下級商人であろう。私の予想では、最初に一目見た時点で判断できてたが、そいつはあまりの業務の下らなさに数年でやめるであろう。
なので、敢えて返信した。その当時(たぶん今年1月~3月くらいだった気がする)私はとにかく積極ランダム返信の実験していたし、こいつにとって門地差別の反動ショック与えておけば、俗物が将来わが県で同然の門地差別の悪行する可能性が低まるなという或る種の縄張り的発想だ。恐らくその通りになると思うが。なんでわが県と関係しているかというと、その港区ワナビー女子は、わが県の一自治体を差別する文脈に置いていたからである。
女は女でも善女と悪女がいる。このうち人様を居住地差別しながら逐円優先で生きてる様なのは当然ながら悪女であるから、遠回しにわが県を忌避させるに越したことはない。これがわが判断だった。差別大好きな悪女に限ってはどんどん都内、それも天皇後続なる殺人邪教祖連を模範にしてか千代田区だの港区に集まっているし、そのまま極点まで堕ちきればいい。現にそうなっている。
逆にだ、私は善女を集めたい。集めたいといって集まってくるか知らんが、金より人が大事だと思ってる人間は、この話の場合、当たり前ではあるが善人である。美醜でいえば美のがいいかもしれんが、それもまあ心身を大切にする健康さという意味では善の一部とも捉えられる。東京に悪女が憧れる、結構なことだと思ったのである。
ほんで、最初に書いたことに戻ると、2ch時代の日本人衆愚ってのは追跡不可能なのをいいことに悪業三昧していた。そのせいで国ごと没落したんだと私は痛快に思ってなくもないが、ツイッターはちゃんと追跡可能だから固定ハンドル界みたいなもんだ。今回は女の暗愚な版をよく眺められて勉強になった。
以前、港区女子なるものっぽい人が、或る自治体を差別してたので注意したら、門地差別の上塗りしてる誹謗ツイートを或る人にされ、しかもそれを大勢が(といっても数十人くらいが)いいねやリツイートし、私を辱めてきたことがあった。この人達をその後も追跡してたのだけど、まさに上の実例だった。特に門地差別を上塗りする誹謗ツイートした人に関しては、他の人達にも2chレベルの誹謗中傷を連打していたので典型的な荒らし、サイコパスだろうと思われた。勿論匿名アカウント。
で、他のいいね・リツイート勢は、眺めてると関西人かなんかで田舎劣等感と東京へ憧れを持ってる人が混じっていた。一体何でその関西人らしきのが(匿名アカなんだが日常的に関西弁使ってるので関西人だろう、多分)、自分が望む東京へ移住しないのかは定かではないが、港区女子を美化してもらえないと困る、かつその人が嫌ってる自分の関西地方のどこか? と違って他の田舎が良い場所だと困るってことみたいだった。
私は北茨城の田舎町で子供の頃生まれ育って、海山川の繊細で美しい自然に子供の頃から親しんでいてとても気に入っている。というか人類の生を遥かに超え深遠で、神々しいと思っている。思春期以後は新宿副都心の超高層ビル街界隈で育ってみたけど、はじめは珍しいものの結局何もいいと思えなかった。
私は港区女子とかいう言葉に象徴される新東京人の拝金根性が、金の亡者の醜悪な顕示的消費まみれの虚栄ごっことして実に表面的で下らないものだという批評的文脈は十分しっている一方で、別に対象が何区だろうが都外だろうが、出身だの居住地への門地差別が馬鹿らしい、憲法違反だと注意したのである。元々のツイートは、港区に夜間通って仕事してる人が都外在住で、それは港区女子じゃないと述べる内容だったのだが、その特定自治体在住者への門地差別みたいなツイートをしてた港区女子ぶろうとしてた人こそ、どっかからのお上りで、しかも新卒で港区の銀行に採用され今春務めるとか書いてたのだ。
まあ一言でいうと、その種のエセ中華思想を必死になって真似るのが「新東京人」の類型的思考形態で、江戸っ子はこれをみて馬鹿じゃねえのと暗に思っていたりするが別に偉くもない自らをなぜかえこひいきしてもいるから己に有利な逆差別でもあり、大抵黙っている。信州人新海誠作品なんかまさにだろう。例えばアダルトビデオの勧誘してる下衆都民なんて、そういう逆差別を思う存分悪用していると思う。全国どっかから集まってくる頭の悪い勘違いした憧れの持ち主を、お上り勢の脳内にしかない東京ブランドなるものでどんどんかどわかし淫行勧誘罪できるんだから実に楽なものだ。全体としてソドミーだが。
その関西女みたいなのが認知的不協和を否定する目的で、いいね・リツイートで晒し上げ済ませた気になっている私への誹謗ツイート(そしてそれに同調する多数のいいね・リツイート群。総数、数十くらい)。私はそれで大変傷ついたわけだけども、「え? 憲法違反を後押しすんの?」というあまりに日本語圏の悪意と悪徳を感じたショックでなんだが、その女らは文脈を読めてない。
そしてである。そもそもが都内の性風俗業界、要は江戸・東京文化の古典的な意味での粋の世界だけど、そこで本意で働いてる女なんざ、件の都外から夜通ってる通勤港区女子だろうが、いわば快楽追求を兼ねその種の成金の掃き溜め空間に自分から加わりにいって、浪費のおこぼれをいただこうという発想である。一言でいえば退廃的世界。しかもその汚泥を生み出す原動力は、件のリツイートいいね関西女らしきのみたいな、勘違いした憧れ、要はメディアに洗脳された東京症候群的な脳内美化なわけである。現実の東京は物価地価が暴騰してるから暗愚な若い女なんざまともに暮らすには身売りしか安易な選択肢がない酷い状態なわけである。
私はそういう都内風儀を逐一眺めてて、とんでもない悪だなここはと感じたので最初こそ義憤を感じ、改革しようと思ってたが、数年戦った結果、これ江戸時代から続いてる根深い人口削減の構造なんだと悟って、諦めてさっさと去った。なにせ都民って性売買罪を、夜の世界を当然視していて直す気は毛頭ない。
じゃあその関西女らしきのに、私が直接話に行き、お前さんのいう憧れの実態はこうだよと解説し、騙され金ぼられるだけで大阪のしくみと大して違わないといった所で、理解する筈もない。なぜならそいつは「都会=善美」と信仰している上に、元が元なので遊里(今でいう風俗)に身を落としても不思議はない。まるで中世に祇園の芸者になりたがってた奴みたいに。
では何が言いたいか。日本にはなぜ芸者がいるかですが、日本女全般が根本的に無知もしくは悪徳だからだと私は思いますね。これは私本人が日本人で子供の頃から色々な国内の事情を眺めていて、今で言えば都内でAV女優に進んでなりたがるくらいの不道徳(性売買罪をグレー化して放置する東京文化そのものを含め、所詮は犯罪者の集まりなのだから現行法でそういわざるをえまい。別の時代ではどうかしらないが)な女とか、その関西女みたいな大いに確証バイアスに耽って多かれ少なかれ不幸な経験によって学ぶ以外なんら反省できないのが大勢現にいるんだからしょうがない。勿論、全員が全員馬鹿ではない。しかし総じてそういう軽薄な馬鹿女が少数、といってもかなりの数いるので、64人に1人だかかなり多い数の人達が、主に大都会へ自ら出て身売りしている。その人達の一部は、紛らわしいが、よくいわれるよう貧しいからじゃなく(貧しい人達の場合は、行政の堕落と怠慢のせいで社会保障を受けられていないわけで、そのかなりの部分が不本意でしょう)、単に淫乱な上に不徳なので身売りしてる。
中華思想という皇室の住む都心を中心に、地域差別、門地差別する発想。これも馬鹿の証拠である。世界中どこの国民と会話しても、元ネタの中国人すら中華思想は昔の愚かな考えだといってたくらいで、いまだに素で履行してるのって日本人全般しかみたことない。今の日本人全般は中国人全般より馬鹿だ。私が都民は本物の馬鹿だなと思ったのは、満員電車へ駅員に毎朝、無理やり尻だか背中だかでおしくらまんじゅうタックル状態でつめこまれてるのをみた時だ。あれに耐えてくらすって奴隷以外考えられない。「まだ東京で消耗してるの?」は完全に正論で、要するに雑魚の集まりだからああなるのです。
その関西女らしきのも、或いは港区女子ごっこを中国人すら放棄した門地差別のパターンでしかない中華思想の猿真似でやろうとしていたその銀行新卒採用女も、はっきりいってしまえば雑魚の一種でしょう。なにせ差別思想で都会が上と妄信し、それに反した現実を封殺してるのですから。まあ皇室も雑魚だけど。
(なお私は都鄙二分法でいずれかが善美の塊で優位、いずれかが醜悪の塊で劣位という実に単純すぎる分類の誤り、そして門地差別の発想を弁証法的に批判しているのであって、都鄙逆転の逆中華思想に耽っているわけではない)
そんでだ、そのエセ港区女子ワナビー銀行員に返信した時私が直感的に感じてたのは、こいつはおおかた金持ちと交尾し贅沢三昧したいだけの下衆女だろうなということだった。特有の差別観の中でそいつは港区在住をステータスと思っていた。成金根性の発露として。人権は無論、人格的価値や幸福論など何も見えていない。いまどき新卒で、しかも港区のどっかに配属されたのは偶然にせよ、何らかの都市銀行に就職する時点で、まあ底がしれている。こういっちゃなんだが時代の空気が読めていない下級商人であろう。私の予想では、最初に一目見た時点で判断できてたが、そいつはあまりの業務の下らなさに数年でやめるであろう。
なので、敢えて返信した。その当時(たぶん今年1月~3月くらいだった気がする)私はとにかく積極ランダム返信の実験していたし、こいつにとって門地差別の反動ショック与えておけば、俗物が将来わが県で同然の門地差別の悪行する可能性が低まるなという或る種の縄張り的発想だ。恐らくその通りになると思うが。なんでわが県と関係しているかというと、その港区ワナビー女子は、わが県の一自治体を差別する文脈に置いていたからである。
女は女でも善女と悪女がいる。このうち人様を居住地差別しながら逐円優先で生きてる様なのは当然ながら悪女であるから、遠回しにわが県を忌避させるに越したことはない。これがわが判断だった。差別大好きな悪女に限ってはどんどん都内、それも天皇後続なる殺人邪教祖連を模範にしてか千代田区だの港区に集まっているし、そのまま極点まで堕ちきればいい。現にそうなっている。
逆にだ、私は善女を集めたい。集めたいといって集まってくるか知らんが、金より人が大事だと思ってる人間は、この話の場合、当たり前ではあるが善人である。美醜でいえば美のがいいかもしれんが、それもまあ心身を大切にする健康さという意味では善の一部とも捉えられる。東京に悪女が憧れる、結構なことだと思ったのである。
ほんで、最初に書いたことに戻ると、2ch時代の日本人衆愚ってのは追跡不可能なのをいいことに悪業三昧していた。そのせいで国ごと没落したんだと私は痛快に思ってなくもないが、ツイッターはちゃんと追跡可能だから固定ハンドル界みたいなもんだ。今回は女の暗愚な版をよく眺められて勉強になった。
建築家の意志
大阪市営地下鉄にせよ新国立競技場にせよ、一般大衆の建築の趣味は、機能的要望とは別に物凄く質が低い。原則として些末な難癖を無視できる強い建築家の意志が必要だ。全て聴き入れるとガラケー化が起きるのが前例からも明らか。ジョブズがいうよう大衆は実際に与えられるまで何が最美か判断できない。
京都嫌い
世人は京アニに20億も貢いだ
だが私だけは
京都が今日MOABで消し飛んでも歓喜する
だから私はこの国民と肌が合わない
いや人類なるものともかもしれない
なぜ私が京都嫌いになったか
某京女界隈に2chで名誉毀損されまくったから
現実の京都人は下品極まりない上に
性悪の差別主義者だらけだったから
それでも京都を憎むなと
悪いのはその2ちゃんねらーではないかと
個別の京都人らが悪質だっただけだろうと
世人がいいながらアニメに貢ぐ
私を極貧に陥れながら
だが私だけは
京都が今日MOABで消し飛んでも歓喜する
だから私はこの国民と肌が合わない
いや人類なるものともかもしれない
なぜ私が京都嫌いになったか
某京女界隈に2chで名誉毀損されまくったから
現実の京都人は下品極まりない上に
性悪の差別主義者だらけだったから
それでも京都を憎むなと
悪いのはその2ちゃんねらーではないかと
個別の京都人らが悪質だっただけだろうと
世人がいいながらアニメに貢ぐ
私を極貧に陥れながら
詩聖
余はもう飽きあきしたのだ
この俗世に
だから余は誰とも会話しない
誰とも関わらない
余は花鳥風月を友とし
古の隠士の如く詩画を描いて過ごす
その果てに資本主義に殺されようが
余は賤の連中に何も共感できなかった
しかし余には唯一性愛なる理路で
世と接する道が残った
余がプラトニズムの詩聖か
この俗世に
だから余は誰とも会話しない
誰とも関わらない
余は花鳥風月を友とし
古の隠士の如く詩画を描いて過ごす
その果てに資本主義に殺されようが
余は賤の連中に何も共感できなかった
しかし余には唯一性愛なる理路で
世と接する道が残った
余がプラトニズムの詩聖か
或る東海道商人
東京では差別なしに生きていけません
理由は馬鹿が多いから
他人を肩書で見下す業界に潜り込むゲーム
あとはひたすら金儲け
そんな下衆の一員になるのが憧れの的と
もっと愚劣な或る女がいっています
一体関西中部でそいつが何を考えたのか
私には図りかねますが
どちらにしても下らない商売人だ
理由は馬鹿が多いから
他人を肩書で見下す業界に潜り込むゲーム
あとはひたすら金儲け
そんな下衆の一員になるのが憧れの的と
もっと愚劣な或る女がいっています
一体関西中部でそいつが何を考えたのか
私には図りかねますが
どちらにしても下らない商売人だ
馬鹿国民
私の国民には馬鹿しかいません
なので何を喋っても無駄なのです
何を書いても誰も読めません
この国民は漫画とアニメしかわかりません
本物の馬鹿なので
そしてこの国民を愛せと強要されます
さもなければ殺してやると脅されます
そんな地獄の国に憧れると
もっと馬鹿な外人が誉めそやしてくる地獄です
なので何を喋っても無駄なのです
何を書いても誰も読めません
この国民は漫画とアニメしかわかりません
本物の馬鹿なので
そしてこの国民を愛せと強要されます
さもなければ殺してやると脅されます
そんな地獄の国に憧れると
もっと馬鹿な外人が誉めそやしてくる地獄です
俗物身分制
私はろくでもない俗物をみた
俗物どもは東大博士だ京大ノーベル賞だといい
全国民を蔑視しながら金と肩書を貪っていた
私は連中を本物の馬鹿と感じ
ひとかけらも尊敬できなかったが
衆愚は全員が土下座していた
俗物どもは東大博士だ京大ノーベル賞だといい
全国民を蔑視しながら金と肩書を貪っていた
私は連中を本物の馬鹿と感じ
ひとかけらも尊敬できなかったが
衆愚は全員が土下座していた
共食い地獄
毎日私をごみ同然に扱っていたこの国民が
ろくでもない若害老害壮害と燃やし尽くされ
代わりに大自然が戻ってくるのを空想してみろ
東京や京都や愛知からお前を差別する愚民
そんな愚民のため何をしてやるべきか
全員滅亡したらいい
文明と称する共食い地獄が宇宙から消え失せる
ろくでもない若害老害壮害と燃やし尽くされ
代わりに大自然が戻ってくるのを空想してみろ
東京や京都や愛知からお前を差別する愚民
そんな愚民のため何をしてやるべきか
全員滅亡したらいい
文明と称する共食い地獄が宇宙から消え失せる
社交一般や外界の強い刺激は或る脳には不快
(毎日が発見ネットの記事「「スマホなしで1日過ごせますか? 脳科学者の「ぼーっとする」ススメ」へのコメント)
HSP(Highly Sensitive Person、高敏感者)は外界の刺激が多いと疲れます。私もそうです。内向性を兼ねてることもあり(私がそうです)、その場合、外界はそもそも全部煩わしく、都会の喧騒はいうまでもなく不特定の社交はほぼ全部嫌悪として感じられます。つまり無社交に退屈しないのは脳の特徴です。
HSP(Highly Sensitive Person、高敏感者)は外界の刺激が多いと疲れます。私もそうです。内向性を兼ねてることもあり(私がそうです)、その場合、外界はそもそも全部煩わしく、都会の喧騒はいうまでもなく不特定の社交はほぼ全部嫌悪として感じられます。つまり無社交に退屈しないのは脳の特徴です。
愛国教育の行方
おとといみた愛知県豊橋市の或る高1らしき人が、右派一般を差別リストに入れ、「なぜ自衛隊に入らないの?」と書いていた。この人に悪意があるかでいえば多分あるだろう。思想・良心の自由と徴兵制は別でなければならないと認知できる筈なのだから。
差別リストに或る人を入れる、という或る種の付箋貼りそのものが浅はかな差別の一なのは当然として、もっと深刻なのは、この人の中で自衛隊が愚かな犠牲と捉えられている節がある点だ。これにも私は甚だ文化衝撃を受けた。はじめてみた考え方で、自衛隊員をそこまで侮辱する言動もみたことがなかった。
私は思春期の頃、電車の中で「合コンのやり方」なる本を公然と開いて読んでいた若い自衛隊員をみたり、実際に或る中年の自衛隊員と身近に接して彼らの思考が典型的な体育会系のそれなのを悟って、自衛隊なる隠れ軍隊組織にかなりの忌避を感じる様になったが、その人の差別的見方はショックだった。
自衛隊員は自分の身を呈し祖国を守ろうと行動すべくしつけられているわけだから、愛知県豊橋市の一高校生からまさか愛国者が自滅する為の虫籠みたいに差別リストの説明書きで揶揄の文脈に置かれているなんて知る由もない。これはその高校生が教育の中で、軍の意義を教えられていないからに違いない。
また私個人の政治思想からいうと左右でも中道でもない。例えば皇室廃止論を大統領制への移行を先読みし採用するがその論理を絶対的に信じているわけでもない。自由・資本・民主主義を疑うのは無論、自民党の国家社会主義や社民・共産主義にも一定距離で批判的だし、現時点で分類できない考え方だろう。
文脈で大体わかるかもしれないが、この高1はいってみれば右翼一般を適当な分類で差別し(現実には右翼的考えでない人もそこに恣意で陥れ)、なおかつその人達を自衛隊員にとりたて、戦争などに投入し自分を守らせた上で、悪意を以て殺そうとしているのだ。この悪意をなんと名づければいいのか。しかもこの高1は、自衛隊員を無駄死にする特攻隊員みたいにあげつらった上で軽蔑的に扱い、自分を守っている人を婉曲的に差別リストの象徴みたいに侮辱している。安倍首相が日教組日教組と国会で嘯いていたが、正反両面で、ここにその本質の一端が現れているといって過言ではないと思うのだが。
その上私がショックを受けたのは、この高1は同時に「荒野行動」「PUBG」というまさに軍事行動を模擬するゲームの大ファンらしくほぼ毎日やっていて、友人との些末な雑談を除けばそれらの内容ばかりツイートしていた。自分は仮想空間で遊び、右翼一般と自衛隊員を差別し戦争投入で殺そうという悪意。
因みにこの高1は女だったのだが、自衛隊にせよ米軍にせよ女性隊員は沢山いるわけだから、自分を安全地帯に置いて愛国者全般を無理やり付箋貼りで捏造しながら差別し、避けようがない防衛戦争などの際もその影に隠れ自分の身だけは守ってゲームで遊んでいようという大変さもしい根性。驚くべき退廃だ。
我々、寛容度が自民党員全般より高いだろう人間は、なぜ安倍首相らが密かに行ってきた経済徴兵もどきだの、国会でも森加計教育でも愛国啓発じみた言動を彼がとっていたのか全然無自覚だった。つまり我々にはその種の高1みたいな人間、悪意で愛国者らを犠牲にするサイコパス的実在が盲点だったのだ。私は安倍首相はダークトライアド度が物凄く高い人物だと思っているが、この場合、彼の方がその種の高1みたいな相当程度のサイコパス、すなわち真性愛国者を差別対象や犠牲とし自分だけ自衛隊制度だの国政へただ乗りしている人間を、彼と似た性質として想定し易かったのである。
戦後教育下で、自衛隊の地位、或いは健全な愛国心が、愛知県豊橋市の一高校生の脳内で、ここまで貶められているなど私は全然しらなかった。その人からみたら愛国者は差別主義の馬鹿遺伝子で、したがって殺されるべきで、自衛隊はその為の処刑装置ゆえ、己は戦争ゲームで遊びつつ彼らを殺処分すべきと。実際にその高校生が、直接そこまで考えていたかとは別に、その人の言行を逐一追って分析するとそういう国政上の論理が出てくる。要は優生学の反日版みたいなものだ。その高校生が安倍首相がいう通り日教組系の教育受けてるか知らないが、私はこの点で考え方を改める必要ができた。
これまで国内の戦後自由派の世界観では戦争は邪悪なるもので、防衛戦争すら最小限度しか認めるべきではないとの論調だった。ここからいえば安倍首相の侵略是認は言語道断の蛮行なので、人々は彼が明治長州閥かぶれの愚官と思ってたわけだが、実は高サイコパス度の人々の間では普通の考えだったわけだ。すなわちその高1みたいなただ乗り愚民を経済徴兵し、対米追従で殺処分してもなんら構わず、自身の自民党総裁兼首相の地位存続には最も合理性が高い選択肢と、その高1に優るとも劣らぬ無慈悲な考えで安倍首相は愛国教育、自衛隊を軍隊に加憲云々という。それはその高1みたいなのに相応の処置だった。
乾いた笑いが出てくるのは、その高1も、恐らくだが同調圧力のせいか無知のせいか自民党支持者だろうし安倍政権支持者だろう。完全に独裁者のなすがままにされている愚民。それはいいとして、進んで愛国心に仕えていた侍とか紳士の様な貴族精神は完全に吹き飛んで、祖国防衛が殺処分相当とは恐ろしい。
また、右翼一般を差別する論調にも、その高1という反例のお陰だが完璧な偽善を私はみいだした。誰であれ善意なら自集団の健全な発展を望むだろうし、そうなら認知分類の誤りがあろうと素朴な自集団ひいき(いわゆる郷土愛)を軽蔑する理由にもならない。だがその高1は愛国者を殺処分対象とみていた。
無論、もっと深くは国なる利害関係集団の塊が機能不全になっていく序盤でみた、或る子の滑稽なサイコパシーに過ぎなかったのだろうが、そんな中で体育会系軍隊論理でパワハラじみた虐めを受け、或いは海外派兵で病んだり自殺してしまった国民すら、殺処分相応な愛国差別論者の末路扱いでは報われない。
私はその高1の考え方には甚だ悪意があると思う。そして今の日本の高校生一般の考えとぴったり同じともそこまで思わないが、ある面では安倍晋三なるダークトライアドの邪悪さを、子供が模範としてまねている現象の典型例と感じた。そしてその堕落はやがて彼ら自身の進退に業として巡ってくるであろう。
差別リストに或る人を入れる、という或る種の付箋貼りそのものが浅はかな差別の一なのは当然として、もっと深刻なのは、この人の中で自衛隊が愚かな犠牲と捉えられている節がある点だ。これにも私は甚だ文化衝撃を受けた。はじめてみた考え方で、自衛隊員をそこまで侮辱する言動もみたことがなかった。
私は思春期の頃、電車の中で「合コンのやり方」なる本を公然と開いて読んでいた若い自衛隊員をみたり、実際に或る中年の自衛隊員と身近に接して彼らの思考が典型的な体育会系のそれなのを悟って、自衛隊なる隠れ軍隊組織にかなりの忌避を感じる様になったが、その人の差別的見方はショックだった。
自衛隊員は自分の身を呈し祖国を守ろうと行動すべくしつけられているわけだから、愛知県豊橋市の一高校生からまさか愛国者が自滅する為の虫籠みたいに差別リストの説明書きで揶揄の文脈に置かれているなんて知る由もない。これはその高校生が教育の中で、軍の意義を教えられていないからに違いない。
また私個人の政治思想からいうと左右でも中道でもない。例えば皇室廃止論を大統領制への移行を先読みし採用するがその論理を絶対的に信じているわけでもない。自由・資本・民主主義を疑うのは無論、自民党の国家社会主義や社民・共産主義にも一定距離で批判的だし、現時点で分類できない考え方だろう。
文脈で大体わかるかもしれないが、この高1はいってみれば右翼一般を適当な分類で差別し(現実には右翼的考えでない人もそこに恣意で陥れ)、なおかつその人達を自衛隊員にとりたて、戦争などに投入し自分を守らせた上で、悪意を以て殺そうとしているのだ。この悪意をなんと名づければいいのか。しかもこの高1は、自衛隊員を無駄死にする特攻隊員みたいにあげつらった上で軽蔑的に扱い、自分を守っている人を婉曲的に差別リストの象徴みたいに侮辱している。安倍首相が日教組日教組と国会で嘯いていたが、正反両面で、ここにその本質の一端が現れているといって過言ではないと思うのだが。
その上私がショックを受けたのは、この高1は同時に「荒野行動」「PUBG」というまさに軍事行動を模擬するゲームの大ファンらしくほぼ毎日やっていて、友人との些末な雑談を除けばそれらの内容ばかりツイートしていた。自分は仮想空間で遊び、右翼一般と自衛隊員を差別し戦争投入で殺そうという悪意。
因みにこの高1は女だったのだが、自衛隊にせよ米軍にせよ女性隊員は沢山いるわけだから、自分を安全地帯に置いて愛国者全般を無理やり付箋貼りで捏造しながら差別し、避けようがない防衛戦争などの際もその影に隠れ自分の身だけは守ってゲームで遊んでいようという大変さもしい根性。驚くべき退廃だ。
我々、寛容度が自民党員全般より高いだろう人間は、なぜ安倍首相らが密かに行ってきた経済徴兵もどきだの、国会でも森加計教育でも愛国啓発じみた言動を彼がとっていたのか全然無自覚だった。つまり我々にはその種の高1みたいな人間、悪意で愛国者らを犠牲にするサイコパス的実在が盲点だったのだ。私は安倍首相はダークトライアド度が物凄く高い人物だと思っているが、この場合、彼の方がその種の高1みたいな相当程度のサイコパス、すなわち真性愛国者を差別対象や犠牲とし自分だけ自衛隊制度だの国政へただ乗りしている人間を、彼と似た性質として想定し易かったのである。
戦後教育下で、自衛隊の地位、或いは健全な愛国心が、愛知県豊橋市の一高校生の脳内で、ここまで貶められているなど私は全然しらなかった。その人からみたら愛国者は差別主義の馬鹿遺伝子で、したがって殺されるべきで、自衛隊はその為の処刑装置ゆえ、己は戦争ゲームで遊びつつ彼らを殺処分すべきと。実際にその高校生が、直接そこまで考えていたかとは別に、その人の言行を逐一追って分析するとそういう国政上の論理が出てくる。要は優生学の反日版みたいなものだ。その高校生が安倍首相がいう通り日教組系の教育受けてるか知らないが、私はこの点で考え方を改める必要ができた。
これまで国内の戦後自由派の世界観では戦争は邪悪なるもので、防衛戦争すら最小限度しか認めるべきではないとの論調だった。ここからいえば安倍首相の侵略是認は言語道断の蛮行なので、人々は彼が明治長州閥かぶれの愚官と思ってたわけだが、実は高サイコパス度の人々の間では普通の考えだったわけだ。すなわちその高1みたいなただ乗り愚民を経済徴兵し、対米追従で殺処分してもなんら構わず、自身の自民党総裁兼首相の地位存続には最も合理性が高い選択肢と、その高1に優るとも劣らぬ無慈悲な考えで安倍首相は愛国教育、自衛隊を軍隊に加憲云々という。それはその高1みたいなのに相応の処置だった。
乾いた笑いが出てくるのは、その高1も、恐らくだが同調圧力のせいか無知のせいか自民党支持者だろうし安倍政権支持者だろう。完全に独裁者のなすがままにされている愚民。それはいいとして、進んで愛国心に仕えていた侍とか紳士の様な貴族精神は完全に吹き飛んで、祖国防衛が殺処分相当とは恐ろしい。
また、右翼一般を差別する論調にも、その高1という反例のお陰だが完璧な偽善を私はみいだした。誰であれ善意なら自集団の健全な発展を望むだろうし、そうなら認知分類の誤りがあろうと素朴な自集団ひいき(いわゆる郷土愛)を軽蔑する理由にもならない。だがその高1は愛国者を殺処分対象とみていた。
無論、もっと深くは国なる利害関係集団の塊が機能不全になっていく序盤でみた、或る子の滑稽なサイコパシーに過ぎなかったのだろうが、そんな中で体育会系軍隊論理でパワハラじみた虐めを受け、或いは海外派兵で病んだり自殺してしまった国民すら、殺処分相応な愛国差別論者の末路扱いでは報われない。
私はその高1の考え方には甚だ悪意があると思う。そして今の日本の高校生一般の考えとぴったり同じともそこまで思わないが、ある面では安倍晋三なるダークトライアドの邪悪さを、子供が模範としてまねている現象の典型例と感じた。そしてその堕落はやがて彼ら自身の進退に業として巡ってくるであろう。
戦い
お前の存在など無意味
失われていく
とるにたりない
つまらない存在でしかない
慰めをほざく商人の間で
金と労働を貪られ死ぬ
奉仕なる名の奴隷化
そして天皇暴力団に納税させられる
死以外の救いがないとして
なぜお前は戦う
周りにいるのが利己主義者の群れで
お前を今にも陥れようというのに
失われていく
とるにたりない
つまらない存在でしかない
慰めをほざく商人の間で
金と労働を貪られ死ぬ
奉仕なる名の奴隷化
そして天皇暴力団に納税させられる
死以外の救いがないとして
なぜお前は戦う
周りにいるのが利己主義者の群れで
お前を今にも陥れようというのに
決めつけと述べる者
左右の付箋貼りで相手を差別する人間は、自らもその差別に加担しているのに気づかない。
相手の類推を決めつけと述べ、自身の主観との違いを認識できない人は、自他が違う主体なことに無自覚で未熟な自我をもっている。その種の人は同調してくれる愚者を非難してくれる賢者より好み、悪友と共に自滅への道を歩む。
相手の類推を決めつけと述べ、自身の主観との違いを認識できない人は、自他が違う主体なことに無自覚で未熟な自我をもっている。その種の人は同調してくれる愚者を非難してくれる賢者より好み、悪友と共に自滅への道を歩む。
推定無知の原則について
差別する人は「一般的知性 general intelligence」が低いという時の一般的知性とは何か? 多重知能説によればその種の一般化を脳に適用できないと思うのだが。IQについても同じでそもそもこれは特定の論理的働き、特に学園的な思考と一定の相関がある知性のごく一部を年齢比にしたものでしかない。したがって高い年齢の人の特定の論理的機能は、子供のそれより一般に働きが良いことが前提になっているのだから、IQを一般知性と呼ぶのは巨視的には年齢順で均した秩序にしかならない。即ち、IQを一般知性と仮定すれば、老人ほど差別し辛いといえてしまうのだが現実にそうなっているだろうか?
もしその種の事実が、相当信頼性の高い母数で確認されたとすれば、単に差別し易さとは精神年齢の低さといいかえた方が精確になるだろう。ただこれについても疑義がつく。なぜなら常識とは偏見の塊とすれば特定の時代や文化ミーム圏、或いは思考様式の型では、制約の様に特有の偏りがつきものだからだ。例えば精神年齢が幾ら高い人々だったとしても、奴隷制だった古代ギリシアの中で、奴隷視されていた賎民を差別せずに済んでいた人がどれだけいるかといえば、自分はその記録を知らない。当時最高の精神年齢だったと想定されるアリストテレス程であっても奴隷差別を当然視していたと著書でわかる。
似た様なことは逆に社会的証明を通じた知性の一般化による逆差別、贔屓(ひいき)にもあてはまる。即ち一般人だけでなく何らかの分野で専門家とみなされる程度の頭脳ですら、他分野の一般知性を推し量るのは難しいので、学位、学歴など外部化されている属性でそうしがちである。無論精確でないのだが。
個別の事例をみるかぎり顕著な科学的業績をもつ専門家が、人種差別主義の主張をしたりしている。即ち差別的観念は、任意の特定分野で優とみなされる知性の質とも、殊更関係がないのである。いわば差別的観念はそれ自体で存在し、一般知性なるものは定義できず、精神年齢とも差別の内容は関係がない。
上記のことから、右翼的思考、保守的思考は認知分類の単純化による差別し易さであり、しかもそれは一般知性(定義不能)の低さに関係がある、とするゴードン・ホドソン論文は多分に誤りを含んでいる可能性がある。皮肉なことにこれ自体が差別的観念や多重知能を過度に一般化してある一つの差別なのだ。一般の教科書に必須になるくらい優れた或る化学者が、人種ごとのIQデータなるものを参考に、差別的観念をもつに至るという筋書きは当然ありうる話で、この老人が複数の博士号の持ち主であるばかりか教育歴でも受賞歴でも比類のない典型的優越性を引っさげていたとしても、やはり誤りを犯すのである。
裏を返せば、反差別的思考はそれ自体で程あれ孤立した系であり、特有の反証を伴った思考過程を経なければ、或る潮流から抜け出すのは困難と思われる。例えば科挙や受験戦争の時代に偏差値教育を知性の一般化として役所や企業が公然と人事差別に用いていた(或いは現に用いている)のはその一例である。
もう少し根本的に考えると、認知分類を単純化する機能が、我々の言語機能として残っている理由は、単なる文化ミームの浮動でなくそれが進化論的に(といってもかなり近い年代での瓶首として)有利な点があった可能性がある。例えば身分制や封建制がそれにあたる。皇室や王侯は差別利権の残滓である。動物や子供に顕著だが、例えば警告色の生き物の毒で被害を受けた後で、似た色だが安全なものにも警戒する様な場合、そもそも認知分類の単純化機能は生き残り学習の重要な要素になっている。この例でいえば言語機能に限らず、動物の脳には認知分類の単純化機能が組み込まれているといってもいい。
差別し易さのうち、少なくともその部分を構成している認知分類の単純化は、こうして或る場面では適応的なのであり、恐らく殆どの動物が学習により似た失敗を避ける過程で日頃使っている必須機能といってもいい。そしてこの単純化が人間界の人権と相反する場合に限って、我々は誤りとみなすのである。
或る差別を延長させたがる人が「区別」といいかえそれを正当化する場面はよくみられるが、この論理は人権面からみれば詭弁にすぎないが、単なる学習とみれば一部が真実を穿っているかもしれない(全面的にではない、差別は事実に反する偏見を含むから)。差別とは根本的には科学と人権の摩擦なのだ。科学的思考は日々、区別の誤りを修正しながら認知分類をより複雑に細分化していく。一方、人権論はより主張を強め、あらゆる不利な立場に弁護の網を張る。両者は性的少数者の場合のよう巧い着地点を探り得る場合もあれば、資本主義経済(特に自己責任論)での貧富差別のよう結合に失敗することもある。
或る寛容な思考癖を標榜する人が、右派的な差別、例えば国籍、民族、人種、皇室を上位者とする身分、中華思想による都鄙差別などをみて愚と一括するのは、その意味で過度の単純化にすぎないだろう。その様な人々は何らかの学習で或る差別を合理的とみなしているのだから、社会学的に分析すべきなのだ。
例えば皇室の存在を当然視したり、東京や京都の文化を国内の他地域より優れているとみなしている人達は、凡そそれを自明の正義と思って確証偏見に耽っている筈である。つまり寛容な思考からみれば児戯に値する誤りでも、当人達の脳では或る学習経過で、繰り返しそれを正解と思うよう環境適応している。
こうして差別が一般知性の低さという社会心理学的見解は、本質的に誤りを含んでいて、寧ろその種の確証偏見を学習により生み出している生育文化背景のミーム学(模倣子学、模因学)が必要なだけだ。例えば学園的差別・逆差別が学位制度なら、その種の模倣子を生み出している原因を知る必要がある。
差別は社会適応の或る古い型で、人権論の展開に応じ徐々に批判対象になる性質をもつ。だが渦中の差別をもつ側は自明の正義と信じる環境適応中でくらしてきたのだから(しばしば利権を伴うので保身もある)、あらゆる差別を悪意の所為とみなすのは、情報の非対称性を悪用した物の見方を含んでいる。皇室は自分の家の神道信仰や政治的地位が身分制差別を自明とみなす体系(政教一致、祭政一致)なので、国民を納税奴隷化している事実を恥ずべき罪悪と悟れない条件下で産まれ、生きているともいえる。彼らを人権侵害の極悪人とみるのは簡単だが、実際には「悪意なき差別」を行っているとも解釈できる。いいかえれば、思考形態そのものを二分法で左右に分け、右派を一般化して差別し易さと同定し、その上そちら側を定義し得ない一般知性の低い側と定義するゴードン・ホドソン論文そのものが、寬容思考癖による学園的差別で過度の一般化に陥っているわけで、これ自体が模因学の対象でなければならない。
寬容思考癖をもつ側が情報非対称性で情報量が多い側に立つ時、その不足のため(例えば厳密な人種分類が不可能など)差別とみなされる単純な誤りを犯している側の悪意を前提にするのは、主観的認知の誤りでなければ、政略的な陰謀である。この論法を寬容主義のレモン市場的冤罪、寬容な冤罪といえる。今日、日常でよくみられるのがこの種の寬容な冤罪で、例えば単なる無知にすぎない認知分類の誤りを、或る人の悪意のせいにしたてるハンロンの剃刀は、政争内でスタンドプレー目的に濫用されがちである。これを裏返した論法として、情報量の少ない側が有知側を俗物根性の冤罪にかける俗物の冤罪もある(例えば当人には自明な横文字、カタカナ外来語を使って説明した人の意味自体を取らずに、知らない側を煙に巻く目的で無教養をからかうものとみなし、論点ずらしで非難するなど)。
こうして、はじめに述べた所に戻れば、この世に一般知性なるものは厳密になく、IQはいうまでもなく典型的教育歴もこの指標化の役に立たない限り、差別し易さは特定の思考癖でしかない。それを生み出したのは或る学習で、それ自体は潮流的でも個人的でもありうる。しかも差別はしばしば悪意を伴わない。我々の時代は、陣地取り合戦する科学と人権の摩擦で、不可抗力な認知の誤りを犯しがちである。無論、悪意による差別が実証できる人に関しては(これは内心の自由により、共謀罪と同じ文脈で基本的に成立し得ないだろう)法の制限がありうるが、実際には寬容な冤罪による政略に見える場面が一部ある。
真の寛容さがあるなら、その種の寬容な冤罪を緻密に除外する思考が必須と私には思える。また究極では内心の自由に踏み込めないのだから、或る人が差別と解釈できる言動をとっていても、明白な外部的証拠がない限り、当人は或る無知さで自己学習的にそうしているとみなす原則の方が今日的良識と思える。この原則を推定無知の原則と定義すると、同様の原則は逆差別、ひいき側にもあてはまる。即ちゴードン・ホドソン論文の本質にあるのは、恐らく、学園的ひいきの体系に有利な確証偏見集めである。なぜならIQ含めなんらかの学園的思考はそこで固有の考え方、或る分類学習の体系を否応なく含むのだから。
もしその種の事実が、相当信頼性の高い母数で確認されたとすれば、単に差別し易さとは精神年齢の低さといいかえた方が精確になるだろう。ただこれについても疑義がつく。なぜなら常識とは偏見の塊とすれば特定の時代や文化ミーム圏、或いは思考様式の型では、制約の様に特有の偏りがつきものだからだ。例えば精神年齢が幾ら高い人々だったとしても、奴隷制だった古代ギリシアの中で、奴隷視されていた賎民を差別せずに済んでいた人がどれだけいるかといえば、自分はその記録を知らない。当時最高の精神年齢だったと想定されるアリストテレス程であっても奴隷差別を当然視していたと著書でわかる。
似た様なことは逆に社会的証明を通じた知性の一般化による逆差別、贔屓(ひいき)にもあてはまる。即ち一般人だけでなく何らかの分野で専門家とみなされる程度の頭脳ですら、他分野の一般知性を推し量るのは難しいので、学位、学歴など外部化されている属性でそうしがちである。無論精確でないのだが。
個別の事例をみるかぎり顕著な科学的業績をもつ専門家が、人種差別主義の主張をしたりしている。即ち差別的観念は、任意の特定分野で優とみなされる知性の質とも、殊更関係がないのである。いわば差別的観念はそれ自体で存在し、一般知性なるものは定義できず、精神年齢とも差別の内容は関係がない。
上記のことから、右翼的思考、保守的思考は認知分類の単純化による差別し易さであり、しかもそれは一般知性(定義不能)の低さに関係がある、とするゴードン・ホドソン論文は多分に誤りを含んでいる可能性がある。皮肉なことにこれ自体が差別的観念や多重知能を過度に一般化してある一つの差別なのだ。一般の教科書に必須になるくらい優れた或る化学者が、人種ごとのIQデータなるものを参考に、差別的観念をもつに至るという筋書きは当然ありうる話で、この老人が複数の博士号の持ち主であるばかりか教育歴でも受賞歴でも比類のない典型的優越性を引っさげていたとしても、やはり誤りを犯すのである。
裏を返せば、反差別的思考はそれ自体で程あれ孤立した系であり、特有の反証を伴った思考過程を経なければ、或る潮流から抜け出すのは困難と思われる。例えば科挙や受験戦争の時代に偏差値教育を知性の一般化として役所や企業が公然と人事差別に用いていた(或いは現に用いている)のはその一例である。
もう少し根本的に考えると、認知分類を単純化する機能が、我々の言語機能として残っている理由は、単なる文化ミームの浮動でなくそれが進化論的に(といってもかなり近い年代での瓶首として)有利な点があった可能性がある。例えば身分制や封建制がそれにあたる。皇室や王侯は差別利権の残滓である。動物や子供に顕著だが、例えば警告色の生き物の毒で被害を受けた後で、似た色だが安全なものにも警戒する様な場合、そもそも認知分類の単純化機能は生き残り学習の重要な要素になっている。この例でいえば言語機能に限らず、動物の脳には認知分類の単純化機能が組み込まれているといってもいい。
差別し易さのうち、少なくともその部分を構成している認知分類の単純化は、こうして或る場面では適応的なのであり、恐らく殆どの動物が学習により似た失敗を避ける過程で日頃使っている必須機能といってもいい。そしてこの単純化が人間界の人権と相反する場合に限って、我々は誤りとみなすのである。
或る差別を延長させたがる人が「区別」といいかえそれを正当化する場面はよくみられるが、この論理は人権面からみれば詭弁にすぎないが、単なる学習とみれば一部が真実を穿っているかもしれない(全面的にではない、差別は事実に反する偏見を含むから)。差別とは根本的には科学と人権の摩擦なのだ。科学的思考は日々、区別の誤りを修正しながら認知分類をより複雑に細分化していく。一方、人権論はより主張を強め、あらゆる不利な立場に弁護の網を張る。両者は性的少数者の場合のよう巧い着地点を探り得る場合もあれば、資本主義経済(特に自己責任論)での貧富差別のよう結合に失敗することもある。
或る寛容な思考癖を標榜する人が、右派的な差別、例えば国籍、民族、人種、皇室を上位者とする身分、中華思想による都鄙差別などをみて愚と一括するのは、その意味で過度の単純化にすぎないだろう。その様な人々は何らかの学習で或る差別を合理的とみなしているのだから、社会学的に分析すべきなのだ。
例えば皇室の存在を当然視したり、東京や京都の文化を国内の他地域より優れているとみなしている人達は、凡そそれを自明の正義と思って確証偏見に耽っている筈である。つまり寛容な思考からみれば児戯に値する誤りでも、当人達の脳では或る学習経過で、繰り返しそれを正解と思うよう環境適応している。
こうして差別が一般知性の低さという社会心理学的見解は、本質的に誤りを含んでいて、寧ろその種の確証偏見を学習により生み出している生育文化背景のミーム学(模倣子学、模因学)が必要なだけだ。例えば学園的差別・逆差別が学位制度なら、その種の模倣子を生み出している原因を知る必要がある。
差別は社会適応の或る古い型で、人権論の展開に応じ徐々に批判対象になる性質をもつ。だが渦中の差別をもつ側は自明の正義と信じる環境適応中でくらしてきたのだから(しばしば利権を伴うので保身もある)、あらゆる差別を悪意の所為とみなすのは、情報の非対称性を悪用した物の見方を含んでいる。皇室は自分の家の神道信仰や政治的地位が身分制差別を自明とみなす体系(政教一致、祭政一致)なので、国民を納税奴隷化している事実を恥ずべき罪悪と悟れない条件下で産まれ、生きているともいえる。彼らを人権侵害の極悪人とみるのは簡単だが、実際には「悪意なき差別」を行っているとも解釈できる。いいかえれば、思考形態そのものを二分法で左右に分け、右派を一般化して差別し易さと同定し、その上そちら側を定義し得ない一般知性の低い側と定義するゴードン・ホドソン論文そのものが、寬容思考癖による学園的差別で過度の一般化に陥っているわけで、これ自体が模因学の対象でなければならない。
寬容思考癖をもつ側が情報非対称性で情報量が多い側に立つ時、その不足のため(例えば厳密な人種分類が不可能など)差別とみなされる単純な誤りを犯している側の悪意を前提にするのは、主観的認知の誤りでなければ、政略的な陰謀である。この論法を寬容主義のレモン市場的冤罪、寬容な冤罪といえる。今日、日常でよくみられるのがこの種の寬容な冤罪で、例えば単なる無知にすぎない認知分類の誤りを、或る人の悪意のせいにしたてるハンロンの剃刀は、政争内でスタンドプレー目的に濫用されがちである。これを裏返した論法として、情報量の少ない側が有知側を俗物根性の冤罪にかける俗物の冤罪もある(例えば当人には自明な横文字、カタカナ外来語を使って説明した人の意味自体を取らずに、知らない側を煙に巻く目的で無教養をからかうものとみなし、論点ずらしで非難するなど)。
こうして、はじめに述べた所に戻れば、この世に一般知性なるものは厳密になく、IQはいうまでもなく典型的教育歴もこの指標化の役に立たない限り、差別し易さは特定の思考癖でしかない。それを生み出したのは或る学習で、それ自体は潮流的でも個人的でもありうる。しかも差別はしばしば悪意を伴わない。我々の時代は、陣地取り合戦する科学と人権の摩擦で、不可抗力な認知の誤りを犯しがちである。無論、悪意による差別が実証できる人に関しては(これは内心の自由により、共謀罪と同じ文脈で基本的に成立し得ないだろう)法の制限がありうるが、実際には寬容な冤罪による政略に見える場面が一部ある。
真の寛容さがあるなら、その種の寬容な冤罪を緻密に除外する思考が必須と私には思える。また究極では内心の自由に踏み込めないのだから、或る人が差別と解釈できる言動をとっていても、明白な外部的証拠がない限り、当人は或る無知さで自己学習的にそうしているとみなす原則の方が今日的良識と思える。この原則を推定無知の原則と定義すると、同様の原則は逆差別、ひいき側にもあてはまる。即ちゴードン・ホドソン論文の本質にあるのは、恐らく、学園的ひいきの体系に有利な確証偏見集めである。なぜならIQ含めなんらかの学園的思考はそこで固有の考え方、或る分類学習の体系を否応なく含むのだから。
2019年8月29日
悪人の子
愚者の間で尊ばれている人は、愚者の一部である。
人々に害をなす悪人の子を産んだ者は、親だけでなくその子も、生前だけでなく死後まで恨まれている。業は消えない。
建前で心にもないお世辞を述べる者は、世間から信用を失う。
人々に害をなす悪人の子を産んだ者は、親だけでなくその子も、生前だけでなく死後まで恨まれている。業は消えない。
建前で心にもないお世辞を述べる者は、世間から信用を失う。
信用度
ある愛知県民は、他人を信用など余程でなければできないといっていた。私はその人が何を言っているか全くわからなかった。私はその人がくらしてきたろう所より遥かに犯罪者が多いだろう新宿界隈で日常を送っていたが、他人を信用できないと考えた試しもなかったが、特に犯罪にも合わず今も生きている。
山岸俊男が『安心社会から信頼社会へ』で一般的信頼について分析していたが、私は他人の信用度を大変厳しくみている。それで初対面の人をみても信用できないとは余り思わなかったのだと思う。しかし相手の行動が道徳的か不徳ならプラス側にもマイナス側にも無限の尺度で、相手の業を永遠に記憶する。
その人は或るSNSの中で、私の目からみると俗悪極まりない人々(私は心から嫌っている連中)と親しくしている人だったのだが、よく話を聴くと、その人も連中を必ずしも好んでいないという。これも謎だった。好きでもない人、特に道徳面で劣っている連中となぜ親しむのか。そんな時間はこの世にない。
資本主義信者は、善人だろうか? 彼らは専ら他人を貪る目的でしか利他行動なり相利行動をとらない。それはカントに言わせれば仮言命法だから、偽善である。私も同意する。信用度の低い他人は、元々利他性が低い連中である。一般化すれば悪人であり卑しい人間達だ。人を見分ければ度合いで信用できる。
善人の質は、その人が絶対的利他性を度合いとしてどれ程もっているかだ。いいかえれば定言命法が生育の本性に近い次元で、しつけとしてどれだけ刻まれているかだ。生まれなり育ちの良さとは、一言でいえばこれである。信用度の高い他人を見分けたければ相手の生育が性善的かを見分ければ良い。
山岸俊男が『安心社会から信頼社会へ』で一般的信頼について分析していたが、私は他人の信用度を大変厳しくみている。それで初対面の人をみても信用できないとは余り思わなかったのだと思う。しかし相手の行動が道徳的か不徳ならプラス側にもマイナス側にも無限の尺度で、相手の業を永遠に記憶する。
その人は或るSNSの中で、私の目からみると俗悪極まりない人々(私は心から嫌っている連中)と親しくしている人だったのだが、よく話を聴くと、その人も連中を必ずしも好んでいないという。これも謎だった。好きでもない人、特に道徳面で劣っている連中となぜ親しむのか。そんな時間はこの世にない。
資本主義信者は、善人だろうか? 彼らは専ら他人を貪る目的でしか利他行動なり相利行動をとらない。それはカントに言わせれば仮言命法だから、偽善である。私も同意する。信用度の低い他人は、元々利他性が低い連中である。一般化すれば悪人であり卑しい人間達だ。人を見分ければ度合いで信用できる。
善人の質は、その人が絶対的利他性を度合いとしてどれ程もっているかだ。いいかえれば定言命法が生育の本性に近い次元で、しつけとしてどれだけ刻まれているかだ。生まれなり育ちの良さとは、一言でいえばこれである。信用度の高い他人を見分けたければ相手の生育が性善的かを見分ければ良い。
徳について
常に自分を掠め取ろうと悪意で接してくる連中と慣れ親しむ意味は、全くない。その時間は無駄であり、不幸にしかなりえない。その或る愛知県民は、どういう理由で悪徳集団に馴れ合うのかも私にはわからないが、この世の有限な生は利他性の高い人達、良い仲間とくらすのが幸福の最低限度の定義である。
悪い仲間しか見つからない国があったなら、その国で生きていく意味はないだろう。できるだけ早く良い人間のいる国に離脱しなければならない。悪徳集団の中で善行しても無駄である。無限に金を貪りたがる悪徳商人の間で慈善行為をしても、最後まで貪られ殺されるだけである。善人とだけつきあうがいい。
悪人集団の中で先祖代々二千年生きるより、善良な人達と一時間過ごす方が幸福である。悪徳集団に媚びを売るな。連中と親しむな。悪行を真似たりせず、連中を軽蔑し、遠く離れているがいい。悪人なるものが自滅しなかった試しはない。悪徳全般は自他を損害させるものだ。良い人とだけ時を過ごすがいい。
億万長者になっても死後に他人の持ち物になる。どれだけ富を消費しても虚しさだけが襲ってくる。虚栄は妬みを買い、金儲けは無駄足だ。この世で価値があるのは利他性だけである。だから見返りを求めない慈善行為を良い人に向けて行い、互いにその連鎖の中で生きるべきで、貪りたがる人を遠ざけよ。
金持ちを羨むのは彼らが決して幸福でないことを知らない者の妄想である。寧ろ何も持たず生きていながら人々に敬われている者を羨み、その人に近づこうとして生きよ。清貧は富について究極の中庸である。皇室は国民一般を税で貪っているが、彼らが幸福な人といえるだろうか。持たなければ失わないのだ。
愚者を賢くできると思うな。愚かさのある部分は、往々にして遺伝している。教えを聴き学ぶ能力がある者は、既に賢者の一部である。向学心のない者に教え諭すなかれ。
愚者の集まりにいて安心している者は、愚者の中の愚者である。その者の末路は衆愚ごとの破滅である。
肩書、学歴を賢愚の印にしている者は、羊頭狗肉を知らない。だから自らの賢さを隠せ。肩書によって態度を変える者を信用するな。
無数の愚者に好かれている者は、破滅への崖っぷちに立たされている。ただ一人の賢者と歩む者は、何億人もの衆愚の群れに打ち勝つ。
身に余る大金を手にした者は、驕り高ぶり進退を誤る。小人物は激しく現世を浮き沈みしている。虚栄を反例とし、この世になにも求めるな。自我の本質を無と悟り、死をも楽しみ、最善の慈悲ある振る舞いを繰り返せ。他人から与えられなかった物を何もとらず、欲しがりもせず、与えられた物で満足せよ。
悪趣味な作家は、露ほども敬意を払われず死ぬ。
貪る老人は一刻も早い死を望まれている。この世で惜しまれて死ぬのは永久に失われない財産である徳の持ち主だけだ。
愚者に称賛されるのは賢者に蔑まれるのと同じくらい悪い。
善悪を見分けられない愚かな人物は、知らずに悪行し不幸に絡めとられる。無法者は或る場所に善意でいても、罰を受けうる。
愚者に子供がいても、悪人に子供がいても、その子供が幸せとはいえない。
財産について心配するな、徳について心配せよ。有徳の人物に極貧のくらしをさせる様な集団は、もともと存続の価値がない。
愚者に罵られたなら、賢者に誉められたのと同じくらい幸いである。
美貌が健康さの証でなければ、その見た目は作りものである。
子供らしさを模範にする者は年相応の尊敬を払われない。
悪い仲間しか見つからない国があったなら、その国で生きていく意味はないだろう。できるだけ早く良い人間のいる国に離脱しなければならない。悪徳集団の中で善行しても無駄である。無限に金を貪りたがる悪徳商人の間で慈善行為をしても、最後まで貪られ殺されるだけである。善人とだけつきあうがいい。
悪人集団の中で先祖代々二千年生きるより、善良な人達と一時間過ごす方が幸福である。悪徳集団に媚びを売るな。連中と親しむな。悪行を真似たりせず、連中を軽蔑し、遠く離れているがいい。悪人なるものが自滅しなかった試しはない。悪徳全般は自他を損害させるものだ。良い人とだけ時を過ごすがいい。
億万長者になっても死後に他人の持ち物になる。どれだけ富を消費しても虚しさだけが襲ってくる。虚栄は妬みを買い、金儲けは無駄足だ。この世で価値があるのは利他性だけである。だから見返りを求めない慈善行為を良い人に向けて行い、互いにその連鎖の中で生きるべきで、貪りたがる人を遠ざけよ。
金持ちを羨むのは彼らが決して幸福でないことを知らない者の妄想である。寧ろ何も持たず生きていながら人々に敬われている者を羨み、その人に近づこうとして生きよ。清貧は富について究極の中庸である。皇室は国民一般を税で貪っているが、彼らが幸福な人といえるだろうか。持たなければ失わないのだ。
愚者を賢くできると思うな。愚かさのある部分は、往々にして遺伝している。教えを聴き学ぶ能力がある者は、既に賢者の一部である。向学心のない者に教え諭すなかれ。
愚者の集まりにいて安心している者は、愚者の中の愚者である。その者の末路は衆愚ごとの破滅である。
肩書、学歴を賢愚の印にしている者は、羊頭狗肉を知らない。だから自らの賢さを隠せ。肩書によって態度を変える者を信用するな。
無数の愚者に好かれている者は、破滅への崖っぷちに立たされている。ただ一人の賢者と歩む者は、何億人もの衆愚の群れに打ち勝つ。
身に余る大金を手にした者は、驕り高ぶり進退を誤る。小人物は激しく現世を浮き沈みしている。虚栄を反例とし、この世になにも求めるな。自我の本質を無と悟り、死をも楽しみ、最善の慈悲ある振る舞いを繰り返せ。他人から与えられなかった物を何もとらず、欲しがりもせず、与えられた物で満足せよ。
悪趣味な作家は、露ほども敬意を払われず死ぬ。
貪る老人は一刻も早い死を望まれている。この世で惜しまれて死ぬのは永久に失われない財産である徳の持ち主だけだ。
愚者に称賛されるのは賢者に蔑まれるのと同じくらい悪い。
善悪を見分けられない愚かな人物は、知らずに悪行し不幸に絡めとられる。無法者は或る場所に善意でいても、罰を受けうる。
愚者に子供がいても、悪人に子供がいても、その子供が幸せとはいえない。
財産について心配するな、徳について心配せよ。有徳の人物に極貧のくらしをさせる様な集団は、もともと存続の価値がない。
愚者に罵られたなら、賢者に誉められたのと同じくらい幸いである。
美貌が健康さの証でなければ、その見た目は作りものである。
子供らしさを模範にする者は年相応の尊敬を払われない。
作品の質
小人物が永遠に残る作品を残そうとしても無益である。ある作品の通時性はそこに込められた徳の証だから。
千個の愚作は一個の傑作に劣る。小人物が自らの徳を省みず、技を磨いても、反映されるのは無数の悪例だけである。
良い作品を一つ残した人物は、人気作家に比べ、既に巨匠と呼ばれるだろう。
千個の愚作は一個の傑作に劣る。小人物が自らの徳を省みず、技を磨いても、反映されるのは無数の悪例だけである。
良い作品を一つ残した人物は、人気作家に比べ、既に巨匠と呼ばれるだろう。
N国党の執るべき戦略
N国党の主張の本質は、半公営部門としてのNHK全体の体質が、半公務員の利権組織として退廃していて、しかも受信料が一律負担なので庶民を犠牲にしている、よって抜本的組織改革(分波化による一律受信料制度の廃止、かつ、できたら民営化)が必要というものと思う。これまで法廷闘争してきたが埒が明かなかったので国会の場で利権を追及するしかなくなったのだろう。その点、扇動的政見放送とは別に主張自体は至って真面目で、しかも正鵠を射っているのは確かだろう。
私はNHKの完全民営化は、大衆迎合し更に低俗な番組がふえるだけで、しかも公営放送が全くなくなるのは多様性の減少と思うので余り望ましいともいえない気がする。しかし民間委託なら競争原理を利用する為にすべきで、分波化はこの点で必要ない。受信料は累進課税化のため政府が予算を捻出すればいい。例えばNHKオンデマンドは有料だから、私はかなりみたい番組あってもあんまりみてない。公共放送で別途料金とってる癖に金儲けしてるのはおかしい。贅沢三昧だわ薩長史観に偏ってるわ(それで税払ってわが水戸藩は貶められる)の大河ドラマ共々気に食わない。その時点で腐敗してると思うわけだが。
公営部門は民間企業と違って営利目的ではなく、公益目的なわけだ。所が現NHKは営利目的の方が頭をもたげているので、受信料も貧乏人から貪るわオンデマンドで更に金儲けるわ、立花代表が批判する通り職員(集金員とか)は半公務員ぶって横柄だわ、民放級ジャニタレに貢いでる分際で驕り高ぶっている。しかも、NHK受信料って法律上は義務なのに罰則ないか曖昧で、けちな都道府県民は蓄財してるくせ払わないのに(東京都民・大阪、京都府民のことです)生真面目な県民は貧しいのに沢山払っている(秋田県民のことです)という実に不公平なものだ(資料1、資料2)。国民を愚弄する制度でござろう。
現状の受信料制度が不公平なのは以上で明らかだから、立花代表がいう通り、最低でもこの制度をぶっ壊す必要は絶対にあると思う。公益放送は放送法通りいかなる政権も忖度すべきではないと思うが、この点は民放も一緒だ。東京キー局群はそもそもカルテルなので、電波権は一般公募の入札形式にすべきだ。
以前、堀江貴文氏の買収劇でネット対応が遅れた日本の東京キー局カルテルって、はっきりいって時代についてこれてないから完全にユーチューブ買収したグーグル覇権にお株奪われた形になった。ガラパゴスな匿名字幕で気持ち悪いニコ動すら丸パクリのビリビリにボロ負けしたし、色々東京利権は頭が悪い。まあ一言でいうと、東京界隈のテレビ・ネット利権って一種の都塵同業組合で、株式持ち合いみたく渋谷・六本木界隈の狭い同業者間で陣地取り合い兼ねた金の分け合いやっており、決定的革新を排除してできあがっている。私は馴れ合い大嫌いだし今後も一切近づかないが、彼らは世界に負けて当然と思った。東京都民全般は視野が狭い。なぜなら彼らは東京が日本の中心で頂点と思っているお山の大将だからで、その地位に安住していて世界をみてないのです。皆知ってると思いますが。勿論、少数派は世界を見てるが、そんなの極一部でしかない。真の革新はそんなお仲間ごっこから永遠に生まれないと確信できる。
で。私は都民でもなければ青年期過ごした東京自体、丸で肌に合わなかったし全然共感してないので、最初から冷たくみてるのだが、電波利権もそうだが彼らからすると政府と馴れ合ってガラパゴスな国内利権握ってりゃいいと思ってるだけで、世界に視聴者広げるなぞ寸分も思ってないんですね。馬鹿である。いいかえれば日本政府もこの点、大馬鹿である。東京キー局が雑魚だから堀江氏の革新を潰したわけで、そのせいでネットに軟着陸できずアベマTVとかいう出来損ないしか物凄く遅れてしかできず。なんでそんなに無能なの、というと単に、東京利権が無能なんですよ。無能が金もってて革新できるわけない。
私の思春期の頃にライブドア事件があった。で裁判逃げ回ってたひろゆきとかいう人が、ヌード出したモヒカン姿のホリエモンの隣でにやにやし、東京ネット起業家の不良っぷりをアピールしていた。あれは私らの世代、もしくは私には、都内IT業界の根本体質、即ち馴れ合いっぷりを失望させるに十分すぎた。彼らからすると自分は偉い商売人なんだろうが、既得権潰す前に潰されたからニヤニヤとは、普通に未来の(つまり今頃の)公益考えたら勝たないといけない勝負で妬んだ東京地検に足元掬われ負けてる(故にSBI北尾氏が白馬騎士扱いになった)のも駄目だったし、日本のネットが負け組になった瞬間だった。
比べて、少なくとも球団買収の方は成功した楽天三木谷氏のしたたかさは経団連入ってない今の時点でも明らかだった。が電波利権に挑んで勝ち収められた人物はいないから、正攻法で戦う限り駄目なんだと思う。立花氏はこの意味でダークホースで、茂木健一郎氏は彼を支離滅裂というが私はそうは思わない。NHK潰すのは、民営化の大義名分があるから場合によっては制度改革として可能だろうし、今後も国民側を焚きつけ長期戦にもちこみさえすれば、背後にある東京キー局電波利権にも食い込み、腐ったテレビ業界カルテルを潰食できる可能性がある。堀江氏とは違った角度でその悪魔的組織に挑んでいるのだ。
日本政府なり東京地検側はどうか。なぜあのとき堀江氏の味方しなかったか。答えは彼らに武士道風の賎貨思想が残存してたからでしょう。福岡久留米からでてきた素朴な拝金主義の権化な堀江氏は、徳川以来の東京風紀と根本的に混じり合わなかった。卑しい町人風情がと武士vs町人の焼き直し合戦があった。
で株式市場もだけど、国内ネット業界に与えたその後の影響はアメリカに大差つけられる結果になったわけで、最近は中国にも置いていかれた。だから電波利権の根底にあるのはネット広告業界との金のとりあいで、その点で堀江氏は勝者になれずイーロンマスクの真似みたいな方に転向してしまった。
私はアメーバ、即ちサイバーエージェントは嫌いである。理由はピグとかいうSNSをやってみたら内部は2chねらー級の犯罪者だらけだったのに全く取り締まってなかったからだ。その上その被害者救済は、自助組織を作ったユーザーの我々が直接やるしかなかった。とんでもない手抜きSNS。潰れて当然だった。故にアベマTVも嫌いだ。全く期待してないし今後もしないだろう。現役遊女だの元AKBだのをアナウンサーや解説者に出してるいかにも東京級テレビ朝日系列の吐き気がするネットテレビが私に相当嫌われようがどうでもいいだろうが。村上世彰氏『生涯投資家』読むと藤田晋氏は線が細い若者と書かれていた。
全てを鑑みて思うのは、日本のネット業界は金の殆どを都内の下衆なお仲間利権が握っているので全く進歩の余地がない。なぜならその人達は驚くほど無能だからで、しかも世界に目が開かれていないのである。サル山の中で威張り散らしてるだけの連中が小中華思想で驕っている。いずれ全部潰れるだろう。
私はいう、電波利権がどうとか次元が低すぎるのだと。そしてなんでそんな幼稚な足の引っ張り合いしてる連中がいるかなら、連中が馬鹿だから以外の答えはない。なんでそんな馬鹿が金権握ってしまっているかというと国内産業、特に資本関係が東京中心に腐っているからだ。それをカルテルというのである。
私は予言する、資本主義はひとりでに連中から金を根こそぎもっていき、世界中の人々、それは当然、東京都民を超え全国民であるばかりか全人類を含む人々に、公益を与える能力がある人に、その資本を渡すであろうと。グルの政府は電波権をキー局にとどめこれを妨げている。資本主義はもっと冷酷なのに。
子供はユーチューブをみているが、テレビつけなくなっている。なぜでしょう。資本主義の答えは番組内容にも競争原理を正しく使っているグーグルの方が賢いからです。面白い番組を作ってくれる人が一番儲かるしくみが開かれてるんだから当然、一番人気の人が利益追求で出てくるに決まっているのである。
上述のよう茂木氏は立花氏を批判してたが、単に立花氏の勝利は時間の問題である。NHK利権は不公平で反国民的なばかりか、背後にある資本関係からいっても政府と癒着し、金を外資よりうまく使えていない。キー局と同じで競争原理下に放り出されれば潰れるのは必然なのに税で肥え太っている。
結論としては、私はN国党は権力闘争に粘り腰で残れば今後もNHKの背後に控える東京キー局電波利権を、強制力で潰せる可能性があるので、グーグルより遥かに劣った都内カルテルに国内資本を握られている一般民衆がより良い番組を求め、支持する意義は相当大きいと思う。立花氏は道化を演じているだけだ。
そしてこれまで出現した国内IT業者で、一番テレビ利権に一撃食らわせる商才が期待できるのは、私は楽天三木谷氏と思う。彼の実業能力が相当高いのはこれまでの実績から明らかだからだし、既得権と安易に妥協する藤田晋氏の方はサービス自体のちゃらちゃらした無法ぶりを実体験もしたし、期待薄と思う。電波改革のため立花氏は今後、中ボスのNHK潰した次に出てくるいわゆるキー局の大ボス連中を大向うに回す必要があると私は予想する。2:8の法則でいうと、最大の成果には最も有能な人物に集中投資すべきなので、その時は藤田氏ではなく三木谷氏と組むべきだと私はいっておく。勝たねば意味がない。
私はNHKの完全民営化は、大衆迎合し更に低俗な番組がふえるだけで、しかも公営放送が全くなくなるのは多様性の減少と思うので余り望ましいともいえない気がする。しかし民間委託なら競争原理を利用する為にすべきで、分波化はこの点で必要ない。受信料は累進課税化のため政府が予算を捻出すればいい。例えばNHKオンデマンドは有料だから、私はかなりみたい番組あってもあんまりみてない。公共放送で別途料金とってる癖に金儲けしてるのはおかしい。贅沢三昧だわ薩長史観に偏ってるわ(それで税払ってわが水戸藩は貶められる)の大河ドラマ共々気に食わない。その時点で腐敗してると思うわけだが。
公営部門は民間企業と違って営利目的ではなく、公益目的なわけだ。所が現NHKは営利目的の方が頭をもたげているので、受信料も貧乏人から貪るわオンデマンドで更に金儲けるわ、立花代表が批判する通り職員(集金員とか)は半公務員ぶって横柄だわ、民放級ジャニタレに貢いでる分際で驕り高ぶっている。しかも、NHK受信料って法律上は義務なのに罰則ないか曖昧で、けちな都道府県民は蓄財してるくせ払わないのに(東京都民・大阪、京都府民のことです)生真面目な県民は貧しいのに沢山払っている(秋田県民のことです)という実に不公平なものだ(資料1、資料2)。国民を愚弄する制度でござろう。
現状の受信料制度が不公平なのは以上で明らかだから、立花代表がいう通り、最低でもこの制度をぶっ壊す必要は絶対にあると思う。公益放送は放送法通りいかなる政権も忖度すべきではないと思うが、この点は民放も一緒だ。東京キー局群はそもそもカルテルなので、電波権は一般公募の入札形式にすべきだ。
以前、堀江貴文氏の買収劇でネット対応が遅れた日本の東京キー局カルテルって、はっきりいって時代についてこれてないから完全にユーチューブ買収したグーグル覇権にお株奪われた形になった。ガラパゴスな匿名字幕で気持ち悪いニコ動すら丸パクリのビリビリにボロ負けしたし、色々東京利権は頭が悪い。まあ一言でいうと、東京界隈のテレビ・ネット利権って一種の都塵同業組合で、株式持ち合いみたく渋谷・六本木界隈の狭い同業者間で陣地取り合い兼ねた金の分け合いやっており、決定的革新を排除してできあがっている。私は馴れ合い大嫌いだし今後も一切近づかないが、彼らは世界に負けて当然と思った。東京都民全般は視野が狭い。なぜなら彼らは東京が日本の中心で頂点と思っているお山の大将だからで、その地位に安住していて世界をみてないのです。皆知ってると思いますが。勿論、少数派は世界を見てるが、そんなの極一部でしかない。真の革新はそんなお仲間ごっこから永遠に生まれないと確信できる。
で。私は都民でもなければ青年期過ごした東京自体、丸で肌に合わなかったし全然共感してないので、最初から冷たくみてるのだが、電波利権もそうだが彼らからすると政府と馴れ合ってガラパゴスな国内利権握ってりゃいいと思ってるだけで、世界に視聴者広げるなぞ寸分も思ってないんですね。馬鹿である。いいかえれば日本政府もこの点、大馬鹿である。東京キー局が雑魚だから堀江氏の革新を潰したわけで、そのせいでネットに軟着陸できずアベマTVとかいう出来損ないしか物凄く遅れてしかできず。なんでそんなに無能なの、というと単に、東京利権が無能なんですよ。無能が金もってて革新できるわけない。
私の思春期の頃にライブドア事件があった。で裁判逃げ回ってたひろゆきとかいう人が、ヌード出したモヒカン姿のホリエモンの隣でにやにやし、東京ネット起業家の不良っぷりをアピールしていた。あれは私らの世代、もしくは私には、都内IT業界の根本体質、即ち馴れ合いっぷりを失望させるに十分すぎた。彼らからすると自分は偉い商売人なんだろうが、既得権潰す前に潰されたからニヤニヤとは、普通に未来の(つまり今頃の)公益考えたら勝たないといけない勝負で妬んだ東京地検に足元掬われ負けてる(故にSBI北尾氏が白馬騎士扱いになった)のも駄目だったし、日本のネットが負け組になった瞬間だった。
比べて、少なくとも球団買収の方は成功した楽天三木谷氏のしたたかさは経団連入ってない今の時点でも明らかだった。が電波利権に挑んで勝ち収められた人物はいないから、正攻法で戦う限り駄目なんだと思う。立花氏はこの意味でダークホースで、茂木健一郎氏は彼を支離滅裂というが私はそうは思わない。NHK潰すのは、民営化の大義名分があるから場合によっては制度改革として可能だろうし、今後も国民側を焚きつけ長期戦にもちこみさえすれば、背後にある東京キー局電波利権にも食い込み、腐ったテレビ業界カルテルを潰食できる可能性がある。堀江氏とは違った角度でその悪魔的組織に挑んでいるのだ。
日本政府なり東京地検側はどうか。なぜあのとき堀江氏の味方しなかったか。答えは彼らに武士道風の賎貨思想が残存してたからでしょう。福岡久留米からでてきた素朴な拝金主義の権化な堀江氏は、徳川以来の東京風紀と根本的に混じり合わなかった。卑しい町人風情がと武士vs町人の焼き直し合戦があった。
で株式市場もだけど、国内ネット業界に与えたその後の影響はアメリカに大差つけられる結果になったわけで、最近は中国にも置いていかれた。だから電波利権の根底にあるのはネット広告業界との金のとりあいで、その点で堀江氏は勝者になれずイーロンマスクの真似みたいな方に転向してしまった。
私はアメーバ、即ちサイバーエージェントは嫌いである。理由はピグとかいうSNSをやってみたら内部は2chねらー級の犯罪者だらけだったのに全く取り締まってなかったからだ。その上その被害者救済は、自助組織を作ったユーザーの我々が直接やるしかなかった。とんでもない手抜きSNS。潰れて当然だった。故にアベマTVも嫌いだ。全く期待してないし今後もしないだろう。現役遊女だの元AKBだのをアナウンサーや解説者に出してるいかにも東京級テレビ朝日系列の吐き気がするネットテレビが私に相当嫌われようがどうでもいいだろうが。村上世彰氏『生涯投資家』読むと藤田晋氏は線が細い若者と書かれていた。
全てを鑑みて思うのは、日本のネット業界は金の殆どを都内の下衆なお仲間利権が握っているので全く進歩の余地がない。なぜならその人達は驚くほど無能だからで、しかも世界に目が開かれていないのである。サル山の中で威張り散らしてるだけの連中が小中華思想で驕っている。いずれ全部潰れるだろう。
私はいう、電波利権がどうとか次元が低すぎるのだと。そしてなんでそんな幼稚な足の引っ張り合いしてる連中がいるかなら、連中が馬鹿だから以外の答えはない。なんでそんな馬鹿が金権握ってしまっているかというと国内産業、特に資本関係が東京中心に腐っているからだ。それをカルテルというのである。
私は予言する、資本主義はひとりでに連中から金を根こそぎもっていき、世界中の人々、それは当然、東京都民を超え全国民であるばかりか全人類を含む人々に、公益を与える能力がある人に、その資本を渡すであろうと。グルの政府は電波権をキー局にとどめこれを妨げている。資本主義はもっと冷酷なのに。
子供はユーチューブをみているが、テレビつけなくなっている。なぜでしょう。資本主義の答えは番組内容にも競争原理を正しく使っているグーグルの方が賢いからです。面白い番組を作ってくれる人が一番儲かるしくみが開かれてるんだから当然、一番人気の人が利益追求で出てくるに決まっているのである。
上述のよう茂木氏は立花氏を批判してたが、単に立花氏の勝利は時間の問題である。NHK利権は不公平で反国民的なばかりか、背後にある資本関係からいっても政府と癒着し、金を外資よりうまく使えていない。キー局と同じで競争原理下に放り出されれば潰れるのは必然なのに税で肥え太っている。
結論としては、私はN国党は権力闘争に粘り腰で残れば今後もNHKの背後に控える東京キー局電波利権を、強制力で潰せる可能性があるので、グーグルより遥かに劣った都内カルテルに国内資本を握られている一般民衆がより良い番組を求め、支持する意義は相当大きいと思う。立花氏は道化を演じているだけだ。
そしてこれまで出現した国内IT業者で、一番テレビ利権に一撃食らわせる商才が期待できるのは、私は楽天三木谷氏と思う。彼の実業能力が相当高いのはこれまでの実績から明らかだからだし、既得権と安易に妥協する藤田晋氏の方はサービス自体のちゃらちゃらした無法ぶりを実体験もしたし、期待薄と思う。電波改革のため立花氏は今後、中ボスのNHK潰した次に出てくるいわゆるキー局の大ボス連中を大向うに回す必要があると私は予想する。2:8の法則でいうと、最大の成果には最も有能な人物に集中投資すべきなので、その時は藤田氏ではなく三木谷氏と組むべきだと私はいっておく。勝たねば意味がない。
ゆとりネトウヨ世代はどこで安倍自民党に騙されたと気づくか
全共闘世代みてると思春期に挫折してから資本主義者に転向し、その後もだらだら生きてた様にみえる。今のゆとりネトウヨ世代もどこかで安倍独裁下の悪政結果を自らが因果応報受けていたのだと気づく瞬間がきて、その後は中途半端左派に転向しだらだら生きていくのではないか? 小泉旋風の後みたいに。
当人たちは無自覚なのだろうが、今の10代は就職率同調圧力の中、震災を民主党のせいに仕立てぼんやりネット右翼になり安倍礼賛・自民党支持が「正義」、そこまで公知がなければノンポリでネトゲだのサブカルオタクしてるのが「普通」と考えているので、いつまでもその種の愚行が続けられる筈もない。
当人たちは無自覚なのだろうが、今の10代は就職率同調圧力の中、震災を民主党のせいに仕立てぼんやりネット右翼になり安倍礼賛・自民党支持が「正義」、そこまで公知がなければノンポリでネトゲだのサブカルオタクしてるのが「普通」と考えているので、いつまでもその種の愚行が続けられる筈もない。
津田大介氏による皇室タブー表現をめぐる戦い
津田大介氏をめぐる政治的駆け引きはかなり興味深いけど、平凡な現代アートは全く興味を惹かない。この点であいちトリエンナーレ2019に於いて、「表現の不自由展・その後」の外にあった現代アート群は、美術批評的な本質で津田氏に負けたと思う。完敗だと思う。勿論、現代アートの本筋からすると実に些末な政治的トピックだから、下らないと一蹴する意見の方が美術批評の主流だろうけど、少なくとも政治的論争の種、特に天皇タブーを侵す極左ネタを完全に大炎上級まで仕込んだ手腕は評価すべきと思う。確信犯で大村愛知県知事とアートテロ企てたのは事実なので。
現代アートは全く現実社会と遊離した、美大芸大卒凡才が上品ぶり親や行政といったパトロンの金でお遊びやってる赤字空間にすぎなくなっていたのを、津田氏は「表現の不自由展・その後」で背理法的に証明していると思う。つまりはコンセプチュアルアートも、政治も別次元の下らない世界だったのである。
文化行政とかいう意味不明な言葉で、地域おこしのため芸術祭をやる、この枠組みは中途半端に分かりづらい現代アート、特にアースワーク系を高尚ぶって一般集客用に財政支出する目的だった。新手のケインズ政策だったのだ。そこに寄生し僅かなおこぼれに与ろうと美大芸大卒の赤字人間がたかっていた。芸術祭は食えない作家が売名する場、その為に安売りする場として集団就職式に行政から買い叩かれ、結局何も残せなかった。なぜなら競売を含む西洋の美術市場に類した代物が日本にはなく、銀座の画廊の様な全く別の国内ガラパゴス市場が小さくあるだけだからだ。不当廉売の結果が汚名。救われない。
津田氏は最初の不公平な男女比同数コンセプトの発表時点で、少なくとも知性をもつ美術関係者から当然の如く批判されていたとき発狂し、すぐツイート消してたが美術関係者は全員死ぬべきなど暴言を吐いていた。その恨み分けは作家を犠牲にする表現不自由展やあいちトリエンナーレ2019全体に反映された。今後、あいちトリエンナーレ2019に参加していたと経歴に書く関係作家は、表現不自由展と凡そ無関係でも右翼全般を暗に敵に回す結果になるだろうから、単に作品ごとの報酬額でケチな行政から買い叩かれているだけでなく参加作家らは汚名まで着せられている。津田氏は自爆アートテロをした様なものだ。
もっと興味深い点は、文化庁だけでなくトヨタを筆頭とする主な愛知県企業群が後援していたので経済界のメセナ自体を自爆テロ的に冒涜してしまった所だ。アドバイザーだった東浩紀氏も経営者だったろうに、この点、完全に無自覚だったと思う。今後彼らが閉鎖的な愛知財界から総スカン喰らうのは当然だ。
愛知県は宗春以来、重商主義や実利志向(子供に複数の資格をとらせるなど)の傾向が強く、トヨタにもその気質は反映されているわけだが、当然、虚業に属する芸術に関しては後手に回っていて、そもそもあいちトリエンナーレもその劣位を企業メセナ慈善事業の建前で取り返したい悲願があった筈だろう。所が回を重ねるに従って段々と、愛知の気風に感染したか集客目的が激しくなった極点に、東京で有名なネットの人気記者、横文字で媒体活動家と名乗る「隠れ真性左翼」に白羽の矢を立ててしまった。彼が芸術監督として権力を一手に握ると本性を現し、天皇冒涜と思われる表現を確信犯で忍び込ませた。
大村秀章氏は対応をみてると典型的な東大卒官僚出身の「よかれあしかれ」優等生で、事の深刻さに勘づくと保身を図った。東大論法式に表現自由を建前に訝しがる民衆といきり立った極右を煙に巻き、天皇冒涜展示を3日で撤去した。その後、責任転嫁のため調査委員会を立ち上げ津田氏を責める場にした。東浩紀氏もこれまた東大論法(監督辞任すべきとの意見を聞き入れられなかったなどいっていたが、問題は天皇冒涜を行政展の表現自由に、共謀しぶつけたというその遥か先にあるのだから論理のすり替えだ)で保身を図り、足早にアドバイザー辞任、知らんぷりを決め込むや津田氏と繋がった尻尾を切った。
孤立した津田氏は表現不自由展実行委員会からも、炎上と検閲で迷惑被る各作家からも、大村知事からも突き上げを喰らい、その上ネット右翼からも真性右翼からも、県税で汚名着せられ脅迫受けてる愛知県民一般からも、嘗ての師からも、愛知企業からも総攻撃状態の中で謝罪文を書いた。激痩せしたと聴く(写真で見る限り全然痩せてないが)。あれだけ意気軒昂に津田氏の意味不明なジェンダー論(彼は社会的性差の意味でなく性別の意味で使っている)をツイッター上で擁護しまくり、どうみても男女不公平な男女比結果1:1のコンセプトで大歓喜、私を匿名で集団虐待していた津田フォロワー群はほぼ一様に押し黙り、彼を見捨てたみたくみえる。
後1ヶ月ほど開催期間あるが、あいちトリエンナーレ2019は日本美術史の中では成功例とは書かれず、事件ではあるが表現検閲の一例になると思う。そしてこれを全面的に津田氏の責任にしたてあげている大村氏と東氏は、一言でいえば卑怯者である。彼らは明らかに意図して共謀したのに脅迫に屈したのだ。
単なる小規模な地方自治体の行政展くらいなら余程奇特な極右が文句つけおおごとにしなければお咎めなしかもしれないが、事が国際展だったので天皇冒涜は右翼を煽る事件になると予見できるに決まっているし、現に通称「くねくね動画」でも、或いは大村氏への内容の事前通告でもできていた。炎上商法だ。表現不自由展に踊っている民衆は、行政を脅迫した右翼も、怒ったり悲しんだりした愛知県民も、津田氏らに計画済みの扇動されてるだけである。予定外なのは大村氏と東氏の裏切りである。元は津田氏が起点となり、表現自由の憲法の盾で、漸く日帝憲法をのりこえ、天皇批判をも可能にする企てだったのだ。
津田氏は国際社会からみれば、政教一致の神道教祖が天皇(宗教権力者と裏政治権力者を兼ねた存在)と名乗って君臨し、表現に検閲を敷いているのを暴露するのは決定的な極左活動家の仕事だったのである。だから彼にしては父の志を継ぎ、命を狙われようが飽くまで検閲批判天皇批判を遂行する義務がある。いいかえれば津田氏からするとかなり強大な権力を握れた行政国際展の芸術監督の仕事は、千載一遇の機会だった筈だ。そこに彼が必殺技としてぶつけてきたのが、皇室の政教一致批判だった。ある意味予定されていた大炎上だったのだ。天皇の偽善と悪意、身分制差別、飛鳥時代から続く世襲独裁を裁くこと。
天皇の先祖は弥生時代の時点で、恐らく弥生人の一部として大陸から移民してきたのだろう。やがて米を蓄財し奈良地方の豪族として成り上がり、自己神格化の多神教を遣隋使経由で輸入、自らを中国神話上の三皇の一人へ偽装した。今で言えば中二病極まった新興宗教じみたやくざ、暴力団長だった。その後、自ら中華皇帝を模した大化の改新から1374年あまり経っても、暴力団(警察も最大の勢力をもつ暴力団である)の総元締めたる地位にしがみつき、相も変わらず愚民愚官を自己崇拝させる殺人邪教で洗脳し続けている。津田氏が不自由展で批判的に暴いたのは、衆愚的な皇室権威・権力の邪悪さだった。無自覚な神道信者連中は、子供の頃から宮内庁2階に陣取る宮内記者会に検閲されまくった、テレビ政治の同調圧力で囲まれ、皇室崇拝を天地自然の理と思い詰めているので、津田氏の極左アートテロをみるや大発狂してしまった。そして脅迫や殺害予告などあらゆるいつもの殺人邪教徒ぶりを発揮しだした。
現時点までのあいちトリエンナーレ2019、特に表現不自由展をとりまく流れは自分が見てた限りこんなところだが、恐らくだが天皇側もいつもの通りなんらかの手を回し(決して表沙汰にならない形で)愛知県行政に圧力を加えているか、その予定だろうし、津田氏が今後どうやって戦い抜くかに注目したい。
沖縄タイムス(「「沖縄バッシングと似た構図」津田大介さん、混乱から見えたもの」2019年8月29日)の記事内で、大浦信行氏『遠近を抱えて』は天皇批判の文脈ではない、と津田氏は解釈している様だが、確かに富山県立美術館による図録償却を更に模倣するというプラトン画家論みたいな文脈が本筋にあるにせよ、婉曲的に、天皇タブーを皮肉ってるともいえる作品でもある。
現代アートは全く現実社会と遊離した、美大芸大卒凡才が上品ぶり親や行政といったパトロンの金でお遊びやってる赤字空間にすぎなくなっていたのを、津田氏は「表現の不自由展・その後」で背理法的に証明していると思う。つまりはコンセプチュアルアートも、政治も別次元の下らない世界だったのである。
文化行政とかいう意味不明な言葉で、地域おこしのため芸術祭をやる、この枠組みは中途半端に分かりづらい現代アート、特にアースワーク系を高尚ぶって一般集客用に財政支出する目的だった。新手のケインズ政策だったのだ。そこに寄生し僅かなおこぼれに与ろうと美大芸大卒の赤字人間がたかっていた。芸術祭は食えない作家が売名する場、その為に安売りする場として集団就職式に行政から買い叩かれ、結局何も残せなかった。なぜなら競売を含む西洋の美術市場に類した代物が日本にはなく、銀座の画廊の様な全く別の国内ガラパゴス市場が小さくあるだけだからだ。不当廉売の結果が汚名。救われない。
津田氏は最初の不公平な男女比同数コンセプトの発表時点で、少なくとも知性をもつ美術関係者から当然の如く批判されていたとき発狂し、すぐツイート消してたが美術関係者は全員死ぬべきなど暴言を吐いていた。その恨み分けは作家を犠牲にする表現不自由展やあいちトリエンナーレ2019全体に反映された。今後、あいちトリエンナーレ2019に参加していたと経歴に書く関係作家は、表現不自由展と凡そ無関係でも右翼全般を暗に敵に回す結果になるだろうから、単に作品ごとの報酬額でケチな行政から買い叩かれているだけでなく参加作家らは汚名まで着せられている。津田氏は自爆アートテロをした様なものだ。
もっと興味深い点は、文化庁だけでなくトヨタを筆頭とする主な愛知県企業群が後援していたので経済界のメセナ自体を自爆テロ的に冒涜してしまった所だ。アドバイザーだった東浩紀氏も経営者だったろうに、この点、完全に無自覚だったと思う。今後彼らが閉鎖的な愛知財界から総スカン喰らうのは当然だ。
愛知県は宗春以来、重商主義や実利志向(子供に複数の資格をとらせるなど)の傾向が強く、トヨタにもその気質は反映されているわけだが、当然、虚業に属する芸術に関しては後手に回っていて、そもそもあいちトリエンナーレもその劣位を企業メセナ慈善事業の建前で取り返したい悲願があった筈だろう。所が回を重ねるに従って段々と、愛知の気風に感染したか集客目的が激しくなった極点に、東京で有名なネットの人気記者、横文字で媒体活動家と名乗る「隠れ真性左翼」に白羽の矢を立ててしまった。彼が芸術監督として権力を一手に握ると本性を現し、天皇冒涜と思われる表現を確信犯で忍び込ませた。
大村秀章氏は対応をみてると典型的な東大卒官僚出身の「よかれあしかれ」優等生で、事の深刻さに勘づくと保身を図った。東大論法式に表現自由を建前に訝しがる民衆といきり立った極右を煙に巻き、天皇冒涜展示を3日で撤去した。その後、責任転嫁のため調査委員会を立ち上げ津田氏を責める場にした。東浩紀氏もこれまた東大論法(監督辞任すべきとの意見を聞き入れられなかったなどいっていたが、問題は天皇冒涜を行政展の表現自由に、共謀しぶつけたというその遥か先にあるのだから論理のすり替えだ)で保身を図り、足早にアドバイザー辞任、知らんぷりを決め込むや津田氏と繋がった尻尾を切った。
孤立した津田氏は表現不自由展実行委員会からも、炎上と検閲で迷惑被る各作家からも、大村知事からも突き上げを喰らい、その上ネット右翼からも真性右翼からも、県税で汚名着せられ脅迫受けてる愛知県民一般からも、嘗ての師からも、愛知企業からも総攻撃状態の中で謝罪文を書いた。激痩せしたと聴く(写真で見る限り全然痩せてないが)。あれだけ意気軒昂に津田氏の意味不明なジェンダー論(彼は社会的性差の意味でなく性別の意味で使っている)をツイッター上で擁護しまくり、どうみても男女不公平な男女比結果1:1のコンセプトで大歓喜、私を匿名で集団虐待していた津田フォロワー群はほぼ一様に押し黙り、彼を見捨てたみたくみえる。
後1ヶ月ほど開催期間あるが、あいちトリエンナーレ2019は日本美術史の中では成功例とは書かれず、事件ではあるが表現検閲の一例になると思う。そしてこれを全面的に津田氏の責任にしたてあげている大村氏と東氏は、一言でいえば卑怯者である。彼らは明らかに意図して共謀したのに脅迫に屈したのだ。
単なる小規模な地方自治体の行政展くらいなら余程奇特な極右が文句つけおおごとにしなければお咎めなしかもしれないが、事が国際展だったので天皇冒涜は右翼を煽る事件になると予見できるに決まっているし、現に通称「くねくね動画」でも、或いは大村氏への内容の事前通告でもできていた。炎上商法だ。表現不自由展に踊っている民衆は、行政を脅迫した右翼も、怒ったり悲しんだりした愛知県民も、津田氏らに計画済みの扇動されてるだけである。予定外なのは大村氏と東氏の裏切りである。元は津田氏が起点となり、表現自由の憲法の盾で、漸く日帝憲法をのりこえ、天皇批判をも可能にする企てだったのだ。
津田氏は国際社会からみれば、政教一致の神道教祖が天皇(宗教権力者と裏政治権力者を兼ねた存在)と名乗って君臨し、表現に検閲を敷いているのを暴露するのは決定的な極左活動家の仕事だったのである。だから彼にしては父の志を継ぎ、命を狙われようが飽くまで検閲批判天皇批判を遂行する義務がある。いいかえれば津田氏からするとかなり強大な権力を握れた行政国際展の芸術監督の仕事は、千載一遇の機会だった筈だ。そこに彼が必殺技としてぶつけてきたのが、皇室の政教一致批判だった。ある意味予定されていた大炎上だったのだ。天皇の偽善と悪意、身分制差別、飛鳥時代から続く世襲独裁を裁くこと。
天皇の先祖は弥生時代の時点で、恐らく弥生人の一部として大陸から移民してきたのだろう。やがて米を蓄財し奈良地方の豪族として成り上がり、自己神格化の多神教を遣隋使経由で輸入、自らを中国神話上の三皇の一人へ偽装した。今で言えば中二病極まった新興宗教じみたやくざ、暴力団長だった。その後、自ら中華皇帝を模した大化の改新から1374年あまり経っても、暴力団(警察も最大の勢力をもつ暴力団である)の総元締めたる地位にしがみつき、相も変わらず愚民愚官を自己崇拝させる殺人邪教で洗脳し続けている。津田氏が不自由展で批判的に暴いたのは、衆愚的な皇室権威・権力の邪悪さだった。無自覚な神道信者連中は、子供の頃から宮内庁2階に陣取る宮内記者会に検閲されまくった、テレビ政治の同調圧力で囲まれ、皇室崇拝を天地自然の理と思い詰めているので、津田氏の極左アートテロをみるや大発狂してしまった。そして脅迫や殺害予告などあらゆるいつもの殺人邪教徒ぶりを発揮しだした。
現時点までのあいちトリエンナーレ2019、特に表現不自由展をとりまく流れは自分が見てた限りこんなところだが、恐らくだが天皇側もいつもの通りなんらかの手を回し(決して表沙汰にならない形で)愛知県行政に圧力を加えているか、その予定だろうし、津田氏が今後どうやって戦い抜くかに注目したい。
沖縄タイムス(「「沖縄バッシングと似た構図」津田大介さん、混乱から見えたもの」2019年8月29日)の記事内で、大浦信行氏『遠近を抱えて』は天皇批判の文脈ではない、と津田氏は解釈している様だが、確かに富山県立美術館による図録償却を更に模倣するというプラトン画家論みたいな文脈が本筋にあるにせよ、婉曲的に、天皇タブーを皮肉ってるともいえる作品でもある。
虹
めがねのコーティングが剥がれて光にかざすと虹みたい
庭に飛ぶ蝶々の名前も知らない朝のひととき
われひとりめだかに餌を与えつつ朝は過ぎゆく庭に蝉鳴く
虫の鳴く夜が次第に寒くなり暮夏の果てなりタオルケットと
庭に飛ぶ蝶々の名前も知らない朝のひととき
われひとりめだかに餌を与えつつ朝は過ぎゆく庭に蝉鳴く
虫の鳴く夜が次第に寒くなり暮夏の果てなりタオルケットと
媒体(メディア)は正義か?
媒体は現実をなんらかの向きに歪め、切り取り、抽出して伝える。それは偶像崇拝を生み出す。媒体が正義たりうるのは現実の見方を非典型的、かつ、公益的に提示する場合だけである。特定の個人にとってだけ望ましいと同時に、特定の人に有害な媒体の抽出は、偶像崇拝を強化するので、専ら不正である。
2019年8月28日
愚かなのは反証的分析度の低さで必ずしも分類単位の大きさではない
地域や文化、世代などを一括りして考えること自体を「差別」とみなしている人は、その何らかの共通集団単位を詳しく科学的に分析しようとしている人より愚かである。
差別は事実と異なる何らかの偏見を汚名として着せ人権侵害することや不利な立場に貶めることを指すしそれは裏返せば逆差別にもあたる。一方、単なる個人ではない法人や自治体、風土、文化ミームを科学的に(反証的に)分析することは当然できるし、単に謬説や不当な人権侵害が愚かな臆断なだけだ。例えばトヨタ自動車と日立製作所の法人格の違い、愛知県と北海道の自治体の違い、東北と九州の風土の違い、日本語と英語の文化ミームの違いなどは科学的に分析できる。愚劣なのはこういった分析を非科学的に行い、韓国人全体を劣等視したり、田舎全体を侮辱したりする悪徳と虚偽に満ちた蛮行にあたる。
逆差別(ひいき)は差別の一類型だ。だから東京をあらゆる現実の側面に反し全面的に美化したり、北海道や京都や沖縄を欠点を無視し良いイメージのみに理想視したりするのは、確かに恥知らずな差別である。米国が中国よりよい場所だといったり、欧州を東南アジアより優れているとみなすのも同じである。
一方、県民性偏見とか国民性偏見、民族的偏見、人種的偏見、見た目の偏見、性的偏見など、どうみても科学的整合性に反する無根拠で悪意ある偏見、占い級の謬説が、一定人数の主観を調査した疑似統計と共に唱えられているのをみかける。単なる経験則と科学を見分けるのは一定以上の知性が必要なわけだ。
個人単位にしても分人概念みたいに、まあこれ多重人格っぽくて私は採用してないのだが、今日より細分化できる可塑性もあるので、個人に対する一定の見解なら間違い様がないってのもある種の偏見だ。君子豹変、男子(女子でもその他でもいいが)三日会わざれば刮目して見よ、との諺もある。
『菊と刀』は唯の偏見の塊といえるか? 日帝単位で天皇制ファシズムに特化していた時代、ベネディクトは客観的にその集合性を分析していたわけだが、科学性があるかでいえば社会学的な非実証度で、曖昧な抽象性しかないだろうが、それでもこの本がGHQの間接統治で天皇制維持させた原因の一つと思う。
私がいいたいのは、集合性にせよ個人性にせよ、全体性であれ、反証的に分析し続けられるだけであって、個人単位だから単純で単一認識の信用度が高いとか集合単位が大ゆえ複雑で分析困難と決めてかかるのもどうかと思う。そして差別と科学的分析、道徳的判断は違う。事実として不利な点がある相手を、利他的に尊重するという態度がありうるのだ。この点は強調してもいいと思う。
生得的不利さをみなかったことにする、という偽善的科学性がある。例えばIQの遺伝要素とか家庭環境の差、当人の進路の意志を無視し、受験勉強の結果は公平な差別だとのたまう類。
事実を或る集団単位でも精確に見て取るのと、その事実に対し哲学的なり道徳的判断を行うのは別だ。例えば地域Aの集団の平均IQが低かったからといってその集団へ被差別的な扱いをするのは悪徳であり、そもそもその統計を無視するのは暗愚であり、単にその集団の不利な点を補う教育補助が公益なわけだ。
今書いたことが分かる人は、個人単位でもそもそも最初から差別や偏見が事実でない汚名着せ(レッテル貼り、stigma、烙印)に過ぎない以上、できるだけその汚名に反対の証拠を集め真実に近づきつつ、実際に被差別者が不利な立場にあった場合は救済措置に努力するだろうから、一々いうまでもないのだが。
又例えば南北朝鮮や会津地方の出身者に、日本出身者や山口県出身者と或る場合に全く同じ政治的態度で接するのも偽の公平でしかなく、この点では歴史認識の欠けている無知な凡愚が、広義の反差別を取り違えている。その意味で個人主義には根本的に限界がある。全人類は等しい背景ではない。
私がなぜこれを書いたかというと、或る人物がブログで、集団認知すなわち愚と書いていたからなのだが、分類を単純化しすぎる点ではこの人物も同じだし、そもそもそれでいえば個人単位の精確な認知もできないので分類自体不可能になる。つまり問題なのは単位ではなく、反証的分析度の低さなのである。
差別は事実と異なる何らかの偏見を汚名として着せ人権侵害することや不利な立場に貶めることを指すしそれは裏返せば逆差別にもあたる。一方、単なる個人ではない法人や自治体、風土、文化ミームを科学的に(反証的に)分析することは当然できるし、単に謬説や不当な人権侵害が愚かな臆断なだけだ。例えばトヨタ自動車と日立製作所の法人格の違い、愛知県と北海道の自治体の違い、東北と九州の風土の違い、日本語と英語の文化ミームの違いなどは科学的に分析できる。愚劣なのはこういった分析を非科学的に行い、韓国人全体を劣等視したり、田舎全体を侮辱したりする悪徳と虚偽に満ちた蛮行にあたる。
逆差別(ひいき)は差別の一類型だ。だから東京をあらゆる現実の側面に反し全面的に美化したり、北海道や京都や沖縄を欠点を無視し良いイメージのみに理想視したりするのは、確かに恥知らずな差別である。米国が中国よりよい場所だといったり、欧州を東南アジアより優れているとみなすのも同じである。
一方、県民性偏見とか国民性偏見、民族的偏見、人種的偏見、見た目の偏見、性的偏見など、どうみても科学的整合性に反する無根拠で悪意ある偏見、占い級の謬説が、一定人数の主観を調査した疑似統計と共に唱えられているのをみかける。単なる経験則と科学を見分けるのは一定以上の知性が必要なわけだ。
個人単位にしても分人概念みたいに、まあこれ多重人格っぽくて私は採用してないのだが、今日より細分化できる可塑性もあるので、個人に対する一定の見解なら間違い様がないってのもある種の偏見だ。君子豹変、男子(女子でもその他でもいいが)三日会わざれば刮目して見よ、との諺もある。
『菊と刀』は唯の偏見の塊といえるか? 日帝単位で天皇制ファシズムに特化していた時代、ベネディクトは客観的にその集合性を分析していたわけだが、科学性があるかでいえば社会学的な非実証度で、曖昧な抽象性しかないだろうが、それでもこの本がGHQの間接統治で天皇制維持させた原因の一つと思う。
私がいいたいのは、集合性にせよ個人性にせよ、全体性であれ、反証的に分析し続けられるだけであって、個人単位だから単純で単一認識の信用度が高いとか集合単位が大ゆえ複雑で分析困難と決めてかかるのもどうかと思う。そして差別と科学的分析、道徳的判断は違う。事実として不利な点がある相手を、利他的に尊重するという態度がありうるのだ。この点は強調してもいいと思う。
生得的不利さをみなかったことにする、という偽善的科学性がある。例えばIQの遺伝要素とか家庭環境の差、当人の進路の意志を無視し、受験勉強の結果は公平な差別だとのたまう類。
事実を或る集団単位でも精確に見て取るのと、その事実に対し哲学的なり道徳的判断を行うのは別だ。例えば地域Aの集団の平均IQが低かったからといってその集団へ被差別的な扱いをするのは悪徳であり、そもそもその統計を無視するのは暗愚であり、単にその集団の不利な点を補う教育補助が公益なわけだ。
今書いたことが分かる人は、個人単位でもそもそも最初から差別や偏見が事実でない汚名着せ(レッテル貼り、stigma、烙印)に過ぎない以上、できるだけその汚名に反対の証拠を集め真実に近づきつつ、実際に被差別者が不利な立場にあった場合は救済措置に努力するだろうから、一々いうまでもないのだが。
又例えば南北朝鮮や会津地方の出身者に、日本出身者や山口県出身者と或る場合に全く同じ政治的態度で接するのも偽の公平でしかなく、この点では歴史認識の欠けている無知な凡愚が、広義の反差別を取り違えている。その意味で個人主義には根本的に限界がある。全人類は等しい背景ではない。
私がなぜこれを書いたかというと、或る人物がブログで、集団認知すなわち愚と書いていたからなのだが、分類を単純化しすぎる点ではこの人物も同じだし、そもそもそれでいえば個人単位の精確な認知もできないので分類自体不可能になる。つまり問題なのは単位ではなく、反証的分析度の低さなのである。
公益資本主義は株主資本主義より優れているか?
私の現時点の意見では、公益資本主義は株主資本主義より経済合理性について劣っている。株式会社は株主の持ち物で、自己資本利益率(ROE)を上昇させる所に合目的性があるが、公益資本主義では利益追求の焦点が曖昧になり組織として競争劣位になってしまうからだ。
外部不経済は政府により、従業員利益は労組(労働組合)により補われるべきで、経営者は利害関係者を調整しつつ、株主価値の向上に集中しなければならない。
外部不経済は政府により、従業員利益は労組(労働組合)により補われるべきで、経営者は利害関係者を調整しつつ、株主価値の向上に集中しなければならない。
なぜ日本語ツイッターで議論が成立しないか
私は今からまあまあ高度なことをいうので、多分ほぼ誰にも理解されないと思うが、何かの役に立つかもしれないので書き残す。
先ずツイッター上で、私は議論が成り立ったことがない。この原因だけど、日本語圏の話し合いの慣行が「和」に毒されてるせいと思う。いいかえると討論の基本ができてない。
ところで私はアメーバピグとかいう今年で潰れるSNS上で哲学部という部活を主催していた。そこは自分としてはかなり有益な場にできたし、そう感じた人もいると思う。一応、哲学的な対話ができる場所を作って、数年間維持できたから。
で、討論の基本を実現する為そこでは3つのルールを決めていた。
1.相手の意見を尊重し
2.できるだけ冷静に
3.最後まで話を聴く
これがその3つのルールだったと思う。裏返すと、少なくとも主に日本語圏の人だけだが、相手の意見に同調し、さもなくば感情的になり、最後まで話を聴かない人ばかりだったのである。まあ英語圏の人でそういうのはいなかった。
討論の基本は、西洋でいうソクラテスの対話術、いわゆるdialecticまで遡れると思われる。これをヘーゲルが正反合の三定立が相互に否定的な論理としてもちあげる(aufheben、止揚する)ものと定式化したといえるだろう。私の決めた3ルールはこれを日本語圏の対話で実現する最低限度の方法論だった。
ではなぜツイッターで一般に討論なり対話術が成り立たないか。それは日本語圏の教育なり文化だと、相手の意見を否定するという、西洋言語でいう否定媒介的な働きを極度に嫌うからだ。これは根深い癖で、農村共同体で弥生時代頃から既にそうだった様でもあるし、現に17条憲法で和の規律に集約された。
その部活内で或るイギリスの友人がいっていたが、英語は主語にIやyouなど必ず人称代名詞を文頭につける原則で、主体の違いは意見の前提になる。だから自他の意見の違いは当然と考えられているわけだが(私はこう、あなたはこうと)、日本語みたら頻繁に主語抜きで語られ主客未分が前提になっている。(なおこの主客未分なる用語は、高校倫理以上の日本思想史の知識があればたぶん御存知と思うが、西田幾多郎によって定義されていて、日本では現時点で寧ろ肯定的な意味なのである。まあ自我の未確立な不安な大衆が、愚民集団として幼稚で無批判に群れているという方が正確と思うが、西田は見方が甘い)
哲学者と名乗る東京の某オタク批評家、最近ではもうオタク批評卒業したっぽいことをいっているみたいだけど、この人もブロック癖みたらわかる通り対話術を基本履行していない。彼がお仲間の意見が自分と違うと怒ったり敵視するのもよくみるし、ソクラテス以来の西洋哲学とは全く違う習性といえる。(細かくは、教科書的にはタレスが最初の西洋哲学者とされてるので、対話術より根源の探求してればいいじゃないかともいえるが、ここでは対話による哲学に限定していると捉えてほしい)
で。私は科学的思考も哲学的思考も、否定媒介性(批判性、批評性)を含むものと知っているので、自分の意見と違うものを進んで求めている。寧ろそれが、通常は、ひとかけら以上の知性の証といってもいいと私は思います。アインシュタインは量子論に拒否反応示しましたが知的だったといえるでしょうか? 日本語圏ではそういう教え方はされてないから私以外誰もこれをはっきり言ってないかもしれないですが、単に否定すればいいってもんでもないのではあるが(例えば論理的には全命題に逆・裏・対偶を作れますから、詭弁になりうる)、少なくとも全面同意には、学術的には情報価値がないわけです。
したがって、最も各科学含む哲学的に優れた意見というのは、或る意見(ここでは真偽を確定できる定立)に対し、最もその本質に否定的な意見となる。これを批判的・批評的・criticalな意見といい、西洋言語少なくとも英語では常識みたいに日常で一般人が話している。しかも知性の証で。実際そうでしょ。
そんで、私は部活で実験した。日本語でもそういう対話はできるのか。普通にできる。但し、上に書いたルールをもちだし、相手(又は自分)がつい日本語による会話の癖で、感情的に激昂なり発狂しがちな完全に自分と違う意見、しかも自見を鋭く否定してくれている意見を、冷静に尊重させる必要がある。
ところが、日本語ツイッターは、当然かもしれないが、そういう批判的対話術がとんとできない、「和の衆愚」が群れている。彼ら日本人全般の受けてきた教育や、文化の癖からいうと、同調が正義、否定は悪と捉えられているので、簡単にいうと知的な意見は何一ついえないんですね。嘘抜きで発狂するので。
私の時代の義務教育だと、一応、お仕着せの討論の授業みたいなのが僅かにあり、まあ欧米のぎこちない猿真似の色彩ではあったが、或る議題に対し賛成と反対で二分し、意見をいいあわせていた時はあった気がする。これを一定時間で主客交代でやり合わないと意味ないが、そこまでやってなかった風だった。
で。私はそういう日本語圏のあり方を相当知っているので、今年から本腰入れたツイッターの使い方を色々実験してみていたのだが、正直いうと相手の知性が高い可能性があるとみたときだけ対話術を試みていたのだけども、相手が早慶・東大卒レベルでも無理でしたね。日本の学歴はこの点では役立たないと。これも結果からいうと自然で、日本の受験勉強は先ず文科省指定の範囲クイズ式のペーパーテストに最適化させることしかやらない。なので対話術なんて全く試されていないので、また修士以上でも教授に従う一種の徒弟制なので、東大博士でもこの点で無能なら無能なんですね。当たり前ですが。
なにがいいたいか。日本語でツイッター上で討論なり議論なりは原則として(もしくは究極的に)無理ですね。理由は上に書いた通り、対話術ができない文化癖をもつ人達なので。逆に和の衆愚として群れて同調しまくってれば安心なる典型的日本人の集まりで、集合知とみてもやはり群れが目的になっている。集合知としては少数意見の尊重が「多数意見に対し否定的側面でも」できなければ意味ないわけだけどこれも、みてたかぎりツイッター民はできない。なぜならTHE日本人なので。津田某の過激コンセプトのときも京アニ中二病放火のときも、私含め少数意見で正論吐いても完全に蹂躙され無視されてました。
こういう訳で、総じていうと、日本語ツイッター民は衆愚に限りなく近いと私が約半年参加して悟った所であります。なので知らずに悪所に加わってしまっていて身の危険を感じているし、今年中くらいで参加しなくなるかもしれない。英語圏ツイッターは微妙に違う様にみえるから英語でやるかもしれないが。
なぜこれを書いたかなら、最近は通知をつけてるのだけど、そして私のツイートに同意してくれている或る意見を見つけたのですが、勿論それは日本語圏の慣行的には、又はひとの心としてはとてもありがたいことなのだろうけれども、私的には最も批評的な意見がほしい。なぜなら私はもっと学びたいので。
私が長になれる場所なら、日本語圏でも冷静な対話を場として実現もできるかもしれないが、ツイッターはフォロワー強者による引用リツイートや罵詈雑言の返信、いいね連打による多数派のいじめを頻繁にみるし、恐らく絶対に無理だと思う。できるとしたら匿名荒らしを排除可能な非公開アカウントと思う。対話する人同士で、外野からありうる衆愚的反応を無視したとしても、これも日本人のよくある習性として、或る対話者が多数派につく仕草をし少数派虐めっ子に転嫁してしまうという現象がある。言葉で説明しづらいが、まあ真剣な対話を放棄し、数の論理で多い側に混じって感情的に自己防衛を図るわけだ。
なのでほぼ無限に公開されている場で、日本語圏ツイッターで、責任追及されない匿名偽名の捨てアカウントがいつでも参加してくる所では、対話術の文脈による批判的会話、つまり議論討論は無理だと思う。この意味で、ツイッターは日本人の知性向上に向いてないといえるだろう。そんなの参加の意味ない。
(これ書いてて分かったが、鍵アカなら哲学部と同じしくみを作れると悟ったので、「磯原義塾」を創った)
先ずツイッター上で、私は議論が成り立ったことがない。この原因だけど、日本語圏の話し合いの慣行が「和」に毒されてるせいと思う。いいかえると討論の基本ができてない。
ところで私はアメーバピグとかいう今年で潰れるSNS上で哲学部という部活を主催していた。そこは自分としてはかなり有益な場にできたし、そう感じた人もいると思う。一応、哲学的な対話ができる場所を作って、数年間維持できたから。
で、討論の基本を実現する為そこでは3つのルールを決めていた。
1.相手の意見を尊重し
2.できるだけ冷静に
3.最後まで話を聴く
これがその3つのルールだったと思う。裏返すと、少なくとも主に日本語圏の人だけだが、相手の意見に同調し、さもなくば感情的になり、最後まで話を聴かない人ばかりだったのである。まあ英語圏の人でそういうのはいなかった。
討論の基本は、西洋でいうソクラテスの対話術、いわゆるdialecticまで遡れると思われる。これをヘーゲルが正反合の三定立が相互に否定的な論理としてもちあげる(aufheben、止揚する)ものと定式化したといえるだろう。私の決めた3ルールはこれを日本語圏の対話で実現する最低限度の方法論だった。
ではなぜツイッターで一般に討論なり対話術が成り立たないか。それは日本語圏の教育なり文化だと、相手の意見を否定するという、西洋言語でいう否定媒介的な働きを極度に嫌うからだ。これは根深い癖で、農村共同体で弥生時代頃から既にそうだった様でもあるし、現に17条憲法で和の規律に集約された。
その部活内で或るイギリスの友人がいっていたが、英語は主語にIやyouなど必ず人称代名詞を文頭につける原則で、主体の違いは意見の前提になる。だから自他の意見の違いは当然と考えられているわけだが(私はこう、あなたはこうと)、日本語みたら頻繁に主語抜きで語られ主客未分が前提になっている。(なおこの主客未分なる用語は、高校倫理以上の日本思想史の知識があればたぶん御存知と思うが、西田幾多郎によって定義されていて、日本では現時点で寧ろ肯定的な意味なのである。まあ自我の未確立な不安な大衆が、愚民集団として幼稚で無批判に群れているという方が正確と思うが、西田は見方が甘い)
哲学者と名乗る東京の某オタク批評家、最近ではもうオタク批評卒業したっぽいことをいっているみたいだけど、この人もブロック癖みたらわかる通り対話術を基本履行していない。彼がお仲間の意見が自分と違うと怒ったり敵視するのもよくみるし、ソクラテス以来の西洋哲学とは全く違う習性といえる。(細かくは、教科書的にはタレスが最初の西洋哲学者とされてるので、対話術より根源の探求してればいいじゃないかともいえるが、ここでは対話による哲学に限定していると捉えてほしい)
で。私は科学的思考も哲学的思考も、否定媒介性(批判性、批評性)を含むものと知っているので、自分の意見と違うものを進んで求めている。寧ろそれが、通常は、ひとかけら以上の知性の証といってもいいと私は思います。アインシュタインは量子論に拒否反応示しましたが知的だったといえるでしょうか? 日本語圏ではそういう教え方はされてないから私以外誰もこれをはっきり言ってないかもしれないですが、単に否定すればいいってもんでもないのではあるが(例えば論理的には全命題に逆・裏・対偶を作れますから、詭弁になりうる)、少なくとも全面同意には、学術的には情報価値がないわけです。
したがって、最も各科学含む哲学的に優れた意見というのは、或る意見(ここでは真偽を確定できる定立)に対し、最もその本質に否定的な意見となる。これを批判的・批評的・criticalな意見といい、西洋言語少なくとも英語では常識みたいに日常で一般人が話している。しかも知性の証で。実際そうでしょ。
そんで、私は部活で実験した。日本語でもそういう対話はできるのか。普通にできる。但し、上に書いたルールをもちだし、相手(又は自分)がつい日本語による会話の癖で、感情的に激昂なり発狂しがちな完全に自分と違う意見、しかも自見を鋭く否定してくれている意見を、冷静に尊重させる必要がある。
ところが、日本語ツイッターは、当然かもしれないが、そういう批判的対話術がとんとできない、「和の衆愚」が群れている。彼ら日本人全般の受けてきた教育や、文化の癖からいうと、同調が正義、否定は悪と捉えられているので、簡単にいうと知的な意見は何一ついえないんですね。嘘抜きで発狂するので。
私の時代の義務教育だと、一応、お仕着せの討論の授業みたいなのが僅かにあり、まあ欧米のぎこちない猿真似の色彩ではあったが、或る議題に対し賛成と反対で二分し、意見をいいあわせていた時はあった気がする。これを一定時間で主客交代でやり合わないと意味ないが、そこまでやってなかった風だった。
で。私はそういう日本語圏のあり方を相当知っているので、今年から本腰入れたツイッターの使い方を色々実験してみていたのだが、正直いうと相手の知性が高い可能性があるとみたときだけ対話術を試みていたのだけども、相手が早慶・東大卒レベルでも無理でしたね。日本の学歴はこの点では役立たないと。これも結果からいうと自然で、日本の受験勉強は先ず文科省指定の範囲クイズ式のペーパーテストに最適化させることしかやらない。なので対話術なんて全く試されていないので、また修士以上でも教授に従う一種の徒弟制なので、東大博士でもこの点で無能なら無能なんですね。当たり前ですが。
なにがいいたいか。日本語でツイッター上で討論なり議論なりは原則として(もしくは究極的に)無理ですね。理由は上に書いた通り、対話術ができない文化癖をもつ人達なので。逆に和の衆愚として群れて同調しまくってれば安心なる典型的日本人の集まりで、集合知とみてもやはり群れが目的になっている。集合知としては少数意見の尊重が「多数意見に対し否定的側面でも」できなければ意味ないわけだけどこれも、みてたかぎりツイッター民はできない。なぜならTHE日本人なので。津田某の過激コンセプトのときも京アニ中二病放火のときも、私含め少数意見で正論吐いても完全に蹂躙され無視されてました。
こういう訳で、総じていうと、日本語ツイッター民は衆愚に限りなく近いと私が約半年参加して悟った所であります。なので知らずに悪所に加わってしまっていて身の危険を感じているし、今年中くらいで参加しなくなるかもしれない。英語圏ツイッターは微妙に違う様にみえるから英語でやるかもしれないが。
なぜこれを書いたかなら、最近は通知をつけてるのだけど、そして私のツイートに同意してくれている或る意見を見つけたのですが、勿論それは日本語圏の慣行的には、又はひとの心としてはとてもありがたいことなのだろうけれども、私的には最も批評的な意見がほしい。なぜなら私はもっと学びたいので。
私が長になれる場所なら、日本語圏でも冷静な対話を場として実現もできるかもしれないが、ツイッターはフォロワー強者による引用リツイートや罵詈雑言の返信、いいね連打による多数派のいじめを頻繁にみるし、恐らく絶対に無理だと思う。できるとしたら匿名荒らしを排除可能な非公開アカウントと思う。対話する人同士で、外野からありうる衆愚的反応を無視したとしても、これも日本人のよくある習性として、或る対話者が多数派につく仕草をし少数派虐めっ子に転嫁してしまうという現象がある。言葉で説明しづらいが、まあ真剣な対話を放棄し、数の論理で多い側に混じって感情的に自己防衛を図るわけだ。
なのでほぼ無限に公開されている場で、日本語圏ツイッターで、責任追及されない匿名偽名の捨てアカウントがいつでも参加してくる所では、対話術の文脈による批判的会話、つまり議論討論は無理だと思う。この意味で、ツイッターは日本人の知性向上に向いてないといえるだろう。そんなの参加の意味ない。
(これ書いてて分かったが、鍵アカなら哲学部と同じしくみを作れると悟ったので、「磯原義塾」を創った)
差別からなるだけ自由になるには自らのもつ印象を反証し続けるしかない
リストをみてたら、愛知県豊橋市の或る高校1年生が自分をリストに入れていたのでよく観察したのだが、まずその人が物凄く愚かそうなのを前提として、自分が書いている内容を何一つ理解していないらしく、しかも自分を差別的カテゴリーに入れていて、本当に驚いた。
或る芸術家が「10代、20代に気に入られることをしろ。それが世界性をもつことだから」といっていた。私は余りそう思わない。私自身が子供の頃を考えても、幼稚さの余り副文化や傍流に染まっていたこともあったし、子供は所詮子供という点も明らかにある。所詮、様々な点で一般には子供は未熟なのだ。
孔子は『論語』で「異端を攻めるは害のみ」といっていた。恐らくこれは学に於ける王道思想、本流主義なわけだが、潮流自体が変化するのを前置きに、私もこれにはある程度賛成する。私の目にはその高1が夢中になっているサブカルは、特にアニメはあってなきが如しで、江戸時代の草双紙みたいなものだ。その芸術家は人格的に優れていないばかりか、洞察力も足りていない。子供が夢中になっている物と、本当に普遍性や通時性があるものは必ずしも一致しない。国内向け大衆商売とみてもそれは変わらない。どころか普遍性や通時性と高貴さも決して同じものではない。上座部仏教と大乗仏教みたいなものだ。
一人ではあるが、一事が万事かもしれない。ゆとり後期の子供の読解力のなさが決定的なら、もはや日本人の子供一般に向け何かを読ませること、啓蒙自体が危険かもしれない。私は大変な恐怖を感じた。誤読、誤解、悪解釈しかしてこない悪意の子供に向け何ができるというのか。関わらないのが最善だ。
福沢諭吉はフランス啓蒙主義から学び、大乗的言説をしていたが、今日の目からみて彼の論説の一部が、朱に交われば赤くなっていなかったとは思えない。所詮、幼稚な子供向けとか悪徳にまみれた一般大衆向け生業は、内容すらその読者層に媚び売る結果になる。
日本の子供が右傾しているのはなぜか、それは彼らの学力水準が一般に低下しているからだ。そういう人達に気に入られた所で、逆に悪徳の印にしかならない。安倍晋三を見ればよく分かる。私の見る所、現状の日本では子供に嫌われる人の方が、知徳に於いて優れているのではないだろうか?
もう一ついえるのは今の日本語圏ツイッターは衆愚メディアに限りなく近いと感じる。特に2chねらーをしていたのとほぼ同一層(つまりは悪意ある衆愚や、荒らし)が、匿名偽名アカウントで大量発生している。悪貨が良貨を駆逐しつつある最中と思う。それは国内の子供の右傾衆愚化に伴った現象にみえる。
無論「後生畏るべし」という観点もあるが、これは今日の日本では少数派に限っていえることと思う。
SNSは大変危険だ。それは衆愚、特にダークトライアドやサイコパスを含む荒らしにとって恰好の生息地になっているからで、2ch風匿名犯罪の場になっているからだ。子供はそれを真に受け同調している。
津田大介氏の大炎上をあいちトリエンナーレ2019のコンセプト発表段階から今まで逐一観察していた限り、ツイッター民はフォロワーも何一つ教祖の擁護に役立たない。単に群れたいだけで普段、信者として教祖の暴挙をリツイートやいいね連打で後押ししているのにいざ自分達まで被害者になりそうなら黙る。海外のツイッターは、大統領や首相、それなりの名士らが実名で使う、フェイスブックの短文版の様に扱われている節があるので、私の感じではだが日本語版だけが衆愚化している。そして一度衆愚化したメディアが復活した例はみたことがないので、私は日本語版ツイッターは飽くまでロム専(ツイートせず読書専用)を勧める。
日本人一般は他国民に比べ、島国根性のいわゆる卑怯者の村民気質で、匿名を好み群れるため群れ自由を一方的に享受しながら責任回避、群れが大きければなんでもやり集団犯罪を恥じない(群れるのが目的でしばしば良い方にも群れるが)という「和」と呼ばれるいつもの行動原理を無意識にとる。ツイッター上でも他の場面での日本人全般と同じく、この和の暗面は甚だ発揮されており、正論が少数派な時点で完全に無意味に踏み躙る。例えば私が津田氏にあいちトリエンナーレ2019コンセプトは美術業界の慣行からいうと過激ですよと正論伝えたらフォロワーの匿名衆愚に集団虐待された。結果をみろと。
私は今の時点で子供じゃなかったので想像するしかないが、右傾化した衆愚的な同年代の中で、ありとあらゆる悪意(当人らの中では和の正義)に囲まれて生きている、少数派の賢い子供は、多分相当人生に絶望していて自殺願望すら抱いていると予想される。ソドムにぶちこまれたロトの様に。
私の予想では、東京がいかに退廃しているか、満員電車地獄から物価地価高騰、ホームレスの溢れ方、性売買の蔓延、そして原発依存や利権と暗愚さにまみれた都政まで、その文化を正直に語る私に対し商売目的で美化している某アニメーターみたいな人を子供が「都合の良い嘘つき」と礼賛しているのだろう。その高1は愛知県豊橋市という中小都市に住むサブカルファンだ。即ちサブカルは大衆商品としてほぼ都内発なので東京を美化してある。私はそのサブカルの偽善、東京人の嘘を都心暮らしで見抜き世の真相を伝えている。その高1からすると、東京への盲目な憧れを否定されるので不都合なのかもしれない。例えば某氏はブログのタイトルにもしていたフレーズ「まだ東京で消耗してるの?」で、私よりもっと炎上商法に近い啓蒙をしていたともいえる。所が私は啓蒙主義を疑っているので(愚者や悪人など変えられないだろう)、単に私が経験した正直な東京観を特に誰を煽ることもなく、静かに語っているだけだ。
即ちこういうことだ。私は当然ながら全世界からあらゆる差別がなくなればいいと信じているが、同時に、人の脳に認知分類を単純化する癖がある限り、程あれそれをしてしまう人は常に残っているだろうとも思う。だから私個人に限って、全差別を抜け出そうと全知に向かう反証の経過を辿るつもりでいる。ところがその高1は、「東京ひいき」という逆差別を当人が差別観の一種としてもっているのに無自覚で、都内の暗面を現実にみてきている私の言説を、アニメの様な東京中華思想の嘘を含んでいないので認知的不協和をもたらすものとみているのだろう。私に推測できるのはこれが私の差別された原因と思う。
私は東京が理想郷だと思わされていた。それは小沢健二みたいな歌手が都内を美化して歌っていたからだし、はっきりいうと都内マスメディアの洗脳に影響されていたからだ。同じことは古典文学や教科書で京都が美化されていたのにもあたる。パリ症候群ならぬ東京症候群、京都症候群を私は経験した。
今日、このメディアによる洗脳は、子供に向けサブカルによって行われている。京アニがいかに宇治近辺の京都の町を美化していることか。新海誠がいかに新宿近辺のホームレスや売春婦に声をかける退廃したサラリーマンの雑踏、途切れない満員電車に詰め込まれる絶望した顔を無視していることか。現実の京都人は少年刑法犯(要はヤンキー)も、都内メディアの悪意で間違ったレッテルを着せられるわが県より現実にずっと多ければいじめ発生率も長年最下位(つまり一番いじめが起きやすい)、どころか中世以来の風儀で根深い差別がいまだに残っている。しかもイケズ文化で性悪が平気で生きている。
地域に関してのメディアや疑似含む統計学のレッテルだのイメージなど、これほど誤り易いものなのに、大衆商売が俗受け狙って一般の差別をさらに強化する情報ばかり流し、反証を怠るのは甚だ愚かしい。だがその高1も、要は自分が差別主義者なのに気づかないほど洗脳されきっているので救いがない。
ツイッター民全体が、その高1とどう違うというのか。ほぼ似た様な、都合がいい嘘を求めている愚民愚官愚皇ではないか。私は彼らと親しみたくもないし親しむつもりもない。私は真理を探し、徳に倣い、良心に従う。無知無学、それどころか悪意の子供に俗受けしたさに媚びを売るとはどういうことか。まあその芸術家某も、第三者として客観的にみて、正直いって歯牙にかけるまでもない雑魚なのだが、その人物がいっている子供の中でも最も低俗な部類に受ければ金が儲かる式の謬説は、非科学的、不道徳的な差別・逆差別(ひいき)の礼賛を大衆迎合目的にやるくらい稚拙なものなので相手にすら足らない。
一体、どの時代の子供もやがて老人になって死ぬわけだし、下品は下品、子供であれ大人であれ愚者も悪人もいるわけだ。東京だの京都を一面的に美化するのも(その対極として田舎を蔑視するのも)唯の偏見にすぎないし、それに同調していなければ同類とみなさないなど暗愚の極みとしかいえないであろう。
後真実なる言葉で報道業界ではじめいわれはじめていたこの都合のいい嘘を信じたがる衆愚の傾向は、彼らが認知的負荷を避け、特定の集団的差別とひいきに安住したいという一種の人間性の退行だ。そしてその高1にせよ某芸術家にせよ、その退化した人間性が犠牲にする人達(例えば私)を平気で踏み躙る。差別というレッテルを、むしろ最も差別に反対している人に貼る。その高1がやったのはこの罪だ。私が被害者だ。そしてこの罪悪の根源原因は、その高1が世にはびこる差別主義の一種であるところの東京中華思想に染まっていて、そこで差別される人々を虐げる方が反差別的だと信じて疑わぬ露悪性にある。実に醜い。愛知県豊橋市の一高校生、しかも暗愚なサブカルファンによる一方的な差別の被害などどうでもいいではないか、と人は思うかもしれないが、私はこの1人を通して演繹的に日本人全体の群れるために群れあらゆる悪業を恥も懺悔もしないその卑怯極まる心魂の醜悪さ、自堕落を透かし見ているのだ。
愛知県民とネットを介し色々接した範囲で、唯の一人も尊敬すべき人物に出会えなかった。今回も又だ。いうまでもなく愛知に敬える人がいるに決まっている。749万人もいるのだ。是非ともそういう人物を探さねばなるまい。さもなくば私の個人経験の範囲でますます愛知が悪印象で刻まれてしまうのだから。
私達が差別から自由になるには、自分がもっている諸々の分類に関する抽象観念の中で、とかく何らかの印象を反証し続けるしかない。進んで認知的不協和を求め、その曖昧さや違和感を楽しみ、選好しまくらなければならない。私にいえるのはこの作業こそ知的好奇心の中で、最も有用な人間研究の一種だ。
或る芸術家が「10代、20代に気に入られることをしろ。それが世界性をもつことだから」といっていた。私は余りそう思わない。私自身が子供の頃を考えても、幼稚さの余り副文化や傍流に染まっていたこともあったし、子供は所詮子供という点も明らかにある。所詮、様々な点で一般には子供は未熟なのだ。
孔子は『論語』で「異端を攻めるは害のみ」といっていた。恐らくこれは学に於ける王道思想、本流主義なわけだが、潮流自体が変化するのを前置きに、私もこれにはある程度賛成する。私の目にはその高1が夢中になっているサブカルは、特にアニメはあってなきが如しで、江戸時代の草双紙みたいなものだ。その芸術家は人格的に優れていないばかりか、洞察力も足りていない。子供が夢中になっている物と、本当に普遍性や通時性があるものは必ずしも一致しない。国内向け大衆商売とみてもそれは変わらない。どころか普遍性や通時性と高貴さも決して同じものではない。上座部仏教と大乗仏教みたいなものだ。
一人ではあるが、一事が万事かもしれない。ゆとり後期の子供の読解力のなさが決定的なら、もはや日本人の子供一般に向け何かを読ませること、啓蒙自体が危険かもしれない。私は大変な恐怖を感じた。誤読、誤解、悪解釈しかしてこない悪意の子供に向け何ができるというのか。関わらないのが最善だ。
福沢諭吉はフランス啓蒙主義から学び、大乗的言説をしていたが、今日の目からみて彼の論説の一部が、朱に交われば赤くなっていなかったとは思えない。所詮、幼稚な子供向けとか悪徳にまみれた一般大衆向け生業は、内容すらその読者層に媚び売る結果になる。
日本の子供が右傾しているのはなぜか、それは彼らの学力水準が一般に低下しているからだ。そういう人達に気に入られた所で、逆に悪徳の印にしかならない。安倍晋三を見ればよく分かる。私の見る所、現状の日本では子供に嫌われる人の方が、知徳に於いて優れているのではないだろうか?
もう一ついえるのは今の日本語圏ツイッターは衆愚メディアに限りなく近いと感じる。特に2chねらーをしていたのとほぼ同一層(つまりは悪意ある衆愚や、荒らし)が、匿名偽名アカウントで大量発生している。悪貨が良貨を駆逐しつつある最中と思う。それは国内の子供の右傾衆愚化に伴った現象にみえる。
無論「後生畏るべし」という観点もあるが、これは今日の日本では少数派に限っていえることと思う。
SNSは大変危険だ。それは衆愚、特にダークトライアドやサイコパスを含む荒らしにとって恰好の生息地になっているからで、2ch風匿名犯罪の場になっているからだ。子供はそれを真に受け同調している。
津田大介氏の大炎上をあいちトリエンナーレ2019のコンセプト発表段階から今まで逐一観察していた限り、ツイッター民はフォロワーも何一つ教祖の擁護に役立たない。単に群れたいだけで普段、信者として教祖の暴挙をリツイートやいいね連打で後押ししているのにいざ自分達まで被害者になりそうなら黙る。海外のツイッターは、大統領や首相、それなりの名士らが実名で使う、フェイスブックの短文版の様に扱われている節があるので、私の感じではだが日本語版だけが衆愚化している。そして一度衆愚化したメディアが復活した例はみたことがないので、私は日本語版ツイッターは飽くまでロム専(ツイートせず読書専用)を勧める。
日本人一般は他国民に比べ、島国根性のいわゆる卑怯者の村民気質で、匿名を好み群れるため群れ自由を一方的に享受しながら責任回避、群れが大きければなんでもやり集団犯罪を恥じない(群れるのが目的でしばしば良い方にも群れるが)という「和」と呼ばれるいつもの行動原理を無意識にとる。ツイッター上でも他の場面での日本人全般と同じく、この和の暗面は甚だ発揮されており、正論が少数派な時点で完全に無意味に踏み躙る。例えば私が津田氏にあいちトリエンナーレ2019コンセプトは美術業界の慣行からいうと過激ですよと正論伝えたらフォロワーの匿名衆愚に集団虐待された。結果をみろと。
私は今の時点で子供じゃなかったので想像するしかないが、右傾化した衆愚的な同年代の中で、ありとあらゆる悪意(当人らの中では和の正義)に囲まれて生きている、少数派の賢い子供は、多分相当人生に絶望していて自殺願望すら抱いていると予想される。ソドムにぶちこまれたロトの様に。
私の予想では、東京がいかに退廃しているか、満員電車地獄から物価地価高騰、ホームレスの溢れ方、性売買の蔓延、そして原発依存や利権と暗愚さにまみれた都政まで、その文化を正直に語る私に対し商売目的で美化している某アニメーターみたいな人を子供が「都合の良い嘘つき」と礼賛しているのだろう。その高1は愛知県豊橋市という中小都市に住むサブカルファンだ。即ちサブカルは大衆商品としてほぼ都内発なので東京を美化してある。私はそのサブカルの偽善、東京人の嘘を都心暮らしで見抜き世の真相を伝えている。その高1からすると、東京への盲目な憧れを否定されるので不都合なのかもしれない。例えば某氏はブログのタイトルにもしていたフレーズ「まだ東京で消耗してるの?」で、私よりもっと炎上商法に近い啓蒙をしていたともいえる。所が私は啓蒙主義を疑っているので(愚者や悪人など変えられないだろう)、単に私が経験した正直な東京観を特に誰を煽ることもなく、静かに語っているだけだ。
即ちこういうことだ。私は当然ながら全世界からあらゆる差別がなくなればいいと信じているが、同時に、人の脳に認知分類を単純化する癖がある限り、程あれそれをしてしまう人は常に残っているだろうとも思う。だから私個人に限って、全差別を抜け出そうと全知に向かう反証の経過を辿るつもりでいる。ところがその高1は、「東京ひいき」という逆差別を当人が差別観の一種としてもっているのに無自覚で、都内の暗面を現実にみてきている私の言説を、アニメの様な東京中華思想の嘘を含んでいないので認知的不協和をもたらすものとみているのだろう。私に推測できるのはこれが私の差別された原因と思う。
私は東京が理想郷だと思わされていた。それは小沢健二みたいな歌手が都内を美化して歌っていたからだし、はっきりいうと都内マスメディアの洗脳に影響されていたからだ。同じことは古典文学や教科書で京都が美化されていたのにもあたる。パリ症候群ならぬ東京症候群、京都症候群を私は経験した。
今日、このメディアによる洗脳は、子供に向けサブカルによって行われている。京アニがいかに宇治近辺の京都の町を美化していることか。新海誠がいかに新宿近辺のホームレスや売春婦に声をかける退廃したサラリーマンの雑踏、途切れない満員電車に詰め込まれる絶望した顔を無視していることか。現実の京都人は少年刑法犯(要はヤンキー)も、都内メディアの悪意で間違ったレッテルを着せられるわが県より現実にずっと多ければいじめ発生率も長年最下位(つまり一番いじめが起きやすい)、どころか中世以来の風儀で根深い差別がいまだに残っている。しかもイケズ文化で性悪が平気で生きている。
地域に関してのメディアや疑似含む統計学のレッテルだのイメージなど、これほど誤り易いものなのに、大衆商売が俗受け狙って一般の差別をさらに強化する情報ばかり流し、反証を怠るのは甚だ愚かしい。だがその高1も、要は自分が差別主義者なのに気づかないほど洗脳されきっているので救いがない。
ツイッター民全体が、その高1とどう違うというのか。ほぼ似た様な、都合がいい嘘を求めている愚民愚官愚皇ではないか。私は彼らと親しみたくもないし親しむつもりもない。私は真理を探し、徳に倣い、良心に従う。無知無学、それどころか悪意の子供に俗受けしたさに媚びを売るとはどういうことか。まあその芸術家某も、第三者として客観的にみて、正直いって歯牙にかけるまでもない雑魚なのだが、その人物がいっている子供の中でも最も低俗な部類に受ければ金が儲かる式の謬説は、非科学的、不道徳的な差別・逆差別(ひいき)の礼賛を大衆迎合目的にやるくらい稚拙なものなので相手にすら足らない。
一体、どの時代の子供もやがて老人になって死ぬわけだし、下品は下品、子供であれ大人であれ愚者も悪人もいるわけだ。東京だの京都を一面的に美化するのも(その対極として田舎を蔑視するのも)唯の偏見にすぎないし、それに同調していなければ同類とみなさないなど暗愚の極みとしかいえないであろう。
後真実なる言葉で報道業界ではじめいわれはじめていたこの都合のいい嘘を信じたがる衆愚の傾向は、彼らが認知的負荷を避け、特定の集団的差別とひいきに安住したいという一種の人間性の退行だ。そしてその高1にせよ某芸術家にせよ、その退化した人間性が犠牲にする人達(例えば私)を平気で踏み躙る。差別というレッテルを、むしろ最も差別に反対している人に貼る。その高1がやったのはこの罪だ。私が被害者だ。そしてこの罪悪の根源原因は、その高1が世にはびこる差別主義の一種であるところの東京中華思想に染まっていて、そこで差別される人々を虐げる方が反差別的だと信じて疑わぬ露悪性にある。実に醜い。愛知県豊橋市の一高校生、しかも暗愚なサブカルファンによる一方的な差別の被害などどうでもいいではないか、と人は思うかもしれないが、私はこの1人を通して演繹的に日本人全体の群れるために群れあらゆる悪業を恥も懺悔もしないその卑怯極まる心魂の醜悪さ、自堕落を透かし見ているのだ。
愛知県民とネットを介し色々接した範囲で、唯の一人も尊敬すべき人物に出会えなかった。今回も又だ。いうまでもなく愛知に敬える人がいるに決まっている。749万人もいるのだ。是非ともそういう人物を探さねばなるまい。さもなくば私の個人経験の範囲でますます愛知が悪印象で刻まれてしまうのだから。
私達が差別から自由になるには、自分がもっている諸々の分類に関する抽象観念の中で、とかく何らかの印象を反証し続けるしかない。進んで認知的不協和を求め、その曖昧さや違和感を楽しみ、選好しまくらなければならない。私にいえるのはこの作業こそ知的好奇心の中で、最も有用な人間研究の一種だ。
2019年8月27日
悪徳集団について
悪人が繁殖し善人が淘汰されていく様な地域は、その悪人らにより有利になっていく経過にある。道徳律はしばしば相対的なので、当の悪人とみえる人々は自分の振る舞いを正義と考えているかもしれない。
だから人は自ら望む道徳集団、できるだけそれに近い地域で暮らすべきで、悪徳集団からは逃れ出なければならない。
だから人は自ら望む道徳集団、できるだけそれに近い地域で暮らすべきで、悪徳集団からは逃れ出なければならない。
なぜ人は生まれるか
子供の頃から今まで、なぜ人は子供を産むのか疑問だった。自分には人生は先ずちっとも愉快な経験ではなかったからだ。芥川『河童』式にいきなり世界に産み落とされ、諸々の苦役を我慢させられている。
そして周りで親になった同世代人だのきょうだいを観察してわかったのは、彼らは単に動物で、性欲で(そして彼らはそれを恋愛とか言って美化している)、又は周りの動物的人間に同調して(その時点で彼らも動物でしかないのだが)交尾し、子を産む。そこにはなんのうつくしさもなかった。非常に醜い。
自分は元々理性が相当強い方らしく、性的不能ではないのだが、性欲のままに行動し、世界の真理だのしくみだの目的だのをなんにも知らないのに、苦役に満ちた虚無のこの世に分身を産み落とす人達の思慮の浅さには、未だに何一つ共感の念をもてない。特に未成年者は私のこの告白で救われるのもいる筈だ。
私は年齢的に大人になる中で、特に親友が結婚し子を生んだ点で、漸く、性について学ぶべきなのかなと考えた。これも一種の同調だったと今にしてみると思うが、その後、数年かけ理解したのは、この性の領域は確かに或る快楽と結びついているのではあるが、簡単にいうと他の動物と本質に違いがないのだ。
我々は一般には理性と呼ばれる、ある冷めた意識の状態をもつ生物で、特にアリストテレスがいっていたようこの理性の領分が他の動物より発達しているのが人類なるものの特徴であって、しかもその領域が強く生まれついている人は、寧ろ獣と対義として、神的な存在、精神的な存在に近い。脳の構造からいうと、旧皮質の本能を、それを覆う様にできている新皮質の理性が抑制しているらしい。だから理性は進化の中で生まれた社会性の遺伝部で、人類としてはより理性的な存在の方が何らかの適応度が高いのだと思う。そして文明はこの理性的な側面をより強化する方に進む仲間集団なのだろう。
韓国の若者言葉で自分がすればロマンス、他人がすれば浮気という語がある(ネロナムブル、自浪他浮)。結局、性欲の構造はこれで、他人の性に共感できないならそこに自分の利得がないからだ。ゴータマやイエスは個人的性を否定していた様にみえるが、実際はそれが彼らのミームに有利だったからだろう。ミームは、本能に於ける遺伝子の繁殖戦略がなんらかの理由で制限されている状況で、その写しとして間接的に自分の遺伝子母体や傍系に有利になる状況を文明内に作り出す為の、飛び道具の様なものと考えられる。例えば処刑確定後の死刑囚が獄中手記を書き残す類。どれだけ利他的でもその点は同じだろう。裏を返せば、ミームは文明全体の外では特定の意味をもっていない。我々が浜辺にどんな痕跡を残しても波で綺麗に洗い流され、また真っ更の砂浜ができる。恐らく無限の宇宙で、天の川銀河系の太陽系第三惑星の一哺乳類がなにをしていても、或る技は別の生物には彼らの遺伝子的利益にしか意味をもたない。
要するに、或る人が子供を産むのは、一言でいうと神聖性などなにもないのだ。唯の本能、唯の性欲、それを神格化したりやたらと美化している人達は、原核生物たる藍藻の増殖から見直した方がいい。つまり生物はミームも遺伝子も含め寧ろ勝手にふえてしまうしくみで、減る方が愛づらしいのである。
現今の日本は、特に大都市圏または列島の北側・日本海側の寒冷地ほど出生率が低いが、第一に東京圏や関西圏を主とした都市部は顕示的消費や非生殖的性の商品化による退廃、寒冷地は出生可能な人口流出が響いている地域的要因に加え、経済構造が高齢者に金を寡占させているせいもある特殊な状態だ。全人類規模でみると、来たるべき中印や中東圏の高度成長期に人口爆発が控えている状態であり、先進国の中でも日本あるいは韓国や台湾が置かれているのは、人口増殖の踊り場で、一時的な低成長期といっていい。私はその時代に調度生まれた。そしてこの文で或る洞察を開陳しているが、通時的内容と思う。
結局、ゴータマの説は生殖を否定し、イエスの説は一夫一妻を原則とはするもののどんな性も結果としては許せというもの、ムハンムドの場合は4人までの妻を容認しつつその外の不倫を認めないもの、人類の過半はイエスかムハンムドの信者なのだから、全体として子供は勝手に性欲で殖えるものなのだ。日韓台を出生率最低化の一例としていえるのは、子供が殖えなくなる最大原因は、孔子のいう君子三戒のうち老人の貪りが止めどもない場合だ。現日本は資産の82.4%を出産不能な高齢者が寡占している上に、出産可能人口を30代以下とすると全体の5.7%しか持たされず、女性の比率は更に低いのである。
この点で孔子説は正しかった。老人の貪りは、彼らの不安を金銭欲に転嫁しがちな生来の傾向によるとしても、結果、同種族を激減させ、場合によっては自分の単なる老後の精神的安定剤のためだけに種族間の遺伝子比率の中で絶滅危惧にさせるのだから、まさに致命的悪徳でしかなかったのである。只でさえ国内資産が極度に老人から貪られているのに加え、現役世代は賦課方式による年金負担や、使い捨てられ公害を起こした原発後処理まで背負っている。余りに悪い生存状況に絶望した若者の自殺率や、自殺による死因が最大化してもなんの疑問もないし、現にそうなっている*1。
全状況と、生物としての人類をとりまく条件を省みて思うのは、例えば現実逃避でオタク化し、サブカル妄想に発情し江戸町人みたいに事実上口減らしされている東京都民だの都市住民が、早く子供を生み育てているヤンキーと呼ばれる一部の田舎人を差別的にそしるのは、単なる妬みの反動形成ということだ。そしてその種のオタクは飽くまで米国でいうナードと同じ、生存競争で敗れた持てなかった遺伝集団であり(アイドルオタクの略であるドルオタを含む)、その人達が商品化された性の妄想内で疑似恋愛を行うとして、所詮はオタクと同じ反知性主義のヤンキーより、遺伝的利益が少ないと言える点である。
一方これらは娯楽化した大衆文化の下流みたいなもので、元々伝統的な上流学術の分野もあり、例えば詩とか哲学の様なものだが、そちらはそちらで青い海戦略など直接的でないのを含めたミーム競争を行っている世界なので、知性主義者も実際には立ち位置が違うだけで遺伝的適応度が高いとは限らない。
人の理性は遺伝的競争からミーム競争へと主戦場を移したといえるだろうか? 主に先進国(発展した国、developed country)と今日自称している集団では(私は僭称と思うが)そういう見解がたまにみられる。しかしこれは間違いだ。遺伝子は単独で残れるがミームは遺伝子にとっての道具でしかないから。
社民主義的福祉の偽善は、繁殖した遺伝子競争の勝者側が、偽の公平でその敗者側に過大な負担を浴びせかけている点にある。これを思うと弱者(不利な者)の定義は多角的になり得、中華思想で驕り高ぶっている都民は出生率が最低でしかなく、高出生率の沖縄や九州南部ヤンキーへ貢いでいるだけだ*2。
もっと巨視的に見ると、先進国民一般は一見贅沢な暮らしをしているかの如くだが、遺伝子競争の面で途上国一般に負けている。人類総体では近いうちにウィンブルドン化し、旧先進国出身の遺伝子は少数派になっていく。特に発展したアフリカ、イスラム圏やインドの人口比が膨大になり白人比は激減する。
ユダヤ教の旧約聖書は「産めよ殖やせよ」と命ずる神を書いたわけだが、この考え方を忠実に実行しているのは、ユダヤ教とキリスト教を母体にそれらをのりこえ成立したイスラム教徒だ。そして老人の貪りという孔子が非難していた反儒教の悪徳にも陥らなかった彼らが、遺伝子の数で圧倒することだろう。イスラム教の4人の妻までの一夫多妻なる結婚制度も、繁殖戦略、特に経済能力に優れた遺伝子をばらまき易く喜捨さえ義務なので、結果、他の多様性尊重を逃げ口上にしている(が実際には貧者を虐げる)種族を圧倒する地位に立つ要素があるのは目に見えていて、現に人口増加率をみる限りそうなっている*3。
私は日本とかいう島国の首都圏最北部で生まれ、青年期は主に都心で育ったが、そこをとりまいていた諸々の環境は、上述のようバブル以後の低成長が続く衰退期にあった。単なる性欲で殖える筈のものも殖えられない状況で、その上私個人は元々理性が強く、動物としての生を軽蔑してさえいた。私の母体である種族(遺伝比率は未だ知らないが恐らく縄文人と弥生人だろう)は、そういう理由で恐らく、世界史の中で少数派になっていく流れにあった。私個人はその状況を思想で打開する迄もなく、単に受け入れ、自分個人の幸福追求を図るつもりだ。それが逆に、自種族を殖やす目的に一致するから。
そして周りで親になった同世代人だのきょうだいを観察してわかったのは、彼らは単に動物で、性欲で(そして彼らはそれを恋愛とか言って美化している)、又は周りの動物的人間に同調して(その時点で彼らも動物でしかないのだが)交尾し、子を産む。そこにはなんのうつくしさもなかった。非常に醜い。
自分は元々理性が相当強い方らしく、性的不能ではないのだが、性欲のままに行動し、世界の真理だのしくみだの目的だのをなんにも知らないのに、苦役に満ちた虚無のこの世に分身を産み落とす人達の思慮の浅さには、未だに何一つ共感の念をもてない。特に未成年者は私のこの告白で救われるのもいる筈だ。
私は年齢的に大人になる中で、特に親友が結婚し子を生んだ点で、漸く、性について学ぶべきなのかなと考えた。これも一種の同調だったと今にしてみると思うが、その後、数年かけ理解したのは、この性の領域は確かに或る快楽と結びついているのではあるが、簡単にいうと他の動物と本質に違いがないのだ。
我々は一般には理性と呼ばれる、ある冷めた意識の状態をもつ生物で、特にアリストテレスがいっていたようこの理性の領分が他の動物より発達しているのが人類なるものの特徴であって、しかもその領域が強く生まれついている人は、寧ろ獣と対義として、神的な存在、精神的な存在に近い。脳の構造からいうと、旧皮質の本能を、それを覆う様にできている新皮質の理性が抑制しているらしい。だから理性は進化の中で生まれた社会性の遺伝部で、人類としてはより理性的な存在の方が何らかの適応度が高いのだと思う。そして文明はこの理性的な側面をより強化する方に進む仲間集団なのだろう。
韓国の若者言葉で自分がすればロマンス、他人がすれば浮気という語がある(ネロナムブル、自浪他浮)。結局、性欲の構造はこれで、他人の性に共感できないならそこに自分の利得がないからだ。ゴータマやイエスは個人的性を否定していた様にみえるが、実際はそれが彼らのミームに有利だったからだろう。ミームは、本能に於ける遺伝子の繁殖戦略がなんらかの理由で制限されている状況で、その写しとして間接的に自分の遺伝子母体や傍系に有利になる状況を文明内に作り出す為の、飛び道具の様なものと考えられる。例えば処刑確定後の死刑囚が獄中手記を書き残す類。どれだけ利他的でもその点は同じだろう。裏を返せば、ミームは文明全体の外では特定の意味をもっていない。我々が浜辺にどんな痕跡を残しても波で綺麗に洗い流され、また真っ更の砂浜ができる。恐らく無限の宇宙で、天の川銀河系の太陽系第三惑星の一哺乳類がなにをしていても、或る技は別の生物には彼らの遺伝子的利益にしか意味をもたない。
要するに、或る人が子供を産むのは、一言でいうと神聖性などなにもないのだ。唯の本能、唯の性欲、それを神格化したりやたらと美化している人達は、原核生物たる藍藻の増殖から見直した方がいい。つまり生物はミームも遺伝子も含め寧ろ勝手にふえてしまうしくみで、減る方が愛づらしいのである。
現今の日本は、特に大都市圏または列島の北側・日本海側の寒冷地ほど出生率が低いが、第一に東京圏や関西圏を主とした都市部は顕示的消費や非生殖的性の商品化による退廃、寒冷地は出生可能な人口流出が響いている地域的要因に加え、経済構造が高齢者に金を寡占させているせいもある特殊な状態だ。全人類規模でみると、来たるべき中印や中東圏の高度成長期に人口爆発が控えている状態であり、先進国の中でも日本あるいは韓国や台湾が置かれているのは、人口増殖の踊り場で、一時的な低成長期といっていい。私はその時代に調度生まれた。そしてこの文で或る洞察を開陳しているが、通時的内容と思う。
結局、ゴータマの説は生殖を否定し、イエスの説は一夫一妻を原則とはするもののどんな性も結果としては許せというもの、ムハンムドの場合は4人までの妻を容認しつつその外の不倫を認めないもの、人類の過半はイエスかムハンムドの信者なのだから、全体として子供は勝手に性欲で殖えるものなのだ。日韓台を出生率最低化の一例としていえるのは、子供が殖えなくなる最大原因は、孔子のいう君子三戒のうち老人の貪りが止めどもない場合だ。現日本は資産の82.4%を出産不能な高齢者が寡占している上に、出産可能人口を30代以下とすると全体の5.7%しか持たされず、女性の比率は更に低いのである。
この点で孔子説は正しかった。老人の貪りは、彼らの不安を金銭欲に転嫁しがちな生来の傾向によるとしても、結果、同種族を激減させ、場合によっては自分の単なる老後の精神的安定剤のためだけに種族間の遺伝子比率の中で絶滅危惧にさせるのだから、まさに致命的悪徳でしかなかったのである。只でさえ国内資産が極度に老人から貪られているのに加え、現役世代は賦課方式による年金負担や、使い捨てられ公害を起こした原発後処理まで背負っている。余りに悪い生存状況に絶望した若者の自殺率や、自殺による死因が最大化してもなんの疑問もないし、現にそうなっている*1。
全状況と、生物としての人類をとりまく条件を省みて思うのは、例えば現実逃避でオタク化し、サブカル妄想に発情し江戸町人みたいに事実上口減らしされている東京都民だの都市住民が、早く子供を生み育てているヤンキーと呼ばれる一部の田舎人を差別的にそしるのは、単なる妬みの反動形成ということだ。そしてその種のオタクは飽くまで米国でいうナードと同じ、生存競争で敗れた持てなかった遺伝集団であり(アイドルオタクの略であるドルオタを含む)、その人達が商品化された性の妄想内で疑似恋愛を行うとして、所詮はオタクと同じ反知性主義のヤンキーより、遺伝的利益が少ないと言える点である。
一方これらは娯楽化した大衆文化の下流みたいなもので、元々伝統的な上流学術の分野もあり、例えば詩とか哲学の様なものだが、そちらはそちらで青い海戦略など直接的でないのを含めたミーム競争を行っている世界なので、知性主義者も実際には立ち位置が違うだけで遺伝的適応度が高いとは限らない。
人の理性は遺伝的競争からミーム競争へと主戦場を移したといえるだろうか? 主に先進国(発展した国、developed country)と今日自称している集団では(私は僭称と思うが)そういう見解がたまにみられる。しかしこれは間違いだ。遺伝子は単独で残れるがミームは遺伝子にとっての道具でしかないから。
社民主義的福祉の偽善は、繁殖した遺伝子競争の勝者側が、偽の公平でその敗者側に過大な負担を浴びせかけている点にある。これを思うと弱者(不利な者)の定義は多角的になり得、中華思想で驕り高ぶっている都民は出生率が最低でしかなく、高出生率の沖縄や九州南部ヤンキーへ貢いでいるだけだ*2。
もっと巨視的に見ると、先進国民一般は一見贅沢な暮らしをしているかの如くだが、遺伝子競争の面で途上国一般に負けている。人類総体では近いうちにウィンブルドン化し、旧先進国出身の遺伝子は少数派になっていく。特に発展したアフリカ、イスラム圏やインドの人口比が膨大になり白人比は激減する。
ユダヤ教の旧約聖書は「産めよ殖やせよ」と命ずる神を書いたわけだが、この考え方を忠実に実行しているのは、ユダヤ教とキリスト教を母体にそれらをのりこえ成立したイスラム教徒だ。そして老人の貪りという孔子が非難していた反儒教の悪徳にも陥らなかった彼らが、遺伝子の数で圧倒することだろう。イスラム教の4人の妻までの一夫多妻なる結婚制度も、繁殖戦略、特に経済能力に優れた遺伝子をばらまき易く喜捨さえ義務なので、結果、他の多様性尊重を逃げ口上にしている(が実際には貧者を虐げる)種族を圧倒する地位に立つ要素があるのは目に見えていて、現に人口増加率をみる限りそうなっている*3。
私は日本とかいう島国の首都圏最北部で生まれ、青年期は主に都心で育ったが、そこをとりまいていた諸々の環境は、上述のようバブル以後の低成長が続く衰退期にあった。単なる性欲で殖える筈のものも殖えられない状況で、その上私個人は元々理性が強く、動物としての生を軽蔑してさえいた。私の母体である種族(遺伝比率は未だ知らないが恐らく縄文人と弥生人だろう)は、そういう理由で恐らく、世界史の中で少数派になっていく流れにあった。私個人はその状況を思想で打開する迄もなく、単に受け入れ、自分個人の幸福追求を図るつもりだ。それが逆に、自種族を殖やす目的に一致するから。
2019年8月26日
「表現の不自由展・その後」の脅迫犯を愛知県警が初め捜査しなかった理由
津田大介氏の言説では、愛知県警はネットで調べればすぐ分かる程度の捜査をはじめ怠っていた。津田氏側が代わりにネットで調べ情報提供した結果、犯人逮捕に動いた。津田氏は愛知県警が政治判断で動かなかった説と検挙率を下げたくないので動きが鈍い説で後者が濃厚といっているが、愛知県警が無能なだけと思われる。
ツイッター上では愛知県知事大村氏や津田氏らへ、警察の威信を下げる発言をするな、などと怒っていた人達がいたが、結果からみて脅迫犯を検挙したのだから愛知県警はネットで調べればすぐ店舗番号がわかる程度の情報検索能力すらなかったのが事実の様なので、威信も何も、今回の脅迫事件に関し愛知県警無能説が実証済みということになるだろう。
ツイッター上では愛知県知事大村氏や津田氏らへ、警察の威信を下げる発言をするな、などと怒っていた人達がいたが、結果からみて脅迫犯を検挙したのだから愛知県警はネットで調べればすぐ店舗番号がわかる程度の情報検索能力すらなかったのが事実の様なので、威信も何も、今回の脅迫事件に関し愛知県警無能説が実証済みということになるだろう。
客観的な賢さは決して一般化できない
最近、差別し易さは一般知能の低さとするGordon Hodson氏の見解について思うのは、言語的認知は抽象性が高いほどどれも共通分類による単純化ではないか、ということ(例えば赤さ、面白さ)、つまり差別までいかずとも世界を抽象化して有る言語は人類の世界認識を偏らせている。愚かさと差別を結びつけている論理は、抽象言語が学園的(academic)な分野なり文脈で使われていると定型例として賢さとみなされがちな場合を、意図的・恣意的に無視しているかもしれない。いいかえれば抽象性に対するなんらかの価値づけを行う側の政治観によって、ある言動の賢さが決定されている。
例えば私がSNS上でみかけ、少し接したことのある或る東京都民は、外国人差別や地方人差別を私の目の前で連発していた。この男は彼の差別観に合う意見を、利己目的で賢さとみなしていた、と私は思う。ではここでいう賢愚とはなんだろうか? その男にとって外人恐怖や華夷秩序は正義であり、彼はそれを愛国心と考えているが実際には外人のみならず国内の自分が属していない自治体をも差別しているので単なる利己主義なり郷土愛の変形したものといえるが、つまりは彼にとっての賢さは寛容なものではない。同時に不倫マニアなのも独特だった。
メンタリスト某などは、差別し易さは愚とゴードン・ホドソン説をそのまま述べているのだけど、そこからいうと抽象性の高い言説、例えばヘーゲルの世界精神(西洋民族中心主義含む文明の単一発展論)など愚の骨頂になってしまうかもしれない点も、上述の主観的な賢愚判定も、分析の枠から外れる。
また学園思想(academism、大学風、官学風)からすると賢愚はそのサロン的・同人的な価値観に合うかで判定されるので(例えば学会に属さず、学会誌に載らない民学軽視の風もあれば学位差別もあるし、これらは真理に関係ない)、当時の潮流による教授・学会の価値づけは或る意味では主観的でしかない。
きのう、三浦瑠麗氏が、韓国の或る男性が或る日本女性の旅行者に暴行した事件で、外人恐怖と女嫌いの混ざったものとほぼ断定的な口調で類推ツイートしたら、相当数の人達が返信欄で反論していて(細かくはカタカナ英語で語り洋学仕草の教養俗物根性として反感を買ったのだが)、学位の後光が通用していない。いわばここでは賢愚判定を、一部ツイッター民が自力で主観的に行い、どうみても外人恐怖・女嫌いと必然に絡める論拠薄弱と見抜いたわけだ。学会や大学なら(或いは学位学閥の後光を利用する媒体なら)、特に三浦氏の無謬性が前提になり基本そのまま通ってしまったろう意見だった。こうして差別は逆差別(ひいき)側にも向かい、ひいきされる学園風の物言いは間違っていようが利権でつながる学閥仲間から引き倒される。
さらにいうとIQ値の類似したほぼ同年代のかなりの同質集団が固まっているのが学閥の実態なので、このひいきによる賢愚判定は偏りを伴い、とても怪しいものだ。
科学一般はそれを批判(ここでは程あれ否定的に反証)していない限り、単なる宗教や、個々の知識に関してはその追随者内部での信仰になる。学園思想の内外どちらでも同じだ。つまり差別し易さとひいきし易さは向きが違えど、本質的に似た、認知の過度の単純化なのである。東浩紀氏があいちトリエンナーレ2019のアドバイザーとして炎上した件も、彼が事前に通称「くねくね動画」で述べていた所でわかる通り、美術業界をかなり知ったかぶって、政治的展示を炎上させずにみせるのがアートなどと物知り博士風に、津田大介氏の天皇侮辱にも実質GOサインを出してしまっていた。
孔子は「人を以て言を廃せず」(『論語』衛霊公)といっていた。言葉の賢愚は、発言者の属性と無関係にある。この点でもIQ含む一般知能なる単一知能説で脳の一般化した賢愚判定はできない以上、ゴードン・ホドソン説は訝しい。結局、主観的賢愚を超えた賢愚自体は、人には知れないのだ。
客観的な賢愚が存在する、とする立場を、同人の権威づけで行っているのが学会や大学、また特に大学院までの教育機関を制度的に認可している政府である。この全体を学界と定義すると、私は学界は常に可謬的(誤り得るもの)で、究極のところ彼ら自身、真に客観的な賢愚自体を知らず、知り得ないとみる。
また三浦氏の発言をめぐり「集合知」の優れ方を述べている人をみたが、この集合知が特定少数派(学界と無関係)より賢かった試しはない。集合知は構成員に認知多様性がある中で少数意見尊重の風があるとき誤りを見つけ出すのには役立つが(検知的優れ方)、その中でも特定の賢さは特定の人にしかない。
究極の知的謙虚さは、ソクラテス未知の自覚(無知の知)を含んで、客観的賢愚の判定が現実には不可能と悟ることによる。或る脳を評価する観点でその価値づけが違うからだし、多少あれ共通の賢さは特定の学風や宗派に過ぎず、実際には一般化できない、個別の賢愚判定の体系だからだ。もし言語による抽象化の或る方式を一学風の典型とすると、この学風は賢愚判定を宗教化させる第一原因である。抽象性の高い言説は理解が難しいので、分からなさを権威と誤認する人が現れ、或る教義として神秘化される。だから客観的賢さと抽象性にも直接の関係はない。時にそれは単なる衒学からだ。
一方、想定受け手にとって大勢としてわかりやすい表現を使えるという特定の知能は解説能力として一つの賢さではあるが、研究やその他の能力と一致するとは限らない。したがって言説のわかりやすさを賢さ一般と判定するのも誤りだ。受け手の知能と類似性があるほど或る言説が可読的なだけだ。
差別的な考えをもっているとみなせる人を愚と即断するのは、以上の論拠から、私は一つの臆見と思う。その差別を否定する根拠は、科学にせよ道徳哲学にせよ経験にせよ、又別の差別なりひいきの立場でもありえるからだし、これらの上位に超越的立場がみいだせたとしても、差別は脳の単純化機能だからだ。人権侵害を含む差別を単なる区別といい合理化するよくある論理は唯の詭弁として除くが、言語は認知機能の必然で世界を抽象化し、時に過度に単純化して捉えるので、差別を全て乗り越え思慮するのは極難しい。我々にありうるのは自らの思い込みを常に反証し続ける認知的負荷を自ら科す知的誠実さだけだ。
例えば私がSNS上でみかけ、少し接したことのある或る東京都民は、外国人差別や地方人差別を私の目の前で連発していた。この男は彼の差別観に合う意見を、利己目的で賢さとみなしていた、と私は思う。ではここでいう賢愚とはなんだろうか? その男にとって外人恐怖や華夷秩序は正義であり、彼はそれを愛国心と考えているが実際には外人のみならず国内の自分が属していない自治体をも差別しているので単なる利己主義なり郷土愛の変形したものといえるが、つまりは彼にとっての賢さは寛容なものではない。同時に不倫マニアなのも独特だった。
メンタリスト某などは、差別し易さは愚とゴードン・ホドソン説をそのまま述べているのだけど、そこからいうと抽象性の高い言説、例えばヘーゲルの世界精神(西洋民族中心主義含む文明の単一発展論)など愚の骨頂になってしまうかもしれない点も、上述の主観的な賢愚判定も、分析の枠から外れる。
また学園思想(academism、大学風、官学風)からすると賢愚はそのサロン的・同人的な価値観に合うかで判定されるので(例えば学会に属さず、学会誌に載らない民学軽視の風もあれば学位差別もあるし、これらは真理に関係ない)、当時の潮流による教授・学会の価値づけは或る意味では主観的でしかない。
きのう、三浦瑠麗氏が、韓国の或る男性が或る日本女性の旅行者に暴行した事件で、外人恐怖と女嫌いの混ざったものとほぼ断定的な口調で類推ツイートしたら、相当数の人達が返信欄で反論していて(細かくはカタカナ英語で語り洋学仕草の教養俗物根性として反感を買ったのだが)、学位の後光が通用していない。いわばここでは賢愚判定を、一部ツイッター民が自力で主観的に行い、どうみても外人恐怖・女嫌いと必然に絡める論拠薄弱と見抜いたわけだ。学会や大学なら(或いは学位学閥の後光を利用する媒体なら)、特に三浦氏の無謬性が前提になり基本そのまま通ってしまったろう意見だった。こうして差別は逆差別(ひいき)側にも向かい、ひいきされる学園風の物言いは間違っていようが利権でつながる学閥仲間から引き倒される。
さらにいうとIQ値の類似したほぼ同年代のかなりの同質集団が固まっているのが学閥の実態なので、このひいきによる賢愚判定は偏りを伴い、とても怪しいものだ。
科学一般はそれを批判(ここでは程あれ否定的に反証)していない限り、単なる宗教や、個々の知識に関してはその追随者内部での信仰になる。学園思想の内外どちらでも同じだ。つまり差別し易さとひいきし易さは向きが違えど、本質的に似た、認知の過度の単純化なのである。東浩紀氏があいちトリエンナーレ2019のアドバイザーとして炎上した件も、彼が事前に通称「くねくね動画」で述べていた所でわかる通り、美術業界をかなり知ったかぶって、政治的展示を炎上させずにみせるのがアートなどと物知り博士風に、津田大介氏の天皇侮辱にも実質GOサインを出してしまっていた。
孔子は「人を以て言を廃せず」(『論語』衛霊公)といっていた。言葉の賢愚は、発言者の属性と無関係にある。この点でもIQ含む一般知能なる単一知能説で脳の一般化した賢愚判定はできない以上、ゴードン・ホドソン説は訝しい。結局、主観的賢愚を超えた賢愚自体は、人には知れないのだ。
客観的な賢愚が存在する、とする立場を、同人の権威づけで行っているのが学会や大学、また特に大学院までの教育機関を制度的に認可している政府である。この全体を学界と定義すると、私は学界は常に可謬的(誤り得るもの)で、究極のところ彼ら自身、真に客観的な賢愚自体を知らず、知り得ないとみる。
また三浦氏の発言をめぐり「集合知」の優れ方を述べている人をみたが、この集合知が特定少数派(学界と無関係)より賢かった試しはない。集合知は構成員に認知多様性がある中で少数意見尊重の風があるとき誤りを見つけ出すのには役立つが(検知的優れ方)、その中でも特定の賢さは特定の人にしかない。
究極の知的謙虚さは、ソクラテス未知の自覚(無知の知)を含んで、客観的賢愚の判定が現実には不可能と悟ることによる。或る脳を評価する観点でその価値づけが違うからだし、多少あれ共通の賢さは特定の学風や宗派に過ぎず、実際には一般化できない、個別の賢愚判定の体系だからだ。もし言語による抽象化の或る方式を一学風の典型とすると、この学風は賢愚判定を宗教化させる第一原因である。抽象性の高い言説は理解が難しいので、分からなさを権威と誤認する人が現れ、或る教義として神秘化される。だから客観的賢さと抽象性にも直接の関係はない。時にそれは単なる衒学からだ。
一方、想定受け手にとって大勢としてわかりやすい表現を使えるという特定の知能は解説能力として一つの賢さではあるが、研究やその他の能力と一致するとは限らない。したがって言説のわかりやすさを賢さ一般と判定するのも誤りだ。受け手の知能と類似性があるほど或る言説が可読的なだけだ。
差別的な考えをもっているとみなせる人を愚と即断するのは、以上の論拠から、私は一つの臆見と思う。その差別を否定する根拠は、科学にせよ道徳哲学にせよ経験にせよ、又別の差別なりひいきの立場でもありえるからだし、これらの上位に超越的立場がみいだせたとしても、差別は脳の単純化機能だからだ。人権侵害を含む差別を単なる区別といい合理化するよくある論理は唯の詭弁として除くが、言語は認知機能の必然で世界を抽象化し、時に過度に単純化して捉えるので、差別を全て乗り越え思慮するのは極難しい。我々にありうるのは自らの思い込みを常に反証し続ける認知的負荷を自ら科す知的誠実さだけだ。
2019年8月25日
カタカナ英語の蔓延は国内学者劣化の一証
無意味にカタカナ英語を織り交ぜ欧米出羽の森演じる奴が愚なのは絶対に疑いの余地がない。同じ風に英語内で無為の日本語を使い、米英人を煙に巻いてるのを想定すれば一発でわかる。
この種のえせ知識人仕草は福沢諭吉ら欧米かぶれが一番の元凶だ。昔は難読漢字で類似行為をしていた教養俗物の末裔。
英語は表意性をもってるので英単語で書けば語源から意味がなんとなく類推できる場合もあるのに、カタカナだと表意性が消失するので音だけきいても意味を理解できない。もし難読語を日本語化せず外来音のまま使いたいなら(そういう場面があるのもまれの筈だが)、英語なり原語自体を併記してほしい。
GHQが常用漢字を制限するまで難読漢語は日本人を煙に巻くため頻用され、無意味な中国出羽の森で溢れていた。つまりは英語・漢語(今日の中文)にかぎらず、既に国語に類似表現や訳語がある段階で、わざわざ外来語でいいかえるのは、日本風の外来文化劣等感の裏返し、又は俗物根性としか言い様がない。
戦後知識人はカタカナ英語使うのを恥としなくなった。それ以前は「カタカナ(外来語)にひれ伏す癖をやめさせたい」漱石の風で、和製漢語に訳していた筈が。もう中文訳語から間接輸入した方が早い。戦後知識人の言語能力、特にふさわしい訳語を選り抜く漢学力と古典知識の劣化に違いない。
この種のえせ知識人仕草は福沢諭吉ら欧米かぶれが一番の元凶だ。昔は難読漢字で類似行為をしていた教養俗物の末裔。
英語は表意性をもってるので英単語で書けば語源から意味がなんとなく類推できる場合もあるのに、カタカナだと表意性が消失するので音だけきいても意味を理解できない。もし難読語を日本語化せず外来音のまま使いたいなら(そういう場面があるのもまれの筈だが)、英語なり原語自体を併記してほしい。
GHQが常用漢字を制限するまで難読漢語は日本人を煙に巻くため頻用され、無意味な中国出羽の森で溢れていた。つまりは英語・漢語(今日の中文)にかぎらず、既に国語に類似表現や訳語がある段階で、わざわざ外来語でいいかえるのは、日本風の外来文化劣等感の裏返し、又は俗物根性としか言い様がない。
戦後知識人はカタカナ英語使うのを恥としなくなった。それ以前は「カタカナ(外来語)にひれ伏す癖をやめさせたい」漱石の風で、和製漢語に訳していた筈が。もう中文訳語から間接輸入した方が早い。戦後知識人の言語能力、特にふさわしい訳語を選り抜く漢学力と古典知識の劣化に違いない。
デリダ以後にありうる教育
東浩紀の使っている誤配なる概念は、デリダの散種を通俗化したもので、差延で文が根本的に正しく解釈される可能性がない、筆者すら差延の中で唯一の解釈をもちえない、とする脱構築の問題意識を欠いたまま、予期しない形で文が誰かに読まれるかもしれないという単純な意味で使われている。
デリダは文が正しく解釈できない、どの文に対する見解も次の瞬間の意識では別の解釈ができる、とする文をとりまく解釈学上の不確定性を指摘していた以上、誤配どころか、元々、文は正しく伝達される余地が基本的にありえない。共通解釈を権威化する作為が辞書の役割だが、これも揺らぎを避けられない。
私は或る知り合いの男がソーカル事件でポストモダン思想を全否定し、実証主義を信仰の様に語るのをみて、デリダからみたら実に某事件が冗談にしか感じられないのをその男は知らないのだろうと暗に思っていた。デリダを含む現代哲学を汲めば、いずれ科学主義も脱構築の射程に入るのが明らかなのに。
一方、確かに国語が読めない人、相手の意図を日常言語レベルで読み違える人がいる。つまり一般的読解力の不足。デリダ哲学はこの国語が苦手な人に正当性を与え、それどころかあらゆる非定型的文にも等しい価値を与える。PISAの読解力の方は、典型解釈の類推という学校教育的なしつけに依存している。読解力を検査する試験は、文に関し唯一または特定の解釈を正解として典型的な読み方を問う。この種の不確定性、散種性を含む認知テスト結果は、出題者の典型解釈を予想する能力にすぎず、国語というより心術だ。
だがPISA成績は他の試験成績とも正相関しているので、恐らくIQへ一般的に比例するのだろう。
PISAの本質的問題点は、同年代の国民ごとのIQに正相関した結果が出るというだけで、読解力については確定的正解がありえないことともあわせ、IQの遺伝要素を無視できないかぎり一種の人種差別にすぎない点である。典型的な学校教育と無関係な知能についても正しく評価できない。したがって、文科省がPISAに最適化した初等・中等教育を制度化するのは、実際のところ欠陥を含む。日本は現時点で世界中を見渡した時、遺伝子としてのIQ面でかなり有利な位置に着けているが、それは賢さの一般指標でもなく(読解力は集団教育性に依存している)、科学主義の偏りも免れない。
文科省は公教育について校外学習の裁量を認め、原則単位制とし、ゆたぼん式に不登校とみなされている子供にも再履修の学習機会を与えるべきだ。いいかえれば北欧式に年齢制限を設けず、当人が修了とするまで原則無限に留年できる様にすればいい。また国会は人事等での学歴差別を法律で禁じるべきだ。それと同時に、成績が良い子供については必ず飛び級可能にし、当人のIQに応じた教育を受けられる公教育に変えるべきである。進度が速い人をそうでない人と同じクラスで教えるのは完全に間違いだ。塾は個別指導に近く、出来に応じて異なるクラスで授業を受けられる。進度が遅い人もそうあるべきなのだ。
いじめ発生には固定クラス、固定メンバーが相当関係している。閉鎖的集団で成員の同質性が高いと、違和する個人を排除しようとするからだ。単位制は学校やクラスを自由に変えられる利点があり、成員の流動性を高めるので大学以後はいじめが起きづらい。米国風のロッカールームの様な個人設備も不要だ。学校に合わないか、近くに学校が少数しかなくどこも合わない、または通える範囲では選択肢がない人のため、文科省は初等・中等用の通信制教育環境もきちんと整えるべきである。放送大学の附属学校でいいとおもうが、国立民営の通信制小中高校を少なくとも全国民向けに1つ以上作る必要がある。
散種・差延を考慮した読解力テストは、解釈を1つに定めるものではなく(例えば筆者の意図を問うみたいな筆者自身も差延する問答は唯一の正解がない)、三学に基づく論理学(ド・モルガンの定理みたいな)、文法(指示代名詞の種類とか)、修辞(倒置法か逆説かを問う様な)正誤の問いであるべきだ。
デリダは文が正しく解釈できない、どの文に対する見解も次の瞬間の意識では別の解釈ができる、とする文をとりまく解釈学上の不確定性を指摘していた以上、誤配どころか、元々、文は正しく伝達される余地が基本的にありえない。共通解釈を権威化する作為が辞書の役割だが、これも揺らぎを避けられない。
私は或る知り合いの男がソーカル事件でポストモダン思想を全否定し、実証主義を信仰の様に語るのをみて、デリダからみたら実に某事件が冗談にしか感じられないのをその男は知らないのだろうと暗に思っていた。デリダを含む現代哲学を汲めば、いずれ科学主義も脱構築の射程に入るのが明らかなのに。
一方、確かに国語が読めない人、相手の意図を日常言語レベルで読み違える人がいる。つまり一般的読解力の不足。デリダ哲学はこの国語が苦手な人に正当性を与え、それどころかあらゆる非定型的文にも等しい価値を与える。PISAの読解力の方は、典型解釈の類推という学校教育的なしつけに依存している。読解力を検査する試験は、文に関し唯一または特定の解釈を正解として典型的な読み方を問う。この種の不確定性、散種性を含む認知テスト結果は、出題者の典型解釈を予想する能力にすぎず、国語というより心術だ。
だがPISA成績は他の試験成績とも正相関しているので、恐らくIQへ一般的に比例するのだろう。
PISAの本質的問題点は、同年代の国民ごとのIQに正相関した結果が出るというだけで、読解力については確定的正解がありえないことともあわせ、IQの遺伝要素を無視できないかぎり一種の人種差別にすぎない点である。典型的な学校教育と無関係な知能についても正しく評価できない。したがって、文科省がPISAに最適化した初等・中等教育を制度化するのは、実際のところ欠陥を含む。日本は現時点で世界中を見渡した時、遺伝子としてのIQ面でかなり有利な位置に着けているが、それは賢さの一般指標でもなく(読解力は集団教育性に依存している)、科学主義の偏りも免れない。
文科省は公教育について校外学習の裁量を認め、原則単位制とし、ゆたぼん式に不登校とみなされている子供にも再履修の学習機会を与えるべきだ。いいかえれば北欧式に年齢制限を設けず、当人が修了とするまで原則無限に留年できる様にすればいい。また国会は人事等での学歴差別を法律で禁じるべきだ。それと同時に、成績が良い子供については必ず飛び級可能にし、当人のIQに応じた教育を受けられる公教育に変えるべきである。進度が速い人をそうでない人と同じクラスで教えるのは完全に間違いだ。塾は個別指導に近く、出来に応じて異なるクラスで授業を受けられる。進度が遅い人もそうあるべきなのだ。
いじめ発生には固定クラス、固定メンバーが相当関係している。閉鎖的集団で成員の同質性が高いと、違和する個人を排除しようとするからだ。単位制は学校やクラスを自由に変えられる利点があり、成員の流動性を高めるので大学以後はいじめが起きづらい。米国風のロッカールームの様な個人設備も不要だ。学校に合わないか、近くに学校が少数しかなくどこも合わない、または通える範囲では選択肢がない人のため、文科省は初等・中等用の通信制教育環境もきちんと整えるべきである。放送大学の附属学校でいいとおもうが、国立民営の通信制小中高校を少なくとも全国民向けに1つ以上作る必要がある。
散種・差延を考慮した読解力テストは、解釈を1つに定めるものではなく(例えば筆者の意図を問うみたいな筆者自身も差延する問答は唯一の正解がない)、三学に基づく論理学(ド・モルガンの定理みたいな)、文法(指示代名詞の種類とか)、修辞(倒置法か逆説かを問う様な)正誤の問いであるべきだ。
俗物社会
ひたすら弱者を虐げる悪魔の国民
匿名で悪業三昧の極悪衆愚
世間と群れ
大勢で一人を集団虐殺したがる日本人
自画自賛をくり返す
恥知らずで下品極まりないアニメオタク
大金を貢ぎ
ひたすら幼稚さを自慢する下賎な国民
それから
いや最初からここには何もない
東京とか京都と名乗り
金を貪る俗物社会
匿名で悪業三昧の極悪衆愚
世間と群れ
大勢で一人を集団虐殺したがる日本人
自画自賛をくり返す
恥知らずで下品極まりないアニメオタク
大金を貢ぎ
ひたすら幼稚さを自慢する下賎な国民
それから
いや最初からここには何もない
東京とか京都と名乗り
金を貪る俗物社会
地獄の国
お前の底にはなにもない
だからお前は孤独だという
金儲けに毒された国で
ひたすら他人を貪る奴隷の間で
だから資本家と皇族に洗脳され
労働者仲間と連帯もせず
お前は静かに絶望している
馬鹿が繁殖しているさなか
お前にはなんの救いもない
そして死んでいく
不幸の
俗物の
老害と若害の
地獄の国
だからお前は孤独だという
金儲けに毒された国で
ひたすら他人を貪る奴隷の間で
だから資本家と皇族に洗脳され
労働者仲間と連帯もせず
お前は静かに絶望している
馬鹿が繁殖しているさなか
お前にはなんの救いもない
そして死んでいく
不幸の
俗物の
老害と若害の
地獄の国
2019年8月24日
学ばなくなった人
学習しない人、忠告の真偽を問わない人は、成長が止まっている。その種の頑固さはしばしば致命的で、無反省の驕りに繋がる。
人が一生の間に他人を見られる時間は限られるのだから、劣った人を見聞きしている暇はない。
人が一生の間に他人を見られる時間は限られるのだから、劣った人を見聞きしている暇はない。
2019年8月23日
無能な哲学者
優秀な哲学者は公徳について語り、無能な哲学者は売名する。公徳は誰もに関わりのある議題だが、ある個人の売名は他人にはどうでもいいことでしかなく、結局、時とともに後者は化けの皮が剥がれ忘却される。
公徳の高い個人を中心に少数支配の地方政をめざすべき
きのうまで、次の衆院選で小沢統一政党を作り、自民党と最終決戦して負けたら多数政(民主主義)を諦めるべきと考えていたのだが、改めて気づいたに、そもそもこの反証をする必要すらないのかもしれない。つまり日本は北朝鮮や中国と同程度の政治民度で、既に多数政が機能していないに等しいのだろう。多数政が機能しない、つまり政権交代が起きないので有権者は意思決定の必要が事実上存在せず、棄権しても最初から自民党総裁が、裏権力者の天皇家共々独裁を恣にする。飛鳥時代から続くこの世襲独裁政が現役で、寧ろ武家政治でこの腐敗を正していた時期こそが、天皇渡来以前の共和政共々善政できた。
全皇室史を省みても、仁徳天皇が国見をし、民家のかまどから炊事の煙が立つまでは酷税を諦めた、という世襲独裁の傲慢ぶりの逸話を最高の例としている時点で、この中国神話の伝説上の三皇の一人の名を背乗りした渡来人の末裔は、実に自己中心的な中華思想の元で悪政を繰り広げてきたのがよくわかる。
民衆の為に政治する、この主権在民の基礎が日本でみられたのは、生産物が蓄財不能のため大盤振る舞い(potlatch)式に収穫量に応じ周囲の仲間に山分けしていたろう縄文期以前の共和政段階だけだ。天皇渡来後は皇族による資本独占、公家や武家、華族出現後は彼らによる権力濫用での独占がみられたのみ。
資本主義が致命的欠点としているのは、そもそも信用貨幣(暗号資産含む)の元で競争原理を追求すれば、皇室資本(日本政府の独占できる全資産)を頂点とする資本家と、一般民衆の間に無限の格差が開いてしまう事実への無批判さだ。天皇制は端から資本主義を悪用した反民衆的な世襲独裁政にすぎない。微視的には、徳川斉昭の様な政治哲学者が愛民思想をもっていたことがあったが、巨視的には彼の信奉していた皇室自体が悪徳宗教権力者に他ならなかった。皇室自身、強烈にダークトライアド化されている自己洗脳で神道信仰が日本国民全般の公益に一致すると狂信しているので、彼らに反省の余地はない。
資本家も自らの有利な地位を手放す鼓舞は特にない。寄付誓約は努力義務でしかないし、資産家がますます資産家になることを妨げる制度は皇室を中心とした自民党政府の元で基本的に全て排除される。今日の労働者一般が奴隷として自己をしつけるのは、この様な資本階級制度に最適化する為に他ならない。つまり皇室は自らの悪意ある独裁政を延長させるのに都合がいい国民奴隷化教育を、神道信者や日本政府へ命じて相も変わらず行わせ、それを自己を神格化する教義の中で誇りにさえ思っているので、資本主義は彼らの徴税権と蓄財を補完し、恒久的上位を維持するのに極めて望ましい経済思想だったのである。
東京都民一般は、また皇室の存在を全国民を中華思想に則って差別するのに都合がいい世襲宗教権力者とみているので、いわば共犯関係でしかない。この共謀罪を疑わせる要素に左翼とか反日といった稚拙な汚名を着せ、お茶を濁し彼らの地域的独裁集団やその利権を維持促進しようとの悪業もここに重なる。資本主義はこうしてますます共和政、多数政の美質から遠い代物でしかない。そして確かめるまでもなく、その種の自分達国民が最も不利な体制を消極的にせよ支持している衆愚は、単に公徳がないばかりか自分の利害に関する判断力にすら事欠く無知蒙昧さの同調圧力で動く、狂信集団、神道セクトでしかない。
日本で資本主義市場に参加するとは、間接的に皇室の徴税権を認めることに他ならず、彼らの悪意ある国民奴隷化を公認してしまう。だから資本主義並びにその信徒組織下で労働者自身が自己奴隷化を目指す更に堕ちた形である労働主義は、本質的に、国民の圧倒的多数の人々を幸福にも救済も当然できない。資本主義を否定して生きるのは、今日の目からは異常にみえるが、実際、皇室の存在も、資本主義も、それらの共謀関係も、いずれも邪悪なのは間違いないのだから、少なくとも近い将来の人類からこの見解は自明でなければならない。そしてその次代、より共和的な本来の日本に、資本主義も皇室もない筈だ。
では今日我々は具体的にどう生きるべきなのか。圧倒的多数が資本主義信者かつ皇室政府に洗脳されている状態で、彼らの間にあって彼らに向け、正義を説いても無駄である。彼らはそれら邪教の因果を、加速主義の結果として自己破産的にうけとるべきなのである。
専ら、拝金も皇室崇拝もしないこと。
公的福祉を受けてくらしたり、そもそも稼得をせず生きている経済依存的な人間についても、脱資本主義の目からは当然生きる価値がある。寧ろ商才だけを生存価値の度合いに単純化している人間観こそ、その邪悪な教義が人々を陥れている点であり、例えば東京都民一般が採用する新手の封建制でしかない。皇室崇拝者は、皇室自身と同じく、世襲独裁で財政と風教、主権在民に反する疑似君主制度に伴う諸々の面で国政を悪化させている根源因なので、存在自体が反国民的である。もし神道信者が皇族を民間人化したり政治から手を引く地位に妥協しても、彼らが奈良発の殺人カルト教団なのは変わらないからだ。選挙を経て神道カルトや彼らと共謀した資本主義者を国政の多数派から排除できないとすれば、そもそも多数政が国政次元で機能しない証でしかなく、つまりは日本国民一般に公徳が足りない。政教分離原則や主権在民、そして資本主義の限界に理解がないのだから彼ら自民党支持者一般には何も期待できないだろう。
北欧自体が世界でみれば少数派の国々である如く、日本国内でも都道府県または地方単位で、より公徳の質が高い集団では、政教一致の矛盾した憲法の悪徳や、行き過ぎた資本主義崇拝の念による低福祉下での需給の不一致を程あれ避けられる。だから我々が現実的にめざすべきはこの少数支配の善政なのだ。例えば東北地方(但し仙台市を特別区として除く)とか四国地方、北陸地方、北関東単位、北海道、沖縄県とか、京都市、あるいは茨城県内でいえば県北単位なら、高福祉政策を高度な行政判断で踏み行うのは現に可能だろう。その範囲で地方裁判所の段階で誠実に政教一致を否定するのも、また可能であろう。
脱資本主義、皇室政治の否定とは、より共和的な社会秩序、特にその社会で最も恵まれない人の利益を最大化する(ロールズやアリストテレスによる正義式の)調整的政治の可能性を意味する。そして我々が今日、一般化し善政と呼んでいいのはこの種の政である。その実現は、高徳な少数支配の可能性による。投票率が低いとか、民衆の多数派が政治的無関心で、安定した選挙体制が確立済みの地域でこそ、寧ろ、その少数の有権者を支持者としてとりつけている議員なり政治家が、高い公徳を身に着けていれば、より進んだ社会秩序を先に実現できる。これが逆説的に、より共和的な国内政治の道筋である。国政次元がいかに腐敗していても、地方政治の次元は、単独または少数支配者が賢明であれば救いがある。そしてそこにしか救いはない。堕落した多数派、マスコミや皇室の手先である宮内記者会・記者クラブに扇動される衆愚を無視できるほど、多数派、特に経済弱者に公益を与える善政が可能だからだ。
私はわざわざ日本国政の単位で、多数派の公徳を反証すべきだと考えていたが、これは無駄手間だ。なぜなら最初から公徳が十分高ければ斯くまで堕落しきった自民党の一党支配や、皇室政治が今日まで続いてきた筈もないのだから。単位をより細分化し、最も賢明な集団なり個人をより賢明にするべきだ。
全皇室史を省みても、仁徳天皇が国見をし、民家のかまどから炊事の煙が立つまでは酷税を諦めた、という世襲独裁の傲慢ぶりの逸話を最高の例としている時点で、この中国神話の伝説上の三皇の一人の名を背乗りした渡来人の末裔は、実に自己中心的な中華思想の元で悪政を繰り広げてきたのがよくわかる。
民衆の為に政治する、この主権在民の基礎が日本でみられたのは、生産物が蓄財不能のため大盤振る舞い(potlatch)式に収穫量に応じ周囲の仲間に山分けしていたろう縄文期以前の共和政段階だけだ。天皇渡来後は皇族による資本独占、公家や武家、華族出現後は彼らによる権力濫用での独占がみられたのみ。
資本主義が致命的欠点としているのは、そもそも信用貨幣(暗号資産含む)の元で競争原理を追求すれば、皇室資本(日本政府の独占できる全資産)を頂点とする資本家と、一般民衆の間に無限の格差が開いてしまう事実への無批判さだ。天皇制は端から資本主義を悪用した反民衆的な世襲独裁政にすぎない。微視的には、徳川斉昭の様な政治哲学者が愛民思想をもっていたことがあったが、巨視的には彼の信奉していた皇室自体が悪徳宗教権力者に他ならなかった。皇室自身、強烈にダークトライアド化されている自己洗脳で神道信仰が日本国民全般の公益に一致すると狂信しているので、彼らに反省の余地はない。
資本家も自らの有利な地位を手放す鼓舞は特にない。寄付誓約は努力義務でしかないし、資産家がますます資産家になることを妨げる制度は皇室を中心とした自民党政府の元で基本的に全て排除される。今日の労働者一般が奴隷として自己をしつけるのは、この様な資本階級制度に最適化する為に他ならない。つまり皇室は自らの悪意ある独裁政を延長させるのに都合がいい国民奴隷化教育を、神道信者や日本政府へ命じて相も変わらず行わせ、それを自己を神格化する教義の中で誇りにさえ思っているので、資本主義は彼らの徴税権と蓄財を補完し、恒久的上位を維持するのに極めて望ましい経済思想だったのである。
東京都民一般は、また皇室の存在を全国民を中華思想に則って差別するのに都合がいい世襲宗教権力者とみているので、いわば共犯関係でしかない。この共謀罪を疑わせる要素に左翼とか反日といった稚拙な汚名を着せ、お茶を濁し彼らの地域的独裁集団やその利権を維持促進しようとの悪業もここに重なる。資本主義はこうしてますます共和政、多数政の美質から遠い代物でしかない。そして確かめるまでもなく、その種の自分達国民が最も不利な体制を消極的にせよ支持している衆愚は、単に公徳がないばかりか自分の利害に関する判断力にすら事欠く無知蒙昧さの同調圧力で動く、狂信集団、神道セクトでしかない。
日本で資本主義市場に参加するとは、間接的に皇室の徴税権を認めることに他ならず、彼らの悪意ある国民奴隷化を公認してしまう。だから資本主義並びにその信徒組織下で労働者自身が自己奴隷化を目指す更に堕ちた形である労働主義は、本質的に、国民の圧倒的多数の人々を幸福にも救済も当然できない。資本主義を否定して生きるのは、今日の目からは異常にみえるが、実際、皇室の存在も、資本主義も、それらの共謀関係も、いずれも邪悪なのは間違いないのだから、少なくとも近い将来の人類からこの見解は自明でなければならない。そしてその次代、より共和的な本来の日本に、資本主義も皇室もない筈だ。
では今日我々は具体的にどう生きるべきなのか。圧倒的多数が資本主義信者かつ皇室政府に洗脳されている状態で、彼らの間にあって彼らに向け、正義を説いても無駄である。彼らはそれら邪教の因果を、加速主義の結果として自己破産的にうけとるべきなのである。
専ら、拝金も皇室崇拝もしないこと。
公的福祉を受けてくらしたり、そもそも稼得をせず生きている経済依存的な人間についても、脱資本主義の目からは当然生きる価値がある。寧ろ商才だけを生存価値の度合いに単純化している人間観こそ、その邪悪な教義が人々を陥れている点であり、例えば東京都民一般が採用する新手の封建制でしかない。皇室崇拝者は、皇室自身と同じく、世襲独裁で財政と風教、主権在民に反する疑似君主制度に伴う諸々の面で国政を悪化させている根源因なので、存在自体が反国民的である。もし神道信者が皇族を民間人化したり政治から手を引く地位に妥協しても、彼らが奈良発の殺人カルト教団なのは変わらないからだ。選挙を経て神道カルトや彼らと共謀した資本主義者を国政の多数派から排除できないとすれば、そもそも多数政が国政次元で機能しない証でしかなく、つまりは日本国民一般に公徳が足りない。政教分離原則や主権在民、そして資本主義の限界に理解がないのだから彼ら自民党支持者一般には何も期待できないだろう。
北欧自体が世界でみれば少数派の国々である如く、日本国内でも都道府県または地方単位で、より公徳の質が高い集団では、政教一致の矛盾した憲法の悪徳や、行き過ぎた資本主義崇拝の念による低福祉下での需給の不一致を程あれ避けられる。だから我々が現実的にめざすべきはこの少数支配の善政なのだ。例えば東北地方(但し仙台市を特別区として除く)とか四国地方、北陸地方、北関東単位、北海道、沖縄県とか、京都市、あるいは茨城県内でいえば県北単位なら、高福祉政策を高度な行政判断で踏み行うのは現に可能だろう。その範囲で地方裁判所の段階で誠実に政教一致を否定するのも、また可能であろう。
脱資本主義、皇室政治の否定とは、より共和的な社会秩序、特にその社会で最も恵まれない人の利益を最大化する(ロールズやアリストテレスによる正義式の)調整的政治の可能性を意味する。そして我々が今日、一般化し善政と呼んでいいのはこの種の政である。その実現は、高徳な少数支配の可能性による。投票率が低いとか、民衆の多数派が政治的無関心で、安定した選挙体制が確立済みの地域でこそ、寧ろ、その少数の有権者を支持者としてとりつけている議員なり政治家が、高い公徳を身に着けていれば、より進んだ社会秩序を先に実現できる。これが逆説的に、より共和的な国内政治の道筋である。国政次元がいかに腐敗していても、地方政治の次元は、単独または少数支配者が賢明であれば救いがある。そしてそこにしか救いはない。堕落した多数派、マスコミや皇室の手先である宮内記者会・記者クラブに扇動される衆愚を無視できるほど、多数派、特に経済弱者に公益を与える善政が可能だからだ。
私はわざわざ日本国政の単位で、多数派の公徳を反証すべきだと考えていたが、これは無駄手間だ。なぜなら最初から公徳が十分高ければ斯くまで堕落しきった自民党の一党支配や、皇室政治が今日まで続いてきた筈もないのだから。単位をより細分化し、最も賢明な集団なり個人をより賢明にするべきだ。
死に時
もう使い物にならなくなった老人が、君子三戒を破り金を貪りながらまだ長生きしているのをみると、人は無制限に長寿にならない方が優れているのがわかる。つまり人にはふさわしい死に時がある。確かに徳の高い老人は尊敬されるので、ある人が他人から尊重される度合いは、結局かれらの利他性によっている。
この利他性には質も量もあり、幅広く薄く好かれてもその死はすぐ忘れ去られる。聖人をみればわかるとおり後世からも繰り返し参照されるのは彼らの生前の徳が高かった証である。
この利他性には質も量もあり、幅広く薄く好かれてもその死はすぐ忘れ去られる。聖人をみればわかるとおり後世からも繰り返し参照されるのは彼らの生前の徳が高かった証である。
守銭奴と学歴主義
自分に直接役立たない商売を英雄視しているのはただの俗物である。
どれほど大金を集めても学問や芸術に疎かな老人は軽蔑される。守銭奴ぶりは他人の必要とするものを寡占している負の証なのに比べ、教養は用いなければないのと一緒という面で寡占できないし、それが俗物根性の為でなく実用に正しく用いられていれば他人を益するものだからだ。
永遠の権力も権威もありえないし、耄碌した老人が上皇とか教皇と名乗り威張り続けているとやはり傍ら痛いものだろう。
学歴主義という肩書きを目的に学術を濫用する思想形態の人は、全俗物中でも最暗愚な部類に違いない。そういう人達の生涯をみていると、他人を差別する目的で学術を悪用しているのだが、彼らの信念は本質的に最下等の悪意と何も違いはない。その様な人事制度をもつ組織に順応しようとする時点で、彼らの道徳性は著しく低い。政府であれ会社その他であれ、当然ながらその種の組織は腐敗している。そうであれば近づかないのが唯一の解決策である。
どれほど大金を集めても学問や芸術に疎かな老人は軽蔑される。守銭奴ぶりは他人の必要とするものを寡占している負の証なのに比べ、教養は用いなければないのと一緒という面で寡占できないし、それが俗物根性の為でなく実用に正しく用いられていれば他人を益するものだからだ。
永遠の権力も権威もありえないし、耄碌した老人が上皇とか教皇と名乗り威張り続けているとやはり傍ら痛いものだろう。
学歴主義という肩書きを目的に学術を濫用する思想形態の人は、全俗物中でも最暗愚な部類に違いない。そういう人達の生涯をみていると、他人を差別する目的で学術を悪用しているのだが、彼らの信念は本質的に最下等の悪意と何も違いはない。その様な人事制度をもつ組織に順応しようとする時点で、彼らの道徳性は著しく低い。政府であれ会社その他であれ、当然ながらその種の組織は腐敗している。そうであれば近づかないのが唯一の解決策である。
理想と現実について
現実が理想と違うと現実逃避する人は単純に愚劣だ。理想は現実を自ら変えていく際の方向性という意味しかなく、そもそも現実に立脚した要素だからだ。そして理想が他人から与えられると思っている人もまた致命的に愚劣である。他人の理想が自分のそれと重なることはまれで、その種の理想を生み出した思想的背景が違うほど当然の如く他人は違う。
人は現実を受け入れその中で最善の行動をとれば十分幸せになれるのであり、妄想や空想、偶像崇拝へ逃げ込む者はこの点で永久に幸せになれない。幸福は現実解釈の一様態でしかないからだ。
妄想と理想は本質的に類似の空想で、理想の方が質が高いものへあてられる言葉というだけである。
愚劣な人はそうでない人に比べ、どうでもいいところで現実的だが、肝心なところで空想に耽りがちである。凡愚はそうしてとるに足りない一生を経ている。
人は現実を受け入れその中で最善の行動をとれば十分幸せになれるのであり、妄想や空想、偶像崇拝へ逃げ込む者はこの点で永久に幸せになれない。幸福は現実解釈の一様態でしかないからだ。
妄想と理想は本質的に類似の空想で、理想の方が質が高いものへあてられる言葉というだけである。
愚劣な人はそうでない人に比べ、どうでもいいところで現実的だが、肝心なところで空想に耽りがちである。凡愚はそうしてとるに足りない一生を経ている。
福祉主義について
金儲けできなければ殺される資本主義、自由主義の経済思想は根本的に間違っている。誰もが等しい商才を生まれもってくるものではない限り、半数以下の人々が必ず犠牲になるからだ。
本来、資本市場が有効なのは需給を一致させる為であり、何らかの需要(求め)を満たさない時点でその市場は機能不全である。資本主義の有効さは余剰な金を投資によって市中に回す誘因になる点で、自由主義のそれは過剰生産や物資不足による需給の不一致を市場原理が部分的に解消する点にある。だがこれらはどちらも万能ではない。
こうして経済(商売)単独では永遠に、全ての需給は満たせない。
アリストテレスは正義全体を普遍的正義と部分的(個別的)正義に分け、更に後者を配分的正義と調整的(矯正的)正義に分けた。
ところで、私の意見では、経済は配分的正義を、政治は調整的正義を司る社会機能である。経済で満たせない需要は調整的なそれの殆ど、また配分的なそれの一部である。例えば貧しくて必要な物(食べ物等)すら買えない人がいる市場は既に需要を満たせていないのだから、その時点で資本・自由主義はなんら機能してない。社会の究極目的は需給の完全一致(但し欲望は無限なので当為に留まる)なので、この資本・自由市場はある人の求めを満たすまで改良が必要である。社民主義や国社主義(国家社会主義)は政府の調整で救貧その他福祉の充実を行い、国民全体の需要を満たそうと考える。少なくとも何らかの求めがある人の需給をより一致に近づけられる点では、新自由主義や自由至上主義よりこの考え方は優れている。問題は市場の効率が総体的に低下することだけだ。具体的事業の民間委託を政府が企業やNPO、協同組合、個人等の民間事業体へ発注することで、この社会主義のもつ一般的欠点も大部分が解消される。いいかえると資本主義や自由主義、それらを発展させた新自由主義や自由至上主義の根本的欠陥は調整力の不足で、経済(商売)界単独では永遠に補えない。
北欧より米国が、福祉状況で劣るのは、相対貧困率をみれば最も典型的にわかる。日本は敗戦後、米国劣等感で自民の親米政権が幅を利かせ、第二の米国をめざしている節があるが、この点で北欧より劣った社会思想をまねたのである。即ち社会の究極目的は需給の完全一致、それを不十分にしか満たせぬ欠陥。市場は万能ではない。経済、商売はいうまでもない。だがこれを認められない人々は、商才を順位制と勘違いし、成金を神と誤認し、新手の身分制秩序の代わりに金銭を用い思考を単純化したがる。その種の拝金主義は単に換金不能な経済価値でないものの前で絶対に無力だ。しかも社会の目的を誤っている。
私は社民主義や国社主義の本質を「福祉主義」と名義付けていいと思う。この考え方に民間委託を含め考察する限り、単なる市場万能論だけで永遠に満たせない需要があること、そして社会の目的は商才の順位制ではなく、より貧しい、或いは特に最も貧しい人の需要も十分に満たすことにあると悟るだろう。
本来、資本市場が有効なのは需給を一致させる為であり、何らかの需要(求め)を満たさない時点でその市場は機能不全である。資本主義の有効さは余剰な金を投資によって市中に回す誘因になる点で、自由主義のそれは過剰生産や物資不足による需給の不一致を市場原理が部分的に解消する点にある。だがこれらはどちらも万能ではない。
こうして経済(商売)単独では永遠に、全ての需給は満たせない。
アリストテレスは正義全体を普遍的正義と部分的(個別的)正義に分け、更に後者を配分的正義と調整的(矯正的)正義に分けた。
ところで、私の意見では、経済は配分的正義を、政治は調整的正義を司る社会機能である。経済で満たせない需要は調整的なそれの殆ど、また配分的なそれの一部である。例えば貧しくて必要な物(食べ物等)すら買えない人がいる市場は既に需要を満たせていないのだから、その時点で資本・自由主義はなんら機能してない。社会の究極目的は需給の完全一致(但し欲望は無限なので当為に留まる)なので、この資本・自由市場はある人の求めを満たすまで改良が必要である。社民主義や国社主義(国家社会主義)は政府の調整で救貧その他福祉の充実を行い、国民全体の需要を満たそうと考える。少なくとも何らかの求めがある人の需給をより一致に近づけられる点では、新自由主義や自由至上主義よりこの考え方は優れている。問題は市場の効率が総体的に低下することだけだ。具体的事業の民間委託を政府が企業やNPO、協同組合、個人等の民間事業体へ発注することで、この社会主義のもつ一般的欠点も大部分が解消される。いいかえると資本主義や自由主義、それらを発展させた新自由主義や自由至上主義の根本的欠陥は調整力の不足で、経済(商売)界単独では永遠に補えない。
北欧より米国が、福祉状況で劣るのは、相対貧困率をみれば最も典型的にわかる。日本は敗戦後、米国劣等感で自民の親米政権が幅を利かせ、第二の米国をめざしている節があるが、この点で北欧より劣った社会思想をまねたのである。即ち社会の究極目的は需給の完全一致、それを不十分にしか満たせぬ欠陥。市場は万能ではない。経済、商売はいうまでもない。だがこれを認められない人々は、商才を順位制と勘違いし、成金を神と誤認し、新手の身分制秩序の代わりに金銭を用い思考を単純化したがる。その種の拝金主義は単に換金不能な経済価値でないものの前で絶対に無力だ。しかも社会の目的を誤っている。
私は社民主義や国社主義の本質を「福祉主義」と名義付けていいと思う。この考え方に民間委託を含め考察する限り、単なる市場万能論だけで永遠に満たせない需要があること、そして社会の目的は商才の順位制ではなく、より貧しい、或いは特に最も貧しい人の需要も十分に満たすことにあると悟るだろう。
2019年8月22日
三流薩長テロ国家
三留首相安倍晋三三流県民山口人と公文書改竄三昧
三流都市東京都賄賂五輪で下水泳原発依存の極悪町人
水道を駄目にする麻生太郎鹿児島人九州福岡から全国を駄目にする
小泉進次郎全国農業を駄目にし血税でテレビ政治溺婚自慢の極悪人
神道と名づけ自分を神と呼ぶ奈良の殺人邪教祖天皇の奴隷地獄
東京の三流学閥文化人気取りアート知ったか聖像破壊す
金儲けできなければ自死自称豊かな貪り資本奴隷地獄自称自由圏
卑しい商売人が貧民からひたすら金を貪り自死に追い詰める以外で生きられない地獄の自民寡頭政治列島
自称成功テロリスト薩長土肥が今日も驕り高ぶり侵略殺戮自慢腐りきった馬鹿な野人が金権貪る
三流都市東京都賄賂五輪で下水泳原発依存の極悪町人
水道を駄目にする麻生太郎鹿児島人九州福岡から全国を駄目にする
小泉進次郎全国農業を駄目にし血税でテレビ政治溺婚自慢の極悪人
神道と名づけ自分を神と呼ぶ奈良の殺人邪教祖天皇の奴隷地獄
東京の三流学閥文化人気取りアート知ったか聖像破壊す
金儲けできなければ自死自称豊かな貪り資本奴隷地獄自称自由圏
卑しい商売人が貧民からひたすら金を貪り自死に追い詰める以外で生きられない地獄の自民寡頭政治列島
自称成功テロリスト薩長土肥が今日も驕り高ぶり侵略殺戮自慢腐りきった馬鹿な野人が金権貪る
2019年8月21日
卑しさを知る努力は無益有害
卑しい人の考え方や感じ方を全て知るのは実質的に不可能だ。私は長い間それを何とか知るように努めたが、殆どわからずじまいだった。とかく相手が卑しい振る舞いをしているということだけはわかるにせよ、なぜそんな愚劣な振る舞いをしているか、品性が同等程度でない他人には理解できないのである。だから相手の品行で卑しいと気づいたら基本的に直接は理解できないと諦めた方が話が早い。極めて長い時間を費やし、相手の愚劣さや悪業の理解を試みても結局無駄になるからだ。そして相手の心理を部分的に解読するにも敢えて品性が同等程度の相手を探し、その人に尋ねた方が遥かに合理的に推測できる。
賢さや徳性、合理性は学び易く、愚かさや卑しさ、不合理性は学び辛い。後者は学ぶ価値がないとみなされがちだが、実際、非体系的な上に意味がないので諸エラーの型はあまり収集されない。そのエラーの一定部分は犯罪とみなされ定型化されているが、そうでない部分は前者と見分けがつかないこともある。
福沢諭吉は海千山千と同じ文脈で、卑しさについても知るべきだと述べていたが、これは彼自身が適塾その他での経験中で卑しい知り合いを多くもっていた、もしくは彼自身が卑しい面を多くもっていただけで、現実的論理ではない。孔子が小人は下達す、といった方がより現実に近い脳の構造だ。有限の人生で我々は一定の志向性をもつ脳を作る。この興味の束は、脳の外部情報に対する既知の詳しさになる。卑しさは社会行動の規則に関する体系だっていない束であり、尊さはこの逆である。人徳を見分けられない人は尊さに詳しくない。故に人を見る目がないひとは人格が低劣な者にも平気で親しむ。
賢さや徳性、合理性は学び易く、愚かさや卑しさ、不合理性は学び辛い。後者は学ぶ価値がないとみなされがちだが、実際、非体系的な上に意味がないので諸エラーの型はあまり収集されない。そのエラーの一定部分は犯罪とみなされ定型化されているが、そうでない部分は前者と見分けがつかないこともある。
福沢諭吉は海千山千と同じ文脈で、卑しさについても知るべきだと述べていたが、これは彼自身が適塾その他での経験中で卑しい知り合いを多くもっていた、もしくは彼自身が卑しい面を多くもっていただけで、現実的論理ではない。孔子が小人は下達す、といった方がより現実に近い脳の構造だ。有限の人生で我々は一定の志向性をもつ脳を作る。この興味の束は、脳の外部情報に対する既知の詳しさになる。卑しさは社会行動の規則に関する体系だっていない束であり、尊さはこの逆である。人徳を見分けられない人は尊さに詳しくない。故に人を見る目がないひとは人格が低劣な者にも平気で親しむ。
悪人の因果
人格的に劣悪な人物が子供を産み育てていると、なぜそんな邪悪な遺伝子がこの世に残ってしまうのかと悲惨と不条理を感じるが、性格も遺伝する要素がある以上、凡そ親に似た子供もまたそう思われながら生きていくことになる。死を願われ、憎まれながら生きている人間が幸福だろうか。悪人の生は苦しい。
悪因を積み重ねておきながら、禍がないと考えている者は単に道徳法則を知らないのだ。そして僅かな悪因を軽んじている者は、単に償いの為だけにすらそれを補うに足る善業が必要になるのを知らない。必然の層で大きな不幸に見舞われた人の過去の原因をよく観察せよ。例外なく重大な不徳の印が見つかる。
悪因を積み重ねておきながら、禍がないと考えている者は単に道徳法則を知らないのだ。そして僅かな悪因を軽んじている者は、単に償いの為だけにすらそれを補うに足る善業が必要になるのを知らない。必然の層で大きな不幸に見舞われた人の過去の原因をよく観察せよ。例外なく重大な不徳の印が見つかる。
立憲と国民はすぐ一党になり党首は小沢氏で据え置くべき
立憲の枝野党首が国民と衆参の会派組むのをやっと持ちかけたらしい。この男は本物の無能だと確信できた。私が今年の4月にさっさと小沢氏のいうとおり統一名簿に合意しろといったら某北海道の立憲狂信者に散々誹謗だの暴言を吐かれ、枝野も小沢氏に迷惑だのほざいていたのに案の定、大敗したらこれだ。
枝野は4月時点でもう先が見えていた私の忠告(その時点では立憲支持の一有権者)を完全無視した結果、ぼろ負けた。そりゃそうだ。枝野にカリスマがないのは誰が見ても明らかなんだから、これからも彼が党首の限り、おそらく永遠、自民に勝つのは無理と思う。ダニクル効果宜しく自分がわかってない。第一、立憲に何とか勝たせようと思いっきり正しい忠告してた一有権者(もう枝野も玉木もそう認めざるを得まい)を、配下の狂信者どもに集団虐待させるとか、それをとめもせず戦略不足のまま特攻し、いざ選挙で負けたら手のひら返してその忠告どおりにしだすとか、意味不明な独裁者気質の男だ、枝野は。
どこかの将校がいってた、無能な努力家が一番有害と。枝野はこれである。希望の党排除組が浪士化してた頃、どこかの雑魚が枝野立てなんていっちゃったせいで調子に乗りすぎなのである。もともと党首とか首相とかになる次元の根性じゃないでしょ。色々見てて。なったら無能さを満遍なく発揮すると思う。
自分が見てた範囲で枝野の唯一の功績は、徳川宗家を静岡選挙区に立てたという奇策1個だけだ。これは一国民の私も驚いた。歴史的文脈含め注目してたんだけど静岡人が中途半端保守で落としてしまった。保守なら戦国期も入れろよと。著書読んだ限り徳川氏は相当の大局観の持ち主なのに、非常に勿体無い。
さっさと枝野を小沢党首にかえて野党全体でかぶらないようにした上で自民党と天下分け目の戦いし、それで負けたらもう日本は民主主義諦めた方がいい。民度が低すぎる証拠だからだ。勝てれば政権交代が起きる国と証明されるが、負けたらその後は北朝鮮や中国のよう一党支配で運営するべきだ。愚民に政治腐敗したら政権交代が必要なのですよ、と学校で幾ら教えても全然できない。それは日本国民全般がバカだからである。馬鹿に賢くなれといったってそれは無理な相談だ。生まれつき馬鹿だから教育を受けても賢くならなかったのだ。遺伝子かえるわけにいかないんだから、その時は一党支配でいい。
もし小沢党首の下で全野党が結集し、戦って負けたら、それはもう他にどんな手を使っても日本人全般は政権交代文化なんて実現できないと自ら実証してしまうだけの話だ。しかし枝野党首の下で戦っても誰がやっても勝てないであろう。おそらく世界中のどこの国でも勝てない。枝野が無能すぎるからである。
「だから4月にいったでしょ?」という話を、選挙に負けてからやりだす。全く意味がわからない。いや何とか理解してやろうとすれば、もともと枝野党首の頭が悪い、政治センスがない、政局感がない以外の答えがないであろう。無能な党首の下で何やっても勝てない。立憲党員は一刻も早く党首交代せよ。
枝野は4月時点でもう先が見えていた私の忠告(その時点では立憲支持の一有権者)を完全無視した結果、ぼろ負けた。そりゃそうだ。枝野にカリスマがないのは誰が見ても明らかなんだから、これからも彼が党首の限り、おそらく永遠、自民に勝つのは無理と思う。ダニクル効果宜しく自分がわかってない。第一、立憲に何とか勝たせようと思いっきり正しい忠告してた一有権者(もう枝野も玉木もそう認めざるを得まい)を、配下の狂信者どもに集団虐待させるとか、それをとめもせず戦略不足のまま特攻し、いざ選挙で負けたら手のひら返してその忠告どおりにしだすとか、意味不明な独裁者気質の男だ、枝野は。
どこかの将校がいってた、無能な努力家が一番有害と。枝野はこれである。希望の党排除組が浪士化してた頃、どこかの雑魚が枝野立てなんていっちゃったせいで調子に乗りすぎなのである。もともと党首とか首相とかになる次元の根性じゃないでしょ。色々見てて。なったら無能さを満遍なく発揮すると思う。
自分が見てた範囲で枝野の唯一の功績は、徳川宗家を静岡選挙区に立てたという奇策1個だけだ。これは一国民の私も驚いた。歴史的文脈含め注目してたんだけど静岡人が中途半端保守で落としてしまった。保守なら戦国期も入れろよと。著書読んだ限り徳川氏は相当の大局観の持ち主なのに、非常に勿体無い。
さっさと枝野を小沢党首にかえて野党全体でかぶらないようにした上で自民党と天下分け目の戦いし、それで負けたらもう日本は民主主義諦めた方がいい。民度が低すぎる証拠だからだ。勝てれば政権交代が起きる国と証明されるが、負けたらその後は北朝鮮や中国のよう一党支配で運営するべきだ。愚民に政治腐敗したら政権交代が必要なのですよ、と学校で幾ら教えても全然できない。それは日本国民全般がバカだからである。馬鹿に賢くなれといったってそれは無理な相談だ。生まれつき馬鹿だから教育を受けても賢くならなかったのだ。遺伝子かえるわけにいかないんだから、その時は一党支配でいい。
もし小沢党首の下で全野党が結集し、戦って負けたら、それはもう他にどんな手を使っても日本人全般は政権交代文化なんて実現できないと自ら実証してしまうだけの話だ。しかし枝野党首の下で戦っても誰がやっても勝てないであろう。おそらく世界中のどこの国でも勝てない。枝野が無能すぎるからである。
「だから4月にいったでしょ?」という話を、選挙に負けてからやりだす。全く意味がわからない。いや何とか理解してやろうとすれば、もともと枝野党首の頭が悪い、政治センスがない、政局感がない以外の答えがないであろう。無能な党首の下で何やっても勝てない。立憲党員は一刻も早く党首交代せよ。
悪人の生
人格的に劣悪な人物が子供を産み育てていると、なぜそんな邪悪な遺伝子がこの世に残ってしまうのかと悲惨と不条理を感じるが、性格も遺伝する要素がある以上、凡そ親に似た子供もまたそう思われながら生きていくことになる。死を願われ、憎まれながら生きている人間が幸福だろうか。悪人の生は苦しい。
人の死を悼むのは当人の為ではない
ゴータマの説いた諸々の徳の中で最も優れたものの一つは、死を目的視したことだ。そして自殺より緩慢な乞食による衰弱死を正当化し、信徒間に性欲を否定させ、子供を残さないまま事実上の集団的自死、特に自然死を広めた。親鸞がこの教義を歪曲するまで、仏教はできるだけ安楽な仕方で、生前の利他行動と共に消極的自死を勧めていた。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が繁殖を合理化したのと逆で、仏教は死をうべなう教義だ。この観点からみると死んで行く人々を悲しむ訳もない。寧ろ苦しみに満ちた現世から解脱したとみて喜ばしいのである。残された人々が死を悼むのは、当人の為というより或る死んだ人から得られた利益が得られなくなる自分自身の損失への痛みである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が繁殖を合理化したのと逆で、仏教は死をうべなう教義だ。この観点からみると死んで行く人々を悲しむ訳もない。寧ろ苦しみに満ちた現世から解脱したとみて喜ばしいのである。残された人々が死を悼むのは、当人の為というより或る死んだ人から得られた利益が得られなくなる自分自身の損失への痛みである。
物
無理しても手に入らない物をおいかけるなら、既にあるもの、無理せず手に入る物に満足せよ。
他人の欲する物を羨ましがってならない。他人の持ち物は必ずしも幸ある物ではないからだ。既に自分の物に満足し執着するな。
他人の欲する物を羨ましがってならない。他人の持ち物は必ずしも幸ある物ではないからだ。既に自分の物に満足し執着するな。
つきあう相手
三流知識人、三流文化人、三流芸術家の集まりに僅かでも近づかないこと。これは自分が彼らの一部にならない為であり、彼らと混同されない為であり、同時に彼らの悪疫を受けない為だ。
二流、三流の人々に学ぶ者は自らもその種の人にならざるをえない。ただ一流以上の人、できれば超一流以上の人のみに学ぶべきだ。つきあう相手も同じ。
二流、三流の人々に学ぶ者は自らもその種の人にならざるをえない。ただ一流以上の人、できれば超一流以上の人のみに学ぶべきだ。つきあう相手も同じ。
2019年8月20日
愛国エゴイスト
ひたすら金をもうけろ
さもなければ死
それが日本
拝金地獄で死ぬまで奴隷労働し
天皇陛下万歳と邪教祖に貢げ
しぬまではたらけ
発狂して自殺していく社畜の間で
幸福ごっこしながら同調圧力地獄にのまれ
ひたすら自分を抑圧し続けろ
神道国家米国属国
愛国とほざくエゴイストに差別され
弱者を虐げろ
さもなければ死
それが日本
拝金地獄で死ぬまで奴隷労働し
天皇陛下万歳と邪教祖に貢げ
しぬまではたらけ
発狂して自殺していく社畜の間で
幸福ごっこしながら同調圧力地獄にのまれ
ひたすら自分を抑圧し続けろ
神道国家米国属国
愛国とほざくエゴイストに差別され
弱者を虐げろ
衆愚国滅亡の必然
大の大人がアニメに20億も貢ぎ、不正三昧の自民党や悪徳首相に連続当選させる様な国民一般は普段の行いが悪すぎ、愚劣過ぎるのだから滅亡も当然というべきだ。そしてそんな国を愛しているとか信頼しているという人もただの馬鹿である。
徳治は権術や法術を含む
喧嘩売ってきた相手が勝手に大炎上しまくったのでその際の業をつぶさに見たが、自業自得以外の言葉がみあたらない。私は聖徳以上を目指しているので向こうから攻撃しかけてきて派手に自滅する人をみると(よくみる)、徳は力以上の防衛力なのではないかと思う。マキャベリや法家と全く違う意見だが。
マキャベリは権術を、法家は法術を徳治に優越させた。しかし孟子が仁者無敵という論理の背景にあるのは、孔子と同じ王道・覇道の二元論で、公・私徳に一致した行動はそもそも自分を含む人類全体に公益を与えるとの説だろう。権術も法術も単なる手段で、徳治目的の応用としてしか捉えるべきではない。
マキャベリは権術を、法家は法術を徳治に優越させた。しかし孟子が仁者無敵という論理の背景にあるのは、孔子と同じ王道・覇道の二元論で、公・私徳に一致した行動はそもそも自分を含む人類全体に公益を与えるとの説だろう。権術も法術も単なる手段で、徳治目的の応用としてしか捉えるべきではない。
2019年8月19日
原発再稼動を命じながら賄賂五輪で金儲けする強欲都民の末路
普段、都民一般が中華思想で田舎差別だの虚栄心に耽る自慢の限りを尽くしたり、大企業本社で税収含め全国搾取しつつ成金ごっこしたり、原発を東日本中におしつけまくり事故後も再稼動命じたり、自給率最下位の癖平気で食料浪費や産地侮辱してたり、あらゆる悪業の極みなので五輪失敗が痛快でしかない。
愚にもつかない擬似統計だの差別だらけの偏見報道をばらまくばかりか、他県へ直接犯罪に来てるのも大概が都民だし、普段の行いが悪すぎる東京都がいざとなって墓穴を掘り同情して欲しいと願っても既に手遅れだ。東京五輪は呪われている。最低でも福島原発を直し、原発公害を猛省してからやるがいい。
愚にもつかない擬似統計だの差別だらけの偏見報道をばらまくばかりか、他県へ直接犯罪に来てるのも大概が都民だし、普段の行いが悪すぎる東京都がいざとなって墓穴を掘り同情して欲しいと願っても既に手遅れだ。東京五輪は呪われている。最低でも福島原発を直し、原発公害を猛省してからやるがいい。
未開都民
炎上し政治に関係ないというロビー活動しつつ保身す
責任をとらず自由を主張する人権以前未開都民ぞ
腰据わらずノンポリぶって皇貶し片手で金を儲ける哲学
ブロックで批評を視界から消して俺は博士と威張り散らせる
東京の因果
肉魚野菜に果物米小麦パンを喰らいて田舎差別卑しき都会人天に唾吐く
若害を都塵に集め殺戮す江戸伝来の口減らし術
若害は身売りするため東京へ出ては死にゆく退廃の国
京阪や東横に出て死んでいく若害群れて奴隷化されつつ
若害は奴隷になりに東京へ出ては死にゆく衰亡の国
若害は拝金したさに労働しアニメを見ては発狂し自殺
自民党皇室信じ奴隷化しニート差別で拝金若害
若害を都塵に集め殺戮す江戸伝来の口減らし術
若害は身売りするため東京へ出ては死にゆく退廃の国
京阪や東横に出て死んでいく若害群れて奴隷化されつつ
若害は奴隷になりに東京へ出ては死にゆく衰亡の国
若害は拝金したさに労働しアニメを見ては発狂し自殺
自民党皇室信じ奴隷化しニート差別で拝金若害
愛国の悪意
反日との恣意的分類で
インターネットをうろつくやくざが
島民を天皇の奴隷に仕立てようと
資本主義の奴隷に仕立てようと
あらゆる人間を圧殺していく
だからお前は汚名を着せられ
被害者面と罵られ
挙句極貧で自殺においつめられる
だがその反日とやらに実態などない
あるのは愛国と名乗る悪意だけだ
インターネットをうろつくやくざが
島民を天皇の奴隷に仕立てようと
資本主義の奴隷に仕立てようと
あらゆる人間を圧殺していく
だからお前は汚名を着せられ
被害者面と罵られ
挙句極貧で自殺においつめられる
だがその反日とやらに実態などない
あるのは愛国と名乗る悪意だけだ
内外貫通
芸術の部外者も内部者も殲滅し
芸術の内外に誰も残すな
神道自体邪教と知らしめ
自称皇室の殺人教祖諸共滅び去れ
聖像破壊偶像破壊
漫画も京アニも燃やし尽くされ
宮崎駿も手塚治虫もディズニーも
あらゆる嘘つき共が土に還る
破壊運動
偽物のゲリラアート
そしてお前は凡愚気取り
芸術に内も外もない
芸術の内外に誰も残すな
神道自体邪教と知らしめ
自称皇室の殺人教祖諸共滅び去れ
聖像破壊偶像破壊
漫画も京アニも燃やし尽くされ
宮崎駿も手塚治虫もディズニーも
あらゆる嘘つき共が土に還る
破壊運動
偽物のゲリラアート
そしてお前は凡愚気取り
芸術に内も外もない
2019年8月18日
脱俗の快
人生に積極的意味を求めている人は悉く期待を裏切られ失望することになる。私の知る限り万能人さえその種の理想通りに幸運だけが降ってきたりしなかったのだから、あらゆる苦難にのまれていた聖人や単なる世俗に浮き沈む億万長者の類についてはいうまでもない。彼らが見栄を切るのは羨望される為の成金仕草にすぎず実態は伴っていない。皇族や権力者は尚更、世俗の期待に応えるでくでしかない。
人生に期待できる最上の快楽は消極的なそれであり、つまり殊更なにもないことだ。進んで苦労や仕事を背負う人々はこの点で臆測を誤っている。他人に依存して成り立つ快さはどれも徒花でしかない。単に世間に期待できる限界は、なにも起きない平穏さや、自分に期待をかけずに放っておいてもらえることといった脱俗性の功徳でしかない。仏陀はこの点で正しく道を説いていた。
人生に期待できる最上の快楽は消極的なそれであり、つまり殊更なにもないことだ。進んで苦労や仕事を背負う人々はこの点で臆測を誤っている。他人に依存して成り立つ快さはどれも徒花でしかない。単に世間に期待できる限界は、なにも起きない平穏さや、自分に期待をかけずに放っておいてもらえることといった脱俗性の功徳でしかない。仏陀はこの点で正しく道を説いていた。
対話術の能力
単に意見が違うだけの相手(それも絶対値の知識量が相手の方が多いとかで悪意がない相手)をブロックする人は、対話術の能力がない。その人は反証過程を脳内で行えていないので、自力でもより高次な結論に辿り着くのは困難である。
反リベラルの愚民は集団自殺志願者
カタカナのリベラルを馬鹿の代名詞に使っている愚民は、それが自由や寛容を意味する英語なのを知らない。そして彼らは自分で自由度や寛容さを減らす方へ同調圧力をかけ、やがて結束主義の只中で独裁教祖の奴隷化し、捨て駒の特攻隊にされるか、窒息死する。
ケルトン説は総じて共産経済の回し者
財政収支(Primary balance)の赤字が民間の黒字、故にMMTは正しいとするケルトン氏の理屈は、好景気時に財政黒字になるのを前提とすると確かに唯の詭弁なのが分かる。この点でケルトン説はケインズ理論の財政出動を赤字国債残高を無視し促進する目的で捏造されたものに過ぎず、本質的に虚構である。
通常の財政赤字・黒字幅の調整は市況に対し、過度のインフレ・デフレに向かい操縦的に行われるべきだが、赤字国債の債務残高の過剰はそもそも内国経済が失敗している証でしかない。また政府が踏み倒し前提に借金を重ねる最終負担者は金融機関や保険を通じ、国債の実質購入者になる国民一般である。
ケルトン説はケインズ政策(財政出動)が計画経済の分量をふやす点を意図的に無視し、意図的にインフレ目標なるフィリップス曲線の成立を前提にした過度の財政支出を正当化する目的の確証偏見といっていい。いいかえれば計画経済の失敗に対し何の反省もない点で国家社会主義財政論の変形版である。日本国債を預金から自動的に金融機関・保険会社により買わされる一般国民は、MMT並びにその小規模版であるところの国家社会主義的な赤字財政政策を通じ、広く預金の低金利により、他国に比べ重い計画経済分の非効率の負担をおわされている。
日本国民全体が今日政府へいうべきことは、MMTによりさらに自ら負担をおう目的の財政出動の要求ではなく、寧ろ金融機関による冒険投資を促す立法(金融機関投資促進法)や、民間消費支出を伸ばす目的で、基礎年金保障することだ。(詳しくは次のブログ記事「れいわ新撰組の公約批評によせた中くらいの政府論、及び全額預金保護制度含む金融機関投資促進法、基礎年金保障・GPIFボーナス制などの提案」で各制度を論じた)
国民一般は消費したくないのではなく消費する家計の余裕がなく、老後及び将来不安のため貯蓄に回さざるを得ないだけだ。老後と将来不安をもたらしている基礎所得部分を政府が保障することで消費支出が上向く可能性が出てくる。そもそも憲法に定める生活保障義務を政府が怠っているのが致命的失敗だ。
今日しられている生活保障は一律貸与(universal credit)、基礎所得(basic income)、生活保護の捕捉率を限りなく100%に近づける政府の義務があるが、少なくともこの順で制度化し(先を実現すれば後は略せる)、同時に基礎年金部分をGPIFボーナスと分け国債で絶対的に賄うのが王道である。日本経済が不景気なのは、この様に将来不安が大きすぎる、そしてその直接原因は日本政府なり公務員組織が腐敗し、水際作戦などと称し生活保護を不正視したり、そもそも基礎年金保障を怠っている失態がある。これら政府の生活保障信用度が低いほど国民は消費に回せず貯蓄してしまうので景気が悪化する。その国民の貯金分、特に7割超を占める高齢者分はどこに回っているかなら銀行を通じ既に内部留保が余っている大企業へのETFを通じた傾斜配分とか、さらにその企業の現金等価物などを通じ国債購入分になっている。いいかえれば構造的に成長抑制力になり、計画経済の非効率部門に注がれているのだ。
日本国民の殆どは一般の中小企業の従業員なので(企業数で99.7%、従業員数で69%と過半数以上が中小企業で働く。国税庁2014「民間給与実態調査」)、諸々の上場大企業優遇は国民一般の軽視なばかりか格差拡大による経済成長率低下の直接要因になっている。トリクルダウンは起きなかったのだから。
ケルトン説のうち政府の赤字は民間の黒字との詭弁は、これらの論理から、現代日本に関しては単なる構造的不景気の維持促進、更なる延長を意味するばかりか、経済全体のうち非効率部門に注がれた資本により国家自体のGDPを下げる結果になる。つまり手口を変えた社会・共産主義経済の回し者でしかない。
通常の財政赤字・黒字幅の調整は市況に対し、過度のインフレ・デフレに向かい操縦的に行われるべきだが、赤字国債の債務残高の過剰はそもそも内国経済が失敗している証でしかない。また政府が踏み倒し前提に借金を重ねる最終負担者は金融機関や保険を通じ、国債の実質購入者になる国民一般である。
ケルトン説はケインズ政策(財政出動)が計画経済の分量をふやす点を意図的に無視し、意図的にインフレ目標なるフィリップス曲線の成立を前提にした過度の財政支出を正当化する目的の確証偏見といっていい。いいかえれば計画経済の失敗に対し何の反省もない点で国家社会主義財政論の変形版である。日本国債を預金から自動的に金融機関・保険会社により買わされる一般国民は、MMT並びにその小規模版であるところの国家社会主義的な赤字財政政策を通じ、広く預金の低金利により、他国に比べ重い計画経済分の非効率の負担をおわされている。
日本国民全体が今日政府へいうべきことは、MMTによりさらに自ら負担をおう目的の財政出動の要求ではなく、寧ろ金融機関による冒険投資を促す立法(金融機関投資促進法)や、民間消費支出を伸ばす目的で、基礎年金保障することだ。(詳しくは次のブログ記事「れいわ新撰組の公約批評によせた中くらいの政府論、及び全額預金保護制度含む金融機関投資促進法、基礎年金保障・GPIFボーナス制などの提案」で各制度を論じた)
国民一般は消費したくないのではなく消費する家計の余裕がなく、老後及び将来不安のため貯蓄に回さざるを得ないだけだ。老後と将来不安をもたらしている基礎所得部分を政府が保障することで消費支出が上向く可能性が出てくる。そもそも憲法に定める生活保障義務を政府が怠っているのが致命的失敗だ。
今日しられている生活保障は一律貸与(universal credit)、基礎所得(basic income)、生活保護の捕捉率を限りなく100%に近づける政府の義務があるが、少なくともこの順で制度化し(先を実現すれば後は略せる)、同時に基礎年金部分をGPIFボーナスと分け国債で絶対的に賄うのが王道である。日本経済が不景気なのは、この様に将来不安が大きすぎる、そしてその直接原因は日本政府なり公務員組織が腐敗し、水際作戦などと称し生活保護を不正視したり、そもそも基礎年金保障を怠っている失態がある。これら政府の生活保障信用度が低いほど国民は消費に回せず貯蓄してしまうので景気が悪化する。その国民の貯金分、特に7割超を占める高齢者分はどこに回っているかなら銀行を通じ既に内部留保が余っている大企業へのETFを通じた傾斜配分とか、さらにその企業の現金等価物などを通じ国債購入分になっている。いいかえれば構造的に成長抑制力になり、計画経済の非効率部門に注がれているのだ。
日本国民の殆どは一般の中小企業の従業員なので(企業数で99.7%、従業員数で69%と過半数以上が中小企業で働く。国税庁2014「民間給与実態調査」)、諸々の上場大企業優遇は国民一般の軽視なばかりか格差拡大による経済成長率低下の直接要因になっている。トリクルダウンは起きなかったのだから。
ケルトン説のうち政府の赤字は民間の黒字との詭弁は、これらの論理から、現代日本に関しては単なる構造的不景気の維持促進、更なる延長を意味するばかりか、経済全体のうち非効率部門に注がれた資本により国家自体のGDPを下げる結果になる。つまり手口を変えた社会・共産主義経済の回し者でしかない。
日本語圏ツイッター民度は東京圏のテレビ同等に恐ろしく低い
しばらく前に、港区中華思想で土浦在住者を差別してるツイートを見つけたので、当時は積極的に返信したらどうなるか試していたので注意したのだが、そこに或る人が納豆がどうとか県民全般を侮辱する返信をつけてきた。そしたら通知欄にわらわらとイイネされたのが出たので、しばらく放置していた。いかにも2ch的な匿名アカウントの衆愚ぽかったので、特に注意してみていなかったのだが、今日アナリティクスを見る機会があったので改めてこの人達が一体どんな人達だったのか確かめてみようと思い、全員追跡調査した。
結果わかったのは、恐ろしく知的次元が低い人達がそのイイネやリツイートを連打していた人達の正体だった。知的次元が低いというよりどうみても良識以前の悪ふざけの中高生が多く、中には鹿児島のど田舎に住んでいて東京を幻想で見ている大都会症候群の様な人とか、都内の三流会社員の様な人もいた。彼らをリスト化しつぶさに観察してみると、特に最初の暴言を返信してきた人に関しては、他の人達にも同然の侮辱行為を繰り返すいわゆる荒らしの人だった。また大勢としてツイートの中身は実に下らない内容で、そもそもどうみても関わってはいけないのが明らかな恐ろしい知的程度の人達が全員であった(どういう内容があるかというと他にも諸々の差別とか、暴言とか中傷とか、他は実にとるにたりない俗悪なネタみたいなの)。
それで理解したのだが、ツイッターはブログの代わりにできない。少なくとも日本語ツイッターに関してはほぼ匿名・偽名の悪意ある2chねらー的衆愚が雲集している。道理でインフルエンサーへの返信も、感心する知的程度のがないわけだ。ツイッター民度は想像を遥かに下回り恐ろしく低いのだと思う。ツイッター上で差別的言動をよくみるのも、単にそれをし易い知的程度の人達が大勢集まっているからだ。津田氏が大炎上中も百万人単位のフォロワーが黙っているばかりか擁護も味方もしない。彼はブロック癖でフォロワーを厳選している筈なのに、元々ツイッターの視聴者一般の質に問題があるのだろう。
ツイッターは即時に反応がみられる社会的承認ゲームなので中毒性がある。極少数なら知性の高い人がいる可能性もゼロではない。だがこのフォロワー獲得競争は、単なる消耗に違いない。
インフルエンサーの論調を眺めている間は気づかなかったが、彼らは利己目的でフォロワー強者を自賛していたのだ。
我々は(少なくとも私と同等以上の良識をもっている人は)まさかインフルエンサーなどと称する、主として東京圏のネット芸人らがそこまで浅はかだとは想像外と思う、だが実際そうなのである。誰とは言わないが、今流行の社会学者芸人はフォロワー弱者は雑魚などと豪語していた。実に底が浅い。テレビ主体のマス情報発信が主流だった時代、全国民は東京圏の「朝生知識人」みたいな人達が論壇の主流かのよう洗脳されていた。しかし現実に彼らがツイッターに降りてくると頭の中身は空っぽなのがばれてしまった。単なる学閥差別に守られた虚栄の利権ゲームがその種のテレビ芸人界だったのだ。
結果わかったのは、恐ろしく知的次元が低い人達がそのイイネやリツイートを連打していた人達の正体だった。知的次元が低いというよりどうみても良識以前の悪ふざけの中高生が多く、中には鹿児島のど田舎に住んでいて東京を幻想で見ている大都会症候群の様な人とか、都内の三流会社員の様な人もいた。彼らをリスト化しつぶさに観察してみると、特に最初の暴言を返信してきた人に関しては、他の人達にも同然の侮辱行為を繰り返すいわゆる荒らしの人だった。また大勢としてツイートの中身は実に下らない内容で、そもそもどうみても関わってはいけないのが明らかな恐ろしい知的程度の人達が全員であった(どういう内容があるかというと他にも諸々の差別とか、暴言とか中傷とか、他は実にとるにたりない俗悪なネタみたいなの)。
それで理解したのだが、ツイッターはブログの代わりにできない。少なくとも日本語ツイッターに関してはほぼ匿名・偽名の悪意ある2chねらー的衆愚が雲集している。道理でインフルエンサーへの返信も、感心する知的程度のがないわけだ。ツイッター民度は想像を遥かに下回り恐ろしく低いのだと思う。ツイッター上で差別的言動をよくみるのも、単にそれをし易い知的程度の人達が大勢集まっているからだ。津田氏が大炎上中も百万人単位のフォロワーが黙っているばかりか擁護も味方もしない。彼はブロック癖でフォロワーを厳選している筈なのに、元々ツイッターの視聴者一般の質に問題があるのだろう。
ツイッターは即時に反応がみられる社会的承認ゲームなので中毒性がある。極少数なら知性の高い人がいる可能性もゼロではない。だがこのフォロワー獲得競争は、単なる消耗に違いない。
インフルエンサーの論調を眺めている間は気づかなかったが、彼らは利己目的でフォロワー強者を自賛していたのだ。
我々は(少なくとも私と同等以上の良識をもっている人は)まさかインフルエンサーなどと称する、主として東京圏のネット芸人らがそこまで浅はかだとは想像外と思う、だが実際そうなのである。誰とは言わないが、今流行の社会学者芸人はフォロワー弱者は雑魚などと豪語していた。実に底が浅い。テレビ主体のマス情報発信が主流だった時代、全国民は東京圏の「朝生知識人」みたいな人達が論壇の主流かのよう洗脳されていた。しかし現実に彼らがツイッターに降りてくると頭の中身は空っぽなのがばれてしまった。単なる学閥差別に守られた虚栄の利権ゲームがその種のテレビ芸人界だったのだ。
2019年8月17日
徳と幸
下の世代から早く死ねと思われている人は少なくとも同時代の中で徳に欠けている。
金は有限の資源なので貪欲さが明らかなほど金持ちの死は望ましい。
一般大衆に親しまれている人は徳の賊に違いない。
卑しい人と親しむ勿れ。また彼らに近づく勿れ。時に愚者が賢くなるには遺伝子自体からやり直す必要があり、説得も啓蒙も意味を為さない。
徳に欠けた人の子孫は生まれてきてもやはり不幸なままだろう。その不幸さは下賎な親や先祖の元に生まれきたと想像すればよい。
聖俗を見分けられないのはその人自身が単に俗悪だからである。俗人と親しんでいる限りその人がより質の高い幸福に触れることはない。
一般公衆に徳を語るべきではない。彼らはそもそも徳を僅かなりとも理解するほど知恵がないからだし、言語知能の低さのゆえ誤解し、悪解釈し、演説者をそしるだけだろう。卑しい者と親しむべきでないのと同じく一般大衆に親しんではいけない。
過去の聖人より優れた存在になるのは後生には必ずや可能であり、それは先人の至った徳を参照できる好条件にあるからだ。幸福さの質は聖徳に一致しているのだから、聖人以上になる道を辿らずに人生を過去の人々より優れて生きることはできない。
大勢が欲しがる希少資源は枯渇しているのに、彼らの背後に潤沢な別の資源があり余っている。単なる商人としてだけでなく、経済に通じているのは余剰資源の恩恵に浴し、希少資源の獲得競争を気にも留めない人といえる。
競争に勝利した印を肩書きにしている人は恨みを買う。優秀さと思われる信号が世渡りの仇となる。既往の行路だけでなく単なる進路についても、常に謙虚であるには中道を行かねばならない。
行動を言語知能より重視する人は学習能力に欠けている場合が多く、他人の失敗に学ばず経験によって試行錯誤をくり返し、結局は大成し難い。その種の人は無意識に通俗的な陽明学や実用主義に耽りがちで、理論を苦手とする。このため使い走りにはなれてもかしらにはなれない。
俗人の風評は何一つ役に立たないものだ。彼らの暗愚さが甚しければ、世評の真逆に美徳の全てが集まっている。
軽蔑すべき人物と関わって安全でありうる筈もないのだから、彼らから距離をとり決して交際すべからず。
都会を称賛し田舎を貶めている人間は例外なく品性下劣な悪趣味で、世俗のなんらかの悪徳に魅せられているだけの俗物である。当然この堕落の極点にいるのが皇族で、彼らの虚栄心は底が抜けてしまい自身では後戻りできない。俗物根性はどれも悪いものと見抜き、都塵に近寄らず、軽薄な都会人とやりとりするな。都会のくらしは苦しい。故に彼らは貪り、無限の虚勢の為だけに差別や浪費をくり返し死ぬ。都会人を改心させるより天地をひっくり返す方がはるかにたやすい。都塵を脱出するのも早ければ早い程よい。
単に寄付していれば優れた人なのではなく、陸でもないものへ寄付している人がいる。善意で寄付していながら相手は邪教の担い手である様な時、その寄付は悪影響しかない。単なる売買でも金を払う相手が悪徳の持ち主であればGDPが不幸を増産する。だから経済価値は決して徳や幸の印ではない。
幸福度は指標化できない。それは主観的なものを究極に含んでいるからだ。或る貧者をみて全人類が相対幸福が最低といっていても、その人の心がこの上なく満ち足りていれば私は彼らの最高幸福を疑わない。一篇の詩の価値を計測できない物質経済を加味した幸福度調査は、この点で完全な言葉の誤用である。魅力度調査など擬似統計を使って或る人々を差別的に貶める悪業に、無意識にであれ加わった人の後はないだろう。
金は有限の資源なので貪欲さが明らかなほど金持ちの死は望ましい。
一般大衆に親しまれている人は徳の賊に違いない。
卑しい人と親しむ勿れ。また彼らに近づく勿れ。時に愚者が賢くなるには遺伝子自体からやり直す必要があり、説得も啓蒙も意味を為さない。
徳に欠けた人の子孫は生まれてきてもやはり不幸なままだろう。その不幸さは下賎な親や先祖の元に生まれきたと想像すればよい。
聖俗を見分けられないのはその人自身が単に俗悪だからである。俗人と親しんでいる限りその人がより質の高い幸福に触れることはない。
一般公衆に徳を語るべきではない。彼らはそもそも徳を僅かなりとも理解するほど知恵がないからだし、言語知能の低さのゆえ誤解し、悪解釈し、演説者をそしるだけだろう。卑しい者と親しむべきでないのと同じく一般大衆に親しんではいけない。
過去の聖人より優れた存在になるのは後生には必ずや可能であり、それは先人の至った徳を参照できる好条件にあるからだ。幸福さの質は聖徳に一致しているのだから、聖人以上になる道を辿らずに人生を過去の人々より優れて生きることはできない。
大勢が欲しがる希少資源は枯渇しているのに、彼らの背後に潤沢な別の資源があり余っている。単なる商人としてだけでなく、経済に通じているのは余剰資源の恩恵に浴し、希少資源の獲得競争を気にも留めない人といえる。
競争に勝利した印を肩書きにしている人は恨みを買う。優秀さと思われる信号が世渡りの仇となる。既往の行路だけでなく単なる進路についても、常に謙虚であるには中道を行かねばならない。
行動を言語知能より重視する人は学習能力に欠けている場合が多く、他人の失敗に学ばず経験によって試行錯誤をくり返し、結局は大成し難い。その種の人は無意識に通俗的な陽明学や実用主義に耽りがちで、理論を苦手とする。このため使い走りにはなれてもかしらにはなれない。
俗人の風評は何一つ役に立たないものだ。彼らの暗愚さが甚しければ、世評の真逆に美徳の全てが集まっている。
軽蔑すべき人物と関わって安全でありうる筈もないのだから、彼らから距離をとり決して交際すべからず。
都会を称賛し田舎を貶めている人間は例外なく品性下劣な悪趣味で、世俗のなんらかの悪徳に魅せられているだけの俗物である。当然この堕落の極点にいるのが皇族で、彼らの虚栄心は底が抜けてしまい自身では後戻りできない。俗物根性はどれも悪いものと見抜き、都塵に近寄らず、軽薄な都会人とやりとりするな。都会のくらしは苦しい。故に彼らは貪り、無限の虚勢の為だけに差別や浪費をくり返し死ぬ。都会人を改心させるより天地をひっくり返す方がはるかにたやすい。都塵を脱出するのも早ければ早い程よい。
単に寄付していれば優れた人なのではなく、陸でもないものへ寄付している人がいる。善意で寄付していながら相手は邪教の担い手である様な時、その寄付は悪影響しかない。単なる売買でも金を払う相手が悪徳の持ち主であればGDPが不幸を増産する。だから経済価値は決して徳や幸の印ではない。
幸福度は指標化できない。それは主観的なものを究極に含んでいるからだ。或る貧者をみて全人類が相対幸福が最低といっていても、その人の心がこの上なく満ち足りていれば私は彼らの最高幸福を疑わない。一篇の詩の価値を計測できない物質経済を加味した幸福度調査は、この点で完全な言葉の誤用である。魅力度調査など擬似統計を使って或る人々を差別的に貶める悪業に、無意識にであれ加わった人の後はないだろう。
死の価値
人は自分に与えられる筈だった利益に応じてしか、他人の死を本当には悼まない。この点でひとは徹底的に利己的だ。
守銭奴の老人が死んだ時をみればわかるよう、そもそも或る不徳な他人の死が自分に得だと、本音では痛快がられている。社会が悲しむのを儀式化しているだけで死は損得で勘定される。
守銭奴の老人が死んだ時をみればわかるよう、そもそも或る不徳な他人の死が自分に得だと、本音では痛快がられている。社会が悲しむのを儀式化しているだけで死は損得で勘定される。
2019年8月16日
東京ローカル
「東京ローカル」「東京地方」の話題を、中華思想に耽る都民一般は日本全体の話題とほぼ常に混同してるけど、少なくともテレビ文化の衰退後、ミームの中央集権傾向がますます消滅に向かっているし、それで本当によかった。寧ろその種の汚染で脳が侵された子供も見分けがつく。
現実の東京文化圏が、あらゆる差別を駆使したどろどろした唯の下賎な同業組合に過ぎないと知ってる側からすると、皇室が野蛮な邪教祖だと裏幕をみているのと同じで、いわば裏も表も知悉し納得しているのだが、ある種の子供はなんらかの洗脳を受けており、中華思想に虫の様にひきよせられて死んでいく。おのぼりさんの不幸は、新海誠アニメ、或いは皇室アルバムの様な本物の悪意に完全に洗脳されてしまうほど、科学的な反証能力が低いことだ。寧ろ原宿にある子供騙しの店とか性犯罪業界、或いは大学業界や不動産業界の様、人身売買含むおのぼりさん収奪システムに絡めとられ進んで死ぬ。
福島県民は、東京の会社が作った原発で首都を助けているとの大義名分をもっていた。それは高度成長の機運を受け、茨城や新潟、青森でも多少あれ同じだった筈だ。が蓋を開けてみれば田舎汚染を前提に、下衆極まりない都民が強欲を恣にする目的しかない大公害施設の、政府ぐるみでのおしつけだった。西日本の各都市も、原発に関する限り東京の田舎収奪モデルを無批判に模倣しているに過ぎないだろう。その根底にある悪意は、皇室と名乗る邪教祖一家が全国民を奴隷化する、大和王朝由来の中華思想にあり、彼ら極悪人が地上から消滅しない限り、日本国でその強欲と残虐、暴力がとどまることはない。
東京なる禍々しい悪徳のソドムが滅亡するのを祈念するだけでは全然足りない。なぜならその根底にある悪業をうみだしている邪教祖はいつでも難を逃れ、今度は京都だの奈良だのその他の地域に潜み、再び全国民奴隷化の謀略を相も変わらず続けるだろう業を疑う余地がないからだ。洗脳や殺人暴力によって。
現実の東京文化圏が、あらゆる差別を駆使したどろどろした唯の下賎な同業組合に過ぎないと知ってる側からすると、皇室が野蛮な邪教祖だと裏幕をみているのと同じで、いわば裏も表も知悉し納得しているのだが、ある種の子供はなんらかの洗脳を受けており、中華思想に虫の様にひきよせられて死んでいく。おのぼりさんの不幸は、新海誠アニメ、或いは皇室アルバムの様な本物の悪意に完全に洗脳されてしまうほど、科学的な反証能力が低いことだ。寧ろ原宿にある子供騙しの店とか性犯罪業界、或いは大学業界や不動産業界の様、人身売買含むおのぼりさん収奪システムに絡めとられ進んで死ぬ。
福島県民は、東京の会社が作った原発で首都を助けているとの大義名分をもっていた。それは高度成長の機運を受け、茨城や新潟、青森でも多少あれ同じだった筈だ。が蓋を開けてみれば田舎汚染を前提に、下衆極まりない都民が強欲を恣にする目的しかない大公害施設の、政府ぐるみでのおしつけだった。西日本の各都市も、原発に関する限り東京の田舎収奪モデルを無批判に模倣しているに過ぎないだろう。その根底にある悪意は、皇室と名乗る邪教祖一家が全国民を奴隷化する、大和王朝由来の中華思想にあり、彼ら極悪人が地上から消滅しない限り、日本国でその強欲と残虐、暴力がとどまることはない。
東京なる禍々しい悪徳のソドムが滅亡するのを祈念するだけでは全然足りない。なぜならその根底にある悪業をうみだしている邪教祖はいつでも難を逃れ、今度は京都だの奈良だのその他の地域に潜み、再び全国民奴隷化の謀略を相も変わらず続けるだろう業を疑う余地がないからだ。洗脳や殺人暴力によって。
人格評価の正確さ
人格的評価を間違える人が最も信用に足らない。対人関係知能の致命的落ち度が周囲の自他、関係者に最大の不幸をもたらす可能性が高いからだ。悪人と親しむ者は悪人の一部足らざるを得ないし、悪友を通じ悪徳をうつしあうものだ。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の観察記
以前、自分がジェンターの定義を聴いたら津田氏がぶちぎれてきて、そのとき彼の大量のフォロワーにいいね、リツイート、返信で心無い暴言を腐るほど吐かれ集団虐待された。で加害者の人達のリストを残したので最近ずっと観察している。
ところが津田氏が引き続き大炎上中、誰も彼を擁護していない。
では一体、この津田フォロワー過激派らはなぜあれほど必死になって、高々ジェンダーの定義が社会学のそれと違うのか聴いただけの私を集団虐待してきたのか? ずっとこの人達がなぜあんな行動をとったのか分析するため彼らの既往を眺めているのだが、殆ど全く分からない。
自分は、彼らが道理より津田氏への妄信を最優先するなんらかの信者なのだろうと思っていたのだが、全く違った。津田フォロワー過激派はただの馬鹿の類だった様に見えるのだ。フラッシュモブのよう津田氏という多数のフォロワーがいる人のツイートに群れ、嫌がらせや暴言三昧していたらしい。具体的に彼らが、いよいよ相談役の東氏にも戦線離脱され、愛知県知事にも全責任をおしつけられ孤立無援状態の津田氏を擁護しているなら首尾一貫した行動原理にみえる。それが信者たる道義であろう。しかし今現在彼らが何をツイートしているかなら、趣味のプラモとか全く無関係の雑談である。
ツイッター上でフォロワー強者に見える人達の実態などこんなものらしい。信者らしき集団虐待目的のモブは、単に群れるために群れ、道理も何もなくフォロワー強者の手先をやって暴挙や犯罪三昧しているが、いざとなれば誰も教祖をかばいはしない。無責任どころか本物の外道である。某安倍御用の女性政治評論家が、フォロワー数で政治家の質が分かる等とツイートしていた。全くの大嘘だ。その中身といえるのは信者でもない、群れるために群れている衆愚なのだ。衆愚を味方にしてどうなるというのだろう、今回の津田氏がまさにそれで、全然身を挺して守ってなどもらえない。
東浩紀氏は津田氏や黒瀬氏に責任転嫁というか、個別案件はそっちに聞いてくれ等とツイートし、「意見が入れられない」から降りたといってたみたいだが、そもそもここに根本的な彼一派の問題がある。相談って、批判を含め全部意見が入れられるとは限らないものと思うのだが、ブロック癖と同じ症状だ。自分と違う意見の持ち主、特に自見に批判的・否定媒介的な相手と対話を繰り返すのがソクラテスやヘーゲルのいう対話術で、哲学の基本運動とされているのに、東一門(ゲンロン派閥)は相手が自分と違う意見なだけでブロックし、ますます閉鎖的な反響室に篭ろうとする。津田氏もこの対象になったのだ。
ところが津田氏も東氏の盟友として、このカジュアルブロック癖をもっている。なので致命的な誤りを犯していても自己修正できない。
一般人からみたら東氏は責任放棄し、津田氏を裏切って逃げた様にみえるのだが、当人はブロック反響室の中にいるので聞こえないだろうし、無謬の神になってしまう。
津田氏は彼なりの責任感として現時点で辞任はできないと判断したのだろう。あと2ヶ月もあるのだから当然ともいえる。東氏もそれが理解できないとしたら悪友としかいい様がないだろう。もし理解していても自分だけ降りるのは単なる保身と指摘していた人がいたが、確かにそう受け取られても仕方がない。
東氏の分析していた2点、自分は外野からみていて必ずしも正しいと思わなかった。韓国政府は出てきてないのだから外交問題になど発展していないと批判していた人がいたがその通りだろうし、そもそも天皇制信者を揶揄する聖像破壊表現に気を使うも何もない。偶像破壊はただの宗教改革の一類型だ。根底的に『焼かれるべき絵』の本質は神道の聖像破壊なのだから神道信者に対する冒涜表現を含んでいる。だからこの宗教改革の本体は日本国の政教一致への痛烈な批判を含んでいる。東氏がいうようどれだけ対話の場を設けても、この点で宗教の違う人と冷静に話し合いなど成り立つ筈もないであろう。
つまり東氏は自分に降りかかる火の粉を避けるため体のよい言い訳を捏造したといってよく、その2点は決して正論ではないので津田氏が全面的に受け入れなくても当然だろう。逆に縁切りの様に津田氏が意見をそのまま受け入れなかったという建前を使っているのも、第三者の目にあからさまになっただけだ。
天皇信者は尊皇志士だの特攻隊みたいに、伝統的な殺人宗教神道カルトのため平気でテロする実例ばかりあるのだから、単に東氏は命の危険を感じ腰が引けたというだけにみえる。津田氏はガチ左翼としてこの点で謝罪文でも全然退避していない。聖像破壊も色んな解釈できるだろうと芸術論で通している。愛知県はガチ左翼の自由記者を芸術監督にし、いわば国体毀損のアートテロを仕掛けられ、知事が無自覚だったので思想戦の舞台にされている。海外作家は政教一致問題にまで理解が及ばず、愛知県による検閲の点で降りだしたので一層混乱が深まった。不自由展実行委員会は確信犯で津田氏を槍玉にしている。
東氏個人に関しては政教一致批判とか、反天皇制みたいな太田竜レベルの「進歩的知識人」仕草を全然わきまえていないというか、例えば浅田彰みたいな人物だったら平気な顔でいまどき天皇制批判で怒るなんて馬鹿なんじゃないの? といって済ませていたと思う。この点で覚悟も知恵も勇気も足りなすぎた。戦線離脱の仕方も「卑怯者」仕草にしか受け取れない方法だったので、今後、東氏が進歩的知識人ごっこをしても余り信用されないというか、革命の前線に立つ資格はないといわれそうな気がする。もともとサブカル批評とポストモダンもどきで世渡りしてただけで、政治的実効性はないといわれればそうだが。
普通に津田氏と団結し、反天表現の自由との論点から世界に打って出れば、国内の政教一致がばれ、離脱した国際作家らと連携し愛知県の検閲を挟撃できたのに、東氏は政治戦術の面で余り考えられてないと私は思う。津田氏単兵で、残り2ヶ月どこまで神道信者や過激派右翼と戦えるか最後まで観察する。
ところが津田氏が引き続き大炎上中、誰も彼を擁護していない。
では一体、この津田フォロワー過激派らはなぜあれほど必死になって、高々ジェンダーの定義が社会学のそれと違うのか聴いただけの私を集団虐待してきたのか? ずっとこの人達がなぜあんな行動をとったのか分析するため彼らの既往を眺めているのだが、殆ど全く分からない。
自分は、彼らが道理より津田氏への妄信を最優先するなんらかの信者なのだろうと思っていたのだが、全く違った。津田フォロワー過激派はただの馬鹿の類だった様に見えるのだ。フラッシュモブのよう津田氏という多数のフォロワーがいる人のツイートに群れ、嫌がらせや暴言三昧していたらしい。具体的に彼らが、いよいよ相談役の東氏にも戦線離脱され、愛知県知事にも全責任をおしつけられ孤立無援状態の津田氏を擁護しているなら首尾一貫した行動原理にみえる。それが信者たる道義であろう。しかし今現在彼らが何をツイートしているかなら、趣味のプラモとか全く無関係の雑談である。
ツイッター上でフォロワー強者に見える人達の実態などこんなものらしい。信者らしき集団虐待目的のモブは、単に群れるために群れ、道理も何もなくフォロワー強者の手先をやって暴挙や犯罪三昧しているが、いざとなれば誰も教祖をかばいはしない。無責任どころか本物の外道である。某安倍御用の女性政治評論家が、フォロワー数で政治家の質が分かる等とツイートしていた。全くの大嘘だ。その中身といえるのは信者でもない、群れるために群れている衆愚なのだ。衆愚を味方にしてどうなるというのだろう、今回の津田氏がまさにそれで、全然身を挺して守ってなどもらえない。
東浩紀氏は津田氏や黒瀬氏に責任転嫁というか、個別案件はそっちに聞いてくれ等とツイートし、「意見が入れられない」から降りたといってたみたいだが、そもそもここに根本的な彼一派の問題がある。相談って、批判を含め全部意見が入れられるとは限らないものと思うのだが、ブロック癖と同じ症状だ。自分と違う意見の持ち主、特に自見に批判的・否定媒介的な相手と対話を繰り返すのがソクラテスやヘーゲルのいう対話術で、哲学の基本運動とされているのに、東一門(ゲンロン派閥)は相手が自分と違う意見なだけでブロックし、ますます閉鎖的な反響室に篭ろうとする。津田氏もこの対象になったのだ。
ところが津田氏も東氏の盟友として、このカジュアルブロック癖をもっている。なので致命的な誤りを犯していても自己修正できない。
一般人からみたら東氏は責任放棄し、津田氏を裏切って逃げた様にみえるのだが、当人はブロック反響室の中にいるので聞こえないだろうし、無謬の神になってしまう。
津田氏は彼なりの責任感として現時点で辞任はできないと判断したのだろう。あと2ヶ月もあるのだから当然ともいえる。東氏もそれが理解できないとしたら悪友としかいい様がないだろう。もし理解していても自分だけ降りるのは単なる保身と指摘していた人がいたが、確かにそう受け取られても仕方がない。
東氏の分析していた2点、自分は外野からみていて必ずしも正しいと思わなかった。韓国政府は出てきてないのだから外交問題になど発展していないと批判していた人がいたがその通りだろうし、そもそも天皇制信者を揶揄する聖像破壊表現に気を使うも何もない。偶像破壊はただの宗教改革の一類型だ。根底的に『焼かれるべき絵』の本質は神道の聖像破壊なのだから神道信者に対する冒涜表現を含んでいる。だからこの宗教改革の本体は日本国の政教一致への痛烈な批判を含んでいる。東氏がいうようどれだけ対話の場を設けても、この点で宗教の違う人と冷静に話し合いなど成り立つ筈もないであろう。
つまり東氏は自分に降りかかる火の粉を避けるため体のよい言い訳を捏造したといってよく、その2点は決して正論ではないので津田氏が全面的に受け入れなくても当然だろう。逆に縁切りの様に津田氏が意見をそのまま受け入れなかったという建前を使っているのも、第三者の目にあからさまになっただけだ。
天皇信者は尊皇志士だの特攻隊みたいに、伝統的な殺人宗教神道カルトのため平気でテロする実例ばかりあるのだから、単に東氏は命の危険を感じ腰が引けたというだけにみえる。津田氏はガチ左翼としてこの点で謝罪文でも全然退避していない。聖像破壊も色んな解釈できるだろうと芸術論で通している。愛知県はガチ左翼の自由記者を芸術監督にし、いわば国体毀損のアートテロを仕掛けられ、知事が無自覚だったので思想戦の舞台にされている。海外作家は政教一致問題にまで理解が及ばず、愛知県による検閲の点で降りだしたので一層混乱が深まった。不自由展実行委員会は確信犯で津田氏を槍玉にしている。
東氏個人に関しては政教一致批判とか、反天皇制みたいな太田竜レベルの「進歩的知識人」仕草を全然わきまえていないというか、例えば浅田彰みたいな人物だったら平気な顔でいまどき天皇制批判で怒るなんて馬鹿なんじゃないの? といって済ませていたと思う。この点で覚悟も知恵も勇気も足りなすぎた。戦線離脱の仕方も「卑怯者」仕草にしか受け取れない方法だったので、今後、東氏が進歩的知識人ごっこをしても余り信用されないというか、革命の前線に立つ資格はないといわれそうな気がする。もともとサブカル批評とポストモダンもどきで世渡りしてただけで、政治的実効性はないといわれればそうだが。
普通に津田氏と団結し、反天表現の自由との論点から世界に打って出れば、国内の政教一致がばれ、離脱した国際作家らと連携し愛知県の検閲を挟撃できたのに、東氏は政治戦術の面で余り考えられてないと私は思う。津田氏単兵で、残り2ヶ月どこまで神道信者や過激派右翼と戦えるか最後まで観察する。
無限の美
自分の脳内には無限の美がつまっているのに、その一部しかとりだせない。だがこの仕事に集中している必要がある。とりださないかぎりそれはないことになってしまうので。
現世の商人は私のその仕事を仕事とみなさず一円も払わない。だから私は商人ではないし、彼らと同じ職能ももっていないらしい。
時たま、自分はその無限の美の一部がみえる。そのとき自分は何とかこれを表さないといけないと感じる。だが自分以外の人にそれが見えているとも思えないし、そもそも自分以外の人にとって意味があるかもよく分からない。とにかく、その無限の美の塊の様なものが自分の中にはあるのだ。
現世の商人は私のその仕事を仕事とみなさず一円も払わない。だから私は商人ではないし、彼らと同じ職能ももっていないらしい。
時たま、自分はその無限の美の一部がみえる。そのとき自分は何とかこれを表さないといけないと感じる。だが自分以外の人にそれが見えているとも思えないし、そもそも自分以外の人にとって意味があるかもよく分からない。とにかく、その無限の美の塊の様なものが自分の中にはあるのだ。
啓蒙より学習が優れている
一々教えが必要な愚か者に関わる時間は無駄だ。その費用を全て初めから優れている者に回すべきである。啓蒙は宗教家の仕事で、投資対象にしてはいけない。愚者の本質的存在意義は反例である。
同時代に優れた人物がいなければ引きこもり、誰とも関わるな。文献中にその種の人々をみつけるがいい。
同時代に優れた人物がいなければ引きこもり、誰とも関わるな。文献中にその種の人々をみつけるがいい。
2019年8月15日
呪われた五輪
呪われた賄賂東京五輪。原発再稼動を命じながら金を貪る、世界で最も失敗を願われている単なる下賎な都民の利権。皇族まで不正に加わり、被災地を踏みにじる卑しい都知事石原、猪瀬らの残した負の祭り。安倍晋三の売名に使われる運動選手が炎天下で苦しみ抜く、伊達に設計者を殺したのではない地獄。
芸術はどうでもいいもの
芸術って100%どうでもいい。20年それを追いかけてきたが、どうでもいいものだというのは絶対に間違いない。虚業中の虚業で、ゆえに自分はこの道を選んだ。
自分は実業が嫌いだ。それは何かの役に立つからだ。
歌も絵も何の役にも立たない。だがそれゆえに、目的そのもので、まるで命の比喩だ。
命は何かの役に立つ物ではない。それは目的そのものだ。美術と呼ばれている代物は純粋であれば、何かの手段になるのを拒否している。道具ではない。単なる目的としての物体、物自体になろうとする。命も単なる肉体としては別だが、直接手に触れられない。美術はその無用の用をまるごと乗せる乗り物だ。だからといって下らないアートとすばらしいアートがあるのも事実。下らない技は純粋でないだけだろう。命に軽重があるとは思えないのだから。
私はいわゆるアートが嫌いだ。だから昔は別だがもう展覧会なんて余程でなければ行かない。私は玄人だからだけど他の玄人も同じと思う。飽きたから下らない物みても徒労だ。すばらしいか直接見ないと判らないとかいってるのは半素人である。どんな物体でも直接見たら程度あれすばらしいんだから。いわゆるアートと、本物は違う。本物はそもそも次元が違うので、見ないとわからないとかそういう話ではない。逆にみなくても分かるし、見たらまた別のものというだけだ。本物は概念の革新を伴っているので単なる質感、つまり仕上げがいいねとかそれ以前の話なのだ。リヒターのベティは絵だったとか。
死、絶望、つまり我々の命が制限されている事実の前で、技はなんらかの印をつけ、死後に記録を残す。遺伝子とは別ルートで、ミームによって何かを伝えようとする。だが何のためにそうしたのか、はじめに洞窟壁画を試したアーティストは自覚していたろうか? ただの悪あがきであり遊びだったのだ。
芸術に希望をみるのはやめよう。元々これは悪あがき、どこに辿り着くでもない。これをみた者があれこれいうにせよ無視され消えるにせよ、どちらも同じだ。命それ自体と同じでただそこにある。金儲けに業を使った連中は単に愚劣だ。連中の名が残る筈もない。技はそれ自体でなければならないのだから。
自分は実業が嫌いだ。それは何かの役に立つからだ。
歌も絵も何の役にも立たない。だがそれゆえに、目的そのもので、まるで命の比喩だ。
命は何かの役に立つ物ではない。それは目的そのものだ。美術と呼ばれている代物は純粋であれば、何かの手段になるのを拒否している。道具ではない。単なる目的としての物体、物自体になろうとする。命も単なる肉体としては別だが、直接手に触れられない。美術はその無用の用をまるごと乗せる乗り物だ。だからといって下らないアートとすばらしいアートがあるのも事実。下らない技は純粋でないだけだろう。命に軽重があるとは思えないのだから。
私はいわゆるアートが嫌いだ。だから昔は別だがもう展覧会なんて余程でなければ行かない。私は玄人だからだけど他の玄人も同じと思う。飽きたから下らない物みても徒労だ。すばらしいか直接見ないと判らないとかいってるのは半素人である。どんな物体でも直接見たら程度あれすばらしいんだから。いわゆるアートと、本物は違う。本物はそもそも次元が違うので、見ないとわからないとかそういう話ではない。逆にみなくても分かるし、見たらまた別のものというだけだ。本物は概念の革新を伴っているので単なる質感、つまり仕上げがいいねとかそれ以前の話なのだ。リヒターのベティは絵だったとか。
死、絶望、つまり我々の命が制限されている事実の前で、技はなんらかの印をつけ、死後に記録を残す。遺伝子とは別ルートで、ミームによって何かを伝えようとする。だが何のためにそうしたのか、はじめに洞窟壁画を試したアーティストは自覚していたろうか? ただの悪あがきであり遊びだったのだ。
芸術に希望をみるのはやめよう。元々これは悪あがき、どこに辿り着くでもない。これをみた者があれこれいうにせよ無視され消えるにせよ、どちらも同じだ。命それ自体と同じでただそこにある。金儲けに業を使った連中は単に愚劣だ。連中の名が残る筈もない。技はそれ自体でなければならないのだから。
2019年8月14日
自殺か奴隷か
この国では型にはまった労働奴隷しかいらない
だからお前は死ぬがいい
就職先など奴隷職しかないので
お前が望む仕事など存在しない
最低賃金以下で過労死するがいい
日本凄い日本偉い日本に生まれてよかったと
天皇陛下万歳と三唱し
繁殖する下衆に搾取されろ
それがお前達日本人の一生だ
自殺か奴隷か
だからお前は死ぬがいい
就職先など奴隷職しかないので
お前が望む仕事など存在しない
最低賃金以下で過労死するがいい
日本凄い日本偉い日本に生まれてよかったと
天皇陛下万歳と三唱し
繁殖する下衆に搾取されろ
それがお前達日本人の一生だ
自殺か奴隷か
自分さえ消えてしまう時
なぜこれほど君にひかれるのか
自分でも全くわからない
さもこの星がとまり
なにもいえなくなったインコのよう
君のいない時は無に等しく
すべてが君と過ごせる時になるまで
あらゆる手を尽くし
なお足りなければ
この星をひっくり返してもいい
宇宙全体を壊し
再びつくりなおす
なにもなくなっても
ただ君の命のぬくもりに触れ
自分さえ消えてしまう時に
自分でも全くわからない
さもこの星がとまり
なにもいえなくなったインコのよう
君のいない時は無に等しく
すべてが君と過ごせる時になるまで
あらゆる手を尽くし
なお足りなければ
この星をひっくり返してもいい
宇宙全体を壊し
再びつくりなおす
なにもなくなっても
ただ君の命のぬくもりに触れ
自分さえ消えてしまう時に
拝金主義者は不幸になるべくしてなる
人生で金より大事な価値をみいだせない資本主義信者が、その邪教のゆえ不幸になっていくのは当然だ。何しろ彼らは物質崇拝者で、しかも貨幣は究極のところ政府なり暗号資産開発者の発行したゲーム内通貨なので、その交換価値にしか意味がない。交換で手に入るのは地位財に過ぎないので希少性が低い。
美について
美になんの価値がある
性欲の美化
快適の比喩
それから
幻想
道徳の要素
よい趣味に囲まれ生きて死ぬ
なるほどそれはすばらしい
だから美を探し求め
美人と配偶し
うつくしい子供と
うつくしい自然や町の中で
うつくしい人生を送るつもりでいて
結局どれも美だと気づく
性欲の美化
快適の比喩
それから
幻想
道徳の要素
よい趣味に囲まれ生きて死ぬ
なるほどそれはすばらしい
だから美を探し求め
美人と配偶し
うつくしい子供と
うつくしい自然や町の中で
うつくしい人生を送るつもりでいて
結局どれも美だと気づく
小沢組閣政略
官邸前での下品きわまる結婚報道の官邸策謀で、進次郎氏へのヘイト値は感覚的に嘗てなく高いので、よほど身辺注意してても愛国者の標的になりそう。それでいよいよ自民党政権も足元崩され終わるかもしれん。安倍官邸が石破派を崩そうと結婚報告に追われた猿キャラ進次郎を懐柔した陰謀が裏目に出た。進次郎の対抗馬が山本太郎って考えてる人達は、本質的にどっちに転化してもおかしくないポピュリズム厨だから、いわゆるB層に違いない。そしてこの人達を小泉父が扇動した結果が今の惨状だ。
賢明ならこの層は無視しなければならない筈だ。実際、味方にしても参院で数議席しかとれなかったのだ。
小沢一郎氏以外に政治道徳面で尊敬に値する人物を国内で見た試しがないのに、その人格謀殺で汚名を着せた明仁上皇は平気で違憲立法をおしつけ、税を食んでいる。なんという腐りきった国政であるか。将門に呪われるいい、自称上皇。そんな憲法どこにもないのだからお前は違法の存在だ。明仁にせよ徳仁にせよ、驕りが過ぎる。お前達皇族は主権者である我々国民に飼われる殺人邪教の祭祀に他ならないというのに、地位に胡坐をかくばかりか超法規的振る舞いにでて愧じる気配がないではないか。呪い位では足りまいな。具体的な地位転落がふさわしいのだ、国民の信託を裏切っているのだから。己の強欲と恣意だけを目的に習近平氏との公的接受を断り、あまつさえ陰険な宮内記者会を唆し小沢氏に濡れ衣を着せた。鳩山内閣を潰し、民意を迫害した。国政を壊乱し、結果が安倍独裁による受領式腐敗の極みだ。天皇家がわが国政に最大の疫病神なのは永年の事実としてもはや疑う余地もあるまい。反民天皇、上皇が転落するのが目に浮かぶ。そもそも連中のせいでこの最悪政治の平成末があったのだから、無能の極みどころの騒ぎではなかった。やはり政府に寄生させてはならぬ。完全に国政から永久追放すべき邪教一門なのである。悪戯に原爆投下を見送って特攻隊や人間魚雷を命じた者の子孫ではない。
もし枝野氏以外で、小沢氏含め公徳の高い候補者を野党の長にできたところで、また皇族が政治介入してきたら元の木阿弥だ。神道信者連も極力、国政追放する必要がある。当然その脈で自民党自体を壊滅させねばならない。
進次郎を操ろう。猿と自称していた通り奴の知能は浅はかだ。米国の日本操縦者の言いなりになり、俗受け狙いに猿回ししていただけの男だったのだ。公徳の面で、枝野とどちらがましか分からないほどだ。何せ党内序列を目的に安倍ら岸田派に懐柔されるとは、支持者への決定的な裏切りなのだから。進次郎をどう操るかだが、あのままつけあがらせ安倍政権の汚点なり壊乱分子として内閣入りさせるのもよし、閣外にいてももう石破派とみなさず攻撃対象にするのがよい。民衆は溺婚でも官邸前での上級国民ごっこを兼ねた出来レースでも呆れているのだから、下世話なメディアを唆せばすぐ自爆する。
小沢氏に着せられた汚名を覆すのは単純な話、最大権力を握れば民衆はすぐそちらになびく。本質的に憎悪は愛惜に転化し易い、それらはどちらも何らかのきっかけにより暴走した妄想、対照的な偏見だからだ。つまり安倍転落後、反動で自動的に旧民主党で最も不遇な濡れ衣を着せられた小沢氏の株が上がる。どうやって枝野を立憲君主の座から引き摺り下ろし、小沢統一政にきりかえるか、そのシナリオだ。玉木氏は軽減税率が欧州だので一般に行われている事実すら知らない本物の無能に過ぎないし、到底首相になれる次元の脳ではない。ある種の傀儡として電力総連に担がれている小人でしかない。
小沢首相以後の人材がいないのが問題だ。大統領制に彼の任期中に移行できればいいのだが。
菅直人氏というお邪魔キャラが、電力総連と玉木の繋がりを種に、旧国民派を揶揄しながら小沢氏に嫌がらせするのは目に見えているので、枝野と菅という権力闘争目的の陰湿な怨恨の持ち主をどうにか叩き潰さないと、野党の総合もその権力の復活も難しいだろう。天皇信者も明仁以下の皇族も、反民や違憲をなんとも思わず主権蹂躙で国政独裁しているのだから、この神道カルトが自民討伐以上に厄介なしがらみなのは確かだ。枝野や菅直人、玉木らはただの小人だからいいとしても、神道カルトの方はなんらかの逆洗脳で駆除するしかないだろう。政教一致、祭政一致のままでは皇統存続が不可能になる絶対条件を作り出し、その自己矛盾が極度になる発狂状態を生み出し、国政と宗教の狭間で自滅的に引き裂くのが最も賢明な神道カルトへの対策だ。具体的には神道極右を徹底的悪役にし、皇族閥を反民的世襲王族として戯画化する。
賢明ならこの層は無視しなければならない筈だ。実際、味方にしても参院で数議席しかとれなかったのだ。
小沢一郎氏以外に政治道徳面で尊敬に値する人物を国内で見た試しがないのに、その人格謀殺で汚名を着せた明仁上皇は平気で違憲立法をおしつけ、税を食んでいる。なんという腐りきった国政であるか。将門に呪われるいい、自称上皇。そんな憲法どこにもないのだからお前は違法の存在だ。明仁にせよ徳仁にせよ、驕りが過ぎる。お前達皇族は主権者である我々国民に飼われる殺人邪教の祭祀に他ならないというのに、地位に胡坐をかくばかりか超法規的振る舞いにでて愧じる気配がないではないか。呪い位では足りまいな。具体的な地位転落がふさわしいのだ、国民の信託を裏切っているのだから。己の強欲と恣意だけを目的に習近平氏との公的接受を断り、あまつさえ陰険な宮内記者会を唆し小沢氏に濡れ衣を着せた。鳩山内閣を潰し、民意を迫害した。国政を壊乱し、結果が安倍独裁による受領式腐敗の極みだ。天皇家がわが国政に最大の疫病神なのは永年の事実としてもはや疑う余地もあるまい。反民天皇、上皇が転落するのが目に浮かぶ。そもそも連中のせいでこの最悪政治の平成末があったのだから、無能の極みどころの騒ぎではなかった。やはり政府に寄生させてはならぬ。完全に国政から永久追放すべき邪教一門なのである。悪戯に原爆投下を見送って特攻隊や人間魚雷を命じた者の子孫ではない。
もし枝野氏以外で、小沢氏含め公徳の高い候補者を野党の長にできたところで、また皇族が政治介入してきたら元の木阿弥だ。神道信者連も極力、国政追放する必要がある。当然その脈で自民党自体を壊滅させねばならない。
進次郎を操ろう。猿と自称していた通り奴の知能は浅はかだ。米国の日本操縦者の言いなりになり、俗受け狙いに猿回ししていただけの男だったのだ。公徳の面で、枝野とどちらがましか分からないほどだ。何せ党内序列を目的に安倍ら岸田派に懐柔されるとは、支持者への決定的な裏切りなのだから。進次郎をどう操るかだが、あのままつけあがらせ安倍政権の汚点なり壊乱分子として内閣入りさせるのもよし、閣外にいてももう石破派とみなさず攻撃対象にするのがよい。民衆は溺婚でも官邸前での上級国民ごっこを兼ねた出来レースでも呆れているのだから、下世話なメディアを唆せばすぐ自爆する。
小沢氏に着せられた汚名を覆すのは単純な話、最大権力を握れば民衆はすぐそちらになびく。本質的に憎悪は愛惜に転化し易い、それらはどちらも何らかのきっかけにより暴走した妄想、対照的な偏見だからだ。つまり安倍転落後、反動で自動的に旧民主党で最も不遇な濡れ衣を着せられた小沢氏の株が上がる。どうやって枝野を立憲君主の座から引き摺り下ろし、小沢統一政にきりかえるか、そのシナリオだ。玉木氏は軽減税率が欧州だので一般に行われている事実すら知らない本物の無能に過ぎないし、到底首相になれる次元の脳ではない。ある種の傀儡として電力総連に担がれている小人でしかない。
小沢首相以後の人材がいないのが問題だ。大統領制に彼の任期中に移行できればいいのだが。
菅直人氏というお邪魔キャラが、電力総連と玉木の繋がりを種に、旧国民派を揶揄しながら小沢氏に嫌がらせするのは目に見えているので、枝野と菅という権力闘争目的の陰湿な怨恨の持ち主をどうにか叩き潰さないと、野党の総合もその権力の復活も難しいだろう。天皇信者も明仁以下の皇族も、反民や違憲をなんとも思わず主権蹂躙で国政独裁しているのだから、この神道カルトが自民討伐以上に厄介なしがらみなのは確かだ。枝野や菅直人、玉木らはただの小人だからいいとしても、神道カルトの方はなんらかの逆洗脳で駆除するしかないだろう。政教一致、祭政一致のままでは皇統存続が不可能になる絶対条件を作り出し、その自己矛盾が極度になる発狂状態を生み出し、国政と宗教の狭間で自滅的に引き裂くのが最も賢明な神道カルトへの対策だ。具体的には神道極右を徹底的悪役にし、皇族閥を反民的世襲王族として戯画化する。
資本主義は信じる者を絶滅危惧に追い込む邪教
一刻も早く死ぬ以外に何の人類への貢献もできない不徳な老人は、ますます子供を産み育てられる若い女性を含む人口へ負担を浴びせるため守銭奴に耽る。この負の連鎖を生じさせている根本原因は、例えば儒学の軽視である。君子三戒の老人の貪への戒めを無視、若者も堕胎や避妊の上で淫行に耽る。
では儒学を侮蔑させているのは何か。或いは欧米圏でいうキリスト教ユダヤ教、中東圏でいうイスラム教の代わりになぜ人口維持に繋がる私徳が与えられないか。第一に明治期の西軍がもっていた表面だけの西洋かぶれ、第二に戦後知識人の表面だけのアメリカかぶれの2つだろう。徳を学ばず制度だけ真似た。一方、仏教はそもそも全人類絶滅を理想としている終末思想である。だから少子化は、この宗教からみれば望ましい。神道信者にとって国家消滅が不都合なのは奴隷化した徴税信者が減るからだ。それで自民党内の神道信者連中は移民導入で無理やり人口減を解消しようとした。
老人と18歳に近い若者に都合がいい政治をするのは、自民党にとって最も合理的な選択肢だろう。老人人口の方が多いし若者ほど世間知らずだからだ。若者の無知につけこんで少子化は無視し、中年に負担をおしつけても政権は維持できる。若者は犠牲を犠牲と感じるほど賢くない。だから移民政策なのだ。
中年一般の中でも現体制から何らかの恩恵を受けているか、その中に順応してうまくやれていると感じている保守派は、自民党のその種の朝三暮四に共感している。それで自民族優越感をもちながら種族単位で自滅の道を択んでいる。伝統宗教のない空虚な資本主義者が絶滅危惧化するのは大いなる皮肉である。
では儒学を侮蔑させているのは何か。或いは欧米圏でいうキリスト教ユダヤ教、中東圏でいうイスラム教の代わりになぜ人口維持に繋がる私徳が与えられないか。第一に明治期の西軍がもっていた表面だけの西洋かぶれ、第二に戦後知識人の表面だけのアメリカかぶれの2つだろう。徳を学ばず制度だけ真似た。一方、仏教はそもそも全人類絶滅を理想としている終末思想である。だから少子化は、この宗教からみれば望ましい。神道信者にとって国家消滅が不都合なのは奴隷化した徴税信者が減るからだ。それで自民党内の神道信者連中は移民導入で無理やり人口減を解消しようとした。
老人と18歳に近い若者に都合がいい政治をするのは、自民党にとって最も合理的な選択肢だろう。老人人口の方が多いし若者ほど世間知らずだからだ。若者の無知につけこんで少子化は無視し、中年に負担をおしつけても政権は維持できる。若者は犠牲を犠牲と感じるほど賢くない。だから移民政策なのだ。
中年一般の中でも現体制から何らかの恩恵を受けているか、その中に順応してうまくやれていると感じている保守派は、自民党のその種の朝三暮四に共感している。それで自民族優越感をもちながら種族単位で自滅の道を択んでいる。伝統宗教のない空虚な資本主義者が絶滅危惧化するのは大いなる皮肉である。
芸術は亜流文化による商売ではない
芸術はなにもできない。
芸術は人を救わない。
芸術は人を偶像崇拝に引き入れ、駄目にする。
芸術に希望を見た者は、単に妄想症に魅せられている。
だから芸術を信じるべきでは全然ない。それは宗教ではない(モンドリアンは新造形主義教の中で死んだが、彼の生涯が模範といえようか?)。
そこらで生まれきたちょっとした美人が、芸能界に引き込まれ、諸々の化粧を施され芸妓として歌い踊る。そして彼らは自分をアーティストといいだす。勿論私はこういう連中を真正の芸術家とは然程思わないが、ポップアーティストとは須らくその種の芸者なのだ。芸大・画廊と芸能事務所。五十歩百歩。
ウォーホルが書いていた、運動選手がアーティストの代わりになっている云々。人気とりだけならユーチューバーの方がよほど有名人なのだから、芸者的芸術家、芸能人もどき似非作家は根本的に道を誤っている。クリエイターだのインフルエンサーだの横文字ぶって創造者きどりし、アートを通俗化した下衆。
全く無名、ネット投稿サイトの片隅で殆ど数人にしかみられていない、凡俗と間違われ死ぬ、半匿名の詩人。純粋芸術の存在意義などその程度のものだ、昔も今もこの点に変わりなどない。それは絶望と表裏一体で、要は全ての武器を剥奪された或る人間が最小の道具だけで社会という敵意に反抗する手段だ。
同人誌を書いている品性下劣な絵師連中は、私小説作家がやっていた日本的自然主義の仕業を亜流文化たる漫画様式で再現している風にみえる。彼らをいよいよ無視できない日本政府が、恐ろしく野卑な淫行だの猟奇的な児童の性搾取だのを子供向けアニメキャラに演じさせているのを援助するのはなぜなのか。日本政府、特に京都文化庁はいよいよ源氏物語次元に退行し気が狂っているのに違いない。そしてその狂態ぶりは国連やら国際社会の良心の放火による、義憤の大炎上という末路を伴うに違いない。一切近づかないべきだ。日本政府と名乗る犯罪幇助衆にも、京都にも。東京都の犯罪幇助施設ビッグサイトにも。
同人誌のエロ漫画にいいね連打している外人がどんな連中なのか想像してみるがいい。連中が馬鹿なのは当然ながら最も関わってはいけない類の、いってみれば最下等の品性の持ち主であろう。当然そこにあるのは精神異常に近い過度の抑圧、日本女性への偏見や、性に対する犯罪的で歪んだ欲求でしかない。
今日のアートシーンはコミュニケーションに飢えている人達を結びつける、社会ゲームとしての商売だとリヒターは1990年10月24日のノートに書いている。そしてそれはそもそも芸術とも殆ど無関係と。これがクールジャパンとか亜流文化の全域にあてはまるのは全く疑いがない事実だ。
日本政府は、実質的に、村上隆に騙されたのである。
死ぬほど体に悪そうな蛙の卵もどき混じりの砂糖水を、高いかねを払って(親に払わせて)嬉しそうに飲みまくる愚劣な東京都民の若害。そんな猿みたいな遺伝子が原発依存でスマホゲームをやり、いなかに負担をおしつけ、死んだ方がいい様な軽薄極まりない一生を送る。なるほど醜悪な都会の縮図だ。
大抵の精神年齢が中央値以上の若者は、そうでなくとも平均よりよい趣味を持つ保護者の元で育っている子供は、飛び級できない下らない日本の教育組織のせいで無理やり、幼稚な亜流文化に合わせようとしているに過ぎない。それがいかに吐き気がするほど俗悪な代物でも、愚劣な同級生からはみ出ない為に。
悪徳を移し合う疫病の集まり、悪趣味の集合体、俗悪な偶像崇拝の衆愚。そんな最悪級の犯罪者より悪質な性犯罪漫画のオタクが73万人も、炎天下で猥褻物を売り買いする東京都という地獄がいつ神の怒りに触れ、溶岩で消し飛ばされてもなんの疑問も湧かない。MOABか水爆が落ちても自業自得と感じる。俗悪な都市文化を上位と言い繕っている堕落しきった俗物は、一体何を根拠にそう思えていたのか全く分からない。どこをどう見間違えるとそうなるのか、数学の分からない人が何を分からないといっているか分からないのと同じ風にしか見えない。東京湾でくらしているともうそこがどぶと思えないのだろう。
芸術は人を救わない。
芸術は人を偶像崇拝に引き入れ、駄目にする。
芸術に希望を見た者は、単に妄想症に魅せられている。
だから芸術を信じるべきでは全然ない。それは宗教ではない(モンドリアンは新造形主義教の中で死んだが、彼の生涯が模範といえようか?)。
そこらで生まれきたちょっとした美人が、芸能界に引き込まれ、諸々の化粧を施され芸妓として歌い踊る。そして彼らは自分をアーティストといいだす。勿論私はこういう連中を真正の芸術家とは然程思わないが、ポップアーティストとは須らくその種の芸者なのだ。芸大・画廊と芸能事務所。五十歩百歩。
ウォーホルが書いていた、運動選手がアーティストの代わりになっている云々。人気とりだけならユーチューバーの方がよほど有名人なのだから、芸者的芸術家、芸能人もどき似非作家は根本的に道を誤っている。クリエイターだのインフルエンサーだの横文字ぶって創造者きどりし、アートを通俗化した下衆。
全く無名、ネット投稿サイトの片隅で殆ど数人にしかみられていない、凡俗と間違われ死ぬ、半匿名の詩人。純粋芸術の存在意義などその程度のものだ、昔も今もこの点に変わりなどない。それは絶望と表裏一体で、要は全ての武器を剥奪された或る人間が最小の道具だけで社会という敵意に反抗する手段だ。
同人誌を書いている品性下劣な絵師連中は、私小説作家がやっていた日本的自然主義の仕業を亜流文化たる漫画様式で再現している風にみえる。彼らをいよいよ無視できない日本政府が、恐ろしく野卑な淫行だの猟奇的な児童の性搾取だのを子供向けアニメキャラに演じさせているのを援助するのはなぜなのか。日本政府、特に京都文化庁はいよいよ源氏物語次元に退行し気が狂っているのに違いない。そしてその狂態ぶりは国連やら国際社会の良心の放火による、義憤の大炎上という末路を伴うに違いない。一切近づかないべきだ。日本政府と名乗る犯罪幇助衆にも、京都にも。東京都の犯罪幇助施設ビッグサイトにも。
同人誌のエロ漫画にいいね連打している外人がどんな連中なのか想像してみるがいい。連中が馬鹿なのは当然ながら最も関わってはいけない類の、いってみれば最下等の品性の持ち主であろう。当然そこにあるのは精神異常に近い過度の抑圧、日本女性への偏見や、性に対する犯罪的で歪んだ欲求でしかない。
今日のアートシーンはコミュニケーションに飢えている人達を結びつける、社会ゲームとしての商売だとリヒターは1990年10月24日のノートに書いている。そしてそれはそもそも芸術とも殆ど無関係と。これがクールジャパンとか亜流文化の全域にあてはまるのは全く疑いがない事実だ。
日本政府は、実質的に、村上隆に騙されたのである。
死ぬほど体に悪そうな蛙の卵もどき混じりの砂糖水を、高いかねを払って(親に払わせて)嬉しそうに飲みまくる愚劣な東京都民の若害。そんな猿みたいな遺伝子が原発依存でスマホゲームをやり、いなかに負担をおしつけ、死んだ方がいい様な軽薄極まりない一生を送る。なるほど醜悪な都会の縮図だ。
大抵の精神年齢が中央値以上の若者は、そうでなくとも平均よりよい趣味を持つ保護者の元で育っている子供は、飛び級できない下らない日本の教育組織のせいで無理やり、幼稚な亜流文化に合わせようとしているに過ぎない。それがいかに吐き気がするほど俗悪な代物でも、愚劣な同級生からはみ出ない為に。
悪徳を移し合う疫病の集まり、悪趣味の集合体、俗悪な偶像崇拝の衆愚。そんな最悪級の犯罪者より悪質な性犯罪漫画のオタクが73万人も、炎天下で猥褻物を売り買いする東京都という地獄がいつ神の怒りに触れ、溶岩で消し飛ばされてもなんの疑問も湧かない。MOABか水爆が落ちても自業自得と感じる。俗悪な都市文化を上位と言い繕っている堕落しきった俗物は、一体何を根拠にそう思えていたのか全く分からない。どこをどう見間違えるとそうなるのか、数学の分からない人が何を分からないといっているか分からないのと同じ風にしか見えない。東京湾でくらしているともうそこがどぶと思えないのだろう。
長短は同じものを評価する主観の偏り
清貧であれば妬まれない。学歴がなければ差別しがちな衆愚から仰望されず、仕事の分量が軽くなる。無能なら地位を与えられず自由になる。醜貌なら内面のみで評される。人気がなければ静穏だ。失敗は学ぶ機会に過ぎない。人が欠点と考える特徴をよく見直せ。それは既にある長所と表裏一体だ。
反証知性の欠如
差別的な考えをもっている人は、大人になると周りの人から暗に蔑まれはするものの、口論になるのを避けるため誰からも注意されなくなる。そしてその種の暗愚さと同質の人達と寄り集まってしまう。これが差別主義者の集まりが生まれる理由で、彼らの反証知性が低いほど安直に憎悪感情へ踏み込んでいく。
2019年8月13日
サロン文化の淀み
テレビ文化人は似非芸能人であり、文壇だの画壇の腐った連中と根底的に同質で、同人政治のため平気で嘘をつき一定の仲間の中で太鼓もち利権を盥回しにしている。無論この陰湿な輪の外にいるのが最善なのだが、そもそも彼らは学閥とか同程度の俗物さとか色々な点で排他的同業組合を無意義に作っている。
サロン文化の腐りきった汚物が芸大美大を含む大学学閥社会である。その中にあるのは業績と称した徹底した同人政治なので、ひたすら排他的なだけで本質に何もない。名門大学とは根本的に財閥と変わらない企業連合である。だから賢明な人間なら一歩もその種の悪徳持ちの集まりに近づかないべきであろう。
サロン文化の腐りきった汚物が芸大美大を含む大学学閥社会である。その中にあるのは業績と称した徹底した同人政治なので、ひたすら排他的なだけで本質に何もない。名門大学とは根本的に財閥と変わらない企業連合である。だから賢明な人間なら一歩もその種の悪徳持ちの集まりに近づかないべきであろう。
危険芸人とフォロワー強者の自己過信
某芸人の大学を僭称する動画を網羅的にみてみてるんだけど、お笑い芸人の癖に全然笑えない上に中身も浅い教科書的な知識の羅列だし、わかりやすくもない。普通の大学教授の方がよっぽど分かりやすく教えれてるので、これをわかりやすいといってる人は大学の講義聴いたことないだけ。高々慶応の経済学士なのにテレビがもちあげすぎたせいで、吉本芸人衆の間ではなんらかの知識層扱いされてたのかもしれないが、これで万学の師ぶるのは実力がわかってないというか、勘違い度が凄い。受験予備校の講師ならまだわかるけど、卑俗な言い回しで堅苦しい話してるだけなので実につまらない。
某先輩芸人が面白くないと彼にいったのは間違いない話だ。確かに一度も彼が面白いと思った試しがない。某先輩芸人は大抵下品の極みではあるが、少なくともシュールな笑いを思いつく点で天才なので、先輩からはそうみえるし、単なる一視聴者の私からもそうみえる。かといって彼に教師の才能もない。
テレビは或る人物を過剰・過小評価させるバイアス増幅装置で、SNSもそのミニメディア版といえるだろうが、これらで評価経済ぶって人気とりしたフォロワー強者が勘違いするのも無理はない。己の実力と明らかに反した大量のフォロワーを抱えると、当人が正確に自己評価できないほど墓穴を掘ってしまう。
喜劇の才能が足りないだけでなく、人格的にも問題あり、自己過信の嫌いもあるときている。おまけに節操なく大衆迎合し、金の為には思想を曲げる。これらだけでも有り余るほど危険信号が出ているのだが、決定的なのは挑発的に反体制ぶっている。君子危うきに近寄らず案件に限りなく近い今の第一人物だ。勿論、反体制自体が危険なのではなく、彼は状況判断できていないのだ。彼の目的はテレビ番組でもしばしば演じさせられていた教授ぶった大衆迎合番組による金儲けだろうに、世論一般は安心をもとめて体制派なのに気づいていない。いいかえればビジネスセンスがない。
本来迎合すべきでない相手、それも芸人風情の劣化講義もどきを喜んで聴くくらいだから大いに暗愚な連中に迎合し、同時に挑発してしまってさえいるので、近いうちに某記者と同程度以上の炎上が起きるだろう。もともと品性下劣な上に怒りっぽい人物なのだからその後は推して知るべし。
某先輩芸人が面白くないと彼にいったのは間違いない話だ。確かに一度も彼が面白いと思った試しがない。某先輩芸人は大抵下品の極みではあるが、少なくともシュールな笑いを思いつく点で天才なので、先輩からはそうみえるし、単なる一視聴者の私からもそうみえる。かといって彼に教師の才能もない。
テレビは或る人物を過剰・過小評価させるバイアス増幅装置で、SNSもそのミニメディア版といえるだろうが、これらで評価経済ぶって人気とりしたフォロワー強者が勘違いするのも無理はない。己の実力と明らかに反した大量のフォロワーを抱えると、当人が正確に自己評価できないほど墓穴を掘ってしまう。
喜劇の才能が足りないだけでなく、人格的にも問題あり、自己過信の嫌いもあるときている。おまけに節操なく大衆迎合し、金の為には思想を曲げる。これらだけでも有り余るほど危険信号が出ているのだが、決定的なのは挑発的に反体制ぶっている。君子危うきに近寄らず案件に限りなく近い今の第一人物だ。勿論、反体制自体が危険なのではなく、彼は状況判断できていないのだ。彼の目的はテレビ番組でもしばしば演じさせられていた教授ぶった大衆迎合番組による金儲けだろうに、世論一般は安心をもとめて体制派なのに気づいていない。いいかえればビジネスセンスがない。
本来迎合すべきでない相手、それも芸人風情の劣化講義もどきを喜んで聴くくらいだから大いに暗愚な連中に迎合し、同時に挑発してしまってさえいるので、近いうちに某記者と同程度以上の炎上が起きるだろう。もともと品性下劣な上に怒りっぽい人物なのだからその後は推して知るべし。
日本はアジアとの相互作用の中で存在する東端の一部
この歴史教科書を巡る高橋・有本論争(茂木健一郎氏も絡んでた。内容は、共同歴史教科書案をだした高橋源一郎氏に、有本香氏が「アジアは統合不可、アジア多様性を真っ向から否定する古いサヨク思想を脱するところから日本は教育し直さなければならない」とするもの)の本質にある議題は、大まかに脱亜論vs興亜論、細かくは民族主義vs汎アジア主義vs全球主義vs日米同盟主義、等の思想的摩擦なんだろうけど、結論からいうと、既に世界はASEAN、香港、台湾、中韓印などの跳躍で脱亜へ退行など不能。
元ツイートは東亜共同歴史教科書論で、多様性にかこつけた汎アジア主義の否定へすりかえるのはただの詭弁だ。そもそも日本は弥生人を受け入れた時点から全アジアやシルクロード圏から諸々の文化的影響の末端になってきた。明治から敗戦まで77年間、一部にあった擬似脱亜論(実質興亜論)は極めて例外。
天心がいう「アジア文明の博物館」視できるのがシルクロード右端で全アジアミームが流れ着く日本列島。法隆寺のエンタシスが古代ギリシアのそれと相似にみえたり、ペルシア人の李密翳が実際奈良時代に来日してたりする(『続日本紀』)のも、ユーラシア大陸が左端の西洋と右端の日本を繋いでいた一証。
共同歴史教科書なんて歴史は科学な以上、遠からずどこでも客観的に一致する知識だけになるのだから当然共有されていくだけの話だ。そこに日本・世界史の展開も知らず汎アジア主義否定の為、三流イギリス人みたいな意味不明の脱亜論で受け狙うのはなぜなのか。英米も外来文化ミームばっかなのだが。仏教や儒教、いやそれどころか天皇とかいう中国神話上の神の名(三皇の一)を背乗りした中華皇帝の猿真似なしの日本史なんて今のところ考えられないのだから、アジアのどの文化だって相互作用の中で多様性を保ってるに決まっている。恐らく有本氏は無意識に、韓国みたいな民族純化思想に陥っている。
韓国の代表的な純化運動は漢字排斥だろう。そのせいで色々な副作用がみられるのは、そもそも東亜共通の知識言語だった漢文が一般に読めなくなるし、外来語と母語の見分けもつかなくなるし、韓国国学面で致命的な面も大きい。
いまどき脱亜論って、経済面なら国外のアジア諸国製が部品にせよ本体にせよ欠かせない全IT機器捨てられるの? ってレベルで時代遅れすぎる。トランプの自滅をまねたいのか。一々指摘するまでもなく若者文化の不可欠の一部がKPOPだの中韓製オンラインゲームだし、有本説は生きる時代を間違えている。寧ろ中途半端に国内市場規模が自足的でない韓国とか台湾、ASEANやら、世界覇権狙えるというか当然とれる規模の中印は最初から、有本説みたいな偏狭な民族主義でグローバル経済展開にブレーキかける愚を犯しえないし、今や米英かぶれで名誉白人ぶる極東のわが国より恵まれているといっていいだろう。
歴史が科学だという事実から目を背け、利己的偏愛で自国礼賛し他国蔑視する明治レベルの人種差別史観を平気で語ってる意図が何一つ理解できない。何しろ弥生人からして移民だし、以後もアイヌや沖縄や縄文人からみたら天皇含めほぼ外来混血者だらけなんだから、単一民族幻想に耽るなど不可能だろう。
左翼なるものを単一的に分類し、差別的なり否定的に扱ってる時点で進歩・革新思想に拒否感を示しているのは明らかなのに、他方では明治から77年間の一部にあった非伝統思想によっている矛盾が拭えないので一々指摘するまでもない相手なのかもしれないけど、アジアとお国の将来の為に一応書いた。
国学の伝統に照らすと、漢学洋学に対し、国学をぶつけて独自の個性を生み出してきたのが日本文明のあり方だった。もし和辻哲郎がいう季節風的なもの(外来文化を受け自文化を変えていく受動的な態度)が東亜文化の傾向なのも程あれ共通なら、有本氏は寧ろ排外的な点で砂漠地帯の考え方に近いといえる。
アジアが多様性を含むのは確かだし、その多様さが民族的にも幅が大きいのは『文明の生態史観』で梅棹忠夫が指摘している。かといって、日本文明の伝統的なあり方が外来文化を受け入れた上での国風化なら、単に中韓朝への憎悪感情を滾らせる福沢諭吉的東亜差別の枠組みは全く虚しい愚考というべきだ。なぜなら、東欧圏、中東圏、しばしば北ユーラシアやインド圏を含む広域アジア圏の文化が日本に流れてくるのは往々にして中国や南北朝鮮を通じた経過だったのだし、それどころか寧ろDNA面でもミーム面でも、日本に類似性なり酷似性がみられるのは東亜諸国だからである。近親憎悪の意味がわからない。
元ツイートは東亜共同歴史教科書論で、多様性にかこつけた汎アジア主義の否定へすりかえるのはただの詭弁だ。そもそも日本は弥生人を受け入れた時点から全アジアやシルクロード圏から諸々の文化的影響の末端になってきた。明治から敗戦まで77年間、一部にあった擬似脱亜論(実質興亜論)は極めて例外。
天心がいう「アジア文明の博物館」視できるのがシルクロード右端で全アジアミームが流れ着く日本列島。法隆寺のエンタシスが古代ギリシアのそれと相似にみえたり、ペルシア人の李密翳が実際奈良時代に来日してたりする(『続日本紀』)のも、ユーラシア大陸が左端の西洋と右端の日本を繋いでいた一証。
共同歴史教科書なんて歴史は科学な以上、遠からずどこでも客観的に一致する知識だけになるのだから当然共有されていくだけの話だ。そこに日本・世界史の展開も知らず汎アジア主義否定の為、三流イギリス人みたいな意味不明の脱亜論で受け狙うのはなぜなのか。英米も外来文化ミームばっかなのだが。仏教や儒教、いやそれどころか天皇とかいう中国神話上の神の名(三皇の一)を背乗りした中華皇帝の猿真似なしの日本史なんて今のところ考えられないのだから、アジアのどの文化だって相互作用の中で多様性を保ってるに決まっている。恐らく有本氏は無意識に、韓国みたいな民族純化思想に陥っている。
韓国の代表的な純化運動は漢字排斥だろう。そのせいで色々な副作用がみられるのは、そもそも東亜共通の知識言語だった漢文が一般に読めなくなるし、外来語と母語の見分けもつかなくなるし、韓国国学面で致命的な面も大きい。
いまどき脱亜論って、経済面なら国外のアジア諸国製が部品にせよ本体にせよ欠かせない全IT機器捨てられるの? ってレベルで時代遅れすぎる。トランプの自滅をまねたいのか。一々指摘するまでもなく若者文化の不可欠の一部がKPOPだの中韓製オンラインゲームだし、有本説は生きる時代を間違えている。寧ろ中途半端に国内市場規模が自足的でない韓国とか台湾、ASEANやら、世界覇権狙えるというか当然とれる規模の中印は最初から、有本説みたいな偏狭な民族主義でグローバル経済展開にブレーキかける愚を犯しえないし、今や米英かぶれで名誉白人ぶる極東のわが国より恵まれているといっていいだろう。
歴史が科学だという事実から目を背け、利己的偏愛で自国礼賛し他国蔑視する明治レベルの人種差別史観を平気で語ってる意図が何一つ理解できない。何しろ弥生人からして移民だし、以後もアイヌや沖縄や縄文人からみたら天皇含めほぼ外来混血者だらけなんだから、単一民族幻想に耽るなど不可能だろう。
左翼なるものを単一的に分類し、差別的なり否定的に扱ってる時点で進歩・革新思想に拒否感を示しているのは明らかなのに、他方では明治から77年間の一部にあった非伝統思想によっている矛盾が拭えないので一々指摘するまでもない相手なのかもしれないけど、アジアとお国の将来の為に一応書いた。
国学の伝統に照らすと、漢学洋学に対し、国学をぶつけて独自の個性を生み出してきたのが日本文明のあり方だった。もし和辻哲郎がいう季節風的なもの(外来文化を受け自文化を変えていく受動的な態度)が東亜文化の傾向なのも程あれ共通なら、有本氏は寧ろ排外的な点で砂漠地帯の考え方に近いといえる。
アジアが多様性を含むのは確かだし、その多様さが民族的にも幅が大きいのは『文明の生態史観』で梅棹忠夫が指摘している。かといって、日本文明の伝統的なあり方が外来文化を受け入れた上での国風化なら、単に中韓朝への憎悪感情を滾らせる福沢諭吉的東亜差別の枠組みは全く虚しい愚考というべきだ。なぜなら、東欧圏、中東圏、しばしば北ユーラシアやインド圏を含む広域アジア圏の文化が日本に流れてくるのは往々にして中国や南北朝鮮を通じた経過だったのだし、それどころか寧ろDNA面でもミーム面でも、日本に類似性なり酷似性がみられるのは東亜諸国だからである。近親憎悪の意味がわからない。
2019年8月12日
脱俗について
お前は成功者だ
お前にはなんの落ち度もない
だからお前は大炎上した
驕り高ぶっていた
どれだけ大金を
名声権力肩書きを得ても
お前は失敗者だ
お前にはどこも落ち度しかない
だからお前は抹殺される
盛者必衰は世の習い
競争すれば虐げる
勝ち負けを捨て安らぎに伏せ
人間を離れ
自然を歌え
お前にはなんの落ち度もない
だからお前は大炎上した
驕り高ぶっていた
どれだけ大金を
名声権力肩書きを得ても
お前は失敗者だ
お前にはどこも落ち度しかない
だからお前は抹殺される
盛者必衰は世の習い
競争すれば虐げる
勝ち負けを捨て安らぎに伏せ
人間を離れ
自然を歌え
天心とミルの高尚
岡倉天心は真理を説いていたものだ。日帝による迫り来る戦乱のさなか、彼は茶でも飲んで落ち着こうと云う。数寄な茶室を五浦に普請し、できた六角堂の窓から太平洋の波濤を眺め、潮騒に包まれつつ、侵略戦争で文明人と称賛される位なら、平和な芸術に耽る野蛮人と呼んでくれて構わない、と書き残した。天心は当然皮肉をいっているのだが、そこで批判されているのは本質的に天皇を操る薩長藩閥の偽善であり、軍国主義の浅ましさであり、欧米思潮の浅はかさであり、松陰侵略主義の猿真似加減である。天皇戦争責任に直接触れず日帝の蛮行を揶揄し、彼は東洋の伝統に帰順した。即ち、世に道なくば隠遁せよ。
東京で下賎な金儲けや売名に耽る位なら、確かに故郷で無名の隠士として生きた方がよい。俗悪な亜流文化の担い手に列記される位なら、確かに一文無しな主流文化の最前衛であった方がよい。満足した豚より不満足なソクラテスの方がよい、とミルがいった質的幸福感は、天心のせりふと呼応する点がある。
東京で下賎な金儲けや売名に耽る位なら、確かに故郷で無名の隠士として生きた方がよい。俗悪な亜流文化の担い手に列記される位なら、確かに一文無しな主流文化の最前衛であった方がよい。満足した豚より不満足なソクラテスの方がよい、とミルがいった質的幸福感は、天心のせりふと呼応する点がある。
生産性差別は米国とその犬による謀略
生産性差別は自らを搾取対象として犠牲にする資本主義へ憎悪を募らせる貧者にとって尤もな理屈だが、これを否定した先にある諸社会中で次善な北欧流社民主義を導入する気は、日本人衆愚には毛頭ない。それは彼らが社会主義を北朝鮮やロシアと結びつけ侮蔑するよう米国や保守派に洗脳されているからだ。
天皇カルトの大炎上
天皇を燃やせば怒る狂信者原爆落ちて消えて狂えず
皇族が何億回も地獄にて業火に焼かれていても必然
皇紀といい侵略罪を正当化大量虐殺してきた邪教祖
天皇を崇めるカルト今日もまた差別と収奪殺人続ける
皇族が何億回も地獄にて業火に焼かれていても必然
皇紀といい侵略罪を正当化大量虐殺してきた邪教祖
天皇を崇めるカルト今日もまた差別と収奪殺人続ける
拝金主義の詭弁
金がないからできる好きなことが限られる、だから先に好きでもない金儲けをしろ、という拝金主義の理屈は本末転倒に思う。これが成立するのは金儲けが好きな人、又は金儲けを好きになれた人だけだ。
悪意の愛国者
自分がばらばらになる
死に向けて解体される
この国に生きていくこともできず
ひたすら搾取の渦に飲み込まれていく
恐怖の中で叫び声をあげても
周りにいるのは悪意の愛国者だ
自分を貶めながら繁殖し差別を撒き散らす
だから自分は戦うつもりだ
この世にはびこる卑しさと
人類という愚かな種の悪業と
死に向けて解体される
この国に生きていくこともできず
ひたすら搾取の渦に飲み込まれていく
恐怖の中で叫び声をあげても
周りにいるのは悪意の愛国者だ
自分を貶めながら繁殖し差別を撒き散らす
だから自分は戦うつもりだ
この世にはびこる卑しさと
人類という愚かな種の悪業と
史書の記述法
史書は単に史家が確定できた客観的かつ即物的な事実を羅列するに留め、それらの原典や根拠を付記した科学書でなければならず、史家自身の思想や政治的考え方、善悪の判断、歴史観の類を入れ込んではいけない。権力闘争の勝者に偏って価値判断もしてはいけない。例えば人物が或る内面を書簡等に残している際、史家はその様な書簡を当該人物が当該資料に残しているとの事実を機械的に述べるに留めなければならず、勝手にその人物の内面を代弁してはいけないし、彼らの視点に立ち物語的主観性で歴史を語る様ではいけない。これらは史書の科学的価値、古典的重要性を高める目的である。
他方、史書とは別に、或る人物の政治道徳を理解するには次の要素が考慮できる。
先ず或る人物が置かれていた時代なり地域、集団、思想条件、或いは個性で良識は異なっているので、別の時代・地域の常識や当時の法に照らし遡及処罰的または再評価的に裁断するのはその良識自体を問う態度としては多かれ少なかれ間違っている。なぜならその人は遺伝子含む肉体、環境、文化素(ミーム)いずれの点でも置かれた状況下でそう振舞っていたに過ぎず、別の状況下に置かれた人々が同じ条件下にいなかった限り、往々にして全く同じ良識を採用できるとはいいがたいからだ。
そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
ここでは過程を省き、動機と結果だけに事を絞り、さらに場合わけすると、次の様になる。
便宜的に善い動機を利他、悪い動機を利己とし、結果について善い結果を公益と私益、悪い結果を公害と私害に分類すると
動機→結果(道徳的行為名)
1.利他→公益(慈善行為。以下、行為を〃とする)
2.利他→私益(積善〃)
3.利己→公益(国富論的〃、功利〃)
4.利己→私益(営利〃)
5.利他→私害(どじ〃)
6.利他→公害(悲劇〃)
7.利己→公害(悪徳〃)
8.利己→私害(自業自得〃、自爆〃)
これらへ過程のよしあしを加えるとさらに複数に場合わけできる。
これら道徳判断としての人物の行為分析と、純粋な史書とは全く別の議題でなければならない。物語や小説といった虚構の類はこの人物の行為解釈を行ってはいるが、筆者の嘘や好悪の偏った主観を入れ込んでいる点でなんら精確ではない。裏を返せば、或る人物の行為分析を行うにあたって、道徳判断の正確性を期するには一切の虚構を排さねばならない。そしてこの道徳的人物評を行いうるのは、単なる事実に立脚した伝記でなければならず、史書全体の中でいえば特に人物伝の類でなければならない。かくて伝記と物語・小説などの虚構は違う。
紀伝体(人が主体)、編年体(時が主体)、紀事本末体(事が主体)など史の三体を省みると、ここでいう人の行為分析は、特に紀伝体での伝記中に生かされうる。但し、動機についても史家が勝手に推し量ってはならず、当人の言説など外形に現れた事実のみを記述するに留めなければならない。
また脱構築を考えると、そもそも或る人物の外形に現れた言動をとっても、当人の意思をそのまま意味しているとは必ずしもいえないので、動機自体は本質的に当人にしか伺い知れないものである。且つその当人さえ、無意識や意識の多角性を含めると動機をはっきり認識できていないか、不確定なこともある。したがって我々は歴史中の人物評について、動機を安易に断定はできないし、仮に論じられるとしても外形に表れた何らかの証拠に基づく事実の考察か、それに基づく主観的推論に留まる。後者については主観なら史家の思想が乗り移ってしまうので、史学的価値はないに等しい。単なる虚構というべきだろう。
他方、史書とは別に、或る人物の政治道徳を理解するには次の要素が考慮できる。
先ず或る人物が置かれていた時代なり地域、集団、思想条件、或いは個性で良識は異なっているので、別の時代・地域の常識や当時の法に照らし遡及処罰的または再評価的に裁断するのはその良識自体を問う態度としては多かれ少なかれ間違っている。なぜならその人は遺伝子含む肉体、環境、文化素(ミーム)いずれの点でも置かれた状況下でそう振舞っていたに過ぎず、別の状況下に置かれた人々が同じ条件下にいなかった限り、往々にして全く同じ良識を採用できるとはいいがたいからだ。
そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
ここでは過程を省き、動機と結果だけに事を絞り、さらに場合わけすると、次の様になる。
便宜的に善い動機を利他、悪い動機を利己とし、結果について善い結果を公益と私益、悪い結果を公害と私害に分類すると
動機→結果(道徳的行為名)
1.利他→公益(慈善行為。以下、行為を〃とする)
2.利他→私益(積善〃)
3.利己→公益(国富論的〃、功利〃)
4.利己→私益(営利〃)
5.利他→私害(どじ〃)
6.利他→公害(悲劇〃)
7.利己→公害(悪徳〃)
8.利己→私害(自業自得〃、自爆〃)
これらへ過程のよしあしを加えるとさらに複数に場合わけできる。
これら道徳判断としての人物の行為分析と、純粋な史書とは全く別の議題でなければならない。物語や小説といった虚構の類はこの人物の行為解釈を行ってはいるが、筆者の嘘や好悪の偏った主観を入れ込んでいる点でなんら精確ではない。裏を返せば、或る人物の行為分析を行うにあたって、道徳判断の正確性を期するには一切の虚構を排さねばならない。そしてこの道徳的人物評を行いうるのは、単なる事実に立脚した伝記でなければならず、史書全体の中でいえば特に人物伝の類でなければならない。かくて伝記と物語・小説などの虚構は違う。
紀伝体(人が主体)、編年体(時が主体)、紀事本末体(事が主体)など史の三体を省みると、ここでいう人の行為分析は、特に紀伝体での伝記中に生かされうる。但し、動機についても史家が勝手に推し量ってはならず、当人の言説など外形に現れた事実のみを記述するに留めなければならない。
また脱構築を考えると、そもそも或る人物の外形に現れた言動をとっても、当人の意思をそのまま意味しているとは必ずしもいえないので、動機自体は本質的に当人にしか伺い知れないものである。且つその当人さえ、無意識や意識の多角性を含めると動機をはっきり認識できていないか、不確定なこともある。したがって我々は歴史中の人物評について、動機を安易に断定はできないし、仮に論じられるとしても外形に表れた何らかの証拠に基づく事実の考察か、それに基づく主観的推論に留まる。後者については主観なら史家の思想が乗り移ってしまうので、史学的価値はないに等しい。単なる虚構というべきだろう。
評価経済とは実のない売名性に過ぎない
段々分かってきたが、テレビ・ネット芸人の本質にある下衆さは、一般民衆を愚民視する一種のセレブ俗物根性なのだ。それは有名さを価値とみて中身は問わず、寧ろ学閥・血統・門地差別などメディア売名価値に応じて人を選別するある種の都内社交界の流儀で、一言でいえば堕落した連中の行き着く墓場だ。その種の名士俗物根性、有名スノビズムの頂点が天皇による春と秋の園遊会で、次点が現時点でこれらの劣化コピーである安倍晋三の桜を見る会である。都内マスメディアはテレビにせよネットにせよ、これら以下の売名人らを集めて全国民をわけなく見下す。VALUに代表される評価経済とは、大量売名力だったのだ。
津田・東両氏が不自由展で大炎上したのは、根底には彼らの名声欲が実力をはるかに超えてしまった構造的必然性がある。あいちトリエンナーレ2019のコンセプトが発表された頃に最初の小炎上がきていたが、あの時点で津田氏を力不足と評しコロスリスト入りされていたろう人達は客観的正鵠を射ていたのだ。
分限(ディケー)道徳、「汝自身を知れ」。望まず得られた名声しか実態を伴っていない。
津田・東両氏が不自由展で大炎上したのは、根底には彼らの名声欲が実力をはるかに超えてしまった構造的必然性がある。あいちトリエンナーレ2019のコンセプトが発表された頃に最初の小炎上がきていたが、あの時点で津田氏を力不足と評しコロスリスト入りされていたろう人達は客観的正鵠を射ていたのだ。
分限(ディケー)道徳、「汝自身を知れ」。望まず得られた名声しか実態を伴っていない。
資本奴隷制へ順応する成金政商と衆愚
サブカル地獄、同人誌地獄の東京下衆社会だの京アニ界隈だのが外国なら心から軽蔑できたのに。つまり彼らの存在は私から徹底的に愛国心を殺ぎ取る役割だ。恐らくここには重要な点が大いにあり、もう愛国心とはほぼ完全な悪徳に等しいのだ。そこに入り込んでくる衆愚は仲間にできない賎民でしかない。
私は社民主義を一時期、ノルウェーの友人を通じ、自由主義やら資本主義やらより優れた社会思想だと感じていた。しかし現実にこれを日本人衆愚に伝えるのは不可能だった。余りに愚昧すぎる国民に利他性など理解できよう筈もない。彼らは国家社会主義自民党を支持しつつ社民主義との違いは理解できない。日本人衆愚はGHQや皇室、自民党員からの洗脳で社会主義、共産主義、国家社会主義、フェビアン協会以後の社民主義・民社主義等を全然見分けられない。大学教授一般も米英の自由主義的経済学、民衆政治的政治学へイデオロギーが極端に偏っている。彼らは現代中国から学ばず興隆も予知できなかった。
自由至上主義が国家を解体なり無効化するのは確かだろう。社民主義、共産主義などの共同体思想が成立しない国々は全体の利害より個人のそれが優越している。そして資本権力を背景に、堕落した少数支配の金権政治が行われる。富者寡頭政なり富者独裁政が自由至上主義者の行き着く果てだ。日本国内、特に東京圏の成金や自称メディア文化人らはほぼ、思想内容は自由至上主義に等しい。彼らは表面的に自民党とそれ以外の支持者に分かれているが、経済に関しては自分の利害損得で動くエゴイストだからだ。右派・左派の分類は便宜的なもので、彼ら東京成金は利権に有利な方に着いているだけだ。つまり彼らは己の金儲けに有利な方法で動く、単なるエゴイストに過ぎず、国家権力云々は実際には政治道徳の埒外なのだ。これは自民党員にしても皇族にしても質や程度の差こそあれ本質が同じなので、日本国なる利益共同体は寡頭支配者の拝金主義的な金権政治に陥っているといえるであろう。
東京圏外の成金も、パナマ文書でわかるよう程度こそあれ似たり寄ったりなので、根本的に日本国政府は多数派の貧民、彼らは同時に東京だの京都だのから商売で流される俗悪で幼稚なサブカルに夢中になっている類の無教養な衆愚だが、それら中下流を搾取することにしか関心がなくなっている。
私が憎悪し、嫌悪し、忌避し、呆れているのはそれら衆愚なのだが、別の軽蔑の念を東京成金だの自民党員だの皇族にも感じる。なぜなら衆愚も金権政治家も生活様式こそ違うが目指しているのは醜悪な国、資本奴隷制への順応だからだ。人間の物質化。だから私は日本国に何の共感も覚えない。何一つとして。
私は社民主義を一時期、ノルウェーの友人を通じ、自由主義やら資本主義やらより優れた社会思想だと感じていた。しかし現実にこれを日本人衆愚に伝えるのは不可能だった。余りに愚昧すぎる国民に利他性など理解できよう筈もない。彼らは国家社会主義自民党を支持しつつ社民主義との違いは理解できない。日本人衆愚はGHQや皇室、自民党員からの洗脳で社会主義、共産主義、国家社会主義、フェビアン協会以後の社民主義・民社主義等を全然見分けられない。大学教授一般も米英の自由主義的経済学、民衆政治的政治学へイデオロギーが極端に偏っている。彼らは現代中国から学ばず興隆も予知できなかった。
自由至上主義が国家を解体なり無効化するのは確かだろう。社民主義、共産主義などの共同体思想が成立しない国々は全体の利害より個人のそれが優越している。そして資本権力を背景に、堕落した少数支配の金権政治が行われる。富者寡頭政なり富者独裁政が自由至上主義者の行き着く果てだ。日本国内、特に東京圏の成金や自称メディア文化人らはほぼ、思想内容は自由至上主義に等しい。彼らは表面的に自民党とそれ以外の支持者に分かれているが、経済に関しては自分の利害損得で動くエゴイストだからだ。右派・左派の分類は便宜的なもので、彼ら東京成金は利権に有利な方に着いているだけだ。つまり彼らは己の金儲けに有利な方法で動く、単なるエゴイストに過ぎず、国家権力云々は実際には政治道徳の埒外なのだ。これは自民党員にしても皇族にしても質や程度の差こそあれ本質が同じなので、日本国なる利益共同体は寡頭支配者の拝金主義的な金権政治に陥っているといえるであろう。
東京圏外の成金も、パナマ文書でわかるよう程度こそあれ似たり寄ったりなので、根本的に日本国政府は多数派の貧民、彼らは同時に東京だの京都だのから商売で流される俗悪で幼稚なサブカルに夢中になっている類の無教養な衆愚だが、それら中下流を搾取することにしか関心がなくなっている。
私が憎悪し、嫌悪し、忌避し、呆れているのはそれら衆愚なのだが、別の軽蔑の念を東京成金だの自民党員だの皇族にも感じる。なぜなら衆愚も金権政治家も生活様式こそ違うが目指しているのは醜悪な国、資本奴隷制への順応だからだ。人間の物質化。だから私は日本国に何の共感も覚えない。何一つとして。
2019年8月11日
東京中二病棟
同一化防衛機制コミケかな
中二病サブカルキャラに同一化
病みすぎて現実逃避でコスプレす
東京民コスプレ淫行頒布罪
偶像になりきり自己を否定する
東京で中二病棟コミケかな
クールジャパン自称しながら同一化
中二病サブカルキャラに同一化
病みすぎて現実逃避でコスプレす
東京民コスプレ淫行頒布罪
偶像になりきり自己を否定する
東京で中二病棟コミケかな
クールジャパン自称しながら同一化
東京都によるオープンウォータースイミング会場の不備
東京五輪・パラのオープンウォータースイミング会場は、千葉か茨城の太平洋側海岸へ、現状の東京湾から移動させるべきである。このまま東京都庁の恣意で実行すれば競技選手らが大腸菌などなんらかの細菌等で体を壊すか、行政や実行委員会が選手や各国からの訴訟リスクを抱え、致命的な結果になる可能性が高いからだ。
東京・京都サブカル地獄
死ぬほどつまらない幼稚すぎるアニメだの三流俗悪マンガだの性奴隷エロゲにわんさか東京・京都界隈の下衆と文化庁、政府がたかって金儲けする最悪級に品性下劣な島国に誇りを持て、さもなければ出て行けと言いつつ繁殖しまくる醜い猿どもをなんと呼べばいいのだろう? それは自分の同類といえるのか。
特産物の話をする無粋な外人
ある国なり地域の人と初めて、或いは改めて接するとき、先ず現地で観光客なり外客に有名な特産物の食べ物の話を殊にする者は、基本的に内国・地元の人からは最低級の愚劣そのものにみえる。実際、現地の文化を何も知らないのが分かってしまうし、そもそも興味もないと却って嫌味にしか聞こえないのだ。
夏日夕立
君しらぬこの世は闇夜唯一つ光る明りを追い駆けている
世の富を幾ら集め尽くしても君へ捧げるかなしさの果
既になき影も形もわが心埋め尽くしける夏日夕立
虫たちの歌う夜更けに幽かなる潮の香届きわれは息つく
散りゆくもいとしき姿目に浮かぶ百合の華咲く季節巡りて
わが書斎網戸に顔を近づける紫陽花の影おちている初夏
世の富を幾ら集め尽くしても君へ捧げるかなしさの果
既になき影も形もわが心埋め尽くしける夏日夕立
虫たちの歌う夜更けに幽かなる潮の香届きわれは息つく
散りゆくもいとしき姿目に浮かぶ百合の華咲く季節巡りて
わが書斎網戸に顔を近づける紫陽花の影おちている初夏
サブカル偶像崇拝者
俗悪極まりない偶像崇拝者どもがアニメだかマンガだかゲームだかの幼稚な人形に夢中になり、日々この世にありもしない幻想に耽ってありとあらゆる悪徳、悪趣味の限りをばらまくのを眺めていると、連中がどれほど不幸な目にあっても自業自得だと完璧に分かる。
ヒトは絶滅し私の子孫が残る
日本人と名乗っている自らの生まれた列島に住まっている連中の品性下劣振り、下賎振り、愚昧振りにはもはや何一つ驚かないまで諦めきっているのだが、猶もやつらの日々の退廃的言動を眺めているともはや博愛だの慈悲だのと呼ばれている虚妄が完全に嘘なのだと、自己欺瞞だとよくわかる。
相手が猿ならまだ納得できたものの、人類と自称し常々自分に悪意ある言動をとってくる邪悪な科に属するのは受け入れがたく、一刻でも早く自ら高貴な進化した存在と自己定義し、この邪悪な島国を去らねばならない。だがヒトの絶滅後にしか安住地が見当たらないとすれば。
少なくとも私がヒトでないのは明らかだ。特に日本人と称している似た言語を話す連中の愚劣さは全く自分と同科の生命体とは思えない。恐らく私の遺伝子そのものが変異したのだろう。私の子孫は、必ずやヒトより進化した種として生存域を広めていくと思う。私が子孫を残したとすればだが。
嘗てチンパンジーなり類人猿の一員だった中でも、自分の先祖となる種はやはり今の私と同じく完全に、周囲にいるのが仲間ではないと感じていた筈だ。私も全く同じで生まれてから一度たりとも似た言葉を話す猿の様な連中が、心から仲間だと思えた試しがない。みな何かの下等生物にしか見えないのである。
私の推論が正しければ、ヒトより進化した種なり科として、私の子孫が未来に生存しているだろうから、その子孫がこの文章をなんらかの仕方で解読したら納得してくれる筈だ。そんなことがあればだが。未来の世界の教訓として、遺伝子が進化した時点では既に意識の面でも、過去の種ではなかったのだ。
相手が猿ならまだ納得できたものの、人類と自称し常々自分に悪意ある言動をとってくる邪悪な科に属するのは受け入れがたく、一刻でも早く自ら高貴な進化した存在と自己定義し、この邪悪な島国を去らねばならない。だがヒトの絶滅後にしか安住地が見当たらないとすれば。
少なくとも私がヒトでないのは明らかだ。特に日本人と称している似た言語を話す連中の愚劣さは全く自分と同科の生命体とは思えない。恐らく私の遺伝子そのものが変異したのだろう。私の子孫は、必ずやヒトより進化した種として生存域を広めていくと思う。私が子孫を残したとすればだが。
嘗てチンパンジーなり類人猿の一員だった中でも、自分の先祖となる種はやはり今の私と同じく完全に、周囲にいるのが仲間ではないと感じていた筈だ。私も全く同じで生まれてから一度たりとも似た言葉を話す猿の様な連中が、心から仲間だと思えた試しがない。みな何かの下等生物にしか見えないのである。
私の推論が正しければ、ヒトより進化した種なり科として、私の子孫が未来に生存しているだろうから、その子孫がこの文章をなんらかの仕方で解読したら納得してくれる筈だ。そんなことがあればだが。未来の世界の教訓として、遺伝子が進化した時点では既に意識の面でも、過去の種ではなかったのだ。
外道と仲間になる勿れ
現世利益を得て威張っているごみども。
三流芸術家の分際で驕り高ぶり上位者気取りの下種。
何れにせよ俗物共に一切関わらないに越したことはない。連中の脳内にあるのは金だの名誉だの虚栄心だのどれも無意味なもので、それどころか他人を道具と思って利用しあっているだけで獣類と変わらない。
無教養な三流大衆サブカルに大金を貢ぐ一方で、少しでも上品な内容だと完全に無視するどころかアートじゃない、とほざく下衆の魂はそもそもなぜあるのか疑問だ。何度輪廻しても品性下劣で愚昧なままなら、なぜ彼らはこの世に存在するのか。世の悪例が多すぎる。
蓄財しか能がない外道は、そもそも恨まれる為に生きている。資本主義の根本原理は恨み。他人を貪り、貶める目的で人は金を貪る。羨望され、嫉妬させ、他人を苦痛がらせる悪意の連中が成金になり、皇族になる。だからその種の外道に一切近づかないに限る。
三流芸術家の分際で驕り高ぶり上位者気取りの下種。
何れにせよ俗物共に一切関わらないに越したことはない。連中の脳内にあるのは金だの名誉だの虚栄心だのどれも無意味なもので、それどころか他人を道具と思って利用しあっているだけで獣類と変わらない。
無教養な三流大衆サブカルに大金を貢ぐ一方で、少しでも上品な内容だと完全に無視するどころかアートじゃない、とほざく下衆の魂はそもそもなぜあるのか疑問だ。何度輪廻しても品性下劣で愚昧なままなら、なぜ彼らはこの世に存在するのか。世の悪例が多すぎる。
蓄財しか能がない外道は、そもそも恨まれる為に生きている。資本主義の根本原理は恨み。他人を貪り、貶める目的で人は金を貪る。羨望され、嫉妬させ、他人を苦痛がらせる悪意の連中が成金になり、皇族になる。だからその種の外道に一切近づかないに限る。
The capitalistic decay
Why are you still lonely
Here is me as like the God
If you are still banned
There is no meaning the work
So you are still free like the God
All money will be vanish eternal
As is often the case with the civilization
You are still a lonely human
The capitalistic decay
Here is me as like the God
If you are still banned
There is no meaning the work
So you are still free like the God
All money will be vanish eternal
As is often the case with the civilization
You are still a lonely human
The capitalistic decay
2019年8月10日
東京サブカル唯一の存在意義は俗悪な表現可能性
ツイッター民の「表現の不自由展その後」大炎上事件の色々な批評をみてて、津田大介氏の変態性欲の類をなじるのはよくないな。それは性的少数者への辱めに過ぎないし、その論理でいくとサブカルの最深部というべき同人誌界隈はほぼ全部自滅する。
寧ろ今日のサブカル唯一の存在意義って下劣な性欲も表現している俗悪な面でしかないだろう。
江戸時代の春画も、今日の東京文化内の同人誌も、性表現の限界に素で挑戦しているという点で、ロウブロウの極みとして一つの極北にある。この点でハイアートとは全く異質な世界ではあるが、私は同人誌の存在意義が歴史的にあるのは確かと思っている。中身の全てを肯定するわけではないが性愛の表現だ。
確かに津田氏の発言が、某女史へのセクハラにあたると解釈できるのは事実にせよ、それは彼らの私的な係争なのであって、単に変態性欲とみなされる性的少数者を叩くという擬似モラリストの観点は、人権面の問題がある気がする。
特に京アニファンが東浩紀氏の「京アニ作品に暴力表現が殆ど出てこない」発言へ、最近の作品を見てないのは明らかと正論で叩くのと同時に、津田氏へ変態性欲野郎といって攻撃してたりするのをみたのだが、それならアニメファンなんて同人誌を自浄してこなかったのは人倫面でどうなのだとなってしまうだろう。
またアダルトビデオなど明らかに猥褻物頒布罪に該当しているだろう映像作品も、今日の東京圏では警察(警視庁)と業者の癒着関係のもと広範に流布されている。これも、津田氏の性的少数さを叩きつつ二重基準で叩いていないのはなぜだとなる。東京文化圏のネロナムブル(自浪他浮。恋愛について「自分のなら浪漫、他人のなら浮気」の頭略語で韓国の若者俗語)ぶりを示している。
寧ろ今日のサブカル唯一の存在意義って下劣な性欲も表現している俗悪な面でしかないだろう。
江戸時代の春画も、今日の東京文化内の同人誌も、性表現の限界に素で挑戦しているという点で、ロウブロウの極みとして一つの極北にある。この点でハイアートとは全く異質な世界ではあるが、私は同人誌の存在意義が歴史的にあるのは確かと思っている。中身の全てを肯定するわけではないが性愛の表現だ。
確かに津田氏の発言が、某女史へのセクハラにあたると解釈できるのは事実にせよ、それは彼らの私的な係争なのであって、単に変態性欲とみなされる性的少数者を叩くという擬似モラリストの観点は、人権面の問題がある気がする。
特に京アニファンが東浩紀氏の「京アニ作品に暴力表現が殆ど出てこない」発言へ、最近の作品を見てないのは明らかと正論で叩くのと同時に、津田氏へ変態性欲野郎といって攻撃してたりするのをみたのだが、それならアニメファンなんて同人誌を自浄してこなかったのは人倫面でどうなのだとなってしまうだろう。
またアダルトビデオなど明らかに猥褻物頒布罪に該当しているだろう映像作品も、今日の東京圏では警察(警視庁)と業者の癒着関係のもと広範に流布されている。これも、津田氏の性的少数さを叩きつつ二重基準で叩いていないのはなぜだとなる。東京文化圏のネロナムブル(自浪他浮。恋愛について「自分のなら浪漫、他人のなら浮気」の頭略語で韓国の若者俗語)ぶりを示している。