卑しい人の考え方や感じ方を全て知るのは実質的に不可能だ。私は長い間それを何とか知るように努めたが、殆どわからずじまいだった。とかく相手が卑しい振る舞いをしているということだけはわかるにせよ、なぜそんな愚劣な振る舞いをしているか、品性が同等程度でない他人には理解できないのである。だから相手の品行で卑しいと気づいたら基本的に直接は理解できないと諦めた方が話が早い。極めて長い時間を費やし、相手の愚劣さや悪業の理解を試みても結局無駄になるからだ。そして相手の心理を部分的に解読するにも敢えて品性が同等程度の相手を探し、その人に尋ねた方が遥かに合理的に推測できる。
賢さや徳性、合理性は学び易く、愚かさや卑しさ、不合理性は学び辛い。後者は学ぶ価値がないとみなされがちだが、実際、非体系的な上に意味がないので諸エラーの型はあまり収集されない。そのエラーの一定部分は犯罪とみなされ定型化されているが、そうでない部分は前者と見分けがつかないこともある。
福沢諭吉は海千山千と同じ文脈で、卑しさについても知るべきだと述べていたが、これは彼自身が適塾その他での経験中で卑しい知り合いを多くもっていた、もしくは彼自身が卑しい面を多くもっていただけで、現実的論理ではない。孔子が小人は下達す、といった方がより現実に近い脳の構造だ。有限の人生で我々は一定の志向性をもつ脳を作る。この興味の束は、脳の外部情報に対する既知の詳しさになる。卑しさは社会行動の規則に関する体系だっていない束であり、尊さはこの逆である。人徳を見分けられない人は尊さに詳しくない。故に人を見る目がないひとは人格が低劣な者にも平気で親しむ。