2019年8月13日

日本はアジアとの相互作用の中で存在する東端の一部

この歴史教科書を巡る高橋・有本論争茂木健一郎氏も絡んでた。内容は、共同歴史教科書案をだした高橋源一郎氏に、有本香氏が「アジアは統合不可、アジア多様性を真っ向から否定する古いサヨク思想を脱するところから日本は教育し直さなければならない」とするもの)の本質にある議題は、大まかに脱亜論vs興亜論、細かくは民族主義vs汎アジア主義vs全球主義vs日米同盟主義、等の思想的摩擦なんだろうけど、結論からいうと、既に世界はASEAN、香港、台湾、中韓印などの跳躍で脱亜へ退行など不能。
 元ツイートは東亜共同歴史教科書論で、多様性にかこつけた汎アジア主義の否定へすりかえるのはただの詭弁だ。そもそも日本は弥生人を受け入れた時点から全アジアやシルクロード圏から諸々の文化的影響の末端になってきた。明治から敗戦まで77年間、一部にあった擬似脱亜論(実質興亜論)は極めて例外。

 天心がいう「アジア文明の博物館」視できるのがシルクロード右端で全アジアミームが流れ着く日本列島。法隆寺のエンタシスが古代ギリシアのそれと相似にみえたり、ペルシア人の李密翳が実際奈良時代に来日してたりする(『続日本紀』)のも、ユーラシア大陸が左端の西洋と右端の日本を繋いでいた一証。
 共同歴史教科書なんて歴史は科学な以上、遠からずどこでも客観的に一致する知識だけになるのだから当然共有されていくだけの話だ。そこに日本・世界史の展開も知らず汎アジア主義否定の為、三流イギリス人みたいな意味不明の脱亜論で受け狙うのはなぜなのか。英米も外来文化ミームばっかなのだが。仏教や儒教、いやそれどころか天皇とかいう中国神話上の神の名(三皇の一)を背乗りした中華皇帝の猿真似なしの日本史なんて今のところ考えられないのだから、アジアのどの文化だって相互作用の中で多様性を保ってるに決まっている。恐らく有本氏は無意識に、韓国みたいな民族純化思想に陥っている。
 韓国の代表的な純化運動は漢字排斥だろう。そのせいで色々な副作用がみられるのは、そもそも東亜共通の知識言語だった漢文が一般に読めなくなるし、外来語と母語の見分けもつかなくなるし、韓国国学面で致命的な面も大きい。
 いまどき脱亜論って、経済面なら国外のアジア諸国製が部品にせよ本体にせよ欠かせない全IT機器捨てられるの? ってレベルで時代遅れすぎる。トランプの自滅をまねたいのか。一々指摘するまでもなく若者文化の不可欠の一部がKPOPだの中韓製オンラインゲームだし、有本説は生きる時代を間違えている。寧ろ中途半端に国内市場規模が自足的でない韓国とか台湾、ASEANやら、世界覇権狙えるというか当然とれる規模の中印は最初から、有本説みたいな偏狭な民族主義でグローバル経済展開にブレーキかける愚を犯しえないし、今や米英かぶれで名誉白人ぶる極東のわが国より恵まれているといっていいだろう。
 歴史が科学だという事実から目を背け、利己的偏愛で自国礼賛し他国蔑視する明治レベルの人種差別史観を平気で語ってる意図が何一つ理解できない。何しろ弥生人からして移民だし、以後もアイヌや沖縄や縄文人からみたら天皇含めほぼ外来混血者だらけなんだから、単一民族幻想に耽るなど不可能だろう。
 左翼なるものを単一的に分類し、差別的なり否定的に扱ってる時点で進歩・革新思想に拒否感を示しているのは明らかなのに、他方では明治から77年間の一部にあった非伝統思想によっている矛盾が拭えないので一々指摘するまでもない相手なのかもしれないけど、アジアとお国の将来の為に一応書いた。

 国学の伝統に照らすと、漢学洋学に対し、国学をぶつけて独自の個性を生み出してきたのが日本文明のあり方だった。もし和辻哲郎がいう季節風的なもの(外来文化を受け自文化を変えていく受動的な態度)が東亜文化の傾向なのも程あれ共通なら、有本氏は寧ろ排外的な点で砂漠地帯の考え方に近いといえる。
 アジアが多様性を含むのは確かだし、その多様さが民族的にも幅が大きいのは『文明の生態史観』で梅棹忠夫が指摘している。かといって、日本文明の伝統的なあり方が外来文化を受け入れた上での国風化なら、単に中韓朝への憎悪感情を滾らせる福沢諭吉的東亜差別の枠組みは全く虚しい愚考というべきだ。なぜなら、東欧圏、中東圏、しばしば北ユーラシアやインド圏を含む広域アジア圏の文化が日本に流れてくるのは往々にして中国や南北朝鮮を通じた経過だったのだし、それどころか寧ろDNA面でもミーム面でも、日本に類似性なり酷似性がみられるのは東亜諸国だからである。近親憎悪の意味がわからない。