2019年8月28日

なぜ日本語ツイッターで議論が成立しないか

私は今からまあまあ高度なことをいうので、多分ほぼ誰にも理解されないと思うが、何かの役に立つかもしれないので書き残す。

 先ずツイッター上で、私は議論が成り立ったことがない。この原因だけど、日本語圏の話し合いの慣行が「和」に毒されてるせいと思う。いいかえると討論の基本ができてない。

 ところで私はアメーバピグとかいう今年で潰れるSNS上で哲学部という部活を主催していた。そこは自分としてはかなり有益な場にできたし、そう感じた人もいると思う。一応、哲学的な対話ができる場所を作って、数年間維持できたから。
 で、討論の基本を実現する為そこでは3つのルールを決めていた。
1.相手の意見を尊重し
2.できるだけ冷静に
3.最後まで話を聴く
これがその3つのルールだったと思う。裏返すと、少なくとも主に日本語圏の人だけだが、相手の意見に同調し、さもなくば感情的になり、最後まで話を聴かない人ばかりだったのである。まあ英語圏の人でそういうのはいなかった。
 討論の基本は、西洋でいうソクラテスの対話術、いわゆるdialecticまで遡れると思われる。これをヘーゲルが正反合の三定立が相互に否定的な論理としてもちあげる(aufheben、止揚する)ものと定式化したといえるだろう。私の決めた3ルールはこれを日本語圏の対話で実現する最低限度の方法論だった。

 ではなぜツイッターで一般に討論なり対話術が成り立たないか。それは日本語圏の教育なり文化だと、相手の意見を否定するという、西洋言語でいう否定媒介的な働きを極度に嫌うからだ。これは根深い癖で、農村共同体で弥生時代頃から既にそうだった様でもあるし、現に17条憲法で和の規律に集約された。
 その部活内で或るイギリスの友人がいっていたが、英語は主語にIやyouなど必ず人称代名詞を文頭につける原則で、主体の違いは意見の前提になる。だから自他の意見の違いは当然と考えられているわけだが(私はこう、あなたはこうと)、日本語みたら頻繁に主語抜きで語られ主客未分が前提になっている。(なおこの主客未分なる用語は、高校倫理以上の日本思想史の知識があればたぶん御存知と思うが、西田幾多郎によって定義されていて、日本では現時点で寧ろ肯定的な意味なのである。まあ自我の未確立な不安な大衆が、愚民集団として幼稚で無批判に群れているという方が正確と思うが、西田は見方が甘い)
 哲学者と名乗る東京の某オタク批評家、最近ではもうオタク批評卒業したっぽいことをいっているみたいだけど、この人もブロック癖みたらわかる通り対話術を基本履行していない。彼がお仲間の意見が自分と違うと怒ったり敵視するのもよくみるし、ソクラテス以来の西洋哲学とは全く違う習性といえる。(細かくは、教科書的にはタレスが最初の西洋哲学者とされてるので、対話術より根源の探求してればいいじゃないかともいえるが、ここでは対話による哲学に限定していると捉えてほしい)
 で。私は科学的思考も哲学的思考も、否定媒介性(批判性、批評性)を含むものと知っているので、自分の意見と違うものを進んで求めている。寧ろそれが、通常は、ひとかけら以上の知性の証といってもいいと私は思います。アインシュタインは量子論に拒否反応示しましたが知的だったといえるでしょうか? 日本語圏ではそういう教え方はされてないから私以外誰もこれをはっきり言ってないかもしれないですが、単に否定すればいいってもんでもないのではあるが(例えば論理的には全命題に逆・裏・対偶を作れますから、詭弁になりうる)、少なくとも全面同意には、学術的には情報価値がないわけです。
 したがって、最も各科学含む哲学的に優れた意見というのは、或る意見(ここでは真偽を確定できる定立)に対し、最もその本質に否定的な意見となる。これを批判的・批評的・criticalな意見といい、西洋言語少なくとも英語では常識みたいに日常で一般人が話している。しかも知性の証で。実際そうでしょ。
 そんで、私は部活で実験した。日本語でもそういう対話はできるのか。普通にできる。但し、上に書いたルールをもちだし、相手(又は自分)がつい日本語による会話の癖で、感情的に激昂なり発狂しがちな完全に自分と違う意見、しかも自見を鋭く否定してくれている意見を、冷静に尊重させる必要がある。
 ところが、日本語ツイッターは、当然かもしれないが、そういう批判的対話術がとんとできない、「和の衆愚」が群れている。彼ら日本人全般の受けてきた教育や、文化の癖からいうと、同調が正義、否定は悪と捉えられているので、簡単にいうと知的な意見は何一ついえないんですね。嘘抜きで発狂するので。

 私の時代の義務教育だと、一応、お仕着せの討論の授業みたいなのが僅かにあり、まあ欧米のぎこちない猿真似の色彩ではあったが、或る議題に対し賛成と反対で二分し、意見をいいあわせていた時はあった気がする。これを一定時間で主客交代でやり合わないと意味ないが、そこまでやってなかった風だった。
 で。私はそういう日本語圏のあり方を相当知っているので、今年から本腰入れたツイッターの使い方を色々実験してみていたのだが、正直いうと相手の知性が高い可能性があるとみたときだけ対話術を試みていたのだけども、相手が早慶・東大卒レベルでも無理でしたね。日本の学歴はこの点では役立たないと。これも結果からいうと自然で、日本の受験勉強は先ず文科省指定の範囲クイズ式のペーパーテストに最適化させることしかやらない。なので対話術なんて全く試されていないので、また修士以上でも教授に従う一種の徒弟制なので、東大博士でもこの点で無能なら無能なんですね。当たり前ですが。

 なにがいいたいか。日本語でツイッター上で討論なり議論なりは原則として(もしくは究極的に)無理ですね。理由は上に書いた通り、対話術ができない文化癖をもつ人達なので。逆に和の衆愚として群れて同調しまくってれば安心なる典型的日本人の集まりで、集合知とみてもやはり群れが目的になっている。集合知としては少数意見の尊重が「多数意見に対し否定的側面でも」できなければ意味ないわけだけどこれも、みてたかぎりツイッター民はできない。なぜならTHE日本人なので。津田某の過激コンセプトのときも京アニ中二病放火のときも、私含め少数意見で正論吐いても完全に蹂躙され無視されてました。
 こういう訳で、総じていうと、日本語ツイッター民は衆愚に限りなく近いと私が約半年参加して悟った所であります。なので知らずに悪所に加わってしまっていて身の危険を感じているし、今年中くらいで参加しなくなるかもしれない。英語圏ツイッターは微妙に違う様にみえるから英語でやるかもしれないが。

 なぜこれを書いたかなら、最近は通知をつけてるのだけど、そして私のツイートに同意してくれている或る意見を見つけたのですが、勿論それは日本語圏の慣行的には、又はひとの心としてはとてもありがたいことなのだろうけれども、私的には最も批評的な意見がほしい。なぜなら私はもっと学びたいので。

 私が長になれる場所なら、日本語圏でも冷静な対話を場として実現もできるかもしれないが、ツイッターはフォロワー強者による引用リツイートや罵詈雑言の返信、いいね連打による多数派のいじめを頻繁にみるし、恐らく絶対に無理だと思う。できるとしたら匿名荒らしを排除可能な非公開アカウントと思う。対話する人同士で、外野からありうる衆愚的反応を無視したとしても、これも日本人のよくある習性として、或る対話者が多数派につく仕草をし少数派虐めっ子に転嫁してしまうという現象がある。言葉で説明しづらいが、まあ真剣な対話を放棄し、数の論理で多い側に混じって感情的に自己防衛を図るわけだ。
 なのでほぼ無限に公開されている場で、日本語圏ツイッターで、責任追及されない匿名偽名の捨てアカウントがいつでも参加してくる所では、対話術の文脈による批判的会話、つまり議論討論は無理だと思う。この意味で、ツイッターは日本人の知性向上に向いてないといえるだろう。そんなの参加の意味ない。
(これ書いてて分かったが、鍵アカなら哲学部と同じしくみを作れると悟ったので、「磯原義塾」を創った)