2019年8月28日

差別からなるだけ自由になるには自らのもつ印象を反証し続けるしかない

リストをみてたら、愛知県豊橋市の或る高校1年生が自分をリストに入れていたのでよく観察したのだが、まずその人が物凄く愚かそうなのを前提として、自分が書いている内容を何一つ理解していないらしく、しかも自分を差別的カテゴリーに入れていて、本当に驚いた。
 或る芸術家が「10代、20代に気に入られることをしろ。それが世界性をもつことだから」といっていた。私は余りそう思わない。私自身が子供の頃を考えても、幼稚さの余り副文化や傍流に染まっていたこともあったし、子供は所詮子供という点も明らかにある。所詮、様々な点で一般には子供は未熟なのだ。
 孔子は『論語』で「異端を攻めるは害のみ」といっていた。恐らくこれは学に於ける王道思想、本流主義なわけだが、潮流自体が変化するのを前置きに、私もこれにはある程度賛成する。私の目にはその高1が夢中になっているサブカルは、特にアニメはあってなきが如しで、江戸時代の草双紙みたいなものだ。その芸術家は人格的に優れていないばかりか、洞察力も足りていない。子供が夢中になっている物と、本当に普遍性や通時性があるものは必ずしも一致しない。国内向け大衆商売とみてもそれは変わらない。どころか普遍性や通時性と高貴さも決して同じものではない。上座部仏教と大乗仏教みたいなものだ。
 一人ではあるが、一事が万事かもしれない。ゆとり後期の子供の読解力のなさが決定的なら、もはや日本人の子供一般に向け何かを読ませること、啓蒙自体が危険かもしれない。私は大変な恐怖を感じた。誤読、誤解、悪解釈しかしてこない悪意の子供に向け何ができるというのか。関わらないのが最善だ。

 福沢諭吉はフランス啓蒙主義から学び、大乗的言説をしていたが、今日の目からみて彼の論説の一部が、朱に交われば赤くなっていなかったとは思えない。所詮、幼稚な子供向けとか悪徳にまみれた一般大衆向け生業は、内容すらその読者層に媚び売る結果になる。
 日本の子供が右傾しているのはなぜか、それは彼らの学力水準が一般に低下しているからだ。そういう人達に気に入られた所で、逆に悪徳の印にしかならない。安倍晋三を見ればよく分かる。私の見る所、現状の日本では子供に嫌われる人の方が、知徳に於いて優れているのではないだろうか?
 もう一ついえるのは今の日本語圏ツイッターは衆愚メディアに限りなく近いと感じる。特に2chねらーをしていたのとほぼ同一層(つまりは悪意ある衆愚や、荒らし)が、匿名偽名アカウントで大量発生している。悪貨が良貨を駆逐しつつある最中と思う。それは国内の子供の右傾衆愚化に伴った現象にみえる。
 無論「後生畏るべし」という観点もあるが、これは今日の日本では少数派に限っていえることと思う。

 SNSは大変危険だ。それは衆愚、特にダークトライアドやサイコパスを含む荒らしにとって恰好の生息地になっているからで、2ch風匿名犯罪の場になっているからだ。子供はそれを真に受け同調している。

 津田大介氏の大炎上をあいちトリエンナーレ2019のコンセプト発表段階から今まで逐一観察していた限り、ツイッター民はフォロワーも何一つ教祖の擁護に役立たない。単に群れたいだけで普段、信者として教祖の暴挙をリツイートやいいね連打で後押ししているのにいざ自分達まで被害者になりそうなら黙る。海外のツイッターは、大統領や首相、それなりの名士らが実名で使う、フェイスブックの短文版の様に扱われている節があるので、私の感じではだが日本語版だけが衆愚化している。そして一度衆愚化したメディアが復活した例はみたことがないので、私は日本語版ツイッターは飽くまでロム専(ツイートせず読書専用)を勧める。
 日本人一般は他国民に比べ、島国根性のいわゆる卑怯者の村民気質で、匿名を好み群れるため群れ自由を一方的に享受しながら責任回避、群れが大きければなんでもやり集団犯罪を恥じない(群れるのが目的でしばしば良い方にも群れるが)という「和」と呼ばれるいつもの行動原理を無意識にとる。ツイッター上でも他の場面での日本人全般と同じく、この和の暗面は甚だ発揮されており、正論が少数派な時点で完全に無意味に踏み躙る。例えば私が津田氏にあいちトリエンナーレ2019コンセプトは美術業界の慣行からいうと過激ですよと正論伝えたらフォロワーの匿名衆愚に集団虐待された。結果をみろと。
 私は今の時点で子供じゃなかったので想像するしかないが、右傾化した衆愚的な同年代の中で、ありとあらゆる悪意(当人らの中では和の正義)に囲まれて生きている、少数派の賢い子供は、多分相当人生に絶望していて自殺願望すら抱いていると予想される。ソドムにぶちこまれたロトの様に。

 私の予想では、東京がいかに退廃しているか、満員電車地獄から物価地価高騰、ホームレスの溢れ方、性売買の蔓延、そして原発依存や利権と暗愚さにまみれた都政まで、その文化を正直に語る私に対し商売目的で美化している某アニメーターみたいな人を子供が「都合の良い嘘つき」と礼賛しているのだろう。その高1は愛知県豊橋市という中小都市に住むサブカルファンだ。即ちサブカルは大衆商品としてほぼ都内発なので東京を美化してある。私はそのサブカルの偽善、東京人の嘘を都心暮らしで見抜き世の真相を伝えている。その高1からすると、東京への盲目な憧れを否定されるので不都合なのかもしれない。例えば某氏はブログのタイトルにもしていたフレーズ「まだ東京で消耗してるの?」で、私よりもっと炎上商法に近い啓蒙をしていたともいえる。所が私は啓蒙主義を疑っているので(愚者や悪人など変えられないだろう)、単に私が経験した正直な東京観を特に誰を煽ることもなく、静かに語っているだけだ。
 即ちこういうことだ。私は当然ながら全世界からあらゆる差別がなくなればいいと信じているが、同時に、人の脳に認知分類を単純化する癖がある限り、程あれそれをしてしまう人は常に残っているだろうとも思う。だから私個人に限って、全差別を抜け出そうと全知に向かう反証の経過を辿るつもりでいる。ところがその高1は、「東京ひいき」という逆差別を当人が差別観の一種としてもっているのに無自覚で、都内の暗面を現実にみてきている私の言説を、アニメの様な東京中華思想の嘘を含んでいないので認知的不協和をもたらすものとみているのだろう。私に推測できるのはこれが私の差別された原因と思う。
 私は東京が理想郷だと思わされていた。それは小沢健二みたいな歌手が都内を美化して歌っていたからだし、はっきりいうと都内マスメディアの洗脳に影響されていたからだ。同じことは古典文学や教科書で京都が美化されていたのにもあたる。パリ症候群ならぬ東京症候群、京都症候群を私は経験した。
 今日、このメディアによる洗脳は、子供に向けサブカルによって行われている。京アニがいかに宇治近辺の京都の町を美化していることか。新海誠がいかに新宿近辺のホームレスや売春婦に声をかける退廃したサラリーマンの雑踏、途切れない満員電車に詰め込まれる絶望した顔を無視していることか。現実の京都人は少年刑法犯(要はヤンキー)も、都内メディアの悪意で間違ったレッテルを着せられるわが県より現実にずっと多ければいじめ発生率も長年最下位(つまり一番いじめが起きやすい)、どころか中世以来の風儀で根深い差別がいまだに残っている。しかもイケズ文化で性悪が平気で生きている。
 地域に関してのメディアや疑似含む統計学のレッテルだのイメージなど、これほど誤り易いものなのに、大衆商売が俗受け狙って一般の差別をさらに強化する情報ばかり流し、反証を怠るのは甚だ愚かしい。だがその高1も、要は自分が差別主義者なのに気づかないほど洗脳されきっているので救いがない。

 ツイッター民全体が、その高1とどう違うというのか。ほぼ似た様な、都合がいい嘘を求めている愚民愚官愚皇ではないか。私は彼らと親しみたくもないし親しむつもりもない。私は真理を探し、徳に倣い、良心に従う。無知無学、それどころか悪意の子供に俗受けしたさに媚びを売るとはどういうことか。まあその芸術家某も、第三者として客観的にみて、正直いって歯牙にかけるまでもない雑魚なのだが、その人物がいっている子供の中でも最も低俗な部類に受ければ金が儲かる式の謬説は、非科学的、不道徳的な差別・逆差別(ひいき)の礼賛を大衆迎合目的にやるくらい稚拙なものなので相手にすら足らない。
 一体、どの時代の子供もやがて老人になって死ぬわけだし、下品は下品、子供であれ大人であれ愚者も悪人もいるわけだ。東京だの京都を一面的に美化するのも(その対極として田舎を蔑視するのも)唯の偏見にすぎないし、それに同調していなければ同類とみなさないなど暗愚の極みとしかいえないであろう。
 後真実なる言葉で報道業界ではじめいわれはじめていたこの都合のいい嘘を信じたがる衆愚の傾向は、彼らが認知的負荷を避け、特定の集団的差別とひいきに安住したいという一種の人間性の退行だ。そしてその高1にせよ某芸術家にせよ、その退化した人間性が犠牲にする人達(例えば私)を平気で踏み躙る。差別というレッテルを、むしろ最も差別に反対している人に貼る。その高1がやったのはこの罪だ。私が被害者だ。そしてこの罪悪の根源原因は、その高1が世にはびこる差別主義の一種であるところの東京中華思想に染まっていて、そこで差別される人々を虐げる方が反差別的だと信じて疑わぬ露悪性にある。実に醜い。愛知県豊橋市の一高校生、しかも暗愚なサブカルファンによる一方的な差別の被害などどうでもいいではないか、と人は思うかもしれないが、私はこの1人を通して演繹的に日本人全体の群れるために群れあらゆる悪業を恥も懺悔もしないその卑怯極まる心魂の醜悪さ、自堕落を透かし見ているのだ。
 愛知県民とネットを介し色々接した範囲で、唯の一人も尊敬すべき人物に出会えなかった。今回も又だ。いうまでもなく愛知に敬える人がいるに決まっている。749万人もいるのだ。是非ともそういう人物を探さねばなるまい。さもなくば私の個人経験の範囲でますます愛知が悪印象で刻まれてしまうのだから。

 私達が差別から自由になるには、自分がもっている諸々の分類に関する抽象観念の中で、とかく何らかの印象を反証し続けるしかない。進んで認知的不協和を求め、その曖昧さや違和感を楽しみ、選好しまくらなければならない。私にいえるのはこの作業こそ知的好奇心の中で、最も有用な人間研究の一種だ。