2019年8月25日

デリダ以後にありうる教育

東浩紀の使っている誤配なる概念は、デリダの散種を通俗化したもので、差延で文が根本的に正しく解釈される可能性がない、筆者すら差延の中で唯一の解釈をもちえない、とする脱構築の問題意識を欠いたまま、予期しない形で文が誰かに読まれるかもしれないという単純な意味で使われている。
 デリダは文が正しく解釈できない、どの文に対する見解も次の瞬間の意識では別の解釈ができる、とする文をとりまく解釈学上の不確定性を指摘していた以上、誤配どころか、元々、文は正しく伝達される余地が基本的にありえない。共通解釈を権威化する作為が辞書の役割だが、これも揺らぎを避けられない。
 私は或る知り合いの男がソーカル事件でポストモダン思想を全否定し、実証主義を信仰の様に語るのをみて、デリダからみたら実に某事件が冗談にしか感じられないのをその男は知らないのだろうと暗に思っていた。デリダを含む現代哲学を汲めば、いずれ科学主義も脱構築の射程に入るのが明らかなのに。

 一方、確かに国語が読めない人、相手の意図を日常言語レベルで読み違える人がいる。つまり一般的読解力の不足。デリダ哲学はこの国語が苦手な人に正当性を与え、それどころかあらゆる非定型的文にも等しい価値を与える。PISAの読解力の方は、典型解釈の類推という学校教育的なしつけに依存している。読解力を検査する試験は、文に関し唯一または特定の解釈を正解として典型的な読み方を問う。この種の不確定性、散種性を含む認知テスト結果は、出題者の典型解釈を予想する能力にすぎず、国語というより心術だ。
 だがPISA成績は他の試験成績とも正相関しているので、恐らくIQへ一般的に比例するのだろう。
 PISAの本質的問題点は、同年代の国民ごとのIQに正相関した結果が出るというだけで、読解力については確定的正解がありえないことともあわせ、IQの遺伝要素を無視できないかぎり一種の人種差別にすぎない点である。典型的な学校教育と無関係な知能についても正しく評価できない。したがって、文科省がPISAに最適化した初等・中等教育を制度化するのは、実際のところ欠陥を含む。日本は現時点で世界中を見渡した時、遺伝子としてのIQ面でかなり有利な位置に着けているが、それは賢さの一般指標でもなく(読解力は集団教育性に依存している)、科学主義の偏りも免れない。
 文科省は公教育について校外学習の裁量を認め、原則単位制とし、ゆたぼん式に不登校とみなされている子供にも再履修の学習機会を与えるべきだ。いいかえれば北欧式に年齢制限を設けず、当人が修了とするまで原則無限に留年できる様にすればいい。また国会は人事等での学歴差別を法律で禁じるべきだ。それと同時に、成績が良い子供については必ず飛び級可能にし、当人のIQに応じた教育を受けられる公教育に変えるべきである。進度が速い人をそうでない人と同じクラスで教えるのは完全に間違いだ。塾は個別指導に近く、出来に応じて異なるクラスで授業を受けられる。進度が遅い人もそうあるべきなのだ。
 いじめ発生には固定クラス、固定メンバーが相当関係している。閉鎖的集団で成員の同質性が高いと、違和する個人を排除しようとするからだ。単位制は学校やクラスを自由に変えられる利点があり、成員の流動性を高めるので大学以後はいじめが起きづらい。米国風のロッカールームの様な個人設備も不要だ。学校に合わないか、近くに学校が少数しかなくどこも合わない、または通える範囲では選択肢がない人のため、文科省は初等・中等用の通信制教育環境もきちんと整えるべきである。放送大学の附属学校でいいとおもうが、国立民営の通信制小中高校を少なくとも全国民向けに1つ以上作る必要がある。

 散種・差延を考慮した読解力テストは、解釈を1つに定めるものではなく(例えば筆者の意図を問うみたいな筆者自身も差延する問答は唯一の正解がない)、三学に基づく論理学(ド・モルガンの定理みたいな)、文法(指示代名詞の種類とか)、修辞(倒置法か逆説かを問う様な)正誤の問いであるべきだ。