2019年8月30日

推定無知の原則について

差別する人は「一般的知性 general intelligence」が低いという時の一般的知性とは何か? 多重知能説によればその種の一般化を脳に適用できないと思うのだが。IQについても同じでそもそもこれは特定の論理的働き、特に学園的な思考と一定の相関がある知性のごく一部を年齢比にしたものでしかない。したがって高い年齢の人の特定の論理的機能は、子供のそれより一般に働きが良いことが前提になっているのだから、IQを一般知性と呼ぶのは巨視的には年齢順で均した秩序にしかならない。即ち、IQを一般知性と仮定すれば、老人ほど差別し辛いといえてしまうのだが現実にそうなっているだろうか?
 もしその種の事実が、相当信頼性の高い母数で確認されたとすれば、単に差別し易さとは精神年齢の低さといいかえた方が精確になるだろう。ただこれについても疑義がつく。なぜなら常識とは偏見の塊とすれば特定の時代や文化ミーム圏、或いは思考様式の型では、制約の様に特有の偏りがつきものだからだ。例えば精神年齢が幾ら高い人々だったとしても、奴隷制だった古代ギリシアの中で、奴隷視されていた賎民を差別せずに済んでいた人がどれだけいるかといえば、自分はその記録を知らない。当時最高の精神年齢だったと想定されるアリストテレス程であっても奴隷差別を当然視していたと著書でわかる。
 似た様なことは逆に社会的証明を通じた知性の一般化による逆差別、贔屓(ひいき)にもあてはまる。即ち一般人だけでなく何らかの分野で専門家とみなされる程度の頭脳ですら、他分野の一般知性を推し量るのは難しいので、学位、学歴など外部化されている属性でそうしがちである。無論精確でないのだが。

 個別の事例をみるかぎり顕著な科学的業績をもつ専門家が、人種差別主義の主張をしたりしている。即ち差別的観念は、任意の特定分野で優とみなされる知性の質とも、殊更関係がないのである。いわば差別的観念はそれ自体で存在し、一般知性なるものは定義できず、精神年齢とも差別の内容は関係がない。

 上記のことから、右翼的思考、保守的思考は認知分類の単純化による差別し易さであり、しかもそれは一般知性(定義不能)の低さに関係がある、とするゴードン・ホドソン論文は多分に誤りを含んでいる可能性がある。皮肉なことにこれ自体が差別的観念や多重知能を過度に一般化してある一つの差別なのだ。一般の教科書に必須になるくらい優れた或る化学者が、人種ごとのIQデータなるものを参考に、差別的観念をもつに至るという筋書きは当然ありうる話で、この老人が複数の博士号の持ち主であるばかりか教育歴でも受賞歴でも比類のない典型的優越性を引っさげていたとしても、やはり誤りを犯すのである。
 裏を返せば、反差別的思考はそれ自体で程あれ孤立した系であり、特有の反証を伴った思考過程を経なければ、或る潮流から抜け出すのは困難と思われる。例えば科挙や受験戦争の時代に偏差値教育を知性の一般化として役所や企業が公然と人事差別に用いていた(或いは現に用いている)のはその一例である。

 もう少し根本的に考えると、認知分類を単純化する機能が、我々の言語機能として残っている理由は、単なる文化ミームの浮動でなくそれが進化論的に(といってもかなり近い年代での瓶首として)有利な点があった可能性がある。例えば身分制や封建制がそれにあたる。皇室や王侯は差別利権の残滓である。動物や子供に顕著だが、例えば警告色の生き物の毒で被害を受けた後で、似た色だが安全なものにも警戒する様な場合、そもそも認知分類の単純化機能は生き残り学習の重要な要素になっている。この例でいえば言語機能に限らず、動物の脳には認知分類の単純化機能が組み込まれているといってもいい。
 差別し易さのうち、少なくともその部分を構成している認知分類の単純化は、こうして或る場面では適応的なのであり、恐らく殆どの動物が学習により似た失敗を避ける過程で日頃使っている必須機能といってもいい。そしてこの単純化が人間界の人権と相反する場合に限って、我々は誤りとみなすのである。
 或る差別を延長させたがる人が「区別」といいかえそれを正当化する場面はよくみられるが、この論理は人権面からみれば詭弁にすぎないが、単なる学習とみれば一部が真実を穿っているかもしれない(全面的にではない、差別は事実に反する偏見を含むから)。差別とは根本的には科学と人権の摩擦なのだ。科学的思考は日々、区別の誤りを修正しながら認知分類をより複雑に細分化していく。一方、人権論はより主張を強め、あらゆる不利な立場に弁護の網を張る。両者は性的少数者の場合のよう巧い着地点を探り得る場合もあれば、資本主義経済(特に自己責任論)での貧富差別のよう結合に失敗することもある。
 或る寛容な思考癖を標榜する人が、右派的な差別、例えば国籍、民族、人種、皇室を上位者とする身分、中華思想による都鄙差別などをみて愚と一括するのは、その意味で過度の単純化にすぎないだろう。その様な人々は何らかの学習で或る差別を合理的とみなしているのだから、社会学的に分析すべきなのだ。
 例えば皇室の存在を当然視したり、東京や京都の文化を国内の他地域より優れているとみなしている人達は、凡そそれを自明の正義と思って確証偏見に耽っている筈である。つまり寛容な思考からみれば児戯に値する誤りでも、当人達の脳では或る学習経過で、繰り返しそれを正解と思うよう環境適応している。
 こうして差別が一般知性の低さという社会心理学的見解は、本質的に誤りを含んでいて、寧ろその種の確証偏見を学習により生み出している生育文化背景のミーム学(模倣子学、模因学)が必要なだけだ。例えば学園的差別・逆差別が学位制度なら、その種の模倣子を生み出している原因を知る必要がある。

 差別は社会適応の或る古い型で、人権論の展開に応じ徐々に批判対象になる性質をもつ。だが渦中の差別をもつ側は自明の正義と信じる環境適応中でくらしてきたのだから(しばしば利権を伴うので保身もある)、あらゆる差別を悪意の所為とみなすのは、情報の非対称性を悪用した物の見方を含んでいる。皇室は自分の家の神道信仰や政治的地位が身分制差別を自明とみなす体系(政教一致、祭政一致)なので、国民を納税奴隷化している事実を恥ずべき罪悪と悟れない条件下で産まれ、生きているともいえる。彼らを人権侵害の極悪人とみるのは簡単だが、実際には「悪意なき差別」を行っているとも解釈できる。いいかえれば、思考形態そのものを二分法で左右に分け、右派を一般化して差別し易さと同定し、その上そちら側を定義し得ない一般知性の低い側と定義するゴードン・ホドソン論文そのものが、寬容思考癖による学園的差別で過度の一般化に陥っているわけで、これ自体が模因学の対象でなければならない。
 寬容思考癖をもつ側が情報非対称性で情報量が多い側に立つ時、その不足のため(例えば厳密な人種分類が不可能など)差別とみなされる単純な誤りを犯している側の悪意を前提にするのは、主観的認知の誤りでなければ、政略的な陰謀である。この論法を寬容主義のレモン市場的冤罪、寬容な冤罪といえる。今日、日常でよくみられるのがこの種の寬容な冤罪で、例えば単なる無知にすぎない認知分類の誤りを、或る人の悪意のせいにしたてるハンロンの剃刀は、政争内でスタンドプレー目的に濫用されがちである。これを裏返した論法として、情報量の少ない側が有知側を俗物根性の冤罪にかける俗物の冤罪もある(例えば当人には自明な横文字、カタカナ外来語を使って説明した人の意味自体を取らずに、知らない側を煙に巻く目的で無教養をからかうものとみなし、論点ずらしで非難するなど)。

 こうして、はじめに述べた所に戻れば、この世に一般知性なるものは厳密になく、IQはいうまでもなく典型的教育歴もこの指標化の役に立たない限り、差別し易さは特定の思考癖でしかない。それを生み出したのは或る学習で、それ自体は潮流的でも個人的でもありうる。しかも差別はしばしば悪意を伴わない。我々の時代は、陣地取り合戦する科学と人権の摩擦で、不可抗力な認知の誤りを犯しがちである。無論、悪意による差別が実証できる人に関しては(これは内心の自由により、共謀罪と同じ文脈で基本的に成立し得ないだろう)法の制限がありうるが、実際には寬容な冤罪による政略に見える場面が一部ある。
 真の寛容さがあるなら、その種の寬容な冤罪を緻密に除外する思考が必須と私には思える。また究極では内心の自由に踏み込めないのだから、或る人が差別と解釈できる言動をとっていても、明白な外部的証拠がない限り、当人は或る無知さで自己学習的にそうしているとみなす原則の方が今日的良識と思える。この原則を推定無知の原則と定義すると、同様の原則は逆差別、ひいき側にもあてはまる。即ちゴードン・ホドソン論文の本質にあるのは、恐らく、学園的ひいきの体系に有利な確証偏見集めである。なぜならIQ含めなんらかの学園的思考はそこで固有の考え方、或る分類学習の体系を否応なく含むのだから。