2019年8月17日

徳と幸

下の世代から早く死ねと思われている人は少なくとも同時代の中で徳に欠けている。
 金は有限の資源なので貪欲さが明らかなほど金持ちの死は望ましい。
 一般大衆に親しまれている人は徳の賊に違いない。
 卑しい人と親しむ勿れ。また彼らに近づく勿れ。時に愚者が賢くなるには遺伝子自体からやり直す必要があり、説得も啓蒙も意味を為さない。
 徳に欠けた人の子孫は生まれてきてもやはり不幸なままだろう。その不幸さは下賎な親や先祖の元に生まれきたと想像すればよい。
 聖俗を見分けられないのはその人自身が単に俗悪だからである。俗人と親しんでいる限りその人がより質の高い幸福に触れることはない。
 一般公衆に徳を語るべきではない。彼らはそもそも徳を僅かなりとも理解するほど知恵がないからだし、言語知能の低さのゆえ誤解し、悪解釈し、演説者をそしるだけだろう。卑しい者と親しむべきでないのと同じく一般大衆に親しんではいけない。
 過去の聖人より優れた存在になるのは後生には必ずや可能であり、それは先人の至った徳を参照できる好条件にあるからだ。幸福さの質は聖徳に一致しているのだから、聖人以上になる道を辿らずに人生を過去の人々より優れて生きることはできない。
 大勢が欲しがる希少資源は枯渇しているのに、彼らの背後に潤沢な別の資源があり余っている。単なる商人としてだけでなく、経済に通じているのは余剰資源の恩恵に浴し、希少資源の獲得競争を気にも留めない人といえる。
 競争に勝利した印を肩書きにしている人は恨みを買う。優秀さと思われる信号が世渡りの仇となる。既往の行路だけでなく単なる進路についても、常に謙虚であるには中道を行かねばならない。
 行動を言語知能より重視する人は学習能力に欠けている場合が多く、他人の失敗に学ばず経験によって試行錯誤をくり返し、結局は大成し難い。その種の人は無意識に通俗的な陽明学や実用主義に耽りがちで、理論を苦手とする。このため使い走りにはなれてもかしらにはなれない。
 俗人の風評は何一つ役に立たないものだ。彼らの暗愚さが甚しければ、世評の真逆に美徳の全てが集まっている。
 軽蔑すべき人物と関わって安全でありうる筈もないのだから、彼らから距離をとり決して交際すべからず。
 都会を称賛し田舎を貶めている人間は例外なく品性下劣な悪趣味で、世俗のなんらかの悪徳に魅せられているだけの俗物である。当然この堕落の極点にいるのが皇族で、彼らの虚栄心は底が抜けてしまい自身では後戻りできない。俗物根性はどれも悪いものと見抜き、都塵に近寄らず、軽薄な都会人とやりとりするな。都会のくらしは苦しい。故に彼らは貪り、無限の虚勢の為だけに差別や浪費をくり返し死ぬ。都会人を改心させるより天地をひっくり返す方がはるかにたやすい。都塵を脱出するのも早ければ早い程よい。
 単に寄付していれば優れた人なのではなく、陸でもないものへ寄付している人がいる。善意で寄付していながら相手は邪教の担い手である様な時、その寄付は悪影響しかない。単なる売買でも金を払う相手が悪徳の持ち主であればGDPが不幸を増産する。だから経済価値は決して徳や幸の印ではない。
 幸福度は指標化できない。それは主観的なものを究極に含んでいるからだ。或る貧者をみて全人類が相対幸福が最低といっていても、その人の心がこの上なく満ち足りていれば私は彼らの最高幸福を疑わない。一篇の詩の価値を計測できない物質経済を加味した幸福度調査は、この点で完全な言葉の誤用である。魅力度調査など擬似統計を使って或る人々を差別的に貶める悪業に、無意識にであれ加わった人の後はないだろう。