2019年8月28日

愚かなのは反証的分析度の低さで必ずしも分類単位の大きさではない

地域や文化、世代などを一括りして考えること自体を「差別」とみなしている人は、その何らかの共通集団単位を詳しく科学的に分析しようとしている人より愚かである。

 差別は事実と異なる何らかの偏見を汚名として着せ人権侵害することや不利な立場に貶めることを指すしそれは裏返せば逆差別にもあたる。一方、単なる個人ではない法人や自治体、風土、文化ミームを科学的に(反証的に)分析することは当然できるし、単に謬説や不当な人権侵害が愚かな臆断なだけだ。例えばトヨタ自動車と日立製作所の法人格の違い、愛知県と北海道の自治体の違い、東北と九州の風土の違い、日本語と英語の文化ミームの違いなどは科学的に分析できる。愚劣なのはこういった分析を非科学的に行い、韓国人全体を劣等視したり、田舎全体を侮辱したりする悪徳と虚偽に満ちた蛮行にあたる。
 逆差別(ひいき)は差別の一類型だ。だから東京をあらゆる現実の側面に反し全面的に美化したり、北海道や京都や沖縄を欠点を無視し良いイメージのみに理想視したりするのは、確かに恥知らずな差別である。米国が中国よりよい場所だといったり、欧州を東南アジアより優れているとみなすのも同じである。
 一方、県民性偏見とか国民性偏見、民族的偏見、人種的偏見、見た目の偏見、性的偏見など、どうみても科学的整合性に反する無根拠で悪意ある偏見、占い級の謬説が、一定人数の主観を調査した疑似統計と共に唱えられているのをみかける。単なる経験則と科学を見分けるのは一定以上の知性が必要なわけだ。
 個人単位にしても分人概念みたいに、まあこれ多重人格っぽくて私は採用してないのだが、今日より細分化できる可塑性もあるので、個人に対する一定の見解なら間違い様がないってのもある種の偏見だ。君子豹変、男子(女子でもその他でもいいが)三日会わざれば刮目して見よ、との諺もある。
『菊と刀』は唯の偏見の塊といえるか? 日帝単位で天皇制ファシズムに特化していた時代、ベネディクトは客観的にその集合性を分析していたわけだが、科学性があるかでいえば社会学的な非実証度で、曖昧な抽象性しかないだろうが、それでもこの本がGHQの間接統治で天皇制維持させた原因の一つと思う。

 私がいいたいのは、集合性にせよ個人性にせよ、全体性であれ、反証的に分析し続けられるだけであって、個人単位だから単純で単一認識の信用度が高いとか集合単位が大ゆえ複雑で分析困難と決めてかかるのもどうかと思う。そして差別と科学的分析、道徳的判断は違う。事実として不利な点がある相手を、利他的に尊重するという態度がありうるのだ。この点は強調してもいいと思う。
 生得的不利さをみなかったことにする、という偽善的科学性がある。例えばIQの遺伝要素とか家庭環境の差、当人の進路の意志を無視し、受験勉強の結果は公平な差別だとのたまう類。
 事実を或る集団単位でも精確に見て取るのと、その事実に対し哲学的なり道徳的判断を行うのは別だ。例えば地域Aの集団の平均IQが低かったからといってその集団へ被差別的な扱いをするのは悪徳であり、そもそもその統計を無視するのは暗愚であり、単にその集団の不利な点を補う教育補助が公益なわけだ。

 今書いたことが分かる人は、個人単位でもそもそも最初から差別や偏見が事実でない汚名着せ(レッテル貼り、stigma、烙印)に過ぎない以上、できるだけその汚名に反対の証拠を集め真実に近づきつつ、実際に被差別者が不利な立場にあった場合は救済措置に努力するだろうから、一々いうまでもないのだが。
 又例えば南北朝鮮や会津地方の出身者に、日本出身者や山口県出身者と或る場合に全く同じ政治的態度で接するのも偽の公平でしかなく、この点では歴史認識の欠けている無知な凡愚が、広義の反差別を取り違えている。その意味で個人主義には根本的に限界がある。全人類は等しい背景ではない。

 私がなぜこれを書いたかというと、或る人物がブログで、集団認知すなわち愚と書いていたからなのだが、分類を単純化しすぎる点ではこの人物も同じだし、そもそもそれでいえば個人単位の精確な認知もできないので分類自体不可能になる。つまり問題なのは単位ではなく、反証的分析度の低さなのである。