2019年8月10日

東京サブカル唯一の存在意義は俗悪な表現可能性

ツイッター民の「表現の不自由展その後」大炎上事件の色々な批評をみてて、津田大介氏の変態性欲の類をなじるのはよくないな。それは性的少数者への辱めに過ぎないし、その論理でいくとサブカルの最深部というべき同人誌界隈はほぼ全部自滅する。
 寧ろ今日のサブカル唯一の存在意義って下劣な性欲も表現している俗悪な面でしかないだろう。
 江戸時代の春画も、今日の東京文化内の同人誌も、性表現の限界に素で挑戦しているという点で、ロウブロウの極みとして一つの極北にある。この点でハイアートとは全く異質な世界ではあるが、私は同人誌の存在意義が歴史的にあるのは確かと思っている。中身の全てを肯定するわけではないが性愛の表現だ。

 確かに津田氏の発言が、某女史へのセクハラにあたると解釈できるのは事実にせよ、それは彼らの私的な係争なのであって、単に変態性欲とみなされる性的少数者を叩くという擬似モラリストの観点は、人権面の問題がある気がする。
 特に京アニファンが東浩紀氏の「京アニ作品に暴力表現が殆ど出てこない」発言へ、最近の作品を見てないのは明らかと正論で叩くのと同時に、津田氏へ変態性欲野郎といって攻撃してたりするのをみたのだが、それならアニメファンなんて同人誌を自浄してこなかったのは人倫面でどうなのだとなってしまうだろう。
 またアダルトビデオなど明らかに猥褻物頒布罪に該当しているだろう映像作品も、今日の東京圏では警察(警視庁)と業者の癒着関係のもと広範に流布されている。これも、津田氏の性的少数さを叩きつつ二重基準で叩いていないのはなぜだとなる。東京文化圏のネロナムブル(自浪他浮。恋愛について「自分のなら浪漫、他人のなら浮気」の頭略語で韓国の若者俗語)ぶりを示している。