2019年8月15日

芸術はどうでもいいもの

芸術って100%どうでもいい。20年それを追いかけてきたが、どうでもいいものだというのは絶対に間違いない。虚業中の虚業で、ゆえに自分はこの道を選んだ。
 自分は実業が嫌いだ。それは何かの役に立つからだ。
 歌も絵も何の役にも立たない。だがそれゆえに、目的そのもので、まるで命の比喩だ。
命は何かの役に立つ物ではない。それは目的そのものだ。美術と呼ばれている代物は純粋であれば、何かの手段になるのを拒否している。道具ではない。単なる目的としての物体、物自体になろうとする。命も単なる肉体としては別だが、直接手に触れられない。美術はその無用の用をまるごと乗せる乗り物だ。だからといって下らないアートとすばらしいアートがあるのも事実。下らない技は純粋でないだけだろう。命に軽重があるとは思えないのだから。
 私はいわゆるアートが嫌いだ。だから昔は別だがもう展覧会なんて余程でなければ行かない。私は玄人だからだけど他の玄人も同じと思う。飽きたから下らない物みても徒労だ。すばらしいか直接見ないと判らないとかいってるのは半素人である。どんな物体でも直接見たら程度あれすばらしいんだから。いわゆるアートと、本物は違う。本物はそもそも次元が違うので、見ないとわからないとかそういう話ではない。逆にみなくても分かるし、見たらまた別のものというだけだ。本物は概念の革新を伴っているので単なる質感、つまり仕上げがいいねとかそれ以前の話なのだ。リヒターのベティは絵だったとか。
 死、絶望、つまり我々の命が制限されている事実の前で、技はなんらかの印をつけ、死後に記録を残す。遺伝子とは別ルートで、ミームによって何かを伝えようとする。だが何のためにそうしたのか、はじめに洞窟壁画を試したアーティストは自覚していたろうか? ただの悪あがきであり遊びだったのだ。
 芸術に希望をみるのはやめよう。元々これは悪あがき、どこに辿り着くでもない。これをみた者があれこれいうにせよ無視され消えるにせよ、どちらも同じだ。命それ自体と同じでただそこにある。金儲けに業を使った連中は単に愚劣だ。連中の名が残る筈もない。技はそれ自体でなければならないのだから。