2019年8月26日

客観的な賢さは決して一般化できない

最近、差別し易さは一般知能の低さとするGordon Hodson氏の見解について思うのは、言語的認知は抽象性が高いほどどれも共通分類による単純化ではないか、ということ(例えば赤さ、面白さ)、つまり差別までいかずとも世界を抽象化して有る言語は人類の世界認識を偏らせている。愚かさと差別を結びつけている論理は、抽象言語が学園的(academic)な分野なり文脈で使われていると定型例として賢さとみなされがちな場合を、意図的・恣意的に無視しているかもしれない。いいかえれば抽象性に対するなんらかの価値づけを行う側の政治観によって、ある言動の賢さが決定されている。
 例えば私がSNS上でみかけ、少し接したことのある或る東京都民は、外国人差別や地方人差別を私の目の前で連発していた。この男は彼の差別観に合う意見を、利己目的で賢さとみなしていた、と私は思う。ではここでいう賢愚とはなんだろうか? その男にとって外人恐怖や華夷秩序は正義であり、彼はそれを愛国心と考えているが実際には外人のみならず国内の自分が属していない自治体をも差別しているので単なる利己主義なり郷土愛の変形したものといえるが、つまりは彼にとっての賢さは寛容なものではない。同時に不倫マニアなのも独特だった。
 メンタリスト某などは、差別し易さは愚とゴードン・ホドソン説をそのまま述べているのだけど、そこからいうと抽象性の高い言説、例えばヘーゲルの世界精神(西洋民族中心主義含む文明の単一発展論)など愚の骨頂になってしまうかもしれない点も、上述の主観的な賢愚判定も、分析の枠から外れる。
 また学園思想(academism、大学風、官学風)からすると賢愚はそのサロン的・同人的な価値観に合うかで判定されるので(例えば学会に属さず、学会誌に載らない民学軽視の風もあれば学位差別もあるし、これらは真理に関係ない)、当時の潮流による教授・学会の価値づけは或る意味では主観的でしかない。
 きのう、三浦瑠麗氏が、韓国の或る男性が或る日本女性の旅行者に暴行した事件で、外人恐怖と女嫌いの混ざったものとほぼ断定的な口調で類推ツイートしたら、相当数の人達が返信欄で反論していて(細かくはカタカナ英語で語り洋学仕草の教養俗物根性として反感を買ったのだが)、学位の後光が通用していない。いわばここでは賢愚判定を、一部ツイッター民が自力で主観的に行い、どうみても外人恐怖・女嫌いと必然に絡める論拠薄弱と見抜いたわけだ。学会や大学なら(或いは学位学閥の後光を利用する媒体なら)、特に三浦氏の無謬性が前提になり基本そのまま通ってしまったろう意見だった。こうして差別は逆差別(ひいき)側にも向かい、ひいきされる学園風の物言いは間違っていようが利権でつながる学閥仲間から引き倒される。
 さらにいうとIQ値の類似したほぼ同年代のかなりの同質集団が固まっているのが学閥の実態なので、このひいきによる賢愚判定は偏りを伴い、とても怪しいものだ。

 科学一般はそれを批判(ここでは程あれ否定的に反証)していない限り、単なる宗教や、個々の知識に関してはその追随者内部での信仰になる。学園思想の内外どちらでも同じだ。つまり差別し易さとひいきし易さは向きが違えど、本質的に似た、認知の過度の単純化なのである。東浩紀氏があいちトリエンナーレ2019のアドバイザーとして炎上した件も、彼が事前に通称「くねくね動画」で述べていた所でわかる通り、美術業界をかなり知ったかぶって、政治的展示を炎上させずにみせるのがアートなどと物知り博士風に、津田大介氏の天皇侮辱にも実質GOサインを出してしまっていた。
 孔子は「人を以て言を廃せず」(『論語』衛霊公)といっていた。言葉の賢愚は、発言者の属性と無関係にある。この点でもIQ含む一般知能なる単一知能説で脳の一般化した賢愚判定はできない以上、ゴードン・ホドソン説は訝しい。結局、主観的賢愚を超えた賢愚自体は、人には知れないのだ。

 客観的な賢愚が存在する、とする立場を、同人の権威づけで行っているのが学会や大学、また特に大学院までの教育機関を制度的に認可している政府である。この全体を学界と定義すると、私は学界は常に可謬的(誤り得るもの)で、究極のところ彼ら自身、真に客観的な賢愚自体を知らず、知り得ないとみる。

 また三浦氏の発言をめぐり「集合知」の優れ方を述べている人をみたが、この集合知が特定少数派(学界と無関係)より賢かった試しはない。集合知は構成員に認知多様性がある中で少数意見尊重の風があるとき誤りを見つけ出すのには役立つが(検知的優れ方)、その中でも特定の賢さは特定の人にしかない。
 究極の知的謙虚さは、ソクラテス未知の自覚(無知の知)を含んで、客観的賢愚の判定が現実には不可能と悟ることによる。或る脳を評価する観点でその価値づけが違うからだし、多少あれ共通の賢さは特定の学風や宗派に過ぎず、実際には一般化できない、個別の賢愚判定の体系だからだ。もし言語による抽象化の或る方式を一学風の典型とすると、この学風は賢愚判定を宗教化させる第一原因である。抽象性の高い言説は理解が難しいので、分からなさを権威と誤認する人が現れ、或る教義として神秘化される。だから客観的賢さと抽象性にも直接の関係はない。時にそれは単なる衒学からだ。
 一方、想定受け手にとって大勢としてわかりやすい表現を使えるという特定の知能は解説能力として一つの賢さではあるが、研究やその他の能力と一致するとは限らない。したがって言説のわかりやすさを賢さ一般と判定するのも誤りだ。受け手の知能と類似性があるほど或る言説が可読的なだけだ。

 差別的な考えをもっているとみなせる人を愚と即断するのは、以上の論拠から、私は一つの臆見と思う。その差別を否定する根拠は、科学にせよ道徳哲学にせよ経験にせよ、又別の差別なりひいきの立場でもありえるからだし、これらの上位に超越的立場がみいだせたとしても、差別は脳の単純化機能だからだ。人権侵害を含む差別を単なる区別といい合理化するよくある論理は唯の詭弁として除くが、言語は認知機能の必然で世界を抽象化し、時に過度に単純化して捉えるので、差別を全て乗り越え思慮するのは極難しい。我々にありうるのは自らの思い込みを常に反証し続ける認知的負荷を自ら科す知的誠実さだけだ。