2019年8月12日

史書の記述法

史書は単に史家が確定できた客観的かつ即物的な事実を羅列するに留め、それらの原典や根拠を付記した科学書でなければならず、史家自身の思想や政治的考え方、善悪の判断、歴史観の類を入れ込んではいけない。権力闘争の勝者に偏って価値判断もしてはいけない。例えば人物が或る内面を書簡等に残している際、史家はその様な書簡を当該人物が当該資料に残しているとの事実を機械的に述べるに留めなければならず、勝手にその人物の内面を代弁してはいけないし、彼らの視点に立ち物語的主観性で歴史を語る様ではいけない。これらは史書の科学的価値、古典的重要性を高める目的である。

 他方、史書とは別に、或る人物の政治道徳を理解するには次の要素が考慮できる。
 先ず或る人物が置かれていた時代なり地域、集団、思想条件、或いは個性で良識は異なっているので、別の時代・地域の常識や当時の法に照らし遡及処罰的または再評価的に裁断するのはその良識自体を問う態度としては多かれ少なかれ間違っている。なぜならその人は遺伝子含む肉体、環境、文化素(ミーム)いずれの点でも置かれた状況下でそう振舞っていたに過ぎず、別の状況下に置かれた人々が同じ条件下にいなかった限り、往々にして全く同じ良識を採用できるとはいいがたいからだ。

 そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
そして或る人の行動には大まかに次の3要素が勘案できる。すなわち動機・過程・結果。裁判等に応用され各立場で善悪の判断をする説は主にこの3要素からなっている。
 ここでは過程を省き、動機と結果だけに事を絞り、さらに場合わけすると、次の様になる。
 便宜的に善い動機を利他、悪い動機を利己とし、結果について善い結果を公益と私益、悪い結果を公害と私害に分類すると
動機→結果(道徳的行為名)
1.利他→公益(慈善行為。以下、行為を〃とする)
2.利他→私益(積善〃)
3.利己→公益(国富論的〃、功利〃)
4.利己→私益(営利〃)
5.利他→私害(どじ〃)
6.利他→公害(悲劇〃)
7.利己→公害(悪徳〃)
8.利己→私害(自業自得〃、自爆〃)
これらへ過程のよしあしを加えるとさらに複数に場合わけできる。
 これら道徳判断としての人物の行為分析と、純粋な史書とは全く別の議題でなければならない。物語や小説といった虚構の類はこの人物の行為解釈を行ってはいるが、筆者の嘘や好悪の偏った主観を入れ込んでいる点でなんら精確ではない。裏を返せば、或る人物の行為分析を行うにあたって、道徳判断の正確性を期するには一切の虚構を排さねばならない。そしてこの道徳的人物評を行いうるのは、単なる事実に立脚した伝記でなければならず、史書全体の中でいえば特に人物伝の類でなければならない。かくて伝記と物語・小説などの虚構は違う。
  紀伝体(人が主体)、編年体(時が主体)、紀事本末体(事が主体)など史の三体を省みると、ここでいう人の行為分析は、特に紀伝体での伝記中に生かされうる。但し、動機についても史家が勝手に推し量ってはならず、当人の言説など外形に現れた事実のみを記述するに留めなければならない。
 また脱構築を考えると、そもそも或る人物の外形に現れた言動をとっても、当人の意思をそのまま意味しているとは必ずしもいえないので、動機自体は本質的に当人にしか伺い知れないものである。且つその当人さえ、無意識や意識の多角性を含めると動機をはっきり認識できていないか、不確定なこともある。したがって我々は歴史中の人物評について、動機を安易に断定はできないし、仮に論じられるとしても外形に表れた何らかの証拠に基づく事実の考察か、それに基づく主観的推論に留まる。後者については主観なら史家の思想が乗り移ってしまうので、史学的価値はないに等しい。単なる虚構というべきだろう。