2019年8月27日

なぜ人は生まれるか

子供の頃から今まで、なぜ人は子供を産むのか疑問だった。自分には人生は先ずちっとも愉快な経験ではなかったからだ。芥川『河童』式にいきなり世界に産み落とされ、諸々の苦役を我慢させられている。
 そして周りで親になった同世代人だのきょうだいを観察してわかったのは、彼らは単に動物で、性欲で(そして彼らはそれを恋愛とか言って美化している)、又は周りの動物的人間に同調して(その時点で彼らも動物でしかないのだが)交尾し、子を産む。そこにはなんのうつくしさもなかった。非常に醜い。
 自分は元々理性が相当強い方らしく、性的不能ではないのだが、性欲のままに行動し、世界の真理だのしくみだの目的だのをなんにも知らないのに、苦役に満ちた虚無のこの世に分身を産み落とす人達の思慮の浅さには、未だに何一つ共感の念をもてない。特に未成年者は私のこの告白で救われるのもいる筈だ。

 私は年齢的に大人になる中で、特に親友が結婚し子を生んだ点で、漸く、性について学ぶべきなのかなと考えた。これも一種の同調だったと今にしてみると思うが、その後、数年かけ理解したのは、この性の領域は確かに或る快楽と結びついているのではあるが、簡単にいうと他の動物と本質に違いがないのだ。

 我々は一般には理性と呼ばれる、ある冷めた意識の状態をもつ生物で、特にアリストテレスがいっていたようこの理性の領分が他の動物より発達しているのが人類なるものの特徴であって、しかもその領域が強く生まれついている人は、寧ろ獣と対義として、神的な存在、精神的な存在に近い。脳の構造からいうと、旧皮質の本能を、それを覆う様にできている新皮質の理性が抑制しているらしい。だから理性は進化の中で生まれた社会性の遺伝部で、人類としてはより理性的な存在の方が何らかの適応度が高いのだと思う。そして文明はこの理性的な側面をより強化する方に進む仲間集団なのだろう。
 韓国の若者言葉で自分がすればロマンス、他人がすれば浮気という語がある(ネロナムブル、自浪他浮)。結局、性欲の構造はこれで、他人の性に共感できないならそこに自分の利得がないからだ。ゴータマやイエスは個人的性を否定していた様にみえるが、実際はそれが彼らのミームに有利だったからだろう。ミームは、本能に於ける遺伝子の繁殖戦略がなんらかの理由で制限されている状況で、その写しとして間接的に自分の遺伝子母体や傍系に有利になる状況を文明内に作り出す為の、飛び道具の様なものと考えられる。例えば処刑確定後の死刑囚が獄中手記を書き残す類。どれだけ利他的でもその点は同じだろう。裏を返せば、ミームは文明全体の外では特定の意味をもっていない。我々が浜辺にどんな痕跡を残しても波で綺麗に洗い流され、また真っ更の砂浜ができる。恐らく無限の宇宙で、天の川銀河系の太陽系第三惑星の一哺乳類がなにをしていても、或る技は別の生物には彼らの遺伝子的利益にしか意味をもたない。
 要するに、或る人が子供を産むのは、一言でいうと神聖性などなにもないのだ。唯の本能、唯の性欲、それを神格化したりやたらと美化している人達は、原核生物たる藍藻の増殖から見直した方がいい。つまり生物はミームも遺伝子も含め寧ろ勝手にふえてしまうしくみで、減る方がづらしいのである。

 現今の日本は、特に大都市圏または列島の北側・日本海側の寒冷地ほど出生率が低いが、第一に東京圏や関西圏を主とした都市部は顕示的消費や非生殖的性の商品化による退廃、寒冷地は出生可能な人口流出が響いている地域的要因に加え、経済構造が高齢者に金を寡占させているせいもある特殊な状態だ。全人類規模でみると、来たるべき中印や中東圏の高度成長期に人口爆発が控えている状態であり、先進国の中でも日本あるいは韓国や台湾が置かれているのは、人口増殖の踊り場で、一時的な低成長期といっていい。私はその時代に調度生まれた。そしてこの文で或る洞察を開陳しているが、通時的内容と思う。
 結局、ゴータマの説は生殖を否定し、イエスの説は一夫一妻を原則とはするもののどんな性も結果としては許せというもの、ムハンムドの場合は4人までの妻を容認しつつその外の不倫を認めないもの、人類の過半はイエスかムハンムドの信者なのだから、全体として子供は勝手に性欲で殖えるものなのだ。日韓台を出生率最低化の一例としていえるのは、子供が殖えなくなる最大原因は、孔子のいう君子三戒のうち老人の貪りが止めどもない場合だ。現日本は資産の82.4%を出産不能な高齢者が寡占している上に、出産可能人口を30代以下とすると全体の5.7%しか持たされず、女性の比率は更に低いのである。
 この点で孔子説は正しかった。老人の貪りは、彼らの不安を金銭欲に転嫁しがちな生来の傾向によるとしても、結果、同種族を激減させ、場合によっては自分の単なる老後の精神的安定剤のためだけに種族間の遺伝子比率の中で絶滅危惧にさせるのだから、まさに致命的悪徳でしかなかったのである。只でさえ国内資産が極度に老人から貪られているのに加え、現役世代は賦課方式による年金負担や、使い捨てられ公害を起こした原発後処理まで背負っている。余りに悪い生存状況に絶望した若者の自殺率や、自殺による死因が最大化してもなんの疑問もないし、現にそうなっている*1。
全状況と、生物としての人類をとりまく条件を省みて思うのは、例えば現実逃避でオタク化し、サブカル妄想に発情し江戸町人みたいに事実上口減らしされている東京都民だの都市住民が、早く子供を生み育てているヤンキーと呼ばれる一部の田舎人を差別的にそしるのは、単なる妬みの反動形成ということだ。そしてその種のオタクは飽くまで米国でいうナードと同じ、生存競争で敗れた持てなかった遺伝集団であり(アイドルオタクの略であるドルオタを含む)、その人達が商品化された性の妄想内で疑似恋愛を行うとして、所詮はオタクと同じ反知性主義のヤンキーより、遺伝的利益が少ないと言える点である。
 一方これらは娯楽化した大衆文化の下流みたいなもので、元々伝統的な上流学術の分野もあり、例えば詩とか哲学の様なものだが、そちらはそちらで青い海戦略など直接的でないのを含めたミーム競争を行っている世界なので、知性主義者も実際には立ち位置が違うだけで遺伝的適応度が高いとは限らない。

 人の理性は遺伝的競争からミーム競争へと主戦場を移したといえるだろうか? 主に先進国(発展した国、developed country)と今日自称している集団では(私は僭称と思うが)そういう見解がたまにみられる。しかしこれは間違いだ。遺伝子は単独で残れるがミームは遺伝子にとっての道具でしかないから。

 社民主義的福祉の偽善は、繁殖した遺伝子競争の勝者側が、偽の公平でその敗者側に過大な負担を浴びせかけている点にある。これを思うと弱者(不利な者)の定義は多角的になり得、中華思想で驕り高ぶっている都民は出生率が最低でしかなく、高出生率の沖縄や九州南部ヤンキーへ貢いでいるだけだ*2。
もっと巨視的に見ると、先進国民一般は一見贅沢な暮らしをしているかの如くだが、遺伝子競争の面で途上国一般に負けている。人類総体では近いうちにウィンブルドン化し、旧先進国出身の遺伝子は少数派になっていく。特に発展したアフリカ、イスラム圏やインドの人口比が膨大になり白人比は激減する。
 ユダヤ教の旧約聖書は「産めよ殖やせよ」と命ずる神を書いたわけだが、この考え方を忠実に実行しているのは、ユダヤ教とキリスト教を母体にそれらをのりこえ成立したイスラム教徒だ。そして老人の貪りという孔子が非難していた反儒教の悪徳にも陥らなかった彼らが、遺伝子の数で圧倒することだろう。イスラム教の4人の妻までの一夫多妻なる結婚制度も、繁殖戦略、特に経済能力に優れた遺伝子をばらまき易く喜捨さえ義務なので、結果、他の多様性尊重を逃げ口上にしている(が実際には貧者を虐げる)種族を圧倒する地位に立つ要素があるのは目に見えていて、現に人口増加率をみる限りそうなっている*3。

 私は日本とかいう島国の首都圏最北部で生まれ、青年期は主に都心で育ったが、そこをとりまいていた諸々の環境は、上述のようバブル以後の低成長が続く衰退期にあった。単なる性欲で殖える筈のものも殖えられない状況で、その上私個人は元々理性が強く、動物としての生を軽蔑してさえいた。私の母体である種族(遺伝比率は未だ知らないが恐らく縄文人と弥生人だろう)は、そういう理由で恐らく、世界史の中で少数派になっていく流れにあった。私個人はその状況を思想で打開する迄もなく、単に受け入れ、自分個人の幸福追求を図るつもりだ。それが逆に、自種族を殖やす目的に一致するから。