ある愛知県民は、他人を信用など余程でなければできないといっていた。私はその人が何を言っているか全くわからなかった。私はその人がくらしてきたろう所より遥かに犯罪者が多いだろう新宿界隈で日常を送っていたが、他人を信用できないと考えた試しもなかったが、特に犯罪にも合わず今も生きている。
山岸俊男が『安心社会から信頼社会へ』で一般的信頼について分析していたが、私は他人の信用度を大変厳しくみている。それで初対面の人をみても信用できないとは余り思わなかったのだと思う。しかし相手の行動が道徳的か不徳ならプラス側にもマイナス側にも無限の尺度で、相手の業を永遠に記憶する。
その人は或るSNSの中で、私の目からみると俗悪極まりない人々(私は心から嫌っている連中)と親しくしている人だったのだが、よく話を聴くと、その人も連中を必ずしも好んでいないという。これも謎だった。好きでもない人、特に道徳面で劣っている連中となぜ親しむのか。そんな時間はこの世にない。
資本主義信者は、善人だろうか? 彼らは専ら他人を貪る目的でしか利他行動なり相利行動をとらない。それはカントに言わせれば仮言命法だから、偽善である。私も同意する。信用度の低い他人は、元々利他性が低い連中である。一般化すれば悪人であり卑しい人間達だ。人を見分ければ度合いで信用できる。
善人の質は、その人が絶対的利他性を度合いとしてどれ程もっているかだ。いいかえれば定言命法が生育の本性に近い次元で、しつけとしてどれだけ刻まれているかだ。生まれなり育ちの良さとは、一言でいえばこれである。信用度の高い他人を見分けたければ相手の生育が性善的かを見分ければ良い。