2019年8月23日

公徳の高い個人を中心に少数支配の地方政をめざすべき

きのうまで、次の衆院選で小沢統一政党を作り、自民党と最終決戦して負けたら多数政(民主主義)を諦めるべきと考えていたのだが、改めて気づいたに、そもそもこの反証をする必要すらないのかもしれない。つまり日本は北朝鮮や中国と同程度の政治民度で、既に多数政が機能していないに等しいのだろう。多数政が機能しない、つまり政権交代が起きないので有権者は意思決定の必要が事実上存在せず、棄権しても最初から自民党総裁が、裏権力者の天皇家共々独裁を恣にする。飛鳥時代から続くこの世襲独裁政が現役で、寧ろ武家政治でこの腐敗を正していた時期こそが、天皇渡来以前の共和政共々善政できた。
 全皇室史を省みても、仁徳天皇が国見をし、民家のかまどから炊事の煙が立つまでは酷税を諦めた、という世襲独裁の傲慢ぶりの逸話を最高の例としている時点で、この中国神話の伝説上の三皇の一人の名を背乗りした渡来人の末裔は、実に自己中心的な中華思想の元で悪政を繰り広げてきたのがよくわかる。
 民衆の為に政治する、この主権在民の基礎が日本でみられたのは、生産物が蓄財不能のため大盤振る舞い(potlatch)式に収穫量に応じ周囲の仲間に山分けしていたろう縄文期以前の共和政段階だけだ。天皇渡来後は皇族による資本独占、公家や武家、華族出現後は彼らによる権力濫用での独占がみられたのみ。

 資本主義が致命的欠点としているのは、そもそも信用貨幣(暗号資産含む)の元で競争原理を追求すれば、皇室資本(日本政府の独占できる全資産)を頂点とする資本家と、一般民衆の間に無限の格差が開いてしまう事実への無批判さだ。天皇制は端から資本主義を悪用した反民衆的な世襲独裁政にすぎない。微視的には、徳川斉昭の様な政治哲学者が愛民思想をもっていたことがあったが、巨視的には彼の信奉していた皇室自体が悪徳宗教権力者に他ならなかった。皇室自身、強烈にダークトライアド化されている自己洗脳で神道信仰が日本国民全般の公益に一致すると狂信しているので、彼らに反省の余地はない。
 資本家も自らの有利な地位を手放す鼓舞は特にない。寄付誓約は努力義務でしかないし、資産家がますます資産家になることを妨げる制度は皇室を中心とした自民党政府の元で基本的に全て排除される。今日の労働者一般が奴隷として自己をしつけるのは、この様な資本階級制度に最適化する為に他ならない。つまり皇室は自らの悪意ある独裁政を延長させるのに都合がいい国民奴隷化教育を、神道信者や日本政府へ命じて相も変わらず行わせ、それを自己を神格化する教義の中で誇りにさえ思っているので、資本主義は彼らの徴税権と蓄財を補完し、恒久的上位を維持するのに極めて望ましい経済思想だったのである。
 東京都民一般は、また皇室の存在を全国民を中華思想に則って差別するのに都合がいい世襲宗教権力者とみているので、いわば共犯関係でしかない。この共謀罪を疑わせる要素に左翼とか反日といった稚拙な汚名を着せ、お茶を濁し彼らの地域的独裁集団やその利権を維持促進しようとの悪業もここに重なる。資本主義はこうしてますます共和政、多数政の美質から遠い代物でしかない。そして確かめるまでもなく、その種の自分達国民が最も不利な体制を消極的にせよ支持している衆愚は、単に公徳がないばかりか自分の利害に関する判断力にすら事欠く無知蒙昧さの同調圧力で動く、狂信集団、神道セクトでしかない。
 日本で資本主義市場に参加するとは、間接的に皇室の徴税権を認めることに他ならず、彼らの悪意ある国民奴隷化を公認してしまう。だから資本主義並びにその信徒組織下で労働者自身が自己奴隷化を目指す更に堕ちた形である労働主義は、本質的に、国民の圧倒的多数の人々を幸福にも救済も当然できない。資本主義を否定して生きるのは、今日の目からは異常にみえるが、実際、皇室の存在も、資本主義も、それらの共謀関係も、いずれも邪悪なのは間違いないのだから、少なくとも近い将来の人類からこの見解は自明でなければならない。そしてその次代、より共和的な本来の日本に、資本主義も皇室もない筈だ。

 では今日我々は具体的にどう生きるべきなのか。圧倒的多数が資本主義信者かつ皇室政府に洗脳されている状態で、彼らの間にあって彼らに向け、正義を説いても無駄である。彼らはそれら邪教の因果を、加速主義の結果として自己破産的にうけとるべきなのである。
 専ら、拝金も皇室崇拝もしないこと。
 公的福祉を受けてくらしたり、そもそも稼得をせず生きている経済依存的な人間についても、脱資本主義の目からは当然生きる価値がある。寧ろ商才だけを生存価値の度合いに単純化している人間観こそ、その邪悪な教義が人々を陥れている点であり、例えば東京都民一般が採用する新手の封建制でしかない。皇室崇拝者は、皇室自身と同じく、世襲独裁で財政と風教、主権在民に反する疑似君主制度に伴う諸々の面で国政を悪化させている根源因なので、存在自体が反国民的である。もし神道信者が皇族を民間人化したり政治から手を引く地位に妥協しても、彼らが奈良発の殺人カルト教団なのは変わらないからだ。選挙を経て神道カルトや彼らと共謀した資本主義者を国政の多数派から排除できないとすれば、そもそも多数政が国政次元で機能しない証でしかなく、つまりは日本国民一般に公徳が足りない。政教分離原則や主権在民、そして資本主義の限界に理解がないのだから彼ら自民党支持者一般には何も期待できないだろう。
 北欧自体が世界でみれば少数派の国々である如く、日本国内でも都道府県または地方単位で、より公徳の質が高い集団では、政教一致の矛盾した憲法の悪徳や、行き過ぎた資本主義崇拝の念による低福祉下での需給の不一致を程あれ避けられる。だから我々が現実的にめざすべきはこの少数支配の善政なのだ。例えば東北地方(但し仙台市を特別区として除く)とか四国地方、北陸地方、北関東単位、北海道、沖縄県とか、京都市、あるいは茨城県内でいえば県北単位なら、高福祉政策を高度な行政判断で踏み行うのは現に可能だろう。その範囲で地方裁判所の段階で誠実に政教一致を否定するのも、また可能であろう。
 脱資本主義、皇室政治の否定とは、より共和的な社会秩序、特にその社会で最も恵まれない人の利益を最大化する(ロールズやアリストテレスによる正義式の)調整的政治の可能性を意味する。そして我々が今日、一般化し善政と呼んでいいのはこの種の政である。その実現は、高徳な少数支配の可能性による。投票率が低いとか、民衆の多数派が政治的無関心で、安定した選挙体制が確立済みの地域でこそ、寧ろ、その少数の有権者を支持者としてとりつけている議員なり政治家が、高い公徳を身に着けていれば、より進んだ社会秩序を先に実現できる。これが逆説的に、より共和的な国内政治の道筋である。国政次元がいかに腐敗していても、地方政治の次元は、単独または少数支配者が賢明であれば救いがある。そしてそこにしか救いはない。堕落した多数派、マスコミや皇室の手先である宮内記者会・記者クラブに扇動される衆愚を無視できるほど、多数派、特に経済弱者に公益を与える善政が可能だからだ。

 私はわざわざ日本国政の単位で、多数派の公徳を反証すべきだと考えていたが、これは無駄手間だ。なぜなら最初から公徳が十分高ければ斯くまで堕落しきった自民党の一党支配や、皇室政治が今日まで続いてきた筈もないのだから。単位をより細分化し、最も賢明な集団なり個人をより賢明にするべきだ。