2007年4月30日

節制

地位身分と金利とは人間の嫉妬を買うの具なりと称する可。然ればこれ等の方便的節制は言論自由の功を為すの途也。

文学論

漱石の公演論文に曰く小説の目的は啓蒙、知識の伝達にあり。この点から評すれば醜悪は善美を語る為の対比的道具なりと。現状の商業主義作家らに何ら該当せず、俗物そのものが世間の反面に当る道化なり。之らの劣情に媚びる自然主義戯作家を世俗の最下等に模する喜劇屋というが正しき。

白猿ら

人前で抱き合って恥も外聞も無き白猿どもはどこへ行っても恥知らずの侭である。ああいう連中は野生の森に住め。地上の人間界には社会があり、そこでは守るべき誇りがある。

2007年4月29日

物理学

宇宙はなぜ現に動いているのか。そのphysicalな原因。すなわち力の根源は何か。運動の理由は世界の単子が複数個である事、相対的位置関係の相互作用がなければ凡ては不動。
 なぜ複数の単子が存在し得たか。宇宙の始まりはどんな現象?
 運動に始まりと終わりを過程する事は目的論‐原因論の古代ギリシア価値観に由来する。おそらくは定常宇宙説の方がより事実に近い。
なぜなら最初の単子を仮定する事は建築的に不合理だから。創造主を人格化しなければ、宇宙の運動性が本来する理由を自体の必然内に構築しえる。最初の一撃というニュートン的仮定は退けられねばならない。
 宇宙の始まりが時間的なそれに限られねばならないわけはないから、どの時点の空間形相を始まりと見なすかは自由でなければならない。従って、体系が無から生じるという現象がありえない限り、混沌とは普遍的実在の全体である。
 Entropy増大則の適正範囲は?
 生物は此を調整する。彼らの運動状態はその自動性により、更なる混沌の別方式を作るに留まる。秩序とは形而上的な理由に過ぎず、自然の中には一つも存在しない、と考えて不都合はない。尤も、純粋理性の範囲外については未知ではあれ、これは知りえるものではないので考えなくてよい。
 十進法とgeometryの関係。
 それらが普遍である事は実証できない。
 地球環境と人間組成の関係、引力度や耕作習慣についてしか科学の必然性はありえない。彼らの能力についても同様に。純粋理性の命題でさえ星文化の原理主義に根付く。脱構築するには理性の限界に対して批判的でなければならない。彼らの中庸習慣的徳の延長からは永久に地球型の知性しか発明できまい。
 少なくとも地球外適応力養成のためには非建築的・脱構造的な思想余地を常に持たねばならない。
 数学はまなばれるべきではあれ、過信されてよい教義ではない。なぜなら如何なる命題といえそれ自体でしか確定できない。ならば科学も同然に、例えば、今のところ万有引力は十進法無理数でしか表現されないので、より数学的な学識が他星の知的生命体に開発されていればすぐさま間違いの対象となるだろう。

建築論

2007年現行の建築基準法では、採光用隣棟間隔は現時点の普請についてしか適用されていない。従って、あらたに目の前に建つ建造物が既存の周囲環境に如何なる迷惑をかけても利己なら構わない状況にある。これが新築高層マンションと周辺住民との確執原因となっている。このまま功利主義を放置すれば決して都市計画上で好ましいものとはならない。単なる富者生存は文化的な最低限度の生活という憲法規定を脅かす危機である。住環境の福祉向上が為に次の施策が必要となる。隣棟間隔は、既存の敷地周囲における建造物の採光条件を考慮してはじめて、設定し直されねばならぬ。かと言って利他のみを考慮すれば計画上で支障を来すばかりか、全く建てられない場合すら起こるだろう。よって、利他と利己の中庸を定める適当間隔の規制が改法されるべきだ。しかしこれには都市計画法に新設すべき再開発指定街区が除かれねばならない。なぜなら完全に老朽化してしまった一部の地域についてなどの場合はクリアランス型も有効だからである。例えば、既存の四辺隣地における採光用開口面積に対する高さ制限ならびに離棟距離を、冬至4時間日照の面から原則規定するといった。これには次の注意が必要である。健全な経済投機的開発の福利厚生を図る為には、隣地所有者或いは保有に対する譲歩の方便があらねばならない。
 隠蔽賄賂を防ぐにはこの場合の譲歩勘定そのものを建築基準法ないしは民法に規定してしまう事。すなわち、建築基準法上との矛盾がある場合には、四辺の過半数以上の隣地所有者との対価的折半を可能にする事。

和平の哲学

理性は半信半疑に足る人間思想の一箇条に過ぎぬ事に気づけば、その合理化の極が逆説の中にしかないと悟る。科学のいかなる体系ですらこの自己矛盾から自律してありえない。理性は方法的懐疑を無限延に合理化しつづけるしかできない。それが利己主義でなければ何か説明できた者は一人もいなかった。理性は人情に方便さるべき思考形式の一傍流でしかない。功利主義に行き着くしかない理性狂信は危険思想潮流。カントでさえ世界精神の侵略戦争最小限化に工夫する情けの説得へ協力的でもなかった故。我々は科学を道具にし、理性を啓蒙のともしびにはするが、決して人道の最終目的を真理の発見には置かない。真理は人道の方便。
 人間は人情機敏の興隆を最終の目的に置く様な文明への道程に他ならない。情緒は理性の限界を悟るところから生じる自然の機知、万物流転への中庸な感情。人間感情への共感的没我こそあらゆる哲学を世界調停的自然との調和へ導く。大きな智恵とは、和平の熟達にある。和の哲学。
 老成が徳となる理由もここにのみ、正義。なぜなら博学知識と同時に経験則の蓄積に基づかなければ鶴の一言は不可能。ここに到って葉隠系武士道の極端説、死の美学は否定される。長寿の為には残悔の養生も又、善だから。

2007年4月28日

経営idea

マクドナルドの占有(franchise)システムを、よりLOHASな視点でまね進化させる――茶店(和風の喫茶店)のチェーン展開。
日本中を巡り、最適なモデル店を見つけたらそれを世界化せよ。

デザイン案件

ソニー・ネットワークウォークマンシリーズの改良策。

液晶内へ容易に水が侵入しない様に、ボタン類は裏面に。
クリップタイプと創発機種の「捻る」コントローラーを進化させる[落下事故および操作性向上]。

極小化には限界があり、大容量化も同然。
「中庸な規格」を早急に合理化して、ハードのバージョンアップでも周辺機器は半永久に通用しうる様に。
人気のあるデザインは微妙な内容更新に留め「スタンダード」として定番商品せよ。


アンケートでの使用感を統計し、優先事項から改良。

日本国指導

現在日本国はGDPの増大としての《経済成長》を国営の指標と見なす古弊を退け、
代わりに一人当たりの国民総所得(GNP)を目標に『経済成熟』を果たして行くべきだ。
 これらの国益意識の改良は、日本国の現代国富を名目の浮利から実態の余裕へと方向転換させる。
われわれ地球頭脳は中華式後進愚民どもの次元に安住して愚競馬騒ぎをするを決して得ず。
一面において北欧級の高水準福祉社会を実質の「民族所得」と「余暇充実」に眼を向けて鑑みるのが最良の政功判断だ。

例えば日本・韓国・イスラエルという貧資源国土は生産原料を輸入に頼る。
従って近未来においても、アメリカ・中国・ロシアのように富資源の国家に比べて、
国政失敗による国内市場の不均衡で起こる恐慌の余波が、致命的窒息に達し易い。

保護貿易が有効なのは世界市場の中心交易産業において、原料寡占の国土に限る。
すなわちこれが植民地を持たざる国が世界大戦に発展した拡張侵略に出なければならなくなった主因である。
〈国際戦争は原料寡占の弊害として起こる〉。

もし自然の狡智がかような必然経過をplotするにせよ、
われわれ文民の役目はその止むを得ない洪水による被害を最小限に留める予防であろう。

現代日本国がたった今から為すべき対策。
1.品質主義科学技術的農業の市場投資による食料自給率の中正化。
2.積極out saucingによる民族産業の知的高度化――即ち情業化。
3.最低限度の国際紛争後処理貢献専用軍備に抑えた国税節約。
この三点に限る。

愚衆の阿呆らしく騒ぐ単純労働工場外部化と企業要員減退の工業型雇用空洞化によるニート増大の危機など鼻先で憫笑して完璧無視可の極微動勢に過ぎず。
工業から情業への産業革命は国体階級を須く改編す。
すなわちこれ「時代適格」の新種型を模索する賢貴民衆の試行錯誤学習過程なり。

無学暗愚の国賊官僚ども万一、天道哲理を欲してこれ等の指導を読むことあらんば己れの無能汚猥を恥じいるべし。
先ずは国益の目的を国民総所得の増収による『経済成熟』と見定め、国内工業養生への盲信を即刻破棄すべきものなり。

2007年4月27日

信仰

生を私物化してはならない。

至善の天命に己れを潔く捧げるものだけが新たな生を天国に得る。

おろかな私欲に囚われた俗物はやがて、地の底に堕ちるであろう。

せりふ

起業家: MBA学歴を過信する連中に限って経営については何一つ知らない。彼らは試験勉強する気はあっても一様に、働く気負いに欠けるよ。

仕事とは庶民の為、身を粉にして繰る日も繰る日も働くことだ。大株主の総会で自由に発言できる地位を最終目標にしている困った方々は、いずれ庶民の為に死ぬよ。実際、寄り集まりにも何人かは居るが、そういう方々は一代限りの成金とパッと見抜かれてしまうね。

一途に勉強するだけだ。経済学や商学の資格学校は結局、勉強の習慣をつける為にしか役立たない。余裕があれば行けばいいのは自明だがね。でっち叩き上げの方がはるかに商売の巧拙に聡い、とは毎度経営陣が悩む種だ。一人ひとりを直接審査することは会社が小さいうちしかできなくてね。組織がピラミッド化すると弊害とバランスを取る必要が出てくる。

彼らの中には昼休みのほんのわずかな暇を惜しんで「何よりも役に立つ本」を血眼で読みあさる子がごろごろいるからね。自分自身の昼食代を削って買うんだから必死なものだ。君等にせよ、人生のレースは最後の最後までわからないよ。

教育機関は学位授与を釣り餌にして儲けたがるよ。学者先生方は「元手」たるかの偉大な権威を擁護する為、商売人へタダで博士号を贈りつけて来る場合が往々にしてあるから少し位、ああいう立派な肩書きにもご利益がありそうなものだがね。

そうでもないよ。レベルの低いうちは何かしらちょっとしたところで関係もあるのだろうが、いずれ些細な事だ。

死ぬ気で勉強させてもらえた連中だけがね、人を感動させる仕事をする。学者に成りたければ大学で学べ。社長に成りたければ社会で学べ。学位を頼りにしてはいけないよ。大抵ね、抜け目ないキツネとお坊っちゃんタヌキは両立しないものだ。

経営論

富の使い方は救済法だ。最良の道楽とは慈善。私的生活は程々に納めておくが佳い。

経営戦場の徳

金を儲ける才覚がある人間なら益々、
いかに金を活かすかつまり“utility”を念頭に置かねばならぬ。

金を儲けることは格闘し同類から抜きんでること。
それは当然、〈やっかみを買う〉。
しかしこの負債を巧みに売却処理する方便に長けねば「生態維持」は不可能だ。

徳志の経営者へ忠告――先ず、『有り余る金の使い途』を夢想せよ。
ここでvisionが溢れ出ない様なら経営戦場から一刻も早く身を退けるが吉だ。

袋叩きに遭うか穏健に生き延びるかどちらがよりマシな往き筋なのか、その一命で思い知らされる以前にな。

東京人の観察

車内で化粧をするお化け。人前で鏡直しをする阿婆擦れは己れの見苦しさを普く宣伝して気づかない。

芸術論

絵画平面と彫刻立体を含む建築のそれが舞台である如く、音楽と文学の目的は娯楽である。それら娯楽が感覚に興奮をもたらす理想度に応じて文明生活に適当な趣味なのである。そして舞台とは暇つぶしを演出する日常劇的に適度な各文化環境である。
 但し、音楽は舞台の背景音として気分を演出するための、文芸は思想を時代流行に適合するための。

学生

奴らの汚猥にまみれた悪徳の全ては猶予の悪用から垂れ流しにされている。かの名門大学生の平均が日常何をしているのかを神視点から隈無く監視するがいい。
 我々は人間性の最下限がどれだけ低落できるのかに関する史上最も貴重な資料を大量に入手する機会に奇しくも恵まれている。

消火

自然な腐肉が堕落するそのままに大衆はおのれのやっとの事で確保なしえた地位を退廃させて省みない。しかし文化人とか僭称される連中がやつらの横暴に迎合しない訳でない。本質的に、彼らの置かれた地獄的文化状況は人類が抜本的に担った性悪に由来している丈である。われわれが崇拝して来た啓蒙思想のまばゆい許りの輝き、進歩史観は、文明市民層から多少あれ俗物根性に距離を置くため通俗の肩書きのみで破廉恥な世渡りをする愚劣な国際盗賊連中、奴らは知識階級と自称した傲れる高楼から学歴世襲制度を地球規模で蝕む方便に寸分も余念ないが、また卑怯極まりない専制政治の因果で現在自壊している最中だ。真実の批判に対する少しの理解も及ぶべくもなく、渡りの商人が開催するいんちきのバーゲンセール、われわれの偉大なポストモダン文化、何でもありの酒池肉林乱痴気騒ぎに獣類宜しく夢中で踊り狂う醜態こそが現代社会の中央なのである。阿婆擦れが老愚から大金を投げ売られる醜行が公認喧伝された時代とは何の進歩のつもりなのか。煽動政治屋はこの事態をきわめつけに好ましく感じている。何しろ不当搾取し、報道操作し、世論無知に拍車を掛ける為には先ずどんな制限も設けられない支配の自由を彼らの目前で悪魔は囁く。なぜなら彼ら自信が支配者であり被支配者だから。ある首相は趣味で一級戦犯を奉呈した。この人類史中類を視ない悪業を弾劾しうる主権者は地表に居ないのである。民主政が如何に悲惨な事情か人間は何故わからないのか。この愚劣な経過はまさに当然の結果に辿り着く。文明の瓦解、いわば人間全体の飽くなき退化である。われわれが日々都会地方を問わず、先進国世界の全面で目の当たりにする退廃、人間がかつて信じられたあらゆる理想は悉く貶され、唯一精神性を体現して来た希有の聖は村八分にされ、終には磔にして殺される訳だ。あぁ人類という蛆蟲どもに何の好意も希望してはならぬ。奴らの眠りこそは消火の至善たれ。後輩の聖人達よ、君たちが應じる一条の高尚の光を奴らに決して与え賜うな。何しろ、それは思想なる知的財産として畜生類を相手に宗教商売をする最後の元手なのであるから。

2007年4月26日

再創造論

自然はかれらに自由合理化と呼ばれる本能を以て自動的に宇宙へ別種の秩序を築き上げる様計画した。彼らの文明活動のすべては有機体独特の性行、自己中心的整理術を自発持続する生存の活力に由来す。機械組織と唯一ちがうのは曖昧律を再創造性の原理として保有している所。これは排中律を根本として建設された記号論理学には基礎づけ不可能。機械には判断の保留が不可能だった。人間知能だけが認識確定を潜在意識下に遅滞しうる。丁度アキレスが亀に向かう中途でしばし永久競戯の夢を見る如く、かれらの人生認知とは曖昧律の無際限な繰り返しにある。遊びの精神が産まれるのはこの時空展開過程がもたらす微妙差延の無際限な豊富さについてか。彼らの未来は統一的建築神学にではなく、再創造の細分遊覧にある。前者は後者のための舞台を耕し助ける方法にすぎない。
 道を主張した聖をわれわれは先見とおぼえねばならないだろう。終点はない。彼らの現実感が理性の認識に基づく近代人民においては特にそうだ。なぜならアキレスが光を追い越すという仮定は未だに構想文脈づけられていない。われわれは視覚以上の五感の結晶を知らないから、そういう計画外の世界観について理性内接近出来ない。文明は部分的に作り直し、脱構築しながら創造される。人類淘汰についてもやはり、進化の末端は仮設の形相たらざるを得ない。理想の学者ですら自然のはるかなる計画過程に晒されて無力だ。彼らの種が一体なんだろう。宇宙の断片は相対価値を覚えない。

学問法

いずれ人類はまたもや、科学以上の学問法を付与される。それまで彼らはその理由を信仰しつくのが最善か。

いかなる平和な条理社会を建設興隆なしえるところで最高次消費者の活躍は理想の遊びにかぎられている。早々と自殺する連中は相応にかしこいのだろう。何しろ現実界にとってシェリング風の漸進がもてあます余戯云々はただの秩序情報にすぎないし。かれらの為に働く。能楽しつづけるひきてあまたの魑魅魍魎がなんの夢現の堺を歩いていく光景なのか、この走馬灯の照り返しは。技術に手を煩わす人種がいちばん頭がよいだろう。何しろ運動と探求を兼ねる他、身心の健全を鍛える最善の仕方はない。
 大半の天才学者が若くして知能密度の限界に達し、あとは凡俗に偶像視されながらゆっくりと下り坂をころげ墜ちるさまは何度客観しても可笑しい。史上を省みてみろ。そういう馬鹿類にかぎって離婚を繰り返すか偕老の翻弄に遭っている。
 奴らの天分は馬のそれだ。勿論馬力はあるが馬鹿だけに、暴れる本性をみずから抑制する手綱如何を知らぬ。義経を呼ばなければならない。それは人徳だ。人徳は、隠徳を次第に積むことでしかつかない。一気にやったら失敗するから、徐々にばれない様に。牛歩とは古道居士の説教だが、真実だ。老獪なふるだぬきが創意工夫なしうるすべては若者のために理想郷じみた舞台を裏工作してしつらえてやる。それを蔭からのんびりみやってにやにや笑って居ること位のものだ。素で。それ丈の手順にさしたる手間が要るでもなし。お茶を沸かすのよりはすこし、猿をおだてる技が優り要るほどだ。人生ではほどよく休むしか楽しみなにもなし。

誰何

若くして老い支度をし、老いては若作りをす。壮年が最良かと訪えばそうでも非じも。栄枯盛衰に囚われるな。人生の神髄は君を貫く個性に存る。驚嘆さるべき自然の機関は量り知れぬ微分差を先験的に與えたもうた。ならダイヤモンドというあるロックバンドの曲には寸分の哲学がある。けだし動物も植物の生活に殆ど変わらない。自律という特徴は生態の倫に幾らも違いを提げない。かれらの活動は丁度、観賞魚の水槽に繰り広げられた劇場の様。しかし一つだけ異様なのは君も又、その水槽に捕われるさかなの一員だという事情だ。自律を理想とした古人にはどんな期待があったのだろう。思考する機械に変わらないこの魂の入れ物が有するプログラムに。せっせと働く蟻の様な天才に想像力の飛翔をすがり、なんの夢をみようとせっつくのだ、奴らは。どうせ哺乳類の頭蓋骨には空間的限界がある。母親の非常口を出入り為うる大きさにかぎって運び出せる頭蓋骨のベッドでのみ、甘いひとときを悦楽する権利を有するオイディプスらが、いかなる生後の改心を経てなお、大宇宙以上の組成容量は終に持てず。生後の餌の与え方と交配の工夫で、どんな個体を作るか至難しても。道行く人よ、君の目的は何だ。無口の徳はウィトゲンシュタインに習ったのだろう。厭味な奴らめ。

求道

人生では、どれほど周囲の競走者たちから遅れても、又いかに歩みがのろくとも前に進むことだけは諦めなければ必ず、目標に到達するものだ。競技に囚われてはならない、たとえ何番手であろうと人は確実に死ぬのだ。お前の力の限りを尽くして果てることさえできれば、勝敗はない。

修行

画家は孤独でなければならない。もし独りでいるなら君はすっかり君のものだ。画家は万能でなければ賞賛に値しない。
 建築家は長寿を旨としなければ傑作を遺し得ない。最晩年にのみ為すべき計画は端緒に着くだろう。気の遠くなる修練の日々をひたすら忍耐せよ。才能よりも手慣れを信用すること、君が天分に恵まれるほどそうだ。

2007年4月25日

知性の罪

知的財産は無際限な公開を原則とすべし。商売道具にしてもよいのは販売権のみ。使用禁止をうたってはならない。著作権は改善されねば南北格差を強化する怨みの連鎖の原因になるのみ。

猿の描写

御前は何の為に産まれて来たのだ。
御前は何の為に死に逝くのだ。
理由は説明しない。
御前の心は氷りついて、叫ぼうとする。
しかし誰も答えられはしない。
御前はただの宇宙の屑なのだ。
恐ろしい事を教えてやる。
御前は只の宇宙の塵なのだ。
それでも御前を取り巻く動物類と戯れて、
束の間の娯楽に耽る馬鹿が見える。
満足して死ねるかな。

人間原理の批判

彼らの繁殖活動に理屈をつける為に神を持ち出すのは古代の倣わしに過ぎない、と私は思う。生物は秩序へ向かう。有機性つまり自律的性質は宇宙の多様観に対する一形態系である。従って、我々は有機体の分化先弁として分類されるべき形相の一類に過ぎぬ。宇宙の混沌は自然と同義。その最初の崇高な一撃を神格化して棚上げすれば満足できる人物は哲学より神学が向いている。対象が発生したのは自然の理由に等しい。混乱を避けるには、かの形而下的設問を形而上学のそれに混ぜ合わせるべきではない。
 断じて自然の理由は人間ではない。なぜなら過去を省みて未来を予想しうるかぎり、宇宙は人間が絶滅しても存続して行くのだから。

2007年4月24日

早朝

朝の時間が有する労働価値は晩のそれに比せぬ。朝は晩の主人である。

行為

歴史的名誉は隠徳の高さに由来する。浮世の名声を適度に抑えぬ者は後生から軽率を戒められる。

隠徳

浮世の範囲ではどれだけ密かに隠徳を積み重ねても足らぬもの。善行は誉を狩る。死後がどれだけ長いかを知らぬ浅学だけが現世に怨恨を残す。彼らに与えられる表層の敬いは風化に耐えるほど厚い鍍金を施されてはいない。

真理潮流説

真理の定義を問え。善美とは文脈価値の対比的高級性でしかない。真理も又、相対的かつ暫時的な道具に過ぎない。潮流論とは道具説の史的還元である。ラッセル記号論理学を始めとした数学基礎づけ潮流は、デカルト以来の懐疑傾向が地球人類に及ぼしたまなばれるべき形跡を実用化した結果、機織はたおりされる思考性格の謂いであった。あらゆるscienceは時代潮流に対する知識だ。地動説が有効なのは太陽系中心的天文学認識が探索の基本だった時代にのみ真理であった。一定不変の真理はない。それを仮証し続ける経過が人間にもたらす啓蒙の威力についてのみ、科学は適度な信仰に値する仮説性を保つ。

自伝

動物園に放り込まれて生涯に何の期待があるのか。古代ギリシア人を真似た理想という暇つぶしですら、最低限の慰めにしかなるまい。知的格差は生存競争の洗練なのだ。勧善懲悪は人間の弱肉強食なのである。彼は文明を歩きながら常に孤独だった。猿どもは次々に繁殖して行った。それに比べると、彼は恰かも終生を子供のままに過ごし得たかの様でさえあった。彼は同類と同然の姿を取りながら一方で何時でも、そこからはみだしてしまった。言うまでもなく、彼は明らかに特別の人間だった。精神分析は心理学的応用を以て、彼らの種的平均を適格として奉り挙げてしまった。
 しかし、私は平均より遥かに昇華的人格を担っていた。繁殖活動にはなんの興味も抱けない個性を彼らは変人として排斥しようと絶えずした。私の知能は、少なからず人間の社会的闘争に由来していた。種内競争は性淘汰を学習の遊戯目的化へ導く。Neoteny化とは人間の地球生態系内最高次消費者への適応的進化の正道だ、と仮説しうるもの。進化の末枝に居て、しかも人類に対する相対比によってしか自分の定義を見出せない個にとって、人生が徒労ではない理由とは彼自身の偉業が地球文明の進歩を揺るぎなく世界の一級へ導く意志にのみ、帰し得たのだったから。

男女異権論

女権への過度の贔屓勢力の論理はこうだ。「Feudalism又は封建制度下でそうであった様な制限選挙では、女性の尊厳は賎しめられ、本来の姿を歪め、家に閉じ込め不幸にしてきた。これは福祉の本義にもとる錯誤である。従って、私達のfeminismは男性と同等の権利を獲得し、これに応じて女性の社会的解放を要求する」と。
 スチュワート・ミルのようなutilitalianにありがちな論。その最大の矛盾は男女の分業が有性生物の徳であった文化基底への無知に属する。かつて歴史上で女性が子供を育児せず公的社会で競合し、男性が哺乳をして家庭を治めた時期は一度もなかった。仮にそんな社会があれば家庭内にどんな力仕事や後自然学が必然だったろう。よって反論して曰く、
「女権には基準の平均が設けられるべきだ。それは真に知的に成熟した彼女ら自身が選び取るべきで、決して知識人の誘導に因る訳には行かない。
 女性には男性に比べて生来の能力偏差がある。雌雄の別とは自然の智恵が社会分業を能率化するためにわざわざ築きたもうた人道の基礎であった。例外の偏利を過度に主張する人には次の如く教育するのみ。
『今から全世界の全人類に知能テストを計ろう。現実には全ての知能を客観的に計る事は人間自身テストを創る限り不可能だから、複数の多角観点からしかも漸進的にできるだけ長い期間を考慮し、かつ適宜試験そのものを改革しつつする。そのとき、女性の平均点数と男性のそれとどちらが高いか』と。あるいは感情や本能のテスト、感激によって共感を示すか、命を呈してでも我が子を守るか、などを兼ねれば結果は出す迄もないかもしれない」
 男女異権とは以上の基本理論に基づく。即ち、性差を否定するのではなく、その平均さを時代体制へ適合化しようと云うのである。

男女同権の民主政治的批判

Democraticなコンセプトから彼らは女権をもこの一類種として育んだ。
しかし間接選挙は世論の誘導競争にならざるを得ない。

ここからヒトラー的な〈煽動家〉やソフィスト類の〈詭弁家〉が繁栄するのは疑いない。
市民啓発には独自の限界がある。
 いかなる教育制度によっても女性を男性に仕立て上げることはできず、
従って全体の半数を占める彼女らの票をうるためには、宣伝はみな衆愚化・低俗化の方便を取らざるを得ない。

ある女性は現首相を容姿の好みで応援すると云う。
さすがに男性の中にこのような獣じみた思想で良識の定律を固める輩はそうそう居れまい。
 かような愚物に、貴族と同票が与えられる不条理を回避する為に設らえられるのが間接民主主義的合理化体制だと言えば聞こえはよい。

すなわち、何段階にも世論を議会員選出の「ふるい」にかけて濃し、実践に当る頃には素の愚説の跡形もなく浄化しようという訳だ。

しかし又、このような間接回路が煩雑になるに応じて、尚更衆は〈民化(mobization)〉せざるを得ぬ。
 何しろ、かのごとき政府組織の繁雑化はそのまま、文明市民の衰頽を意味する。
何故かなら民主主義的政治参加が事実上で形骸化するから。

現代民主政の恐るべき堕落は以上のような過程を辿り衆愚政へ向かっているのだ。
孕まれた矛盾は《男女同権の弊害》に有る、と考える事に矛盾はない、と私は考える。


1.政事回路の世論啓発的単純化
2.過剰女権の迫害啓蒙
とは、現代世論政が担うべき二種の必要であれ。

2007年4月23日

男尊女卑

どんな説明でも人に対する様に通じるものではなかった。

俗間

君に可能な限り、俗間から身を退けよ。奴らは労役地獄のすみびとだから。

中庸

高い思索の為には肉欲中庸への頂極を習慣づけるのが最良だ。極端な禁欲・放逸は何れ不条理に終わる。人間の性を否定することはできない、ただそれを文明内洗練なしうるのみ。

弱冠

弱冠は避け得る限り避けるに越す事ない。不勉強の主因は権力にある。孔子曰く、学は及ばざるが如くす。

男女比

知能が肉体の一部位である限り、自然はその出来に関しても格差を設けておいた。

2007年4月22日

公平論

国文明間格差に負担をつける為には国連主導による調整が必勢となる。怨みの連鎖は周回遅れの国民から搾取して悔いない、自由主義の狂信から起こるのだから。

2007年4月21日

来世

百年前後の浮世の間に力を尽くす事はどんな動物でもする。考えられるべきなのは常に千年後、万年後以降なのである。

会話の切り抜き

それに議論の余地はないよ。だけど、別の話だ。もういやなんだ、この浮世にはこりごりだ。なぜこんなに競争ばかりさせられる。勝っても負けてもむなしいだけ。しかも宇宙の目的なんて文明にしかない。遊びなんだよ、このプログラムは。精神に姿を変えた、宇宙の根本にある意志のゲーム。
 なんでわざわざ僕が付き合ってやらなきゃならない。はっきり言って獣類がちょっとばかり進化したらそうなるもんに過ぎないじゃないか。なんで今さらお前らなんかに同情する余地、あるんだよ。
 男勝りになりたがって同権を主張し、男が得意な仕事を無理に奪って女の本性と家庭をないがしろにした責任はきみら自身が取るんだ。わるいのは世界だ。僕らはどちらもわるくない。原罪を作ったのは神だ。なら、神以外の誰に悪を創り得ただろう? 僕らは唯、宇宙の運動律に巻き込まれたにすぎない。寿命までのあいだ、戯れ続けるしかない。

2007年4月20日

過大な福祉的献身を偽善と受け取られないためには商売をしなければならなかった。もし商売なしに喜捨し続ければ外人はかれらを奢侈、おごりと呼ぶから。以上がデリダのユダヤ商人の合理化に使った論理である。しかし、現実には商売人は蓄財をして喜捨を怠るので、この論理は空理である。

天地教義

私はみずから『天地教』と呼ぶべき普遍宗教を創始せざるを得ない。

下流人民の退廃は目を背けざるを得ないほどで、上流人民の内心がいかなる堕落で満ちみちているかを悟るが故に。

天地教の教義は極めて単純なものだ。
[尤も、例に倣って後生はこれを世俗的に改造し、複雑にして権益に利用したがるのは毎度の事だから予想がつく。
だが、余計な付則が愚衆から与えられたにせよ、根本の「道徳律の普遍的善導」が文明の目的に叶う限り、その効力は有効であり続ける]

『よい事をすれば天国に行き、わるい事をすれば地獄に堕ちる』と信仰せよ。

それは三大宗教に共通の、人間が悪を避けて善を為すよう努めるべき、という倫理間本質の抽出なのである。
 カントは〈利己心からの条件つきの命令〉としてこの天地教義を批判するだろうが、やむを得ない。
愚衆の最低限度の風紀を引き上げるためには方便を用いねばならぬ。

利己心からの合理化――因果応報の吹聴――は、
天地の狭間にある地球人間社会に普遍の道徳律への言及へ知らずしらず合致するだろう。
それは「義務感」である。
 民衆がこの実践に至る事は不可能だが、少なくとも夢想する習慣は躾できる。

天地のたとえはいかなる無学にも非常にわかりやすい事。
 なぜなら引力の影響下で暮らさざるを得ない人類には、
常に高所からの落下の恐怖や、鳥の自由と星空の神秘への憧れという構造基底があるものだから。

現代宗教説

如何なる宗教といえども自ら懐疑する暇(いとま)無き帰来之薄識を寛容善導するための便法であれ。

さればこそ宗教とは近未来適合度の高い道徳律を簡便な教義にまとめたもの。
ある教祖は超時代的な道徳知能の持ち主であるのみ。
ガウダマは勿論、キリストやムハンムドも決して非人間ではないのだ。

地球国際社会で世界宗教が争いあうようなら、
我々は三大宗教を止揚した新たな教義を提出する義務を要する。

それはどの宗教者からも容易に乗り換え参加でき、かつ予(かね)ての信仰になんら矛盾しない、脱出超越した枠組みであるべし。

信仰

男になろうとした愚かなfeministどもは、自然が与えるおのれの分を超えた罪業で、あまねく地獄へ還るであろう。

悪魔には如何なる同情も不要。

美術論

権勢争いは卑しいし、いずれ徒労に終わるもの。美術の究極は自給自足にある、決して評価を前提にした国際覇権の競争に美術というものは携わるべきではないだろう。適所に叶う意志を持ったあらゆる美術は、理性神学至上主義や商業主義という偶像を祭る宗教よりはるかによい目的についていると覚醒しなければならない。

2007年4月19日

比較美術論

私は今や東西美術を比較して、東洋のそれに圧倒的軍配を挙げざるを得ない。西洋美術は俗物の盲信するほど貴いものでは決してない。我々は日本の伝統建築にとこという家庭美術館まで完備されていた過去を持っている。西洋ではややも財を成せば何ら合理に値しないゴテゴテとした余計な装飾が溢れて来たし、あるいは極端に走れば何の雅もない冷たい牢屋に暗く閉じ込められて来た。一体彼らから何を学びとれと古人は考えたのだったか。彼らの伝統美術を診よ。裸体になんらの羞恥も抱かぬ野蛮族の下品には全然感心を催せない。寧ろ嘔吐と共にしかめ面で目を背けざるを得ない。地球の浮世にあふれる俗物どもがかの醜悪なまがまがしい物になんの美を見いだすのか知りたくもない。
 日本では、裸体画などという野蛮な物体は作られたこともなければ、仮に町人が奇形を為しても憐れみと共に黙殺されて来た。いわゆる江戸の風俗画に、誰かれもに卑しまれる対象としてかろうじて数幅が棄てられず残存してしまったに過ぎない。
 明治以来の馬鹿どもがあれこれ構わず白人の真似事に逸った罪は全く軽くない。その結果、我々は風土適応性を失い、荒れ果てた猥雑な俗物都市環境だけが残され、すべての高尚な美意識を忘れ去った。ギリシアに由来した西洋美術は反面教師にすべき野蛮の風俗である。

切り抜き

哲学と科学の世界だけで人間の思想は完結すべきだ。

感情論

理性と本能の間にある感覚が人間の目的だった。

南日本大都市圏の不衛生なSodom化

配偶の不確定性が増すほど種類は最大化す。東京・横浜の東京大都市圏、京都・大阪・神戸をおもとした関西地方、名古屋都市圏、福岡都市圏を経由しAsian highway沿いに散見される異常性癖が実際、動物にあまねく過密社会において起こる理由は、かの人間においてと同様に、摂生能率の便利に関してあまりに非適応的個体を淘汰するため。このAsian highwayのごとき人工飽和状態においてはより不潔な個体を過負担下に置き徐々に除外し、天分の少しなりとも壮健且つ清潔な者を確実に遺すことを風紀全体が誘導す。いわゆる変態性癖は、その不倫加減によって不条理に陥り紳士社会間から自然除去され減少する。よって夫婦間におけるこの様な習癖でさえ彼らの健全を次第に蝕み、敬愛を失わせ、離婚や子孫の非行を促進す。
「非肉体的な」配偶の選択を興隆する目的は汚らわしき獣類に対して清浄な人類を養成し、彼らの繁殖をもって地球動物園に一血の進化を育もうとする生態系順応倫理。

理性の位置

普遍理論を創造すれば科学への盲執は永久に止むだろう。人間の無知は思考ゲームの形態として、科学という宗教を生み出した。ピタゴラス学派がこの宗教を初めて権威化した訳だ。スコラ哲学はかの教義をアリストテレスやキリスト教と矛盾しないように工夫された。ガリレオはこの宗教を盛り上げ、ニュートンが確立し、アインシュタインは正当化した。しかし、普遍理論は人間が創造してしまう他にないのだ。あらゆる科学知識は神によってではなく、理性によって作り上げられる。なぜなら理性が理由を認識しうる唯一の主体だから。
 Paradigm論に則れば、科学理論は時代思想の潮流にすぎない。つまり真理とはある時代の認識体系にとって矛盾しないだけの仮設物なのだ、と。
 しかし結局、哲学と科学の追求は思考ゲームを続けるだけで永久に最終真理に到達できない。究極の形相はそのparadoxicalな実現不可能性において理想に一致する。もし不完全性定理の解釈において数学が数学内部では正しさを決定しえる思考形式ではない、と考えれば、我々が数学の決定性を基礎にもつ近代科学を人類内競争応用に凶器となる適合形式として採用してきたのは単に、ある宗教による世界侵略の過程だった、と見なすのが自然だろう。とすれば、普遍理論は科学体系の外部からの批判に耐えうるものでなければならない。もし内部で生まれたものならそれは仮設物にとどまらざるをえない。
 科学の方法は利用されるべきで、決して唯一の目的ではない。理性は理性によっては批判できない。
 以上から理性はカントの考えたように目的ではないし、また同時にデューイが考えたように道具であってもならない。それは手段だ。

Libertarianismの最悪性

産業革命以降の膨張経済はすなわち、理性教が生み出した人権侵害の教義だった。では彼らの罪業はいかにして合理化されてしまってきたのか。原罪またキリスト十字架とは彼らの傲慢を暗に肯定するため悪用されて来たのが現実。この狂信を脱構築するには彼らの原理である理性と信仰を相対化するしかない。理性と信仰が癒着したとき、それはlibertarianismと呼ばれる最悪の思考回路となる。自分自身を含むあらゆる人間を道具化する悪魔思想がそれだ。私はlibertarianismを否定せざるを得ない。人間の道具化は狂信に過ぎない。なぜならあらゆる民族に優劣はなく、ただ個性差があるだけだ。

現代言論の目的

理性信仰によって成り立った一宗教。科学は理性宗教。哲学は言い訳の過程。芸術とは自然の部位。
 自然への適当な距離が必然。人間が人間を殺すことは誤り。なぜなら同類を殺しても決して種内環境は清浄能率化せず、むしろ競争効率を悪化させる。できるのは肉体的暴力によらぬ言論啓発だけ。人道の正義。狂った自然的理性教への攻撃こそ現代言論の目的に置かれる。

虚無な肉体の不幸

元来、品格の退廃を伴う肉欲の開発は不倫である。ならばこの動物化又は退化の方向にはなんの幸福もあり得ず、結局は虚無感に陥り絶望するのみ。

2007年4月18日

侵略者

人類以外、更には人類より偉大な脳髄、亦は脳自体を超越した機能を持つ地球外知的生命体を前提する事は、人類文明の無目的合理化を止揚する役に立つ。永久繁栄の理想のためには是非ともこの様な仮定が必然になる。なぜなら競争すべき相手のいない文明とは遊戯に過ぎず、精神以外に目的がない。常なる被侵略可能性へ文明強化を旨とする限りにおいて人類は目的と迄はいかずとも目標を見つけうる。幸福主義又は理想主義による詭弁を一掃するには、ただ侵略者だけで十分。詭弁術としての脱構築思想の総体も単に、文脈に拘束された古老をおどろかすための一方便のみだった。

2007年4月17日

無学の学

教育者はおのが無学の反省に基づいてのみ、後生をひきだせる。無学の学が教育。

信仰

無学愚老の愚説、年功に値せず。
儒教の腐敗は『下問』の定義を見誤る。顰斥すべき已也。

商業memo

環境主義対応の高級電気自動車に特化したブランド『自然(shizen)』をを立ち上げ、
ドイツのBMWやメルセデスを超越する日本設計車の高級自動車代名詞となれ。

向上について

聖邪もまた相対概念にすぎなければ人道は程度による。いかなる聖者も未来の普通人より遥かによこしまに余儀ない。
 よって人間の究極は超時代的聖にある。いかなる聖人を自他相対して邪とみなす事にもためらうべきではない。

文明進展の法則

マイナス側への格差は防ぎうるだけ防ぐに越したことはないが、プラス側への格差はどれほど圧倒的でも決して足らなかった。中流は上流の次元を遅れて達成する。

商業memo

一般のコンセントに合うプラグとメモリーカードスロットだけが本体であるウォークマンシリーズを発売させる方便を実行せよ。

2007年4月15日

美術論

美術とは地球文明の最適環境への折衷術に他なれはしない。装飾としての絵画や彫刻についても同じ、建築構造の合理に対する忠節の様式であればこそ造型的である。究極で美術を基底するのは、同時代で最も人気ある構造用建材の合理的な工法なのである。美術家とは次々に技術革新される構造建材への装飾適正を試作する職能。同時代の技術段階を象徴する事があらゆる美術の目的にある。従って、建築による総合によってのみ、美術の時代様式は大成される。
 又技術に定常状態があり得ないかぎり、全ての美術様式は仮設的模型以外になれない。然らば、美術の究極目的は同時代の折衷環境を最新技巧で実現する事にある。形相は常に理念への漸近としてのみ現れうるのである。どの様な可能態とはいえど次の現実態のために縁起している。究極の形相とは理念そのものに違いない。美術を固定的な本質と考える事は以上のような理由で不可能だ。それは流行を先導するような最先端の感性術に過ぎない。
 美術史とは工芸における時代間流行の必然な展開を追いかけた記録であると云える。独創と呼ばれる天分は時代様式を代表しうる個性に限って用いてよいのである。

開発memo

現状最小のMemory stickを入れ替え可能にしたwalkmanの開発を奨励する事――『選曲』の自由度を上げる。

天皇家のracism

外人と結婚する者は日本人とは見なされないだろう。

文体論

道徳と得失とは先見期間差に過ぎない。そして徳が優勢の認知に成りうるのは形而上学すなわち哲学においてのみ。生存目的のために種内秩序を最適化する論説に聡い文脈ほど哲学的と呼ばれる。しかし、この概説が半ば形而下的であるとき、それはむしろ美的とみなされ、文学と呼ばれる。哲学と文学とは文明という同じ目的を目指す二様の枝葉である。言葉遊びという点において両者は幾らも異ならない。
 ひとえに、悪どい美文や醜い高説というものは文体の変容を説明はしても文脈においては違った作用をもたらす訳ではないだろう。乃ち、反面教育にせよ正面教育にせよ、文とはみな文明の啓発を目的に読み書きされる対象である。哲学と文学を分立して考える意味は、両者が多少あれ文化的な暇つぶしをする為の道具として、抽象的か具体的かを便宜づけてきた結果。
 文明の洗練こそが哲学と文学の究極目的なのである。従って、我々は西洋文明のみがあらゆる徳の中心である、とは決して見なしえない。というのは、ある語勢にとって目指すべき文明は各々違う。かれらの文体は夫々の洗練を旨として発展する。かつて理想の定義を真善美に分けて考えたギリシア人を信仰した西洋の哲学者あるいは文学達が最高善とか美的趣味とかいうたぐいの言葉を用いて説話してきた文化は古代的。現代では、文明にとってそれらのような差異づけは巧い方便にならない。なぜなら文面がもたらす作用についてのみ、文明化の定義もある、乃ち両者は言葉遊びの文体論に過ぎないから。

現代哲学論

哲学はdeconstructivistやアリストテレスが主張するのとは相異なり、最高善を促進するための手段でありその究極ではない。というのは、理想的正義はそれが置かれる文脈または場面によって形相を変えるから。哲学は普遍的な批判に堪えうる分野だと世間から認められつつあるが、一方では生活の実践にはなんら適さない衒学つまりたんなる机上の空論に過ぎないものだ、とそしられる事もしばし。だが哲学の目的は場面や文脈に応じた使用乃ちpragmatismにあるのではなく、普遍的道徳原則を絶えず照らし出そうとする形而上学的な作戦。いわば哲学はちょうど航海の目印になる灯台のようなもので、決してheadlightそのものではない。従って哲学者が日常の場面において計らずも些細な不徳に巻き込まれる事も半ば避けられないし、その書き記した文脈が永久に善の模範となる事も考えにくい。
 この様にして学者達がその知能を時たま道具的に利用し、いわば寄宿階級として人民から暇とそれを有効に活用するだけの金利を搾取する事は、単なる悪どい生き字引としての似非哲学者を排斥する制度上での精錬必然にも関わらず必ずしも根絶すべきでさえないし、又、抜群の道徳論者が教祖として後生に崇められてから、その倫理学説すなわち宗教が現状とは大分矛盾する事を批判されても仕方ない。
 つまり哲学者は決して神格とは成り得ず、唯その道徳的意志を終生に渡って方便づける漸近的啓発を努めうる丈。実践理性の究極は説明の徳にある。そして啓蒙の精度が極まるほどに、彼は哲学者としての本分へ導かれて行く。主智的な含意をもつ語源とは違い、philosophyの今日的定義はその教育性にある。
 そして現代哲学が為しうる唯一の命題は少なくとも見通せるかぎり文明の推進に過ぎない。

2007年4月14日

口論と文論

議論は助産術的止揚が目的にある場合に限って有用で、例えばbusinessの現場においてあうんの呼吸に対するbrain stormingする際にのみ金言は正当。福沢が『学問のすすめ』十七編で云う流暢の得は、熟慮を経た一言の徳へ進化されるを得る。ダ・ヴィンチが云う如く、真理の前では争いは永遠に止む。しばしば議論の慣習へ歴代に観察しうるのは目的化口論と詭弁家の跳梁による弊害である。民主政治においてさえ議論は「公論」というmanifest説明の公開手段においてだけ有効で、決して最終目的にない。無論、煽動家は卑しき限り。弁護士においてさえ弁論術は正義の手段に過ぎないのであり、弁護に際しても勝敗目的は決して弁護人の利権を守る善の職能ではない。よって極端に言えば敗退しても永久に渡り人格の保護が図られる方が勝利して人間性が末代まで堕落するよりはよい。ソクラテスの弁明またはガリレオ裁判。無論時と場合によっている訳だが、又かしこい者へ詭弁を退けるに修辞的格言一つで足りるからには、我らは過度の無駄口を慎み必要以上の口論を顰蹙する文化品格を失わぬ方がいまのところ聡いかもしれない。剛毅木訥仁に近し。
 脱構築が差延し得る文論に限って可能な訳は、再考や再解釈の余地が常にある場合しか魂の善意を推し量りがたいという直前性への議論の持った暫時的でしかありえない劣った特徴にあった。口論では瞬間性の為にそれが不能となり、覆し難い最悪の誤審が集団浅慮に伴って常に起こり得る。

文化論

漢字に対する省略は専らdecontextualでなければならない。そういうpragmaticな改良だけが漢字を利便にする役に立つ。記号字の導入に対する文脈の保養は文化を伝統にする為の必然だ。中文字の傾向に対して日字は飽くまで懐疑的でなければならなかった。
 あらゆる知的創造にとって言語術が基礎ならば、ある語勢の持続的建設にはその織り方に各時代相応の工夫が要である。例え文明上劣位に置かれても基本的に、闇雲に文化を否定すべきではない筈。国体の批判は言語が担うから。

2007年4月13日

自然

自然の定義は理性を含む。

肩書き

衆愚は肩書きの奴隷である。

2007年4月12日

建築論

人々の趣味を鍛えるには空間への審美感覚を近代化し続ける必然がある。他方、構想力の発揮は天分に待つ。

2007年4月11日

利他性と本能の差

良心とは文物的に、道徳的利己心の集成に過ぎないだろう。すべての生体は利己的な本能に根ざす。道徳とは彼らの先見的実践知能を言い表す語句である。本能の目的と理性の本質とは矛盾しないだろう。利他的な品格、全ての良心性とは種内適応行動の時代内性格を抽出したもの。対内的道徳と対外的倫理とを区別する思念は、良心の普遍的な権威づけのためにつくりあげられた西洋型理性の謀略なのは間違いない。善意志を悪意と対置することそのものが理性の独善を自明にしている。よって、ある人文が善の前に立つとき、我々は裁判のために多角的な鑑識を可能にしなければならない。
 定言命法は理性の一元化を説明するものではあれ、決して形而上学概念の域を出はしない。かつて白人型功利主義が世界史全体として、理性に侵略を合理化させたのは確か。それが善意だと述べる連中は、いったいかつて犯した数々の殺害を肯定しているのだろうか。彼らの主張する無実の罪は近代化を償いとして押しつける。それは善を超越的前提に置くのだが、かの様な裁判自体は利己本性を時代最適の文明のもとに組み換えるだけだ。
 我々はあらゆる悪意をもたらす本能行動に対して一定の地位を与えねばならなかった。理性偏向は善にとって西洋型構造的であり、必ずしも最良の哲学ではない。もし時代の適性が変われば我々の善意志そのものが変質する。だから普遍的正義と部分的正義といった区分は哲学的宗教を複雑にするだけで役立たない。

長寿化について

死亡確率を減らし、健康寿命を延長することは福祉展開の基調。この為には出生率でさえ自然に操作される。子孫数の最適配分は文明の聡智。
 単純労働力を輸入または外注し、高度知的労働の平均化を謀るのは脱工業段階の民情に他ならない。よって、猶予を延長すること、またそれによって平均衆度を向上することは彼らの文明化に適う。

成人論

猶予の延長は人間知能開発による階級闘争最適化の便宜に過ぎない。それは技術革新による産業革命を推進する原動力となる。よって成人年齢は引き上げられるのが普通。

建築論

建築における装飾は絵画・彫刻との総合の可能性として許可される。しかしその形相は構造を強調ないしは隠匿するために制限される。構造美だけが文明建築の象徴性を極めうる唯一の目的である。それは工学と職能を審美観の基に止揚する。従って、絵画と彫刻は建築の構造へ奉仕すべき部位なのであった。構造美の極限表現のためには装飾を適度に用いる。だから強調の過度も、隠匿の過度も同様に失敗になる。又、構造美の追求の先には、その究極的な格律がなければならない。不合理は好ましくないし、かと言って単なる工学的ミニマリズムは科学技術の産物ではあっても決して芸術ではない。
 構造美の追求のためには合理観を鍛える。合理観の現代性についてのみ、建築美術の余裕はあるのだ。そこには多彩な構成への自由な規則づけの遊びが可能だからである。その様な構造合理観の求道についてのみ、ある建築構成が同時代宇宙観の象徴となりうる作用を持つ。従ってある理想的規律から造られた抽象物の証拠は、史的至宝としての即物価値を慰みうるのだ。

脱語族仮説

国家格差を破格するには先ず語族を拡散するにくはない。かれらのnationalityは言語文化の小説的な文脈に由縁している。よってある語族の文学において、一国語に、他国語を等置ないしは引文することは国粋脱構築の主要な便宜になりうるだろう。
 かれらの利己的無明を顧みなければ、たとえ経済人にとってさえ、国粋律の脱構築は利潤の調べとなる。なぜなら、ある純血国土において需要と消費の傾向は限られるのに対して、多民族国土についてはそうではないばかりか、民情の福恩的な相互作用によって新たな商系が生じることさえあるだろう。Inter-nationalityの養生は国際福祉の方途に叶うだけでなく、ややもすれば国状を優美化する。その為に国文学の単血統信仰を語類的に覚乱するのは第一歩の肝要。

知的所有論

資源を持てる国の恐慌は資源を持てない国の膨張的侵略をもたらす。世界大戦とは一様にこのような資源所有度の偏重に由来する。国土、さらに遡れば土地の寡占があらゆる意味で人間の悪行へ繋がる原因。しかし同時に、私有財産を合理化するこの所有権こそがあらゆる社会契約への行程を生み出した。
 人類の競合を約束するのは、所有格差を知能行動の活発化の方便にしようとする、文明自然の狡智だった。我々は所有権を否定しうる立場にない。国家とは私有財産間での競争を誘発するために整えられた機構だし、またなべての国際組織についても国家資本間の功利抗争を能率化しようとする神意の采配に由来する。ところで人間は同類に対する善意をも育みうる訳だった。学術と呼ばれる分野はみな、政経的な利己悪意の配分に対する利他的調整の役目を果たす。よって学問および芸術は国家の道具にされてはならず、国際的に独立し、かつ自由な公開の原理を絶えず確認され直さねばならない。
 Scienceの成果のみならず科学技術の寡占つまり知的所有権は、自体が悪意の方途に過ぎない。我々は無制約の公開を学術活動の大原則に置かねばならない。知的財産はそれがひとつの資源だから。

産業高度化仮説

国内商業の空洞化とは単に産業形態の変質経過を描像した形容表現に過ぎない。その淘汰者があぶれるのは常に産業革命の際に我々が経験してきたことで、何ら驚くに値しない。空洞化ではなく、余暇の増大に過ぎない。なぜなら若者は壮年層の扶養で充分に文化的水準の生活を享受できるのであり、そこに発生しているのはmoratriumの延長である。農村奴隷型の勤勉義務を自らに課す奇妙な国民には理解の及ばぬ事だったが、古代ギリシアの哲人は奴隷に働かせてみずからは宇宙の根源を理想して暮らしていた。働くのはそこでは低次の活動だったのであり、従ってもし我々が古代ギリシアの労働観に則れば、かの壮年層はいわば自由人の暇を生み出すための労働奴隷である。遊民とは社会の目的である。NEET、いわゆる無業者には貴族や王族、高等遊民も育まれる。彼らの遊民文化は、人間文明の生み出し得た史上の精華なのだ。
 すべて産業は一律のrouteを辿り知的なものへ高度化する、という仮設を立てよう。高度化とは生産能率の向上なのであり、それには知的中枢への労働手段集積と肉体労働力のout saucingが事情だ。人間は特に白人は、黒人という奴隷との間に能率よい分業体制を築き、そうしなかった人に比べてより高度の文明を獲得して行けた。同じく、今日の国際分業もいわば国家規模での産業高度化の唯物史的筋書きに他ならない。リカードの比較生産費説は国土と国民とが語族によって束縛されているのを見逃している。従って、却って格差拡大を合理化する功利的思索の役に立つのみだ。
 しかし私は主張する。人種の特徴は必ずしも否定できない。私は遠い将来、黄人が知的中枢へ特化することにあまり疑いを挟まない。というのは、大脳容量の人種的格差はローマより長い品種改良の成果に遇わねば是正されて来ないのだから。しかし、その認証は些かなりとも再び差別的隷従が起こることを意味しない。むしろ逆に、黄人は白人と黒人の偏差値を調整しなおすべく働くだろう。それが地球内共栄のためには是非とも必須だから。そして文士とは云わばこの様な国際秩序の推進ため自然に育まれる文明の使徒である。彼らを中心とした国際世論の先導によってしか人種間協業体制への破格ための批判は現実味がない。というのは、彼らは国家資本の功利的利潤律から独立しているから。つまり如何にしても彼らの自由言論活動が商売や権限に結びつきはしないだろう。
 文士、高等遊民の地位は知的偏差に基づく産業外余暇の成果である。

年功と忠孝の差

賢愚を構わず老人を崇拝させてきた季節風土型農村道徳則ち忠孝道徳は、東アジア人民の世界史的劣位を強化する役には立った。それは血族を仲介にした家族型封建制度の構築のための思想だった。和を以て尊しと為すという礼記の引用についてもこの農村風紀を強化する役でしかなかった。精々の二毛の稲作で、総掛かり的産業に特化した東アジア民情は儒教ideologyにより権威づけられた。それは神道的寛容を含め国教以外にも余地を残して居れた日本において自主破格可能だった。
 ところで日本の維新後の急激な近代化には武士道が原理づけられると主張する群衆には、その道とやらがたんなる忠義の向け換えだったことを認証するのみ。かれら近代日本人民は、主君に誓った忠誠を愛国心に当てはめる事で後先顧みず先進国入りへ脱皮したのだ。それを維新デビューとからかえる。彼らに残存する忠孝道徳はかつての劣位文明だった日々をつねづね懐疑させるに十分故。肉体格差による弱者へ優しくすることと、社会の権益を年功序列化することには多大な隔絶がある。
 老人の悪魔的上下社会型支配によって、単に捕虜にして用いればよい中国人民を大量に虐殺した過去を覚えよ。ドイツにおいてもこの縦社会の弊害は明らかである。そもそも彼らが持たざる国へ後塵を拝した理由こそ、このような民風の保守性である。ゲルマン民族についても日本民族と同様の単一血統観が国情を保守化し、同時に強固な縦型身分序列を設けることに繋がる。縦型の風紀においては中央集権の必然的腐敗により大王の悪魔的行為がなんら防ぎようが無くなる訳だ。我々は既に神道と日本国、あるいは公明党と創価学会の政教癒着的増長のなかに、再び忠孝道徳の弊害から来るごく腐敗し易い集権化の芽をみいださずにはおかないだろう。

分業の理由

地政史の功利が則ち人種格差の要因だった。とすれば人種差別もある程度迄は功利主義の適意に叶ってきた。我々の国家区分にしても同然。

 農業用地と労働力確保の優劣に由来する分業の能率が東西文明格差の原型。西洋理性万能主義の限界はそれが合理化の経過に過ぎない事にある。
 所で白人の覇権を「脱構築的に」覆す事は白人自身にとってさえ功利的なのだった。彼らの主張した民主主義とは則ち、市場の侵略的拡大による搾取福利の原理に過ぎない。

 それらの覚醒によってさえ、異種文明間の抗争は止む事ない。

 国土執着の脱会は人間にとって極めて根本的な「進化思想」に類する。
 語族を破格しない限り、すべての文明格差は必定の文化偏向。そしてある国土に人間を縛りつけておく亜因こそが国語。

 我々は第二外国語への習熟度を高める事でnationalismを破格する。言い換えれば、ある国粋性向を産み出す悪因は母語の単一制。母語の属する民族に依存しなければ国土へ贔屓ひいきする理由はなんら無くなる。

 国家と個人は――文明が永久繁栄を志すかぎり――透明でなければならない。両者が血統において癒着すれば、その滅落は避けうるものではないだろう。なぜならnationalityは地球適応への進化系であり、化石化すべきではない。

 彼らの国際分業は規模拡大された格差合理化。その調整には国連権限の拡充が是非必須。

経済学

最適配分のためには常々努力制が図られねばならない。学歴制、日本においては科挙型受験の偏差値配列による身分制度は間接の世襲制であり、国状を形骸化せずには置かないのだから。
 世代間闘争は、再び礼儀という便宜を極度に洗練させる。残り少ない人生時間では貯めた財産を投尽しきることは到底不可能である。よって、奴らの死後その財産のほぼ全ては後生の所有となる。

都市設計論

車歩分離の漸進的改良、車道を厚いガラスで覆うこと。さらに排気ガスの微粒子を防ぐため可能ならばチューブ状にするが好ましいが、必須ではない。少なくとも別け隔てることが重要。

2007年4月10日

審美論

文化的な審美偏見は文明の相対強弱に依存している。美は比較的な理念に過ぎない。審美文化自体が他のあらゆる人間活動の量質区分に依拠しているのだから。

都市計画論

低層の機能化、高層の居住化は、現代都市が漸定的に目指すべき基本的な構成論に違いなし。基盤は地下へ、表層は上空へ、これが原則であれ。なぜなら動力化は自体、地表の塵埃を決して失くさない。Park&rideの部分的採用が果たされて行っても、都市部地表面を完全に清浄化することは不可能に近い。従って光・空気・緑に関するコルビュジエの都市計画を批判的に摂取せよ、高層階の戸外解放への啓発は必ずや現代化の様相を一変させるもの。地震国土である日本における、再開発上でのこのような展望の建築的成功は、地球世界の都市工法へも強烈な影響を与えずにはおかない。それは季節風土型の風情都市設計のうちには、四季折々の自然空間の型が数知れず実行されるのを目のあたりにするから。具体的建設に関すれば、自動車道路の地下埋設及び空中歩道網の構築は複合的建築物を面剛性に似合うものにする構造方法の発展を指導せずには要れない。則ち、脆性破壊を起こし易いRC短柱ピロティはできるかぎり破棄され、代わりに少しは長い幅を貫く鉄骨造の橋梁風通路が合理的にもなる。それらの接合によって敷地間の異者建造物は水平力的に一体となるべきもの、例えエキスパンション・ジョイントにより鉛直力的に絶縁されていてもそうである。
 もし空中歩道が公益物ならその形式は一般化されて然るべきである。従って、かの通路はより巨大な複合施設の建設に併せた一体の面鋼材であるべきなのが将来である。
 この様な計画立案を実施するには、大体においてまず駅前再開発において為すのが適当だ。それを通じて駅前の現代化から風情都市化の行路は辿られれば良い。

都市論

日本の都市は戸外空間を回復しなければならない。風情の原因は季節風土における四季の快適さにある。実際、そこへ最適化した暮らしは最も省エネルギー的でもある。太陽光発電や熱電併給による産エネルギー的工夫と同時に、環境汚染を避け得る代替発電の開発迄の国土養生は、この風情都市の建設へ向かうもの。動力化と高密一極な都心集積とは日本の居住環境を悪化させるばかり。これには近代化にまつわる必然性もある。例えば建築敷地の接道義務は消防車があらゆる土地で活動しうるように工夫されている。
 もし巨大へ向かうみやこの内部化でますます灼熱化・機械化・非人間化する都市環境へ改良の余地があるなら、それは個人資産を含む国家資本の自動的生成に対する批判の提言でなければならない。都市計画者をふくむ建築家が目指すべきは福祉を目的とする温故知新計画の提案によって世論を啓蒙する事である。

中道主義について

政治において社会主義的国粋閉鎖[極右]も、民主主義的煽動政治[極南]も、或いは又、経済において共産主義的階級迫害[極左]も、資本主義的生存競争[極北]も、みな誤った道に他ならない。正道はそれらの座標が示す中道にある。則ち、中流最多を原則とした世論政による分業と再分配の互恵的繁栄が一国家経営の目的である。

 民主主義政治は煽動政治家の登場によって没落し、衰退する。Polybiosの政体循環説に基づけば、その後に現れるのは王政の復活に他ならない。事実、抜群の煽動政治家: demagogueとは詭弁術の天子であり、究極では独裁者への腐敗経路を辿るべきもの。よって民主主義への過信はこの誤った道への必然の工程でもある。
 世論政: civilarchyとは共和政の極度の中正: mesotesを言い表した語意だろう。そこには貴族による漸定的間接選挙民衆政内での自由な啓発がある。もし彼ら高等遊民層による絶えざる衆度の養生がなければ、決して煽動政治家の再支配による政体衰退は避け得まい。

 現況の私の考える、理想的当為に値する政治形態は以上のような中道主義にある。それには報道の独立が何よりも重大である。煽動政治家は必ずや大衆世論の衆愚化のために検閲を設ける愚行を巡らすものだから。

日文論

Alpha-betaは決して純正の表音記号ではない、だからカナ文字に比べ、発音記号を要する不便がある。よってローマ字とはいえ、表意性の恩恵によってのみ文明的。もし明日にもあらゆるローマ字を表音記号で記述する様にしたら大混乱が起こるだろう。それは不条理だから。より複雑かつ個別的・限定的な方言の揺らぎが不必要に際立たざるを得ないし、大体が間延びする。それは日文においてあらゆる文語をカナへ書き下せば分かるように不便。いいかえれば、表音文字は文明の目的にはない、むしろ言文相互の変換能率が合理。
 現代中文において盛んに、ほとんど由来のない略字が導入されているが、実はそのことによって文盲は更にふえがち。なぜなら文語においては表意性が目的。表音とは、読むためだけに必要。よって、中文の改良に当たっては凡そローマ字型alphabetによる発音記号のカナ振りがより適当なので、必ずや無闇な略字は不文を推進させる原因にならざるを得まい。なぜなら方言に対する標準語への統合是政にとってもその読みの定まらない文字記号は邪魔でしかない。
 音読み・訓読みによる外来先進文明字の表意利用法的援用は日本語における文明を前進させる。なぜならそうすることで言文相互の情報効率を向上させる。日語は漢文字にあれalphabetにあれ文字の持つ表意的可能性を抽出するために、表音仮名の利用法を適宜応じさせて消化した。それらの表記的工夫は結局、もとのことばにとっての媒介でしかない。

学歴主義の非

大学の権威は自由主義内に流毒する病気でもある訳だ。少なくとも現況日本において、学歴制は中流最多の原則に対する。なぜなら格差は教育可能性に直結する。高学歴化自体には格差を拡大する向きがある。国家を強化するから。よってそれは又、南北あるいは東西の経済偏差をも誘発する露悪たりうる。とすればいずれこの様な歪みは奴隷化の悲劇へ繋がるのが帝国主義だった。
 学位とは人間性への冒涜。その権力破格のためには如何なる手段も択ぶべきではない。たんに学閥を政治的に調整するだけでは足らない。学位の授与自体を大学組織の生態維持のためには停止することは専らできない。とすればその相対化、漸進的な無効化が会社的に慮られるべき。学歴不問の吟い文句が企業内での人材淘汰を義務づけ、同時に雇用の流動を指導するのは周遊的。商業の競争中枢は能率へ還元されている。趣味人の正道が国際実益の優先にあるのは明らか。それは究極において国家資本を脱構築する場所までとどまらない。

2007年4月9日

学歴制の害

より暴威に属さない正しさを現象させる事は全ての倫理哲学の実践が目指すべき方向。身分が職務に対する呼称のみならず、人格に対する差別を伴う民主政内差別構造であるのは周知。よって我々の正義はこのような体制内腐敗の芽を摘む事、身分を破格すること。肩書きを隠匿することは極めて建設的な知識人格処世。というのは、自ら肩書きを表明することはどちらの差別に遇うにせよ身分制の強化故。自由主義者は職分と身分のあいだに如何なる差延をも見つけない。しかしこの様な方便では所詮、国家の独善から免れないのだった。学歴制は高級官僚による煽動政治の世襲寡占術になんら違わない。
 先進知識人、文士の民主教化によってしか学歴制の弊害を破格することはできない。衆愚の偏向した身分差別観は例外との均衡適切へ向けて修正されることを要する。穏健主義の言論政治的な改良乃ち、世論政だけが衆愚政治の堕落に対する革命としての最終地点を示している。それは学歴制の脱構築を確かに要求している。

振り仮名論

語類とは存在しない。あるのは無数の文化枝葉のみ。かれらの文明は文化交易の中和にある。しかしながら、語族間の競戯は建設的である。
 人々が時に民族主義を文明化の手段にするのは自然の狡智の範畴に属する。帝国主義は文化を強制的に混ぜ合わせる熱力学作用に変わりなかった様。国語の純血性を破格しない限り衰退やその絶滅は避けうるものではない。脱構築の実用的な実践は国語の破格へ向けられねばならない。それはnativeな語を分断する文脈に拠る可だ。
 われわれはあらゆる国語において振り仮名の用法を適用しなければならない。純血主義の文化はいずれ枯れるもの故。

建築論

机上にあれ都市にあれ、より手際よく先見的に整理するしか建築家の仕事はない。適当は整理美の神髄である。混沌度の極大も極小も芸術美の目的には値しない。人間にとって目指される環境は自然との調和適正度の究極である。

感覚論

抽象の最終的形態、究極の形が固定した姿でないのは明らかだ。調和は環境に対してのみ精神の快適だから。環境が可変な現実界においては最終形態でさえも不変ではない。私はこの点に至ってアリストテレス感覚論をはっきりと批判できる。カントがかれの後輩ならば、師を論駁すれば弟子を相手にする必要はない。
 例えば視覚への色彩感において我々は分解の極度に至っても、原色以上の秩序を確定できない。モンドリアンとデ・ステイル派などは人間原理に基づいた普遍様式を確立しようと努めたにせよ、かの原則は人工建設に対するある基礎を示したにとどまった。
 多声主義は別の規則を主張している。調和の理想は地球環境の普遍的infra structureと個別的supra structureの文化的な多律共栄へ芸術活動を指揮する。よって、普遍様式は構造手段の理論であり、決して意匠目的の姿ではあり得ない。しかもその様な調和は、絶えざる最適応の趣味競戯、つまりは文明段階への中道を執った審美技術の斬新結果にある。であればこそ芸術がたんなる整理術ではない理由もある。
 芸術家が為すのはentropyの闇雲な最小化ではなく、自然的混沌に向けた調整の工夫に過ぎない。よって、よい芸術、すなわち美しい芸術は一文明内工芸の合理化へ適宜、先鞭をつける。芸術史の流れは決して原則化できるものではないし、すべきではない。破格の連綿だけが芸術史だったしこれからも同様。むしろ破格とは絶えず再生される独創イデアの観念形態に過ぎない。また芸術の展開は云わば口承の伝統に待たねばならない。いかなる芸術作品とはいえ工人の姿勢迄精密に伝達するものではないから。我々が芸術を学問体系から分離しなければならない理由は以上にある。

芸術論

世界文化遺産と言えども根本では国財間の取引物に過ぎない。芸術史とは作り事でしかない。彼らは工芸の趣味を交易するなかで時代劇に適当な衣装を形作る。芸術家、文化の犬。彼らの感性論議とやらが恒に帰着する所はおのが属する文脈の擁護のみだった。そう迄してその未熟にして惨めな粗野の趣きを押し付けっこする姿には醜酔の体が精々だ。精神は宇宙の第一の理性である。ダヴィンチが自然を師と仰いだ事には痛々しい記憶丈がある。
 遥かなる混沌へ美醜を見分けるのは彼等の人間原理だけである。従って自然の驚くべき無限へ崇高を感得した古人に対して、芸術すなわち文明はその範囲の有限において美しい。
 我々が人間適応環境の想像の為に自然の都市を含んだ工程へある感覚を抱くのは知能のゆかりなのだ。普遍にあれ個別にあれ適応した姿は美しい。むしろ其処が宇宙のどの特異点であるか、といったことは些細な条件だ。
 すべて対比においてしか美学はない。対象が延長しない分野についてのみ我々が合理的形を審査する余地もある。異和の定義は不合理、すなわち過剰の虚飾とか過度実用的即物感にある。全ての芸術はエントロピーの縮減である限り自然に対する抽象行為としか言えない。
 究極美は調和にある。それは常なる合理的折衷の調度に他ならない。

2007年4月8日

隠居

閑暇は地位よりも余程名誉の道具となる上に過ごし易い。とすれば、かの出世法とやらは総て徒労の大獄でしかないのだ。

2007年4月7日

博士

博士は暫し蔑称である。

目下

教授という卑しき商いは科学の安売りになんら変わりない許りか尚一層無能の実験経過を浮世で演じる猿回し。
 果たして第一級の文士は市中の隠を信条とすべし。そうであればこそ学園と名づけられ偶像化された団体の堕落劇場を激減しうる境遇にある。

孤軍

功名に奔走する文化人。実際、授賞式とやらに歓び勲んで凝った正装をする禿げ鷹どもにも何の徳もなし。学界あるいは各種芸術界と呼ばれる有識者の相互利益用の高尚会合とやらは、伝統があればあるほど須らくみな俗物臭のデカダン互恵領域でしかないし、無論それは奴らの知性を骨抜きにする迄飽かず続けられる蛮族の戯れ事なのだった。我々はニュートンが下等な論争で駄目にされた実例に鑑みればどんな栄典へも無視が絶対である。それを採らねば殺されでもしない限り、求道の邪魔になる重荷は早速棄てよ。というのは、世俗間のかの名誉の徴とやらは悉く馬鹿の実証であるから。
 奴隷の勲章は人間の名誉にないのだ。学術成果の種内伝承、卓越の恵与、民族経済への功利的な献身、乃ち啓蒙以外に如何なる仕事も汎神意中になし。
 君が賢ければ賢い程、やつらの時間潰し集団から退けよ。そうでもしなければ大半の研究のひまは議論と呼ばれる低脳説得の説明術に投尽され返っては二度来ない。

模された神の手或いは人類史の自然

たとえ外国のそれとはいえ、全ての敵対的軍事部を破滅させる干渉の手段へ幾ら長じてもすぎない。外政非触の理屈は国家企業的なものであり、決して国際的ではなかったのは幾多の世界大戦という人類史的失策が実証して来た。
 我々は他ならず言論的迫害及びそれを正当化する国富格差の圧力で軍廃への道を経る。軍備の自主委譲を誘発する原因こそ経済制裁の可能性による間接の恐喝或いは現実的説得。それが終局では地球文明建設の基となるのだろう。

多声主義

文化多元律的世界市民主義、略して、多声主義は現代国際文化交易にとり最も適応的な思想。というのは、地球内の共栄には互譲と自律を兼ね合うより他になく、が為には各自多声的な互恵趣味に耽るだけなので。

思索

貴族権があるのではなく、職務権があるのみ。

2007年4月5日

科学論

科学は可能性の学問である。

中国文化論

ピンインとボポモフォとを素直に併用すれば中国文化の自己衰退は容易に防げた。孔子曰、性相近也、習相遠也。伯夷叔斉不念旧悪、怨是用希。事実、薩長土肥京芸をはじめ明治政府の侵略罪業もまた何らかの残悔を経なければ浄化しないだろう。

建築論

住まいの神髄は風流にある。

2007年4月4日

朝鮮文字論

ハングル仮名の混用は朝鮮的に功利だろう。

英字導入論

日文は世界文明への通用を最大限容易にすると同時に、文化的な独律の高級を極限に緻密化する趨勢でなければならない。日文において英字を導入することには国際適応を功利化する、という究めて自律的な命令がある。

日字論

繁体と簡体を止揚した日本漢字の執るべき途は、自然淘汰というべき使用例に即した抽象過程に他ならない。少なくとも傑作文学はこの脱文脈的な模範となる。
 し無理に中央集権力が省略すれば文化的伝統は断命し無明がはびこるし、同然に、若し新たに民承で自発創られた合理的用例を無視して古典偏重に依れば、文字そのものが死文化と化す。今例を出す。者という字には豪奢の奢に観られる如く、かつては点が付けられていた。「者」は、語源的には、「曰(エツ、のりと)の上に木の枝を重ね土をかける」という、表意的象形である。このかける土の動きを現すのが奢に残る小さな点。それは東洋民族における映像的抽象画の文字的慣例。ところで日本民土において者はやがて老や孝や考などの語源の異なるべつの文字と混同され、「もの」の意味に援用された。者の他のこれらの字において、土とノを組み合わせたような上部は、長髪を横から描いた絵画的象形画例に違いない。とすると、者として現代の我々が用いている文字は、土塁という元来の意義を人へ転用して、「もの」という訓に対する仮借であると考えても大方、さしたる錯誤にはならないだろう。つまり、日本民族は者を、モノというやまとことばを描写するために、城壁にもちいるobject(モノ)と人物というsomebody(もの)を通用させる便利としてきた、いまなお。そこには単なる混用があるのではなく、なぜなら土塁作造そのものには土垣をつくるとか土庸を築くとか、活用的表音を含む別の言葉が充てられたから、むしろ表意の透明な援用がある。よって土をかぶせるという意味は多少後退し、代わりにある典型化された横顔を示す者という日本漢字、いわば日字が創造されている、とここでは捉えていいといえる。日字は漢字の創造手順を消化し、もはやみずからの文化として確立している。それは古今中国における表音主義的中央管理方針とはおよそ別の語文化学的体系である、と認識されるをえる。和字は東洋文化の確立された一類で、語源は漢字に属してあれどもはや単なる中国の言葉ではなくなっている。およそ純粋表意文字へのめあてのもとに。
 以上から演繹される事に、既に儲けるという語法において当用される儲なる語句について、最早元来の成立からかなり離れる用法において、「土をかける点」という文化的な手順が手間を省略される事にはある文化力学的な智恵がある訳だ。儲とはそなえる・たくわえる事を意味する、ショすなわち諸々もろもろ土垣つちがき
の形声的構成である。然れどすなわち儲においては、人へ言う者、商い的な仕草という様な判明な通俗的解釈が表意体系にとり適当。これは老孝考などの文字との通過をよくする為に、きわめて巧みかつ緻密に整理された伝承を意味しているにすぎない一例。象形文字文化はきちんと足跡をつけて一歩ずつ慎重かつ温故知新的大胆に抽象されるべき過程だった。そうでなければ直ちに古代との民情関連を断絶し、風紀は荒廃する。即ち正名論。象形表意の進化は地球文明史へ生きた宝を奇跡するだろう。いわゆる時枝誠記の論にあるようなことばの関係は、近い将来のその基底かもしれない。
 上記説の結論を繰り返すなら、我々の字は、もっぱら社会中の自然淘汰にまかされねばならない。然るべく改められる文字体系への規則とは、慣習の合理的な変遷に応じてのみ理想に福祉的だから。

文学論

啓発のための技巧の最高峰が同時代の傑作だった。

2007年4月3日

信仰…独立自尊

世俗に遊ぶことのすべては啓発の手段に過ぎぬ。
浮世に熱を入れることが無い者は救われる。

 よい事を勧め、わるい事を裁くように方便に工夫を凝らせ。
為には、公正無私な独立心を拠り所とすべし。
良識は独立自尊から生ずる。

名分論

余りに名を避けすぎてもよくはない。なぜなら同時代啓発の遅れは君の孤立を一層高め、のちには隠遁のほか道を無くしてしまう。よって浮世の名誉は中庸を目的にするがいい。と同時に、永世のほまれは売名によって得られるのではなく、徳によるのだ。

恋愛論

男女間の在来的闘争を後発的遊戯へと展開することは恋愛の芸能。いわゆるおしどり夫婦はこの境遇を互いに悟りきった姿。

神化

我々の実存を神にも似た次元へ昇華する道を辿るほうがよい。それは清浄な幸福を日常の和やかな終生により締め括る。

分別

救済は大部分、宗教により図られる。

2007年4月2日

説教

黙して語らず。文事のみ。

神の英知へ至る道

性欲を直視することは人間の堕落を誘わずにはおかぬ。
かれらはその泉を恰かも秘宝の財脈でもみつけたのごとく崇拝するのだが、
実態でいえば、地下生活にとって唯一の湧き水ではあるそれに含まれる毒素に被れ、大半が退廃し若死にす。

とくに老いるほど酷い場合――つまり殆どの愚老において――は、
人間とやらの最低の醜悪さはやつらのかぎりなく汚らわしい性欲にみられる。
 わたしはジジイが女を買うことを人間の中で最低の行為だ、と信じている。

 考えてみたまえ、もしフロイトがたまたま具眼の士で、libidoの昇華が文化的高尚の徳だったなら、
人間の知能は終生発達しうるわけだ。
 というのは衰えるにせよ性欲そのものを生み出す人体の仕組みは生態あるかぎり不変だからである。

すでに無能になった老後において果たしてなんの生きる価値があるかを問う愚民には、
「老いた像は集団の賢者として長老の果たすべきつとめを果たす。
それがゆえに、死に際して多くのはなむけが次世代から与えられる」と答えよう。
 性欲は浄化されればすでにして英知の泉となる。

通俗語を破格して語源に基づけば、それが情欲[精神欲]と呼ばれて然る『消毒された泉』なのである。

われわれが若者へ盛んに交尾を奨めるべきではない。
むしろ、できうるかぎり巧妙にそれへ罪悪感を抱かせ、
性へ初めて触れるまえに終生を貫く『勉強』の態度を培わねばならぬ。

これが修養されない段階で性社会に陳入した馬鹿のみが将来の愚老宣告を施される、前科持ちとなるだろうよ。

やつらの再勉強は童貞や処女に比べほとんど何十倍の苦労を伴う。
なぜなら本能は性欲の泉にむしゃぶりつき、その毒素を含んだ汚れた水をまるで人生という砂漠に沸いたオアシスと勘違いするものだから。獣類にも劣る馬鹿ども。
 やつらが絶望するまでには《退廃した私的放逸》という、
いわば社会的堕落に同義の罪業を幾度となく繰り返さねばならないことが多い。
やっと地獄沙汰の末、悟りきったところで次に待っているのはかぎりなき「階段」なのだ。
その毒素により筋骨蝕まれたからだには、地獄の底辺で獣類同然の仲間と愚痴をいいながら腰を振り続けることが精一杯の生活なのである。

老熟するほど高尚上品の趣を況してあまねき年齢や性別や民族のひとびとからふかく慕われ、
なおさらおのれの精神的楽しみは輝きを増し、死を惜しむここちを隠して全力を以て生涯現役の知的労働へ邁進する求道者とでは、
果たしてどちらがより人間のあるべき様なのか赤ん坊の時代とはいえ理解できたのではなかったか?

赤ん坊より堕落した人物には残悔(ざんげ)を繰り返し心を入れ替えるほかに世に身の処し場はない。
 救済されたければ勉強すること、とくに性欲の放埒を慎み、
むしろ優美な恋愛を好んで中庸な交渉頻度に留まるべきだ。
性欲から目を背けることは晩生に至るまで不変の至善である。

情欲の養生をし、性欲は慎まねばならぬ。
婚姻以前の性的興味を避けられるだけ避け、また結婚後なら性生活を可能のかぎり質素に保つことだ。

芸術教育論

すべて芸術教育とやらの現場は腐敗する。客観的法則を脱構築することでしか成立しない芸術という栄為を馬鹿にした伝統芸能のアカデミーは、みな、社会に対して多大な詐欺を働く機関として公衆認知されねばならない。そこから出てくるのは、伝統芸能的、文化最先端の現状では役に立たない古ぼけた規則を習得しただけの、二流のみであるから。
 この点では、文壇などと呼ばれる既存権威の集積にもなんら価値はないばかりか、独才進展の阻害となるばかり。芸術の学習においてはみずから規律をつくりあげる様な創造的な修養だけが正道である。教養はその道具となるだけで芸術に必要ではない。この点ではカントの教養主義もあやまちを犯している。
 むしろ、文学研究者が大半陸でもない作家でしかない例をよく分析すれば理解しえるごとく、芸術家存在の最高の勉強は技術の修練だ。理論と実践を媒介するのが技術、と文脈づければ、理論すなわち教養は素材であり目的ではない。教養の差異とは時代環境差を設けるだけで、芸術の本質には無関係と言われなおすほうがよい。すなわち、文化の代表は時代における最高度の美の技術により結実する。芸術教育は徒弟制、それが否応なく無理なら私淑でしか不可能である。そうであればこそよりよい師匠への選択説的淘汰が働く。いわゆる芸術アカデミーの集団教育ではこの様なことは不確定な師匠配分により全く不可能だ。しかもいまだ権力なき学生側からの批判が有効にはたらく余地はない。仮に学生評価を重要考慮したとしてもやはり、人気が殺到した教授が学生全域を相手にすることは考えづらい。しかし、既存アカデミーではこの改良策をとらざるを得まい。人気なさこそ少なくともどの時代環境下における無能の証明である。逆に、弟子から人気ある芸術家こそ、時代における最高の指導的象徴となりえるだろう。たとえ後世死後に至って尚その様に。既存の芸術アカデミーとは芸術ではなく、伝統芸能のまなびやであることが現代万人へ自覚さるべき、と私は信じる。

普通教育論

教育格差が肯首されて然るべきのは中流最多の原理が守られてこそだ。もしそれを逃せば、奴隷制は人間倫理の腐敗をもたらす。普通教育とは中流市民を目的とされて然るべきである。すなわち、一般教養の成育こそが教育の基本でなければならない。落ちこぼれへの救済措置を多層化すること、また優等生への飛び級を推進することが現代教育の改良にあたり大事である。これらは生来の学習能率格差、つまり個性を認めつつ、各自の最終目的を中流市民の高度化へと繋げる文明的な福祉の意志を与えることで、成功するだろう。

信仰

お前になら見える。
目を凝らせ。
君はサルどもとは異なった生き物だ。

2007年4月1日

自殺について

自殺する事は無能さに漸近する。

競技の魂

平和の為に命がけになる文明の人を運動選手という。人道の英雄の為に、褒賞すべきである。

科学の工夫

生涯最適の学習の為には、細分化されて限りない科学のなかで一体、何分野のどの研究がおのれの知能程度に省みて残りの人生時間を捧げるに足る勉強かを、学習過程で悟った際にしばしば軌道修正・再計画しながら推究していく已。

民族概念の解散

民族の自己解散は現代国連社会にとって真剣な命題。先進国連において漸進的に達成されるべきこの状態の為に、専ら異民族との混血も推奨されねばならない。尤もこの進展には斑がある。なぜなら同族嫌悪は心理的な必至で、特に格差がある場合に。文化の混濁速度にとっても同様に。その場合、両者の民族特徴はかえって差異化へはたらく。
 雑種との交配はみな特徴を平均化へ近づける。この展望の先には自然、地球人と呼びうる世界市民族が発達すること必定。国家への依存心を脱却したかれらの後国民的な結託においてのみ、究極の国連秩序は建設の途に就きうる。かれらの話す言語は決して国語ではないだろう。少なくとも先進国連は国語を否定しなければならない文明地点に来ている。
 複数の異民言語を独自に混合してもちいる中に、語族の中性化への真実の道はある。いわゆる世界語のたぐいはすべて偏見を避けられず、かつ事実上は大衆日用に適さず普及しがたいので、現実に可能なのは国際社会の現況に則した不特定の仮設世界語を断続的に繋げることのみ。

情報商品

周囲のケータイ同士を識別してメッセージを送りうるシステムを開発普及する便宜を執れ。
――日本のような習恥風土における自由恋愛の壁を下げる方策。

数学

記号列や数式も文法の一種に過ぎない。

文芸論

文芸における文字内容はみな、その美を表現するための方便に過ぎない。散文、詩、物語による文脈の有り様がこの原理を破りはしない。寧ろすべての文章の意味は、文芸においては言葉の風雅を音形的に抽象するための便宜なのである。もし内容が目的ならば、文芸は説明の術として哲学の下位に置かれねばならない。つまり哲学のかみくだきでしかない。啓蒙書としての側面は単に、時代の突出した美意識の表現者はしばしば、極度の同時代教養人であった事例に根拠を持つ。それが必修ではない。
 哲学的啓発性は文芸においては目的ではなく手段である。啓蒙性を持つがゆえに文芸は道徳的または知的価値をもはらみうる。しかしそれは傑作の十分であり必要ではない。証拠に、単に感性の再生しか特別な意味を為さない俳諧のたぐいにも文学的価値は充分にみいだされる。これは俳諧に限らず、世の文芸全般に言えるもの。文芸の究極は文明にあり、それは音形の来るべき合理美学的抽象過程の独創体系を通じて、意志伝達能力と人民情報処理能率を向上させて行こうとする語族の啓発ではある。

文士は無冠を旨とすべし

すべて、肩書きとそこから発生する上下関係的身分差別を剥奪するうちにのみ、文士の践み行うべき教えはある。ならば、かれらにとり受賞や爵位その他栄典の現世内受領は完璧な罪恥であって、名誉では無論ない。対偶し、名分授与についても同様に、である。すべて個人の意志に叶う最低限度必要な肩書き以外の栄典は避けられるだけ避け、断り得るかぎり断るに越した賢明はまるでない。
  君は文士が俗物だと信じる事ができるだろうか。もしそうでなければ人間に信頼し得る魂はない。