2007年4月14日

口論と文論

議論は助産術的止揚が目的にある場合に限って有用で、例えばbusinessの現場においてあうんの呼吸に対するbrain stormingする際にのみ金言は正当。福沢が『学問のすすめ』十七編で云う流暢の得は、熟慮を経た一言の徳へ進化されるを得る。ダ・ヴィンチが云う如く、真理の前では争いは永遠に止む。しばしば議論の慣習へ歴代に観察しうるのは目的化口論と詭弁家の跳梁による弊害である。民主政治においてさえ議論は「公論」というmanifest説明の公開手段においてだけ有効で、決して最終目的にない。無論、煽動家は卑しき限り。弁護士においてさえ弁論術は正義の手段に過ぎないのであり、弁護に際しても勝敗目的は決して弁護人の利権を守る善の職能ではない。よって極端に言えば敗退しても永久に渡り人格の保護が図られる方が勝利して人間性が末代まで堕落するよりはよい。ソクラテスの弁明またはガリレオ裁判。無論時と場合によっている訳だが、又かしこい者へ詭弁を退けるに修辞的格言一つで足りるからには、我らは過度の無駄口を慎み必要以上の口論を顰蹙する文化品格を失わぬ方がいまのところ聡いかもしれない。剛毅木訥仁に近し。
 脱構築が差延し得る文論に限って可能な訳は、再考や再解釈の余地が常にある場合しか魂の善意を推し量りがたいという直前性への議論の持った暫時的でしかありえない劣った特徴にあった。口論では瞬間性の為にそれが不能となり、覆し難い最悪の誤審が集団浅慮に伴って常に起こり得る。