哲学はdeconstructivistやアリストテレスが主張するのとは相異なり、最高善を促進するための手段でありその究極ではない。というのは、理想的正義はそれが置かれる文脈または場面によって形相を変えるから。哲学は普遍的な批判に堪えうる分野だと世間から認められつつあるが、一方では生活の実践にはなんら適さない衒学つまりたんなる机上の空論に過ぎないものだ、と
謗られる事もしばし。だが哲学の目的は場面や文脈に応じた使用乃ちpragmatismにあるのではなく、普遍的道徳原則を絶えず照らし出そうとする形而上学的な作戦。いわば哲学はちょうど航海の目印になる灯台のようなもので、決してheadlightそのものではない。従って哲学者が日常の場面において計らずも些細な不徳に巻き込まれる事も半ば避けられないし、その書き記した文脈が永久に善の模範となる事も考えにくい。
この様にして学者達がその知能を時たま道具的に利用し、いわば寄宿階級として人民から暇とそれを有効に活用するだけの金利を搾取する事は、単なる悪どい生き字引としての似非哲学者を排斥する制度上での精錬必然にも関わらず必ずしも根絶すべきでさえないし、又、抜群の道徳論者が教祖として後生に崇められてから、その倫理学説すなわち宗教が現状とは大分矛盾する事を批判されても仕方ない。
つまり哲学者は決して神格とは成り得ず、唯その道徳的意志を終生に渡って方便づける漸近的啓発を努めうる丈。実践理性の究極は説明の徳にある。そして啓蒙の精度が極まるほどに、彼は哲学者としての本分へ導かれて行く。主智的な含意をもつ語源とは違い、philosophyの今日的定義はその教育性にある。
そして現代哲学が為しうる唯一の命題は少なくとも見通せるかぎり文明の推進に過ぎない。