2007年4月15日

文体論

道徳と得失とは先見期間差に過ぎない。そして徳が優勢の認知に成りうるのは形而上学すなわち哲学においてのみ。生存目的のために種内秩序を最適化する論説に聡い文脈ほど哲学的と呼ばれる。しかし、この概説が半ば形而下的であるとき、それはむしろ美的とみなされ、文学と呼ばれる。哲学と文学とは文明という同じ目的を目指す二様の枝葉である。言葉遊びという点において両者は幾らも異ならない。
 ひとえに、悪どい美文や醜い高説というものは文体の変容を説明はしても文脈においては違った作用をもたらす訳ではないだろう。乃ち、反面教育にせよ正面教育にせよ、文とはみな文明の啓発を目的に読み書きされる対象である。哲学と文学を分立して考える意味は、両者が多少あれ文化的な暇つぶしをする為の道具として、抽象的か具体的かを便宜づけてきた結果。
 文明の洗練こそが哲学と文学の究極目的なのである。従って、我々は西洋文明のみがあらゆる徳の中心である、とは決して見なしえない。というのは、ある語勢にとって目指すべき文明は各々違う。かれらの文体は夫々の洗練を旨として発展する。かつて理想の定義を真善美に分けて考えたギリシア人を信仰した西洋の哲学者あるいは文学達が最高善とか美的趣味とかいうたぐいの言葉を用いて説話してきた文化は古代的。現代では、文明にとってそれらのような差異づけは巧い方便にならない。なぜなら文面がもたらす作用についてのみ、文明化の定義もある、乃ち両者は言葉遊びの文体論に過ぎないから。