女権への過度の贔屓勢力の論理はこうだ。「Feudalism又は封建制度下でそうであった様な制限選挙では、女性の尊厳は賎しめられ、本来の姿を歪め、家に閉じ込め不幸にしてきた。これは福祉の本義にもとる錯誤である。従って、私達のfeminismは男性と同等の権利を獲得し、これに応じて女性の社会的解放を要求する」と。
スチュワート・ミルのようなutilitalianにありがちな論。その最大の矛盾は男女の分業が有性生物の徳であった文化基底への無知に属する。かつて歴史上で女性が子供を育児せず公的社会で競合し、男性が哺乳をして家庭を治めた時期は一度もなかった。仮にそんな社会があれば家庭内にどんな力仕事や後自然学が必然だったろう。よって反論して曰く、
「女権には基準の平均が設けられるべきだ。それは真に知的に成熟した彼女ら自身が選び取るべきで、決して知識人の誘導に因る訳には行かない。
女性には男性に比べて生来の能力偏差がある。雌雄の別とは自然の智恵が社会分業を能率化するためにわざわざ築きたもうた人道の基礎であった。例外の偏利を過度に主張する人には次の如く教育するのみ。
『今から全世界の全人類に知能テストを計ろう。現実には全ての知能を客観的に計る事は人間自身テストを創る限り不可能だから、複数の多角観点からしかも漸進的にできるだけ長い期間を考慮し、かつ適宜試験そのものを改革しつつする。そのとき、女性の平均点数と男性のそれとどちらが高いか』と。あるいは感情や本能のテスト、感激によって共感を示すか、命を呈してでも我が子を守るか、などを兼ねれば結果は出す迄もないかもしれない」
男女異権とは以上の基本理論に基づく。即ち、性差を否定するのではなく、その平均さを時代体制へ適合化しようと云うのである。