2007年4月9日

芸術論

世界文化遺産と言えども根本では国財間の取引物に過ぎない。芸術史とは作り事でしかない。彼らは工芸の趣味を交易するなかで時代劇に適当な衣装を形作る。芸術家、文化の犬。彼らの感性論議とやらが恒に帰着する所はおのが属する文脈の擁護のみだった。そう迄してその未熟にして惨めな粗野の趣きを押し付けっこする姿には醜酔の体が精々だ。精神は宇宙の第一の理性である。ダヴィンチが自然を師と仰いだ事には痛々しい記憶丈がある。
 遥かなる混沌へ美醜を見分けるのは彼等の人間原理だけである。従って自然の驚くべき無限へ崇高を感得した古人に対して、芸術すなわち文明はその範囲の有限において美しい。
 我々が人間適応環境の想像の為に自然の都市を含んだ工程へある感覚を抱くのは知能のゆかりなのだ。普遍にあれ個別にあれ適応した姿は美しい。むしろ其処が宇宙のどの特異点であるか、といったことは些細な条件だ。
 すべて対比においてしか美学はない。対象が延長しない分野についてのみ我々が合理的形を審査する余地もある。異和の定義は不合理、すなわち過剰の虚飾とか過度実用的即物感にある。全ての芸術はエントロピーの縮減である限り自然に対する抽象行為としか言えない。
 究極美は調和にある。それは常なる合理的折衷の調度に他ならない。