2007年4月9日

感覚論

抽象の最終的形態、究極の形が固定した姿でないのは明らかだ。調和は環境に対してのみ精神の快適だから。環境が可変な現実界においては最終形態でさえも不変ではない。私はこの点に至ってアリストテレス感覚論をはっきりと批判できる。カントがかれの後輩ならば、師を論駁すれば弟子を相手にする必要はない。
 例えば視覚への色彩感において我々は分解の極度に至っても、原色以上の秩序を確定できない。モンドリアンとデ・ステイル派などは人間原理に基づいた普遍様式を確立しようと努めたにせよ、かの原則は人工建設に対するある基礎を示したにとどまった。
 多声主義は別の規則を主張している。調和の理想は地球環境の普遍的infra structureと個別的supra structureの文化的な多律共栄へ芸術活動を指揮する。よって、普遍様式は構造手段の理論であり、決して意匠目的の姿ではあり得ない。しかもその様な調和は、絶えざる最適応の趣味競戯、つまりは文明段階への中道を執った審美技術の斬新結果にある。であればこそ芸術がたんなる整理術ではない理由もある。
 芸術家が為すのはentropyの闇雲な最小化ではなく、自然的混沌に向けた調整の工夫に過ぎない。よって、よい芸術、すなわち美しい芸術は一文明内工芸の合理化へ適宜、先鞭をつける。芸術史の流れは決して原則化できるものではないし、すべきではない。破格の連綿だけが芸術史だったしこれからも同様。むしろ破格とは絶えず再生される独創イデアの観念形態に過ぎない。また芸術の展開は云わば口承の伝統に待たねばならない。いかなる芸術作品とはいえ工人の姿勢迄精密に伝達するものではないから。我々が芸術を学問体系から分離しなければならない理由は以上にある。