2007年4月1日

文芸論

文芸における文字内容はみな、その美を表現するための方便に過ぎない。散文、詩、物語による文脈の有り様がこの原理を破りはしない。寧ろすべての文章の意味は、文芸においては言葉の風雅を音形的に抽象するための便宜なのである。もし内容が目的ならば、文芸は説明の術として哲学の下位に置かれねばならない。つまり哲学のかみくだきでしかない。啓蒙書としての側面は単に、時代の突出した美意識の表現者はしばしば、極度の同時代教養人であった事例に根拠を持つ。それが必修ではない。
 哲学的啓発性は文芸においては目的ではなく手段である。啓蒙性を持つがゆえに文芸は道徳的または知的価値をもはらみうる。しかしそれは傑作の十分であり必要ではない。証拠に、単に感性の再生しか特別な意味を為さない俳諧のたぐいにも文学的価値は充分にみいだされる。これは俳諧に限らず、世の文芸全般に言えるもの。文芸の究極は文明にあり、それは音形の来るべき合理美学的抽象過程の独創体系を通じて、意志伝達能力と人民情報処理能率を向上させて行こうとする語族の啓発ではある。