2007年4月11日

利他性と本能の差

良心とは文物的に、道徳的利己心の集成に過ぎないだろう。すべての生体は利己的な本能に根ざす。道徳とは彼らの先見的実践知能を言い表す語句である。本能の目的と理性の本質とは矛盾しないだろう。利他的な品格、全ての良心性とは種内適応行動の時代内性格を抽出したもの。対内的道徳と対外的倫理とを区別する思念は、良心の普遍的な権威づけのためにつくりあげられた西洋型理性の謀略なのは間違いない。善意志を悪意と対置することそのものが理性の独善を自明にしている。よって、ある人文が善の前に立つとき、我々は裁判のために多角的な鑑識を可能にしなければならない。
 定言命法は理性の一元化を説明するものではあれ、決して形而上学概念の域を出はしない。かつて白人型功利主義が世界史全体として、理性に侵略を合理化させたのは確か。それが善意だと述べる連中は、いったいかつて犯した数々の殺害を肯定しているのだろうか。彼らの主張する無実の罪は近代化を償いとして押しつける。それは善を超越的前提に置くのだが、かの様な裁判自体は利己本性を時代最適の文明のもとに組み換えるだけだ。
 我々はあらゆる悪意をもたらす本能行動に対して一定の地位を与えねばならなかった。理性偏向は善にとって西洋型構造的であり、必ずしも最良の哲学ではない。もし時代の適性が変われば我々の善意志そのものが変質する。だから普遍的正義と部分的正義といった区分は哲学的宗教を複雑にするだけで役立たない。