2007年4月26日

いかなる平和な条理社会を建設興隆なしえるところで最高次消費者の活躍は理想の遊びにかぎられている。早々と自殺する連中は相応にかしこいのだろう。何しろ現実界にとってシェリング風の漸進がもてあます余戯云々はただの秩序情報にすぎないし。かれらの為に働く。能楽しつづけるひきてあまたの魑魅魍魎がなんの夢現の堺を歩いていく光景なのか、この走馬灯の照り返しは。技術に手を煩わす人種がいちばん頭がよいだろう。何しろ運動と探求を兼ねる他、身心の健全を鍛える最善の仕方はない。
 大半の天才学者が若くして知能密度の限界に達し、あとは凡俗に偶像視されながらゆっくりと下り坂をころげ墜ちるさまは何度客観しても可笑しい。史上を省みてみろ。そういう馬鹿類にかぎって離婚を繰り返すか偕老の翻弄に遭っている。
 奴らの天分は馬のそれだ。勿論馬力はあるが馬鹿だけに、暴れる本性をみずから抑制する手綱如何を知らぬ。義経を呼ばなければならない。それは人徳だ。人徳は、隠徳を次第に積むことでしかつかない。一気にやったら失敗するから、徐々にばれない様に。牛歩とは古道居士の説教だが、真実だ。老獪なふるだぬきが創意工夫なしうるすべては若者のために理想郷じみた舞台を裏工作してしつらえてやる。それを蔭からのんびりみやってにやにや笑って居ること位のものだ。素で。それ丈の手順にさしたる手間が要るでもなし。お茶を沸かすのよりはすこし、猿をおだてる技が優り要るほどだ。人生ではほどよく休むしか楽しみなにもなし。