2007年4月20日

天地教義

私はみずから『天地教』と呼ぶべき普遍宗教を創始せざるを得ない。

下流人民の退廃は目を背けざるを得ないほどで、上流人民の内心がいかなる堕落で満ちみちているかを悟るが故に。

天地教の教義は極めて単純なものだ。
[尤も、例に倣って後生はこれを世俗的に改造し、複雑にして権益に利用したがるのは毎度の事だから予想がつく。
だが、余計な付則が愚衆から与えられたにせよ、根本の「道徳律の普遍的善導」が文明の目的に叶う限り、その効力は有効であり続ける]

『よい事をすれば天国に行き、わるい事をすれば地獄に堕ちる』と信仰せよ。

それは三大宗教に共通の、人間が悪を避けて善を為すよう努めるべき、という倫理間本質の抽出なのである。
 カントは〈利己心からの条件つきの命令〉としてこの天地教義を批判するだろうが、やむを得ない。
愚衆の最低限度の風紀を引き上げるためには方便を用いねばならぬ。

利己心からの合理化――因果応報の吹聴――は、
天地の狭間にある地球人間社会に普遍の道徳律への言及へ知らずしらず合致するだろう。
それは「義務感」である。
 民衆がこの実践に至る事は不可能だが、少なくとも夢想する習慣は躾できる。

天地のたとえはいかなる無学にも非常にわかりやすい事。
 なぜなら引力の影響下で暮らさざるを得ない人類には、
常に高所からの落下の恐怖や、鳥の自由と星空の神秘への憧れという構造基底があるものだから。