2007年4月11日

産業高度化仮説

国内商業の空洞化とは単に産業形態の変質経過を描像した形容表現に過ぎない。その淘汰者があぶれるのは常に産業革命の際に我々が経験してきたことで、何ら驚くに値しない。空洞化ではなく、余暇の増大に過ぎない。なぜなら若者は壮年層の扶養で充分に文化的水準の生活を享受できるのであり、そこに発生しているのはmoratriumの延長である。農村奴隷型の勤勉義務を自らに課す奇妙な国民には理解の及ばぬ事だったが、古代ギリシアの哲人は奴隷に働かせてみずからは宇宙の根源を理想して暮らしていた。働くのはそこでは低次の活動だったのであり、従ってもし我々が古代ギリシアの労働観に則れば、かの壮年層はいわば自由人の暇を生み出すための労働奴隷である。遊民とは社会の目的である。NEET、いわゆる無業者には貴族や王族、高等遊民も育まれる。彼らの遊民文化は、人間文明の生み出し得た史上の精華なのだ。
 すべて産業は一律のrouteを辿り知的なものへ高度化する、という仮設を立てよう。高度化とは生産能率の向上なのであり、それには知的中枢への労働手段集積と肉体労働力のout saucingが事情だ。人間は特に白人は、黒人という奴隷との間に能率よい分業体制を築き、そうしなかった人に比べてより高度の文明を獲得して行けた。同じく、今日の国際分業もいわば国家規模での産業高度化の唯物史的筋書きに他ならない。リカードの比較生産費説は国土と国民とが語族によって束縛されているのを見逃している。従って、却って格差拡大を合理化する功利的思索の役に立つのみだ。
 しかし私は主張する。人種の特徴は必ずしも否定できない。私は遠い将来、黄人が知的中枢へ特化することにあまり疑いを挟まない。というのは、大脳容量の人種的格差はローマより長い品種改良の成果に遇わねば是正されて来ないのだから。しかし、その認証は些かなりとも再び差別的隷従が起こることを意味しない。むしろ逆に、黄人は白人と黒人の偏差値を調整しなおすべく働くだろう。それが地球内共栄のためには是非とも必須だから。そして文士とは云わばこの様な国際秩序の推進ため自然に育まれる文明の使徒である。彼らを中心とした国際世論の先導によってしか人種間協業体制への破格ための批判は現実味がない。というのは、彼らは国家資本の功利的利潤律から独立しているから。つまり如何にしても彼らの自由言論活動が商売や権限に結びつきはしないだろう。
 文士、高等遊民の地位は知的偏差に基づく産業外余暇の成果である。