2007年4月2日

神の英知へ至る道

性欲を直視することは人間の堕落を誘わずにはおかぬ。
かれらはその泉を恰かも秘宝の財脈でもみつけたのごとく崇拝するのだが、
実態でいえば、地下生活にとって唯一の湧き水ではあるそれに含まれる毒素に被れ、大半が退廃し若死にす。

とくに老いるほど酷い場合――つまり殆どの愚老において――は、
人間とやらの最低の醜悪さはやつらのかぎりなく汚らわしい性欲にみられる。
 わたしはジジイが女を買うことを人間の中で最低の行為だ、と信じている。

 考えてみたまえ、もしフロイトがたまたま具眼の士で、libidoの昇華が文化的高尚の徳だったなら、
人間の知能は終生発達しうるわけだ。
 というのは衰えるにせよ性欲そのものを生み出す人体の仕組みは生態あるかぎり不変だからである。

すでに無能になった老後において果たしてなんの生きる価値があるかを問う愚民には、
「老いた像は集団の賢者として長老の果たすべきつとめを果たす。
それがゆえに、死に際して多くのはなむけが次世代から与えられる」と答えよう。
 性欲は浄化されればすでにして英知の泉となる。

通俗語を破格して語源に基づけば、それが情欲[精神欲]と呼ばれて然る『消毒された泉』なのである。

われわれが若者へ盛んに交尾を奨めるべきではない。
むしろ、できうるかぎり巧妙にそれへ罪悪感を抱かせ、
性へ初めて触れるまえに終生を貫く『勉強』の態度を培わねばならぬ。

これが修養されない段階で性社会に陳入した馬鹿のみが将来の愚老宣告を施される、前科持ちとなるだろうよ。

やつらの再勉強は童貞や処女に比べほとんど何十倍の苦労を伴う。
なぜなら本能は性欲の泉にむしゃぶりつき、その毒素を含んだ汚れた水をまるで人生という砂漠に沸いたオアシスと勘違いするものだから。獣類にも劣る馬鹿ども。
 やつらが絶望するまでには《退廃した私的放逸》という、
いわば社会的堕落に同義の罪業を幾度となく繰り返さねばならないことが多い。
やっと地獄沙汰の末、悟りきったところで次に待っているのはかぎりなき「階段」なのだ。
その毒素により筋骨蝕まれたからだには、地獄の底辺で獣類同然の仲間と愚痴をいいながら腰を振り続けることが精一杯の生活なのである。

老熟するほど高尚上品の趣を況してあまねき年齢や性別や民族のひとびとからふかく慕われ、
なおさらおのれの精神的楽しみは輝きを増し、死を惜しむここちを隠して全力を以て生涯現役の知的労働へ邁進する求道者とでは、
果たしてどちらがより人間のあるべき様なのか赤ん坊の時代とはいえ理解できたのではなかったか?

赤ん坊より堕落した人物には残悔(ざんげ)を繰り返し心を入れ替えるほかに世に身の処し場はない。
 救済されたければ勉強すること、とくに性欲の放埒を慎み、
むしろ優美な恋愛を好んで中庸な交渉頻度に留まるべきだ。
性欲から目を背けることは晩生に至るまで不変の至善である。

情欲の養生をし、性欲は慎まねばならぬ。
婚姻以前の性的興味を避けられるだけ避け、また結婚後なら性生活を可能のかぎり質素に保つことだ。