2007年4月2日

芸術教育論

すべて芸術教育とやらの現場は腐敗する。客観的法則を脱構築することでしか成立しない芸術という栄為を馬鹿にした伝統芸能のアカデミーは、みな、社会に対して多大な詐欺を働く機関として公衆認知されねばならない。そこから出てくるのは、伝統芸能的、文化最先端の現状では役に立たない古ぼけた規則を習得しただけの、二流のみであるから。
 この点では、文壇などと呼ばれる既存権威の集積にもなんら価値はないばかりか、独才進展の阻害となるばかり。芸術の学習においてはみずから規律をつくりあげる様な創造的な修養だけが正道である。教養はその道具となるだけで芸術に必要ではない。この点ではカントの教養主義もあやまちを犯している。
 むしろ、文学研究者が大半陸でもない作家でしかない例をよく分析すれば理解しえるごとく、芸術家存在の最高の勉強は技術の修練だ。理論と実践を媒介するのが技術、と文脈づければ、理論すなわち教養は素材であり目的ではない。教養の差異とは時代環境差を設けるだけで、芸術の本質には無関係と言われなおすほうがよい。すなわち、文化の代表は時代における最高度の美の技術により結実する。芸術教育は徒弟制、それが否応なく無理なら私淑でしか不可能である。そうであればこそよりよい師匠への選択説的淘汰が働く。いわゆる芸術アカデミーの集団教育ではこの様なことは不確定な師匠配分により全く不可能だ。しかもいまだ権力なき学生側からの批判が有効にはたらく余地はない。仮に学生評価を重要考慮したとしてもやはり、人気が殺到した教授が学生全域を相手にすることは考えづらい。しかし、既存アカデミーではこの改良策をとらざるを得まい。人気なさこそ少なくともどの時代環境下における無能の証明である。逆に、弟子から人気ある芸術家こそ、時代における最高の指導的象徴となりえるだろう。たとえ後世死後に至って尚その様に。既存の芸術アカデミーとは芸術ではなく、伝統芸能のまなびやであることが現代万人へ自覚さるべき、と私は信じる。