2007年4月26日

再創造論

自然はかれらに自由合理化と呼ばれる本能を以て自動的に宇宙へ別種の秩序を築き上げる様計画した。彼らの文明活動のすべては有機体独特の性行、自己中心的整理術を自発持続する生存の活力に由来す。機械組織と唯一ちがうのは曖昧律を再創造性の原理として保有している所。これは排中律を根本として建設された記号論理学には基礎づけ不可能。機械には判断の保留が不可能だった。人間知能だけが認識確定を潜在意識下に遅滞しうる。丁度アキレスが亀に向かう中途でしばし永久競戯の夢を見る如く、かれらの人生認知とは曖昧律の無際限な繰り返しにある。遊びの精神が産まれるのはこの時空展開過程がもたらす微妙差延の無際限な豊富さについてか。彼らの未来は統一的建築神学にではなく、再創造の細分遊覧にある。前者は後者のための舞台を耕し助ける方法にすぎない。
 道を主張した聖をわれわれは先見とおぼえねばならないだろう。終点はない。彼らの現実感が理性の認識に基づく近代人民においては特にそうだ。なぜならアキレスが光を追い越すという仮定は未だに構想文脈づけられていない。われわれは視覚以上の五感の結晶を知らないから、そういう計画外の世界観について理性内接近出来ない。文明は部分的に作り直し、脱構築しながら創造される。人類淘汰についてもやはり、進化の末端は仮設の形相たらざるを得ない。理想の学者ですら自然のはるかなる計画過程に晒されて無力だ。彼らの種が一体なんだろう。宇宙の断片は相対価値を覚えない。