2007年4月11日

建築論

建築における装飾は絵画・彫刻との総合の可能性として許可される。しかしその形相は構造を強調ないしは隠匿するために制限される。構造美だけが文明建築の象徴性を極めうる唯一の目的である。それは工学と職能を審美観の基に止揚する。従って、絵画と彫刻は建築の構造へ奉仕すべき部位なのであった。構造美の極限表現のためには装飾を適度に用いる。だから強調の過度も、隠匿の過度も同様に失敗になる。又、構造美の追求の先には、その究極的な格律がなければならない。不合理は好ましくないし、かと言って単なる工学的ミニマリズムは科学技術の産物ではあっても決して芸術ではない。
 構造美の追求のためには合理観を鍛える。合理観の現代性についてのみ、建築美術の余裕はあるのだ。そこには多彩な構成への自由な規則づけの遊びが可能だからである。その様な構造合理観の求道についてのみ、ある建築構成が同時代宇宙観の象徴となりうる作用を持つ。従ってある理想的規律から造られた抽象物の証拠は、史的至宝としての即物価値を慰みうるのだ。