日テレが筑波を侮りお笑い芸人と親しむ業
世に悪影響しか与えない東京のテレビ局
関西人が顔も見たくない程きたない話でテレビに出る
奈良の王様が日本中で悪さを働くのを西海人が補佐
必ず天罰が下るに違いない人身売買東京と皇居を巡るソドム
2010年3月31日
郵政小論
郵政の再国有化を(公的に郵便事業が未発達という訳で)進めたければ、金融部門だけは民営化路線へと分割していくのが筋に思う。既に競合会社がある場合、決してサービスが以前より悪くなる事はないし、あるとすれば倒産時だけだ。
明治簒奪
西日本のはてに小さな島がありました。そこに楊枝でほじくれば出てきた小人、幕藩体制へ不満を持ち、海外渡航の道が拓かれたその途端に既存秩序を総攻撃で自分自身の育ちを省みず日本国を文明開化へ導くと口で言い、内実は西洋英吉利の翻訳業者。さて日本国人みな家康公の功徳を忘れ申せば千年も富貴歓楽にすごしける軟弱公家の一言にて右へ靡く左へ惑う、どれもこれも赤毛のまね事ばかり。あしきも真似れば外国からの謗りは免れず却って過去より悪くなる風紀ある始末。薩摩の愚か者、長州の反逆者と相性さからえるが土佐のうつけ者の片言を己どもの血判とし水戸の貴公子を排斥せる悪党、遂には幼齢の明治天皇をのこし朝廷を支配す。素人の悪党合戦、朝鮮侵略はじめ暴虐悪業かぎりなし。中国とアジアを荒らし回るを見す大正から昭和天皇へと時かわれど何れも愚かなり。のちに亜米利加の黒船、叱り付けにやってきて一触即発、噛み付いた薩長のぼら犬、即日殺されそのちいさき九州の島と西日本の上に原子爆弾投下されてうごめく。
土佐の犬は遠吠えくりかえせば平成のみ代にありては再び国家を傾かせん暴論浅知恵、日本放送協会の税金ドラマを芸能人アイドル抜擢で国中のええじゃないか庶民感情いたずらに煽り、必ずやみたび惨禍ありきこと。
さて西日本御一行、かの家康公おわせし江戸城を暴力沙汰ありきで占有支配し、その上にて日々の交尾から晩餐会まで開く有様、いと醜くして野蛮の風体かしずくもみにくけり。今上の王様いわく皇化の行き届かぬ東国の心まずしき民を感化せしたまひぬ、さてもさても、うつしみの在り方、とてもありがたき政の代行者、幕藩体制を解体せる結果にありてはひとみな愚かなり。西日本の孤島のこびとの考え、国中を西洋人に真似させた末路にて利己心に長け少しもまとまらず。天皇右往左往して大いに慌てる。失笑の民から後ろ指さされていわく、東アジアを傘下の暴力団に侵略させた上、奴隷の賠償でてんてこ舞い、かくも歪んだ人間性にてはどこへ惑えど一個の放免犯罪者なり。東日本のつよき人心はなから実力第一のまなこにて昔も今もかくある愚物へ面従腹背の事情。
小人の乗っ取りを驕れる薩長これ処刑受く蛮賊の将となりて神おわす国の土へとその身をちりぢりに横たえむ。みな一つの歴史家のまなこにありては必然の流れなりし。王権の座たくらむ者も遂には滅びぬ、みな風の前の塵に同じ。煌々とさんざめく川流れゆく上に架かるたった一つの秋月が見下ろす東国のお話。
土佐の犬は遠吠えくりかえせば平成のみ代にありては再び国家を傾かせん暴論浅知恵、日本放送協会の税金ドラマを芸能人アイドル抜擢で国中のええじゃないか庶民感情いたずらに煽り、必ずやみたび惨禍ありきこと。
さて西日本御一行、かの家康公おわせし江戸城を暴力沙汰ありきで占有支配し、その上にて日々の交尾から晩餐会まで開く有様、いと醜くして野蛮の風体かしずくもみにくけり。今上の王様いわく皇化の行き届かぬ東国の心まずしき民を感化せしたまひぬ、さてもさても、うつしみの在り方、とてもありがたき政の代行者、幕藩体制を解体せる結果にありてはひとみな愚かなり。西日本の孤島のこびとの考え、国中を西洋人に真似させた末路にて利己心に長け少しもまとまらず。天皇右往左往して大いに慌てる。失笑の民から後ろ指さされていわく、東アジアを傘下の暴力団に侵略させた上、奴隷の賠償でてんてこ舞い、かくも歪んだ人間性にてはどこへ惑えど一個の放免犯罪者なり。東日本のつよき人心はなから実力第一のまなこにて昔も今もかくある愚物へ面従腹背の事情。
小人の乗っ取りを驕れる薩長これ処刑受く蛮賊の将となりて神おわす国の土へとその身をちりぢりに横たえむ。みな一つの歴史家のまなこにありては必然の流れなりし。王権の座たくらむ者も遂には滅びぬ、みな風の前の塵に同じ。煌々とさんざめく川流れゆく上に架かるたった一つの秋月が見下ろす東国のお話。
2010年3月30日
贅語
慷慨十全譚 論評禺嚥殘 悧酩依髯短
絶盟靤臾繝 阮担嚢沾斷 豐琅迯爨灣
轟贐鰲鸞朶 胆邂濠縁談 流水落紅葉
譱从瀰駲眞 陟駑喃語謠 歓待邑潼瞠
仁海恆瀞滯 柊憂猶溟琴 亰玳霓亶囈
充實撕廩麼 奠乎陋俳遐 群墹郢洛子
空關或贅語 變転焚一見 畭眛徳溢个
全然碍輅胆 愿帑泪逕圖 特別蔕薺雉
權現寓竒諳 朗稜多摩微 怏浩然之气
都儼然琉濤 丈畉沂遨乢 啝崇躊聿握
翩荐臈黷閼 詢踟徠遑霰 鴈甼漾棯什
邏謬闍苺夸 畠巓毆灑土 衲也雅勒冱
湶儿澀神臺 很澤淵圜估 彈惧燎輾慟
葷忱釁韋淤 偃裙隴艢莠 千流菠於杜
竺驟靈浤慥 綴筍忤惺覲 惟宇八千代
絶盟靤臾繝 阮担嚢沾斷 豐琅迯爨灣
轟贐鰲鸞朶 胆邂濠縁談 流水落紅葉
譱从瀰駲眞 陟駑喃語謠 歓待邑潼瞠
仁海恆瀞滯 柊憂猶溟琴 亰玳霓亶囈
充實撕廩麼 奠乎陋俳遐 群墹郢洛子
空關或贅語 變転焚一見 畭眛徳溢个
全然碍輅胆 愿帑泪逕圖 特別蔕薺雉
權現寓竒諳 朗稜多摩微 怏浩然之气
都儼然琉濤 丈畉沂遨乢 啝崇躊聿握
翩荐臈黷閼 詢踟徠遑霰 鴈甼漾棯什
邏謬闍苺夸 畠巓毆灑土 衲也雅勒冱
湶儿澀神臺 很澤淵圜估 彈惧燎輾慟
葷忱釁韋淤 偃裙隴艢莠 千流菠於杜
竺驟靈浤慥 綴筍忤惺覲 惟宇八千代
現象論の同時代地平
最も効率のいい流路からのみ自然現象が選ばれるという最小作用の原理は、そう呼んでいいなら淘汰の為の法則、いわば主観作用の原則として現象学野かその類型へあてられるかも。この考え方は決して最小作用のみが自然界へあるのではない、と所謂冗長さの面から擁 いている。つまり理想段階の詳細はそこでの一般的な冗長さにとり最小以上の知覚や認識法則を形づける。故この自然知識への、更には法則視された考え方は普通、場のもつ冗長さの条件として崩して使われた何らかの技術へその仕方の幅、様式の巧みを能う。主観作用が法則に合うとみなす秩序についてすらそうなので、我々は現象学がどうして各科学の総合か分析として自然哲学へ求められてきたのかをその文化の定常観へのふやかし面で理解できる。もし主観作用がなくば、法則内ではばらつきへの趣をなくすから。
要するに、冗長さ自体が文化場或いは間か毎のそれで有用か有徳とされるのは、彼らが世界認識への可塑的で幅広い教養への意欲を伴えばこそ常なのだ。でないと我々はいつか絶対知や至上法則へ辿り着いたというまやかしを知性の孤軍奮闘そのものから拭えなくなる。より単純にいうと、理性という何とでもいいうる領域を既存法則の別枠に保つのは、そこへ別の知性をもちこむのには妙なる条件づけとなる。だからこそ、公理系の母系たる解釈界には現象学野を含む、世界活動の理解の基盤が残されるのだ。発見のみならず反省を既存の知識へあてれば、究極の知恵に思い至らぬ手前でどの個性も畏怖を覚えるのは必定であり、さあればこそ我々の祖先から伝承されくりかえし唱えられてきた幾つもの智恵はその生物としての群生にとり、少なからず地域の、そして多くとも当生態系での基底の役割を続けて行ける。宗教や信仰と道徳神学的理性とがどこかへ社会法則やその絶えざるくみかえの知識と接触や類比を伴うならこそ、哲学からの現象論は原理主義をこえて主張か、最低でも個人単位で主義できる学野や、文学か語学の趣を幾らかでも含む研究課題足り得るであろう。
要するに、冗長さ自体が文化場或いは間か毎のそれで有用か有徳とされるのは、彼らが世界認識への可塑的で幅広い教養への意欲を伴えばこそ常なのだ。でないと我々はいつか絶対知や至上法則へ辿り着いたというまやかしを知性の孤軍奮闘そのものから拭えなくなる。より単純にいうと、理性という何とでもいいうる領域を既存法則の別枠に保つのは、そこへ別の知性をもちこむのには妙なる条件づけとなる。だからこそ、公理系の母系たる解釈界には現象学野を含む、世界活動の理解の基盤が残されるのだ。発見のみならず反省を既存の知識へあてれば、究極の知恵に思い至らぬ手前でどの個性も畏怖を覚えるのは必定であり、さあればこそ我々の祖先から伝承されくりかえし唱えられてきた幾つもの智恵はその生物としての群生にとり、少なからず地域の、そして多くとも当生態系での基底の役割を続けて行ける。宗教や信仰と道徳神学的理性とがどこかへ社会法則やその絶えざるくみかえの知識と接触や類比を伴うならこそ、哲学からの現象論は原理主義をこえて主張か、最低でも個人単位で主義できる学野や、文学か語学の趣を幾らかでも含む研究課題足り得るであろう。
浮足
貧乏な大学はさらに貧しくし競争とほざく奈良省庁
天才をこばかに戯るアナウンサー東京人の凡俗の程
バブルへてかしこくなるかとながめせばぐずぐずになりし滑稽のざえは
次々となかまをよびて江戸に住まう関西人はどこか浮足
秋田びと東京とは相性あわずして堕落する様傍ら痛し
天才をこばかに戯るアナウンサー東京人の凡俗の程
バブルへてかしこくなるかとながめせばぐずぐずになりし滑稽のざえは
次々となかまをよびて江戸に住まう関西人はどこか浮足
秋田びと東京とは相性あわずして堕落する様傍ら痛し
梅の花
桜ちる山のうえには鶯よ
山里の奥で過ごせる婆さまぞ
光る涛しとしとふりける春雨と
明るき色の服着る子どもはしゃぐ外
海のねはしずかに流れく咲く空草
くずれゆく巌の端とかもめ待つ
松島よわれのみぞ否む沙汰にはありぬ
水仙の球根さびけし教室に
砂の声ききつ歩くは寒き春
ひとひらの夢と醒めせば躑躅の蕾と
雲生まるさりぬ夜には隠れる半月
梅の花みずうみの霞仕舞いけり
川端で野球をするか蕗の薹
いつかみし年ごとの椿みす廸よ
偉き菜花と隙間なく流れゆく多摩川
空高く描く光は鉄錆ぶる
はたはたと走るちごの横通れる
月游ぶ侭にのこれよ武蔵野よ
犬を飼うひとの見る岸ハルジオン
既になき庭は慈しねこじゃらし
生ぬるき風の曇り空すぐる
山里の奥で過ごせる婆さまぞ
光る涛しとしとふりける春雨と
明るき色の服着る子どもはしゃぐ外
海のねはしずかに流れく咲く空草
くずれゆく巌の端とかもめ待つ
松島よわれのみぞ否む沙汰にはありぬ
水仙の球根さびけし教室に
砂の声ききつ歩くは寒き春
ひとひらの夢と醒めせば躑躅の蕾と
雲生まるさりぬ夜には隠れる半月
梅の花みずうみの霞仕舞いけり
川端で野球をするか蕗の薹
いつかみし年ごとの椿みす廸よ
偉き菜花と隙間なく流れゆく多摩川
空高く描く光は鉄錆ぶる
はたはたと走るちごの横通れる
月游ぶ侭にのこれよ武蔵野よ
犬を飼うひとの見る岸ハルジオン
既になき庭は慈しねこじゃらし
生ぬるき風の曇り空すぐる
2010年3月29日
現代経済学
これは経済学をする者にだけ通じるジョークだが、留保資本型原理主義社会の偉さはその自動化にある。
我々(どこまでが三人称複数に入るかは各自の判断に委ねる)が何もせずとも、この義理が吹き込まれた社会では、望むか否かに関せず他者の思想を借りる人間達の所得選好(その仕組まれた社会場では殆ど大衆本能だ)のため債権が貯まり続ける。
だから留保資本型原理主義社会論は、経済学の義理と見れば最低でもそれが進歩的な思想を任じる人々の間で常識的に機能しつける結果、全く努力なしに(勿論、全ての努力は比較的であり、又仕事量の意味では森羅万象へ平等だ)大衆社会自体の将来への不安感を穴埋めしたがる止まない運動そのものによって我々を養う。
この事実は、現代水準にあたる経済学的思考の能力と機会に恵まれざる大多数の民衆が、所得誘因を保つ限り絶対に法則づけられる。
企業所得の生態金字塔はいうまでもなく上位者の数\獲得所得をそれ自体の利潤規制によって増大させたがる。ゆえ、多くの資源が限定財(自由財でないものをこう呼ぶとする)であるとき、経済社交の界隈に住まう中産層で特段の生態的特徴のない人間達は、確実に彼らよりも富裕な生活者を判り易い目標とする。
つまり現代の先端を歩む経済学徒の意図如何に関わらず、知識欲の充実した生育を確保していない限りで、彼ら大衆一般は留保資本原理のトリックに決して気づけないだろう。その批評的乗り越えには最先端の経済学力以上の知性を先ず獲得せねばならず、彼らの余暇では不可能である。
従って、ここからは真剣な話題に入るが、資本原理主義の本質は実はその労働価値説の利他風な演技上の隠蔽の馴れと抱え込みに於ける正の側面にある。
私はマルクスの追随型信奉者ではないので、資本家の悪知恵(多くは事務的な倫理による)が幾らを労働者らから掠めようとなんら同情はない。この点でアダム・スミスのモラル・センスを疑う。
機械と人間の差異はおもに思想の容量にあるので、その絶対的不足が遺伝子学上にある、ではこの注釈が人類史的に問題あるなら文化学上にも苟もあると仮定すれば、使われる者の幸福も又この無知の程度によっていると考えて何がおかしいのだろうか。
つまり、犬と人の差異は階級か思想間の快楽の質をも大きく違和させつけるが故に、雇用の鎖に繋がれた生涯へ適応して生き延びるのを我々が非難したりそう度々忠告できる訳でもない。自由権は法の下の平等として、我々みなへ機会均等を合理化してきた史実がある。
この考え方は私の思想の功利主義文脈への親和性を孕むかもしれぬ。そしてそれを、いち日本人として拒む理由はない。私の思想上の立場は、質的幸福の概念を認め、しかもその一層の考究を生業とする点でイングランド特有の形而上か倫理哲学派と共通項がたしかに多い。しかし全く同じでもないのは、最大多数への限界的啓蒙を前提としない所にありそうだ。
経済学上にみれば、思うに、搾取はありえない。労働価値説の誤りは、それが多数者の幸福感が質的に高貴であるだろうことを前提とする一種の発狂(やっかみともいう)に由来しているところだ。そんなことは公立学校やいっぱしの繁華街を散歩すればすぐ間違いか偽善者の勘違いだと悟れる筈だ。
人類界は決して強い理想の持ち主たちだけで出来上がっている劇団ではない。彼らの過半数は、常にどうみてもずっと出来のいい生活者への嫉み;ねたみと羨ましさに焦がされ、或いはその実在へさえ想像や興味が及ばない時は無恥の業に焼かれ続ける。
西洋に複数出たまずまず優秀な(相対的にはそう言っていいだろう)経済の学への興味は、我々がこういう人類の悪徳を全く無視して、最良の選良階級でのみ構成された実質的な仮想場を空理空想の対象とすべき、と考えた点でそうなのだ。
寧ろ留保資本主義の理想は、中産階級の本能が想像する迄もなく低俗である必然性を十分な前置きとしている。だから留保資本型の社交規制は常にそれが使用者の考え方を、できたら厳密に定義することによって、蓄えられる資材と交換価値にみた世界貨幣の量とをとある趣味の元にまとめゆくのを好ましく見なす。
最高の快楽は常に精神的なそれだろう。アリストテレスの昔から、人類理性の究極の境地は理想すること、物見高さを最大多数(これはオーストラリアの功利主義学派がいうまでもなく、仏教に於ける慈悲説からも流れ来る一斉衆生へ及ぶ)の幸福を計画企図する事へ求まった。
結局、私の考えでは留保資本型原理主義はやはり仲介を含む産業工程の自動化を進めるが故に重要であるばかりか賢明だ。人類の各国家やそこに含まれる各種生態と通常でも共生し、敢えて使うか可能そうなら導く為にすらそうなのだ。
そうして集められた蓄積した資本は、中産層が集まって自らの行動規律についての自由内選好が誇示か誘惑のために金持ちになりたがるうえ金持ちぶりたがるという物質主義的な俗物さ(ブルジョワ趣味)、最低でも短絡的な思考能力の所以で、どちらにせよ使う側と使われる側の双方にとって望ましい結果を用いる。
それは「富裕さ」という社会条件を築きあげるシステムにすぎないがなお、他の犠牲を伴う社会思想を経由するより遥かに勝って最善なのだ。なぜならこの原理のもとでは、自己責任論の援用によって、努力価格差は他の公的負担費が高い社交界でよりずっと合理化され易いのだから。
即ち、資本原理の貫かれた社会では他の経済界でよりずっと、成金や富豪への嫉妬が少ない。かれらが努力によって獲た所得であるという何よりの証拠があるからだ。稼ぐために(世代間の適度な累進課税が図られたうえでは)資本経営力以外の抜け道がないのだ。
これとは逆に各種の公的負担がのしかかる別の社交界では、いうまでもなく税率取引の差額にぶら下がる幾多もの得体しれぬ徴税役人兼実質的金利生活者やさまざまに法的責任を転嫁した政府税調関係者の土着化が免れず、国家として破産しなければ必ずや封建制固執の中世同然、税循環へ負荷をかける怠け者どもの巣窟となりおおせるだろう。
当たり前のことだが、資本経済下の方が税収もその相対的価格差も対外国との債権についてすら高くなりゆく『富裕連綿の原則』を忘れてはならない。公共サービスの向上の具合すら実質で国民と諸外国に対する債務の程度によっている。
我々(どこまでが三人称複数に入るかは各自の判断に委ねる)が何もせずとも、この義理が吹き込まれた社会では、望むか否かに関せず他者の思想を借りる人間達の所得選好(その仕組まれた社会場では殆ど大衆本能だ)のため債権が貯まり続ける。
だから留保資本型原理主義社会論は、経済学の義理と見れば最低でもそれが進歩的な思想を任じる人々の間で常識的に機能しつける結果、全く努力なしに(勿論、全ての努力は比較的であり、又仕事量の意味では森羅万象へ平等だ)大衆社会自体の将来への不安感を穴埋めしたがる止まない運動そのものによって我々を養う。
この事実は、現代水準にあたる経済学的思考の能力と機会に恵まれざる大多数の民衆が、所得誘因を保つ限り絶対に法則づけられる。
企業所得の生態金字塔はいうまでもなく上位者の数\獲得所得をそれ自体の利潤規制によって増大させたがる。ゆえ、多くの資源が限定財(自由財でないものをこう呼ぶとする)であるとき、経済社交の界隈に住まう中産層で特段の生態的特徴のない人間達は、確実に彼らよりも富裕な生活者を判り易い目標とする。
つまり現代の先端を歩む経済学徒の意図如何に関わらず、知識欲の充実した生育を確保していない限りで、彼ら大衆一般は留保資本原理のトリックに決して気づけないだろう。その批評的乗り越えには最先端の経済学力以上の知性を先ず獲得せねばならず、彼らの余暇では不可能である。
従って、ここからは真剣な話題に入るが、資本原理主義の本質は実はその労働価値説の利他風な演技上の隠蔽の馴れと抱え込みに於ける正の側面にある。
私はマルクスの追随型信奉者ではないので、資本家の悪知恵(多くは事務的な倫理による)が幾らを労働者らから掠めようとなんら同情はない。この点でアダム・スミスのモラル・センスを疑う。
機械と人間の差異はおもに思想の容量にあるので、その絶対的不足が遺伝子学上にある、ではこの注釈が人類史的に問題あるなら文化学上にも苟もあると仮定すれば、使われる者の幸福も又この無知の程度によっていると考えて何がおかしいのだろうか。
つまり、犬と人の差異は階級か思想間の快楽の質をも大きく違和させつけるが故に、雇用の鎖に繋がれた生涯へ適応して生き延びるのを我々が非難したりそう度々忠告できる訳でもない。自由権は法の下の平等として、我々みなへ機会均等を合理化してきた史実がある。
この考え方は私の思想の功利主義文脈への親和性を孕むかもしれぬ。そしてそれを、いち日本人として拒む理由はない。私の思想上の立場は、質的幸福の概念を認め、しかもその一層の考究を生業とする点でイングランド特有の形而上か倫理哲学派と共通項がたしかに多い。しかし全く同じでもないのは、最大多数への限界的啓蒙を前提としない所にありそうだ。
経済学上にみれば、思うに、搾取はありえない。労働価値説の誤りは、それが多数者の幸福感が質的に高貴であるだろうことを前提とする一種の発狂(やっかみともいう)に由来しているところだ。そんなことは公立学校やいっぱしの繁華街を散歩すればすぐ間違いか偽善者の勘違いだと悟れる筈だ。
人類界は決して強い理想の持ち主たちだけで出来上がっている劇団ではない。彼らの過半数は、常にどうみてもずっと出来のいい生活者への嫉み;ねたみと羨ましさに焦がされ、或いはその実在へさえ想像や興味が及ばない時は無恥の業に焼かれ続ける。
西洋に複数出たまずまず優秀な(相対的にはそう言っていいだろう)経済の学への興味は、我々がこういう人類の悪徳を全く無視して、最良の選良階級でのみ構成された実質的な仮想場を空理空想の対象とすべき、と考えた点でそうなのだ。
寧ろ留保資本主義の理想は、中産階級の本能が想像する迄もなく低俗である必然性を十分な前置きとしている。だから留保資本型の社交規制は常にそれが使用者の考え方を、できたら厳密に定義することによって、蓄えられる資材と交換価値にみた世界貨幣の量とをとある趣味の元にまとめゆくのを好ましく見なす。
最高の快楽は常に精神的なそれだろう。アリストテレスの昔から、人類理性の究極の境地は理想すること、物見高さを最大多数(これはオーストラリアの功利主義学派がいうまでもなく、仏教に於ける慈悲説からも流れ来る一斉衆生へ及ぶ)の幸福を計画企図する事へ求まった。
結局、私の考えでは留保資本型原理主義はやはり仲介を含む産業工程の自動化を進めるが故に重要であるばかりか賢明だ。人類の各国家やそこに含まれる各種生態と通常でも共生し、敢えて使うか可能そうなら導く為にすらそうなのだ。
そうして集められた蓄積した資本は、中産層が集まって自らの行動規律についての自由内選好が誇示か誘惑のために金持ちになりたがるうえ金持ちぶりたがるという物質主義的な俗物さ(ブルジョワ趣味)、最低でも短絡的な思考能力の所以で、どちらにせよ使う側と使われる側の双方にとって望ましい結果を用いる。
それは「富裕さ」という社会条件を築きあげるシステムにすぎないがなお、他の犠牲を伴う社会思想を経由するより遥かに勝って最善なのだ。なぜならこの原理のもとでは、自己責任論の援用によって、努力価格差は他の公的負担費が高い社交界でよりずっと合理化され易いのだから。
即ち、資本原理の貫かれた社会では他の経済界でよりずっと、成金や富豪への嫉妬が少ない。かれらが努力によって獲た所得であるという何よりの証拠があるからだ。稼ぐために(世代間の適度な累進課税が図られたうえでは)資本経営力以外の抜け道がないのだ。
これとは逆に各種の公的負担がのしかかる別の社交界では、いうまでもなく税率取引の差額にぶら下がる幾多もの得体しれぬ徴税役人兼実質的金利生活者やさまざまに法的責任を転嫁した政府税調関係者の土着化が免れず、国家として破産しなければ必ずや封建制固執の中世同然、税循環へ負荷をかける怠け者どもの巣窟となりおおせるだろう。
当たり前のことだが、資本経済下の方が税収もその相対的価格差も対外国との債権についてすら高くなりゆく『富裕連綿の原則』を忘れてはならない。公共サービスの向上の具合すら実質で国民と諸外国に対する債務の程度によっている。
生態学
生き物の法則は置かれた環境条件がどの循環を選ぶかによる。感覚原理は生態条件により、各生物はこの条件を繋いで自らの適所に叶う何らかの形、即ち姿をもつ。姿は可変。もし生態条件が揺らげば姿も変形を受ける。環境条件は、生態条件にとっては選択誘因。もし環境条件がなくば生態条件も生まれない。そして環境と生態の間にはいわゆる恒常さの域がある程度の維持性をもつをう。恒常さは、(ガイア仮説とは関係なく)生態が外部系へ及ぼすエントロピーをどの程度、環境に既存の変化との間で一定へ保てるかへよる。
これらから、生態機能とはつねさの感覚原理への適応度だと導ける。感覚原理は主にどこかの生態条件が、環境との相互作用内で徐々に淘いできた常さの姿。ゆえ感覚原理は決して唯一不動ではありえぬ。
生態機能同士の、追随作用(多くは微妙な。なぜなら大幅な環境変異への追随は通常の生態機能にはできない。これは感覚原理が持続した習性の延長上にある特有の条件づけ刺激の重ね合いゆえ、同等の経験が及ばねばその可塑機能が回復はしないので)はそれが率いる生態系との相互作用をつくる。即ち常さはどの感覚原理をより相応しい自己秩序の母系かと見なすかによる。故普通、生態機能同士には習性となった相互作用、いわゆる縁起状態が定義できる(地球型植物と光合成、同動物による捕食種など)。
これらから、生態機能とはつねさの感覚原理への適応度だと導ける。感覚原理は主にどこかの生態条件が、環境との相互作用内で徐々に淘いできた常さの姿。ゆえ感覚原理は決して唯一不動ではありえぬ。
生態機能同士の、追随作用(多くは微妙な。なぜなら大幅な環境変異への追随は通常の生態機能にはできない。これは感覚原理が持続した習性の延長上にある特有の条件づけ刺激の重ね合いゆえ、同等の経験が及ばねばその可塑機能が回復はしないので)はそれが率いる生態系との相互作用をつくる。即ち常さはどの感覚原理をより相応しい自己秩序の母系かと見なすかによる。故普通、生態機能同士には習性となった相互作用、いわゆる縁起状態が定義できる(地球型植物と光合成、同動物による捕食種など)。
2010年3月28日
政治学
民主政ではそれが少数者の専制を避けう工夫で、なお最も中庸な性格を衆目の一致で選ぶ傾向がある。だから安定性と衆愚に至る扇動弱さは、この中庸さの利害に同じ。
貴族政は選ぶ者を限っているので、既に初めから中庸の選択誘因は弱い。逆にそこでは寡占の用いる選良さが大多数の利害を省みない点で、どちらかといえば変化を嫌う部分が生まれる。
王政では極端へ振れる。そして僭主の危うさは絶対主義のそれに同じ。
これらは、同時に特性を組み合わせう。結局、時と場合、そして方式の使い分けで我々はこれらのどれかを特別に最善とみなすのが賢明でないと分かる。つまり重要なのは政治方式の組み合わせ。夫々の方式は必ずしも固定していないし、又それら相互の兼ね合いには細部にわたってごく複雑な多彩さがある。だから時代状況にこたえてどの新たに適切な方式が摂られたか、又歴史知としてのその分析が要る。
所で間接民主政には選挙区制度が入り込む。この為、比例代表が噛むと選挙区制度は実質的な貴族政へかなり近づく。政党の立場がどの有権者を支持層とするかによるので。或いはこの制度によらねば間接民主政はいわゆる人気政治に堕するかも。故選挙区割の細かさが支持層の複ね合いに及ぶ程、その間の利害調整の複雑さの為に、あおりに免疫ができると言える。つまり選挙区割の適切さは支持層ができれば違う生活態度へ起因する幾つもの区域に分けられると効果をもつ。大衆に比べ高度とよばれるだろう判断力か理解をもつ人々の結託か集合視のできる区域での比例代表が、そうでもない所からの選出よりも発言権でもどちらかといえば多数派でない考え方を維持できるなら、それは実質的には選挙区型貴族政と呼んでいいかも。つまり選挙区への何らかの観点から比例した選出方式がその民主さか貴族さかへの偏りに繋がる。
もし受勲を含む身分や公卿の考慮が内閣制度の組み立てに加わると、この仕組みはかなり実質的な王政、いいかえれば側近政へ近づく。側近政がまかり通ると確実に、その利害は超少数派のものに限定される。だから一般に側近政は大衆民主政と最も遠い。この仕組みは超少数派の為に大多数を犠牲にする点で、かなりの高貴な義務の余地がいわゆる象徴の光の為に裏付けられがちな僭主政よりさらに堕落し易い。但し、利点があるならそれはこの側近が極めて高い理解の持ち主であった場合、公的理由に囚われず王政の本質を維持できる所。従って側近政が一層のこと合理化され易いのは世襲の王権を認める皇帝政の基盤が存在している時だけ。そして象徴皇帝政の場合、この側近は回ってこない行政機能を失って身の回りの世話しかしえない侍従化する。故に象徴皇帝政下での側近行政は実践されることがよほど希だが最も危険であり、それが行われると先ず国は絶えまないあらゆる行政実務面で正確な判断をできず、滅亡へ漸近する。
選挙の政党毎の寡占化が進むと、支配的政党と以外に別れる時がある。しかし支配的でない政党にかなりのばらつきがあると、更にこれらは連立を組む場合がある。この連立政はより大衆政治寄りの政策を、主に支配的政党への対策のため、代表し易い。
対して個人が無党派として一挙に支持を集める時がある。これは間接王政に繋がり易い。一般にこの人物は擬似君主を名乗り人気に乗じた独裁者となる。そして更にこの堕落傾向は、側近政を兼ねる時もっと急速になる。しかし極めて急激な政策転回を要する場合にのみ、この方法は最終的責任者を一人へ絞り込める点で利点もある。
貴族政は選ぶ者を限っているので、既に初めから中庸の選択誘因は弱い。逆にそこでは寡占の用いる選良さが大多数の利害を省みない点で、どちらかといえば変化を嫌う部分が生まれる。
王政では極端へ振れる。そして僭主の危うさは絶対主義のそれに同じ。
これらは、同時に特性を組み合わせう。結局、時と場合、そして方式の使い分けで我々はこれらのどれかを特別に最善とみなすのが賢明でないと分かる。つまり重要なのは政治方式の組み合わせ。夫々の方式は必ずしも固定していないし、又それら相互の兼ね合いには細部にわたってごく複雑な多彩さがある。だから時代状況にこたえてどの新たに適切な方式が摂られたか、又歴史知としてのその分析が要る。
所で間接民主政には選挙区制度が入り込む。この為、比例代表が噛むと選挙区制度は実質的な貴族政へかなり近づく。政党の立場がどの有権者を支持層とするかによるので。或いはこの制度によらねば間接民主政はいわゆる人気政治に堕するかも。故選挙区割の細かさが支持層の複ね合いに及ぶ程、その間の利害調整の複雑さの為に、あおりに免疫ができると言える。つまり選挙区割の適切さは支持層ができれば違う生活態度へ起因する幾つもの区域に分けられると効果をもつ。大衆に比べ高度とよばれるだろう判断力か理解をもつ人々の結託か集合視のできる区域での比例代表が、そうでもない所からの選出よりも発言権でもどちらかといえば多数派でない考え方を維持できるなら、それは実質的には選挙区型貴族政と呼んでいいかも。つまり選挙区への何らかの観点から比例した選出方式がその民主さか貴族さかへの偏りに繋がる。
もし受勲を含む身分や公卿の考慮が内閣制度の組み立てに加わると、この仕組みはかなり実質的な王政、いいかえれば側近政へ近づく。側近政がまかり通ると確実に、その利害は超少数派のものに限定される。だから一般に側近政は大衆民主政と最も遠い。この仕組みは超少数派の為に大多数を犠牲にする点で、かなりの高貴な義務の余地がいわゆる象徴の光の為に裏付けられがちな僭主政よりさらに堕落し易い。但し、利点があるならそれはこの側近が極めて高い理解の持ち主であった場合、公的理由に囚われず王政の本質を維持できる所。従って側近政が一層のこと合理化され易いのは世襲の王権を認める皇帝政の基盤が存在している時だけ。そして象徴皇帝政の場合、この側近は回ってこない行政機能を失って身の回りの世話しかしえない侍従化する。故に象徴皇帝政下での側近行政は実践されることがよほど希だが最も危険であり、それが行われると先ず国は絶えまないあらゆる行政実務面で正確な判断をできず、滅亡へ漸近する。
選挙の政党毎の寡占化が進むと、支配的政党と以外に別れる時がある。しかし支配的でない政党にかなりのばらつきがあると、更にこれらは連立を組む場合がある。この連立政はより大衆政治寄りの政策を、主に支配的政党への対策のため、代表し易い。
対して個人が無党派として一挙に支持を集める時がある。これは間接王政に繋がり易い。一般にこの人物は擬似君主を名乗り人気に乗じた独裁者となる。そして更にこの堕落傾向は、側近政を兼ねる時もっと急速になる。しかし極めて急激な政策転回を要する場合にのみ、この方法は最終的責任者を一人へ絞り込める点で利点もある。
醜態
ユニクロの始めた裸のCMが大はやりのげすの国ジャパン
笑えない大御所の自虐じゃ熱どころか泥沼不況だな
消費者から金を奪って不況だ不況とほざく資産家よ
若者からむさぼりおのれは働けず余った金を金持ちが食う
汚れ東京の雌豚ども恥をなくして売春罪し子供手当てを貰う醜態
笑えない大御所の自虐じゃ熱どころか泥沼不況だな
消費者から金を奪って不況だ不況とほざく資産家よ
若者からむさぼりおのれは働けず余った金を金持ちが食う
汚れ東京の雌豚ども恥をなくして売春罪し子供手当てを貰う醜態
2010年3月27日
自律の抽出
神とは最高の主観。この仮定を理性に定義したのはカント的転回の上で、世界市民と個人の主観を公私の逆説と考えた一人だった。この立場は観想の自律を、普遍信仰の立場と一致させる。だから公的主観は同時に客観的職業倫理を兼ねる。
この種の分別はいわゆる公私混同とは違っており、カント的転回という用語が煩雑なうえ学を衒う感じで日用へ適さないなら、これを自律心と再定義できるかも。そしてそれは自由とは意味する所が異なる。自律は職業上の立場の貫徹と、それとは離れた世界市民としての公徳とを兼ねさせる考え方。一般に、自由がこれらの混同も含むとすれば、自律は自由のおそらく上位概念か、補集合だと思われる。
(自律⊃自由)∨(自由⇔自律)
最高の主観は自律心の究極に求まるだろうが、どの個性にも理解に限度があるので全知全能へは決して到らない。逆に到達不能の理想状態の比喩として全知全能、即ち神の意味はあるので、我々が自律へ求めうるのは主観の首尾一貫さだけだろう。そしてこの特定の自由への判断能力の常なる使用は、客観すれば分別とよばれるだろう。
この種の分別はいわゆる公私混同とは違っており、カント的転回という用語が煩雑なうえ学を衒う感じで日用へ適さないなら、これを自律心と再定義できるかも。そしてそれは自由とは意味する所が異なる。自律は職業上の立場の貫徹と、それとは離れた世界市民としての公徳とを兼ねさせる考え方。一般に、自由がこれらの混同も含むとすれば、自律は自由のおそらく上位概念か、補集合だと思われる。
(自律⊃自由)∨(自由⇔自律)
最高の主観は自律心の究極に求まるだろうが、どの個性にも理解に限度があるので全知全能へは決して到らない。逆に到達不能の理想状態の比喩として全知全能、即ち神の意味はあるので、我々が自律へ求めうるのは主観の首尾一貫さだけだろう。そしてこの特定の自由への判断能力の常なる使用は、客観すれば分別とよばれるだろう。
2010年3月26日
格差原理の整え
なぜ社会内で幾つもの利害対立があるのか問えば、個性が形質面でばらつく上彼らに相互反目が程あれ許されているから、裁判の理由はこの形質の発露が、又教養の度合いでさえ左右する系統発生の多岐に、分かち難い往路差を与えればこそ。その和平内解消には法治が前提。個性間の格差原理(正義論のロールズによる)は、それらの利害関係を最低でも同じ条件で遇わせる必然さへ言い及ぶ。この形而上公理は生存権内へ又社会保障の限界効用を定義させたがる。格差原理は最も基本へ遡れば生まれの調整を込む。そして後に遺伝子座の問題が出てくる。
が権利のみに見て、生まれの調整はいま親権に任されているのでそれを給付や扱い以外で動かせない。故真の生得格差原理は最低限度の社会保障給付を社会で最も恵まれた人々の扱いと同値化しなければならない。いわば恵まれ方の生まれつきの違いを、給付あたりの扱いで最大化せねば。もしこの原則を喩えれば、雑草と鉢植えの間に同じ水のみならず、少なくとも太陽の享受という最低限度の光合成による生存条件は庭師が保障すべきということ。生まれについての選びは国家にでなく個人に単位があるから、更に之は形質の問題を含む。より広域には条件と云う可だが具体的にはいわゆる障害、の程はほぼ調整の域内にある。故給付量の調整は認められる形質のばらつきが条件の程に適う時正当。そして之は格差原理に入る。これとは別に、努力や才覚で広がった後天差への調整論がある。生存場、主に社会が自業自得を認めてもそう主張したがる時、怪物人格と彼らはいま呼ばれている。しかし、平等観が後天的に激しく崩れる場では、この主張に全く道理がない訳でないのは、目の毒とか気の毒とか外部不経済とかそういう否応ない社会共生観に芽生える。つまり後天調整も、多少の累進さは場合により合理化できる、でないと失われる公益もある。即ち育ち内での調整は、累進格差原理として別項目で最低限度保障に入る。
さて遺伝子座での格差原理へは、次の対処がいる。塩基配列の自由を生得権利へ含め置く事。故条件の程が公に議決された恵まれ方への遺伝子治療の限度を保障していく。いわば最も望まない遺伝子座を程度として保障費用で賄う理由が正当化できる。例えば、だから癌治療はここに入るが、整形費用は入らない。後者は最低限度保障の公水準から、凡そ既存日本国単位では、若しくは一部関西圏内の地方自治主張を除いて先ず洩れるだろうから。
が権利のみに見て、生まれの調整はいま親権に任されているのでそれを給付や扱い以外で動かせない。故真の生得格差原理は最低限度の社会保障給付を社会で最も恵まれた人々の扱いと同値化しなければならない。いわば恵まれ方の生まれつきの違いを、給付あたりの扱いで最大化せねば。もしこの原則を喩えれば、雑草と鉢植えの間に同じ水のみならず、少なくとも太陽の享受という最低限度の光合成による生存条件は庭師が保障すべきということ。生まれについての選びは国家にでなく個人に単位があるから、更に之は形質の問題を含む。より広域には条件と云う可だが具体的にはいわゆる障害、の程はほぼ調整の域内にある。故給付量の調整は認められる形質のばらつきが条件の程に適う時正当。そして之は格差原理に入る。これとは別に、努力や才覚で広がった後天差への調整論がある。生存場、主に社会が自業自得を認めてもそう主張したがる時、怪物人格と彼らはいま呼ばれている。しかし、平等観が後天的に激しく崩れる場では、この主張に全く道理がない訳でないのは、目の毒とか気の毒とか外部不経済とかそういう否応ない社会共生観に芽生える。つまり後天調整も、多少の累進さは場合により合理化できる、でないと失われる公益もある。即ち育ち内での調整は、累進格差原理として別項目で最低限度保障に入る。
さて遺伝子座での格差原理へは、次の対処がいる。塩基配列の自由を生得権利へ含め置く事。故条件の程が公に議決された恵まれ方への遺伝子治療の限度を保障していく。いわば最も望まない遺伝子座を程度として保障費用で賄う理由が正当化できる。例えば、だから癌治療はここに入るが、整形費用は入らない。後者は最低限度保障の公水準から、凡そ既存日本国単位では、若しくは一部関西圏内の地方自治主張を除いて先ず洩れるだろうから。
政局観
北海道の駒込内駐屯地にある自衛隊基地の中隊長は、防衛官の一員でありつつ文官の命令に逆らったのでみせしめのため氏名と家族構成の公開のうえ解職、且つ一切の退職金を解体してしまう方がいい。
一般に、(事実上の)軍隊での命令系統がそれ自体の中で絶対的であることは、内容如何によらずいわゆる文官内での許された批評合戦(政党の討論)とはまったくもつ意義がちがう。少しのミスが即、民全員の命運に関わるのでその職責は一点の曇りもない完璧な忠誠でなければならない。
又、某国家公安官が議員宿舎へ女性を連れ込んでいた問題は、いつなりとも忍び(古くはくのいち、とかハニートラップとよばれる)の確率がとても高い失態なので減俸と、別のより保安業務に向く人物を同立場へさしかえる方がいい。
高齢の独身者でありながら脱俗の信仰心も持たずにふらふらとしている人格は出家すべきだしそれができないなら今後も重責に堪えないだろう。
一般に、(事実上の)軍隊での命令系統がそれ自体の中で絶対的であることは、内容如何によらずいわゆる文官内での許された批評合戦(政党の討論)とはまったくもつ意義がちがう。少しのミスが即、民全員の命運に関わるのでその職責は一点の曇りもない完璧な忠誠でなければならない。
又、某国家公安官が議員宿舎へ女性を連れ込んでいた問題は、いつなりとも忍び(古くはくのいち、とかハニートラップとよばれる)の確率がとても高い失態なので減俸と、別のより保安業務に向く人物を同立場へさしかえる方がいい。
高齢の独身者でありながら脱俗の信仰心も持たずにふらふらとしている人格は出家すべきだしそれができないなら今後も重責に堪えないだろう。
2010年3月25日
工学
始めに政治面での知恵を付け加えたいが、環境事業は今のところの地球世論では多数派なので、この営利による収穫率が大幅に低まらない限り、当該論文の存在は表立って公にされない方が良い。難しいのはこの論文の主旨を国際的に公然にすべき時期であり、だがそれは政治面でのみ発見できるだろう。
地球温暖化への決定的な対策措置として次のアイデアが適切。それは我々が一戸毎に実際にしている如く、星の内外での温度差を利用し星内の熱を星外へ排出すること。つまり空調衛星を、主に熱孤島化している世界都市の上空へできれば複数個飛ばすこと。実際には、宇宙エレベーターという装置の機構が大部分転用できる。
先ずエレベーターシャフトといえる地球の都市上空、大気圏から大気圏外の宇宙空間までいわゆるエアコンでいうヒートポンプを通す。これは行き返りの二系統へ冷媒を詰めればよい。また熱損失を防ぐため、裏返しにアルミ状の被膜とその上へスタイロホーム等の襟巻き層をとる。次に都市上空部へは、エアコンの様な冷媒管をファンで扇ぐ幾つものプロペラ機構をとりつける。最後に、宇宙空間側へは空気がないので、代わりに熱放射のかたちでエントロピーを排出するための複数の電灯を設ける。そしてこの電灯には地球側への跳ね返りがないよう、全反射できるよく磨かれた銀色の浅いパラボラ状の傘が要る。それらのヒートポンプ作動の主要な機構は、メンテナンスし易いよう地球側の上空へまとめておくといい。あとからヘリコプターか何かで大気圏内から容易に上陸できる。又、もし電灯の交換が要るときのため、宇宙側へはロボットが自動的に交換作業できるメンテナンス用の走路と機構、それと交換部品をもちこむ別の衛星とのドッキングのできる数ヶ所の接続口が要る。
地球温暖化への決定的な対策措置として次のアイデアが適切。それは我々が一戸毎に実際にしている如く、星の内外での温度差を利用し星内の熱を星外へ排出すること。つまり空調衛星を、主に熱孤島化している世界都市の上空へできれば複数個飛ばすこと。実際には、宇宙エレベーターという装置の機構が大部分転用できる。
先ずエレベーターシャフトといえる地球の都市上空、大気圏から大気圏外の宇宙空間までいわゆるエアコンでいうヒートポンプを通す。これは行き返りの二系統へ冷媒を詰めればよい。また熱損失を防ぐため、裏返しにアルミ状の被膜とその上へスタイロホーム等の襟巻き層をとる。次に都市上空部へは、エアコンの様な冷媒管をファンで扇ぐ幾つものプロペラ機構をとりつける。最後に、宇宙空間側へは空気がないので、代わりに熱放射のかたちでエントロピーを排出するための複数の電灯を設ける。そしてこの電灯には地球側への跳ね返りがないよう、全反射できるよく磨かれた銀色の浅いパラボラ状の傘が要る。それらのヒートポンプ作動の主要な機構は、メンテナンスし易いよう地球側の上空へまとめておくといい。あとからヘリコプターか何かで大気圏内から容易に上陸できる。又、もし電灯の交換が要るときのため、宇宙側へはロボットが自動的に交換作業できるメンテナンス用の走路と機構、それと交換部品をもちこむ別の衛星とのドッキングのできる数ヶ所の接続口が要る。
国際政治学
政治会社や税収企業とは普通、世界貨幣を公式の信用銘柄へと換算しつつ公の防衛負担を負う、その地域でおそらく最大の組織を云う。そしてこの会社が規模と費用負担で最大でなくば、当地域には調整機能が働かないから人々は安定した生計、特に家計を営めないだろう。なぜなら一般の営利企業は所得再分配とよばれる慈善の機能を、公的名義を有さないので担う義務がなく、従って余剰価値の搾取を永遠に続けて雇用者とは所得へ差を儲け続ける仕組みなのだから。
政治会社の規模は、我々が国家と呼ぶ機能にほぼ等しい。だから原則として、巨視すれば国家業務の折衝が政治の目標。もし人々の働きにみれば、国家間のやりとりはどうやって陣地を守り、それらを複ね触れ、分けさせ自らの調整義務を広げるか狭め、また維持か撤収する仕業に近しい。政治会社自体は営利企業からの共通税調で、また共通貨幣の発行でそれら間の利害も整える。ゆえ企業もどこかの税調企業としての、国家を少なくとも信用取引の担保に求めるか、最低でも便宜上の立地条件とする。国家なくば企業は不正取引を結局、防げない。
政治会社の規模は、我々が国家と呼ぶ機能にほぼ等しい。だから原則として、巨視すれば国家業務の折衝が政治の目標。もし人々の働きにみれば、国家間のやりとりはどうやって陣地を守り、それらを複ね触れ、分けさせ自らの調整義務を広げるか狭め、また維持か撤収する仕業に近しい。政治会社自体は営利企業からの共通税調で、また共通貨幣の発行でそれら間の利害も整える。ゆえ企業もどこかの税調企業としての、国家を少なくとも信用取引の担保に求めるか、最低でも便宜上の立地条件とする。国家なくば企業は不正取引を結局、防げない。
熱孤島俳諧連句
春めきて不意に咲きゐる菜花の黄
長袖は既に長けり待合の
子供らのはしゃぐ声する庭の咲く
吾のみは冬恋しけり熱孤島
東京はぬるくてたまらぬ石のまち
春の香に道端ゆくぞiPhoneは
久方に聴けば夏を貸すL’Arc
浮き立てるダックスフントの眼あり
われ覚ゆ前に咲きゐる桜花
大まかな味の武蔵の菜の疎ら
いつかみし清瀬の流れに浮くみつき
みわたせど特に変わらぬ春のそら
だからヤダゆすりか多き京川
冬子の目へとひらかれしUNIQLOだ
ことしから秋篠くるぞあの辺り
どうでもいゝとかくうるさきものは春
発情期なのはわかったアルタ前
人ぎらいな梅がなおよき後楽園
ビヾアン・スーしかきよげなしボウフラ界
意図もなく流水ありき桜花
月交番跡形もないやこのはるは
レディへと冷めた空気のつゝじヶ丘
麹町みわたす富士と暁よ
かわりなきものは我のみ散るさくら
おにぎりと高尾山とはると広末
空を飛ぶ飛行機からの春風よ
冬眠中のくまあり溶ける雪焼けと
わがきらふきたなき國へも公転ぞ
救いあるなし溺れる鴨とか小鳩か
枯れ木ほか見えるものなき時のよし
ひばりあり魅せる踊りは小気味よき
冬用のコーヒーは減りて頃合いか
長袖は既に長けり待合の
子供らのはしゃぐ声する庭の咲く
吾のみは冬恋しけり熱孤島
東京はぬるくてたまらぬ石のまち
春の香に道端ゆくぞiPhoneは
久方に聴けば夏を貸すL’Arc
浮き立てるダックスフントの眼あり
われ覚ゆ前に咲きゐる桜花
大まかな味の武蔵の菜の疎ら
いつかみし清瀬の流れに浮くみつき
みわたせど特に変わらぬ春のそら
だからヤダゆすりか多き京川
冬子の目へとひらかれしUNIQLOだ
ことしから秋篠くるぞあの辺り
どうでもいゝとかくうるさきものは春
発情期なのはわかったアルタ前
人ぎらいな梅がなおよき後楽園
ビヾアン・スーしかきよげなしボウフラ界
意図もなく流水ありき桜花
月交番跡形もないやこのはるは
レディへと冷めた空気のつゝじヶ丘
麹町みわたす富士と暁よ
かわりなきものは我のみ散るさくら
おにぎりと高尾山とはると広末
空を飛ぶ飛行機からの春風よ
冬眠中のくまあり溶ける雪焼けと
わがきらふきたなき國へも公転ぞ
救いあるなし溺れる鴨とか小鳩か
枯れ木ほか見えるものなき時のよし
ひばりあり魅せる踊りは小気味よき
冬用のコーヒーは減りて頃合いか
2010年3月24日
政談
もし私が上官なら、生方氏の正義感に酬いて一官位以上の昇格と同時に現筆頭職をしている某氏を判断力失格で一切の党内の職から解く。曲者なのは一連の事態で明らかだ。
なぜなら上司への適確な諌言はまさしく高位高官に必須の徳であり、これを目の当たりにしながらあたかも一般の営利企業と同然、目先のおのが利害損得へとらわれた賎しさきわまる追従へと旗を振ってきた低級人格などは二度と重職へ置くに値しないので。
この決定に某氏が逆らう様なら党の選挙区割ごと公に取り潰す。
そしてその愚鈍な上司のあやまちに安易にのっかり馬を指して鹿と成した既存の副幹事長職の劣等生としか言い難い全員へ、厳重注意の意味で、普通議員以下への大幅な減俸を彼ら一人ずつにはっきりした反省の様子がわかるまで続ける。
同様な事態が連鎖すればヒヤリハット事故の法則のごとく、致命的誤りを真顔で薦めくる佞臣しか集まらぬのだから。
いまさら古典を引くのは読書家殿らへ向けてはまさに気が引けるが、所謂信賞必罰の旨をどなたかが周知させられるとよいのではないだろうか。
なぜなら上司への適確な諌言はまさしく高位高官に必須の徳であり、これを目の当たりにしながらあたかも一般の営利企業と同然、目先のおのが利害損得へとらわれた賎しさきわまる追従へと旗を振ってきた低級人格などは二度と重職へ置くに値しないので。
この決定に某氏が逆らう様なら党の選挙区割ごと公に取り潰す。
そしてその愚鈍な上司のあやまちに安易にのっかり馬を指して鹿と成した既存の副幹事長職の劣等生としか言い難い全員へ、厳重注意の意味で、普通議員以下への大幅な減俸を彼ら一人ずつにはっきりした反省の様子がわかるまで続ける。
同様な事態が連鎖すればヒヤリハット事故の法則のごとく、致命的誤りを真顔で薦めくる佞臣しか集まらぬのだから。
いまさら古典を引くのは読書家殿らへ向けてはまさに気が引けるが、所謂信賞必罰の旨をどなたかが周知させられるとよいのではないだろうか。
文化権とは
鮪の問題は捕鯨への敵意と似て、文化間摩擦やその先覚の度を利用してどこかの国家を貶めるのに使われていそうだ。(モナコ王子とシーシェパードのつながりあるやなしやという危うい報道もあった。)紳士協定面から、欧米人がどの時代まであからさまに捕鯨していたか私はあげつらう気もその無駄手間も敢えて興味がないが、EUの国際議決権への覇権趣味は頂けない。それを手放しで見ていれば確かに、地球上の各国家は今よりもっと西洋化を進めるだけだろう。いうまでもないが、西洋文化にのみ生存権や自治権がある筈がない。植民地獲得の戦争は一段落したので、この自明の権利、即ち「文化権」は各々の自治単位で、外部の系への公共福祉の旨に反せぬ限りずっと自由に決められるべきだ。
結局、文化の多様さ、多彩さは西洋化一辺倒より価値の高い生存秩序といえる。なぜならそうであればこそ国家同士が相互参照による共栄と向上の道を歩めるのだから。もし(経済学用語でいう)外部不経済を及ぼす程が酷ければ、それは如何なる文化であれ撤廃か改善要求が自明の理だ。逆に、他の文化権へも潤いを与える外部経済文化があるなら、(今回でいう若鮪からの養殖のなりわいを生計としている地中海域の漁師や國との互恵生態の如く)仮に、その秩序が西洋化の標準からはずれた価値観をもっていても、我々には肯けるもの。動物功利主義の考え方さえ、その多様な共生の仕方がある。たとえば生肉食への忌避の程度といった判断の難しい慈悲と栄養学や料理方針とのやりとりなどなどは、我々へ趣味観の啓蒙を行うか次世代への時代内での身の処仕方を、いまより注意深く選ばせるに留まるだろう。
全体としては、いわゆる必須栄養価に基づいた円錐型のバランスした食事(栄養価分の収穫難易度による地球型生態金字塔との類比として)は、雑食の習性を高次動物については原則としてより少なく消費すべき、と単なる健康の維持の為にすら示唆しているらしく思う。だが「捕食が悪なのではない」、この生態秩序の草刈り効果を忘れる可ではないだろう。
もし我々やそれに類した高次な動物が次々に捕らえていかねば、少なくとも今ある地球の生態系は少しも維持されえない。豚、牛、鶏、魚、これらのかなり上位にありもと生態に隙の高く家畜化へ品種改良された動物類をまったく人類が消費しなくなったら、すぐに再び野生化したそれらの増大は別の消費過剰を広げ、それまで存在できていた彼らを天敵とするかなりの種類の生き物を絶滅か少なくとも激減させるだろう。高次消費をするのが無用でないのは、そうでもせねば生まれない生態適所が幾らでもあるからだ。故に動物愛護団体がかれらの愛玩の習慣を全文化へおしつけたがる傲慢は殆どがいずれ失敗していく。もし愛玩しようとすれば、人類の天敵でない地球上の全生物はそうできるが、現実には捕食せねば寧ろ表れてこない風景こそが文化権の上で希少なのだ。
牧歌的や田園的、原野的などと呼ばれるだろう全ての原風景は人類の消費者としての質が決めていくし、そうであればこそ人間の手の入らない未開発といわれる地域との対照について、世界の多様さは各主観の功利原則へ生態資源の実例として献身できる。
結局、文化の多様さ、多彩さは西洋化一辺倒より価値の高い生存秩序といえる。なぜならそうであればこそ国家同士が相互参照による共栄と向上の道を歩めるのだから。もし(経済学用語でいう)外部不経済を及ぼす程が酷ければ、それは如何なる文化であれ撤廃か改善要求が自明の理だ。逆に、他の文化権へも潤いを与える外部経済文化があるなら、(今回でいう若鮪からの養殖のなりわいを生計としている地中海域の漁師や國との互恵生態の如く)仮に、その秩序が西洋化の標準からはずれた価値観をもっていても、我々には肯けるもの。動物功利主義の考え方さえ、その多様な共生の仕方がある。たとえば生肉食への忌避の程度といった判断の難しい慈悲と栄養学や料理方針とのやりとりなどなどは、我々へ趣味観の啓蒙を行うか次世代への時代内での身の処仕方を、いまより注意深く選ばせるに留まるだろう。
全体としては、いわゆる必須栄養価に基づいた円錐型のバランスした食事(栄養価分の収穫難易度による地球型生態金字塔との類比として)は、雑食の習性を高次動物については原則としてより少なく消費すべき、と単なる健康の維持の為にすら示唆しているらしく思う。だが「捕食が悪なのではない」、この生態秩序の草刈り効果を忘れる可ではないだろう。
もし我々やそれに類した高次な動物が次々に捕らえていかねば、少なくとも今ある地球の生態系は少しも維持されえない。豚、牛、鶏、魚、これらのかなり上位にありもと生態に隙の高く家畜化へ品種改良された動物類をまったく人類が消費しなくなったら、すぐに再び野生化したそれらの増大は別の消費過剰を広げ、それまで存在できていた彼らを天敵とするかなりの種類の生き物を絶滅か少なくとも激減させるだろう。高次消費をするのが無用でないのは、そうでもせねば生まれない生態適所が幾らでもあるからだ。故に動物愛護団体がかれらの愛玩の習慣を全文化へおしつけたがる傲慢は殆どがいずれ失敗していく。もし愛玩しようとすれば、人類の天敵でない地球上の全生物はそうできるが、現実には捕食せねば寧ろ表れてこない風景こそが文化権の上で希少なのだ。
牧歌的や田園的、原野的などと呼ばれるだろう全ての原風景は人類の消費者としての質が決めていくし、そうであればこそ人間の手の入らない未開発といわれる地域との対照について、世界の多様さは各主観の功利原則へ生態資源の実例として献身できる。
南蛮虫東京都民
南蛮虫東京都民の皆さんよ。ほら。神戸からやってきて威張りたいだけの都知事様様が手放しでよろこんでますね。お金入るからって。ああいうすばらしい理性のお仲間がみんな待ってる! 前なんかさ、猥褻小説の若芸者娘を都知事室に呼んでね…もごもご。ププッあんたら江戸人、いつものことで万々歳じゃん? え芸能人ブランドが流行りでちょうどいいですって? お前ら自身の娘をさあ、姦淫罪記録で山ほどはした金儲けてんのに、なぁに威張ってんだこのソドムの虫は。
それとも漫画か? わんさか売れるからなあ、ご存知、大人気の自民党と一緒で、ククク。何だこの都? 知能指数が大阪並じゃん。ビルの間の回遊魚の國。そりゃトムヨークも皮肉るわ。こりゃあ馬鹿にされるよ外人にも。ほぼ虫だもんね、うわあ痴漢電車内でうようよ身体こすりあわせて発情期してる、南蛮虫東京都民さん。
それとも漫画か? わんさか売れるからなあ、ご存知、大人気の自民党と一緒で、ククク。何だこの都? 知能指数が大阪並じゃん。ビルの間の回遊魚の國。そりゃトムヨークも皮肉るわ。こりゃあ馬鹿にされるよ外人にも。ほぼ虫だもんね、うわあ痴漢電車内でうようよ身体こすりあわせて発情期してる、南蛮虫東京都民さん。
2010年3月23日
数珠
とおくからきこえる
僅かな奢りですら
波のなのもとに消える
殻のなごりだ
ゆっくりとした
掛け声であれみなは
海馬 のつまり
鋭く切れあがった
波濤の捲る
単純な真似事なのだろう
余程でなければ
气づかれない
そうともしらず彼らは
波を繰る
渡しゆく青きそらへ
染め上げられた白云は不意に
のべつまくなき今をかたる
そういう昼あとの大空を
眺めつけ
大地へしめった
パンジーは花咲き青白く
ゆっくりとよのまちがいを糾していく
えり選れた個りが
若し万物の内に
宿るなら
ここにある
所有 魔法の術は
そとにある
特段のご配慮を承りまして
いずこ麗しゅう今の日は
まちのうえを流れ去ってまいります
さえなき群雲をいりくませ
旅のねに耳する
たくらみのよりどころなし
百合のねに
出ていく煙草のけむり
ケム川のほとり
利根川のすぐれる
治水のおどりと
間延びした
今の日は必ずや
舞いもどるでしょう
僅かな奢りですら
波のなのもとに消える
殻のなごりだ
ゆっくりとした
掛け声であれみなは
鋭く切れあがった
波濤の捲る
単純な真似事なのだろう
余程でなければ
气づかれない
そうともしらず彼らは
波を繰る
渡しゆく青きそらへ
染め上げられた白云は不意に
のべつまくなき今をかたる
そういう昼あとの大空を
眺めつけ
大地へしめった
パンジーは花咲き青白く
ゆっくりとよのまちがいを糾していく
えり選れた個りが
若し万物の内に
宿るなら
ここにある
そとにある
特段のご配慮を承りまして
いずこ麗しゅう今の日は
まちのうえを流れ去ってまいります
さえなき群雲をいりくませ
旅のねに耳する
たくらみのよりどころなし
百合のねに
出ていく煙草のけむり
ケム川のほとり
利根川のすぐれる
治水のおどりと
間延びした
今の日は必ずや
舞いもどるでしょう
天皇に騙されてはならない
宇宙の広がりに比べ如何に人間共が卑小だろうか。それらの生き物は、私の信ずる限り、殆ど知能を有さない。それらの小さく働きよくもない脳は何か、詰まらない日常茶飯事へ一生を費ゆべくして生まれき死んでいくのだ。幼い頃からそれらの生命体に囲まれるほど不快感は募った。少しましな生き物もいるといわれる。が私は大部分で人間が繁殖本能とその為の目先の利益にしか能がないと習い覚えてきた。それは時代の所ゐだろうか。
それらの生命体は言うまでもなく、彼ら自身の繁殖本能の実践に何の留保もない。だから彼らへ説得しても説教しても刑罰しても全て無益。彼らはただ殖える為に貪るし、感覚がないか歪んで育ったので不潔さに悟れない。
元々、天皇が来る前はこの辺りでさえ質朴な農村だったのだ。天皇は偉そうにやってきて、こんな有様にして威張っている。天皇? そう呼べるほど偉い生き物とはとても言えないではないか。京と名のつく奴の居場所はどこも狂ってしまった。
私はこの経験則を、未来の文明と私の血統の連なる末裔へ決して忘れずに持っていて貰いたい。天皇に騙されてはならない。奴は秩序を乱し、堕落を撒きちらし、頽廃をばびこらせて己だけは高貴なふりをするべくやってくる。すべて奴が蒔いた種だ。どうしようもない生き物に育った人の種を収穫する頃には、質朴だった地の生まれそのものが歪んでしまう。天皇とは人を食う化け物だ。それ以外なにものでもない。
それらの生命体は言うまでもなく、彼ら自身の繁殖本能の実践に何の留保もない。だから彼らへ説得しても説教しても刑罰しても全て無益。彼らはただ殖える為に貪るし、感覚がないか歪んで育ったので不潔さに悟れない。
元々、天皇が来る前はこの辺りでさえ質朴な農村だったのだ。天皇は偉そうにやってきて、こんな有様にして威張っている。天皇? そう呼べるほど偉い生き物とはとても言えないではないか。京と名のつく奴の居場所はどこも狂ってしまった。
私はこの経験則を、未来の文明と私の血統の連なる末裔へ決して忘れずに持っていて貰いたい。天皇に騙されてはならない。奴は秩序を乱し、堕落を撒きちらし、頽廃をばびこらせて己だけは高貴なふりをするべくやってくる。すべて奴が蒔いた種だ。どうしようもない生き物に育った人の種を収穫する頃には、質朴だった地の生まれそのものが歪んでしまう。天皇とは人を食う化け物だ。それ以外なにものでもない。
Mr. Ozawa his practical thought
Japanese governmental ministry's one, Ozawa and his sub officer did Majesty against--at not them, at least for me, did it. And we have been in that, some or every Japanese not like his rude way to do, for same old persistence to Imperialism on their Kisha club--journalist cartel group--bias. Yesterday, Mr. Ubukata--his officers one, in democratic party--said that shouldn't to do that way on autocracy of Ozawa's shadow cabinets. But his critic to Ozawa's autocrat be struck out by an aide. Now the ministry leader of our governments does not to say about that bad autocracy. Because they are dependent to Ozawa's power of election campaigns. He had been in old style, major elective advanced ages in the tame. New governments restored in democratic party, can't refuge his power. Our Yukio the prime minister, have knew all things, but he have to say cliche goes on there old stance for Keynes. Not to say for unconsciousness, about middle classes multitudes democracy by inertia.
先日有倭政府乃一種内紛。其様可形容批判勃発。即小澤幹事長之先先日訪中者各人、被民主党内疑覚視也。矛槍主名生方氏之選千葉県国會議員爲先鞭小澤批判説。民主党旧日爲政権交代時宣曰地域主権転換政策論、矛盾有幹事長専制風埋没常態。多数於倭人世論云小澤氏之旧態遺野原風乃暴威性、別言剛腕但出身地倭州東北武家(奥州藤原氏之古代英傑但蕃亂有謗)故豪胆且独善。訪中時有実例、代表間協議消費多事間握手會粗略強要式之其所謂現蕃風儀。一部有力筋側近彼健康風評故過焦過度専制中在采配、根底善良且義心理雖少少旧時代劇調。略歴乃百科網羅破壊自民党界隈脱退後(彼趣味之囲碁、遊戯於奪取假想敵陣地)周辺無党派層向師事人望。或意見云倭州東北地方之遠方中央政府地域東京故不可能無作為乾坤一擲儘若匹夫群権。
倭世間風評曰小澤不便向鮮改良於弊過公共事業政策式、石造都市道路橋梁費用代辨式集票乃某太平洋戦後土建制。一利一害透小澤某結社後民主党。之嗔実乃歴史於政権交代裏舞台小規模内紛或傲慢型經着。
先日有倭政府乃一種内紛。其様可形容批判勃発。即小澤幹事長之先先日訪中者各人、被民主党内疑覚視也。矛槍主名生方氏之選千葉県国會議員爲先鞭小澤批判説。民主党旧日爲政権交代時宣曰地域主権転換政策論、矛盾有幹事長専制風埋没常態。多数於倭人世論云小澤氏之旧態遺野原風乃暴威性、別言剛腕但出身地倭州東北武家(奥州藤原氏之古代英傑但蕃亂有謗)故豪胆且独善。訪中時有実例、代表間協議消費多事間握手會粗略強要式之其所謂現蕃風儀。一部有力筋側近彼健康風評故過焦過度専制中在采配、根底善良且義心理雖少少旧時代劇調。略歴乃百科網羅破壊自民党界隈脱退後(彼趣味之囲碁、遊戯於奪取假想敵陣地)周辺無党派層向師事人望。或意見云倭州東北地方之遠方中央政府地域東京故不可能無作為乾坤一擲儘若匹夫群権。
倭世間風評曰小澤不便向鮮改良於弊過公共事業政策式、石造都市道路橋梁費用代辨式集票乃某太平洋戦後土建制。一利一害透小澤某結社後民主党。之嗔実乃歴史於政権交代裏舞台小規模内紛或傲慢型經着。
資源開発の常識
原発と石油循環では後者がより価格面で有利だ。前者は、又その開発へ最低限以上の石油資源を要するとあっては、エネルギー選択面で最大の産出地帯である中東と共通の利害で結ばれていた方がいい。
だから政策転換では、メタン革命への(最も信用できるのは、国立研究機関も集積している筑波圏への意図した集約投資によるかもしれぬ)途中に於いて、原発輸出と同時に、中東諸国からの石油購入客の筆頭国としての定常化と国内でのその『再循環使用』つまり、低炭素などという土台不可能なドイツ式の空理空論ではなく、「高度なリサイクル資源」としての石油利用の重奏が考えられるべきだ。
原発の廃棄物より明らかに今のところ廃棄されている部分の重油や軽油への転用、或いは石油化学製品の廃棄物のつくりなおしの方が効率もいい。
何より、中東にとっては石油転売が恰好の財源なのだから、我々アングロサクソンの利害と特に関係ない民族構成比率が高い特殊アジア人では、かれらの利己心への阿り;おもねり等よりその互恵へ迷わず進むべきだ。
かならずや覇権を主張してくるEU諸国が国連議決を援用し海洋資源の寡占をやっかみだし、あるいはまた中国の技術が追いつく頃には既に我々はメタン革命以後にいるので、この大局政略観へなにも問題はない。
だから政策転換では、メタン革命への(最も信用できるのは、国立研究機関も集積している筑波圏への意図した集約投資によるかもしれぬ)途中に於いて、原発輸出と同時に、中東諸国からの石油購入客の筆頭国としての定常化と国内でのその『再循環使用』つまり、低炭素などという土台不可能なドイツ式の空理空論ではなく、「高度なリサイクル資源」としての石油利用の重奏が考えられるべきだ。
原発の廃棄物より明らかに今のところ廃棄されている部分の重油や軽油への転用、或いは石油化学製品の廃棄物のつくりなおしの方が効率もいい。
何より、中東にとっては石油転売が恰好の財源なのだから、我々アングロサクソンの利害と特に関係ない民族構成比率が高い特殊アジア人では、かれらの利己心への阿り;おもねり等よりその互恵へ迷わず進むべきだ。
かならずや覇権を主張してくるEU諸国が国連議決を援用し海洋資源の寡占をやっかみだし、あるいはまた中国の技術が追いつく頃には既に我々はメタン革命以後にいるので、この大局政略観へなにも問題はない。
2010年3月22日
厭な春
春雨のおとする
あさはやく起きし昼ぼらけ親き
冬支度なつかしき
北国に生まれたくおもうぬるき春の来し方
日の本のくにへは足りぬ涼しさよ
われきらふ下愚どもわらわらとつがふ春ぞ
学びやのうえに覆い被さる桜花の毒々しさ
捜せどあらじ星なかの理想郷をねがう夜空の海と
試験と組替えありき厭な春はどこも暗鬱なり
あさはやく起きし昼ぼらけ親き
冬支度なつかしき
北国に生まれたくおもうぬるき春の来し方
日の本のくにへは足りぬ涼しさよ
われきらふ下愚どもわらわらとつがふ春ぞ
学びやのうえに覆い被さる桜花の毒々しさ
捜せどあらじ星なかの理想郷をねがう夜空の海と
試験と組替えありき厭な春はどこも暗鬱なり
宇宙学
七夕宇宙の1ニュートンはそこにある全物質の量によるので、この重さは他の系で可変なだけ別の引力場によって違う宇宙型の適合度を上げる。もし七夕系より軽いならシャボン化し、重いなら粘土化す。よって唐傘系へは粘土宇宙視が適当で、十五夜系へはシャボン視が要る。それらへは七夕系とその類似系な鈴系というおもち宇宙とは違うかかなり極端なその法則さの展開がのぼる。もし唐傘系でいえば粘土さはほぼ動きのない内部系の安定か固着で、シャボン宇宙での移り変わりがちなその流動さと対称さをなす。当然、そこでの文明系の発達のはやさや種類と方式をかなりか大幅にちがえる主要な誘因の一つとそれらの場の条件はなる。
隣接文明との取引にみれば経済化しやすいのは、おもち宇宙でも特にその光密度の高い方。ゆえ我々の宇宙視野が暗いことからも我々が辺境の感覚原理へ適応してでてきた生態なのはあきらかなので、鈴系の周縁部か七夕系の中央文明圏でより情報量経済は発展しがち。地球のある天の川銀河は辺境の暗がりにある未開地域へ近づく。だから各地球内文明の中でも冒険人事や起業がおもに十五夜系の、はじめは周縁圏の同位種とかもだがいずれそこでの主要文化と交易ができねばいずれは、完成度のきわまった唐傘系からの大量の極相文明によって支配されゆくだろう。それ以前には、情報量面で川上な十五夜系から仕入れたしくみを自らの属した地球感覚の特産さ付加や加工貿易でその唐傘系との豊富な資材や生態材と次々交換しやがては我々の文化そのものが以前より強壮な機械生命化を果たせねば、およそ生き残りは長い目ではない。ただし鈴系はこの流れへ逆らう。なぜなら類似同位種間での競争は最も激しいのが通例なのだから。よって先んじて鈴系の機密情報を翻訳可能とする言語機能の解読が全ての戦略価値面で上位をなす。
翻訳能力の高さ、機械辞書をとおしてのちの精密は今の時点でもとても高く見積もれる文化機能なので、冗長さを伴う解釈界は無用でないばかりか文明の生き残りへ決定的。ただし先駆へは造り数学能の最短の合理化が有効ゆえそれは機械適合言語の数理的単純さによる。従って、造型数理はつねに単純さ毎の重畳化を記号論理面で自動づける習性を日常語と別の計画にするべき必然さを言及できる。尤に、それを避けるか悟らぬ生態へは生存目的が維持化する中で違う適所が用意される。よって高度技術文明は一部の先駆的選良地帯へしかいずれ適合させえず、そうさせるをえないだろう。
自然的生態という既存人類界の過半は残されるか一掃され、或いは縮減され違う趣が地球を覆う。がこの変異も宇宙系間での取引の時代が風趣の政策面へ適用されればある定常さが放任か寛容されだすので、一時かも。我々は経済化が必要な地域にいる身として、己らしさを一貫させる動機へと生態の自己改造か改良の規則を維新らしさとして肯首できるにすぎないだろう。にも関わらず、それが自主的な限りは、己らしさが変化への適応として示されゆく習性へ芸術観に独特の地位を保てるかも。
隣接文明との取引にみれば経済化しやすいのは、おもち宇宙でも特にその光密度の高い方。ゆえ我々の宇宙視野が暗いことからも我々が辺境の感覚原理へ適応してでてきた生態なのはあきらかなので、鈴系の周縁部か七夕系の中央文明圏でより情報量経済は発展しがち。地球のある天の川銀河は辺境の暗がりにある未開地域へ近づく。だから各地球内文明の中でも冒険人事や起業がおもに十五夜系の、はじめは周縁圏の同位種とかもだがいずれそこでの主要文化と交易ができねばいずれは、完成度のきわまった唐傘系からの大量の極相文明によって支配されゆくだろう。それ以前には、情報量面で川上な十五夜系から仕入れたしくみを自らの属した地球感覚の特産さ付加や加工貿易でその唐傘系との豊富な資材や生態材と次々交換しやがては我々の文化そのものが以前より強壮な機械生命化を果たせねば、およそ生き残りは長い目ではない。ただし鈴系はこの流れへ逆らう。なぜなら類似同位種間での競争は最も激しいのが通例なのだから。よって先んじて鈴系の機密情報を翻訳可能とする言語機能の解読が全ての戦略価値面で上位をなす。
翻訳能力の高さ、機械辞書をとおしてのちの精密は今の時点でもとても高く見積もれる文化機能なので、冗長さを伴う解釈界は無用でないばかりか文明の生き残りへ決定的。ただし先駆へは造り数学能の最短の合理化が有効ゆえそれは機械適合言語の数理的単純さによる。従って、造型数理はつねに単純さ毎の重畳化を記号論理面で自動づける習性を日常語と別の計画にするべき必然さを言及できる。尤に、それを避けるか悟らぬ生態へは生存目的が維持化する中で違う適所が用意される。よって高度技術文明は一部の先駆的選良地帯へしかいずれ適合させえず、そうさせるをえないだろう。
自然的生態という既存人類界の過半は残されるか一掃され、或いは縮減され違う趣が地球を覆う。がこの変異も宇宙系間での取引の時代が風趣の政策面へ適用されればある定常さが放任か寛容されだすので、一時かも。我々は経済化が必要な地域にいる身として、己らしさを一貫させる動機へと生態の自己改造か改良の規則を維新らしさとして肯首できるにすぎないだろう。にも関わらず、それが自主的な限りは、己らしさが変化への適応として示されゆく習性へ芸術観に独特の地位を保てるかも。
江戸・東京都政の骨
にぶい都政は一つの反面教育として使える。具体的には、程度問題で推しきりたいのだろうが、実在しない登場人物への規制などよりはるかに劣った理性の江戸人どもの売春をとりしまる方が優先事項なはずだ。
つまり財源が決定的に足りなくなりつつある昨今、いい意味でよりクレバーなのはその種の存在悪へ重税を科すことだ。たとえば猥褻物陳列罪や公然猥褻罪など過密な上もとの理性に落ち度のある地域柄な江戸東京の一帯ではいかにも想像より緩和され見過ごされ易い悪行をみとおし、その中間へも無数の法の網で遇すること。
より具体的には、「風俗壊乱罪」や「存在悪取引法」などの新しい概念を複数設け、それらの運用でとりしまった企業活動からきわめて高い徴税率を占めればいい。
なぜそんなものに都がこだわるか(妄想上の悪は実在の悪とは違い、いわゆる思想の自由の圏域なので)不明だが、懸案となっている悪質漫画などは8~9割超を存在悪税として上乗せする等いくらでも公益にとり好都合な隙はある。
また姦淫映像(アダルトビデオ)とよばれる新種の存在悪を業務化している江戸らしい企業、或いはいわゆる風俗営業店へは売上高の8割以上は税率とすること、及び規定街区(法的にオリエンタルランドとでも名付けられよう)外の行いでは即刻逮捕すること等を存在悪取引法に含めるといい。要するに、それらの芽が決して繁栄できない様な純利益の過半に上乗せた徴税率設定にするといい。
つまり財源が決定的に足りなくなりつつある昨今、いい意味でよりクレバーなのはその種の存在悪へ重税を科すことだ。たとえば猥褻物陳列罪や公然猥褻罪など過密な上もとの理性に落ち度のある地域柄な江戸東京の一帯ではいかにも想像より緩和され見過ごされ易い悪行をみとおし、その中間へも無数の法の網で遇すること。
より具体的には、「風俗壊乱罪」や「存在悪取引法」などの新しい概念を複数設け、それらの運用でとりしまった企業活動からきわめて高い徴税率を占めればいい。
なぜそんなものに都がこだわるか(妄想上の悪は実在の悪とは違い、いわゆる思想の自由の圏域なので)不明だが、懸案となっている悪質漫画などは8~9割超を存在悪税として上乗せする等いくらでも公益にとり好都合な隙はある。
また姦淫映像(アダルトビデオ)とよばれる新種の存在悪を業務化している江戸らしい企業、或いはいわゆる風俗営業店へは売上高の8割以上は税率とすること、及び規定街区(法的にオリエンタルランドとでも名付けられよう)外の行いでは即刻逮捕すること等を存在悪取引法に含めるといい。要するに、それらの芽が決して繁栄できない様な純利益の過半に上乗せた徴税率設定にするといい。
2010年3月21日
品格と自由
品格論の流行は当代の数学徒たる藤原正彦氏が『国家の品格』なる、留学組にありそうな国粋趣味な随筆を新書のかたちで広く売った所に起源があると思われる。品格論の欠点とは、自由主義に自明の理だった「個性の多形」をなぜか否定しても居直りだす傲慢さにありそうだ。本来、品位のない、何らかの意味で低俗とかまけられる生態が不用や無駄、ましてやどこでもあまねく抑圧されていいのでは必ずしもない。中世のスコラ学者らからみれば我々の時代の全科学、或いはその権威の源の一つであるアリストテレス自身からみれば、数学などという利己や神秘の衣でかためたピタゴラスの徒の瑣末な学野への辟易たる邁進などみな堕落である。今は仰がれている科学者ですらとある時代の主流からはまるで門外漢なのだ。同じ事は全時代の生態へ程度こそあれ当て得る。
要は品位の定義とは比べてのみ分かるものだといえる。結局、品格論とは他律的浮動や煽られ易い衆愚の相互参照の反復に戻る。だからそれ自体が煽情方法論の一種であり、独創へつながる唯一の道である自由を相対的な論拠で潰して行こうとする独善と原理主義のかくれた意図をふくむのが明らかだ。そして我々はマルクス主義への共感者ばかりで構成されるとは限らないか限ってもいけない地域柄にきたのだから、少しなりともの国家原理主義の吹き込みは戦中の実際の悲惨さを鑑み、いわゆる個人主義の文脈から戒められねばならない。
抑、品位が求まるとすればそれは自由の種類、いわばすべての快楽(単純に卸せば、苦痛回避の生活とはこれを原動力として営まれている)に於ける精神性の高さでしかありえず、又自然や社会科学の知識による何らかの工夫もここに入る。つまりそれは自由の使い道による。成る程下賎な放蕩へ時を費やす俗物より人類の高貴な文化へ一歩一歩貢献し続ける学術活動の担い手は、それは比較してみれば優れて精神的な生活態度を持っているかもしれない。さてその種の俗物は某品格論にまんまと騙されて、直ぐさま自由の矛先をみずからと周囲の人間達への心遣いや次世代の到達点を高められる仕事へと、あらぬ方へできあがってしまった性格こもごも向けるというのだろうか。公衆からの逆らいがたい煽動や大衆報道が囲った世論の抑圧で、生まれ持った傾向からさらに歪んだ性格をつくりあげてしまうだけではないのか。
品格論はここでも無力だし、というのも教養の有様が各自ばらけているからだが、単にそれは狂信的国粋家らへ全体主義の為の便利な原典を与えてしまうにすぎない。数学に集約すべき能力をあまり上等でない浅い哲学説(ある場合には知恵者の詭弁とも言う様だ。なぜなら彼らは本来の啓蒙ではなく、肩書きをその権威の代わりに利用するのだから。)へと分越えして用いた結末はこう言っては何だが、扇動行為への手前味噌を論理学知識を逆手に合理化できた丈でないか。尤もそれが彼の利益なのだろうが。
重要なのは個人の自由をそれ自体、社会一般からの一律の抑圧なしに営ませることだ。説教家も堕落屋も、地域の公共段階がその福祉の定義づけへの多彩な素材を望む限り少しなりとも実現されてもいい。それらのどれが遠い次世代からみて何らかの趣味で優秀なのか、我々の時代の眼から完璧に確定しきれるものではない。偉大な才能は大抵当時の普通民衆とやらには真新しい行為によって奇人変人にしか見えず、逆に取るに足らぬ好色物の戯作者や奴隷虐殺の現実はなんの疑いもなしに、多数派に属するがゆえおおやけか当時の中産階級には当時の品格論で擁護されてさえいたのだ。
利害の調整は一般的な公共政策、いいかえれば地方自治と法治の簡素化に求められてよい。むかしそうと信じられていた品格なる用義は上述のごとく、多数派の偏見で歪んでいることが殆どなので(『源氏物語』の虫類のごとき退廃公家の価値観をみよ)、必ずしも全人生や国民一人ひとりにとっての唯一の目的とされるべきでもないのだ。しかしこれとは別に、個人主義と彼らの生存権を掌る自由だけは、決して抑圧されたり、少しなりとも意味なく迫害されるべきではない。自由の種類についての注意深い(できればこの時代の水準で最も明晰であるとされるのだろう自然科学の知識の引用により、実験でくりかえし検証、つまり「実証できる」)批評がなさるべきと思われる。この種の議論(論争と区別してしばし「討論」とも呼ばれる)は真理とよべる知識への次第次第の漸進へつながるので、途中では多くの間違った説も唱えられるだろうが、それらの比較検討の能力を個々人へ鍛える為にも有益なのだから。
要は品位の定義とは比べてのみ分かるものだといえる。結局、品格論とは他律的浮動や煽られ易い衆愚の相互参照の反復に戻る。だからそれ自体が煽情方法論の一種であり、独創へつながる唯一の道である自由を相対的な論拠で潰して行こうとする独善と原理主義のかくれた意図をふくむのが明らかだ。そして我々はマルクス主義への共感者ばかりで構成されるとは限らないか限ってもいけない地域柄にきたのだから、少しなりともの国家原理主義の吹き込みは戦中の実際の悲惨さを鑑み、いわゆる個人主義の文脈から戒められねばならない。
抑、品位が求まるとすればそれは自由の種類、いわばすべての快楽(単純に卸せば、苦痛回避の生活とはこれを原動力として営まれている)に於ける精神性の高さでしかありえず、又自然や社会科学の知識による何らかの工夫もここに入る。つまりそれは自由の使い道による。成る程下賎な放蕩へ時を費やす俗物より人類の高貴な文化へ一歩一歩貢献し続ける学術活動の担い手は、それは比較してみれば優れて精神的な生活態度を持っているかもしれない。さてその種の俗物は某品格論にまんまと騙されて、直ぐさま自由の矛先をみずからと周囲の人間達への心遣いや次世代の到達点を高められる仕事へと、あらぬ方へできあがってしまった性格こもごも向けるというのだろうか。公衆からの逆らいがたい煽動や大衆報道が囲った世論の抑圧で、生まれ持った傾向からさらに歪んだ性格をつくりあげてしまうだけではないのか。
品格論はここでも無力だし、というのも教養の有様が各自ばらけているからだが、単にそれは狂信的国粋家らへ全体主義の為の便利な原典を与えてしまうにすぎない。数学に集約すべき能力をあまり上等でない浅い哲学説(ある場合には知恵者の詭弁とも言う様だ。なぜなら彼らは本来の啓蒙ではなく、肩書きをその権威の代わりに利用するのだから。)へと分越えして用いた結末はこう言っては何だが、扇動行為への手前味噌を論理学知識を逆手に合理化できた丈でないか。尤もそれが彼の利益なのだろうが。
重要なのは個人の自由をそれ自体、社会一般からの一律の抑圧なしに営ませることだ。説教家も堕落屋も、地域の公共段階がその福祉の定義づけへの多彩な素材を望む限り少しなりとも実現されてもいい。それらのどれが遠い次世代からみて何らかの趣味で優秀なのか、我々の時代の眼から完璧に確定しきれるものではない。偉大な才能は大抵当時の普通民衆とやらには真新しい行為によって奇人変人にしか見えず、逆に取るに足らぬ好色物の戯作者や奴隷虐殺の現実はなんの疑いもなしに、多数派に属するがゆえおおやけか当時の中産階級には当時の品格論で擁護されてさえいたのだ。
利害の調整は一般的な公共政策、いいかえれば地方自治と法治の簡素化に求められてよい。むかしそうと信じられていた品格なる用義は上述のごとく、多数派の偏見で歪んでいることが殆どなので(『源氏物語』の虫類のごとき退廃公家の価値観をみよ)、必ずしも全人生や国民一人ひとりにとっての唯一の目的とされるべきでもないのだ。しかしこれとは別に、個人主義と彼らの生存権を掌る自由だけは、決して抑圧されたり、少しなりとも意味なく迫害されるべきではない。自由の種類についての注意深い(できればこの時代の水準で最も明晰であるとされるのだろう自然科学の知識の引用により、実験でくりかえし検証、つまり「実証できる」)批評がなさるべきと思われる。この種の議論(論争と区別してしばし「討論」とも呼ばれる)は真理とよべる知識への次第次第の漸進へつながるので、途中では多くの間違った説も唱えられるだろうが、それらの比較検討の能力を個々人へ鍛える為にも有益なのだから。
2010年3月20日
政務
村社会のあしき内部隠蔽体質は徹底的に暴かれ見つけ次第おおやけに潰されていい。
「私人」としての内部告発は公的組織にとって不可欠の自浄装置と言える。組織内での進言と下意上達の意見吸い上げ機能がない専制的絶対主義が敷かれた腐敗の場では、この方法でしか誰もに善意は発揮しえない。(カント『啓蒙とは何か』を参照せよ。公私の使命に極端な差が否応ない時には、匿名による投書も場合により必須となるだろう。)
日本型組織の悪徳である村八分の慣習は党の公徳の欠如を示す丈だ。
「私人」としての内部告発は公的組織にとって不可欠の自浄装置と言える。組織内での進言と下意上達の意見吸い上げ機能がない専制的絶対主義が敷かれた腐敗の場では、この方法でしか誰もに善意は発揮しえない。(カント『啓蒙とは何か』を参照せよ。公私の使命に極端な差が否応ない時には、匿名による投書も場合により必須となるだろう。)
日本型組織の悪徳である村八分の慣習は党の公徳の欠如を示す丈だ。
経済学
資本主義が決して救いきれないのは勤労を好まない上その成果を欲しがる層。彼らをここでねぎらわぬ層と呼ぶと、勿論事情はあるが、彼ら丈が資本主義による社会建設へ最後まで反対し続けるのは明らか。又賃金と開かれた社交場での富の偏りを不穏とみれば、勤労と労組の均衡条件しか資本主義の性能を充分発揮しきれる気勢はない。つまり労働者の権力が常に資本家のそれより高く見積もられる法的条件付けこそが資本主義の性能へは必要条件。
私の考えるケインズ最高の洞察は、有効需要の低減が金利生活階級の自然消滅をいざなう、という一点にある。が細かい経過への展望は彼の眼になかった。だから彼の体系自体は疎漏でもある。某途中段階でも人間は暮らすをう。故少なくとも心理的圧迫が、そこでの労働者の日常では除き切れない。いつ公的資本の限界効用とやらが訪れるのか見通しの効かない段階では、霧の中の運転をヒヤヒヤながら続けるしかない。
この五里霧中の結論をいえば公的資本の限界効用という観点はケインズの勘違いであり、それは誤りでもある。我々は残念ながら科学と技術を結び付ける習性を文化素へ獲得してしまったので(工学の誤訳か意訳が起こりだとして)、何事かを新たに学ぶ限り永遠に、技革の終点は訪れない。スタートレックの未来(工学段階が発展の限界へ至りほぼ定常化した世界)は幻で、対して無限階層論と同じく科学認識には全く限度という面がないだろう。但し、我々自身の遺伝変形より機械の技革はおもにずっと速い革新を行うので、仮に変化が起こっても殆どは細部建築の自動化機能とその重畳でしかない。活きている間でさえもその速度が速まり続けるのみ。
従って、資本の効用は自己拡張性を伴う。もっと別の言い方なら、富の格差は技革投機が禁忌されねば永遠に連なり拡がりゆく。だから累進課税の方式にしか全く、資本経済を公認した法的社会がこの拡がりを食い止める手だてはありえない。計画規定の域をこえて勤労習性は科せない。奴隷制度は人間性やその為の自由権へ反するとされているから。ならば、普通みられる資本選好の衝動は勤労層が彼らの体力を累進課税分も含め、取り分と誇る為にいだかれている。こうして資本主義経済内では決して経済秩序の労使関係が終ることはない。もし有効需要の低減が起きてもそれは旧技術での効用の程度が、であり次の技革は新たな需要を必ず掘り起こしてくる。つまりケインズ最高の洞察はマルクス思想へ知らぬうち感染した知識人一流の回顧趣味だったのだ。
累進課税方式の限界効用仮説は之へ反論して漸進的真理を主張する。もし強すぎる累進制を敷けばそれは社会主義化を伴うか、でなくば国家単位での世代間負担を合理化する福祉主義論と同じになる。なぜ近代の個人が資本主義経済を択んできたかといえばそれが勤労の恵みを最も享受させやすい世界観だったからだ。同じく、累進課税のある程度の制動機能のいつの間にかの導入の訳といえば富の極度の片寄り振りは市民社交の健全さを失わす、というかなりの共同体思想がそうさせてきた所が大きい。
この両面の利害は、ケインズ以降の経済学で最も要となる改良点が公共事業投資の対象を公共財の自己選択論へおろすという、地域趣味説を明かす。ある地域では地を這う浮浪者の救済より皇帝直属の園を豪華に装うのを当然の公益対象と見なすだろうが、一方では生活保護を一切の賭け事や飾り気より重視する國柄もありうる。この場合の國をいわゆる近代国家の内部へ分立された地域単位とみれば、公費がどこへ用いられその蓄えが人々をどこへ導くのかも同じ原則で因果応報の趣を執るし、そうたる方が効率の促しと各風土体制の冗長さ維持へ叶う。一般に累進課税の微分化の本性は従って、一国家にかなりの風土差か民俗差があるときに強調され採択され易い。もし広域に及ばず単純な民族構成のなりたちゆえ国家に生活嗜好の違いが微小な時は、彼らは調整的正義を普遍性の観点から、あまねく一律にしか鑑みないだろう。
ハイエク等の新自由主義論が市場介入の撤廃を狙うのと違って、この財政領域も込めた純粋に資本主義的な考えでは有効需要拡大の矛先自体を市民とそのおのおの細分化された単位ごとへ再分配(調整済み分配)せねばならない。つまり元は手詰まり防止策として考え出されてきた財政出動を常識としておいた上で、どこへなら支出しても良いか、郷の趣をえらぶ智恵の民度が地方自治面へ広く譲り渡されればよい。この手法を郷國ごとの再分配の趣意あるいは地域選択型投機の拡充、もしくは短く地域投機と呼べる。より簡潔にいえば、全体を統制するのではなく、財政投機に限ればできるだけ小さな自治組織の選択制でこの対象を決められるべく勧めると、新自由主義の欠陥である自然や地方事情ごとに希少な文化秩序の無防備な破壊という外部不経済を含む、市場原理的な見落としが随分減るか、最低でも郷國同士の隣接文化反作用的な展開競走で前よりそれら不可逆な文化資本のありかへ人々はずっと注意深くなるだろう。なぜ再分配への権限が細分化して手渡されるべきかいえば、実はその方が手間が掛からないからだ。
経済勘定に疎い地域は元々そちら側へ進もうとする人民らの意欲や適性に欠けており、しかも出来る者の足を引っ張ったり持てる者をやっかみ陥れたりする厄介者どもの巣窟と化している場合が大変多いのが、本当のことなのだ。彼らの幸せは旧態の維持や頽廃した暮らし方の愛顧、及び土民仲間内での野蛮な慣習の絶対視であるのが殆ど。こういう地域は通常かたいなかと呼ばれているが、その中でもさらに後退地域と比較的進歩を受け入れる余地のある半市民社会が村と呼ばれているのであり、いわば僻地の奥へは我々が国家思想からの経済的進展への啓蒙をおしつけようとも根本から、退行層はそういう理念へは共感も協調もしないもの。彼らの合言葉はみな文明へのうらみつらみであり、本質的に何事でも以前の人類より優れた生活経験はなかったことにしようとする、野生で彼らが自慢している分には楽な、但し、かれらとしても面白くない旧世界への故なき愛着なのである。こういう社会環境がしかも多く遍在している国家体制である限り、全体統制論による発展趣意はなおも空想的といわれざるをえなかった。統一国家の体裁は対外戦争の上で皆兵需要がきえさればそのまま時代遅れとして見捨てられて構わないものだ。もし上述の理論、乃ち郷國単位での公益増進が常識化されれば、全く労働や勤労所得なしにかなり旧くしかも低い程度の暮らし行きを好ましいとみなす怠惰か逃げ腰の生活感覚者たちにも、ほぼ永住権と共に狭くはない居場所が与えられるだろう。だがそういう地域は、きっと時代と共に他の外界とは常識でさえ乖離し始め、いなかという以上に島内の外邦化を伴う。とはいえそれでも幸福指数などちょっと風変わりな各種指標で彼らの自己満足度は、資本原理主義社会の全面的おしつけのときよりずっと彼らと、我々にも高くおもわれるだろう。
私の考えるケインズ最高の洞察は、有効需要の低減が金利生活階級の自然消滅をいざなう、という一点にある。が細かい経過への展望は彼の眼になかった。だから彼の体系自体は疎漏でもある。某途中段階でも人間は暮らすをう。故少なくとも心理的圧迫が、そこでの労働者の日常では除き切れない。いつ公的資本の限界効用とやらが訪れるのか見通しの効かない段階では、霧の中の運転をヒヤヒヤながら続けるしかない。
この五里霧中の結論をいえば公的資本の限界効用という観点はケインズの勘違いであり、それは誤りでもある。我々は残念ながら科学と技術を結び付ける習性を文化素へ獲得してしまったので(工学の誤訳か意訳が起こりだとして)、何事かを新たに学ぶ限り永遠に、技革の終点は訪れない。スタートレックの未来(工学段階が発展の限界へ至りほぼ定常化した世界)は幻で、対して無限階層論と同じく科学認識には全く限度という面がないだろう。但し、我々自身の遺伝変形より機械の技革はおもにずっと速い革新を行うので、仮に変化が起こっても殆どは細部建築の自動化機能とその重畳でしかない。活きている間でさえもその速度が速まり続けるのみ。
従って、資本の効用は自己拡張性を伴う。もっと別の言い方なら、富の格差は技革投機が禁忌されねば永遠に連なり拡がりゆく。だから累進課税の方式にしか全く、資本経済を公認した法的社会がこの拡がりを食い止める手だてはありえない。計画規定の域をこえて勤労習性は科せない。奴隷制度は人間性やその為の自由権へ反するとされているから。ならば、普通みられる資本選好の衝動は勤労層が彼らの体力を累進課税分も含め、取り分と誇る為にいだかれている。こうして資本主義経済内では決して経済秩序の労使関係が終ることはない。もし有効需要の低減が起きてもそれは旧技術での効用の程度が、であり次の技革は新たな需要を必ず掘り起こしてくる。つまりケインズ最高の洞察はマルクス思想へ知らぬうち感染した知識人一流の回顧趣味だったのだ。
累進課税方式の限界効用仮説は之へ反論して漸進的真理を主張する。もし強すぎる累進制を敷けばそれは社会主義化を伴うか、でなくば国家単位での世代間負担を合理化する福祉主義論と同じになる。なぜ近代の個人が資本主義経済を択んできたかといえばそれが勤労の恵みを最も享受させやすい世界観だったからだ。同じく、累進課税のある程度の制動機能のいつの間にかの導入の訳といえば富の極度の片寄り振りは市民社交の健全さを失わす、というかなりの共同体思想がそうさせてきた所が大きい。
この両面の利害は、ケインズ以降の経済学で最も要となる改良点が公共事業投資の対象を公共財の自己選択論へおろすという、地域趣味説を明かす。ある地域では地を這う浮浪者の救済より皇帝直属の園を豪華に装うのを当然の公益対象と見なすだろうが、一方では生活保護を一切の賭け事や飾り気より重視する國柄もありうる。この場合の國をいわゆる近代国家の内部へ分立された地域単位とみれば、公費がどこへ用いられその蓄えが人々をどこへ導くのかも同じ原則で因果応報の趣を執るし、そうたる方が効率の促しと各風土体制の冗長さ維持へ叶う。一般に累進課税の微分化の本性は従って、一国家にかなりの風土差か民俗差があるときに強調され採択され易い。もし広域に及ばず単純な民族構成のなりたちゆえ国家に生活嗜好の違いが微小な時は、彼らは調整的正義を普遍性の観点から、あまねく一律にしか鑑みないだろう。
ハイエク等の新自由主義論が市場介入の撤廃を狙うのと違って、この財政領域も込めた純粋に資本主義的な考えでは有効需要拡大の矛先自体を市民とそのおのおの細分化された単位ごとへ再分配(調整済み分配)せねばならない。つまり元は手詰まり防止策として考え出されてきた財政出動を常識としておいた上で、どこへなら支出しても良いか、郷の趣をえらぶ智恵の民度が地方自治面へ広く譲り渡されればよい。この手法を郷國ごとの再分配の趣意あるいは地域選択型投機の拡充、もしくは短く地域投機と呼べる。より簡潔にいえば、全体を統制するのではなく、財政投機に限ればできるだけ小さな自治組織の選択制でこの対象を決められるべく勧めると、新自由主義の欠陥である自然や地方事情ごとに希少な文化秩序の無防備な破壊という外部不経済を含む、市場原理的な見落としが随分減るか、最低でも郷國同士の隣接文化反作用的な展開競走で前よりそれら不可逆な文化資本のありかへ人々はずっと注意深くなるだろう。なぜ再分配への権限が細分化して手渡されるべきかいえば、実はその方が手間が掛からないからだ。
経済勘定に疎い地域は元々そちら側へ進もうとする人民らの意欲や適性に欠けており、しかも出来る者の足を引っ張ったり持てる者をやっかみ陥れたりする厄介者どもの巣窟と化している場合が大変多いのが、本当のことなのだ。彼らの幸せは旧態の維持や頽廃した暮らし方の愛顧、及び土民仲間内での野蛮な慣習の絶対視であるのが殆ど。こういう地域は通常かたいなかと呼ばれているが、その中でもさらに後退地域と比較的進歩を受け入れる余地のある半市民社会が村と呼ばれているのであり、いわば僻地の奥へは我々が国家思想からの経済的進展への啓蒙をおしつけようとも根本から、退行層はそういう理念へは共感も協調もしないもの。彼らの合言葉はみな文明へのうらみつらみであり、本質的に何事でも以前の人類より優れた生活経験はなかったことにしようとする、野生で彼らが自慢している分には楽な、但し、かれらとしても面白くない旧世界への故なき愛着なのである。こういう社会環境がしかも多く遍在している国家体制である限り、全体統制論による発展趣意はなおも空想的といわれざるをえなかった。統一国家の体裁は対外戦争の上で皆兵需要がきえさればそのまま時代遅れとして見捨てられて構わないものだ。もし上述の理論、乃ち郷國単位での公益増進が常識化されれば、全く労働や勤労所得なしにかなり旧くしかも低い程度の暮らし行きを好ましいとみなす怠惰か逃げ腰の生活感覚者たちにも、ほぼ永住権と共に狭くはない居場所が与えられるだろう。だがそういう地域は、きっと時代と共に他の外界とは常識でさえ乖離し始め、いなかという以上に島内の外邦化を伴う。とはいえそれでも幸福指数などちょっと風変わりな各種指標で彼らの自己満足度は、資本原理主義社会の全面的おしつけのときよりずっと彼らと、我々にも高くおもわれるだろう。
2010年3月19日
製品開発
USBからのデータをもう一つのUSB挿入口へ吐き出す装置、『USB転送機』を。カードサイズで、画面は左から右へ最小限の文字列を映せる液晶でいい。ソニックステージの転送時点での画面状態が参考になる。
靴は踵:かかとが減り易いので、この部位だけ補助で取替える可能なだけ汎用な「かかと補助具」を各素材で販売すること。合成ゴム、プラスチック、軽金属製。
仮製品名、靴蹄:くつひづめ。
靴は踵:かかとが減り易いので、この部位だけ補助で取替える可能なだけ汎用な「かかと補助具」を各素材で販売すること。合成ゴム、プラスチック、軽金属製。
仮製品名、靴蹄:くつひづめ。
動物功利主義の批判
全ての生命体への功利主義観点の敷衍、即ち快苦原則の最適化はもしそうよぶなら神のまね事であり、それ自体は至善でない。それは知的設計説の趣味観に限って真だが、全面的に全生態の倫理状態を代表すべきものではない。動物の快苦を我々のもつ痛覚や快楽物質のあてはめで量ろうとすることさえ人間原理の行く末あしき傲慢なのだろう。野良猫の幸福と介護犬の名誉は捕鯨の技能とか豚や牛肉類の食事と似て何らかの主観からの趣味を反映する。同様に、知的設計説の趣味のみが全生態への慈悲心の基であるとはいいきれない。
この点で、動物功利主義というべき(ピーター・シンガーなど)オーストラリアを中心とした学派は、趣味主義の本の前座に過ぎない。宇宙生態学でいう感覚原理を、我々の今の生態地位上での確かな主観の根拠としていい理由はどこにも見つかりはしない。というのも我々の生態地位は、大量絶滅の史実を省みれば偶々有るものとも考えられるだからだ。この偶有さは痛覚のしくみをある程度は共有しているだろうかなり上位の動物類と我々とが似た生存競争の場を共有し、又それ自身の規則で奪い合うべき自然の道理を全く曇りなく原則づける。つまり弱肉強食は、いわゆる利他行為の同種間保存、道徳と呼ばれる習性と等しく、とある系の内外へも趣を違えてでも分派していく。我々か私は、この神ながらの賢明さが我々を生み出し、又我々の言説を超越した主観という絶対非対称さで導いている、と信じる。結局、動物との共生は私か私達の都合なのだ。そして生態金字塔の消費順位制度はその理が複合した生態を可能とする高次細胞間協調作用の節制する仕事量分の秩序度に関して、我々の神ながらの自由を異種や異類への共生か捕食かに任せている。慈悲心の趣味は主観による程度である。だからそれは場毎の生存哲学だが、どこでも一律のおしつけに足るだけ自明ではない。宗教段階や道徳の常識は系内主観の互恵習性に委ねられる。
もし宗教原理主義に考慮すれば、神が我々へ他の動物への支配を明け渡したのは殖えすぎた人類の堕落以前であり、そうとすれば楽園の再建に携わる知性の面で、倫理学説上も我々は程度こそあれ知的設計の外でいかなる捕食をも肯首できる筈だ。謂わばそれこそが趣味に叶えばよい。後から現れた預言者たちは神の代弁を名乗ったのに過ぎないことを考えれば、神自身の口から語られた言葉こそ比べた誠があると云われねばならない。無論それすら解釈論の範畴だろうと。
この点で、動物功利主義というべき(ピーター・シンガーなど)オーストラリアを中心とした学派は、趣味主義の本の前座に過ぎない。宇宙生態学でいう感覚原理を、我々の今の生態地位上での確かな主観の根拠としていい理由はどこにも見つかりはしない。というのも我々の生態地位は、大量絶滅の史実を省みれば偶々有るものとも考えられるだからだ。この偶有さは痛覚のしくみをある程度は共有しているだろうかなり上位の動物類と我々とが似た生存競争の場を共有し、又それ自身の規則で奪い合うべき自然の道理を全く曇りなく原則づける。つまり弱肉強食は、いわゆる利他行為の同種間保存、道徳と呼ばれる習性と等しく、とある系の内外へも趣を違えてでも分派していく。我々か私は、この神ながらの賢明さが我々を生み出し、又我々の言説を超越した主観という絶対非対称さで導いている、と信じる。結局、動物との共生は私か私達の都合なのだ。そして生態金字塔の消費順位制度はその理が複合した生態を可能とする高次細胞間協調作用の節制する仕事量分の秩序度に関して、我々の神ながらの自由を異種や異類への共生か捕食かに任せている。慈悲心の趣味は主観による程度である。だからそれは場毎の生存哲学だが、どこでも一律のおしつけに足るだけ自明ではない。宗教段階や道徳の常識は系内主観の互恵習性に委ねられる。
もし宗教原理主義に考慮すれば、神が我々へ他の動物への支配を明け渡したのは殖えすぎた人類の堕落以前であり、そうとすれば楽園の再建に携わる知性の面で、倫理学説上も我々は程度こそあれ知的設計の外でいかなる捕食をも肯首できる筈だ。謂わばそれこそが趣味に叶えばよい。後から現れた預言者たちは神の代弁を名乗ったのに過ぎないことを考えれば、神自身の口から語られた言葉こそ比べた誠があると云われねばならない。無論それすら解釈論の範畴だろうと。
2010年3月18日
都
何もない社会の上であおがらす
寒くあり東京直す薄き靄
誰もなき霞の中の街の様
遅すぎる開店時間と浅いつとめて
東新宿毒々しき色のダウンジャケット
温かなおーいお茶飲み首都うつろ
ハングルが語るざこばの湿り気や
不夜城へ通ううお共凍りつき
救いなし歌舞伎町に住むま冬の御器被り
ひとでなし浮浪者見捨てる厚着ども
天皇が一人威張れば葉よ散れる
借金で大学通える宮家の嚔
くさ/\しあるく庶民の妙なき呻きぜ
何気なき陽の波のこった凍る朝
消えされよこのきな臭き霜付き場
面影はあれどきたなき下水川
見下ろせば上のつもりか霧都庁
煙草吸う気違い孃がアルタ前
倒るればそれで終って冬子也
集まりて為す事どうなの繭峠
児のべゞ群れ打つスーツに紛れ込む
臭う毛布の前へ魅せる宝石
飼い羊新卒とかで同じ顔
外人にゃ譲る改札寒々し
腐った界隈へ襟巻き小学生
もういいよ広告枯らせよ山手線
売り場ごと冷え込み代われる不安感
iPod使いもせぬが散る間際
社員競争分かるが冷たな接客だ
間抜けかなソニーの回るおもちゃ凛
安物を嫌ゑり原宿偽欅
うすら寒しいつものGAPまえ撮影隊
あの店員で冬眠せぬ携帯売り場は
また建てどぬくき人あるマンションか
100円ショップ店員あかるく乾きける
銀座ならみせびらかしで毛羽立てり
鴨遊ぶ玉川へ浮くヘッドライト
椎名林檎のイメチェン浅き真冬日
われ厭う東京の春一番を横切る
謝って絞るバルブと豊田の薄
また建てり茄子畑なくせし夭き家
もういいや飛行機へ着せよ羽布団
俄か雨か霙の六本木
旅立てる人と等々力渓谷の雪
ジャズなのか枯れ木と滝と錦鯉
御苑まえ家なしの這う天皇誕生日
分からず買ゐしセールの白いダース
春早すぎる石詰め都気持ちわるき
寒くあり東京直す薄き靄
誰もなき霞の中の街の様
遅すぎる開店時間と浅いつとめて
東新宿毒々しき色のダウンジャケット
温かなおーいお茶飲み首都うつろ
ハングルが語るざこばの湿り気や
不夜城へ通ううお共凍りつき
救いなし歌舞伎町に住むま冬の御器被り
ひとでなし浮浪者見捨てる厚着ども
天皇が一人威張れば葉よ散れる
借金で大学通える宮家の嚔
くさ/\しあるく庶民の妙なき呻きぜ
何気なき陽の波のこった凍る朝
消えされよこのきな臭き霜付き場
面影はあれどきたなき下水川
見下ろせば上のつもりか霧都庁
煙草吸う気違い孃がアルタ前
倒るればそれで終って冬子也
集まりて為す事どうなの繭峠
児のべゞ群れ打つスーツに紛れ込む
臭う毛布の前へ魅せる宝石
飼い羊新卒とかで同じ顔
外人にゃ譲る改札寒々し
腐った界隈へ襟巻き小学生
もういいよ広告枯らせよ山手線
売り場ごと冷え込み代われる不安感
iPod使いもせぬが散る間際
社員競争分かるが冷たな接客だ
間抜けかなソニーの回るおもちゃ凛
安物を嫌ゑり原宿偽欅
うすら寒しいつものGAPまえ撮影隊
あの店員で冬眠せぬ携帯売り場は
また建てどぬくき人あるマンションか
100円ショップ店員あかるく乾きける
銀座ならみせびらかしで毛羽立てり
鴨遊ぶ玉川へ浮くヘッドライト
椎名林檎のイメチェン浅き真冬日
われ厭う東京の春一番を横切る
謝って絞るバルブと豊田の薄
また建てり茄子畑なくせし夭き家
もういいや飛行機へ着せよ羽布団
俄か雨か霙の六本木
旅立てる人と等々力渓谷の雪
ジャズなのか枯れ木と滝と錦鯉
御苑まえ家なしの這う天皇誕生日
分からず買ゐしセールの白いダース
春早すぎる石詰め都気持ちわるき
2010年3月17日
経済生態学
原理的な生態秩序は、それ以外の生態との共回りを伴う。故この単位は孤立系では決してありえない。最低でも隣り合った生態秩序との取引を前置きとして経済圏を作る。
生態秩序の連鎖は他の系を引き込むか押し出す。駆け引きはやりとりされるのが生態秩序の資源で、他でないと示す。もし生態秩序が資源をもたないなら、取引は起こらない。生態間取引は経済圏毎の選好か嗜みを特有の変わった向きへしつらえる、経済圏は実質の生態秩序度の単位。生態秩序度をecological cosmic rateからecrと置くとecr logarithm zはこの未知数zの対数。所で経済圏をeconomical territoryからetと置くとz log etはこのetの対数。単位を揃えるべくzはmetre毎秒とすれば
ecr log××log et(m/t)
××: テンソルの転送
は計測できる経済量。これを汎用化すれば
ecret/z2‥経済量テンソル
z: 一般重畳さ(m/t)
が導ける。zを二乗化したのは、それが縮約単位の省略形だから。よって厳密には空間量と時間量の幅で未知数は二行に渡る。
経済量テンソルは経済圏が自乗比で母系の生態秩序度から拡大していく道理をとく。もし隣接経済圏の間ならこの比は一般重畳さに対して単位生態秩序度あたり2の累乗根分だけ縮約される。すなわち、経済圏は嗜みを母系あたりかなりの強さで違和させつける。
この実験での検証には、同じ自治圏を観測しつつ隣接自治圏への波及が時代当たりどれだけ進むかを何らかの秩序、たとえば道路網普及などへ確かめれば済む。嗜みは似た比例を経済量テンソルへ推して保つ。
生態秩序の連鎖は他の系を引き込むか押し出す。駆け引きはやりとりされるのが生態秩序の資源で、他でないと示す。もし生態秩序が資源をもたないなら、取引は起こらない。生態間取引は経済圏毎の選好か嗜みを特有の変わった向きへしつらえる、経済圏は実質の生態秩序度の単位。生態秩序度をecological cosmic rateからecrと置くとecr logarithm zはこの未知数zの対数。所で経済圏をeconomical territoryからetと置くとz log etはこのetの対数。単位を揃えるべくzはmetre毎秒とすれば
ecr log××log et(m/t)
××: テンソルの転送
は計測できる経済量。これを汎用化すれば
ecret/z2‥経済量テンソル
z: 一般重畳さ(m/t)
が導ける。zを二乗化したのは、それが縮約単位の省略形だから。よって厳密には空間量と時間量の幅で未知数は二行に渡る。
経済量テンソルは経済圏が自乗比で母系の生態秩序度から拡大していく道理をとく。もし隣接経済圏の間ならこの比は一般重畳さに対して単位生態秩序度あたり2の累乗根分だけ縮約される。すなわち、経済圏は嗜みを母系あたりかなりの強さで違和させつける。
この実験での検証には、同じ自治圏を観測しつつ隣接自治圏への波及が時代当たりどれだけ進むかを何らかの秩序、たとえば道路網普及などへ確かめれば済む。嗜みは似た比例を経済量テンソルへ推して保つ。
2010年3月16日
この夜は
言葉なきこともすぐれる今の時あらわれる夜と臥し月回る
みつきありさかさとなくばこの夜はすぐれてかえす春のぬくみよ
すでにあらじとていつのそらはおぼえて今の夢などなくして明けむ
くつがえすまにさりあらばこの夜はきこえあらじとすぐる声する
ありうならばくれ/\゛もそとは少しつ春のきぬわれひとりのみ冬こゐしけり
すぎさりてはじめて聴けゆいのちの足音はあおきはるのまちを去りぬ
みつきありさかさとなくばこの夜はすぐれてかえす春のぬくみよ
すでにあらじとていつのそらはおぼえて今の夢などなくして明けむ
くつがえすまにさりあらばこの夜はきこえあらじとすぐる声する
ありうならばくれ/\゛もそとは少しつ春のきぬわれひとりのみ冬こゐしけり
すぎさりてはじめて聴けゆいのちの足音はあおきはるのまちを去りぬ
女権の洞察
私は女権への過度の調整的措置や無理に性別の生得差を否定した過剰な、いわば不平等な平等を与える事に反対だ。又まともな理性のある女性というものを一度も見たことがないので。即ち彼らの淘汰誘因内に理性の項は含まれてこなかったのだ。
女性へ人権を与えた原因は、アメリカへ進出したイギリス人の移民がその危険な土地できわめて偏屈な女性崇拝の希少価値理論を展開し、しかもフランスはじめキリスト教道徳の転用に及んだ西洋各国がこの迎合に走ったところにあったと思う。全体として見ると、品位のより高い女性が存在しているのは儒学や古代宗教の浸透しその戒律が生きている先進的と言われざる圏域でらしい。つまりアメリカ人の思惑は女性らしさの性格形成という面では致命傷だった。
実際、女権はそれまで自由人男性へ権利として与えられていたものをそのまま適用するかたちで無意識に進められた。この流れは自明どころか一過性の特殊な経験であり、まったくアメリカ風の、至る所風変わりで偏った習性なのだ。だからこの風習にならった浅薄な国家群では否応なしに女性らしさは消えうせ、また省みられず足蹴にされ、代わりに男勝りがなぜか皮肉もなしに貴ばれねばならない共通の勘違いが正当化される、という文化面での野蛮化が観察できた。
女子供という範畴化自体は哺乳的保育能力を省み疑問符として大きすぎるとはおもわれない。希な例は常に可能性があるが、問題は心理の基調にある。勿論、性別をふせた成果の比較で、我々は完璧な正答率を達せるとは言い切れないが、或いは出現率でみれば確実に、男性の公の社会へ献身する理性的才覚は生まれつき女性平均のそれを上回ると見られる。彼らの遺伝へ性的二形にみられる役割分業に関する選択が、遥かな古代から続けられてきた。住み分けとして女性の人権を一人前と捉えさせること、或いは階級制度の消失により奇形とすら言えるだけ女性脳化した男性が存在しだしていることは危機的なばかりか、21世紀前半の文化流路面での錯誤ではないか。アメリカによる統治は、上流階級というものの中で発酵しておくべきだった分限道徳とか男女の別とかなんらかの貴族道徳をみな廃してしまった。商売道徳の称揚が資本経済の社会では常識とされる結果、ちゃきちゃきと働き深く考える習性なき器量のよい形質、つまりは接客業種が他より生存されやすくなる。だがこの形質はえり抜きの中間さという他特段の特徴をもたないので、あまり尊重されるを要さないと言える。なぜなら全体数にみれば他の形質はみな代わりになれるのだから。
私の考えでは階級制度の再興、又は最低でも女権の減衰措置は、もし大衆単位で不可ならものごとを考える余地のある実質的貴族の層でだけでも信奉や礼賛されすべきだということだ。この種の貴族精神の高踏さがきえさった世界からは決して、かなり秩序の整った法や、おもに家庭道徳の面で優しさとして知られる女らしさの定義は二度蘇らないだろう。
アメリカという歴史の浅い国の実用家らが述べている再生産率への最適化は、きわめてごくまれに生まれるかもしれないあきらかに男勝った各形質の奇種さを伴う女性のために、全体としてのぞましい社交の風紀、同性間競合の健全さを意味し、中性的中間形質を削ぎ落とす効果をもつそれをとっぱらってしまう様な、浅薄だ。代わりに私の考えでは、女権は少なくとも機会平等・結果放任、乃ち結果は部分的にのみ最小限調整された方がいい。常に性別を問わない自由人の機会平等権が一般女権への調整的な贔屓よりも比べて優位になる法政は徳あると認められる。でないと国家は次第に後宮化しやがてその傾きは現実的となるであろう。
女性へ人権を与えた原因は、アメリカへ進出したイギリス人の移民がその危険な土地できわめて偏屈な女性崇拝の希少価値理論を展開し、しかもフランスはじめキリスト教道徳の転用に及んだ西洋各国がこの迎合に走ったところにあったと思う。全体として見ると、品位のより高い女性が存在しているのは儒学や古代宗教の浸透しその戒律が生きている先進的と言われざる圏域でらしい。つまりアメリカ人の思惑は女性らしさの性格形成という面では致命傷だった。
実際、女権はそれまで自由人男性へ権利として与えられていたものをそのまま適用するかたちで無意識に進められた。この流れは自明どころか一過性の特殊な経験であり、まったくアメリカ風の、至る所風変わりで偏った習性なのだ。だからこの風習にならった浅薄な国家群では否応なしに女性らしさは消えうせ、また省みられず足蹴にされ、代わりに男勝りがなぜか皮肉もなしに貴ばれねばならない共通の勘違いが正当化される、という文化面での野蛮化が観察できた。
女子供という範畴化自体は哺乳的保育能力を省み疑問符として大きすぎるとはおもわれない。希な例は常に可能性があるが、問題は心理の基調にある。勿論、性別をふせた成果の比較で、我々は完璧な正答率を達せるとは言い切れないが、或いは出現率でみれば確実に、男性の公の社会へ献身する理性的才覚は生まれつき女性平均のそれを上回ると見られる。彼らの遺伝へ性的二形にみられる役割分業に関する選択が、遥かな古代から続けられてきた。住み分けとして女性の人権を一人前と捉えさせること、或いは階級制度の消失により奇形とすら言えるだけ女性脳化した男性が存在しだしていることは危機的なばかりか、21世紀前半の文化流路面での錯誤ではないか。アメリカによる統治は、上流階級というものの中で発酵しておくべきだった分限道徳とか男女の別とかなんらかの貴族道徳をみな廃してしまった。商売道徳の称揚が資本経済の社会では常識とされる結果、ちゃきちゃきと働き深く考える習性なき器量のよい形質、つまりは接客業種が他より生存されやすくなる。だがこの形質はえり抜きの中間さという他特段の特徴をもたないので、あまり尊重されるを要さないと言える。なぜなら全体数にみれば他の形質はみな代わりになれるのだから。
私の考えでは階級制度の再興、又は最低でも女権の減衰措置は、もし大衆単位で不可ならものごとを考える余地のある実質的貴族の層でだけでも信奉や礼賛されすべきだということだ。この種の貴族精神の高踏さがきえさった世界からは決して、かなり秩序の整った法や、おもに家庭道徳の面で優しさとして知られる女らしさの定義は二度蘇らないだろう。
アメリカという歴史の浅い国の実用家らが述べている再生産率への最適化は、きわめてごくまれに生まれるかもしれないあきらかに男勝った各形質の奇種さを伴う女性のために、全体としてのぞましい社交の風紀、同性間競合の健全さを意味し、中性的中間形質を削ぎ落とす効果をもつそれをとっぱらってしまう様な、浅薄だ。代わりに私の考えでは、女権は少なくとも機会平等・結果放任、乃ち結果は部分的にのみ最小限調整された方がいい。常に性別を問わない自由人の機会平等権が一般女権への調整的な贔屓よりも比べて優位になる法政は徳あると認められる。でないと国家は次第に後宮化しやがてその傾きは現実的となるであろう。
2010年3月15日
社会学
最も原始的な秩序として、極小空間とそこでの羽振りは原子量につき真。単に、社会でのふるまい方に見た抽象さは適応した習性の都市化比率につき、この空間量の原則をあてたもの。
空間での社会系、これは都市化密度とも呼べる。では何が真に抽象さなのか、それは秩序についての立方法則による。社会系は別の空間とは違う秩序をめざす。これは空間順列につき一定度の重畳化を伴う。社会が極小化された幾つもの粒子の運動と捉えられれば、都市化法則は立方の積み重ねが空間あたり蓄えられた事已。逆に立方でない粒子運動は混乱を招く。多くこの作用は犯罪視されたりもする。さて情報量の選好さえそうならなぜ社会関係が立方化への動静に左右されないか。つまり機械を介した社会との折衝は常に、改めて機能づけられた何らかの資源を掘り起こすことへ繋がる。
善意とされる利他性能は、機能面から思い付かれた立方法則の情報量選好、おもに文化素の質的それに過ぎない。故ある時代の社会的繁栄は決して不動でなく、飽くまで機能からの交流の活発度と分かる。
もし全ての立方法則が同じ働きの文化素の発祥別にすぎないなら、社会の性能は結局、資源配分の効用係数が対外と対内で一定の均整を保ってあり続けられるその可塑さのあり方に等しい。つまり経済粘度が恒常態規則と一致すればその社会応報は好ましい。有償無償をとわずその営みの質は立方規則の一定の積み重ねがどの向きを主にするかの趣意による。故経済粘性は資源についての技巧からの選好を帯域毎に待つ。経済粘度は体制内冗長さを立方法則あたりの効用、つまり機能で択ぶ。乃ち経済粘度は、それが悟られれば尚更、最大の機能化をかなりのひまながさと共に維持促進させゆく。
社会機能が粘りで省みられれば、化学素単位でみた都市化で著しい趣向差が生まれていくのは自然。
空間での社会系、これは都市化密度とも呼べる。では何が真に抽象さなのか、それは秩序についての立方法則による。社会系は別の空間とは違う秩序をめざす。これは空間順列につき一定度の重畳化を伴う。社会が極小化された幾つもの粒子の運動と捉えられれば、都市化法則は立方の積み重ねが空間あたり蓄えられた事已。逆に立方でない粒子運動は混乱を招く。多くこの作用は犯罪視されたりもする。さて情報量の選好さえそうならなぜ社会関係が立方化への動静に左右されないか。つまり機械を介した社会との折衝は常に、改めて機能づけられた何らかの資源を掘り起こすことへ繋がる。
善意とされる利他性能は、機能面から思い付かれた立方法則の情報量選好、おもに文化素の質的それに過ぎない。故ある時代の社会的繁栄は決して不動でなく、飽くまで機能からの交流の活発度と分かる。
もし全ての立方法則が同じ働きの文化素の発祥別にすぎないなら、社会の性能は結局、資源配分の効用係数が対外と対内で一定の均整を保ってあり続けられるその可塑さのあり方に等しい。つまり経済粘度が恒常態規則と一致すればその社会応報は好ましい。有償無償をとわずその営みの質は立方規則の一定の積み重ねがどの向きを主にするかの趣意による。故経済粘性は資源についての技巧からの選好を帯域毎に待つ。経済粘度は体制内冗長さを立方法則あたりの効用、つまり機能で択ぶ。乃ち経済粘度は、それが悟られれば尚更、最大の機能化をかなりのひまながさと共に維持促進させゆく。
社会機能が粘りで省みられれば、化学素単位でみた都市化で著しい趣向差が生まれていくのは自然。
不協和音
東京は狂った所ぞ不潔な魚屋
意味不明朝方番いのケバ烏
棍棒もって監視カメラつき東宮御所あし
眺めおればSP睨めり首相官邸
韓国人しかいない皇居前広場
知能なく趣覚えず東京人
色事か金しか目になき江戸末裔
子供へは無視と冷遇江戸の店
麹町通りすがりみたぞ寄生芸者
西よりはましだがそれでも汚いこの都
猥褻は許容範囲があづま風
茨城へビビり千葉へとりいる江戸こびと
集まれば集まるほど威張る旗本は
下町をみくだし自分は学習院
多摩側は特に江戸へは関心なし
気のつよき者は江戸には少なけり
身を飾る女の魂腐敗せり
短気だがすぐに萎れる江戸鰯
KYとほざいて併せる江戸仲間
川崎へつながる路線は雑魚多し
横浜はずっと都会ぞ山の手ジン
こんなまずい食事で開業可能とは
値段張り豪華にみせれりゃ裏はどうでも
武蔵野ジン虚勢張らせりゃ一流だ
引きこもり恐れ漫画は禁止せず
道端で有名人は見るだけ損
狭き門というか家かよ兎小屋
サラリーマン週刊漫画読んでて暮らせる
満員の鮨詰めで通うキチガイOL
発狂し逮捕の冤罪なら乗るな
テレビの中しか美しくない東京
深夜明々電車の産籠 幼児連れ
群集で行列で走る蟻んこ都民
勿体ない広告ばかりの流れ作業
不協和音キョート辺りからくるものの奏でる
意味不明朝方番いのケバ烏
棍棒もって監視カメラつき東宮御所あし
眺めおればSP睨めり首相官邸
韓国人しかいない皇居前広場
知能なく趣覚えず東京人
色事か金しか目になき江戸末裔
子供へは無視と冷遇江戸の店
麹町通りすがりみたぞ寄生芸者
西よりはましだがそれでも汚いこの都
猥褻は許容範囲があづま風
茨城へビビり千葉へとりいる江戸こびと
集まれば集まるほど威張る旗本は
下町をみくだし自分は学習院
多摩側は特に江戸へは関心なし
気のつよき者は江戸には少なけり
身を飾る女の魂腐敗せり
短気だがすぐに萎れる江戸鰯
KYとほざいて併せる江戸仲間
川崎へつながる路線は雑魚多し
横浜はずっと都会ぞ山の手ジン
こんなまずい食事で開業可能とは
値段張り豪華にみせれりゃ裏はどうでも
武蔵野ジン虚勢張らせりゃ一流だ
引きこもり恐れ漫画は禁止せず
道端で有名人は見るだけ損
狭き門というか家かよ兎小屋
サラリーマン週刊漫画読んでて暮らせる
満員の鮨詰めで通うキチガイOL
発狂し逮捕の冤罪なら乗るな
テレビの中しか美しくない東京
深夜明々電車の
群集で行列で走る蟻んこ都民
勿体ない広告ばかりの流れ作業
不協和音キョート辺りからくるものの奏でる
2010年3月14日
皇室上句
「アフリカは自然を愛する多くの日本人にとって憧れの地です! 仲良くしましょう! わたしが時期皇帝ですから、もっともっと経済発展して奴隷労役してください!」
なんで嘘つくの? 軽蔑してる人なら見たことあるけど、きいたことないよ…アフリカへの憧れって。ニコニコしてるあの親分、何様? なんで代表づらで日本国民の自然愛を堂々代弁? 高々象徴なのに、愛想売りが本領かよ。もういいよ京都人の血統は! 演技も、知能もレベルひくすぎて笑えないよ。
なんで嘘つくの? 軽蔑してる人なら見たことあるけど、きいたことないよ…アフリカへの憧れって。ニコニコしてるあの親分、何様? なんで代表づらで日本国民の自然愛を堂々代弁? 高々象徴なのに、愛想売りが本領かよ。もういいよ京都人の血統は! 演技も、知能もレベルひくすぎて笑えないよ。
東京の文芸界
ほら、段落毎にタイトルつけちゃだめだろ、大江翁に叱られるぞ。それじゃまるでブログだ、既得権威の侵害! できれば東大文学部出て。合格したいんだろ? ああいうできるだけよみづらい下手な文章でさ、肩書と分厚いセルロイド眼鏡つけて。できないの? ダメだよそれじゃあ! ほら、面接で入った会社の犬を騙くらかすんだ。田舎者でいいからできるだけ頭いい振りして。最低でも早慶マーチ以上の高い学歴ちらつかせるんだ。東京なんてそんな次元なんだよ! できない? ならグラビアアイドル見て。ほら売れてるだろうが、何億円も!
なあにを戸惑ってるんだ、ダメだなこいつは! 帰れ! いくらでも代わりはいるんだ。政治家をだませえ? 国費留学しちゃえばエリートコースだぞ? 日本人なんてそんな次元だ。ノーベルとりたいんだろう? なら踊るんだ。ほらささっとマスコミ出て。見た目の偏見で言われた通りのイメージぶるんだ。億ション住みたくて来たんだろ?
なあにを戸惑ってるんだ、ダメだなこいつは! 帰れ! いくらでも代わりはいるんだ。政治家をだませえ? 国費留学しちゃえばエリートコースだぞ? 日本人なんてそんな次元だ。ノーベルとりたいんだろう? なら踊るんだ。ほらささっとマスコミ出て。見た目の偏見で言われた通りのイメージぶるんだ。億ション住みたくて来たんだろ?
緊急法案
強い不況と虐め発覚件数は強い相関を示す。そこでは大人社会の裏返しの縮図として、特に所得で恵まれない肉体労働の階級にある子供が、できるだけ陰惨に大人に目立たない様、自分たちより弱い立場の者を虐待して親から受ける心身の圧力を軽減化したがるらしい。
学校では仲間内のギャング集団が生まれ易い自由時間がかなりあるので、およそ公立の雑多な階級の混濁している場ではこの法則は決定的になる。だから急激な不況時には生徒の自殺が頻発する。
これは資本経済の社会でだけ当たる法則かもしれないが、「不況時の虐め鬱憤法則」と呼んでいい。
ゆえ、今日ではこれからも多発するのが明らかな自殺未遂や表に見えない陰湿をきわめる生徒間の心身への嫌がらせが現行している確実性を予測し、その国と地方の法案と条例の整備によってすぐさま訴訟できる体制をつくりすえおかねばならない。
具体的には、親へ生徒が相談をもちかければネットか電話を経由して即座に、学校と対象の加害生徒を訴訟できるしくみを整えよ。相談窓口と地裁や高裁を直結し、専用の弁護士を行政が雇っておき、彼らが円滑に損害賠償を請求する手続きへ入れる仕組みを完璧に構築せよ。
学校では仲間内のギャング集団が生まれ易い自由時間がかなりあるので、およそ公立の雑多な階級の混濁している場ではこの法則は決定的になる。だから急激な不況時には生徒の自殺が頻発する。
これは資本経済の社会でだけ当たる法則かもしれないが、「不況時の虐め鬱憤法則」と呼んでいい。
ゆえ、今日ではこれからも多発するのが明らかな自殺未遂や表に見えない陰湿をきわめる生徒間の心身への嫌がらせが現行している確実性を予測し、その国と地方の法案と条例の整備によってすぐさま訴訟できる体制をつくりすえおかねばならない。
具体的には、親へ生徒が相談をもちかければネットか電話を経由して即座に、学校と対象の加害生徒を訴訟できるしくみを整えよ。相談窓口と地裁や高裁を直結し、専用の弁護士を行政が雇っておき、彼らが円滑に損害賠償を請求する手続きへ入れる仕組みを完璧に構築せよ。
2010年3月13日
政治学
地球上で各種の資源を見つけるには、先ず使い道がなければならない。ゆえ資源量概念は変わる。資源は用途にとっての機能を果たせる分量。資源量とみた生態での用途視は、機能を産業や仲介業についての微分値と合わせる。資源の量はおもに生態用途がどこへつくかによる。ゆえ機能の気づきは全て他一切の資源量への掘り起こしと等しい。
資源は考えによる。もし産業が巧みならその工学度に応じた別の資源値が設けられゆく。資源量には、よって需要との兼ね合いが前置かれる。もし産業密度に偏りが出ねばどこも文化間交換を企業化しない。ゆえ機能の傾きが皆何を仕組みに社交させるかの基。
機能面にみた企業からの趣味は、文化間差額の交易量感についてすら現実的。換言、趣味の種類が交易の選好品へあたる。なら資源量は望まれた交易についての、自然と社会か社会間の建設意図のみ。機能からの文化益は、そこでの趣味観による。資源量についても豊富と貧困には機能規制が前提となる。功利主義的幸福感覚についても同じ。快苦は家政か個性機能の傾きにより、なら資源対比は文化益概念を決して出えない。一般に政経計算の機能規制は、よって土地文明の質に着く。だから功利主義からの社会生態への一律統制は必ず細部で失敗する。
文化間交換差額は決して資源対比での希少さのえり好みと矛盾しない。いいかえれば交易面で彼らが利害損得を推しゆくのは自動化されていい文化素の流れ。これは商業種が、生態としては機械的であること、別の資料を与えもう一方がそれに不足しつつ自主交流できるなら必ずそれを移し替える中で繁昌したがる事を証する。商業種は何れ自動化されるだろう。その公理系は生物量にみてほぼ一定であり、交易規則さえ社会が基盤法律化すれば必ず仲介業は機械操作系へ還元され得るのだから。敢えて言及すればなんら彼らの末路は予想できない。しかし彼らの転用が進まねば先ずその量感はどこかへ処分されるだろう。産業の機械化は、当然ながら機械操作系の専攻度以外の習熟を徐々に廃してしまう。伝統芸能界は縮約され、小さな空間量を占める圧縮率へしか省みられず、又その適所でしか生態づけえない。
資源は考えによる。もし産業が巧みならその工学度に応じた別の資源値が設けられゆく。資源量には、よって需要との兼ね合いが前置かれる。もし産業密度に偏りが出ねばどこも文化間交換を企業化しない。ゆえ機能の傾きが皆何を仕組みに社交させるかの基。
機能面にみた企業からの趣味は、文化間差額の交易量感についてすら現実的。換言、趣味の種類が交易の選好品へあたる。なら資源量は望まれた交易についての、自然と社会か社会間の建設意図のみ。機能からの文化益は、そこでの趣味観による。資源量についても豊富と貧困には機能規制が前提となる。功利主義的幸福感覚についても同じ。快苦は家政か個性機能の傾きにより、なら資源対比は文化益概念を決して出えない。一般に政経計算の機能規制は、よって土地文明の質に着く。だから功利主義からの社会生態への一律統制は必ず細部で失敗する。
文化間交換差額は決して資源対比での希少さのえり好みと矛盾しない。いいかえれば交易面で彼らが利害損得を推しゆくのは自動化されていい文化素の流れ。これは商業種が、生態としては機械的であること、別の資料を与えもう一方がそれに不足しつつ自主交流できるなら必ずそれを移し替える中で繁昌したがる事を証する。商業種は何れ自動化されるだろう。その公理系は生物量にみてほぼ一定であり、交易規則さえ社会が基盤法律化すれば必ず仲介業は機械操作系へ還元され得るのだから。敢えて言及すればなんら彼らの末路は予想できない。しかし彼らの転用が進まねば先ずその量感はどこかへ処分されるだろう。産業の機械化は、当然ながら機械操作系の専攻度以外の習熟を徐々に廃してしまう。伝統芸能界は縮約され、小さな空間量を占める圧縮率へしか省みられず、又その適所でしか生態づけえない。
物理学
全てがおもち宇宙なのではない。もしそう呼べば、定常さが一定の時間順序内で膨み縮みをくりかえす単位系にかぎってそう。おもち宇宙は隣り合う系との一定の引斥力がある法則のもとにある丈の体系。
F=S: 力学的エネルギーは熱量膨張に等しい
とは、Newton/time: 時間毎のニュートン単位のおもち宇宙の基本法則。よってもし力学系と熱量系とを等価とみなせば、おもちの進退は外部宇宙系とのやりとりが行われねば恒常さをもたず、でなければ混沌。もし時間流率がエネルギー不変則と同じ次元なら、混沌化は規則では必ずしもない。すなわち時間流率は系がもつ潜在引力場の大きさ: Aに等しいので熱量膨張の単位は
F/S=1は熱量単位: Heat Blessing: HB
を
HB/N/t∫function(HB)は熱膨張流比
で測れる。よって
HB・t/N∫f(HB)=S・t/F・N∫f(HB)
力学的エネルギーは1ニュートンを定数単位と置けば
S・t/F∫f(HB): おもち流比、ただし単位はN
は外側とのやりとりが機能あたり増減する値と置ける。もし単位時間あたりの熱量が外部系からの同値の斥力より大きすぎれば力学的エネルギーが分母からこれを拘束し、内部では潰れの力が働く。こうして引力の原因は、おもちの過疎化に単位時間あたり逆比例した内部構造へ働く穴埋めの力であり、それは真空効果での引力子の不在さか仮想さを説明づける。
F=S: 力学的エネルギーは熱量膨張に等しい
とは、Newton/time: 時間毎のニュートン単位のおもち宇宙の基本法則。よってもし力学系と熱量系とを等価とみなせば、おもちの進退は外部宇宙系とのやりとりが行われねば恒常さをもたず、でなければ混沌。もし時間流率がエネルギー不変則と同じ次元なら、混沌化は規則では必ずしもない。すなわち時間流率は系がもつ潜在引力場の大きさ: Aに等しいので熱量膨張の単位は
F/S=1は熱量単位: Heat Blessing: HB
を
HB/N/t∫function(HB)は熱膨張流比
で測れる。よって
HB・t/N∫f(HB)=S・t/F・N∫f(HB)
力学的エネルギーは1ニュートンを定数単位と置けば
S・t/F∫f(HB): おもち流比、ただし単位はN
は外側とのやりとりが機能あたり増減する値と置ける。もし単位時間あたりの熱量が外部系からの同値の斥力より大きすぎれば力学的エネルギーが分母からこれを拘束し、内部では潰れの力が働く。こうして引力の原因は、おもちの過疎化に単位時間あたり逆比例した内部構造へ働く穴埋めの力であり、それは真空効果での引力子の不在さか仮想さを説明づける。
近代日本
上下関係を正当化して難無くいきのびるのを、生れついての得意技とした江戸土民はあちらこちらで、下賎な上司の悪念を代わりになって実行するに余念ない。その上司は、キョートからでてくる猥談のぬしを次々囲う。なぜならそれが和の伝統なのだから! 倭人とよばれてきた、西日本寄りの劣った血統。益々わるくなる、雑ぜられていく血。出た雑種は以前よりさらにおかしい。
キョートでは常識らしかった。
彼らの狂った性格は、この世を下品にすることへどんな留保もなかった。金を奪い、暴力団を集め、己の家を護らせる。かわりに全てを下落させる。彼らには己以外のだれもどうなろうと構わないのだ。自称王は、キョートの文法をはるかな異国の地、東京都でも相変わらず試していた。
キョートでは常識らしかった。
彼らの狂った性格は、この世を下品にすることへどんな留保もなかった。金を奪い、暴力団を集め、己の家を護らせる。かわりに全てを下落させる。彼らには己以外のだれもどうなろうと構わないのだ。自称王は、キョートの文法をはるかな異国の地、東京都でも相変わらず試していた。
天皇陛下万歳
広島の呉、中学生に姦淫犯罪小説の指導! ハッハ。
自由マンガ党、平和主義で徴兵令! ワハハハ。
ホリエもんどうしたんだ…あんたが三線なんてさ。
皇族どうしたんだ…生き埋めで虐めてただろう、中国人。
NHKどうしたんだ…あれだけ恵んでやったのに。
老人どうしたんだ…戦争終らせといてやったのに。
都知事どうしたんだ…猥談誉め称えられたじゃないか!
豊洲どうしたんだ…汚いじゃないか。
こんな時に麻生さんどこいったんだ…マンガじゃないか。
出版業界どうしたんだ…ブログ馬鹿にしてたじゃないか!
学歴どうしたんだ…リストラ後の就職口ないじゃないか。
元気ないな、さあ自衛隊入ってアジア中で嫌われようゼ。
従軍慰安婦どうしたんだ! ソドム東京で禁句じゃないか。
テレビ元気だせよ。ガンバレ頑張れ、下品の安売り。
小泉さんどうしたんだ? 息子はいるぞ、ん、世襲か。
首相でどうした? ずいぶん学歴高いじゃないか。
よーし金だ金だ、星中がみてるぞ日本人。
イギリスどうしたんだ、見る影もないじゃないか?
アメリカいいぞ、やっちゃえやっちゃえジャイアンツ。
あ、わるものだ。まじめに生きてるイラクの庶民。
千葉大どうした…殺人事件おおすぎるじゃないか。
あ、わるものだ。派遣斬りのトヨタ自動車。
あ、いいひとだ。ノーベル賞で東大卒のえばってる人。
あ、ノーベル賞で京大卒のえばってる人だ。
あ、微妙なひとだ。ノーベル賞で東北大卒の会社員。
あ、わるものだ。ノーベル賞の審査員と小浜市。
カレー食べたい。甘いやつ。え、ないのインドに?
あ、イギリス人だ。階級差別こいてる。
あ、イギリス人犯罪者の末裔だ。鯨狩りもう辞めたの?
あ、福島県浜通りの女の人だ。元気げんき。国会でみた。
鮪のお寿司ってたべちゃいけないんだって、迷惑だもん。
天皇姑息すぎたんだ…北欧のアカデミズム応援って。
サラリーマンどうしたんだ…お金余ってるじゃないか。
芥川賞どうしたんだ…村上龍が牛耳ってるじゃないか。
ソニー頑張れぇ、どうした、仙台がついてるじゃないか。
芸大うざい! フランス騎士も宮崎県知事も着いてるし。
糸井さんこれは…マザー3、64で長年待ってたのに…。
スクエニ曖昧じゃないか…。
おっ、いいな。まだまだCD現役だバンプオブチキン。
鴇全滅って…弱すぎるだろ倭品種。
携帯各社どうした…機種変飽きるじゃないか…。
ソニーって国内モデルじゃ高すぎるんじゃないのか…。
サムスンどうした! 日本の門戸は開いてるじゃないか。
TBSどうした…堀江門の隠し撮り犯罪スレスレだろうが。
カンサンジュンはどうした。褒めてたじゃんアラーキー。
日比野はどこだ。みんなお前を待ってるじゃないか?
よーし自衛隊で散々悪さすんだあ、これぞ日本軍人って。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
サッカーはどうした。幾らなんでも比弱すぎるじゃないか。
老人万歳! 延命措置! やあ評判の孝行息子だぁよ。
学校で子供の自殺じゃ大騒ぎじゃないか、電車会社。
魚みてえな人間うようよいるな、大阪繁華街。臭い。
ほら、引き篭れば終りじゃんか? 金儲け働き蟻ども。
派遣の子供餓死させれば逮捕じゃないか? 会長さん。
大臣って儲かるんだなあ。末裔まで安泰じゃないか。
どうした皆…苦しそうじゃないか? 黄金虫の共食い。
天皇どうした…敗戦しても生きのびてるじゃないか。
こんな醜い国でよくも生きれるなあ、メイド喫茶の土民。
ほらオランダ王侯も怒ってるじゃないか。どうした神道。
お仲間が日本刀もってるじゃないか、あれは何だ皇室。
自由ニート党どうした。今後は伝統文化売らないのか。
何が楽しいんだ? 姦淫罪ゲーム売買してる江戸オタク。
舞妓が歩いてるぞ。何する人なんだ?
ほらどうした? 姦淫犯罪映像で娘売ってるぞ、東京都。
あれが仏教徒か? 極悪源氏物語の尼。
なんだこの国。死んだ方がいいんじゃないの? 素で。
ほらあれが日本人だよ。あぁ東アジアを荒らし回った…。
ほらあれが日本人よ。あぁ下らんアニメの…きたね~。
ほらあれが日本だ。満員電車で痴漢の…キャハハハ!
ほらどうしたんだ京都人。あ、まちがった。芸者さんか。
ハラキリはどうしたジャップ? トヨタも言い訳ばかりだ。
ギャッハ、壁の蔭から猥褻物頒布罪の関西土人がノーベル賞。
あれえどうしたんだ薩長同盟。金儲けしてるじゃないか。
ん? ブシドー…あ、まちがった。野蛮人の仁義、と。
忠孝道徳万歳! 人身売買性奴隷稼業東京の東洋陛下万歳!
ワハあの中国人勘違いすぎ。大隈像前で記念撮影とは。
あれえどうしたんだ日本企業。学歴女だらけじゃん?
ギャハハ…「こんにちはしごとさん」。これ政府機関?
シュールだ…前原大臣マジで空気しらないよ、関東の。
アッハッハ、ほら踊れおどれ関西人芸人。つまらん。
さんまキツッ、声嗄れて…。
ゴクリ…これがスタジオALTAか…なんてことないな。
今さら! 今さら! いえただの逆走です、ポスモは。
磯崎新やばそうだがいいのか? 名誉博士やれよ東大。
もういいでしょ倭人は。人間名乗るの無理あるよ、脳が。
和を以て特攻隊、うふふ。えー仕方ないと思ってます。
あれぇあれなんだ。道端で公然猥褻罪撮ってる猿。
ぎゃっはっは、東京人。人身売買都民、必死で生きてる。
南蛮虫と東京人わはは等号だな、完璧つなげる。
死ねば都民。はあ? 淫行勧誘罪会社員の癖に生きてくの?
はいはい、スポーツなのね。もうわかったよ悪徳都知事さん。
自由マンガ党、平和主義で徴兵令! ワハハハ。
ホリエもんどうしたんだ…あんたが三線なんてさ。
皇族どうしたんだ…生き埋めで虐めてただろう、中国人。
NHKどうしたんだ…あれだけ恵んでやったのに。
老人どうしたんだ…戦争終らせといてやったのに。
都知事どうしたんだ…猥談誉め称えられたじゃないか!
豊洲どうしたんだ…汚いじゃないか。
こんな時に麻生さんどこいったんだ…マンガじゃないか。
出版業界どうしたんだ…ブログ馬鹿にしてたじゃないか!
学歴どうしたんだ…リストラ後の就職口ないじゃないか。
元気ないな、さあ自衛隊入ってアジア中で嫌われようゼ。
従軍慰安婦どうしたんだ! ソドム東京で禁句じゃないか。
テレビ元気だせよ。ガンバレ頑張れ、下品の安売り。
小泉さんどうしたんだ? 息子はいるぞ、ん、世襲か。
首相でどうした? ずいぶん学歴高いじゃないか。
よーし金だ金だ、星中がみてるぞ日本人。
イギリスどうしたんだ、見る影もないじゃないか?
アメリカいいぞ、やっちゃえやっちゃえジャイアンツ。
あ、わるものだ。まじめに生きてるイラクの庶民。
千葉大どうした…殺人事件おおすぎるじゃないか。
あ、わるものだ。派遣斬りのトヨタ自動車。
あ、いいひとだ。ノーベル賞で東大卒のえばってる人。
あ、ノーベル賞で京大卒のえばってる人だ。
あ、微妙なひとだ。ノーベル賞で東北大卒の会社員。
あ、わるものだ。ノーベル賞の審査員と小浜市。
カレー食べたい。甘いやつ。え、ないのインドに?
あ、イギリス人だ。階級差別こいてる。
あ、イギリス人犯罪者の末裔だ。鯨狩りもう辞めたの?
あ、福島県浜通りの女の人だ。元気げんき。国会でみた。
鮪のお寿司ってたべちゃいけないんだって、迷惑だもん。
天皇姑息すぎたんだ…北欧のアカデミズム応援って。
サラリーマンどうしたんだ…お金余ってるじゃないか。
芥川賞どうしたんだ…村上龍が牛耳ってるじゃないか。
ソニー頑張れぇ、どうした、仙台がついてるじゃないか。
芸大うざい! フランス騎士も宮崎県知事も着いてるし。
糸井さんこれは…マザー3、64で長年待ってたのに…。
スクエニ曖昧じゃないか…。
おっ、いいな。まだまだCD現役だバンプオブチキン。
鴇全滅って…弱すぎるだろ倭品種。
携帯各社どうした…機種変飽きるじゃないか…。
ソニーって国内モデルじゃ高すぎるんじゃないのか…。
サムスンどうした! 日本の門戸は開いてるじゃないか。
TBSどうした…堀江門の隠し撮り犯罪スレスレだろうが。
カンサンジュンはどうした。褒めてたじゃんアラーキー。
日比野はどこだ。みんなお前を待ってるじゃないか?
よーし自衛隊で散々悪さすんだあ、これぞ日本軍人って。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
サッカーはどうした。幾らなんでも比弱すぎるじゃないか。
老人万歳! 延命措置! やあ評判の孝行息子だぁよ。
学校で子供の自殺じゃ大騒ぎじゃないか、電車会社。
魚みてえな人間うようよいるな、大阪繁華街。臭い。
ほら、引き篭れば終りじゃんか? 金儲け働き蟻ども。
派遣の子供餓死させれば逮捕じゃないか? 会長さん。
大臣って儲かるんだなあ。末裔まで安泰じゃないか。
どうした皆…苦しそうじゃないか? 黄金虫の共食い。
天皇どうした…敗戦しても生きのびてるじゃないか。
こんな醜い国でよくも生きれるなあ、メイド喫茶の土民。
ほらオランダ王侯も怒ってるじゃないか。どうした神道。
お仲間が日本刀もってるじゃないか、あれは何だ皇室。
自由ニート党どうした。今後は伝統文化売らないのか。
何が楽しいんだ? 姦淫罪ゲーム売買してる江戸オタク。
舞妓が歩いてるぞ。何する人なんだ?
ほらどうした? 姦淫犯罪映像で娘売ってるぞ、東京都。
あれが仏教徒か? 極悪源氏物語の尼。
なんだこの国。死んだ方がいいんじゃないの? 素で。
ほらあれが日本人だよ。あぁ東アジアを荒らし回った…。
ほらあれが日本人よ。あぁ下らんアニメの…きたね~。
ほらあれが日本だ。満員電車で痴漢の…キャハハハ!
ほらどうしたんだ京都人。あ、まちがった。芸者さんか。
ハラキリはどうしたジャップ? トヨタも言い訳ばかりだ。
ギャッハ、壁の蔭から猥褻物頒布罪の関西土人がノーベル賞。
あれえどうしたんだ薩長同盟。金儲けしてるじゃないか。
ん? ブシドー…あ、まちがった。野蛮人の仁義、と。
忠孝道徳万歳! 人身売買性奴隷稼業東京の東洋陛下万歳!
ワハあの中国人勘違いすぎ。大隈像前で記念撮影とは。
あれえどうしたんだ日本企業。学歴女だらけじゃん?
ギャハハ…「こんにちはしごとさん」。これ政府機関?
シュールだ…前原大臣マジで空気しらないよ、関東の。
アッハッハ、ほら踊れおどれ関西人芸人。つまらん。
さんまキツッ、声嗄れて…。
ゴクリ…これがスタジオALTAか…なんてことないな。
今さら! 今さら! いえただの逆走です、ポスモは。
磯崎新やばそうだがいいのか? 名誉博士やれよ東大。
もういいでしょ倭人は。人間名乗るの無理あるよ、脳が。
和を以て特攻隊、うふふ。えー仕方ないと思ってます。
あれぇあれなんだ。道端で公然猥褻罪撮ってる猿。
ぎゃっはっは、東京人。人身売買都民、必死で生きてる。
南蛮虫と東京人わはは等号だな、完璧つなげる。
死ねば都民。はあ? 淫行勧誘罪会社員の癖に生きてくの?
はいはい、スポーツなのね。もうわかったよ悪徳都知事さん。
在日米軍再編の計略
茨城空港は、現知事が述べていた様に国の空港でもあると位置づけると利用価値がとても高い。
不況を逆用し、既に整備された大規模な更地が余っているという恰好の状況は、そこを再編米軍基地のキャンプベースと考えれば神の采配があったかの如く、最小費用でのニューディール的な公共事業モデル敷地と見なせる。
我々の思いやり予算を削減しつつ、今後とも周辺要地をキャンプシュワブとして安価で提供する契約をとりつければ、それはLCC(Low Cost Career/Carrier)での新たな財投モデルと考えていい。なぜなら海外企業(国家単位の税収企業視も含む)の自主的呼び込みによる開発費はどう考えても不足してしまっている国費をみたび用いるより安上がりに済む。
唯一の懸念は土着化したヤンキーの暴走だろうが、私の歴史を見る目が正しければ茨城県民の基本性格は保守的であり、またその一端は御三家のコアというべき水戸徳川家の血統があるからだが「武家作法」を最も尊ぶところがある。
いいかえると、茨城県民が自衛隊兼用となった現空港付近の土地へ米軍基地の強大な武力をも摂り込むとしても、それをたとえば薩摩や長州や土佐の様な中央政協調へは反抗的な地方風あるいは公家作法だけを貴ぶ京都の様に、想像できるなんらかの国政否定へ向けて悪用するという未来は考えにくい。
彼らは武家の義理に則って、飽くまでもそれを忠実に運用していけるだろう。そして土地の風に呑まれゆく米軍基地内外のヤンキーらも、必ずや日本国の保守保安及び『尊皇攘夷の核』を担うのを義務と考える様、やがて民から逆説的に感化される筈だ。
沖縄県民は彼らとはまるで違って武権をよびこむことをちっとも有り難がらないので、米軍が地霊を無視してあたり構わず基地を力建させたいのと違って、そこでは楽天的な南国気質によって弱い威力しか決して得られはしない。
だから沖縄米軍が今後ともその場で威厳を得るのは難しく、県民からつねづね詰まらない排斥論をなげかけられる始末だろう。
不況を逆用し、既に整備された大規模な更地が余っているという恰好の状況は、そこを再編米軍基地のキャンプベースと考えれば神の采配があったかの如く、最小費用でのニューディール的な公共事業モデル敷地と見なせる。
我々の思いやり予算を削減しつつ、今後とも周辺要地をキャンプシュワブとして安価で提供する契約をとりつければ、それはLCC(Low Cost Career/Carrier)での新たな財投モデルと考えていい。なぜなら海外企業(国家単位の税収企業視も含む)の自主的呼び込みによる開発費はどう考えても不足してしまっている国費をみたび用いるより安上がりに済む。
唯一の懸念は土着化したヤンキーの暴走だろうが、私の歴史を見る目が正しければ茨城県民の基本性格は保守的であり、またその一端は御三家のコアというべき水戸徳川家の血統があるからだが「武家作法」を最も尊ぶところがある。
いいかえると、茨城県民が自衛隊兼用となった現空港付近の土地へ米軍基地の強大な武力をも摂り込むとしても、それをたとえば薩摩や長州や土佐の様な中央政協調へは反抗的な地方風あるいは公家作法だけを貴ぶ京都の様に、想像できるなんらかの国政否定へ向けて悪用するという未来は考えにくい。
彼らは武家の義理に則って、飽くまでもそれを忠実に運用していけるだろう。そして土地の風に呑まれゆく米軍基地内外のヤンキーらも、必ずや日本国の保守保安及び『尊皇攘夷の核』を担うのを義務と考える様、やがて民から逆説的に感化される筈だ。
沖縄県民は彼らとはまるで違って武権をよびこむことをちっとも有り難がらないので、米軍が地霊を無視してあたり構わず基地を力建させたいのと違って、そこでは楽天的な南国気質によって弱い威力しか決して得られはしない。
だから沖縄米軍が今後ともその場で威厳を得るのは難しく、県民からつねづね詰まらない排斥論をなげかけられる始末だろう。
2010年3月11日
遺伝学
生きている丈で地球上では人為系というべき次元の容量は増えていく。情報概念はこの部分の形。ならば一般にどの協力行動も混沌度増大則の一部をなす。熱量にみた容量増大は、人為系が生態中の情報系列の複雑化をなす一反応と教える。ならば生態の複ね合いはそうでない時より熱反応の種類が違える已。遺伝は同様のはかりをたもつので、生態反応自体は系として日々複合化へ赴く。逆に生態は進化の系統反応を伴わない。
遺伝さは消化か消費の上へ生産者同士の生物量再生産能率のおおよその順列に系統した発展をととのえる方へ向く。遺伝さは之を系統の結果たる複ね合いへつくる。ならば生態反応の基本法則は情報複合の向きといえる。量れば、之は進化度と等しい。よって遺伝さは異種混合を場の条件内で最大限計る系統をそうでない変異より適応度に準じて調え易い。
遺伝さの向きは情報量の必然な増大と逆であり、変異は審美化を貴ぶ。ゆえに遺伝さは向きを情報量と合わせず、異種混合を同系配列の奇形化を除いては進めない。よってもし遺伝さが同列の変異を択べばその特徴は生態の定まった適所へしか合っていかない。すなわち遺伝さの奥行きは一般の異種混合さがかなりの幅の母系と共にこのましい中継種の団りをいざなった時広がる。この神経の益す力線は混雑や競争が必ずしも適切な混合を選ばせる機先と限らぬと言う。ならば遺伝さは進化場条件の珍しく整った地点でしか明白なあつまりを伴う前進をしない。
遺伝変異の奥行き深さは集められた系統の審美さが情報量集積の比例を示す程強い。故一般に珍しい品種は、その為の適所を逃さねば益々珍しくなり傾く。之をとけば品種差は適所と流入した遺伝系統の恒常観がどれほど偶有さを伴うかに等しい。普き遺伝さは審美程度が即珍しさと進化の一般の帰結に叶うと教えている。何が真に進化なのかへは系統さが珍しさに異なる系との適度な配置、つまり的に合う突然変異の編み入れが図られる丈。この的は一定の性特徴の用法による。故そのかわりばえのみ適所にとり、生態活動の本質となる。
遺伝さは消化か消費の上へ生産者同士の生物量再生産能率のおおよその順列に系統した発展をととのえる方へ向く。遺伝さは之を系統の結果たる複ね合いへつくる。ならば生態反応の基本法則は情報複合の向きといえる。量れば、之は進化度と等しい。よって遺伝さは異種混合を場の条件内で最大限計る系統をそうでない変異より適応度に準じて調え易い。
遺伝さの向きは情報量の必然な増大と逆であり、変異は審美化を貴ぶ。ゆえに遺伝さは向きを情報量と合わせず、異種混合を同系配列の奇形化を除いては進めない。よってもし遺伝さが同列の変異を択べばその特徴は生態の定まった適所へしか合っていかない。すなわち遺伝さの奥行きは一般の異種混合さがかなりの幅の母系と共にこのましい中継種の団りをいざなった時広がる。この神経の益す力線は混雑や競争が必ずしも適切な混合を選ばせる機先と限らぬと言う。ならば遺伝さは進化場条件の珍しく整った地点でしか明白なあつまりを伴う前進をしない。
遺伝変異の奥行き深さは集められた系統の審美さが情報量集積の比例を示す程強い。故一般に珍しい品種は、その為の適所を逃さねば益々珍しくなり傾く。之をとけば品種差は適所と流入した遺伝系統の恒常観がどれほど偶有さを伴うかに等しい。普き遺伝さは審美程度が即珍しさと進化の一般の帰結に叶うと教えている。何が真に進化なのかへは系統さが珍しさに異なる系との適度な配置、つまり的に合う突然変異の編み入れが図られる丈。この的は一定の性特徴の用法による。故そのかわりばえのみ適所にとり、生態活動の本質となる。
政策綱領
売春禁止法をつくり、風俗営業店と俗称される客の好奇心にそう接客業種を根絶すべくそれらに携わる大脳奇形のある人種を死刑にせねばならない。
しかしこの一気な施策でも必ずや抜け道として、倭人種のことだから援助交際などの悪質な不法を行い出す。これは見つけ次第、現行犯逮捕か銃殺できる法を整えるべきだ。
不純異性交遊は全て文明空間からは排斥されてまったく構わない。こういう劣った大脳の人種は賤業種としてもともとDNA分岐上問題ある渡来系血統の混じった関西圏か、その血筋を引く東京都の皇室付近という最底辺部にしか少しも流通させるべきではない。
これら昔ながらの汚染地区は国家からの隔離のうえ最終的には生化学兵器により滅亡させるべきなので人畜駆除を後回していい。行う日が来ればDNA分岐を精確に辿り一人のこらず処分できるだろう。
しかしこの一気な施策でも必ずや抜け道として、倭人種のことだから援助交際などの悪質な不法を行い出す。これは見つけ次第、現行犯逮捕か銃殺できる法を整えるべきだ。
不純異性交遊は全て文明空間からは排斥されてまったく構わない。こういう劣った大脳の人種は賤業種としてもともとDNA分岐上問題ある渡来系血統の混じった関西圏か、その血筋を引く東京都の皇室付近という最底辺部にしか少しも流通させるべきではない。
これら昔ながらの汚染地区は国家からの隔離のうえ最終的には生化学兵器により滅亡させるべきなので人畜駆除を後回していい。行う日が来ればDNA分岐を精確に辿り一人のこらず処分できるだろう。
道徳定理
用法内で味の側を築くのが哲学的冗長さなら言語でいうその啓発観は、言葉の使われ具合がどんな慣習をつねとするかへ叶う。意味と趣味とは部分と全体との味への言い及び。言語のひま長さは用いられる文脈の定常観が高いほど現実的。趣味的文脈は順列規則の凡そのつねさと似た経過を経る。言語内で類推へ係る手間は可塑化できる。故一般に科学知識の精密な言い及びと違う何らかの定常観が、日常と専門の言語に入り込むならそれは某冗長が無論内部へ意味を込める趣味、の面へ当てられたから。なぜこうなるかは、知識層内負担理論の仮説がある程度説明する。ひま長き知者はそうでない者より道徳の面で優位な筈、というかなりの常識風がある。この種の慣習か馴れは訓辞の解釈界へ領域開く。人々はこの種の無意識の祖先を敬わねば罪やおそれを感ける。哲学が、今日の意味で生き続けるのは訓辞への馴れの為だ。そしてこの規範はそれ以上の無意識的理解という一般教養の上回りがなくば打ち破り難いので、宗教的拘束か信の側面は全訓辞へ入り込む。宗派と学門の差は更新速度のみ。古を信じるのと改めて考えるのとでは後者がより別系統と親近し易いから。
政略論
政治資金問題の非建設的応酬は検察と警らに任せ、国税の有効な使い道へ議会を転換させるには公然と小沢氏との縁を切って事態を好転させるべきだ。
実力派はこれでも生き延びるので政権与党にもなんら問題はない。
実力派はこれでも生き延びるので政権与党にもなんら問題はない。
2010年3月10日
語学
言葉の適度さはみな順列内の知覚による。∴知覚∈審美感覚。審美感覚は狭い知覚をとぐ。この知覚は母語系にとり先験的。
写像関係は言葉の知覚集合を母語系へ向けとぐ∴写像さは知覚集合の順列規則へのくみかえ已←→順列規則は不動∧∧母語系の代替⇒写像関係は知覚集合の補集合∴母語系は写像の分かれ。
写像は
(言葉∪文語∪口語⊃発声⊇文字∋発音記号)⇔言語
に対して
言語⊃主観⊇境
∴主観は言語と分かれう∧口語が即主観¬→境は言葉を写像内に持つ。
現象学というあやふやな体系は境の主観との勘違いでしかなく、それらには共通集合も含まれるが同一¬→主観論に戻る。⇒主観論は理念論述の才を自己目的化した非対象論か形而上学なので他の語学体系内に育まれえない。
写像関係は言葉の知覚集合を母語系へ向けとぐ∴写像さは知覚集合の順列規則へのくみかえ已←→順列規則は不動∧∧母語系の代替⇒写像関係は知覚集合の補集合∴母語系は写像の分かれ。
写像は
(言葉∪文語∪口語⊃発声⊇文字∋発音記号)⇔言語
に対して
言語⊃主観⊇境
∴主観は言語と分かれう∧口語が即主観¬→境は言葉を写像内に持つ。
現象学というあやふやな体系は境の主観との勘違いでしかなく、それらには共通集合も含まれるが同一¬→主観論に戻る。⇒主観論は理念論述の才を自己目的化した非対象論か形而上学なので他の語学体系内に育まれえない。
2010年3月9日
現代数学仮説
経験則は常に公理系内へ編み入れが起こっている数理公式の集まり合わせと定義すると、意識の他の公理系への真偽命題の決定力は経験則の補集合特性つまり補いの無限に限りう。経験則は補公理系。故所謂決定可能さは学習可塑さが残る限りで真。逆に補いへの編み入れが起きない孤立のいとまきではその脆さを突く決定不可能命題が生まれる。原則として、経験則は開放的公理系でもある。造り数学の最短化規則は経験則増大でなく、孤立した公理系の証明過程が厳密化へ寄与しその道具らしさが高まるのを期待する。ここでもし私の意見を差し挟めば、究極の経験則集合は哲学系と呼ぶをう。この集合は忌憚なくいってまったく任意でない体系づけへの方法論をもちあわせていない。哲学系は既存論旨の脆さを穿つため矛盾した経験値からの作り上げた論理、日常生活で言い訳か最高でも合理化とよばれる何事かをいう権利や立場であり、この止揚的啓蒙運動乃ち弁証法の本質は数理科学の知見が全知へ達しえない、という戒め機能または学習継続の動機づけ規制に働く。哲学系は冗長さしか達しえない。つまり真理をふやかす中で多矛盾度や曖昧さを維持か促進させる余計量への機構を出ない。だから『実践理性批判』にある如く善意しか哲学には実現しえないだろう。そしてそれは知識量に対する啓蒙度に、乃ち無知なる領域への気づかせに叶う限りで。
数学の厳密化が経験則をみな公理づけきるのは難しい。故今の段階で数学が為すべきは、経験則の母集合化も極力最短化の規則で行う計画を始めること。入力を除きこの出力作業自体の自動化も視野に入れねばならない。
造り数学分野は、この作業つまり経験則の母集合化計画へかなり使われるをう。なぜなら最短化がなくば秩序を見つけることはできない。どの論理記号も同値の単位重畳さへ叶う複合さで測り、文字か字単位での規則づけを科学知識の一層の精密化へ向けて働かせるをう。
数学の厳密化が経験則をみな公理づけきるのは難しい。故今の段階で数学が為すべきは、経験則の母集合化も極力最短化の規則で行う計画を始めること。入力を除きこの出力作業自体の自動化も視野に入れねばならない。
造り数学分野は、この作業つまり経験則の母集合化計画へかなり使われるをう。なぜなら最短化がなくば秩序を見つけることはできない。どの論理記号も同値の単位重畳さへ叶う複合さで測り、文字か字単位での規則づけを科学知識の一層の精密化へ向けて働かせるをう。
あの家系
幾ら説教しようと大多数の東京人はちっとも行いを変えない。それらの生命体は、関西人の気が入っているので頭が悪いのだろう。そもそもボスですらあれだし。
かと言って、放っておけばそれらの生命体は星中へ汚猥をまきちらす。いつものことではある。江戸土民とはそういうものだ。救い様がない。尤も、たしかに関西人そのものよりはましだ。関西ではヒトがいない。サルしかいないのだ。感覚というものがない。
世の中と付き合えと教え込まれてきたが、どうしてそう教えたのかいえばあのボスが悪者だからだ。あの家系は昔から搾取をなりわいとしてきたので、世の中で商売してほしくて仕方ない。その差額を脅して奪うのが本領なのだから、ああしておのれが偽造した学校では、世の中とのへばり付き合いを叩き込むに違いない。世間とは家畜だと思っているのだから。
単純に、そのサルは馬鹿すぎるので必ず地獄に堕ちるだろう。そうでなければ辻褄が合わない。九州の血とまざった関西人のracismなど語るに落ちる。その国の正当性が疑わしいと感づいてから、全てが邪悪に他ならないのを十分観察してきた。救い難さをこれほどまでに理解しようとも、なおも目の前で東京人は江戸の文法を守り続けていった。彼らは愚鈍でよこしまなボスの手下になり、散々わるさをしてよの風紀を乱し続けた。
だが、宇宙の広さに比べていかにその虫類がみにくく卑小でも、業のリターンはどんどんと膨らみつづけていく。東京人のなす悪がどれほど膨大か、日々メーターを測る仕事の中で私は群れになった馴れ合いの邪悪さを、とても精密な記録にすることができた。そして私は未来の世代へとその記録を余さず持って行くつもりだ。
かと言って、放っておけばそれらの生命体は星中へ汚猥をまきちらす。いつものことではある。江戸土民とはそういうものだ。救い様がない。尤も、たしかに関西人そのものよりはましだ。関西ではヒトがいない。サルしかいないのだ。感覚というものがない。
世の中と付き合えと教え込まれてきたが、どうしてそう教えたのかいえばあのボスが悪者だからだ。あの家系は昔から搾取をなりわいとしてきたので、世の中で商売してほしくて仕方ない。その差額を脅して奪うのが本領なのだから、ああしておのれが偽造した学校では、世の中とのへばり付き合いを叩き込むに違いない。世間とは家畜だと思っているのだから。
単純に、そのサルは馬鹿すぎるので必ず地獄に堕ちるだろう。そうでなければ辻褄が合わない。九州の血とまざった関西人のracismなど語るに落ちる。その国の正当性が疑わしいと感づいてから、全てが邪悪に他ならないのを十分観察してきた。救い難さをこれほどまでに理解しようとも、なおも目の前で東京人は江戸の文法を守り続けていった。彼らは愚鈍でよこしまなボスの手下になり、散々わるさをしてよの風紀を乱し続けた。
だが、宇宙の広さに比べていかにその虫類がみにくく卑小でも、業のリターンはどんどんと膨らみつづけていく。東京人のなす悪がどれほど膨大か、日々メーターを測る仕事の中で私は群れになった馴れ合いの邪悪さを、とても精密な記録にすることができた。そして私は未来の世代へとその記録を余さず持って行くつもりだ。
2010年3月8日
商品開発
茹卵製造機。
市場価格は千円台から三千円程度で、タコ焼き機の形を二つ迄おとした姿をもち、電源をいれて二、三分から十分で1.半熟、2.温泉風、3.完熟からボタン毎に出来上がりを択べる。白と赤の二色展開。
開発費を抑えるに既存電気ケトルの機構を工場へ直接出向いて転用か抜粋する。
継続的製造そのものはパナソニックの子会社が名乗り出そうなので託すか、又は製造委託しブランドは自ら得る。がサザエさん等の庶民級の番組へCMできる利点は前者をより望ましくするだろう。
市場価格は千円台から三千円程度で、タコ焼き機の形を二つ迄おとした姿をもち、電源をいれて二、三分から十分で1.半熟、2.温泉風、3.完熟からボタン毎に出来上がりを択べる。白と赤の二色展開。
開発費を抑えるに既存電気ケトルの機構を工場へ直接出向いて転用か抜粋する。
継続的製造そのものはパナソニックの子会社が名乗り出そうなので託すか、又は製造委託しブランドは自ら得る。がサザエさん等の庶民級の番組へCMできる利点は前者をより望ましくするだろう。
負の呼び水効果
東京都が万引き防止のポスターをあちこちに張り出した。しかし自分が見るに、これは呼び水効果を伴い逆効果の部分も大きい。
高級品店や開放的な店では万引きなどゆめにもおもい寄らなかったが、そんな所に突如万引き禁止を喚起する場違いなポスターが張り出されていたのでそういう悪徳がこんなところにもありえるのだ、とかえって犯罪可能性が逆啓蒙されてしまった感が私にはあった。
税収を欲しがる都の下司根性が、こういう負の誘引で自業自得の結末を呼ぶとしても不思議はない。万引きをよく行う層が出入りしそうな猥雑な雑貨屋の如き界隈と、決してそうではないだろう大手百貨店の見分けくらいつくだろうに。
悪政貪たり。税は人民が進んで支払いたい分量を以て臣下共々節制篤実に甘んじるのが徳政の本旨だが。
高級品店や開放的な店では万引きなどゆめにもおもい寄らなかったが、そんな所に突如万引き禁止を喚起する場違いなポスターが張り出されていたのでそういう悪徳がこんなところにもありえるのだ、とかえって犯罪可能性が逆啓蒙されてしまった感が私にはあった。
税収を欲しがる都の下司根性が、こういう負の誘引で自業自得の結末を呼ぶとしても不思議はない。万引きをよく行う層が出入りしそうな猥雑な雑貨屋の如き界隈と、決してそうではないだろう大手百貨店の見分けくらいつくだろうに。
悪政貪たり。税は人民が進んで支払いたい分量を以て臣下共々節制篤実に甘んじるのが徳政の本旨だが。
生態学
地球型生態の本質は地球の上での適応度にある。大多数の理想がそうであるのと等しく、地球上で行われる生態反応は特有の傾きを担い、それは僻地さを伴う。地球が他の星団とやりとりできない間は真に。
この生態を適応度の面でいくつもの類型に分けるのは容易。が生態は不可逆さを少なくとも維持面で伴う。故生態已に省みれば類型は時代類型。かつ大多数の類型は系統樹の末節を継ぎ足すか衰えさせ為す。生態の適応度は時代環境なりの変容を引き連れる。故類型は遺伝の法則でも維持の在り方を時代毎に違う方向へとぐ。
生態の適応度は、星団の特質を含むどの系外惑星内ででも固有さへ赴く。故生態の在り方は常に境らしさとの折衝条件による。境さは適応の質を変え、別の変りを尊ばす。ならば生態法則は場の恒常的特質を内部化した傾向。但し、この定まりは決して時代類型をこえない。
生態が一定りの群生をもつ大きな訳は適所での境さが幅を伴う類型だったから。→境は適応形質の文化素。境が遺伝子への選び因みになる。この因みは境らしさを追う。
遺伝子の偏りは、つね適応度を世代交代速度で微分する。それは
Δ速度/Δ世代数∫function(時間)・・常適応度
の定積分を
limitation[世代数]時間/突然変異出現率‥重複世代数
の平均さで割った値、即ち
常適応度/重複世代数×0.5%=遺伝偏差値
が境らしさ毎に恒常さの原始関数であると示す。故遺伝子の偏りは生物量と見れば資源と同値。
生態の適応度偏差は何れこの観点から、塩基対情報量用の燃料か解体後の秩序度の抽出しとして資料にされう。でないと偏りある資料は永久に偏り続け、境らしさを崩壊させる。つまり遺伝子資源の利用か単に捕食は縮小された戦争行為の省略形で、より合理な熱量循環の規則。遺伝の因みは形質が境の再生産率へ不可欠に結んでいる事、かつ全反応の底に突然変異出現率という文化素への影響波の強さを選び抜きの原理と定める中で、実質的には外部系への可逆反応の程度を重要な単位重畳化の比例としたと明かす。この点でも世代間の再利用可能さを鑑みた境らしさへの貢献が、社会型生態にとっては再生産率に対する環境での適応方向へ一定。
この生態を適応度の面でいくつもの類型に分けるのは容易。が生態は不可逆さを少なくとも維持面で伴う。故生態已に省みれば類型は時代類型。かつ大多数の類型は系統樹の末節を継ぎ足すか衰えさせ為す。生態の適応度は時代環境なりの変容を引き連れる。故類型は遺伝の法則でも維持の在り方を時代毎に違う方向へとぐ。
生態の適応度は、星団の特質を含むどの系外惑星内ででも固有さへ赴く。故生態の在り方は常に境らしさとの折衝条件による。境さは適応の質を変え、別の変りを尊ばす。ならば生態法則は場の恒常的特質を内部化した傾向。但し、この定まりは決して時代類型をこえない。
生態が一定りの群生をもつ大きな訳は適所での境さが幅を伴う類型だったから。→境は適応形質の文化素。境が遺伝子への選び因みになる。この因みは境らしさを追う。
遺伝子の偏りは、つね適応度を世代交代速度で微分する。それは
Δ速度/Δ世代数∫function(時間)・・常適応度
の定積分を
limitation[世代数]時間/突然変異出現率‥重複世代数
の平均さで割った値、即ち
常適応度/重複世代数×0.5%=遺伝偏差値
が境らしさ毎に恒常さの原始関数であると示す。故遺伝子の偏りは生物量と見れば資源と同値。
生態の適応度偏差は何れこの観点から、塩基対情報量用の燃料か解体後の秩序度の抽出しとして資料にされう。でないと偏りある資料は永久に偏り続け、境らしさを崩壊させる。つまり遺伝子資源の利用か単に捕食は縮小された戦争行為の省略形で、より合理な熱量循環の規則。遺伝の因みは形質が境の再生産率へ不可欠に結んでいる事、かつ全反応の底に突然変異出現率という文化素への影響波の強さを選び抜きの原理と定める中で、実質的には外部系への可逆反応の程度を重要な単位重畳化の比例としたと明かす。この点でも世代間の再利用可能さを鑑みた境らしさへの貢献が、社会型生態にとっては再生産率に対する環境での適応方向へ一定。
2010年3月7日
共生思想の位置付け
自然との共生という思想は、自然征服への理性にとっては過程と見做される。自然と一体化している間はその支配などには思いも寄らない。
多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代の哲 りとは、それ自身を経験則下での実際の生き残りに想えば凡そ確かだったのだろう。先駆種が生じる余地にとってさえも、極相化への一極適応よりもある程度の中継団が残っている方が有利なことは、溢れる生態現象のなか何が真に新しい変異かへ多様さの光明を照らすのに役立っている。著しい多様さがない場では、珍奇さとして一般的に進化と思われる変異でさえ排他的か淘汰的に差別され、大多数派である極相種の支配力によって潰されゆく。
自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異の団 りを引き連れるかさもなくば支配し直す。そしてこういう経過全体にみた生存確率の面から、円滑な進化の為に自然共生論は量感を伴う母系となる。言うまでもないが、にも関わらずそこには常に矛盾か自己満足か自己適所化を伴うので、審美感覚の超中庸論のため以前とは大きく違う新変異に類する品種を選択しきれないだろう。だから自然共生型への最適化系統からは生き残りはあれ生態的な進歩はない。
多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代の
自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異の
国会中継の電網適性
インターネット最大の利点は情報発信量あたりの維持費面であり、この為、既存の地上波では放映しきれない濃やかな動画チャネルの解放は、行う意志さえあれば今でも可能である。
一般に、公務への不信はその不透明度といらぬ隠蔽場面の多さによるので、国会審議をインターネット中継しつづける政府チャネルを設け置くならそれは各国へ先駆ける大いなる革新といえる。
しかも、この為にはもし最高級の画質など無益な豪勢さを廃し、市販の質のデジタルカメラと必要充分な市販パソコンを通じた実用的中継へ限れば、いわゆる批判にさらされがちな公営法人NHKを使いまわすよりずっと最小限の費用で最大公益が図れることだろう。
だから計略担当大臣の直下の部下数人へこの仕事を託せばそれは大袈裟な手間をとらず即日行える。国会動画の保存の始末だけ、既存の官僚機構、おもに書記官関係者へあとはしっかりやってくれと流せばいいに過ぎない。
一般に、公務への不信はその不透明度といらぬ隠蔽場面の多さによるので、国会審議をインターネット中継しつづける政府チャネルを設け置くならそれは各国へ先駆ける大いなる革新といえる。
しかも、この為にはもし最高級の画質など無益な豪勢さを廃し、市販の質のデジタルカメラと必要充分な市販パソコンを通じた実用的中継へ限れば、いわゆる批判にさらされがちな公営法人NHKを使いまわすよりずっと最小限の費用で最大公益が図れることだろう。
だから計略担当大臣の直下の部下数人へこの仕事を託せばそれは大袈裟な手間をとらず即日行える。国会動画の保存の始末だけ、既存の官僚機構、おもに書記官関係者へあとはしっかりやってくれと流せばいいに過ぎない。
2010年3月6日
文化の特徴
科学精神による侵略は世の一契機でしかなかった。対応に見た生態秩序は趣をことにしたのみ。
科学精神が無用ではないが、それ丈が世界精神の本性とは考え辛い。特に数理による自然比例の認識がその侭、生態侵略への道具へ転用された事は決して唯一の法ではないのだ。この用法自体、西洋哲学の縁起説の未消化を実証している。
ベーコンの自然征服論にとって縁起説は蚊帳の外に置かれた。彼らが依存している自然界の諸条件は、極相化した自身らの支配圏拡大の土台としか見做されなかった。
従って、科学精神の導きさえも民族の智恵の総量に基づいて構想されゆくのは明らかだ。なにをよしと見なすのかにとり民族の目指す理想は、自然への考察の結果のみならずそれを用いる主体に対しても違いを生む。善意の程度は今日でも最も信頼できる智恵のありかだろう。この程度は常に神の意いに劣るだろうが、にも関わらず現世系で至りえる最高の指導力は理念の上に花開く人知の限界にある筈。
科学精神の用途をもし共生界へ限れば、藝術はやはりそこでの最も究極された目当てだといえる。わざ自体は彼らの特徴を誇り示せるにすぎないが、それでも我々はこれより過ぎた何らかの神意の顕れを見つけ行く仕組みをもたない。最高のわざはまた同時に科学精神の技術へと仕組まれた顕現として、我々の智恵の壮観を個々の芸術のあつまりたる街の上に花咲かせる。家、村、町、市、県、府、道、都、国、などこういった今ある領域の幅は決して個性と矛盾しない。芸術があつまった結果として全ての風趣は形作られゆく。自然界と人間界の調和の姿は技術そのものを活用した芸術界とよばれるべき世界をつくる。風趣の目的はこの芸術界の在り方に求まる。よって、科学は技術の、技術は芸術の道具である。芸術界自身は神の計画を実行していく一手順でしかありえないだろうが、対してその調和から想像できるあらたな生態がこそは育まれるべき本当の進歩であり、そこでは生態が真に多様さへの導きたり得る証なのである。
もし支配のみを目的とした適応行動があったとしても、補集合は常にその個性を取り囲んでいつしか分解し、次の世代への土壌となす。故に自然界と縁起説の土台に基づいて適度に協調する世界観は、文化とよばれていいだろう文明化の間にある土壌の養生にとっては最適たる。文化が次世代への投資であることは、農耕文明が何れ文化の程度を自身の理由づけとしてきた証だろう。このさなかに咲く生態条件が真に芸術界とよべる場所なのだ。土壌がうまくなければ次の世代は惨めだろう。文化は土地定着型の風趣にみれば最適化の一様態と考えられる。
科学精神が無用ではないが、それ丈が世界精神の本性とは考え辛い。特に数理による自然比例の認識がその侭、生態侵略への道具へ転用された事は決して唯一の法ではないのだ。この用法自体、西洋哲学の縁起説の未消化を実証している。
ベーコンの自然征服論にとって縁起説は蚊帳の外に置かれた。彼らが依存している自然界の諸条件は、極相化した自身らの支配圏拡大の土台としか見做されなかった。
従って、科学精神の導きさえも民族の智恵の総量に基づいて構想されゆくのは明らかだ。なにをよしと見なすのかにとり民族の目指す理想は、自然への考察の結果のみならずそれを用いる主体に対しても違いを生む。善意の程度は今日でも最も信頼できる智恵のありかだろう。この程度は常に神の意いに劣るだろうが、にも関わらず現世系で至りえる最高の指導力は理念の上に花開く人知の限界にある筈。
科学精神の用途をもし共生界へ限れば、藝術はやはりそこでの最も究極された目当てだといえる。わざ自体は彼らの特徴を誇り示せるにすぎないが、それでも我々はこれより過ぎた何らかの神意の顕れを見つけ行く仕組みをもたない。最高のわざはまた同時に科学精神の技術へと仕組まれた顕現として、我々の智恵の壮観を個々の芸術のあつまりたる街の上に花咲かせる。家、村、町、市、県、府、道、都、国、などこういった今ある領域の幅は決して個性と矛盾しない。芸術があつまった結果として全ての風趣は形作られゆく。自然界と人間界の調和の姿は技術そのものを活用した芸術界とよばれるべき世界をつくる。風趣の目的はこの芸術界の在り方に求まる。よって、科学は技術の、技術は芸術の道具である。芸術界自身は神の計画を実行していく一手順でしかありえないだろうが、対してその調和から想像できるあらたな生態がこそは育まれるべき本当の進歩であり、そこでは生態が真に多様さへの導きたり得る証なのである。
もし支配のみを目的とした適応行動があったとしても、補集合は常にその個性を取り囲んでいつしか分解し、次の世代への土壌となす。故に自然界と縁起説の土台に基づいて適度に協調する世界観は、文化とよばれていいだろう文明化の間にある土壌の養生にとっては最適たる。文化が次世代への投資であることは、農耕文明が何れ文化の程度を自身の理由づけとしてきた証だろう。このさなかに咲く生態条件が真に芸術界とよべる場所なのだ。土壌がうまくなければ次の世代は惨めだろう。文化は土地定着型の風趣にみれば最適化の一様態と考えられる。
2010年3月5日
磐
吾むかし椎名町えきまえのマックで息つきし冬おもふ
験 受け生くそのときがいずれなるなり輝きし日々
上京しみし数々の出来事ありてつき/\゛し練馬眺むるそら
保谷まち隅の賭け事わずらゐのくるまや矢張り消えき
朝早く池袋のまち歩きしなかに柔肌愁ふ頃の匂い
借りつ高き志聴き道なおくわざをただ修むる青春うら若し
絵の具の香たのしきころの趣をおさめ磐となりしき
上京しみし数々の出来事ありてつき/\゛し練馬眺むるそら
保谷まち隅の賭け事わずらゐのくるまや矢張り消えき
朝早く池袋のまち歩きしなかに柔肌愁ふ頃の匂い
借りつ高き志聴き道なおくわざをただ修むる青春うら若し
絵の具の香たのしきころの趣をおさめ磐となりしき
現代経済学
留保資本主義の本質は、大多数の生活者が朝三暮四の連鎖を公認してでも生存したがる生態本能を社会系に依存して成り立たせたい限り、我々の文明が蓄えられた資本の量にこの性特徴を集める合理さにあるらしい。
富んだ家の目立ち方を極端にするしくみは、群衆が再生産率を自らの生態行動の目当てとする「商さ;あきないさ」を維持する限りつねにその偏りを指数関数的増大へ導く。つまり商務への軽蔑が殆どない群衆の中のいわゆる中産層では、おもに再生産率の高い生態を美化してみる欲望によって以前より富む事、今より物資や奉仕の豊かな生活程度を夢見る事が生存計画の動機づけとなりがち。
留保資本主義はこの目先の利益追求の衝動を、富の量感で誘なう計略として最上等。もしそれ以外の資本をえり好んでも所詮は露と消え去るか維持費の嵩みでおしつぶされるかのどちらか。乃ち利益は蓄えを功利とし、でなくば中産層は育成されない。
この道理は留保済み資本が商さを自体で選好み且つ中産層の進退と軌を一にしていると教える。資本経済の本性は、中産層が利益追求の体面を社会の表で大袈裟に振る舞えるほど強くなる。
結論として言えるのは、資本と呼んでいる対象物はこの利益追求の仕事量自体だということだ。商さが実質的資本であり、留保されるべき社会間資源の中身なのだ。これ以外に価値づけられていい何もない。
資本主義の文化素は群衆が体面を保ちたがるほど強まる。留保量が仕事についての強制力を引っ張り込むわけだ。中産層への魅了には最も羽振りのいい社会内行動を誇示できねばならず、それにはつねに増強されるべき財産を要する。
だから留保資本の本能とはその蓄えを自らの体面とほぼ摩擦なくなるまで増加させる「見栄:みえ」なのだ。この見栄への誘引は群衆からの注目に正比例する。
以上を冷静に分析した者は次の事に気づくかもしれない。
仕事量の定義は流動的であり、別の資源や技術をつねに追い求めるという技革法則は産業の内部にあって常々かれらとかれらへの選択をくみかえずにおかない。故もし社会内行動の複雑そうな係わり合いに最も基本となる順列規則をあてれば、留保資本主義の目指す所とは中産層との共生体を維持していこうとする考え方の差や違いなのだ。
簡潔に言って、我々は行動すべき範囲で何かを別の所へ形を作り替えるか変えないかして移す行為だけをするのであり、これは商さの選好みに繋がっていく。だから留保された資本量は見栄え;みばえの中にその考え方を埋め込む為の装置か智恵。でないと仕事の動機づけはなくなる。
留保資本主義そのものが現代の荒廃(こういった高い理想からくる失望感は常に全時代の思索を浸すのだと私は信じるが)へ何らかの効き目ある救済措置への全能処方箋ではないのだが、この機能には人知の及ぶ解決策への万能さが宿っている。
具体的に、有徳な金持ちとそうでない者との間には社会改良の為に使える仕事量へ、また評判にさえ大いに違いがあるだろう。そしてこの違いが、社会哲学と我々の個別の科学知を動かす被雇用者との兼ね合いの上で花咲かせる唯一の道である。
失敗した富裕者もある一方で、見栄のため規制される利他行為への転用により自らの持てる資源を最大限に使った、また使おうと事業を行う者はそうでない者よりつねに中産層からの尊重と愛護を受けやすいに違いない。
全てが誰か一人や一家の下に吸い込まれ独占支配されるのをよしとする原理主義社会に比べれば、或いは成果と努力如何に関わらず公有づけたがる福祉主義社会の誤って捉えられた先天平等の楽観すぎる視野に比べれば、資本経済を前提とした中でも更に先鋭的な「富の格差」を認める留保資本主義社会はその個々配分への合理的秩序に於いて一層の強調と擁護や援護をしてよい安定した体系である。
より賢く能力の高い個性や血筋をそうでない部類よりも尊び、或いは頼りとして歩を進める思想は、何の根拠もなく生まれつき全人間生態の平等だとか出過ぎなさだとかなにかの偶然で成った地位だとかを保守したがる触れ方よりずっと資本量の自ずと偏るしくみへ適っている。
富の格差が広がれば広がるほど我々の社会は前に比べて裕福で、なおも先行き明るいものとなる。これは維持できる財産家や個性はそうでない者よりも優れた考えや資質によって群衆を、よりよき秩序へ導く為の蓄えが豊富だから。
そうでなければ一様な貧しさと足の引っ張り合い、又は馴れ合いが及ぶばかりで暗澹たる社会事情を他の国との折衝や悪巧みで別の世界へ伝染したがるばかりであり何一つ尊敬すべき点はない。
最低限度の生存資源公有化でさえも、極力政治的公的には節制され、篤志厚き富裕家の私の建前をとった慈善事業として営まれゆくのを待つ方が必ずや優秀な社会秩序を用いるのだ。なぜならばそこでは自ら立つ個々人の意欲と努力とが、他者への依存と恵まれを当たり前と考える怠け癖より遥かに尊重を受けるのだから。
私はこの考えをほか一切の妥協した社会主義と区別する為に、『資本原理主義』と呼んでいいと思う。成る程それは全能の神には遠く及ばないが、なおも人間界では最善の考え方なのが今のところ疑えない。
人間は保有や留保できた資源の量について群衆と同類である間、決して何事かを成し遂げられはしないのだ。先ず資本がなければならない。この為にはどの様な手段でも、無論倫理を全否定はしないが結果的に肯定を得る。
富んだ家の目立ち方を極端にするしくみは、群衆が再生産率を自らの生態行動の目当てとする「商さ;あきないさ」を維持する限りつねにその偏りを指数関数的増大へ導く。つまり商務への軽蔑が殆どない群衆の中のいわゆる中産層では、おもに再生産率の高い生態を美化してみる欲望によって以前より富む事、今より物資や奉仕の豊かな生活程度を夢見る事が生存計画の動機づけとなりがち。
留保資本主義はこの目先の利益追求の衝動を、富の量感で誘なう計略として最上等。もしそれ以外の資本をえり好んでも所詮は露と消え去るか維持費の嵩みでおしつぶされるかのどちらか。乃ち利益は蓄えを功利とし、でなくば中産層は育成されない。
この道理は留保済み資本が商さを自体で選好み且つ中産層の進退と軌を一にしていると教える。資本経済の本性は、中産層が利益追求の体面を社会の表で大袈裟に振る舞えるほど強くなる。
結論として言えるのは、資本と呼んでいる対象物はこの利益追求の仕事量自体だということだ。商さが実質的資本であり、留保されるべき社会間資源の中身なのだ。これ以外に価値づけられていい何もない。
資本主義の文化素は群衆が体面を保ちたがるほど強まる。留保量が仕事についての強制力を引っ張り込むわけだ。中産層への魅了には最も羽振りのいい社会内行動を誇示できねばならず、それにはつねに増強されるべき財産を要する。
だから留保資本の本能とはその蓄えを自らの体面とほぼ摩擦なくなるまで増加させる「見栄:みえ」なのだ。この見栄への誘引は群衆からの注目に正比例する。
以上を冷静に分析した者は次の事に気づくかもしれない。
仕事量の定義は流動的であり、別の資源や技術をつねに追い求めるという技革法則は産業の内部にあって常々かれらとかれらへの選択をくみかえずにおかない。故もし社会内行動の複雑そうな係わり合いに最も基本となる順列規則をあてれば、留保資本主義の目指す所とは中産層との共生体を維持していこうとする考え方の差や違いなのだ。
簡潔に言って、我々は行動すべき範囲で何かを別の所へ形を作り替えるか変えないかして移す行為だけをするのであり、これは商さの選好みに繋がっていく。だから留保された資本量は見栄え;みばえの中にその考え方を埋め込む為の装置か智恵。でないと仕事の動機づけはなくなる。
留保資本主義そのものが現代の荒廃(こういった高い理想からくる失望感は常に全時代の思索を浸すのだと私は信じるが)へ何らかの効き目ある救済措置への全能処方箋ではないのだが、この機能には人知の及ぶ解決策への万能さが宿っている。
具体的に、有徳な金持ちとそうでない者との間には社会改良の為に使える仕事量へ、また評判にさえ大いに違いがあるだろう。そしてこの違いが、社会哲学と我々の個別の科学知を動かす被雇用者との兼ね合いの上で花咲かせる唯一の道である。
失敗した富裕者もある一方で、見栄のため規制される利他行為への転用により自らの持てる資源を最大限に使った、また使おうと事業を行う者はそうでない者よりつねに中産層からの尊重と愛護を受けやすいに違いない。
全てが誰か一人や一家の下に吸い込まれ独占支配されるのをよしとする原理主義社会に比べれば、或いは成果と努力如何に関わらず公有づけたがる福祉主義社会の誤って捉えられた先天平等の楽観すぎる視野に比べれば、資本経済を前提とした中でも更に先鋭的な「富の格差」を認める留保資本主義社会はその個々配分への合理的秩序に於いて一層の強調と擁護や援護をしてよい安定した体系である。
より賢く能力の高い個性や血筋をそうでない部類よりも尊び、或いは頼りとして歩を進める思想は、何の根拠もなく生まれつき全人間生態の平等だとか出過ぎなさだとかなにかの偶然で成った地位だとかを保守したがる触れ方よりずっと資本量の自ずと偏るしくみへ適っている。
富の格差が広がれば広がるほど我々の社会は前に比べて裕福で、なおも先行き明るいものとなる。これは維持できる財産家や個性はそうでない者よりも優れた考えや資質によって群衆を、よりよき秩序へ導く為の蓄えが豊富だから。
そうでなければ一様な貧しさと足の引っ張り合い、又は馴れ合いが及ぶばかりで暗澹たる社会事情を他の国との折衝や悪巧みで別の世界へ伝染したがるばかりであり何一つ尊敬すべき点はない。
最低限度の生存資源公有化でさえも、極力政治的公的には節制され、篤志厚き富裕家の私の建前をとった慈善事業として営まれゆくのを待つ方が必ずや優秀な社会秩序を用いるのだ。なぜならばそこでは自ら立つ個々人の意欲と努力とが、他者への依存と恵まれを当たり前と考える怠け癖より遥かに尊重を受けるのだから。
私はこの考えをほか一切の妥協した社会主義と区別する為に、『資本原理主義』と呼んでいいと思う。成る程それは全能の神には遠く及ばないが、なおも人間界では最善の考え方なのが今のところ疑えない。
人間は保有や留保できた資源の量について群衆と同類である間、決して何事かを成し遂げられはしないのだ。先ず資本がなければならない。この為にはどの様な手段でも、無論倫理を全否定はしないが結果的に肯定を得る。
2010年3月4日
2010年3月3日
人類生物学
逆選好で人間の性選択が進化を抑制されている事実は、来世勘定が宗教の領域へおしやられつつ彼らが長い期間を諸形質の類人猿との近しさを転用する丈に済ました深い訳らしい。逆選好は最も審美的な感覚からのそれへ集められがち。故人間の逆選好は量化の傾きを強める。もし進化に見れば、自己僻地化は量化への解除を適応要因とする最初の段。故まず幼型が示されねば皆人類が彼らの轍を抜け出す理由も生まれない。もし皆が量化の逆選好を続けていけばその社会誘因は皆審美さを高め、代わりに新規か珍奇な物をとぐ。審美さは超中庸さともいえ、故量化の誘引は皆その生態的な多産さへの記憶を素にす。全て人間が文化に高みを得た地域では初期発生期たる幼児時代にしか魅惑感覚は残らない。私は経済圏の消失が多くの場面で発情を抑うと見た。人間は商業で再生産率の高い生態を企む。故皆人口比の密度辺り多い地域では下町気質と云われる再生産率に適った性格が珍重され多くは生き延びるのを許される。
人口内で商圏の必要が少なくなるほど集団に見る誇示の要請は弱くなり、彼らは例えば地味な鳥類と同じく魂の問題を見栄えより高く見積もる。商業都市では一切が値段で決められる傾向をこの種のとぎと等しくす。何が目あての生態なのか。このといは人間へ向けては、もし芸術を演劇と芸能界なるその秩序の低まった姿でも合目的さの形と考えると、他の全ての生態と埒を設けえなくなる。集団や群れの誇示は国か文明を造る。故人間は社会の誇示を一つの姿とするのが明らかで、しかも之は個々人の総計の身。人類がいきのびている訳が社会性にあるなら彼らの理は全てを他の個性との関りの内に求めたがるより起きの間柄へ当たる。全てのヒトらしさは無人島での生態をとぐ因みにあたらぬ上で文明らしさの個々の形質へ当たる。社会的知性を理性と名づくと結局、全て人間の営みはかなり高度でかさね合わされた誇り示しのかわりばえ已。感情なる能力は実質之誇示の形式已。何がヒトのあつまりで貴ばれてきたか、そして性選択の自然な対称さの余地をより体制の低いすこしであれ原始級の生殖そのものへの感心を成人して後にも意識の上で保つ、この子育てか幼児教育への必然さと併せ省みられた社会性は、女性の雌らしさ、乃ち女々しさの中により保存されてきている。之が何をヒトが最も小さな構えとして今日ありえたかの訳。
感情を原始級の特質が保たれた結果と考えた者はそれが合目的さの広がりにとっては今なお営まれ続ける生態の理と気づかなかった。寧ろ全ての理知はこの特質への補い。でないと社会らしさは奥行きのないちごらしいたちへ留まる。理知の総量が社会性の誇示にとって基準となる。之は見比べの容態を舞台にみたてる生態論とも符合して証なしている。
人口内で商圏の必要が少なくなるほど集団に見る誇示の要請は弱くなり、彼らは例えば地味な鳥類と同じく魂の問題を見栄えより高く見積もる。商業都市では一切が値段で決められる傾向をこの種のとぎと等しくす。何が目あての生態なのか。このといは人間へ向けては、もし芸術を演劇と芸能界なるその秩序の低まった姿でも合目的さの形と考えると、他の全ての生態と埒を設けえなくなる。集団や群れの誇示は国か文明を造る。故人間は社会の誇示を一つの姿とするのが明らかで、しかも之は個々人の総計の身。人類がいきのびている訳が社会性にあるなら彼らの理は全てを他の個性との関りの内に求めたがるより起きの間柄へ当たる。全てのヒトらしさは無人島での生態をとぐ因みにあたらぬ上で文明らしさの個々の形質へ当たる。社会的知性を理性と名づくと結局、全て人間の営みはかなり高度でかさね合わされた誇り示しのかわりばえ已。感情なる能力は実質之誇示の形式已。何がヒトのあつまりで貴ばれてきたか、そして性選択の自然な対称さの余地をより体制の低いすこしであれ原始級の生殖そのものへの感心を成人して後にも意識の上で保つ、この子育てか幼児教育への必然さと併せ省みられた社会性は、女性の雌らしさ、乃ち女々しさの中により保存されてきている。之が何をヒトが最も小さな構えとして今日ありえたかの訳。
感情を原始級の特質が保たれた結果と考えた者はそれが合目的さの広がりにとっては今なお営まれ続ける生態の理と気づかなかった。寧ろ全ての理知はこの特質への補い。でないと社会らしさは奥行きのないちごらしいたちへ留まる。理知の総量が社会性の誇示にとって基準となる。之は見比べの容態を舞台にみたてる生態論とも符合して証なしている。
2010年3月2日
葉っぱ
渚のまのびの山
たまに忍ばれたそういう
髻 みずらが運んだ
チャイニーズ・ビーム
とっても典雅なクラシックは
竜巻だ
ぱっぱっぱっぱ
弾けてまざる菜の花の実はね
ぱっぱっぱっぱって
回りゆくむかしのおどりです
よく見つけたねー
そうかも知れなくもない朝焼けそら
聖蹟桜ヶ丘のえきまえの
雫のねアーケード
ふらーとふる明かりとり
ぱっぱっぱっぱっパって
ちりふるのがたのしや葉っぱ
秋の落ち葉ももうないの
だもんでだもんで
たまに忍ばれたそういう
チャイニーズ・ビーム
とっても典雅なクラシックは
竜巻だ
ぱっぱっぱっぱ
弾けてまざる菜の花の実はね
ぱっぱっぱっぱって
回りゆくむかしのおどりです
よく見つけたねー
そうかも知れなくもない朝焼けそら
聖蹟桜ヶ丘のえきまえの
雫のねアーケード
ふらーとふる明かりとり
ぱっぱっぱっぱっパって
ちりふるのがたのしや葉っぱ
秋の落ち葉ももうないの
だもんでだもんで
官僚再構築の原理
リストラとはrestucturing即ち再構築のことだから必ずしもクビだけを意味してはいない。だが現状でも平均的給料夫よりも少ない月給で甘んじている大多数の国家公務員を、さらに厳しい分け前で生きながらえさせるのにも問題がある。
これは構造が重たい、という効率改善の課題であり、もし政治主導あるいはより正確には「議会主導」の旨(なぜなら全ての政府機構は政治界と呼べるのだから)を果たそうとすれば一般企業がそうしてきた様に、縮減人員での効率よい経営計略が練られねばならない。
専門官僚の優秀さを擁護する発言も少なくない様だが、問題は数であり、国費への負担だろう。いうまでもなく宮内庁関係と最低限度以上の防衛警備予算は(政府が倒れようとするその時まで)まず切り崩せないのだから、最も穏便に事を進められる部位こそ妥協点となる。
勿論、自称政治家の身の上であられる国務大臣以上の面々が相応の覚悟で給与返上もありうるが、今までのこの種の小手先偽善改革の経験上いえることは、やわすぎる仕種を少しでもみせれば明治維新すら合理化したええじゃないか庶民感情というものはどこまでも彼らのいまある上官を貶めるものなのである。
毅然とした態度でどれだけ自ら当然の分け前を独占しても、寧ろ全身全霊で仕事に取り組んでいる姿勢をこそ公に私に報道する方がずっと、年功序列と株取引にのった不平等な取り分へ不満を抱く者の溜飲をさげる効果も将来世代の挑戦への意欲すらも期待できる。
率直にいえば見えない蚊帳の奥でなされている部分を(外交策謀上での致命的欠陥がない限り)最大限とりつぶしていく「政務透明化」を徹底することで、官僚へはいかなる仕打ちでも国民の支持は維持できる。なぜなら、この過程の大袈裟な報道はまるで劇団の様で、彼らも世の不正を暴いている気で豪傑のあらごと芝居に迫りえるのは公開事業仕分けで実証済みなのだから。
天下りならぬ官僚再就職の斡旋は、それが議院立法の中で原則政治家によっては禁止にされ、なおかつ各省庁をつかさどる長自身の口から、独立自尊の貫徹を公に告げゆくことで自動的に東京都付近の平均的業務遂行能力の底上げにもなる。誰しもへ報道されれば人材を欲しがる雇用側の同情も多くなるだろう。
これは構造が重たい、という効率改善の課題であり、もし政治主導あるいはより正確には「議会主導」の旨(なぜなら全ての政府機構は政治界と呼べるのだから)を果たそうとすれば一般企業がそうしてきた様に、縮減人員での効率よい経営計略が練られねばならない。
専門官僚の優秀さを擁護する発言も少なくない様だが、問題は数であり、国費への負担だろう。いうまでもなく宮内庁関係と最低限度以上の防衛警備予算は(政府が倒れようとするその時まで)まず切り崩せないのだから、最も穏便に事を進められる部位こそ妥協点となる。
勿論、自称政治家の身の上であられる国務大臣以上の面々が相応の覚悟で給与返上もありうるが、今までのこの種の小手先偽善改革の経験上いえることは、やわすぎる仕種を少しでもみせれば明治維新すら合理化したええじゃないか庶民感情というものはどこまでも彼らのいまある上官を貶めるものなのである。
毅然とした態度でどれだけ自ら当然の分け前を独占しても、寧ろ全身全霊で仕事に取り組んでいる姿勢をこそ公に私に報道する方がずっと、年功序列と株取引にのった不平等な取り分へ不満を抱く者の溜飲をさげる効果も将来世代の挑戦への意欲すらも期待できる。
率直にいえば見えない蚊帳の奥でなされている部分を(外交策謀上での致命的欠陥がない限り)最大限とりつぶしていく「政務透明化」を徹底することで、官僚へはいかなる仕打ちでも国民の支持は維持できる。なぜなら、この過程の大袈裟な報道はまるで劇団の様で、彼らも世の不正を暴いている気で豪傑のあらごと芝居に迫りえるのは公開事業仕分けで実証済みなのだから。
天下りならぬ官僚再就職の斡旋は、それが議院立法の中で原則政治家によっては禁止にされ、なおかつ各省庁をつかさどる長自身の口から、独立自尊の貫徹を公に告げゆくことで自動的に東京都付近の平均的業務遂行能力の底上げにもなる。誰しもへ報道されれば人材を欲しがる雇用側の同情も多くなるだろう。
2010年3月1日
幻
ゆめに見た簪が
ほとんど奥行きないプールの
底でゆらゆらとゆれるのを
真夏日におぼえる
大気は音もなく震え
まちがいなく訪れる小鳥の
さえずりを受け流し
遠い島国の曲をかなでさす
ゆずられた席は
ただの一人分の小さな
座布団が敷かれた間だ
勿来の駅舎に居る
私は横切りつづけていく
すべての車や波や云が
それ自体として完璧な
幻であると思う
ほとんど奥行きないプールの
底でゆらゆらとゆれるのを
真夏日におぼえる
大気は音もなく震え
まちがいなく訪れる小鳥の
さえずりを受け流し
遠い島国の曲をかなでさす
ゆずられた席は
ただの一人分の小さな
座布団が敷かれた間だ
勿来の駅舎に居る
私は横切りつづけていく
すべての車や波や云が
それ自体として完璧な
幻であると思う
一粒の月
案じているのだとして人は
どちらにせよ独り
その証に観る
この余りに広い宇宙の
どこをさがしても二度
おなじ人生は出てこない
にもかかわらず勿論
わずかな呼吸の合間は
少しずつであっても命を
刻みつづけていくばかり
すでに全ての星々が
あっという間に散りさってから
駅舎の真上に架かった
なんということもない一粒の月を
眺めるともなく見ている
もてなしの趣味
もてなしのよしあしに程がある、とはデリダの論拠になかった。彼は無条件の歓待ということばでの、当為となる奉仕の定義づけでその哲学を卒える。だから見返りなきもてなしがそれ自身のうちに差をもつという感じのよしあしを問題にしない。
客への態度、は見返り以前に感じを持っている。この感じはおよそ条件づけによらず一定。なぜなら条件は変わるが主の趣味には客への態度の一貫性を保つ動機がある。要は、もてなしには条件以外にも元々目指されるべき的があって、この座りには趣味観なる馬のあうあわないが前提とされる。そして趣味一般は審美感覚論だから、もてなしの程は客体的一貫性へ条件以外の余地たる主の品位を差し挟むいくらもの余白を持っている。論旨の結びからいうと、趣味の合わないもてなしには如何に無条件でも汚らわしさしかおぼえないのでなんの有り難みもない。貧者の一灯という諺は趣味観が心にあること、混同されやすいが奉仕向きのこまやかな精神そのものでさえないことを示す。それは昔風の言い方では魂の問題らしい。先ず以ってよきもてなしは心の限りでなければならない。だからそれはいわゆる絶対帰依の旨を仁の概念と既に深く結んでいる。岡倉のいう譲り合いの心はもっとも分かりやすい心の限りを端的に説明している。茶の湯がこの種の心づかいを啓発した面はたしかにある。成分からくるおちつきは言い争いや格闘よりは穏やかな歓談をより好ませがちだった。しかし茶道のみが心づかいの唯一の道とは念われない。道具に頼っている間その魂は装いである。もてなしのよしあしにはつねにうらみなさや形へのこだわりなさが求められる。もし形のこだわりをもてなし方へ打ち付けたがる風流心の欠けたひとがいても、彼は有り体に感心されはせよ、有り難がられはしない。ここにも程度問題がある。必ずしも歓待がすべての理想をつくる訳ではない。だがただの社交性にみれば、それはもてなしのよしあしではかれる。よき社交性は度重なる印象をよくし、好感をいだかせる。この結果は哲学の上では面白みを意味させるにすぎないが、なお無いよりはましだろう。置かれた社交の条件とは別に、乃ち置かれた取引や交易の関係とはまったく分けて考えてもより面白い性格は、そうでない性格よりも尊ばれるべき。この性格にはよきもてなしの心の基礎が備わっているからで、真昼の唐突な雪のごとくその訪れは別の社交性の持ち主よりも客にとってはまこと有り難い。不躾とは冗談を抜きにすればこころよさが面白みとは違和している習慣づけのこと。以上から、よりよき躾とは心の面白味を鍛えることであると導ける。滑稽味やおかしみは刺激のつよいたちから、不可欠に過度を煽るのでおそらく最善ではない。ここにも中庸の穿ちという実践的善意の限度がある。寧ろ、極端なそれらは面白さか興味深さの部分の形らしい。面白さはもと趣味感覚の鋭敏さからのみ鑑みられる微妙なきもちのゆれなので、見出だそうとすれば普くあるし、無いひとには何もない。教養や演技力と結合することはさらに希で、普通これを才能と呼んで貴ぶ。おもしろさが最良の段階へ高められるとそれは芸術性、或いは芸術味を伴う事柄の風格となる。ところで崇高は芸術の美には及ばないので面白みやもてなしとは関係せぬと公理づけると妥当。自然は我々をもてなすことも楽しませることもとりあえずなく、ただ無条件で広がりをもつ。乃ち神の作品に及ぶものがない限り人為はみなそれを少しずつ恐る恐るも借りてつくりかえ、自らの信じる面白みへ向かって再び玩べるにすぎない。これが本来たえざる息抜きとして活動の重複さへ求まる趣味らしさの意義。このつくりなおし活動は我々にとっての面白みが我々を超越した何者かにとっては愛玩か便利の、おもに興味深い鑑賞を目的とした概念らしいと説き明す。
客への態度、は見返り以前に感じを持っている。この感じはおよそ条件づけによらず一定。なぜなら条件は変わるが主の趣味には客への態度の一貫性を保つ動機がある。要は、もてなしには条件以外にも元々目指されるべき的があって、この座りには趣味観なる馬のあうあわないが前提とされる。そして趣味一般は審美感覚論だから、もてなしの程は客体的一貫性へ条件以外の余地たる主の品位を差し挟むいくらもの余白を持っている。論旨の結びからいうと、趣味の合わないもてなしには如何に無条件でも汚らわしさしかおぼえないのでなんの有り難みもない。貧者の一灯という諺は趣味観が心にあること、混同されやすいが奉仕向きのこまやかな精神そのものでさえないことを示す。それは昔風の言い方では魂の問題らしい。先ず以ってよきもてなしは心の限りでなければならない。だからそれはいわゆる絶対帰依の旨を仁の概念と既に深く結んでいる。岡倉のいう譲り合いの心はもっとも分かりやすい心の限りを端的に説明している。茶の湯がこの種の心づかいを啓発した面はたしかにある。成分からくるおちつきは言い争いや格闘よりは穏やかな歓談をより好ませがちだった。しかし茶道のみが心づかいの唯一の道とは念われない。道具に頼っている間その魂は装いである。もてなしのよしあしにはつねにうらみなさや形へのこだわりなさが求められる。もし形のこだわりをもてなし方へ打ち付けたがる風流心の欠けたひとがいても、彼は有り体に感心されはせよ、有り難がられはしない。ここにも程度問題がある。必ずしも歓待がすべての理想をつくる訳ではない。だがただの社交性にみれば、それはもてなしのよしあしではかれる。よき社交性は度重なる印象をよくし、好感をいだかせる。この結果は哲学の上では面白みを意味させるにすぎないが、なお無いよりはましだろう。置かれた社交の条件とは別に、乃ち置かれた取引や交易の関係とはまったく分けて考えてもより面白い性格は、そうでない性格よりも尊ばれるべき。この性格にはよきもてなしの心の基礎が備わっているからで、真昼の唐突な雪のごとくその訪れは別の社交性の持ち主よりも客にとってはまこと有り難い。不躾とは冗談を抜きにすればこころよさが面白みとは違和している習慣づけのこと。以上から、よりよき躾とは心の面白味を鍛えることであると導ける。滑稽味やおかしみは刺激のつよいたちから、不可欠に過度を煽るのでおそらく最善ではない。ここにも中庸の穿ちという実践的善意の限度がある。寧ろ、極端なそれらは面白さか興味深さの部分の形らしい。面白さはもと趣味感覚の鋭敏さからのみ鑑みられる微妙なきもちのゆれなので、見出だそうとすれば普くあるし、無いひとには何もない。教養や演技力と結合することはさらに希で、普通これを才能と呼んで貴ぶ。おもしろさが最良の段階へ高められるとそれは芸術性、或いは芸術味を伴う事柄の風格となる。ところで崇高は芸術の美には及ばないので面白みやもてなしとは関係せぬと公理づけると妥当。自然は我々をもてなすことも楽しませることもとりあえずなく、ただ無条件で広がりをもつ。乃ち神の作品に及ぶものがない限り人為はみなそれを少しずつ恐る恐るも借りてつくりかえ、自らの信じる面白みへ向かって再び玩べるにすぎない。これが本来たえざる息抜きとして活動の重複さへ求まる趣味らしさの意義。このつくりなおし活動は我々にとっての面白みが我々を超越した何者かにとっては愛玩か便利の、おもに興味深い鑑賞を目的とした概念らしいと説き明す。
地球生態学
地球風知覚は感覚原理を人間向けに改めたもの→感覚原理は人間向きの知覚をもたない⇒人間向きの知覚領域は偶々有る補集合∴可塑的←人間感覚は不動¬。
|主観原則が境の抽き出し→可塑∥唯一←地球型惑星確率∴可塑⇒境は主観原則の基。
|主観原則が境の抽き出し→可塑∥唯一←地球型惑星確率∴可塑⇒境は主観原則の基。
生態学
最も原理的に世界の構造を考えれば、それは入れ子状の連鎖で巨視にも微視にも無限階層論をあてう∴世界の中で最も合目的な秩序は、主観原則にとってそう←→無限階層のどこにも秩序はありえない。
主観原則∩感覚原理∪人間原理
感覚原理は主観原則に生物主体の出来映えでかなりの違いを及ぼす→主観に偏り∴無限階層内では主観\秩序しか生物主体の実なし。世界構造の連鎖には、観察範囲の妥当さが主観原則へ認識拡張として求まる已。
感覚原理は無限階層内でとがれた形質が生態秩序内に編み入れた特定の反応環→感覚原理は観察範囲での適応に原因が求まる∴観察範囲が広がればその適応度は変わる∵主観原則は感覚原理の共通部分。主観原則は感覚原理とその和集合たる人間原理による←∃感覚原理¬∩人間原理→主観原則は偏りある∴人間原理は地球型感覚原理の補集合。
人間原理⊂地球型感覚原理∋主観原則
主観原則は地球型感覚原理の共通集合→人間原理は人間主観原理を共通集合に導く。
人間主観原理は一切の感覚をその地球型成分比へとしつける→人間主観原理は感覚の知覚化を地球型にとぐ。可塑的知性はそれが地球型である限り特有の偏りをもつ∧その偏りは人間主観原理の管轄下でのみ淘がれる→知覚は地球風にみられる。|知覚が地球風¬→人間主観原理は唯一不動⇒感覚原理は無い∴矛盾→地球風知覚は真理。
主観原則∩感覚原理∪人間原理
感覚原理は主観原則に生物主体の出来映えでかなりの違いを及ぼす→主観に偏り∴無限階層内では主観\秩序しか生物主体の実なし。世界構造の連鎖には、観察範囲の妥当さが主観原則へ認識拡張として求まる已。
感覚原理は無限階層内でとがれた形質が生態秩序内に編み入れた特定の反応環→感覚原理は観察範囲での適応に原因が求まる∴観察範囲が広がればその適応度は変わる∵主観原則は感覚原理の共通部分。主観原則は感覚原理とその和集合たる人間原理による←∃感覚原理¬∩人間原理→主観原則は偏りある∴人間原理は地球型感覚原理の補集合。
人間原理⊂地球型感覚原理∋主観原則
主観原則は地球型感覚原理の共通集合→人間原理は人間主観原理を共通集合に導く。
人間主観原理は一切の感覚をその地球型成分比へとしつける→人間主観原理は感覚の知覚化を地球型にとぐ。可塑的知性はそれが地球型である限り特有の偏りをもつ∧その偏りは人間主観原理の管轄下でのみ淘がれる→知覚は地球風にみられる。|知覚が地球風¬→人間主観原理は唯一不動⇒感覚原理は無い∴矛盾→地球風知覚は真理。