2010年3月30日

現象論の同時代地平

最も効率のいい流路からのみ自然現象が選ばれるという最小作用の原理は、そう呼んでいいなら淘汰の為の法則、いわば主観作用の原則として現象学野かその類型へあてられるかも。この考え方は決して最小作用のみが自然界へあるのではない、と所謂冗長さの面からいだいている。つまり理想段階の詳細はそこでの一般的な冗長さにとり最小以上の知覚や認識法則を形づける。故この自然知識への、更には法則視された考え方は普通、場のもつ冗長さの条件として崩して使われた何らかの技術へその仕方の幅、様式の巧みを能う。主観作用が法則に合うとみなす秩序についてすらそうなので、我々は現象学がどうして各科学の総合か分析として自然哲学へ求められてきたのかをその文化の定常観へのふやかし面で理解できる。もし主観作用がなくば、法則内ではばらつきへの趣をなくすから。
 要するに、冗長さ自体が文化場或いは間か毎のそれで有用か有徳とされるのは、彼らが世界認識への可塑的で幅広い教養への意欲を伴えばこそ常なのだ。でないと我々はいつか絶対知や至上法則へ辿り着いたというまやかしを知性の孤軍奮闘そのものから拭えなくなる。より単純にいうと、理性という何とでもいいうる領域を既存法則の別枠に保つのは、そこへ別の知性をもちこむのには妙なる条件づけとなる。だからこそ、公理系の母系たる解釈界には現象学野を含む、世界活動の理解の基盤が残されるのだ。発見のみならず反省を既存の知識へあてれば、究極の知恵に思い至らぬ手前でどの個性も畏怖を覚えるのは必定であり、さあればこそ我々の祖先から伝承されくりかえし唱えられてきた幾つもの智恵はその生物としての群生にとり、少なからず地域の、そして多くとも当生態系での基底の役割を続けて行ける。宗教や信仰と道徳神学的理性とがどこかへ社会法則やその絶えざるくみかえの知識と接触や類比を伴うならこそ、哲学からの現象論は原理主義をこえて主張か、最低でも個人単位で主義できる学野や、文学か語学の趣を幾らかでも含む研究課題足り得るであろう。