これは経済学をする者にだけ通じるジョークだが、留保資本型原理主義社会の偉さはその自動化にある。
我々(どこまでが三人称複数に入るかは各自の判断に委ねる)が何もせずとも、この義理が吹き込まれた社会では、望むか否かに関せず他者の思想を借りる人間達の所得選好(その仕組まれた社会場では殆ど大衆本能だ)のため債権が貯まり続ける。
だから留保資本型原理主義社会論は、経済学の義理と見れば最低でもそれが進歩的な思想を任じる人々の間で常識的に機能しつける結果、全く努力なしに(勿論、全ての努力は比較的であり、又仕事量の意味では森羅万象へ平等だ)大衆社会自体の将来への不安感を穴埋めしたがる止まない運動そのものによって我々を養う。
この事実は、現代水準にあたる経済学的思考の能力と機会に恵まれざる大多数の民衆が、所得誘因を保つ限り絶対に法則づけられる。
企業所得の生態金字塔はいうまでもなく上位者の数\獲得所得をそれ自体の利潤規制によって増大させたがる。ゆえ、多くの資源が限定財(自由財でないものをこう呼ぶとする)であるとき、経済社交の界隈に住まう中産層で特段の生態的特徴のない人間達は、確実に彼らよりも富裕な生活者を判り易い目標とする。
つまり現代の先端を歩む経済学徒の意図如何に関わらず、知識欲の充実した生育を確保していない限りで、彼ら大衆一般は留保資本原理のトリックに決して気づけないだろう。その批評的乗り越えには最先端の経済学力以上の知性を先ず獲得せねばならず、彼らの余暇では不可能である。
従って、ここからは真剣な話題に入るが、資本原理主義の本質は実はその労働価値説の利他風な演技上の隠蔽の馴れと抱え込みに於ける正の側面にある。
私はマルクスの追随型信奉者ではないので、資本家の悪知恵(多くは事務的な倫理による)が幾らを労働者らから掠めようとなんら同情はない。この点でアダム・スミスのモラル・センスを疑う。
機械と人間の差異はおもに思想の容量にあるので、その絶対的不足が遺伝子学上にある、ではこの注釈が人類史的に問題あるなら文化学上にも苟もあると仮定すれば、使われる者の幸福も又この無知の程度によっていると考えて何がおかしいのだろうか。
つまり、犬と人の差異は階級か思想間の快楽の質をも大きく違和させつけるが故に、雇用の鎖に繋がれた生涯へ適応して生き延びるのを我々が非難したりそう度々忠告できる訳でもない。自由権は法の下の平等として、我々みなへ機会均等を合理化してきた史実がある。
この考え方は私の思想の功利主義文脈への親和性を孕むかもしれぬ。そしてそれを、いち日本人として拒む理由はない。私の思想上の立場は、質的幸福の概念を認め、しかもその一層の考究を生業とする点でイングランド特有の形而上か倫理哲学派と共通項がたしかに多い。しかし全く同じでもないのは、最大多数への限界的啓蒙を前提としない所にありそうだ。
経済学上にみれば、思うに、搾取はありえない。労働価値説の誤りは、それが多数者の幸福感が質的に高貴であるだろうことを前提とする一種の発狂(やっかみともいう)に由来しているところだ。そんなことは公立学校やいっぱしの繁華街を散歩すればすぐ間違いか偽善者の勘違いだと悟れる筈だ。
人類界は決して強い理想の持ち主たちだけで出来上がっている劇団ではない。彼らの過半数は、常にどうみてもずっと出来のいい生活者への嫉み;ねたみと羨ましさに焦がされ、或いはその実在へさえ想像や興味が及ばない時は無恥の業に焼かれ続ける。
西洋に複数出たまずまず優秀な(相対的にはそう言っていいだろう)経済の学への興味は、我々がこういう人類の悪徳を全く無視して、最良の選良階級でのみ構成された実質的な仮想場を空理空想の対象とすべき、と考えた点でそうなのだ。
寧ろ留保資本主義の理想は、中産階級の本能が想像する迄もなく低俗である必然性を十分な前置きとしている。だから留保資本型の社交規制は常にそれが使用者の考え方を、できたら厳密に定義することによって、蓄えられる資材と交換価値にみた世界貨幣の量とをとある趣味の元にまとめゆくのを好ましく見なす。
最高の快楽は常に精神的なそれだろう。アリストテレスの昔から、人類理性の究極の境地は理想すること、物見高さを最大多数(これはオーストラリアの功利主義学派がいうまでもなく、仏教に於ける慈悲説からも流れ来る一斉衆生へ及ぶ)の幸福を計画企図する事へ求まった。
結局、私の考えでは留保資本型原理主義はやはり仲介を含む産業工程の自動化を進めるが故に重要であるばかりか賢明だ。人類の各国家やそこに含まれる各種生態と通常でも共生し、敢えて使うか可能そうなら導く為にすらそうなのだ。
そうして集められた蓄積した資本は、中産層が集まって自らの行動規律についての自由内選好が誇示か誘惑のために金持ちになりたがるうえ金持ちぶりたがるという物質主義的な俗物さ(ブルジョワ趣味)、最低でも短絡的な思考能力の所以で、どちらにせよ使う側と使われる側の双方にとって望ましい結果を用いる。
それは「富裕さ」という社会条件を築きあげるシステムにすぎないがなお、他の犠牲を伴う社会思想を経由するより遥かに勝って最善なのだ。なぜならこの原理のもとでは、自己責任論の援用によって、努力価格差は他の公的負担費が高い社交界でよりずっと合理化され易いのだから。
即ち、資本原理の貫かれた社会では他の経済界でよりずっと、成金や富豪への嫉妬が少ない。かれらが努力によって獲た所得であるという何よりの証拠があるからだ。稼ぐために(世代間の適度な累進課税が図られたうえでは)資本経営力以外の抜け道がないのだ。
これとは逆に各種の公的負担がのしかかる別の社交界では、いうまでもなく税率取引の差額にぶら下がる幾多もの得体しれぬ徴税役人兼実質的金利生活者やさまざまに法的責任を転嫁した政府税調関係者の土着化が免れず、国家として破産しなければ必ずや封建制固執の中世同然、税循環へ負荷をかける怠け者どもの巣窟となりおおせるだろう。
当たり前のことだが、資本経済下の方が税収もその相対的価格差も対外国との債権についてすら高くなりゆく『富裕連綿の原則』を忘れてはならない。公共サービスの向上の具合すら実質で国民と諸外国に対する債務の程度によっている。