公営カジノを作らせ他人の不幸を飯の種にする寡頭政党(現・自民党)に投票する衆愚の国では、それにふさわしい末路しか来ない。即ち日本が没落していくのは国民一般の公徳が低いからに他ならない。
これと対照的に為替や暗号資産の取引でゼロカット制の不採用、高レバレッジ(これは本来、危険の範囲を限定させ資産防衛や流動性の促進に働く)の禁止によって海外の金融市場より劣悪な条件をつくりだし、金融経済の息の根を止めようとする金融庁がある。自民党員や官僚の金融知識が劣等すぎるのである。
大多数はその種の愚民愚官の間で右往左往している以上、優れた人の集まった海外に雄飛する方が賢明と判断するのも尤もだ。しかし同時に、少数の賢人は正しい道を知っているのだから酷い衰退の中でもより裕福になり、小自治体、自らの企業、家計、あるいは個人の単位で優れた成果を挙げていく筈だ。
2019年5月31日
明治政府を一方的に礼賛するのは愚物の証明
明治政府を成功だといい、元将軍に冤罪をかけたりその冤罪に基づく薩長軍の侵略を防ごうとした公的正義を弾圧した経過、重罪を全く無視して歴史を語る人間は、反証的思考が全くできていないという点で愚物の証明でしかありえない。
幕末の薩長の独断的対外戦争による国費の浪費、薩摩と水戸の間での京都義挙計画の薩長方による裏切りでの関東内乱の誘導、江戸その他でのくり返しの薩長藩によるテロ活動、水長同盟の長州方による裏切りでの倒幕論への転向、小御所会議での徳川慶喜不在のままでの不正採決、西軍による一方的侵略に他ならない戊辰戦争での甚大な人的被害、廃仏毀釈や薩長藩閥による寡頭政治、民主化の抑圧、天皇制ファシズムによる侵略戦争の拡大、国家社会主義による市場自由化の遅れと歪み、西洋の雑多な模倣による伝統的美徳の喪失、中央集権制による各地方での士族反乱への暴力的迫害、華族令や制限選挙権による人権侵害、将軍政治の伝統を破壊し中国・西洋もどきの中華皇帝と議院内閣制を兼ねた変形的体制。無論、欧米植民地主義の模倣による朝鮮その他への侵略戦争での人的・文化的被害。いうまでもないが坂本龍馬は内乱罪や外患誘致罪を犯した死の商人であり、海外の武器商人に媚を売って私腹を肥やし、テロリスト集団を形成し数多の共謀を行い、やくざにのっとられ暴走した地方政府(長州藩)による大量殺人罪を手助けしていた私的暴力団長でしかない。
逆に斉昭の改革、慶応の改革といった御三家・幕府方が近代化を先駆けていた証拠もあれば、全国統一や専守防衛理論で植民地化の危機に目覚めるよう全国を啓蒙したのも水戸藩であり、そもそも開国を始めたのは徳川慶喜である。それどころか皇室を徹底的に守護していたのも全国を戦略的に防衛しようとできるだけ平和的な諸外交を試みたのも彼を含む徳川家や会津藩でしかない。勿論、今日の国会に繋がる諸侯会議を主張し、貴族院(参院)の原型をつくろうとしたのも徳川家である。それどころか象徴天皇制の原型である大義名分論(政府が天皇の職責を代行するべしとする君主無答責の体制理論)をもっていたのも水戸の徳川家である。
ありとあらゆる反対の証拠があるのに明治新政府をもちあげるのは知性自体に疎漏があるからだ。
幕末の薩長の独断的対外戦争による国費の浪費、薩摩と水戸の間での京都義挙計画の薩長方による裏切りでの関東内乱の誘導、江戸その他でのくり返しの薩長藩によるテロ活動、水長同盟の長州方による裏切りでの倒幕論への転向、小御所会議での徳川慶喜不在のままでの不正採決、西軍による一方的侵略に他ならない戊辰戦争での甚大な人的被害、廃仏毀釈や薩長藩閥による寡頭政治、民主化の抑圧、天皇制ファシズムによる侵略戦争の拡大、国家社会主義による市場自由化の遅れと歪み、西洋の雑多な模倣による伝統的美徳の喪失、中央集権制による各地方での士族反乱への暴力的迫害、華族令や制限選挙権による人権侵害、将軍政治の伝統を破壊し中国・西洋もどきの中華皇帝と議院内閣制を兼ねた変形的体制。無論、欧米植民地主義の模倣による朝鮮その他への侵略戦争での人的・文化的被害。いうまでもないが坂本龍馬は内乱罪や外患誘致罪を犯した死の商人であり、海外の武器商人に媚を売って私腹を肥やし、テロリスト集団を形成し数多の共謀を行い、やくざにのっとられ暴走した地方政府(長州藩)による大量殺人罪を手助けしていた私的暴力団長でしかない。
逆に斉昭の改革、慶応の改革といった御三家・幕府方が近代化を先駆けていた証拠もあれば、全国統一や専守防衛理論で植民地化の危機に目覚めるよう全国を啓蒙したのも水戸藩であり、そもそも開国を始めたのは徳川慶喜である。それどころか皇室を徹底的に守護していたのも全国を戦略的に防衛しようとできるだけ平和的な諸外交を試みたのも彼を含む徳川家や会津藩でしかない。勿論、今日の国会に繋がる諸侯会議を主張し、貴族院(参院)の原型をつくろうとしたのも徳川家である。それどころか象徴天皇制の原型である大義名分論(政府が天皇の職責を代行するべしとする君主無答責の体制理論)をもっていたのも水戸の徳川家である。
ありとあらゆる反対の証拠があるのに明治新政府をもちあげるのは知性自体に疎漏があるからだ。
2019年5月30日
資本主義教はただの信仰体系
資本主義信者はこの信仰体系を、嘗ての宗教と全く同じ位置に置いている。彼らは金儲けが正義だと考え、救済を蓄財に置き換え、富豪を教祖にしている。そしてこの教義を否定するあらゆる考えを合理性抜きに、拒否している。
資本主義教を全く疑いきった人が正しく時代を超えているのであり、また変革の先駆けになるだろう。
資本主義教を全く疑いきった人が正しく時代を超えているのであり、また変革の先駆けになるだろう。
マクロ経済は操作できない
政治家も一般人らも、勿論経済学者も投資家もマクロ経済など全く予想も理解もできていないのに、天下国家を語りそれが左右できるかの如くいう。これらはみな当人の思慮不足からきている。本当にできるのは市場を放任すること、今あるか将来起きる公害を防止することくらいで、政府に経済を語らせるのは完全に勘違いでしかないのだ。市場で起きた非効率は市場自身の失敗に過ぎず、政府の失敗ではない。政府は税収をいかに最も恵まれない人の利益の最大化に使うか、調整だけを考えていればいいのであり、そこに金儲けの手伝いを頼むのは全くの勘違いである。
使い古された言い方をすれば計画経済は不可能だ。同じく、マクロ経済は操作できない。政府が下手に市場をいじる結果、新たな非効率を生み出すだけだ。
同じ視点から、独占禁止法が正当なのかについてもきちんと疑い直す必要がある。無論、非正規雇用法がもたらした負の影響、二極化による中産階級の没落も全く計画経済に踏み込んだ小泉政権の詐術を明らかにしている。安倍政権が市場に与えた負の影響として日銀による企業国有化と、生活保護・障害年金の切捨てなどによる格差拡大は、市場の失敗の新たな実例をつくりだしただけだ。
使い古された言い方をすれば計画経済は不可能だ。同じく、マクロ経済は操作できない。政府が下手に市場をいじる結果、新たな非効率を生み出すだけだ。
同じ視点から、独占禁止法が正当なのかについてもきちんと疑い直す必要がある。無論、非正規雇用法がもたらした負の影響、二極化による中産階級の没落も全く計画経済に踏み込んだ小泉政権の詐術を明らかにしている。安倍政権が市場に与えた負の影響として日銀による企業国有化と、生活保護・障害年金の切捨てなどによる格差拡大は、市場の失敗の新たな実例をつくりだしただけだ。
2019年5月29日
文化差が生じる理由
地域Aの人が地域Bの人に不利な負の外部性を伴う思想をもつ場合、その伝播を可及的速やかにすれば地域Bの人は公害防止に動ける。しかし言語の多岐化は翻訳速度差によってこれを遅らせる効果がある。こうして地域間に文化差が生じる。
地域間の利害対立は郷土愛の範囲を限定する。
より公害度の高い自治体は、より公益度の高い自治体より人口増大に不利であり(故に移民を集める)、自集団の悪意の集積として中華思想に耽りがちになる(いわゆる覇権を主張しだす)。こうして地域間の文化差は最終的により公益度の高い自治体のものに含まれる結果になる(王道)。中華思想をもつ自治体は、いわば負の外部性を別の言い方にしているに過ぎない。
地域間の利害対立は郷土愛の範囲を限定する。
より公害度の高い自治体は、より公益度の高い自治体より人口増大に不利であり(故に移民を集める)、自集団の悪意の集積として中華思想に耽りがちになる(いわゆる覇権を主張しだす)。こうして地域間の文化差は最終的により公益度の高い自治体のものに含まれる結果になる(王道)。中華思想をもつ自治体は、いわば負の外部性を別の言い方にしているに過ぎない。
2019年5月28日
老いた投資家
彼の会社の株主が彼に百歳も二百歳も生きて欲しがっているのは、単に自分の金儲けの為だと当の老人が知っていたら、彼はそれを愛と呼ぶのだろうか? 強いていえば実利への愛、pragmaの類かもしれないが、結局この老人は蓄財で実利以外の結果は得られないと示している。
絵の意味
絵に意味がないと威張っている人達は、人生になんの意味があると思っているのか。意味は主観的なものだ。だから絵の無意味さを悟った振りをしていた或る人生が完全に宇宙から忘却されてからも、私の生涯を伝え続ける絵の方により深い意味がある、と後世の人々は読み取るだろう。
自称文化人
今日では情報を摂取するより、有害情報、悪意ある情報をいかに避けるかの方に多大な費用がかかる。この意味で煩雑で無益な下衆が匿名で雲集し、ありとあらゆる害悪をばらまいている都心部に近づくほど、情報公害の度合いは高くなる。
田舎で隠居生活しながら、都内発のマスメディアを見ずにくらすだけでどれだけ幸福になれることか。しかし都民は逆にその様な現代人を後進的なものと見なし差別し、蔑視し、偏見によって貶め、自己正当化の悪徳情報で人類全体を汚染しようというのだ。この種の事例をとりあげても情報化とは適応の仕方次第で以前より不幸を生み出している。
一生の間、都会から流される数多の有害情報を見ずに、平和で穏健に善意の人々に囲まれ、一つの田舎町で生涯を送れればそれが最も幸福に違いない。だが都会人はその様な人を唆し、派手な快楽や浪費をみせつけ悪の道に引き込み、結局は奴隷化して搾取し、場合によっては操り人形にしたてあげ無残にも殺していくのだ。東横や京阪神が、或いは愛知や仙台、福岡が、札幌が、この種の悪業の巣であるのは明白であり、それを「経済」だとか「文化」という本来の意味ではない謎の言葉で矮小化し済ませているのが、東京地方や関西地方で売名中の自称文化人どもである。
田舎で隠居生活しながら、都内発のマスメディアを見ずにくらすだけでどれだけ幸福になれることか。しかし都民は逆にその様な現代人を後進的なものと見なし差別し、蔑視し、偏見によって貶め、自己正当化の悪徳情報で人類全体を汚染しようというのだ。この種の事例をとりあげても情報化とは適応の仕方次第で以前より不幸を生み出している。
一生の間、都会から流される数多の有害情報を見ずに、平和で穏健に善意の人々に囲まれ、一つの田舎町で生涯を送れればそれが最も幸福に違いない。だが都会人はその様な人を唆し、派手な快楽や浪費をみせつけ悪の道に引き込み、結局は奴隷化して搾取し、場合によっては操り人形にしたてあげ無残にも殺していくのだ。東横や京阪神が、或いは愛知や仙台、福岡が、札幌が、この種の悪業の巣であるのは明白であり、それを「経済」だとか「文化」という本来の意味ではない謎の言葉で矮小化し済ませているのが、東京地方や関西地方で売名中の自称文化人どもである。
愚か者に忠告する勿れ
我々は学歴を誇示している人が賢いと勘違いし易いが、現実にはその人の生まれつきの知能が劣っているから化粧を誇示しているのだ。そしてほぼ確実にこの種の人は過ちを指摘されると狼狽し、化粧の濃さを指摘された様な気分になるので、怒ってしまう。つまり忠告してはいけない。単にその人の過ちがもたらす負の影響を賢い他の人々と防止すればよい。
学習効率
何年間も同じ間違いをくり返している様な人物、それを指摘しても直そうとすらしない人物は畏れるに足らない。畏るべきなのは日々激しい勢いで変化し続けながら、しばらく見ないうちに大幅に成長している人で、勿論自分がそうなる必要があるが、これは学習効率によるのだ。
自文化中心主義の国内でよくある例
東京中華思想(京都中華思想。どちらも広義で小中華思想)、薩長史観、英米かぶれ、これらはどれも自文化中心主義の変形。こういった初歩的な誤り、文化多元論、多文化主義、構造主義以前の差別的考え方の愚を犯し、反省しない人物が知識人ぶるのは学閥の権威を乱用しているからだ。
調整を含め経済と呼ぶ
寄付(喜捨)を含めた調整なしに経済(経世済民)を考えるのは、政治なしに市場のみが成立すると考えるのと同じくらい愚かだ。この意味で儲けることしか頭になく、いかに市場全体あるいは人類全体のうち最も恵まれない人々の福祉をますかが眼中にない人は、事の本質を見誤っている。かねは市場の需給をみたす手段でしかなく、もともと自分の地位を誇示する道具ではない。寧ろこの目的、すなわち配分と調整の両方の効率に適う人が、かねをより多く動かすべきであり、単なる配分だけに偏って経済を考えている人が世間にうらまれるとしたら、蓄財のみを行う悪徳の故である。
2019年5月25日
最善さは程度
最善さは程度として生じる。
差別によって自分の地位を上げようとした者は、結局、卑しさによって自分の評判を下げているだけだ。徳と共に地位を得た者しか、真の意味で尊敬を得られない。愚か者は差別することで自ら墓穴を掘る。
倫理的でない者は知識を悪用するばかりで、当人はますます不幸を得るだけだろう。
差別によって自分の地位を上げようとした者は、結局、卑しさによって自分の評判を下げているだけだ。徳と共に地位を得た者しか、真の意味で尊敬を得られない。愚か者は差別することで自ら墓穴を掘る。
倫理的でない者は知識を悪用するばかりで、当人はますます不幸を得るだけだろう。
都会は他人を見下すのを目的にした俗物と悪人にとって好ましい環境
不幸の主因の一つは他人との比較によるねたみであり、人徳者にあっては悪意ある人々の思いやりのなさからくる他害行動だが、そこにもしばしばねたみの解消を目的にした差別、誹謗、攻撃などの迷惑が含まれる。この為、他人との比較が生じ易い都会生活で幸せでいることは先ずできず、脳がねたみを感じなくなるまで壊れないとまともでいられない。
もし都会生活でねたみを全くなくそうとすれば成金になり浪費に耽りながら、中華思想で差別をまきちらす天皇家と配偶するしかなくなるが、このどちらの道も甚だ競争が必要で大抵の人々は敗北し転落するばかりだし、仮に勝者となってもカルト教祖としての天皇からの絶対的差別を受ける一方で、自分を却って惨めにしてしまう。
これら全てを省みて、ゴータマがいうとおり人里離れくらすのが最善なのは先ず疑いない。逆に俗物であれば都塵を好んで住み着くだろう。特に極悪人にとって都心部は最も好都合であり、どんな悪行をしても容易に逃げ出せるので犯罪率が上がるのだ。また彼ら都会人の悪意は確かなのであらゆる嘘をつき他地方の人々を騙し、全てがひたすら自身の利益になるよう情報汚染で洗脳をはかるのだ。
もし都会生活でねたみを全くなくそうとすれば成金になり浪費に耽りながら、中華思想で差別をまきちらす天皇家と配偶するしかなくなるが、このどちらの道も甚だ競争が必要で大抵の人々は敗北し転落するばかりだし、仮に勝者となってもカルト教祖としての天皇からの絶対的差別を受ける一方で、自分を却って惨めにしてしまう。
これら全てを省みて、ゴータマがいうとおり人里離れくらすのが最善なのは先ず疑いない。逆に俗物であれば都塵を好んで住み着くだろう。特に極悪人にとって都心部は最も好都合であり、どんな悪行をしても容易に逃げ出せるので犯罪率が上がるのだ。また彼ら都会人の悪意は確かなのであらゆる嘘をつき他地方の人々を騙し、全てがひたすら自身の利益になるよう情報汚染で洗脳をはかるのだ。
中華思想に耽る都会の文化を無意味にまねるのはただの愚行
アメリカ化された国々は他国を搾取する様になる。
重要なのは自治体単位でしっかりとやっていくことで、東京をまねることではない。なぜなら東京の欠点も甚だ大きいのであり、さも小京都がそうだった様、或いは長安をまねた京都や奈良(平城京)もそうだったが、相手の悪い面も見習ってしまうからだ。
東京は嘗て京都や奈良がそうしていたよう天皇家のもたらす中華思想に耽り、自分の自治体が上位者と勘違いしているが多くの欠点は致命的な次元に至っており、修正できない。特に都会化について回る諸々の都市問題(高い犯罪率、風紀の低落、人口過密からくる住環境悪化など)は将来も解決不能なほど甚だしく、誰も手をつけられない。いいかえれば彼らの思い上がりは京都や奈良が大都会だった時代にいだいていた自己愛的な身内ひいきと無意味な地方差別の焼き直しでしかないし、これは中華皇帝の模倣者である天皇がもたらす意識の歪みで、自らの欠点に目をつぶり長所と思われる自慢の点を大仰にいいふらす確証偏見に繋がる。賢人は常にこの様な誤りの対極にいる筈だ。
アメリカ化はこれと同じ理由でどれかの国を第二のアメリカにするだけで必ずしも何かがよくなる訳ではない。実際、アメリカの欠点と呼べる高い犯罪率、国民一般の低い幸福度、商業化がもたらす低俗な民度、軍産複合体に通じる侵略戦争などは致命的な特性で、冒頭にあげた資本主義化そのものもこの副作用に含まれる。或る商業が集積しているなり政府の立地した地域のもたらす文化を鵜呑みにまねるのは、全くたちの悪い勘違いだ。そして単なる経済構造、政治の状況だけを見てもこのことは変わらないだろう。
重要なのは自治体単位でしっかりとやっていくことで、東京をまねることではない。なぜなら東京の欠点も甚だ大きいのであり、さも小京都がそうだった様、或いは長安をまねた京都や奈良(平城京)もそうだったが、相手の悪い面も見習ってしまうからだ。
東京は嘗て京都や奈良がそうしていたよう天皇家のもたらす中華思想に耽り、自分の自治体が上位者と勘違いしているが多くの欠点は致命的な次元に至っており、修正できない。特に都会化について回る諸々の都市問題(高い犯罪率、風紀の低落、人口過密からくる住環境悪化など)は将来も解決不能なほど甚だしく、誰も手をつけられない。いいかえれば彼らの思い上がりは京都や奈良が大都会だった時代にいだいていた自己愛的な身内ひいきと無意味な地方差別の焼き直しでしかないし、これは中華皇帝の模倣者である天皇がもたらす意識の歪みで、自らの欠点に目をつぶり長所と思われる自慢の点を大仰にいいふらす確証偏見に繋がる。賢人は常にこの様な誤りの対極にいる筈だ。
アメリカ化はこれと同じ理由でどれかの国を第二のアメリカにするだけで必ずしも何かがよくなる訳ではない。実際、アメリカの欠点と呼べる高い犯罪率、国民一般の低い幸福度、商業化がもたらす低俗な民度、軍産複合体に通じる侵略戦争などは致命的な特性で、冒頭にあげた資本主義化そのものもこの副作用に含まれる。或る商業が集積しているなり政府の立地した地域のもたらす文化を鵜呑みにまねるのは、全くたちの悪い勘違いだ。そして単なる経済構造、政治の状況だけを見てもこのことは変わらないだろう。
倫理は技術やかねより上位の価値
技術は利便性をあげるが必ずしも人の幸せに繋がらない。それどころか却って不幸を促しさえする。つまり人生にとっ倫理の方が技術より上位の価値なのだ。同じことは死を免れない全人類にとってかねについてもあたる。商人はこれを知らないと結局、寄付や納税の義務をふやすばかりで過度の暴利を貪り、過労に耽ってしまう。
2019年5月23日
学を悪用する俗物
学問が自然や世界、神の創造を分析し後自然学として倫理を構想する哲学から始まったとしても、それが就職手形だか他人を見下す肩書きだけの為に歪められ、学位をもつ俗物を量産している今日、いかにマイケルスペンスが全人類に公害をもたらしたか計り知れない。裏返せばその種の下賎の徒にまで学問が通俗化して普及したともいえるが、なにしろこの種の乱用は知識そのものを差別の手段にする一方で、誰も幸福にしない。
儒学は人々に公徳で指導的役割を果たす目的のものだったが、これを浅学の平成・令和日本人全般は中国思想といい軽侮しながら、自然科学や工学を拝金目的で私用しようとする一方で、倫理の一切を貶めて恥じていない。つまり現代日本人は学問を悪用する目的しかないのだ。就職手形や肩書きとして他人を差別し、不幸にする目的で学位なり入学歴を得た人々には実際、学と呼ばれる何も与えない方がましだったのだ。
儒学は人々に公徳で指導的役割を果たす目的のものだったが、これを浅学の平成・令和日本人全般は中国思想といい軽侮しながら、自然科学や工学を拝金目的で私用しようとする一方で、倫理の一切を貶めて恥じていない。つまり現代日本人は学問を悪用する目的しかないのだ。就職手形や肩書きとして他人を差別し、不幸にする目的で学位なり入学歴を得た人々には実際、学と呼ばれる何も与えない方がましだったのだ。
資本主義の目的は全人類をできるだけ不幸にすること
現代経済の主要目的は、できるだけ他人を不幸にすることにある。それによって性悪な商人達は自分の相対地位が高いと認知し、嫉妬の解消になるからだ。顕示的消費が彼らの主要な生活動機になっているので、そこには他人をなんとか見下す為の成金根性しかない。つまりこれが拝金主義と呼ばれる彼らの行動原理である。
裏返せば現代経済は発展するほど人類全体を不幸にする。そもそも他人の不幸が己の幸福だとする或る種の悪意が拝金主義者の真意なので、そこで最後に起きるのは全体の破滅である。究極の拝金は全人類を極貧状態で餓死または奴隷化した上で拷問にかけ、彼らに崇拝させた自分ひとりが全人類の全人生を好き勝手に支配することにあるのだから、この様な目的を果たすには独裁者、或いは世襲天皇に生まれ帝国主義的に全世界侵略を果たすしかない。
資本主義は大航海時代に高い危険度の航海に出資を募ったところを起源の一つとすると、人類を奴隷化し、自身の資本を元手に金儲けする目的ではじまったが、この種の商業を正当化する為にカルヴァンが登場し、やがてアメリカ合衆国の独立により決定的世界侵略に口実を与えた。
結局、拝金主義とは資本主義の思想的本質である。資金を有効活用し、需給を満たすという建前は、その中にある付加価値搾取のしくみの言い訳にすぎず、資本家が経営者と彼らに雇われた労働者を通じ、消費者から富を吸い上げる口実なのだ。この究極の形が一度集めた金を虚栄心のため自分名義で寄付に回す偽善である。
拝金主義は全人類をできるだけ不幸にし、自分はできるだけ大きな資本を独占することで羽振りを利かせたいという独裁欲求の変形で、この思想を含む資本主義は多かれ少なかれ人類の幸福度を低下させる為の邪教だといえる。
裏返せば現代経済は発展するほど人類全体を不幸にする。そもそも他人の不幸が己の幸福だとする或る種の悪意が拝金主義者の真意なので、そこで最後に起きるのは全体の破滅である。究極の拝金は全人類を極貧状態で餓死または奴隷化した上で拷問にかけ、彼らに崇拝させた自分ひとりが全人類の全人生を好き勝手に支配することにあるのだから、この様な目的を果たすには独裁者、或いは世襲天皇に生まれ帝国主義的に全世界侵略を果たすしかない。
資本主義は大航海時代に高い危険度の航海に出資を募ったところを起源の一つとすると、人類を奴隷化し、自身の資本を元手に金儲けする目的ではじまったが、この種の商業を正当化する為にカルヴァンが登場し、やがてアメリカ合衆国の独立により決定的世界侵略に口実を与えた。
結局、拝金主義とは資本主義の思想的本質である。資金を有効活用し、需給を満たすという建前は、その中にある付加価値搾取のしくみの言い訳にすぎず、資本家が経営者と彼らに雇われた労働者を通じ、消費者から富を吸い上げる口実なのだ。この究極の形が一度集めた金を虚栄心のため自分名義で寄付に回す偽善である。
拝金主義は全人類をできるだけ不幸にし、自分はできるだけ大きな資本を独占することで羽振りを利かせたいという独裁欲求の変形で、この思想を含む資本主義は多かれ少なかれ人類の幸福度を低下させる為の邪教だといえる。
日本で最善の生き方は引きこもり
国民の殆どが下賎で利己的な金儲けしか目的のない退廃した衆愚であれば、その種の極悪集団と関わらずに済ませるのが最善の生き方に違いない。引きこもりを差別の文脈に置いている「出づっぱり」らは、近い将来、その様な考えを改めない限り無限の不幸を背負い続けるだけだろう。
そもそも仏陀の昔から、俗世に関わりなきよう過ごすのが最善だったのだから現代でもそれは何も変わらない。特に日本のよう国民全体が利己他害を拝金主義・衆愚主義で正当化するよう堕落した国では尚更だ。
インターネットを通じたSNS上のやりとりも、匿名衆愚のたまり場になり易いし、実名であれ悪徳に満ちた人々と接するのは害悪しかない。つまりできる限り有害な他人と接さず、限られた信頼度の高い人とのみ最小限度接するのが、この国で幸福度を高める唯一の解法である。
そもそも仏陀の昔から、俗世に関わりなきよう過ごすのが最善だったのだから現代でもそれは何も変わらない。特に日本のよう国民全体が利己他害を拝金主義・衆愚主義で正当化するよう堕落した国では尚更だ。
インターネットを通じたSNS上のやりとりも、匿名衆愚のたまり場になり易いし、実名であれ悪徳に満ちた人々と接するのは害悪しかない。つまりできる限り有害な他人と接さず、限られた信頼度の高い人とのみ最小限度接するのが、この国で幸福度を高める唯一の解法である。
業の細分化理論
共感性が高い人は、他人が不徳だとさも自分がそうである時の如くつい不満に感じがちだが、性悪やサイコパスたちが本能的にそうしているよう、他人をより不幸にした方が自分に有利だという考えをとりいれることでこの感じ方を自己改良できる。悪徳に満ちた人々をもっと悪の道に陥れるとまではいかずとも、自滅を果てまで辿らせるまで泳がせ、単なる自己防衛のみに気をつけ世渡りすれば安全かつ愉快に俗社会を眺めていられる筈だ。
そしてこの考えによると、我々が共感性をもつに値するのはどちらかといえば性善的な人々、即ち善良な人間に対してに限られるとわかる。
我々が世を憂うのは共感性の対象を普遍化しすぎているからだ。もともと高共感の人が性善的なとき利他性が高いといえるので、この種の人々が巧みに世渡りするには業を単位ごとに分割する必要がある。例えば都会の悪徳を憂う意味はなく、彼らは悪例を示しながら自滅する為の存在なのだ。この世には善徳の地域もあれば善良な人もいるのだから。
そしてこの考えによると、我々が共感性をもつに値するのはどちらかといえば性善的な人々、即ち善良な人間に対してに限られるとわかる。
我々が世を憂うのは共感性の対象を普遍化しすぎているからだ。もともと高共感の人が性善的なとき利他性が高いといえるので、この種の人々が巧みに世渡りするには業を単位ごとに分割する必要がある。例えば都会の悪徳を憂う意味はなく、彼らは悪例を示しながら自滅する為の存在なのだ。この世には善徳の地域もあれば善良な人もいるのだから。
自由市場と高福祉は両立する
自由市場と高税率・高福祉は両立するが、社民政治の概念では自民党の行う国家社会主義政治の様な市場干渉をより悪化させたイメージを日本人民衆に与える。これはGHQと皇室、戦後政府による赤狩りが与えた社会主義一般への負のイメージがそうさせるのだろう。社民政治を福祉政治と言いかえることで、低公徳の民衆は自らの利害に注目するので、自民政治より好感をもつかもしれない。但し労働者(会社員)一般は怠惰とみなした貧民を差別するのが自己正当化のいいわけになっているので、「福祉」にも救貧と反差別の意味をよみとり、違和を感じるかもしれない。
上のことから、日本単位の悪弊になっているのが自民党の堕落した国家社会主義政策だといってまちがいないだろう。政府による市場干渉と、低福祉を兼ねるのはなんといっても最悪の手でしかない。
裏返せば公害に繋がらない限りの自由な市場(例えば堤未果『㈱貧困大国アメリカ』などを参考にすれば、国民の命綱を確保する為の保護農業は例外だろうが)と、高累進税制を通じた最貧者の生活向上を目的とした高福祉の両立が、令和期に必要な善政である。平成時代の自民悪政を否定する必要があるのだ。この自由市場・高福祉を兼ねる立場は最も学術的にいえば社民主義になるが、上述の理由で日本人民衆にそのことは理解できない。つまり彼らに納得させるには別の言葉を使って説明するしかない。しかも自民党を不安や無知から選好しがちな衆愚は単に多数派が群れているからそうする。いいかえれば、日本国全体の公益をはかるには自民悪政がいかに彼ら衆愚に有害かを論いながら、マスコミとネット世論を唆し、同調者がほぼいない状況まで彼らを追い詰める必要があるだけで、そこに論理は必要はない。代替政党がわには自由市場・高福祉の実行という基本原理があれば十分である。
「社会主義」という言葉は多義語で、自民党が現にやってきている賃上げへの圧力とか企業国有化の様な市場干渉が意味として含まれている。羊頭狗肉で自民党は衆愚を騙しているが、要するにこの政党は詐欺を商いにしているのだ。逆に社民党は学術的次元でこの言葉を使っているので衆愚は誤解しかしない。
結局、日本人民衆は政治思想によって投票先を択んでいるのではなく、単に彼らの周囲の人々が群れるだろう対象に雲集する「孤独な群集」でしかない。群集心理で全体ファシズムに群れ、皇室や自民を支持するだけで中身は不安しかない。だからこの群れを操る方法を、公徳をもつ我々がおぼえる必要がある。
ウォーレンバフェットは1994年、ネブラスカ大学の講演で累進消費税を主張している。彼がいうにはこの方法は短期で経済に悪影響を与えるが、長い目でみれば長期で国全体の富をますという。理由はより消費する人はより多く社会を働かせる(社会銀行から出金する)のでより多く手数料を払って当然という。他の累進税制に対し、この軽減税率に加えた累進消費税はますます消費を冷やす様に見えるが、実際には庶民に対する減税措置と同等の効果をもっている。税の調整(再配分)で得た富を庶民ほど生活必需品の消費に回す鼓舞になるからだ。又トリクルダウンが不能な訳も、バフェットは説明済みということだ。
しかし日本人民衆、特に労働者全般にこの様な理論が理解できるだろうか。並みいる経済学者に理解されていないのだが。よい政策を実行するには、新首相がかなり強い権限を独占する必要がある。上述全ての福祉政治も同じである。そこで合意をとろうとするかぎり、再び衆愚政や寡頭政に逆戻りしてしまう。
目下、枝野幸男氏と安倍晋三氏が首相争いをしている状況にせよ、この両者のいずれも聡明さにまさっているとはいいがたい。この場合、期待できるのはなんらかの誤解された政策だけである。我々は明らかに賢慮の高い人物が選出されるまで、絶えず主要政党の党首交代を要求し続けるべきだろう。
上のことから、日本単位の悪弊になっているのが自民党の堕落した国家社会主義政策だといってまちがいないだろう。政府による市場干渉と、低福祉を兼ねるのはなんといっても最悪の手でしかない。
裏返せば公害に繋がらない限りの自由な市場(例えば堤未果『㈱貧困大国アメリカ』などを参考にすれば、国民の命綱を確保する為の保護農業は例外だろうが)と、高累進税制を通じた最貧者の生活向上を目的とした高福祉の両立が、令和期に必要な善政である。平成時代の自民悪政を否定する必要があるのだ。この自由市場・高福祉を兼ねる立場は最も学術的にいえば社民主義になるが、上述の理由で日本人民衆にそのことは理解できない。つまり彼らに納得させるには別の言葉を使って説明するしかない。しかも自民党を不安や無知から選好しがちな衆愚は単に多数派が群れているからそうする。いいかえれば、日本国全体の公益をはかるには自民悪政がいかに彼ら衆愚に有害かを論いながら、マスコミとネット世論を唆し、同調者がほぼいない状況まで彼らを追い詰める必要があるだけで、そこに論理は必要はない。代替政党がわには自由市場・高福祉の実行という基本原理があれば十分である。
「社会主義」という言葉は多義語で、自民党が現にやってきている賃上げへの圧力とか企業国有化の様な市場干渉が意味として含まれている。羊頭狗肉で自民党は衆愚を騙しているが、要するにこの政党は詐欺を商いにしているのだ。逆に社民党は学術的次元でこの言葉を使っているので衆愚は誤解しかしない。
結局、日本人民衆は政治思想によって投票先を択んでいるのではなく、単に彼らの周囲の人々が群れるだろう対象に雲集する「孤独な群集」でしかない。群集心理で全体ファシズムに群れ、皇室や自民を支持するだけで中身は不安しかない。だからこの群れを操る方法を、公徳をもつ我々がおぼえる必要がある。
ウォーレンバフェットは1994年、ネブラスカ大学の講演で累進消費税を主張している。彼がいうにはこの方法は短期で経済に悪影響を与えるが、長い目でみれば長期で国全体の富をますという。理由はより消費する人はより多く社会を働かせる(社会銀行から出金する)のでより多く手数料を払って当然という。他の累進税制に対し、この軽減税率に加えた累進消費税はますます消費を冷やす様に見えるが、実際には庶民に対する減税措置と同等の効果をもっている。税の調整(再配分)で得た富を庶民ほど生活必需品の消費に回す鼓舞になるからだ。又トリクルダウンが不能な訳も、バフェットは説明済みということだ。
しかし日本人民衆、特に労働者全般にこの様な理論が理解できるだろうか。並みいる経済学者に理解されていないのだが。よい政策を実行するには、新首相がかなり強い権限を独占する必要がある。上述全ての福祉政治も同じである。そこで合意をとろうとするかぎり、再び衆愚政や寡頭政に逆戻りしてしまう。
目下、枝野幸男氏と安倍晋三氏が首相争いをしている状況にせよ、この両者のいずれも聡明さにまさっているとはいいがたい。この場合、期待できるのはなんらかの誤解された政策だけである。我々は明らかに賢慮の高い人物が選出されるまで、絶えず主要政党の党首交代を要求し続けるべきだろう。
学ぶ訳
暗愚な人々を観察する限り、彼らの人生に混乱をひきおこしている大きな部分は、当人の愚かさだ。故に人はこの逆側に自分をひっぱることで諸々の自滅をできるだけ避けられる筈だ。
悪徳とは彼らの中に植えつけられた諸々の誤解の集積だといっていい。特に自滅を含む悪徳を私的悪徳、公害をもたらすそれを公的悪徳と分類すると、私的悪徳の原因は自滅的習慣で、その内容はなんらかの愚かさである。
悪徳とは彼らの中に植えつけられた諸々の誤解の集積だといっていい。特に自滅を含む悪徳を私的悪徳、公害をもたらすそれを公的悪徳と分類すると、私的悪徳の原因は自滅的習慣で、その内容はなんらかの愚かさである。
善政と悪政
善政は最も恵まれない人の利益を最大化するもので、既に金持ちな人をさらに恵むのは商売がやる仕事だ。この意味で新自由主義に基づく日銀や年金機構の税金を流用した株価釣り上げ、これに伴う生活保護のきりすて、年金支給年齢を遅らせるといったアベノミクスは世紀の悪政に違いない。
下衆の様子をみないこと
下衆の様子をみないこと。これは最重要な人生訓だ。彼らの生態を知るほど卑しさ、悪徳の下限をみる結果になるが、寧ろ我々が知るべきなのは善徳の上限の方だからだ。
福沢諭吉は海千山千を勧めていたが私はこれが間違いだと経験により悟った。具体的には一部の都民や西日本出身者らの下賎さを見るにつけ無論、連中の生態をしらない方が幸せだったと認識した。ゴータマシッダールタは寧ろ福沢の逆で愚者の言葉を見聞きするなと教訓していた。福沢よりゴータマの見解の方がずっと正しい。
もし世知に価値があるとしてもそれは抽象的なものであるべきだ。理由は愚劣さの具体例にはきりがない上に詳しく知ろうとも限度があるからだ。そもそも愚者の誤り方は千差万別で体系的でも論理的でもなく、その混沌は学びようがなく学ぶ意味もない類いのものである。
福沢諭吉は海千山千を勧めていたが私はこれが間違いだと経験により悟った。具体的には一部の都民や西日本出身者らの下賎さを見るにつけ無論、連中の生態をしらない方が幸せだったと認識した。ゴータマシッダールタは寧ろ福沢の逆で愚者の言葉を見聞きするなと教訓していた。福沢よりゴータマの見解の方がずっと正しい。
もし世知に価値があるとしてもそれは抽象的なものであるべきだ。理由は愚劣さの具体例にはきりがない上に詳しく知ろうとも限度があるからだ。そもそも愚者の誤り方は千差万別で体系的でも論理的でもなく、その混沌は学びようがなく学ぶ意味もない類いのものである。
恥ずべき悪例としての日本人衆愚
愚かな人々は世界の反面教師となる為いる。
安倍晋三氏や自民党、皇室の悪政へ忍従するばかりか彼らの愚かさを一層強調する類の忖度をくり返す衆愚は、確かに世界史へ悪例を示す目的の存在なのだ。同じことは東京や京都といった自治体を構成する人々一般の底しれぬ高慢、或いは彼らに洗脳される日本人全般の小中華思想を主とした差別的思考にもあたる。彼らがどれほど愚劣でも各国民、人類全般は彼らの失敗を避けうる恥ずべき例として語り継ぐであろう。
安倍晋三氏や自民党、皇室の悪政へ忍従するばかりか彼らの愚かさを一層強調する類の忖度をくり返す衆愚は、確かに世界史へ悪例を示す目的の存在なのだ。同じことは東京や京都といった自治体を構成する人々一般の底しれぬ高慢、或いは彼らに洗脳される日本人全般の小中華思想を主とした差別的思考にもあたる。彼らがどれほど愚劣でも各国民、人類全般は彼らの失敗を避けうる恥ずべき例として語り継ぐであろう。
2019年5月22日
資本主義教は誰も救わない
同時代の多数派、又は自分と似た職業の人々がもつ価値観を絶対視なり信仰している人は、過去においてその種の価値観が或る人を制度に縛りつける役割を果たしていたと悟っていない。だから現代商人が「金儲け」を倫理的に合理化しているのは、別の時代、又は別の価値観からみればただの狂信である。
現代商人は自分達が資本主義という搾取体系の中で、金儲けを続ければ自己救済されるという教義を完全に宗教として狂信している。そして彼らはこの考えを他人にも当然の如くおしつけたがるので、彼らの妄想の中では貧富が人格的価値その他におきかえられてしまう。金持ちが神、貧民はごみと彼らはいう。資本主義教を疑義することは現代商人の中では最大の禁忌の一つで、それをした途端、彼らの行いが合理化(言い訳)できなくなるので狂人扱いし、思考の外にこの疑いを排除しようとする。丁度、封建時代の商人らが身分差別を当然視していた様に。
商人達は金儲けの癖で、世間の物に所有権を主張しはじめる。この土地は自分の物だ、この機械は、この音楽は自分の物だと。結果、世界を商人らの傲慢が排他的な悪意で占有しあう。つまり国だ。商人の親玉は軍隊を雇い人殺しをはじめる。それが皇室でありつまりは悪徳商人の権化なのである。
仏教国は確かに、資本主義教に対する最後の防波堤だ。ブータンやチベットがなくなれば我々の世界は商人が『リヴァイアサン』でいう「万人の万人に対する戦い」をくり返す血みどろの収奪戦だけで埋められ、その最終結果は封建制と何も変わらない超少数者か、唯一の大金持ちによる全人類への専制だろう。
生まれつき商才のないだけの人(しばしば他の分野で社会的有益性が極めて高い天才を含む)を、搾取し、見下し、虐げ、自己責任だと罵り、場合によっては社会保障を与えず餓死させ、これが資本主義教だ、とのたまう。一体この種の露悪のどこに尊ばれる理由があるというのか。商人の傲慢に他ならない。生存者バイアスで洗脳し、他人を金儲けに走らせる商人向け啓発書。つまりはここで教義とされているのは搾取を善行と思い込めという典型的な付加価値信仰であり、資本家に都合がいいラットレースの煽りでしかない。
一方それら商人、労働者全体はこの教義の中で一生過ごし死ぬのを名誉と考えている。
資本主義狂信者たちが密集しているアリの巣の様な都心で十年近く過ごした私が見つけたのは、その教義がただの悪意に他ならないという真理だった。「他人をもっと貪ろう」。この教義が欧米人を唆し世界侵略を企てたのであり、東京にやってきた薩長土肥や関西地方の暴力団も同じ野望で地獄を作ったのだ。
私は自分自身を資本主義者にする為に、なるだけ資本主義の有利な点を集め、自分自身をその教義遂行の担い手にするようこの数年間、過労で気を失いかけるくらいの努力を重ねた。その結果得たのは、この教義を信仰できるのは相当の愚物だけだという認識だった。余りに矛盾が多すぎかつ実行不能だからだ。資本主義社会の象徴というべき東京都で暮らし、そこが地獄の如き環境だと悟ってのち、なおもこの教義を改善すればなんとか使い物になるのではないかと果てなき努力をこの数年間私はくり返した。しかし全くそれが不可能であるばかりか、寧ろますます不幸をまきちらす装置が資本主義と分かるだけだった。
現代商人は自分達が資本主義という搾取体系の中で、金儲けを続ければ自己救済されるという教義を完全に宗教として狂信している。そして彼らはこの考えを他人にも当然の如くおしつけたがるので、彼らの妄想の中では貧富が人格的価値その他におきかえられてしまう。金持ちが神、貧民はごみと彼らはいう。資本主義教を疑義することは現代商人の中では最大の禁忌の一つで、それをした途端、彼らの行いが合理化(言い訳)できなくなるので狂人扱いし、思考の外にこの疑いを排除しようとする。丁度、封建時代の商人らが身分差別を当然視していた様に。
商人達は金儲けの癖で、世間の物に所有権を主張しはじめる。この土地は自分の物だ、この機械は、この音楽は自分の物だと。結果、世界を商人らの傲慢が排他的な悪意で占有しあう。つまり国だ。商人の親玉は軍隊を雇い人殺しをはじめる。それが皇室でありつまりは悪徳商人の権化なのである。
仏教国は確かに、資本主義教に対する最後の防波堤だ。ブータンやチベットがなくなれば我々の世界は商人が『リヴァイアサン』でいう「万人の万人に対する戦い」をくり返す血みどろの収奪戦だけで埋められ、その最終結果は封建制と何も変わらない超少数者か、唯一の大金持ちによる全人類への専制だろう。
生まれつき商才のないだけの人(しばしば他の分野で社会的有益性が極めて高い天才を含む)を、搾取し、見下し、虐げ、自己責任だと罵り、場合によっては社会保障を与えず餓死させ、これが資本主義教だ、とのたまう。一体この種の露悪のどこに尊ばれる理由があるというのか。商人の傲慢に他ならない。生存者バイアスで洗脳し、他人を金儲けに走らせる商人向け啓発書。つまりはここで教義とされているのは搾取を善行と思い込めという典型的な付加価値信仰であり、資本家に都合がいいラットレースの煽りでしかない。
一方それら商人、労働者全体はこの教義の中で一生過ごし死ぬのを名誉と考えている。
資本主義狂信者たちが密集しているアリの巣の様な都心で十年近く過ごした私が見つけたのは、その教義がただの悪意に他ならないという真理だった。「他人をもっと貪ろう」。この教義が欧米人を唆し世界侵略を企てたのであり、東京にやってきた薩長土肥や関西地方の暴力団も同じ野望で地獄を作ったのだ。
私は自分自身を資本主義者にする為に、なるだけ資本主義の有利な点を集め、自分自身をその教義遂行の担い手にするようこの数年間、過労で気を失いかけるくらいの努力を重ねた。その結果得たのは、この教義を信仰できるのは相当の愚物だけだという認識だった。余りに矛盾が多すぎかつ実行不能だからだ。資本主義社会の象徴というべき東京都で暮らし、そこが地獄の如き環境だと悟ってのち、なおもこの教義を改善すればなんとか使い物になるのではないかと果てなき努力をこの数年間私はくり返した。しかし全くそれが不可能であるばかりか、寧ろますます不幸をまきちらす装置が資本主義と分かるだけだった。
差別されたら相手が持たないその点を誇る方がよい
差別に合わせて、自分を差別されない風に変えるという間違った反省が世界で一番馬鹿げた行いの一つだともっと早く気づいていれば、私は数多の遠回りをせずに済んだ。なぜなら差別主義者達は見るも穢れる馬鹿者どもであり、連中の悪意以外何の理由もない蛮行に合わせれば自分も堕落するだけだったのだ。
2019年5月21日
私が嘗て見た全差別とそれを恥じる必要について
私が生まれてはじめて「差別」と呼べる代物を見たのは、私が18歳の時、東京都の池袋でだった。
そのとき私は私の高校からの親友と、美術予備校(専修学校、すいどーばた美術学院)にいたのだが、ある静岡出身の男が、当人も静岡方言を使っているにもかかわらず、私と親友の発音を小ばかにする様な文脈に置いた。
その予備校には全国各地から色々な人々が集まっていて、様々な方言が混在していた。私や親友は一応地元で通える中では最も入試偏差値の高い方とされる進学校の出身で、元が愚かな方ではないのか、当時、私はこれは「間違い」の指摘なのだろうかと受けとり、標準語の発音や東京方言に該当する発音を自分から学びとり身につけることになった。親友も何も語らなかったがそうしていた。
しかし関西地方出身者のうち、奈良県出身の講師や、京都府出身の生徒の中には、自分達のなまりを直さず「間違い」のまま使っている人達もいた。この小論の最後に書くが、彼ら関西人達がなぜ標準語・東京方言にあわせないのかについても差別の文脈があるのを知るのはもっとずっと後になってからだった。
次に差別の実例をみたのは、千葉大から東北大の修士課程に進学した、高校の美術部で同級生だった男が、私に「四大卒」がどうのと言ってきた時だった。
この男はいわき市に住んでいたが親は大阪からきた云々と言っている人物で、いわゆる学士とそうでない者を何らかの差別の文脈におきはじめていた。私は家族にその「四大卒」くらいしかいないので、そもそも学士をもっているからなんなのかと感じたが、その男が運転する車の中でだったか、当人がこの言葉をそれ以下の学歴とされる人々(つまり当時の私)を侮辱する文脈に置いていることは明らかだった。
また、10代後半の私はPCを手に入れインターネットに接続したのだが、2chという場所を開き、私に関心があった分野を学ぼうとしたのだが、その中で文学板という場所で、はっきりした在日朝鮮人差別というものを生まれてはじめて目にした。それは京都出身の或る有名小説家らしき男(当人か成りすましか定かではない)の言動だったが、韓国あるいは朝鮮を生まれ又は人種で完全に蔑視する文脈に置き、彼らの文化そのものを日本以下とする一連の言動だった。そして私が観察していた限り、相当数の関西地方人達もそれに協賛していた。
まだ10代後半から20代前半で判断力が未熟だった私は、その有名小説家(現時点で、日本人で世界的に最も有名な小説家だろう)の小説を高校の時から全て読んできていて、多かれ少なかれ模範なのではないかと勘違いしていた。しかも当時の私は10代後半頃から福沢諭吉の研究をしていて自ら古ぼけた福沢全集を通販で買い集め、神田の古本屋街で続福沢全集をみつけたのでこれも全て購入して読み込むといった行動をしており、福沢も『文明論之概略』『脱亜論』等の文脈でほぼ類似のことを言っていたのを知っていた。私は彼ら以外にも夏目漱石や岡倉天心、新渡戸稲造といった思想家らの本にも触れていて、つまり10代後半から20代前半の私は、愛国主義、国粋主義といった思想傾向の先人らの書籍をかなり研究しており、某小説家らしき者の朝鮮差別的言動に一理あるのではないかと思ってしまっていた。
しかしこの後の平成時代、KPOPというものが流入してくるに際し、私に認知的不協和が生じた(「本当にこの人達が生まれや文化で卑しまれるものなのか?」という感じがした)ので考えを改め、韓国や朝鮮の文化、歴史、思想や現時点の状況などを調べ始めた。その結果、全く逆の事実を発見していった。つまり、某有名小説家らしき者(京都出身)をはじめ、関西人の相当数や、福沢諭吉(大分出身)といった朝鮮差別的言動を取っている人達は「弥生民族」の末裔であり、遺伝子的にほぼ同一といえる朝鮮民族の人達と双生であるが故に近親憎悪の様な言動をとっていたのだ、と結論づけられると私は思った。現に韓国・朝鮮文化の中には詩調の様な伝統詩から始まり、万葉仮名の参照元である吏読も先駆で、朱子学者を兼ねる両班階級の文人や哲学者としての知的に高度な世界が展開されていたし、それどころか敗戦後の日本軍に捨てられた日本人らを完全な善意から救っていた実例も見つかった。料理も大変豊富だ。
また私はこの後、SNSというものが発達してくる中で、アメーバピグというSNSを通じ「都鄙差別」の類をはじめて目にした。このSNSの中では全国各地の日本人らが好き勝手な言動をとっているが、その中でも東京都、神奈川県、千葉県、京都府、大阪府、愛知県、静岡県、宮城県、北海道の札幌市といった地域の人々が、東京を上だといい、田舎(私の自治体を含む)を下だといい門地差別的言動をしている場面を頻繁に目にした。
私は10代の頃、自分の生まれ育った常磐圏ではない文化圏、特に都会とされている未知の文化圏への知的好奇心から、東京への大学進学を望んでいたので現実に新宿副都心にある超高層ビルの専門学校・大学に通い、暇さえあれば都内のあちこちを探検し見聞を広めて過ごしていた。
その様な暮らしを10年余り続けて発見したのは、「都会は下衆の集まりだ」という、私がはじめ脳内妄想として持っていた高尚な文化圏というマスメディア等に洗脳されたイメージと正反対の事実だった。犯罪が溢れているばかりではなく、衆愚が自己正当化や恥知らずの自慢に耽りながら何もしらないでいる。上述の都鄙差別の偏見をもつ地域はどこも、ある地方で最大の都会であることに気づくだろうか? いいかえれば自分の土地の人口密度が高いと、どういうわけか、日本人達は無意識に増長し周りの自治体を見下し始める。これの権化が東京や京都で、つまりは天皇の中華思想が模倣先になっているらしいのだ。
またアメーバピグの中で私は様々な海外の人とちょっとした英語で会話する機会に恵まれた。その結果、殆どの外国では差別といったものを日本人ほどしていないが、一部の外国では日本では見当たらない類の激しい人種差別をしている現場をみた。具体的にはイギリスとドイツの人達が次の様なことをいった。
あるイギリス人がいうにはイギリスにお前の様なアジア人がきたところで何の意味もない、所詮アジア人はアジア人だという。しかもお前は中国人か? と悪意ある嘲笑をするのである。
また別の外国人に紹介され、ドイツ人の本物のネオナチと会話する機会があった。ドイツのネオナチはいわば日本でいうネット右翼を何十倍か激しくしたものといっていいだろう。いわゆるアーリア人優越主義みたいなナチス的発想を現役で続けており、当然だがそこからいえば日本人などサルと同じくらいの扱いで、私が第二次大戦で一緒に戦ったじゃないかと説得するも完全に無視された。
その他にも西洋人一般は、ある限度より知的程度が高くなければ総じて中東の人々に人種・文化的な偏見をもっていた。また逆に中東の人々も、私が現場を見た限り、この種の差別に抗う目的でバイキングめなどとやり返していた。そして私がみたフランス人に限っての話だが中国人観光客に迷惑がっていた。
更にはアメリカ人はアメリカ合衆国国外に総じて無関心で、中学生ですらアメリカ英語以外の英語方言を聞くと「変な言葉」などといっていた。またカナダやペルーなどの外国人男性らは、日本人女性を性的搾取の対象としてみている節があり、要は人として見下しているので或る意味では性差別主義者だった。
またこのSNSでは「学歴差別主義者」と呼んでいいだろう人達を頻繁に見た。彼らはどういうわけか関西出身者が多かったが、それは偶然かもしれない。具体的には東大、京大、東北大、そして関西地方の大学を卒業した人達が学歴で人間性まではかれるかの様、彼ら自身に有利になる激しい偏見をもっていた。
これらが私がこれまで全人生でみた全差別の総体だが、私にいえるのは、差別は脳の認知を過度に単純化しすぎることによる利己性の有害な拡張に他ならない。つまり愚かさの一種で、悪徳に該当する。私は自らが幼児の頃からマスメディアや義務教育で差別的偏見を植えつけられていたことに、都内の見聞による反証的事実の数々で気づいてから、寧ろそういった偏見を教え込もうとした都民の貶めていた対象の美質を探り始めた。結果、確かに彼らの貶めていた対象、すなわち田舎の方に優れた点が多かった。私が都内で自分に研究できる全対象を観察後、最上の美質といっていい場所は代々木公園の彰義隊の墓だったが、そこは都民の中では完全に見捨てられ馬鹿にされ忘れ去られ、誰も省みていない風だった。しかし同等以上の精神的遺産は白虎隊とか回天神社とか田舎ではもっと沢山あるしきちんと祭られている。
この小論で私がいわんとしたのは次のことだ。
差別は或る人が自らに都合のいい風に現実を歪めて捉える為の虚構、つまり悪意ある嘘なのだが、これに感染した人々は同様の錯誤をくり返してしまう。自らに植えつけられた差別を解除するには反証的認知を自ら集め、反省し、考えを改めるしかない。
また或る差別観を持っている人は、先ず何より当人が損害する。なぜなら差別が現実逃避の一種に過ぎない以上、事実は彼に不都合な方に動いていくからだ。よって差別はする人自身の悪徳であり、被害者側に原因がなく、いわば差別観を持つ人が墓穴を掘っている状態である。基本的対処は無視がいいのだ。
激しい差別は人権侵害に該当する。「これは区別だ」などの言い訳で差別観を持つ人は自己正当化しがちだが、全く意味を為していない。被害者側の状況が余りに酷い時には、弁護士を通じ裁判所や、時には国連に訴える必要があるだろう。だが差別主義者を避けられるならそれが簡単だということは確かだ。
政府は差別を細かく分類し、全差別についてできるだけ法整備を行い、それに該当する行動を人権侵害とし、何らかの防止策や罰則を設けるべきだ。議員にせよ行政にせよ政府自身が差別観をもっているのもまた事実なので、この為には客観的基準が必要であり、世界中から最上の倫理観の持ち主を招くべきだ。
例えば方言は各国言語に該当し、それらの尊厳と文化多様性は尊重されるべき筈が、明治以後の日本政府は拙速にも標準語教育で東京方言以外を事実上弾圧した。いわば英語帝国主義の東京版をやったわけだ。この様な蛮行を政府が現にしてきている以上、政府に依拠して差別をなくすのは限界がある。
日本政府がお札の顔になんかしたりしている、上述の福沢なんて差別主義の権化みたいな面があったわけだ。『福翁自伝』でハワイ人の王族をどう扱ってるか見たら驚愕する。アメリカ憲法の天賦人権論は彼の中では未来のもので、幕末から明治時代人としては平気で東亜人差別をし、名誉白人気取りだった。福沢の愛国きどりの人種差別が明らかな事実としても、彼の知識輸入業者としての役割が全否定されるまではいかないにせよ、一体なぜその様な思想の持ち主を日本政府が一万円札にしていたか。理由は文科省だか財務省なんてその程度の浅はかな東大卒の官僚がやっている組織なので、浅学なだけである。
或る政府は、国連であれ、構成各国の国民から成る組織にすぎず、つまりは民間人の中身に応じた結果しか現れない。最終的には我々自身が政府よりはるかに高尚で、人権に対する理解も深く、全人類に慈愛をもち接していれば、政府も当然そうなる。差別的考えをもつことを恥じる民間人でなければならない。
そのとき私は私の高校からの親友と、美術予備校(専修学校、すいどーばた美術学院)にいたのだが、ある静岡出身の男が、当人も静岡方言を使っているにもかかわらず、私と親友の発音を小ばかにする様な文脈に置いた。
その予備校には全国各地から色々な人々が集まっていて、様々な方言が混在していた。私や親友は一応地元で通える中では最も入試偏差値の高い方とされる進学校の出身で、元が愚かな方ではないのか、当時、私はこれは「間違い」の指摘なのだろうかと受けとり、標準語の発音や東京方言に該当する発音を自分から学びとり身につけることになった。親友も何も語らなかったがそうしていた。
しかし関西地方出身者のうち、奈良県出身の講師や、京都府出身の生徒の中には、自分達のなまりを直さず「間違い」のまま使っている人達もいた。この小論の最後に書くが、彼ら関西人達がなぜ標準語・東京方言にあわせないのかについても差別の文脈があるのを知るのはもっとずっと後になってからだった。
次に差別の実例をみたのは、千葉大から東北大の修士課程に進学した、高校の美術部で同級生だった男が、私に「四大卒」がどうのと言ってきた時だった。
この男はいわき市に住んでいたが親は大阪からきた云々と言っている人物で、いわゆる学士とそうでない者を何らかの差別の文脈におきはじめていた。私は家族にその「四大卒」くらいしかいないので、そもそも学士をもっているからなんなのかと感じたが、その男が運転する車の中でだったか、当人がこの言葉をそれ以下の学歴とされる人々(つまり当時の私)を侮辱する文脈に置いていることは明らかだった。
また、10代後半の私はPCを手に入れインターネットに接続したのだが、2chという場所を開き、私に関心があった分野を学ぼうとしたのだが、その中で文学板という場所で、はっきりした在日朝鮮人差別というものを生まれてはじめて目にした。それは京都出身の或る有名小説家らしき男(当人か成りすましか定かではない)の言動だったが、韓国あるいは朝鮮を生まれ又は人種で完全に蔑視する文脈に置き、彼らの文化そのものを日本以下とする一連の言動だった。そして私が観察していた限り、相当数の関西地方人達もそれに協賛していた。
まだ10代後半から20代前半で判断力が未熟だった私は、その有名小説家(現時点で、日本人で世界的に最も有名な小説家だろう)の小説を高校の時から全て読んできていて、多かれ少なかれ模範なのではないかと勘違いしていた。しかも当時の私は10代後半頃から福沢諭吉の研究をしていて自ら古ぼけた福沢全集を通販で買い集め、神田の古本屋街で続福沢全集をみつけたのでこれも全て購入して読み込むといった行動をしており、福沢も『文明論之概略』『脱亜論』等の文脈でほぼ類似のことを言っていたのを知っていた。私は彼ら以外にも夏目漱石や岡倉天心、新渡戸稲造といった思想家らの本にも触れていて、つまり10代後半から20代前半の私は、愛国主義、国粋主義といった思想傾向の先人らの書籍をかなり研究しており、某小説家らしき者の朝鮮差別的言動に一理あるのではないかと思ってしまっていた。
しかしこの後の平成時代、KPOPというものが流入してくるに際し、私に認知的不協和が生じた(「本当にこの人達が生まれや文化で卑しまれるものなのか?」という感じがした)ので考えを改め、韓国や朝鮮の文化、歴史、思想や現時点の状況などを調べ始めた。その結果、全く逆の事実を発見していった。つまり、某有名小説家らしき者(京都出身)をはじめ、関西人の相当数や、福沢諭吉(大分出身)といった朝鮮差別的言動を取っている人達は「弥生民族」の末裔であり、遺伝子的にほぼ同一といえる朝鮮民族の人達と双生であるが故に近親憎悪の様な言動をとっていたのだ、と結論づけられると私は思った。現に韓国・朝鮮文化の中には詩調の様な伝統詩から始まり、万葉仮名の参照元である吏読も先駆で、朱子学者を兼ねる両班階級の文人や哲学者としての知的に高度な世界が展開されていたし、それどころか敗戦後の日本軍に捨てられた日本人らを完全な善意から救っていた実例も見つかった。料理も大変豊富だ。
また私はこの後、SNSというものが発達してくる中で、アメーバピグというSNSを通じ「都鄙差別」の類をはじめて目にした。このSNSの中では全国各地の日本人らが好き勝手な言動をとっているが、その中でも東京都、神奈川県、千葉県、京都府、大阪府、愛知県、静岡県、宮城県、北海道の札幌市といった地域の人々が、東京を上だといい、田舎(私の自治体を含む)を下だといい門地差別的言動をしている場面を頻繁に目にした。
私は10代の頃、自分の生まれ育った常磐圏ではない文化圏、特に都会とされている未知の文化圏への知的好奇心から、東京への大学進学を望んでいたので現実に新宿副都心にある超高層ビルの専門学校・大学に通い、暇さえあれば都内のあちこちを探検し見聞を広めて過ごしていた。
その様な暮らしを10年余り続けて発見したのは、「都会は下衆の集まりだ」という、私がはじめ脳内妄想として持っていた高尚な文化圏というマスメディア等に洗脳されたイメージと正反対の事実だった。犯罪が溢れているばかりではなく、衆愚が自己正当化や恥知らずの自慢に耽りながら何もしらないでいる。上述の都鄙差別の偏見をもつ地域はどこも、ある地方で最大の都会であることに気づくだろうか? いいかえれば自分の土地の人口密度が高いと、どういうわけか、日本人達は無意識に増長し周りの自治体を見下し始める。これの権化が東京や京都で、つまりは天皇の中華思想が模倣先になっているらしいのだ。
またアメーバピグの中で私は様々な海外の人とちょっとした英語で会話する機会に恵まれた。その結果、殆どの外国では差別といったものを日本人ほどしていないが、一部の外国では日本では見当たらない類の激しい人種差別をしている現場をみた。具体的にはイギリスとドイツの人達が次の様なことをいった。
あるイギリス人がいうにはイギリスにお前の様なアジア人がきたところで何の意味もない、所詮アジア人はアジア人だという。しかもお前は中国人か? と悪意ある嘲笑をするのである。
また別の外国人に紹介され、ドイツ人の本物のネオナチと会話する機会があった。ドイツのネオナチはいわば日本でいうネット右翼を何十倍か激しくしたものといっていいだろう。いわゆるアーリア人優越主義みたいなナチス的発想を現役で続けており、当然だがそこからいえば日本人などサルと同じくらいの扱いで、私が第二次大戦で一緒に戦ったじゃないかと説得するも完全に無視された。
その他にも西洋人一般は、ある限度より知的程度が高くなければ総じて中東の人々に人種・文化的な偏見をもっていた。また逆に中東の人々も、私が現場を見た限り、この種の差別に抗う目的でバイキングめなどとやり返していた。そして私がみたフランス人に限っての話だが中国人観光客に迷惑がっていた。
更にはアメリカ人はアメリカ合衆国国外に総じて無関心で、中学生ですらアメリカ英語以外の英語方言を聞くと「変な言葉」などといっていた。またカナダやペルーなどの外国人男性らは、日本人女性を性的搾取の対象としてみている節があり、要は人として見下しているので或る意味では性差別主義者だった。
またこのSNSでは「学歴差別主義者」と呼んでいいだろう人達を頻繁に見た。彼らはどういうわけか関西出身者が多かったが、それは偶然かもしれない。具体的には東大、京大、東北大、そして関西地方の大学を卒業した人達が学歴で人間性まではかれるかの様、彼ら自身に有利になる激しい偏見をもっていた。
これらが私がこれまで全人生でみた全差別の総体だが、私にいえるのは、差別は脳の認知を過度に単純化しすぎることによる利己性の有害な拡張に他ならない。つまり愚かさの一種で、悪徳に該当する。私は自らが幼児の頃からマスメディアや義務教育で差別的偏見を植えつけられていたことに、都内の見聞による反証的事実の数々で気づいてから、寧ろそういった偏見を教え込もうとした都民の貶めていた対象の美質を探り始めた。結果、確かに彼らの貶めていた対象、すなわち田舎の方に優れた点が多かった。私が都内で自分に研究できる全対象を観察後、最上の美質といっていい場所は代々木公園の彰義隊の墓だったが、そこは都民の中では完全に見捨てられ馬鹿にされ忘れ去られ、誰も省みていない風だった。しかし同等以上の精神的遺産は白虎隊とか回天神社とか田舎ではもっと沢山あるしきちんと祭られている。
この小論で私がいわんとしたのは次のことだ。
差別は或る人が自らに都合のいい風に現実を歪めて捉える為の虚構、つまり悪意ある嘘なのだが、これに感染した人々は同様の錯誤をくり返してしまう。自らに植えつけられた差別を解除するには反証的認知を自ら集め、反省し、考えを改めるしかない。
また或る差別観を持っている人は、先ず何より当人が損害する。なぜなら差別が現実逃避の一種に過ぎない以上、事実は彼に不都合な方に動いていくからだ。よって差別はする人自身の悪徳であり、被害者側に原因がなく、いわば差別観を持つ人が墓穴を掘っている状態である。基本的対処は無視がいいのだ。
激しい差別は人権侵害に該当する。「これは区別だ」などの言い訳で差別観を持つ人は自己正当化しがちだが、全く意味を為していない。被害者側の状況が余りに酷い時には、弁護士を通じ裁判所や、時には国連に訴える必要があるだろう。だが差別主義者を避けられるならそれが簡単だということは確かだ。
政府は差別を細かく分類し、全差別についてできるだけ法整備を行い、それに該当する行動を人権侵害とし、何らかの防止策や罰則を設けるべきだ。議員にせよ行政にせよ政府自身が差別観をもっているのもまた事実なので、この為には客観的基準が必要であり、世界中から最上の倫理観の持ち主を招くべきだ。
例えば方言は各国言語に該当し、それらの尊厳と文化多様性は尊重されるべき筈が、明治以後の日本政府は拙速にも標準語教育で東京方言以外を事実上弾圧した。いわば英語帝国主義の東京版をやったわけだ。この様な蛮行を政府が現にしてきている以上、政府に依拠して差別をなくすのは限界がある。
日本政府がお札の顔になんかしたりしている、上述の福沢なんて差別主義の権化みたいな面があったわけだ。『福翁自伝』でハワイ人の王族をどう扱ってるか見たら驚愕する。アメリカ憲法の天賦人権論は彼の中では未来のもので、幕末から明治時代人としては平気で東亜人差別をし、名誉白人気取りだった。福沢の愛国きどりの人種差別が明らかな事実としても、彼の知識輸入業者としての役割が全否定されるまではいかないにせよ、一体なぜその様な思想の持ち主を日本政府が一万円札にしていたか。理由は文科省だか財務省なんてその程度の浅はかな東大卒の官僚がやっている組織なので、浅学なだけである。
或る政府は、国連であれ、構成各国の国民から成る組織にすぎず、つまりは民間人の中身に応じた結果しか現れない。最終的には我々自身が政府よりはるかに高尚で、人権に対する理解も深く、全人類に慈愛をもち接していれば、政府も当然そうなる。差別的考えをもつことを恥じる民間人でなければならない。
長期的成功
急成長で成功した人より、ゆっくり成長し成功した人の方が尊ばれ易いのは、アダムスミスが『道徳感情論』でいう観衆の同感によるだけではなく、短期的成功は必ずしも長期的成功を保証していないのに加え、往々にして高収益な行動は高危険を伴うからだ。つまり短期的成功者には偶然そうなったに過ぎない偽物が含まれているが、一生をかけ成功した様な実例をみると、その途中で明らかに努力や失敗にめげなかった挫折からの復帰などがみてとれ、結局その人が運によらず当人の実力であまたの逆境を運命に抗いのりこえてきたとしれるからだ。
右翼一般は社会の反面教師として存在意義がある
或る東京都民の差別主義者の言動を私は或るSNSで観察した。成城出身で仕事場は五反田にあり妻の親族の法律会社勤務、山形の父、北海道の母をもつといっていた子持ちのその男は、「韓国」「田舎」等を差別対象とし頭ごなしにそしり、仕事中SNSで駄弁を弄し怠けながら、不倫相手を常に探していた。この男の脳内をかなりの期間(約3~4年間、できるだけ全言動を追い、思想内容の検証を重ねる)をかけ分析した私は次のことを発見した。
この男はいわゆるIQが低く思考を節約する為に差別的思想を好む。そしてこれは第三者の目には意味不明に映るが当人の脳内では「正義」とほぼ同一の定義である。この男は日常的に韓国全体を「反日」と呼び差別していたが、或る神奈川出身の韓国人女がこの男に媚を売ると喜んで馴れ合っていた。この矛盾の理由は、当男は身持ちの悪い出会い厨(厨の意味は以下に解説あり)で、性欲は利己性に合致するが、反日認定も当人の利己性と同一視されている偏見らしかった。(厨は厨房、つまり中坊、中学生の略でネット俗語では幼稚な奴らといった意味)。この男は他に「田舎(者)」と呼び私を差別してきたが、私は都内に長い間(人生の約半分ほど)住んでいたので、都内でも行動範囲が限られる彼より都内の或る面に詳しかった。つまりこれも上述の「反日」認定と彼の脳内では全く同じ方法論になっている。いいかえれば彼は差別対象を脳内で捏造する。
この男の分析だけを理由にネット右翼全体の脳内構図を直ちに演繹できるとは限らないが、私はこの男の脳をサンプル数1のネット右翼的思考のモデルとしてできるだけ多くの角度から研究していた。彼の基本的思考原理は次のものだ。
1.韓国や田舎、反日などの言葉はネット右翼脳内ではただ攻撃対象へ貼る偏見ラベルに過ぎない
2.彼らは、現実に偏見ラベルを不都合と見なした相手になら誰にでも貼る
3.彼らは、偏見ラベルを事実と無関係に貼る
4.彼らは、偏見ラベルを利己性に従って貼る
こうしてネット右翼の脳は、現実を自分に都合がよいものへ歪曲し認知するべく、認知的不協和を最小化する目的で偏見ラベルを乱用する。これがネット右翼、或いは更に一般化すれば右翼的思考が差別を行う根本的理由である。すなわち科学的反証思考、又は批判的思考の対極にある「信じたいものを信じ、信じたくないものは意識の埒外に置くため汚名を着せる偏見ラベルを貼る」といった利己的妄想、現実歪曲の中に生きているのがネット右翼なるものの脳のしくみなのだ。
この右翼的思考、保守性はゴードンホドソンの中ではより抽象化され一般知能の低さ、又はIQの低さに関わるものと定義されていたが、もう少し詳しく見ると、彼らの脳の潜在容量にとって、世界を無理やり単純化しないと自己の利己的妄想をおびやかす不安になるので、差別という価値づけ方法をとる。右翼的思考の人々は複雑な現実の多様性に混乱をきたす為、自集団又は互恵性が期待できる利己的な同胞(最小単位なら個人で、家族、地域集団、民族、会社、国などと公共化される単位)を他集団から見分けるべく、自動的に差別をしがちだ。差別を法的に禁じると、彼らはこの単純化が使えず苦痛なのだ。
では我々は一体、この右翼的思考をもつ脳(一般化すれば低IQな傾向があるとされるが、相関は因果ではないので、低IQかつ寛容な脳もありうる)の持ち主をどう扱えばいいのかだが、彼らは現実歪曲の中で自ら強化した妄想に生きているので、判断を誤りがちなのが事実である。右翼的思考を持つ脳が飽くまで利己的に行動したがる場合、認知的不協和から生じる不快感と利己性を天秤にかけ、自らに都合がいい方を択ぶことになる。これがなぜ判断を誤り易い(騙され易い)のにこの種の脳をもたらしがちな遺伝子が残っているかの原因と思われる。
いいかえると、右翼脳は反面教師の役割を担う為に、現実に生存しているのだ。彼らは差別の癖で損し易い上に、類似した低IQ傾向の悪徳集団にとどまり易くなる。つまり我々は極端な例を別に、彼らの言動を他山の石とし、誤った自集団ひいきの妄想がどんな結果をもたらすか、社会実験として扱うのがよい。
この男はいわゆるIQが低く思考を節約する為に差別的思想を好む。そしてこれは第三者の目には意味不明に映るが当人の脳内では「正義」とほぼ同一の定義である。この男は日常的に韓国全体を「反日」と呼び差別していたが、或る神奈川出身の韓国人女がこの男に媚を売ると喜んで馴れ合っていた。この矛盾の理由は、当男は身持ちの悪い出会い厨(厨の意味は以下に解説あり)で、性欲は利己性に合致するが、反日認定も当人の利己性と同一視されている偏見らしかった。(厨は厨房、つまり中坊、中学生の略でネット俗語では幼稚な奴らといった意味)。この男は他に「田舎(者)」と呼び私を差別してきたが、私は都内に長い間(人生の約半分ほど)住んでいたので、都内でも行動範囲が限られる彼より都内の或る面に詳しかった。つまりこれも上述の「反日」認定と彼の脳内では全く同じ方法論になっている。いいかえれば彼は差別対象を脳内で捏造する。
この男の分析だけを理由にネット右翼全体の脳内構図を直ちに演繹できるとは限らないが、私はこの男の脳をサンプル数1のネット右翼的思考のモデルとしてできるだけ多くの角度から研究していた。彼の基本的思考原理は次のものだ。
1.韓国や田舎、反日などの言葉はネット右翼脳内ではただ攻撃対象へ貼る偏見ラベルに過ぎない
2.彼らは、現実に偏見ラベルを不都合と見なした相手になら誰にでも貼る
3.彼らは、偏見ラベルを事実と無関係に貼る
4.彼らは、偏見ラベルを利己性に従って貼る
こうしてネット右翼の脳は、現実を自分に都合がよいものへ歪曲し認知するべく、認知的不協和を最小化する目的で偏見ラベルを乱用する。これがネット右翼、或いは更に一般化すれば右翼的思考が差別を行う根本的理由である。すなわち科学的反証思考、又は批判的思考の対極にある「信じたいものを信じ、信じたくないものは意識の埒外に置くため汚名を着せる偏見ラベルを貼る」といった利己的妄想、現実歪曲の中に生きているのがネット右翼なるものの脳のしくみなのだ。
この右翼的思考、保守性はゴードンホドソンの中ではより抽象化され一般知能の低さ、又はIQの低さに関わるものと定義されていたが、もう少し詳しく見ると、彼らの脳の潜在容量にとって、世界を無理やり単純化しないと自己の利己的妄想をおびやかす不安になるので、差別という価値づけ方法をとる。右翼的思考の人々は複雑な現実の多様性に混乱をきたす為、自集団又は互恵性が期待できる利己的な同胞(最小単位なら個人で、家族、地域集団、民族、会社、国などと公共化される単位)を他集団から見分けるべく、自動的に差別をしがちだ。差別を法的に禁じると、彼らはこの単純化が使えず苦痛なのだ。
では我々は一体、この右翼的思考をもつ脳(一般化すれば低IQな傾向があるとされるが、相関は因果ではないので、低IQかつ寛容な脳もありうる)の持ち主をどう扱えばいいのかだが、彼らは現実歪曲の中で自ら強化した妄想に生きているので、判断を誤りがちなのが事実である。右翼的思考を持つ脳が飽くまで利己的に行動したがる場合、認知的不協和から生じる不快感と利己性を天秤にかけ、自らに都合がいい方を択ぶことになる。これがなぜ判断を誤り易い(騙され易い)のにこの種の脳をもたらしがちな遺伝子が残っているかの原因と思われる。
いいかえると、右翼脳は反面教師の役割を担う為に、現実に生存しているのだ。彼らは差別の癖で損し易い上に、類似した低IQ傾向の悪徳集団にとどまり易くなる。つまり我々は極端な例を別に、彼らの言動を他山の石とし、誤った自集団ひいきの妄想がどんな結果をもたらすか、社会実験として扱うのがよい。
皇室廃止は感情的かつ一方的に、しかし建前を使って相手の勇退風に仕立て上げ後腐れなくするべき
心理学のプロスペクト理論(得するより損する方が、より恐れを感じ易い。人は損失回避に動き易い)によれば、皇族が庶民の暮らしをするだけで大変な苦痛や不安を感じる筈です。甘いといわれるかもしれないですが、日本史を省みると、革命じみた時に旧権力者を辱めない方が恨みが残らないと思いますよ。かつて薩長藩閥の人達は、将軍権力から天皇権力へ鞍替えする際、旧将軍や彼の擁護者達を大変悪意をもって辱めてしまいました。何しろ単なるテロ、政権簒奪ですから誠実に政治してきた旧体制には許しがたい蛮行です。彼らは李氏朝鮮へも同じ悪行をしました。それで150年後も国内外に遺恨があります。
皇室を民営化するに際し、建前で「皇室は伝統のある立派なお家柄ですから、財政が厳しい折、どうぞよしなに」みたいに丁重に扱うのと、本音で「この殺人邪教の穀潰し共が、身の程を知り貴様らが搾取し虐げてきた浮浪者未満におちぶれろ」と扱うのとでは、後の世からの新政府の評価が違うと思う。
日本人一般は論理的思考がとても苦手で、子供の頃から議論の訓練を積んでいないどころか論理的に反論されると「喧嘩」と勘違いし感情的反発をする癖があります。彼らは人権上、共和政が必然の帰結という論理を理解も尊重もしていないのです。日本人一般を操作する方法があり、それは情緒的扇動です。都内のマスメディアが日常的に行っている商いの手法であり、自民党ネットサポーターズクラブがネット右翼達を醸成した手口でもあります。GHQも類似方法で日本人全体を洗脳していた証拠(WGIPなど)が幾つかあります。つまり幼稚な国民性です。
皇室廃止にあたっては、論理的反論は、上記の理由でほぼ意味がありません。寧ろ日本人一般は論理的回答を求めると反射的に非難する側に回るか、多数派に群れる癖があり、それは義務教育上、「和」を乱さないことを正義と誤認させられているからです。
よって皇室廃止にあたっては感情的かつ一方的な扇動が得策です。
皇室を民営化するに際し、建前で「皇室は伝統のある立派なお家柄ですから、財政が厳しい折、どうぞよしなに」みたいに丁重に扱うのと、本音で「この殺人邪教の穀潰し共が、身の程を知り貴様らが搾取し虐げてきた浮浪者未満におちぶれろ」と扱うのとでは、後の世からの新政府の評価が違うと思う。
日本人一般は論理的思考がとても苦手で、子供の頃から議論の訓練を積んでいないどころか論理的に反論されると「喧嘩」と勘違いし感情的反発をする癖があります。彼らは人権上、共和政が必然の帰結という論理を理解も尊重もしていないのです。日本人一般を操作する方法があり、それは情緒的扇動です。都内のマスメディアが日常的に行っている商いの手法であり、自民党ネットサポーターズクラブがネット右翼達を醸成した手口でもあります。GHQも類似方法で日本人全体を洗脳していた証拠(WGIPなど)が幾つかあります。つまり幼稚な国民性です。
皇室廃止にあたっては、論理的反論は、上記の理由でほぼ意味がありません。寧ろ日本人一般は論理的回答を求めると反射的に非難する側に回るか、多数派に群れる癖があり、それは義務教育上、「和」を乱さないことを正義と誤認させられているからです。
よって皇室廃止にあたっては感情的かつ一方的な扇動が得策です。
大正デモクラシーは寡頭政治をしていた薩長藩閥や皇族ら旧華族に弾圧された
(なぜ日本では民主主義が芽生えなかったのか、というツイートへ)
大正デモクラシーを薩長藩閥(明治寡頭政治)が皇室共々弾圧しただけ。民衆の権力闘争が、薩長藩閥を主とした明治新政府勢力(旧華族及び皇族の寡頭政治)に負けたから、天皇制ファシズムが継続発展した。つまり民衆が力負けしたに過ぎない。
国連軍(旧連合国軍)が天皇政府を暴力で存続不能にしたので、皇室は保身の為に妥協し民衆政治(democracyが民主主義と訳されている)を採用した。そして天皇統治(君主政治)と民衆政治は対立するものなので、皇室はイギリス王室をモデルに象徴天皇制に納まることで地位を維持しやり過ごそうとした。
神武天皇とされる弥生民族が外国(弥生時代のことなのでこの外国は中国とほぼ同定できる)から移民してくる以前、各地の先住日本人らは民衆政治(多数政治、共和政、democracy)をとっており身分差がなかったことが縄文遺跡の埋葬跡から分かる。要するに天皇一味に民衆が洗脳されているだけ。
大正デモクラシーを薩長藩閥(明治寡頭政治)が皇室共々弾圧しただけ。民衆の権力闘争が、薩長藩閥を主とした明治新政府勢力(旧華族及び皇族の寡頭政治)に負けたから、天皇制ファシズムが継続発展した。つまり民衆が力負けしたに過ぎない。
国連軍(旧連合国軍)が天皇政府を暴力で存続不能にしたので、皇室は保身の為に妥協し民衆政治(democracyが民主主義と訳されている)を採用した。そして天皇統治(君主政治)と民衆政治は対立するものなので、皇室はイギリス王室をモデルに象徴天皇制に納まることで地位を維持しやり過ごそうとした。
神武天皇とされる弥生民族が外国(弥生時代のことなのでこの外国は中国とほぼ同定できる)から移民してくる以前、各地の先住日本人らは民衆政治(多数政治、共和政、democracy)をとっており身分差がなかったことが縄文遺跡の埋葬跡から分かる。要するに天皇一味に民衆が洗脳されているだけ。
武家一般は男女分業だったが決して男尊女卑ではなかった
(「女は三歩下がって着いていけ」が男尊女卑に使われてきたとするネット記事へ)
女は三歩下がって着いていくみたいなのは、寧ろ武家の女性自身が、武士の男性に比べ力のない生まれつきの性別の差を省みて、夫の仕事を内助の功で支えようとした事実から出てきた武家の女性による武家の女性の為の共通の観念で、後から『女大学』等で補強された信念だと思われる。この意味で「男女差別に使われてきた」とするのは、確かに町人の世界ではそういう解釈になってしまうかもしれないが、それは農工商の世界では男女の性別に由来する生まれつきの力差が、近代的武器登場以前の戦闘階級(戦国時代等でのそれ)より小さく男女がほぼ同じ比率で働けたからだと思われる。
新渡戸『武士道』によれば、武士階級の間で家庭における女性の地位は最高のもので、家庭の主として武士の男性より権力をもっていたし、家庭の主として最高度に尊敬されていたという。これが相当正しいとすれば、つまり武家は男女分業体制になっていたわけで、現代商人(会社員、労働者)で共働きが基本になっているからといって、江戸時代当時、武家が男尊女卑だったとはいえない。
女は三歩下がって着いていくみたいなのは、寧ろ武家の女性自身が、武士の男性に比べ力のない生まれつきの性別の差を省みて、夫の仕事を内助の功で支えようとした事実から出てきた武家の女性による武家の女性の為の共通の観念で、後から『女大学』等で補強された信念だと思われる。この意味で「男女差別に使われてきた」とするのは、確かに町人の世界ではそういう解釈になってしまうかもしれないが、それは農工商の世界では男女の性別に由来する生まれつきの力差が、近代的武器登場以前の戦闘階級(戦国時代等でのそれ)より小さく男女がほぼ同じ比率で働けたからだと思われる。
新渡戸『武士道』によれば、武士階級の間で家庭における女性の地位は最高のもので、家庭の主として武士の男性より権力をもっていたし、家庭の主として最高度に尊敬されていたという。これが相当正しいとすれば、つまり武家は男女分業体制になっていたわけで、現代商人(会社員、労働者)で共働きが基本になっているからといって、江戸時代当時、武家が男尊女卑だったとはいえない。
過失と名誉
他人の過失は気にするな。自分が何をしたかのみに注目せよ。
自分の名誉を無視すること。他人が真の名誉に値するかのみに着目せよ。
これらは他人の過失は自分の行動に還元されねば意味がなく、自分の名誉を誇るほど世間はあなたをねたむに過ぎないからだ。しかし他人の真の名誉をそうでない虚飾から見分ける人は、結果、自他に公益である。
自分の名誉を無視すること。他人が真の名誉に値するかのみに着目せよ。
これらは他人の過失は自分の行動に還元されねば意味がなく、自分の名誉を誇るほど世間はあなたをねたむに過ぎないからだ。しかし他人の真の名誉をそうでない虚飾から見分ける人は、結果、自他に公益である。
差別はする側が100%悪くされる側に原因は全くない
或るゆとり世代の人と会話してたら、侮辱表現や差別表現を日常的に友達と使いあってるらしく、ますます私にがっかりさせた。全く本を読まないらしく、基本的な語彙がない。それでそれは侮辱的な意味のある言い回しだよ、意味が間違ってるよと教えてあげても逆切れしてきて、差別してきて説教が無意味。皆私と同じ経験したことないから、私がどれだけがっかりしてるか分からないと思う。未来を悲観せずにいられるのか。日本語が通じない人間が下の世代の殆どだと想像すると、この国は没落することがほぼ間違いない様に見える。
インターネットが愚物に発言権を与えたから、これまでみれなかった都会の差別主義者の一部の醜態が世間にあらわになってるだけなのか。国語が読めない大人がいると誰が想像したろうか。
賢く、道徳的で、尊敬できるゆとり世代を探さないと。東洋大学の某活動家くらいだ、立派な志をもっていた若者だ。今どうしているだろう。
孤独を深める為のSNS。不幸さを増す為のSNS。アメリカのIT企業が広告費でカネを儲ける為のSNS。時間を浪費する為のSNS。ろくでもない下衆に絡まれうんざりする為のSNS。匿名の極悪人達が日本語で誹謗や揚げ足とりをする為のSNS。すばらしいSNSは一体どこにあるのか。嘗て1度もみたことがない。
日本人全般、特に東京都民や神奈川県民、愛知県民、大阪府民、京都府民、仙台市民、札幌市民あたりは日常的に地域差別、田舎差別、都鄙差別をまきちらしていた。一体彼らは都会の何が高貴だと狂信していたのだろう。犯罪率が高く犯罪者数も多い地域でより善良で賢明な人々を差別する目的は何か。日本国は差別の塊ではないか? 東京都のテレビだの報道だのが一体どれほど卑しい地域差別、田舎差別を日々金儲けを兼ねてまきちらしていることか。勿論それら全てが悪意ある虚偽の中傷に他ならなかった。現実に犯罪三昧しているのは東京都のマスメディアの方だった。洗脳された衆愚が悪意に感染した。この国民はどういうわけか民衆政治を民主主義と訳しその政治思想を正義と思い込んでいる。GHQに洗脳されたのだろう。彼らの現実をみるにつけ、下級階級だった町人らの卑しさの延長上で、下衆極まりない蛮行三昧しているのがよくわかる。東京商人の傲慢ぶりを見よ。一体彼らに正義があるというのか。下賎極まる猥褻漫画、強姦だか児童ポルノだかに該当する漫画絵に何万人もツイッター上でたかっている日本人とやら。彼らが立派な絵画に一瞥もくれないのは彼らが卑しいから以外の理由があるだろうか? そしてそんな下衆が民主主義といい、邪教祖万歳といいながら立派な政治ができるとでも思うのか。
勿論、私も共和政を実現してほしいと思っている。だがそれは私が政治的に冷遇されない為だし、私より立派な政治思想の持ち主がみあたらないからだ。私より偉大な政治思想の持ち主がいたら、その人に全てを任せてしまえばいいのだし、私としてもそれを望んでいる。しかし民衆に何ができよう。
「あなたは無能なのです。なぜならあなたは一般大衆が望む低俗極まりない無価値に等しいモノを生み出しそれを市場に出せないからですよ。金儲けできなければ存在自体が無意味、それがこの日本の秩序なのですよ。カネが全てですからね。芸術? 知らないなあ。アニメと漫画はまだなのですか?」
「村上隆さんを知ってらっしゃいますか? ええ、彼のおかげで漫画アニメが大義名分を得て、今では外人オタクも夢中でサブカルチャーをほめちぎってます。低俗さこそカネ儲けですので。衆愚? なんのことですか? 民主主義と呼んでいただいていいですか? カネにならないモノはごみなのです!」
「あなたのしていることはそこらのコンビニで言われたとおりに業務遂行するAIより遙かに価値がない。AIじゃなくて奴隷でしたっけ。どっちにしても同じです。定型作業より価値がない。なぜなら日本に美術の造詣なんてないからですよ。紛い物の国に生まれて嬉しいですか? わはは。お金モウケマショウ」
「ああ商人に生まれて幸せだなあ。とにかくカネ儲けは楽しい! 朝から晩までカネをどうやったら儲けられるか考え、お客様の為、株主様の為と念仏の様に唱え、商品サービスを提供させていただく。ええ、金儲けですよ。楽しいどす。だから儲かりまっかで大満足どすえ。え? 芸術家。しりまへんなあ」
メンタリスト「商売しろ」
ユーチューバー「商売しろ」
投資家「商売しろ」
俗物「商売しろ」
天皇「商売しろ。納税しろ」
アニメーター「商売しろ」
衆愚「商売しろ」
僕「嫌だ。絶対にやらない」
日本人全員「商売しないやつは死あるのみ! 生活保護は与えない!」
女「で、カネは?」
政府「カネ」
労働者「絵なんていらねえよw いいからカネもってこいよ! そうカネカネ。カネが全てだから。カネかポルノかマンガ。アニメ。わかった? 頭使いたくないから。で? カネ。カネは? 労働しろよw」
経営者「で、カネは? カネくれ」
首相「カネを払わないやつは生活保護与えないので。浮浪者で」
渋沢栄一「論語使って金儲けしたら?」
福沢諭吉「逐円の日本男児は和歌なんて詠むな」
鎌倉出身のサイコパス女「ほんで。カネはどした?」
僕「いや、私は金儲けが嫌いなんだ」
全日本人「金儲けしないやつは無職ニートだから。自殺しようが生活保護は与えない」
東京商人「金儲けたのすいいゲヘヘ」
京都の俗坊主「カネとりますえ」
神道の神主「賽銭はここへ」
創価学会員「聖教新聞です」
東京の下宿に来たエホバの商人「あそこの浮浪者助けるより韓国女信者に発情してる方が楽しいじゃんね?」
僕「金儲け嫌いなので」
全日本人「だ~から~。カネ儲けの国なの、ここは。下衆の国なの」
僕「は?」
労働者「会社員はな、時給か月給でいわれたとおり動いてりゃいいんだわ。それでカネもらえりゃ大満足して、お前みたいな貧民見下してりゃ偉いんだわ。定職に就き何も考えずに生きて死ぬ。奴隷階級? 知るがな。社畜で十分。公僕万歳だわ。天皇陛下万歳三唱だわ。大ファシストだわ」
僕「金儲け嫌い」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいすか」
僕「お金ないので払えません」
NHK「テレビあるでしょ?」
僕「NHKつけてないのですが」
NHK「カネ払わないと違法なんで。何度でもきますよ」
僕「ないものは払えないのだが」
NHK「あるでしょ?」
僕「餓死の可能性がですか?」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいですか?」
僕「んじゃ払うけど、これは私の老いた父母の年金ですよ? 私は金儲けの能力が皆無なので朝から晩まで仕事しても1円も儲かりませんので」
NHK「まいどありい」
神「王子よ、お前はなぜ金儲けを拒むのか」
僕「新渡戸稲造がそう教えました」
神「王子よ、それは真理なのか」
僕「はい」
神「王子よ、お前の耳と目を奪うがいいな?」
僕「いや、よくはないが」
神「王子よ、マザー2知らない人のが多いぞ」
僕「金儲けしない」
神「王子よ、死は恐ろしいか?」
僕「いいや全く」
神「王子よ、金儲けすれば永遠の生をやろう」
僕「いらない」
神「王子よ、溢れるばかりの財宝と無数の美女をはべらせてやろう」
僕「……」
神「王子よ、この世にある限りの快楽をやろう」
僕「……」
神「王子よ、商売するのだ」
僕「はいしない」
仏「商売すれば?」
僕「そもそもやってもできない」
仏「苦手でもやれば?」
僕「やってるが無理」
仏「下衆が憎いか?」
僕「どうでもいいな」
仏「中道は見つかったか?」
僕「無欲なら昔から」
仏「この国を捨てたらどうだ?」
僕「それすらいらない」
仏「俗人が多いだろう?」
僕「虚無です」
記者「男女差別するなよ」
僕「寧ろ女性のがいいじゃん」
記者「アーティストは性差別主義者なんだよ!」
僕「だから、女性のがいいじゃん」
記者「女性のがいいとは?」
僕「男性より女性のが美しいのでは?」
記者「何が?」
僕「見た目?」
記者「中身じゃなくて?」
僕「優しい女性もいますよ」
ジョブズ「本物の芸術家は出荷する」
僕「お前はアーティストじゃないだろう」
ジョブズ「お前とは失礼な」
僕「ソクラテスとの午後のひと時は楽しいか」
ジョブズ「iPhone4sの調子はどうだ」
僕「中古で3千円だった」
ジョブズ「俺の遺作だぞ」
僕「お前は商人だが、俺がこれ用の壁紙描いてやった」
本田「YOU LOSE」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。何かが見えてくるはずです。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「YOU WIN」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「やるやん。明日は俺にリベンジさせて。では、どうぞ」
Q.なぜあなたは人が嫌いですか。
A.彼らが悪徳まみれで酷く愚かだからです。
Q.彼らの望むことが分からないと?
A.勿論。
Q.下衆の気持ちが?
A.先ず下衆以外みたことないです。
Q.立派な人達を探していましたか?
A.ほぼ見つかりませんでした。
Q.今後は?
A.諦めます。
商売人「他人を搾取するだけの簡単なお仕事です」
僕「やりません」
商売人「貧乏人には何もやらない」
僕「そうですか」
商売人「金持ち様には無限に奉仕します」
僕「はい」
商売人「対価を得る為に働くのです」
僕「なぜ無償じゃないの?」
商売人「カネがほしいからです」
僕「利己ですね」
差別は醜悪だ。そして差別するやつは馬鹿だ。
南関東人はほぼ例外なく「田舎」、又は茨城県を差別している。つまり南関東人らは本物の差別主義集団、人権侵害集団で我々及び人類共通の天敵なのだ。関西人は南関東人を煽り首都圏に内乱を起こし痛快がっているが、東京・神奈川・千葉・埼玉くんだりの人間達は差別主義を狂信し自滅の道を辿っていく。南関人一般が中華思想に耽るのは彼らが暗愚だから、悪意だから、これら以外の理由はない。つまり極悪人衆愚なのである。しかし差別主義者が反省力を持つ可能性など殆どないので、いってみれば彼ら南関人一般を救う方法はない。集団になって商売し、南関東に密集し、自慢と差別をまきちらす。原発を「田舎」におしつけ、下らない偏見で茨城県民を侮辱し、あまつさえ何一つ反省しない。その様な差別主義の南関人一般を人道はどう処理すべきなのだろう? 無視し、ひたすら蛮行を続けさせるべきなのか。天罰を下すべきなのか。日本政府は南関人に群れ差別のまきちらしに加担している。かつて、いや今も京都市民が全国に対してやっていた中華思想の焼き直し。差別主義により日本人全般を侮辱する。邪悪な皇室。
南関東の哀れな差別主義者ども、皇室と名乗る邪教祖を担いで人道を汚す邪教祖ともども、偏見の井戸の底で死に絶える。
我らは広い世界を見て生きよう。下衆は下衆の間で死ぬのだ。差別という網に囚われ永久に知らない外の世界を我らは楽しもう。
日本人全般は私が都内に暮らしていると全く無意味にもちあげてきた。日本人全般ほど脳内が差別でできている人達がどこかにいるとは思えないのだが。なぜ東京都内に住所があるだけでもちあげてくるのか? そして地元にもどると途端に差別をはじめるのか。日本人全般ほど卑しい差別主義者がこの世にいるとは全く思えない。特に南関東人全般の傲慢はすさまじいものだ。日本人全般に田舎差別主義が当然視されている以上この国民は極悪人だと断定できる。なぜなら私が暮らした限り本当に卑しい人達、すなわち犯罪者集団は都会の方に遙かに多かったのだから。勿論、知的教養の不足、品性下劣さも都会人全般の方が激しかった。それ故に都会人の方が中華思想に耽るのだ。
皇室と自称する極悪邪教祖が諸悪の根源なのは疑う余地がないが、その次は東京都民、京都市民、大阪府民一般に潜む地域差別主義集団が天敵になるであろう。
学歴差別主義者というのも実にたちが悪い。往々にして生得知能が明らかに低い下衆が後天的にその地頭の悪さを補う為にがり勉し、自分を有利にする為に学歴差別をまきちらしているものだ。都会で自己をもちあげながら差別や偏見をまきちらす。それに騙された衆愚が差別や偏見を更にまきちらす。これが天皇制の基本現象であり、ただの愚行だ。この上にこの種の差別はついに人種差別にいたり、都会人と称する極悪犯罪集団が大量殺人をはじめる。帝国主義とはまさに差別の犯罪だ。
毎日満員電車地獄、搾取地獄、狭小住宅の最悪の環境である東京都に暮らしながらその最悪さを嘘で隠す為に自慢する。逆に恵まれた住環境、居心地のよい自然に囲まれ、平和極まりない広く快適な田舎、茨城県を差別する。東京都民は悪意のみで極悪都内マスコミと日本人全体を洗脳し、国中を汚染している。
一体私が見た真実をなぜ語らずにおけようか。東京都民が極悪行為をしていることを。善良な田舎の人達をだましていることを。嘘をついていることを。
東京から全国民を搾取し、差別と原発をまきちらし、偏見報道で田舎を貶める。これだけのことに騙されている全国民。なんと卑しい皇室制度か。中華思想の為だけに邪教で自己神格化するとはどれほど悪意を極めたらできるのか。暴力団を独裁し、善良な人類を大量殺人してきた天皇史と洗脳された衆愚。
東京が奈良や京都のよう荒廃し、滅亡することもまた疑い得ない。悪徳の巣、邪教のすみか、全国民を騙し、何もかもを搾取する為の悪業の地。犯罪者の巣窟になって当然だ。悪意でなければ中華思想で差別等まきちらしえないのだから。
差別はする側のみに100%の原因がありされる側には何一つとして落ち度がないものだ。つまり南関人全般が100%悪いのだ。皇室だか衆愚だかと群れ、卑しい偏見をまきちらしている。理由は彼らが暗愚だから、悪意だから以外なにもないのだ。
差別と戦う意味がわからない。差別する側のみが悪いのだから、される側はひたすら善徳を高めているに過ぎないのに。
卑しい人と接さなければ幸福でいられる。
1.カネを貪り
2.差別をまきちらす
3.犯罪を行い
4.侵略殺戮する
これが南関人が関西人と共に天皇制として行っている帝国主義の全貌だ。神道はなにも進歩がないのだ。
商売する、東京が搾取する、東京や京都から天皇中華思想で田舎差別をまきちらす、天皇が警察の暴力で税をまきあげる、全国民を奴隷化する、都内から偏見報道で全国を地方扱いし門地差別・人種差別する、外国人を人種・民族差別する、商業・軍事侵略し地獄的都塵を拡大する、原発汚染をまきちらす。皇室、日本政府、東京都、京都市、奈良市。中華思想で全国民を差別しながら搾取する邪教が住み着き、洗脳された衆愚が華夷秩序を主張しながら偏見をまきちらし、カネを貪り、侵略しながら犯罪を正当化する。天皇が消滅したら彼らは反省するのか? 己の犯している邪悪な傲慢の罪を。搾取と汚染の罪を。
私は実に善良な世界で育ったと知らずにいたものだ、東京都や神奈川県、千葉県という極悪の差別主義者達が悪意ある偏見をまきちらし衆愚を洗脳する世界を知るまでは。そしてその南関東の中枢にいたのが邪教祖で、悪徳商人達がやつの為に金を貪り原発汚染をばらまいていると知るまでは。資本主義者は蓄財によって偏見や差別を強化する。それだから東京港区から全国民、特に田舎と見なした地域を門地差別しているのである。
悪意ある人類は不幸をまきちらしているに過ぎない。そして彼らはその時点で哀れむに足る人々だ。勿論、他人を身分差別する目的しかない皇室も、労働者を搾取する目的しかない資本家も、南関東地方や京阪地方から全国民を傲慢にも蔑視している衆愚も。卑しい人達は人道そのものを知らないのだ。
インターネットが愚物に発言権を与えたから、これまでみれなかった都会の差別主義者の一部の醜態が世間にあらわになってるだけなのか。国語が読めない大人がいると誰が想像したろうか。
賢く、道徳的で、尊敬できるゆとり世代を探さないと。東洋大学の某活動家くらいだ、立派な志をもっていた若者だ。今どうしているだろう。
孤独を深める為のSNS。不幸さを増す為のSNS。アメリカのIT企業が広告費でカネを儲ける為のSNS。時間を浪費する為のSNS。ろくでもない下衆に絡まれうんざりする為のSNS。匿名の極悪人達が日本語で誹謗や揚げ足とりをする為のSNS。すばらしいSNSは一体どこにあるのか。嘗て1度もみたことがない。
日本人全般、特に東京都民や神奈川県民、愛知県民、大阪府民、京都府民、仙台市民、札幌市民あたりは日常的に地域差別、田舎差別、都鄙差別をまきちらしていた。一体彼らは都会の何が高貴だと狂信していたのだろう。犯罪率が高く犯罪者数も多い地域でより善良で賢明な人々を差別する目的は何か。日本国は差別の塊ではないか? 東京都のテレビだの報道だのが一体どれほど卑しい地域差別、田舎差別を日々金儲けを兼ねてまきちらしていることか。勿論それら全てが悪意ある虚偽の中傷に他ならなかった。現実に犯罪三昧しているのは東京都のマスメディアの方だった。洗脳された衆愚が悪意に感染した。この国民はどういうわけか民衆政治を民主主義と訳しその政治思想を正義と思い込んでいる。GHQに洗脳されたのだろう。彼らの現実をみるにつけ、下級階級だった町人らの卑しさの延長上で、下衆極まりない蛮行三昧しているのがよくわかる。東京商人の傲慢ぶりを見よ。一体彼らに正義があるというのか。下賎極まる猥褻漫画、強姦だか児童ポルノだかに該当する漫画絵に何万人もツイッター上でたかっている日本人とやら。彼らが立派な絵画に一瞥もくれないのは彼らが卑しいから以外の理由があるだろうか? そしてそんな下衆が民主主義といい、邪教祖万歳といいながら立派な政治ができるとでも思うのか。
勿論、私も共和政を実現してほしいと思っている。だがそれは私が政治的に冷遇されない為だし、私より立派な政治思想の持ち主がみあたらないからだ。私より偉大な政治思想の持ち主がいたら、その人に全てを任せてしまえばいいのだし、私としてもそれを望んでいる。しかし民衆に何ができよう。
「あなたは無能なのです。なぜならあなたは一般大衆が望む低俗極まりない無価値に等しいモノを生み出しそれを市場に出せないからですよ。金儲けできなければ存在自体が無意味、それがこの日本の秩序なのですよ。カネが全てですからね。芸術? 知らないなあ。アニメと漫画はまだなのですか?」
「村上隆さんを知ってらっしゃいますか? ええ、彼のおかげで漫画アニメが大義名分を得て、今では外人オタクも夢中でサブカルチャーをほめちぎってます。低俗さこそカネ儲けですので。衆愚? なんのことですか? 民主主義と呼んでいただいていいですか? カネにならないモノはごみなのです!」
「あなたのしていることはそこらのコンビニで言われたとおりに業務遂行するAIより遙かに価値がない。AIじゃなくて奴隷でしたっけ。どっちにしても同じです。定型作業より価値がない。なぜなら日本に美術の造詣なんてないからですよ。紛い物の国に生まれて嬉しいですか? わはは。お金モウケマショウ」
「ああ商人に生まれて幸せだなあ。とにかくカネ儲けは楽しい! 朝から晩までカネをどうやったら儲けられるか考え、お客様の為、株主様の為と念仏の様に唱え、商品サービスを提供させていただく。ええ、金儲けですよ。楽しいどす。だから儲かりまっかで大満足どすえ。え? 芸術家。しりまへんなあ」
メンタリスト「商売しろ」
ユーチューバー「商売しろ」
投資家「商売しろ」
俗物「商売しろ」
天皇「商売しろ。納税しろ」
アニメーター「商売しろ」
衆愚「商売しろ」
僕「嫌だ。絶対にやらない」
日本人全員「商売しないやつは死あるのみ! 生活保護は与えない!」
女「で、カネは?」
政府「カネ」
労働者「絵なんていらねえよw いいからカネもってこいよ! そうカネカネ。カネが全てだから。カネかポルノかマンガ。アニメ。わかった? 頭使いたくないから。で? カネ。カネは? 労働しろよw」
経営者「で、カネは? カネくれ」
首相「カネを払わないやつは生活保護与えないので。浮浪者で」
渋沢栄一「論語使って金儲けしたら?」
福沢諭吉「逐円の日本男児は和歌なんて詠むな」
鎌倉出身のサイコパス女「ほんで。カネはどした?」
僕「いや、私は金儲けが嫌いなんだ」
全日本人「金儲けしないやつは無職ニートだから。自殺しようが生活保護は与えない」
東京商人「金儲けたのすいいゲヘヘ」
京都の俗坊主「カネとりますえ」
神道の神主「賽銭はここへ」
創価学会員「聖教新聞です」
東京の下宿に来たエホバの商人「あそこの浮浪者助けるより韓国女信者に発情してる方が楽しいじゃんね?」
僕「金儲け嫌いなので」
全日本人「だ~から~。カネ儲けの国なの、ここは。下衆の国なの」
僕「は?」
労働者「会社員はな、時給か月給でいわれたとおり動いてりゃいいんだわ。それでカネもらえりゃ大満足して、お前みたいな貧民見下してりゃ偉いんだわ。定職に就き何も考えずに生きて死ぬ。奴隷階級? 知るがな。社畜で十分。公僕万歳だわ。天皇陛下万歳三唱だわ。大ファシストだわ」
僕「金儲け嫌い」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいすか」
僕「お金ないので払えません」
NHK「テレビあるでしょ?」
僕「NHKつけてないのですが」
NHK「カネ払わないと違法なんで。何度でもきますよ」
僕「ないものは払えないのだが」
NHK「あるでしょ?」
僕「餓死の可能性がですか?」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいですか?」
僕「んじゃ払うけど、これは私の老いた父母の年金ですよ? 私は金儲けの能力が皆無なので朝から晩まで仕事しても1円も儲かりませんので」
NHK「まいどありい」
神「王子よ、お前はなぜ金儲けを拒むのか」
僕「新渡戸稲造がそう教えました」
神「王子よ、それは真理なのか」
僕「はい」
神「王子よ、お前の耳と目を奪うがいいな?」
僕「いや、よくはないが」
神「王子よ、マザー2知らない人のが多いぞ」
僕「金儲けしない」
神「王子よ、死は恐ろしいか?」
僕「いいや全く」
神「王子よ、金儲けすれば永遠の生をやろう」
僕「いらない」
神「王子よ、溢れるばかりの財宝と無数の美女をはべらせてやろう」
僕「……」
神「王子よ、この世にある限りの快楽をやろう」
僕「……」
神「王子よ、商売するのだ」
僕「はいしない」
仏「商売すれば?」
僕「そもそもやってもできない」
仏「苦手でもやれば?」
僕「やってるが無理」
仏「下衆が憎いか?」
僕「どうでもいいな」
仏「中道は見つかったか?」
僕「無欲なら昔から」
仏「この国を捨てたらどうだ?」
僕「それすらいらない」
仏「俗人が多いだろう?」
僕「虚無です」
記者「男女差別するなよ」
僕「寧ろ女性のがいいじゃん」
記者「アーティストは性差別主義者なんだよ!」
僕「だから、女性のがいいじゃん」
記者「女性のがいいとは?」
僕「男性より女性のが美しいのでは?」
記者「何が?」
僕「見た目?」
記者「中身じゃなくて?」
僕「優しい女性もいますよ」
ジョブズ「本物の芸術家は出荷する」
僕「お前はアーティストじゃないだろう」
ジョブズ「お前とは失礼な」
僕「ソクラテスとの午後のひと時は楽しいか」
ジョブズ「iPhone4sの調子はどうだ」
僕「中古で3千円だった」
ジョブズ「俺の遺作だぞ」
僕「お前は商人だが、俺がこれ用の壁紙描いてやった」
本田「YOU LOSE」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。何かが見えてくるはずです。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「YOU WIN」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「やるやん。明日は俺にリベンジさせて。では、どうぞ」
Q.なぜあなたは人が嫌いですか。
A.彼らが悪徳まみれで酷く愚かだからです。
Q.彼らの望むことが分からないと?
A.勿論。
Q.下衆の気持ちが?
A.先ず下衆以外みたことないです。
Q.立派な人達を探していましたか?
A.ほぼ見つかりませんでした。
Q.今後は?
A.諦めます。
商売人「他人を搾取するだけの簡単なお仕事です」
僕「やりません」
商売人「貧乏人には何もやらない」
僕「そうですか」
商売人「金持ち様には無限に奉仕します」
僕「はい」
商売人「対価を得る為に働くのです」
僕「なぜ無償じゃないの?」
商売人「カネがほしいからです」
僕「利己ですね」
差別は醜悪だ。そして差別するやつは馬鹿だ。
南関東人はほぼ例外なく「田舎」、又は茨城県を差別している。つまり南関東人らは本物の差別主義集団、人権侵害集団で我々及び人類共通の天敵なのだ。関西人は南関東人を煽り首都圏に内乱を起こし痛快がっているが、東京・神奈川・千葉・埼玉くんだりの人間達は差別主義を狂信し自滅の道を辿っていく。南関人一般が中華思想に耽るのは彼らが暗愚だから、悪意だから、これら以外の理由はない。つまり極悪人衆愚なのである。しかし差別主義者が反省力を持つ可能性など殆どないので、いってみれば彼ら南関人一般を救う方法はない。集団になって商売し、南関東に密集し、自慢と差別をまきちらす。原発を「田舎」におしつけ、下らない偏見で茨城県民を侮辱し、あまつさえ何一つ反省しない。その様な差別主義の南関人一般を人道はどう処理すべきなのだろう? 無視し、ひたすら蛮行を続けさせるべきなのか。天罰を下すべきなのか。日本政府は南関人に群れ差別のまきちらしに加担している。かつて、いや今も京都市民が全国に対してやっていた中華思想の焼き直し。差別主義により日本人全般を侮辱する。邪悪な皇室。
南関東の哀れな差別主義者ども、皇室と名乗る邪教祖を担いで人道を汚す邪教祖ともども、偏見の井戸の底で死に絶える。
我らは広い世界を見て生きよう。下衆は下衆の間で死ぬのだ。差別という網に囚われ永久に知らない外の世界を我らは楽しもう。
日本人全般は私が都内に暮らしていると全く無意味にもちあげてきた。日本人全般ほど脳内が差別でできている人達がどこかにいるとは思えないのだが。なぜ東京都内に住所があるだけでもちあげてくるのか? そして地元にもどると途端に差別をはじめるのか。日本人全般ほど卑しい差別主義者がこの世にいるとは全く思えない。特に南関東人全般の傲慢はすさまじいものだ。日本人全般に田舎差別主義が当然視されている以上この国民は極悪人だと断定できる。なぜなら私が暮らした限り本当に卑しい人達、すなわち犯罪者集団は都会の方に遙かに多かったのだから。勿論、知的教養の不足、品性下劣さも都会人全般の方が激しかった。それ故に都会人の方が中華思想に耽るのだ。
皇室と自称する極悪邪教祖が諸悪の根源なのは疑う余地がないが、その次は東京都民、京都市民、大阪府民一般に潜む地域差別主義集団が天敵になるであろう。
学歴差別主義者というのも実にたちが悪い。往々にして生得知能が明らかに低い下衆が後天的にその地頭の悪さを補う為にがり勉し、自分を有利にする為に学歴差別をまきちらしているものだ。都会で自己をもちあげながら差別や偏見をまきちらす。それに騙された衆愚が差別や偏見を更にまきちらす。これが天皇制の基本現象であり、ただの愚行だ。この上にこの種の差別はついに人種差別にいたり、都会人と称する極悪犯罪集団が大量殺人をはじめる。帝国主義とはまさに差別の犯罪だ。
毎日満員電車地獄、搾取地獄、狭小住宅の最悪の環境である東京都に暮らしながらその最悪さを嘘で隠す為に自慢する。逆に恵まれた住環境、居心地のよい自然に囲まれ、平和極まりない広く快適な田舎、茨城県を差別する。東京都民は悪意のみで極悪都内マスコミと日本人全体を洗脳し、国中を汚染している。
一体私が見た真実をなぜ語らずにおけようか。東京都民が極悪行為をしていることを。善良な田舎の人達をだましていることを。嘘をついていることを。
東京から全国民を搾取し、差別と原発をまきちらし、偏見報道で田舎を貶める。これだけのことに騙されている全国民。なんと卑しい皇室制度か。中華思想の為だけに邪教で自己神格化するとはどれほど悪意を極めたらできるのか。暴力団を独裁し、善良な人類を大量殺人してきた天皇史と洗脳された衆愚。
東京が奈良や京都のよう荒廃し、滅亡することもまた疑い得ない。悪徳の巣、邪教のすみか、全国民を騙し、何もかもを搾取する為の悪業の地。犯罪者の巣窟になって当然だ。悪意でなければ中華思想で差別等まきちらしえないのだから。
差別はする側のみに100%の原因がありされる側には何一つとして落ち度がないものだ。つまり南関人全般が100%悪いのだ。皇室だか衆愚だかと群れ、卑しい偏見をまきちらしている。理由は彼らが暗愚だから、悪意だから以外なにもないのだ。
差別と戦う意味がわからない。差別する側のみが悪いのだから、される側はひたすら善徳を高めているに過ぎないのに。
卑しい人と接さなければ幸福でいられる。
1.カネを貪り
2.差別をまきちらす
3.犯罪を行い
4.侵略殺戮する
これが南関人が関西人と共に天皇制として行っている帝国主義の全貌だ。神道はなにも進歩がないのだ。
商売する、東京が搾取する、東京や京都から天皇中華思想で田舎差別をまきちらす、天皇が警察の暴力で税をまきあげる、全国民を奴隷化する、都内から偏見報道で全国を地方扱いし門地差別・人種差別する、外国人を人種・民族差別する、商業・軍事侵略し地獄的都塵を拡大する、原発汚染をまきちらす。皇室、日本政府、東京都、京都市、奈良市。中華思想で全国民を差別しながら搾取する邪教が住み着き、洗脳された衆愚が華夷秩序を主張しながら偏見をまきちらし、カネを貪り、侵略しながら犯罪を正当化する。天皇が消滅したら彼らは反省するのか? 己の犯している邪悪な傲慢の罪を。搾取と汚染の罪を。
私は実に善良な世界で育ったと知らずにいたものだ、東京都や神奈川県、千葉県という極悪の差別主義者達が悪意ある偏見をまきちらし衆愚を洗脳する世界を知るまでは。そしてその南関東の中枢にいたのが邪教祖で、悪徳商人達がやつの為に金を貪り原発汚染をばらまいていると知るまでは。資本主義者は蓄財によって偏見や差別を強化する。それだから東京港区から全国民、特に田舎と見なした地域を門地差別しているのである。
悪意ある人類は不幸をまきちらしているに過ぎない。そして彼らはその時点で哀れむに足る人々だ。勿論、他人を身分差別する目的しかない皇室も、労働者を搾取する目的しかない資本家も、南関東地方や京阪地方から全国民を傲慢にも蔑視している衆愚も。卑しい人達は人道そのものを知らないのだ。
2019年5月20日
自民支持者は民衆一般より金儲けできると信じている
もし誰かが利己的で金儲けの方法がみつかれば、その人は自分の税率を下げろ、といいだす。つまり自民か社民で前者を択んでいる人達は自分だけ金が儲かると信じている。彼らが自分はどう頑張っても金が儲からないと悟ったら自民支持をやめるだろう。
2019年5月19日
善意は最高幸福の中身
我々は性悪が他人を不幸にする目的で生きているのを忘れがちだ。連中は他人を嗜虐するのが最大の生きがいで、そもそもこの為に人生を送っている。だから性悪への唯一で最善の対処は連中に触れないことだ。
一方、商人全般もこの性悪と同じ目的で生きている。いいかえれば彼らの動機は他人を比較的な地位財で見下すことである。なぜ彼らがかねを貪るかといえば他人を搾取する為でしかない。商人生活に適応できるのは性悪な人々で、彼らは嗜虐が最終目的のラットレースを死に至るまで続ける。
この世で商人社会の中で幸福さが一向に高まらないのは以上の道理による必然で、結局彼らは不幸を買う為の努力をして死ぬ。だから賢明な人ははじめから商わない。
物質的快楽は打ち止めになるのが知れているが、単に性悪が他人に優越感を得る目的でかねを集めても一定限度以上で見下せる相手が減るからだ。そして性善の人は最初からその種の虚栄をみてとり、悪徳の都会に近寄らず質素な田舎町でくらせば競争の必要もないと知っている。中庸の徳は今日もまた正しく、かねを巡る無数の悪徳ははじめから他人に妬ませる目的しかない都会、もしくは性悪共の生態を離れてこそ避け得る。
ピーターシンガーがいうとおりこの世で幸福さを高めたくばただひたすら利他の行いを積み重ねればよい。積善は最も簡単に救いの信念を得る方法だからだ。カルヴァン思想の中でと同じく自らが救われるとの確信が、我々がこの世で得られる最高の資産である。それは自分が常に揺るぎなく最善の行いをし尽くしたとの満足感の度合いでしかない。だが自らのかね儲けのため仕事してきたとしか思えない人は、結局自分の生を比較的地位財でしか合理化できない。これが幸福になれないかねもちの正体だ。
アダムグラントは経済的成功を利他行動と兼ねる人を理想化しているが、実は清貧な利他主義者の方が幸福感が高い。それは自分が善良な存在だと信じられる人が、少なくとも非地位財の中で最上の宝というべき善意を高めていくからだ。相利によっては永久に仮言命法的偽善心しか満たされない。
一方、商人全般もこの性悪と同じ目的で生きている。いいかえれば彼らの動機は他人を比較的な地位財で見下すことである。なぜ彼らがかねを貪るかといえば他人を搾取する為でしかない。商人生活に適応できるのは性悪な人々で、彼らは嗜虐が最終目的のラットレースを死に至るまで続ける。
この世で商人社会の中で幸福さが一向に高まらないのは以上の道理による必然で、結局彼らは不幸を買う為の努力をして死ぬ。だから賢明な人ははじめから商わない。
物質的快楽は打ち止めになるのが知れているが、単に性悪が他人に優越感を得る目的でかねを集めても一定限度以上で見下せる相手が減るからだ。そして性善の人は最初からその種の虚栄をみてとり、悪徳の都会に近寄らず質素な田舎町でくらせば競争の必要もないと知っている。中庸の徳は今日もまた正しく、かねを巡る無数の悪徳ははじめから他人に妬ませる目的しかない都会、もしくは性悪共の生態を離れてこそ避け得る。
ピーターシンガーがいうとおりこの世で幸福さを高めたくばただひたすら利他の行いを積み重ねればよい。積善は最も簡単に救いの信念を得る方法だからだ。カルヴァン思想の中でと同じく自らが救われるとの確信が、我々がこの世で得られる最高の資産である。それは自分が常に揺るぎなく最善の行いをし尽くしたとの満足感の度合いでしかない。だが自らのかね儲けのため仕事してきたとしか思えない人は、結局自分の生を比較的地位財でしか合理化できない。これが幸福になれないかねもちの正体だ。
アダムグラントは経済的成功を利他行動と兼ねる人を理想化しているが、実は清貧な利他主義者の方が幸福感が高い。それは自分が善良な存在だと信じられる人が、少なくとも非地位財の中で最上の宝というべき善意を高めていくからだ。相利によっては永久に仮言命法的偽善心しか満たされない。
カネ欲しさに生きている人達
カネ欲しさに生きている人達
東奔西走
それから無が残った
明るすぎる部屋の中
置き去りにされた自我
死にゆくものの中
とわにある真理
自分の死後に残った全記憶が
とりもなおさずお前の全て
他人を見下す為に生きている俗物が
お前にとりつき死に絶えてゆく中
暗すぎる絶望の街で
お前は崩れ落ちた自我を拾い集める
それから無が残った
東奔西走
それから無が残った
明るすぎる部屋の中
置き去りにされた自我
死にゆくものの中
とわにある真理
自分の死後に残った全記憶が
とりもなおさずお前の全て
他人を見下す為に生きている俗物が
お前にとりつき死に絶えてゆく中
暗すぎる絶望の街で
お前は崩れ落ちた自我を拾い集める
それから無が残った
皇室廃止は首相の独断で行うべし
(天皇制廃止の国民投票しかない、とするツイートへ)
天皇制廃止は国民投票ではなく首相が独断でやった方がいい。理由は日本国民全般は上から力で押しつけられたことにはひたすら従順(奴隷精神)だが、自分達で判断する能力は基本的にないからです。憲法改正の時に絶対権力をもつ首相が皇室典範を削除すれば、国民はその直後から共和政に順応します。
歴史に学ぶと、17条憲法から始まり武家諸法度、公家諸法度を経て日帝憲法、戦後憲法、どれも実際には政府が「上からおしつけて」決めている。厳密な民定憲法は日本史上ない。しかし日本人民衆は自分で判断しない方が楽だからそれに忠実に従う性質をもっている。国民投票すると逆に現状維持になる(つまり何も自分で考えず、考える能力もなく、不安がって思考停止し、なんとなく多数派が選んでいそうな無判断か時間切れに終わる)。
もし天皇制の是非を問う国民選挙とやってしまうと、当然ながら国民の多数派は神道や皇室に洗脳されているので現状維持を選択しますよ。間違いないことです。すなわち別の条項(例えば9条)を主たる懸案にし、一気呵成に皇室典範も削除してしまう戦術が最も滑らかに共和政へ移行させるでしょう。
例えばフランスやアメリカは市民革命によって共和政へ移行してますよね。中国だってそうです。しかし日本人民衆は一度も市民革命を起こした試しがない。明治維新は武士階級発、つまり公務員の入れ替わりでしかなかった。日本人民衆の政治民度は米仏より遙かに低く、共和政と君主政の違いも知りません。
「愚者に意見を聞く」と、全く見当違いの答えが返ってきますよ。共和政は国民自身に権力を取り戻すことですと説明したところでそれが理解できないからあれだけ一般参賀に雲集する。愚民を操縦するには高所大局にたった公徳、公知が必要なのです。
天皇制廃止は国民投票ではなく首相が独断でやった方がいい。理由は日本国民全般は上から力で押しつけられたことにはひたすら従順(奴隷精神)だが、自分達で判断する能力は基本的にないからです。憲法改正の時に絶対権力をもつ首相が皇室典範を削除すれば、国民はその直後から共和政に順応します。
歴史に学ぶと、17条憲法から始まり武家諸法度、公家諸法度を経て日帝憲法、戦後憲法、どれも実際には政府が「上からおしつけて」決めている。厳密な民定憲法は日本史上ない。しかし日本人民衆は自分で判断しない方が楽だからそれに忠実に従う性質をもっている。国民投票すると逆に現状維持になる(つまり何も自分で考えず、考える能力もなく、不安がって思考停止し、なんとなく多数派が選んでいそうな無判断か時間切れに終わる)。
もし天皇制の是非を問う国民選挙とやってしまうと、当然ながら国民の多数派は神道や皇室に洗脳されているので現状維持を選択しますよ。間違いないことです。すなわち別の条項(例えば9条)を主たる懸案にし、一気呵成に皇室典範も削除してしまう戦術が最も滑らかに共和政へ移行させるでしょう。
例えばフランスやアメリカは市民革命によって共和政へ移行してますよね。中国だってそうです。しかし日本人民衆は一度も市民革命を起こした試しがない。明治維新は武士階級発、つまり公務員の入れ替わりでしかなかった。日本人民衆の政治民度は米仏より遙かに低く、共和政と君主政の違いも知りません。
「愚者に意見を聞く」と、全く見当違いの答えが返ってきますよ。共和政は国民自身に権力を取り戻すことですと説明したところでそれが理解できないからあれだけ一般参賀に雲集する。愚民を操縦するには高所大局にたった公徳、公知が必要なのです。
純粋美術は大衆商業主義や反知性主義に妥協すべきではない
純粋美術系の或る上の世代の小集団を最近色々観察してて気づいたのは、先ず彼らは知性主義を引き継ごうとしている。それで彼らはラカンの概念を用いて説明してるのだが、より知性的な作品がすばらしいと言いたがっている。リヒターがコンセプチュアルアートを懐古的に語る時の口上みたいに。
欧米美術のハイアート界は確かに知性主義とほぼ完璧に一致していて、そもそも上流階級の所有物である。そこに一石を投じる概念をもちこんだのが村上隆でスーパーフラットだった(中間芸術の正当化を、日本画の非遠近法的な特徴の掛詞にしていた)。だが日本にこの種の知性主義的傾向はないと。寧ろ若い世代になるほど大衆商業芸術が主になっていて、漫画『ワンピース』が素で芸術の王道だと思っている。或いは日本画界が変質したガラパゴスなサロン美術界といえる日展みたいなのが似非上流の世界になっている。そのどちらでも巧妙に知性主義は排除されていると。
じゃあ純粋美術の運命は? というと、風前の灯であると。そもそもカネが儲からないゴッホ的な近代美術家像を踏襲していると死んでしまうので、普通に誰もなりたがらない。私はこの意味で逆説的に近代回顧の存在で、グリーンバークの前衛を「まだやってる」扱いなので、商業美術界に属せていない。
リヒターが「当時のアートシーンでは、モンドリアンよりマカルトの方が重要だった。この意味で誰がサロン美術家か分からない」云々と書いていたが、状況は現時点でも全く変わらないですね。例えば日比野克彦さんがいわき市立美術館の玄関でライブペイントしてるの昔見たが、時代は非情といえます。
村上隆さんは中間芸術を欧米アートシーンにもちこみ、日本のサブカル(特に漫画とアニメ)を彼流儀に諧謔を込め翻訳しつつ輸出してきたと。このサブカル正当化イデオロギーは強烈に下の世代に影響し、「漫画アニメに外人も喜んでるじゃん」「純粋美術は分からないからいい」みたいになってしまった。で俗受けユーチューバーがアーティスト扱いと。
で、その私の上の世代の或る純粋美術クラスター(具体的にいうと絡まれそうなのでぼかしている)は、物凄く端的にいうと村上隆に完全敗北しているが、私小説の人らが当時の文壇でサロンを作り(正宗白鳥とか)自己正当化しながら漱石を「あんなの商売だよ!」といってたみたいにしていると。
私は全く気づいていなかったが、この上の世代の或るクラスターを客観視することで自分も結果的に完全に逆張りになってるとわかった。つまり大衆商業美術って今で言うと『君の名は』みたいなのを素でリリースしカネ儲けること以外何物でもない。そこに知性主義なんて当然全く無用なばかりか邪魔だと。
純粋美術とはなんだったんですか? 過去の流行でした、学歴主義なら就職先だか世間体だかカネ目当ての発情相手になりますけどとなってしまい、「カネさえ儲かればなんでもええわ。東京の億ションからユーチューブでドヤりたいやで」みたいな似非商人気質が日本で完全に支配権を握り、後戻りしないと。しかし私はこの種の愚民化が底抜けに進行中の日本国のサブカル全盛期ではあるが、純粋美術の前衛性の世界が完全に消え去るとは全く思えない。なぜなら私はサブカルも相当みてきたけど、ファインアートと比べるとやはり幼稚なものに過ぎないからだ。大人になれれば、サブカルは下らないとみな思う筈だ。
私(鈴木さん)は何者ですか。私はこの国の知性主義が残した足跡ですね。それは当然ながら学歴主義ではない。虚飾とか衒学でもない。また単なる金儲けでもない。すなわち大衆商業主義でもない。純粋美術は中間芸術ではない。これはひたすら高踏的な意味で、完全にぶっちぎりの前衛でなければならない。
某氏がネットで「美術は哲学の枝葉だ」といっていた。私はこれについてかなり長い間考えてきたけど、はっきりいってプラトン思想に過ぎないと思う。アリストテレスもそうだったが形相論で美術はそれ自体がイデアの形だとしたわけだから、哲学と別分野ですよ。美術自体が哲学以上を語れるのです。
本物の知性と、単なる衒学は、並べたらすぐ分かる話で大衆には見分けがつかないかもしれないが、そんなのなんの問題にもならない。既に述べたようモンドリアン『ブロードウェイブギウギ』はMOMA中央正面に鎮座するにふさわしいがマカルト『五感』では様にならない。本物だけを突き詰めるべきなのです。なぜその上の世代の某クラスターが完全敗北の状態かといえば、村上隆の前衛性を超えられてないからに他ならない。この意味で美術界は完全に公平な世界です。本物の評価って世俗的評価じゃない。そして金儲けそのものでもないから、儲かったら勝ちでも全然ない。私はだから美術をやろうと思った。
もし純粋美術の担い手がいなくなると、つまりスーパーフラッターというか中間芸術のサブカルもどきの人、もしくは似非サロンの公募展作家みたいなのしかいなくなると、その地域は全て下らない物と偽物で埋められてしまう。そこに堪えられるのは馬鹿と俗物だけだ。裏返せば純粋美術は高貴さの印である。
欧米美術のハイアート界は確かに知性主義とほぼ完璧に一致していて、そもそも上流階級の所有物である。そこに一石を投じる概念をもちこんだのが村上隆でスーパーフラットだった(中間芸術の正当化を、日本画の非遠近法的な特徴の掛詞にしていた)。だが日本にこの種の知性主義的傾向はないと。寧ろ若い世代になるほど大衆商業芸術が主になっていて、漫画『ワンピース』が素で芸術の王道だと思っている。或いは日本画界が変質したガラパゴスなサロン美術界といえる日展みたいなのが似非上流の世界になっている。そのどちらでも巧妙に知性主義は排除されていると。
じゃあ純粋美術の運命は? というと、風前の灯であると。そもそもカネが儲からないゴッホ的な近代美術家像を踏襲していると死んでしまうので、普通に誰もなりたがらない。私はこの意味で逆説的に近代回顧の存在で、グリーンバークの前衛を「まだやってる」扱いなので、商業美術界に属せていない。
リヒターが「当時のアートシーンでは、モンドリアンよりマカルトの方が重要だった。この意味で誰がサロン美術家か分からない」云々と書いていたが、状況は現時点でも全く変わらないですね。例えば日比野克彦さんがいわき市立美術館の玄関でライブペイントしてるの昔見たが、時代は非情といえます。
村上隆さんは中間芸術を欧米アートシーンにもちこみ、日本のサブカル(特に漫画とアニメ)を彼流儀に諧謔を込め翻訳しつつ輸出してきたと。このサブカル正当化イデオロギーは強烈に下の世代に影響し、「漫画アニメに外人も喜んでるじゃん」「純粋美術は分からないからいい」みたいになってしまった。で俗受けユーチューバーがアーティスト扱いと。
で、その私の上の世代の或る純粋美術クラスター(具体的にいうと絡まれそうなのでぼかしている)は、物凄く端的にいうと村上隆に完全敗北しているが、私小説の人らが当時の文壇でサロンを作り(正宗白鳥とか)自己正当化しながら漱石を「あんなの商売だよ!」といってたみたいにしていると。
私は全く気づいていなかったが、この上の世代の或るクラスターを客観視することで自分も結果的に完全に逆張りになってるとわかった。つまり大衆商業美術って今で言うと『君の名は』みたいなのを素でリリースしカネ儲けること以外何物でもない。そこに知性主義なんて当然全く無用なばかりか邪魔だと。
純粋美術とはなんだったんですか? 過去の流行でした、学歴主義なら就職先だか世間体だかカネ目当ての発情相手になりますけどとなってしまい、「カネさえ儲かればなんでもええわ。東京の億ションからユーチューブでドヤりたいやで」みたいな似非商人気質が日本で完全に支配権を握り、後戻りしないと。しかし私はこの種の愚民化が底抜けに進行中の日本国のサブカル全盛期ではあるが、純粋美術の前衛性の世界が完全に消え去るとは全く思えない。なぜなら私はサブカルも相当みてきたけど、ファインアートと比べるとやはり幼稚なものに過ぎないからだ。大人になれれば、サブカルは下らないとみな思う筈だ。
私(鈴木さん)は何者ですか。私はこの国の知性主義が残した足跡ですね。それは当然ながら学歴主義ではない。虚飾とか衒学でもない。また単なる金儲けでもない。すなわち大衆商業主義でもない。純粋美術は中間芸術ではない。これはひたすら高踏的な意味で、完全にぶっちぎりの前衛でなければならない。
某氏がネットで「美術は哲学の枝葉だ」といっていた。私はこれについてかなり長い間考えてきたけど、はっきりいってプラトン思想に過ぎないと思う。アリストテレスもそうだったが形相論で美術はそれ自体がイデアの形だとしたわけだから、哲学と別分野ですよ。美術自体が哲学以上を語れるのです。
本物の知性と、単なる衒学は、並べたらすぐ分かる話で大衆には見分けがつかないかもしれないが、そんなのなんの問題にもならない。既に述べたようモンドリアン『ブロードウェイブギウギ』はMOMA中央正面に鎮座するにふさわしいがマカルト『五感』では様にならない。本物だけを突き詰めるべきなのです。なぜその上の世代の某クラスターが完全敗北の状態かといえば、村上隆の前衛性を超えられてないからに他ならない。この意味で美術界は完全に公平な世界です。本物の評価って世俗的評価じゃない。そして金儲けそのものでもないから、儲かったら勝ちでも全然ない。私はだから美術をやろうと思った。
もし純粋美術の担い手がいなくなると、つまりスーパーフラッターというか中間芸術のサブカルもどきの人、もしくは似非サロンの公募展作家みたいなのしかいなくなると、その地域は全て下らない物と偽物で埋められてしまう。そこに堪えられるのは馬鹿と俗物だけだ。裏返せば純粋美術は高貴さの印である。
詰め込み世代とゆとり世代は知性への態度が真逆
この間、日本国内で知性の二極化が起きるのを危惧してるといってる人がいたけど、これは既に起きているので危惧とかじゃなくて現に体験しまくってるともう後戻りできないと知っているだけの話である。
いわゆるゆとり教育の失敗、これはその世代の一部と標本抽出みたいにかなりのサンプル数と「できるだけ反証的に」接した限り、本当の話だった。まず本を全然読まなくなっていてネットでも長文読まない上に、幼稚園児レベルのアニメを本気で見ている人達が多い。国語そのものが読めてない人もよくいる。なぜ若い世代で安倍政権の支持率が高いか。就職率が「団塊世代の引退で」「民主党政権の頃から徐々に」改善しているからという理屈をつけている人もいるが、実際には彼らの知性が安倍晋三氏と同程度だからだという方が信憑性が高いです。私はゆとり世代と頻繁にというか毎日接したのでよくわかった。
皆さんはご存知ないと思いますが、ゆとり世代のかなりの数の人達は、うそ抜きで憲法を知らないのです。小学生級の知識の欠落がかなり広範にわたってある人が相当多い。それどころか本を読まない影響で、基本的思考が疎漏で「首相は立法府の長だ」とか聞いても「何がおかしい?」というのが多い筈です。
で、世代でいうと全共闘世代というのがいましたね。彼らは頑張って知性派ぶるのが格好いいと思っていた。その人達の真逆の類型がゆとり世代といって先ず間違いないです。馬鹿ぶるのを更に超えて「素で馬鹿」でないと集団圧力で虐められるみたいな雰囲気の世代なのである。
ミセスグリーンアップルというバンドの『WanteD! WanteD!』という曲の歌詞に「あの子は馬鹿で、すらすら生きれている」とかいうのが出てくる。これがゆとり世代的な価値観をとてもよくあらわせてます。馬鹿がうらやましい。なぜなら同調圧力をかけて排除やら阻害されないという話なのです。
私は今でも毎日とっても驚いている。どういうことかというと、僕は詰め込み教育の最後の頃の世代(1984生)なのだが、ゆとり教育を受けたとされる少ししたの世代32才(1987年生)~23才(1996年生)位の人らと会話すると、会話に崖があるのがわかるのです。崖の上下位の感じで超えられない。
「知性の二極化が起き、高知性側が低知性側を統治すると、安定した民主主義が破壊される恐れがある」という危惧の仕方を、私より上の世代の方がいっていた。これは勘違いです。事実はもっと恐ろしい。低知性側の方が数が多いので衆愚政治になるんです。それが民主主義のしくみですので。民主主義とはデモスのクラティアで民衆政治、アリストテレスによると堕落した多数政治のことですよね。まさにそれになりますね。もう確定的だといっていいでしょう。現時点で安倍独裁政権が悪政三昧している。しかし未来はもっと酷いです。なぜならゆとり世代がまだおもな世代になってないからです。
確かに経済面では、極端な二極化が起きるでしょう。知性が高いほど搾取する能力が高くなる傾向は、一応ですがありますからね。私は10代で賎貨道徳を新渡戸『武士道』あたりから学んでたので、教養階級と商人階級の分離という知恵を受け継ごうとしていました。しかしそれは少数派にとどまりますね。
ゆとり世代の現実(馬鹿の方が物凄く威張っている同調圧力みたいな感じ)を全く知らない私より上の世代の方で、官僚制みたいな姿を予想してる人は、未来を見誤っていると思います。衆愚政治の極端な形が、近い将来の日本です。財政ならギリシア、右傾化ならネオナチを随分悪化させた様な感じでしょう。皆さんがゆとり世代感覚を疑似体験するならヒカキンの動画、または『けものフレンズ』をみるといいですね。え、小学校低学年~幼稚園児向けなのかなというのを大人がみているのですね。本気でみている。それは冗談とかではなく、知性の質自体が全然違う世代、もしくはかなり大規模な国内集団がいる。例えばです。日本語圏ツイッター上には、まあ知性でいうと並から中の下くらいのネット芸人みたいなのがわんさか自己顕示してますよね。彼らはゆとり世代からはどうみえているかというと「意識高い系」にみえている。それは知者きどり位の揶揄が込められている蔑視語で、感覚が馬鹿中心主義なんですよ。
私ははたちくらいの頃、神の様な全知に到達する目標を立てて、毎日猛勉強してきました。私はその意味で詰め込み教育的な価値観を体現した最後の代表者の一人といっていいと思います。ほぼ完璧に禁欲的で勉強が趣味ですので。そして私からみるとネット芸人らは「なんでこんな馬鹿なの」とみえていると。
知性に対する取り扱いが全く正反対の世代が、超えられない崖を挟んで二手に分かれてるみたいな状態が、詰め込みとゆとりの間にある事情です。大体、今の30代半ばと20代の間にある意識の差。他の世代にとってどうでもいいと思いますが、私はこれで毎日果てしない摩擦を体験してるので参考に書きました。
思い出したのでつけくわえると、眞子さんと小室圭さん。彼らは上の世代からみると「なんでこんな馬鹿みたいなことするの? 本気?」ってみえている。しかしそれは本気です。ゆとり世代の恐ろしさはあれで最上の知性の部類だといっていいと私は確信できます。一番ましな人達です。嘘ぬきで。
そういえば「反知性主義」という便利な言葉もありましたね。ゆとり世代語といってもいい「意識高い系」とは(なぜなら私の世代では存在しなかった)、知性主義者を差別する為の言葉ですね。マイルドヤンキーとかオタクという言葉もありますが、都鄙差別を含むので、反知性主義が最も便利ですね。
ついでに言うと、知性主義的なものの中でも、例えば浅田彰『逃走論』みたいに偽知性みたいなのもありますよね。この本はスキゾ・パラノの枠組みをドゥルーズとガタリから剽窃し、フランス哲学に詳しい俺凄い? といいたいだけで衒学以外なにものでもない。だからファッション知識人ごっこだった。
真の知性とはなんでしょう。それは真理を悟っていることですね。彼らが真理を説けば結果、迷信が晴れたり人類に道を照らし出すことになる。ですが偽の知性主義は衒学なり学歴主義なりで尊敬されたいという俗物根性の虚飾にすぎない。ですから知性主義の中では知恵者が哲学者に擬態しています。
いわゆるゆとり教育の失敗、これはその世代の一部と標本抽出みたいにかなりのサンプル数と「できるだけ反証的に」接した限り、本当の話だった。まず本を全然読まなくなっていてネットでも長文読まない上に、幼稚園児レベルのアニメを本気で見ている人達が多い。国語そのものが読めてない人もよくいる。なぜ若い世代で安倍政権の支持率が高いか。就職率が「団塊世代の引退で」「民主党政権の頃から徐々に」改善しているからという理屈をつけている人もいるが、実際には彼らの知性が安倍晋三氏と同程度だからだという方が信憑性が高いです。私はゆとり世代と頻繁にというか毎日接したのでよくわかった。
皆さんはご存知ないと思いますが、ゆとり世代のかなりの数の人達は、うそ抜きで憲法を知らないのです。小学生級の知識の欠落がかなり広範にわたってある人が相当多い。それどころか本を読まない影響で、基本的思考が疎漏で「首相は立法府の長だ」とか聞いても「何がおかしい?」というのが多い筈です。
で、世代でいうと全共闘世代というのがいましたね。彼らは頑張って知性派ぶるのが格好いいと思っていた。その人達の真逆の類型がゆとり世代といって先ず間違いないです。馬鹿ぶるのを更に超えて「素で馬鹿」でないと集団圧力で虐められるみたいな雰囲気の世代なのである。
ミセスグリーンアップルというバンドの『WanteD! WanteD!』という曲の歌詞に「あの子は馬鹿で、すらすら生きれている」とかいうのが出てくる。これがゆとり世代的な価値観をとてもよくあらわせてます。馬鹿がうらやましい。なぜなら同調圧力をかけて排除やら阻害されないという話なのです。
私は今でも毎日とっても驚いている。どういうことかというと、僕は詰め込み教育の最後の頃の世代(1984生)なのだが、ゆとり教育を受けたとされる少ししたの世代32才(1987年生)~23才(1996年生)位の人らと会話すると、会話に崖があるのがわかるのです。崖の上下位の感じで超えられない。
「知性の二極化が起き、高知性側が低知性側を統治すると、安定した民主主義が破壊される恐れがある」という危惧の仕方を、私より上の世代の方がいっていた。これは勘違いです。事実はもっと恐ろしい。低知性側の方が数が多いので衆愚政治になるんです。それが民主主義のしくみですので。民主主義とはデモスのクラティアで民衆政治、アリストテレスによると堕落した多数政治のことですよね。まさにそれになりますね。もう確定的だといっていいでしょう。現時点で安倍独裁政権が悪政三昧している。しかし未来はもっと酷いです。なぜならゆとり世代がまだおもな世代になってないからです。
確かに経済面では、極端な二極化が起きるでしょう。知性が高いほど搾取する能力が高くなる傾向は、一応ですがありますからね。私は10代で賎貨道徳を新渡戸『武士道』あたりから学んでたので、教養階級と商人階級の分離という知恵を受け継ごうとしていました。しかしそれは少数派にとどまりますね。
ゆとり世代の現実(馬鹿の方が物凄く威張っている同調圧力みたいな感じ)を全く知らない私より上の世代の方で、官僚制みたいな姿を予想してる人は、未来を見誤っていると思います。衆愚政治の極端な形が、近い将来の日本です。財政ならギリシア、右傾化ならネオナチを随分悪化させた様な感じでしょう。皆さんがゆとり世代感覚を疑似体験するならヒカキンの動画、または『けものフレンズ』をみるといいですね。え、小学校低学年~幼稚園児向けなのかなというのを大人がみているのですね。本気でみている。それは冗談とかではなく、知性の質自体が全然違う世代、もしくはかなり大規模な国内集団がいる。例えばです。日本語圏ツイッター上には、まあ知性でいうと並から中の下くらいのネット芸人みたいなのがわんさか自己顕示してますよね。彼らはゆとり世代からはどうみえているかというと「意識高い系」にみえている。それは知者きどり位の揶揄が込められている蔑視語で、感覚が馬鹿中心主義なんですよ。
私ははたちくらいの頃、神の様な全知に到達する目標を立てて、毎日猛勉強してきました。私はその意味で詰め込み教育的な価値観を体現した最後の代表者の一人といっていいと思います。ほぼ完璧に禁欲的で勉強が趣味ですので。そして私からみるとネット芸人らは「なんでこんな馬鹿なの」とみえていると。
知性に対する取り扱いが全く正反対の世代が、超えられない崖を挟んで二手に分かれてるみたいな状態が、詰め込みとゆとりの間にある事情です。大体、今の30代半ばと20代の間にある意識の差。他の世代にとってどうでもいいと思いますが、私はこれで毎日果てしない摩擦を体験してるので参考に書きました。
思い出したのでつけくわえると、眞子さんと小室圭さん。彼らは上の世代からみると「なんでこんな馬鹿みたいなことするの? 本気?」ってみえている。しかしそれは本気です。ゆとり世代の恐ろしさはあれで最上の知性の部類だといっていいと私は確信できます。一番ましな人達です。嘘ぬきで。
そういえば「反知性主義」という便利な言葉もありましたね。ゆとり世代語といってもいい「意識高い系」とは(なぜなら私の世代では存在しなかった)、知性主義者を差別する為の言葉ですね。マイルドヤンキーとかオタクという言葉もありますが、都鄙差別を含むので、反知性主義が最も便利ですね。
ついでに言うと、知性主義的なものの中でも、例えば浅田彰『逃走論』みたいに偽知性みたいなのもありますよね。この本はスキゾ・パラノの枠組みをドゥルーズとガタリから剽窃し、フランス哲学に詳しい俺凄い? といいたいだけで衒学以外なにものでもない。だからファッション知識人ごっこだった。
真の知性とはなんでしょう。それは真理を悟っていることですね。彼らが真理を説けば結果、迷信が晴れたり人類に道を照らし出すことになる。ですが偽の知性主義は衒学なり学歴主義なりで尊敬されたいという俗物根性の虚飾にすぎない。ですから知性主義の中では知恵者が哲学者に擬態しています。
本来の学術と信号化の違い
日本商売人のかなりの部分は、学問を肩書きをつけ就職手形にする手段としか見ていない。信号化(シグナリング)の外にある本来の学術は、彼ら商売人にとって先ず一度も目的視されたことがない。
抽象的思考について
総合的思考に対し分析的思考しかできない人は、永遠に後自然学に進めない。それ以前に、社会学段階すら満足に思慮できない。総合に関わる抽象的思考力は分析を包含しているがそれ自体ではないからだ。
啓蒙は無意味でしばしば有害
自分より遙かに愚かな人々に何かを教える手間は、少なくともそれが対価を伴わなければほぼ無用の沙汰である。愚かな人々は自らの業に従うからだ。
啓蒙主義はこの点で自由が理解される以前の考え方に過ぎず、特に孔子のいう下人(理解力のない人々)に向けての説教は全く意味を為さない。寧ろ往々にして下人らは彼らの妄信に逆らう真理に感情的反発をしながら何らかの反抗をするものだが、それは彼らの知性が低いのみならず、元々彼らに向上心がないからでもある。彼らはその種の無知や不徳の中で生涯を終えることを望んでもいる。つまり啓蒙は下人にとって完全に余計なお世話なのである。
孔子のいう通り中人(理解力の中程度の人々)以上にしか啓蒙の意味はない。特に上人(理解力の高い人々)は自ら学ぶのだから啓蒙といっても細部の指摘又は大局的助言で十分だが、中人はしばしば啓蒙により下人集団から上人集団への道筋を見つけるかもしれない。つまりこれが『孟子』でいう「教育」と呼ばれる分野で、孔子が『論語』でいう啓発の本質的な意味である。啓蒙を下人への教化を含む概念として使う福沢諭吉の様な愚民観の持ち主は、これらの儒学的定義でそれを使っていない。彼の啓蒙の定義は、百科全書派を主としたフランス啓蒙主義の影響下にあるのだ。
我々が通俗科学としてみるもの、例えばメンタリストとか大衆媒体における脳科学者の立ち回りは上述の啓蒙主義を踏襲している。ヒトラーがいう「大衆の中で最も愚かな者にあわせた」演説が学者らからただの金儲けの為に真理を極端に単純化したり、説明の為に歪め誤解を招く仕方で解説する仕事は軽蔑され勝ちである。それというのも啓蒙は自由にとって元々無用なばかりか護送船団的な最遅速を余儀なくし、結果、知識そのものを矮小化して観衆に信じ込ませ、大抵ある種の洗脳に近い状態を呈するからである。いいかえれば占い、スピリチュアルの様な疑似科学よりましだとしても通俗科学は単なる宗教として自然哲学(今日のいわゆる科学、自然学)と道徳哲学(形而上学、後自然学)を低俗化させてしまう。つまり真理を疑義する活動であるはず哲学の本道から多くの人々を逸らし、当時の科学教を正しいものと教え込んでしまうのだ。
この種の過ちから身を退け為すべきなのは真理探求の道に帰ることだが、啓蒙家ぶりを反例にただ根本的疑義の中に生きるのが賢明だ。そして啓発そのものも必要十分なだけ行えばいいのであり、もし収入に困るでもなければわざわざ教授、教師の類に学者が身を落とすべきではない。世俗的職業と全く別の所に知識水準はある。
啓蒙主義はこの点で自由が理解される以前の考え方に過ぎず、特に孔子のいう下人(理解力のない人々)に向けての説教は全く意味を為さない。寧ろ往々にして下人らは彼らの妄信に逆らう真理に感情的反発をしながら何らかの反抗をするものだが、それは彼らの知性が低いのみならず、元々彼らに向上心がないからでもある。彼らはその種の無知や不徳の中で生涯を終えることを望んでもいる。つまり啓蒙は下人にとって完全に余計なお世話なのである。
孔子のいう通り中人(理解力の中程度の人々)以上にしか啓蒙の意味はない。特に上人(理解力の高い人々)は自ら学ぶのだから啓蒙といっても細部の指摘又は大局的助言で十分だが、中人はしばしば啓蒙により下人集団から上人集団への道筋を見つけるかもしれない。つまりこれが『孟子』でいう「教育」と呼ばれる分野で、孔子が『論語』でいう啓発の本質的な意味である。啓蒙を下人への教化を含む概念として使う福沢諭吉の様な愚民観の持ち主は、これらの儒学的定義でそれを使っていない。彼の啓蒙の定義は、百科全書派を主としたフランス啓蒙主義の影響下にあるのだ。
我々が通俗科学としてみるもの、例えばメンタリストとか大衆媒体における脳科学者の立ち回りは上述の啓蒙主義を踏襲している。ヒトラーがいう「大衆の中で最も愚かな者にあわせた」演説が学者らからただの金儲けの為に真理を極端に単純化したり、説明の為に歪め誤解を招く仕方で解説する仕事は軽蔑され勝ちである。それというのも啓蒙は自由にとって元々無用なばかりか護送船団的な最遅速を余儀なくし、結果、知識そのものを矮小化して観衆に信じ込ませ、大抵ある種の洗脳に近い状態を呈するからである。いいかえれば占い、スピリチュアルの様な疑似科学よりましだとしても通俗科学は単なる宗教として自然哲学(今日のいわゆる科学、自然学)と道徳哲学(形而上学、後自然学)を低俗化させてしまう。つまり真理を疑義する活動であるはず哲学の本道から多くの人々を逸らし、当時の科学教を正しいものと教え込んでしまうのだ。
この種の過ちから身を退け為すべきなのは真理探求の道に帰ることだが、啓蒙家ぶりを反例にただ根本的疑義の中に生きるのが賢明だ。そして啓発そのものも必要十分なだけ行えばいいのであり、もし収入に困るでもなければわざわざ教授、教師の類に学者が身を落とすべきではない。世俗的職業と全く別の所に知識水準はある。
時間的快
ミルのいう快楽の質は、短期的快の為に長期的快をなおざりにする傾向への戒めだといいかえてもいい。この意味で快楽の質とは時間的快である。なぜ徳の問題として快楽の質が定義されたかといえばこの長期的計算の能がより高い功利性を意味するからだ。
2019年5月18日
誰もいない世界
誰もいない世界
そこで僕らは死んでいく
無意味より無意味
それから何も残らない
夢は分解され
あとには人の足跡すらない
東京港区にたかる関西人に水爆を落とし
連中の死体も残さず消し尽くし
天罰を加えたとて
下衆極まる自称日本人はつけ上がり
カネを貪りながら差別をばらまく
だから東京や関西が滅亡してほしいと
多くの善人らが願ったとて
誰もいない世界は未だ来ない
そこで僕らは死んでいく
無意味より無意味
それから何も残らない
夢は分解され
あとには人の足跡すらない
東京港区にたかる関西人に水爆を落とし
連中の死体も残さず消し尽くし
天罰を加えたとて
下衆極まる自称日本人はつけ上がり
カネを貪りながら差別をばらまく
だから東京や関西が滅亡してほしいと
多くの善人らが願ったとて
誰もいない世界は未だ来ない
勧善懲悪と同調圧力
同一成員の凝集性が高いと集団に有害な利己を見分けられる様になるので「出る杭は打たれる」(いわば「勧善懲悪」)の現象が生じるが、集団に有益で利他的な人間が「同調圧力」で足をひっぱられる場合はこれに該当しない。
この2つは似て非なるもの。語の定義上も厳密にみわけられていない。
そもそも都会で犯罪率が高く、悪人が多くなるのは「勧善懲悪」がし辛いからだ。一度遭った人に二度と会わずに済む環境だと悪事が有利になってしまう。裏返せば田舎で犯罪率が低く、素朴な善人(素で利他的な人)が多くなる傾向にあるのはそもそも悪人にとって過去の業を知られるのが都合が悪いからだ。同じ法則はネット上にもいえて、匿名でのやりとりが多い場は悪人がふえる。実名で個人特定されるのが当然だと善人がふえる。
一方で「同調圧力」の方はファシズム(結束主義)に他ならず、単に集団の平均値か中央値が正規分布的に最多のとき生じ易い。人間は2つ以上の集団に分けると互いに競争しあう傾向にあるが、この種の結束性(いわゆる和、又は集団の輪)を乱す者を排他する傾向も同時に生じているのだろう。「同調圧力」は集団の同質性が高いほど強烈になるので、日本人の様ほぼ類似した遺伝子・生育環境をもっているとたとえ利他的な個性へも悪意で(又は結束自体を目的に)足をひっぱる傾向が激しくなる。こちらの有害性は歴史的にも検証されている。
「同調圧力」を解除するには集団の多様性をますか、集団全体に影響をもつ指導役が少数派をかばう、いずれかが有効だ。どちらも不可能の場合、「同調圧力」をかけられる少数個性はその結束集団を抜け出す必要がある。子なら、親の強制等で抜け出せないと自殺したりするが、集団外に出るのが基本的対処。
また「同調圧力」に単独で立ち向かうこともできなくはない。『孟子』が「千万人と雖も吾往かん」といった方式で結束集団と権力闘争を演じ、本来の少数派が実権を握れば絶対権力者状態になることもできる。秀吉、ナポレオン、ヒトラー等がその実例だ。だがこれは余ほど当人の政治的才がないと難しい。
この2つは似て非なるもの。語の定義上も厳密にみわけられていない。
そもそも都会で犯罪率が高く、悪人が多くなるのは「勧善懲悪」がし辛いからだ。一度遭った人に二度と会わずに済む環境だと悪事が有利になってしまう。裏返せば田舎で犯罪率が低く、素朴な善人(素で利他的な人)が多くなる傾向にあるのはそもそも悪人にとって過去の業を知られるのが都合が悪いからだ。同じ法則はネット上にもいえて、匿名でのやりとりが多い場は悪人がふえる。実名で個人特定されるのが当然だと善人がふえる。
一方で「同調圧力」の方はファシズム(結束主義)に他ならず、単に集団の平均値か中央値が正規分布的に最多のとき生じ易い。人間は2つ以上の集団に分けると互いに競争しあう傾向にあるが、この種の結束性(いわゆる和、又は集団の輪)を乱す者を排他する傾向も同時に生じているのだろう。「同調圧力」は集団の同質性が高いほど強烈になるので、日本人の様ほぼ類似した遺伝子・生育環境をもっているとたとえ利他的な個性へも悪意で(又は結束自体を目的に)足をひっぱる傾向が激しくなる。こちらの有害性は歴史的にも検証されている。
「同調圧力」を解除するには集団の多様性をますか、集団全体に影響をもつ指導役が少数派をかばう、いずれかが有効だ。どちらも不可能の場合、「同調圧力」をかけられる少数個性はその結束集団を抜け出す必要がある。子なら、親の強制等で抜け出せないと自殺したりするが、集団外に出るのが基本的対処。
また「同調圧力」に単独で立ち向かうこともできなくはない。『孟子』が「千万人と雖も吾往かん」といった方式で結束集団と権力闘争を演じ、本来の少数派が実権を握れば絶対権力者状態になることもできる。秀吉、ナポレオン、ヒトラー等がその実例だ。だがこれは余ほど当人の政治的才がないと難しい。
商業出版で純粋芸術ぶるのはお門違い
全員が幻冬舎を虐めてるみたいだから俺だけ擁護に回るか。売れない小説出したければブログに書けば? 出版社は金儲けですよ? 芥川賞も金儲けですし、大江健三郎も金儲けですし、村上春樹も金儲けですよ。ノーベル文学賞も金儲け、さもなくばただで配ったでしょうが。なんで本が有償だか分かる? 商売人が作ってるからだよ。商業芸術やっておいてなに売らなくていいとかいってるの。商人作家如きが。
売文屋でしょ、小説家なんて。職業作家って商売人の一種なんだよ。下らないプライドで威張り散らしてるけどさ。寄付だけでくらせてるのか? 純粋芸術家だというなら、どうぞ私より貧しくくらしてくださいよ。私ですら30数万しか全財産ないですからね。それより金儲けてんでしょうが? 売れない小説だして金儲けになるっていうなら、どうぞどうぞ。一人で新宿の雑踏で手売りしてくださいよ。それがあんたらのやるべきことだ。偉そうに商業作家の分際で出版社責めてるけれども。商売をなんだとおもってるんだ。お客に売れなきゃ自殺、芥川龍之介がそうだったじゃあないですか?
出版社は家族を養っている人達だの、まあ商売人の集まりですから。本も。金儲けですので。文化も兼ねているとほざく。だからカネが儲からなくてもいけるのだという。笑えてくるよ。純粋芸術をなめているのかと。何十年私が一円も稼がず毎日大量の文章を発表してきたと思っているのか。
あんたらは金儲けしててさ、村上春樹だか綿矢りさだか知らないけど。2chくんだりで散々蛮行してましたよねえ? 私に対しても。それが今度は商売じゃねえよだとかいっている。商売じゃないですか、ものの見事に。商業出版社から本だして金儲けしてきたでしょうが。全財産寄付してからいってくれよ? 売れない作家の本なんて出版社から出すなよ。自費で出せよ。馬鹿なのか。商売なめてるのか? カネ儲からなかったら死ぬんだよ皆。それがブログにすら書かず、自分で出版社様の世話になって本出してくださいとほざいて大勢の人に働かせてるんでしょうが。売れない本出すならブログ書けばいいだろうが? お前が金儲けしてるんだろうが。本で。カネ欲しさに売文してきたんだろうがよ。無料で出せ。それがお前のやるべきことだ。一円もとるな。俺みたいにな。それができねえなら黙って出版社の奴隷にでもなっていろ。ごみ作家どもが。
『日本国紀』。読みましたよ。それどころか手元にありますよ。そして私が書いたウィキペディアの記事がそのままコピーされてましたよ。まあそんな部類の本だということは皆知っている話だ。だからって一々つっかかるまでの話じゃねえだろ。下らん話だろうが。もっと高尚なこと考えてくらせ。売文屋が。小説屋も落ちぶれたもんどすなあ。まあ最初から高尚な部類のジャンルじゃないからね。本気で。三流文学の分野でしたもんね、はじまりからして。猥談書き散らしてただけの話ですからねえ? 紫式部さんからして。もともとのぼったことなんてないか、純粋芸術の世界になんて。漱石ですらそうだからな。
カネ欲しさにだかさ、自分の下らん政治思想の為に、出版社の社長に食ってかかりましたと。馬鹿なのか。お前が金儲けしてきただけだろうがよ。だから売れない商品いりませんと。それ、当たり前でしょうが? 売れない服を売ってたら服屋潰れますよ。お前が一人で売ればいいじゃないか。自分の文章をさ。
出版社の利害関係者の皆さん。株主様、取引先様、書店様、あるいは印刷屋様、あるいは社員、或いは書店員、読者、色んなステークホルダー様方がですよ。実売部数にして元が取れてない本を出す赤字作家みたいなのが当社の本を売れなくしていますと。『日本国紀』が虚構じゃないと誰かいいましたっけ? 当社の本がますます繁盛する様に言ってくれないと。これが社会のルールじゃ、ございませんこと? 当たり前どころの話じゃないでしょこれ。なんでさ、自分のところから本出してる作家が当社の悪口いうの。虚構かいてるやつがだよ。虚構の歴史書いたらダメと。そしたら先ず天皇から責めるべきじゃん。わが国の史書もどきの系譜。『古事記』からはじまってるよね。これも当然嘘八百ですよ。読んだことあるよね。最初からしてうそだよ。嘘で固められた地歩。それが出版業界ではございませんでしたか? 天皇が嘘書かせてまきちらしてきたんだからさ。作家の本がちゃんとした歴史書だと誰かがいいました?
気持ち悪いねえ、売文屋どもの出版社脅しは。幻冬舎の社長がかわいそう。だって売文屋どもは彼をみせしめにして、自分が有利になるよう他の出版社を脅迫してるつもりでしょうが。政治思想の違い如きで。卑しいやつらだねえ。前から小説屋どもは嫌いだったけど、というのも2ch文学板とかいうところで連中の実態をつぶさに見て、こんな悪徳まみれの極悪人どもが滅びないわけないと完璧に悟ったからだが、これは近づかなくて正解極まりなかったですね。今後とも近づかない様にします。本当にやくざまがいだ、出版屋を脅迫とか。
大勢でよってたかって1人を虐げる。しかもその社長の方が正論いってるからな。『日本国紀』、私のウィキの記事が直接剽窃され、悪解釈の文脈で直接のってましたと。だからって私が怒ってる? 「アハハハ」と思ってるよ。大騒ぎするほどの話じゃないよ。歴史は虚構じゃないの。史家をなめてるのよ。
私のところ。『大日本史』という歴史書を書いた先人がいるのね、私の県。その人の隠居所兼書斎を描いた伝統工芸の団扇があってつねに私の左斜め上にかかってるのね。西山荘行けばいい。彼の生涯の仕事って、そこらの小説書きみたいなレベルじゃないんです。厳格な考証は虚構を徹底的に排するものなの。俗書が売れますと。そんなのどの時代のどの地点でも、都会ならまあ先ず変わらないですよ。都会ってそんなもんですから。俗人が多いから都会なんです。もし立派な研究書が売れるなら、それは知識人、学者、研究者の間でですから。作家が書いた虚構の本、司馬遼太郎の様なもんですよ。俗塵の世界だよ。
歴史というのは過去にどの様なことがあったか、史料や実地検証を元に客観的事実を記述すべきもので、誰かがどこかでこの様に書いていた、というのはそのまま「Aという人がこう書いている」と書かないといけないんですよ。それが虚構を排することになる。この意味で学校の歴史教科書も虚構の本だよ。
『日本国紀』は出典がないからダメ、というのも間違ってる。なぜなら虚構は当人の思想を記述してるものだからだ。史書の偽装を施した小説というのがこの本なんですね。『古事記』や『日本書紀』と同じ体裁を踏襲している。どちらも殆どが嘘ですからね。まあ端的に言うと神話の書き方をしてるだけ。
『大日本史』は全部漢文だから読み通した人ほぼいないと思う。私も一巻の途中くらいまでしか読んでいない。だけど書き方としては正史の書き方をしていて、事実しか書かない様にしている形式は分かる。事実として分かっていることしか書かない姿勢に徹した本は立派な史書で、見ればわかるはずですよ。立派な歴史書もあれば下らん俗書もあるし、別に出版表現の自由ってそういうのを含めたものなんだから、或る歴史観をもった人が通俗書をまきちらしたからって世俗の人らしか影響受けないよ。歴史家といっても一流から三流までいるからね。そこらの教授レベルは二流以下です。本物は本物としているの。
私も死ぬまでには『大日本史』も全部読むかもしれないよ。ただ、きちんとした正史がどういう形式か知っていれば、そこらの通俗書に触れても免疫ができてるから一々怒ったりなんてしないんだよ。
世界を確実に変えるのはどういうものか。それは本物です。これは間違いなくいえますよ。科学的事実というのは世界を変える。歴史も科学です。或いは歴史観を伴うなんらかの政治哲学であれ、本物と偽物はありますよね。マルクスがいいましたね、世界を変えるのが大事だと。それは真理をつかむことです。私達は『大日本史』がどれほど日本と世界を変えたか知っています。殆どの人が読み通していないのに、あの本は皇統を整理し、維新の原因となり、現政府の基礎を作り、人類に植民地侵略に抗う勇気を与えた。学問は世界を変えます。商業出版は真の学問と何の関係もありません。真理のみに注目して下さい。
今回、神話みたいな歴史書風の小説で怒ってる小説家の皆さんは、あなたらが普段やってる嘘つきを反省したらどうですか? 嘘で金儲けてる商売人でしかない小説屋が、なぜ日本史に恣意的な色つけて流布した作家を叩くのか。司馬遼太郎もとんでもなく悪い嘘つきだからね。嘘の色が違うと怒るとは何かね?
要は「御用作家は気にいらねえ」と、「流用三昧で金儲けはずるい」といいたいんだろうけど、出版社の社長の判断としては当社から出版してる分際で当社の本を売れなくするやつは困るな、って当然の話ではなかろうか? 金儲けしないと破産する立場の人と、他に幾らでも出版先ある素浪人では立場が違う。
因みにこないだ100億円で売れた『うさぎ(ラビット)』のジェフクーンズは流用の権化だし、あの彫刻自体も子供用のおもちゃかなんかの流用シリーズだから。美術界だとウォーホルやリキテンシュタインくらいから流用は王道の手法になってて訴訟されても文脈になってるから。文芸はその点遅れている。例えば音楽でもリミックスとか歌ってみたとか流用的な手法は沢山あるけど、文芸でいうと、詩歌だと本歌とりはかなり昔からあったが小説だとない。小説は文芸界の中でも一番遅れてる分野だ。俺が実験小説沢山書いても何の反応もない。雑魚の集まりで後進的な足の引っ張り合いしてる商業界でしかない。ウォーホルの『花』は非常にいい絵だけどあれもどっかの写真家の写真を勝手に流用して引き伸ばし、シルクスクリーンでまきちらしたから訴訟され、確か罰金払ってた気がするけど美術館にも収められ教科書にも載っている。二次著作権がある今日ではもっと流用の幅も広まってるといえるな。流用は盗作ではないと。
まあ全員で幻冬舎の社長を叩いてる風だったので、私はそういう全体主義というか全会一致の幻想が本当に生理的に気持ち悪くて堪えられないので集団いじめしてる側を迎撃する意味で以下のことを書いたが、俺も最初から反安倍かつ皇室廃止論者なので政治思想面で『日本国紀』に共感は何もできないけどな。
俺が書いたウィキの部分は慶喜公の部分ですね。私が記述した筈の文章をほぼそのまま引用してあって、しかもその解釈を非常に悪意で恣意的にしてた様でしたね。慶喜公は父上から幕府に弓を引いても皇室に弓を決して引くな、ゆめ忘るるなかれ、といわれた庭訓を守ったのみと維新後に伊藤博文に言ってる。これは『徳川慶喜公伝』で慶喜公自身が伊藤に言ったのを渋沢栄一が聞いた話で、慶喜公の生前に出版された筈なので彼も記述を確認したろうし、事実でしょう。つまり百田氏は慶喜公は臆病だったといってるが全くの間違いですね。第一次長州征伐の陣頭指揮してました。百田氏は水戸学に無知です。
売文屋でしょ、小説家なんて。職業作家って商売人の一種なんだよ。下らないプライドで威張り散らしてるけどさ。寄付だけでくらせてるのか? 純粋芸術家だというなら、どうぞ私より貧しくくらしてくださいよ。私ですら30数万しか全財産ないですからね。それより金儲けてんでしょうが? 売れない小説だして金儲けになるっていうなら、どうぞどうぞ。一人で新宿の雑踏で手売りしてくださいよ。それがあんたらのやるべきことだ。偉そうに商業作家の分際で出版社責めてるけれども。商売をなんだとおもってるんだ。お客に売れなきゃ自殺、芥川龍之介がそうだったじゃあないですか?
出版社は家族を養っている人達だの、まあ商売人の集まりですから。本も。金儲けですので。文化も兼ねているとほざく。だからカネが儲からなくてもいけるのだという。笑えてくるよ。純粋芸術をなめているのかと。何十年私が一円も稼がず毎日大量の文章を発表してきたと思っているのか。
あんたらは金儲けしててさ、村上春樹だか綿矢りさだか知らないけど。2chくんだりで散々蛮行してましたよねえ? 私に対しても。それが今度は商売じゃねえよだとかいっている。商売じゃないですか、ものの見事に。商業出版社から本だして金儲けしてきたでしょうが。全財産寄付してからいってくれよ? 売れない作家の本なんて出版社から出すなよ。自費で出せよ。馬鹿なのか。商売なめてるのか? カネ儲からなかったら死ぬんだよ皆。それがブログにすら書かず、自分で出版社様の世話になって本出してくださいとほざいて大勢の人に働かせてるんでしょうが。売れない本出すならブログ書けばいいだろうが? お前が金儲けしてるんだろうが。本で。カネ欲しさに売文してきたんだろうがよ。無料で出せ。それがお前のやるべきことだ。一円もとるな。俺みたいにな。それができねえなら黙って出版社の奴隷にでもなっていろ。ごみ作家どもが。
『日本国紀』。読みましたよ。それどころか手元にありますよ。そして私が書いたウィキペディアの記事がそのままコピーされてましたよ。まあそんな部類の本だということは皆知っている話だ。だからって一々つっかかるまでの話じゃねえだろ。下らん話だろうが。もっと高尚なこと考えてくらせ。売文屋が。小説屋も落ちぶれたもんどすなあ。まあ最初から高尚な部類のジャンルじゃないからね。本気で。三流文学の分野でしたもんね、はじまりからして。猥談書き散らしてただけの話ですからねえ? 紫式部さんからして。もともとのぼったことなんてないか、純粋芸術の世界になんて。漱石ですらそうだからな。
カネ欲しさにだかさ、自分の下らん政治思想の為に、出版社の社長に食ってかかりましたと。馬鹿なのか。お前が金儲けしてきただけだろうがよ。だから売れない商品いりませんと。それ、当たり前でしょうが? 売れない服を売ってたら服屋潰れますよ。お前が一人で売ればいいじゃないか。自分の文章をさ。
出版社の利害関係者の皆さん。株主様、取引先様、書店様、あるいは印刷屋様、あるいは社員、或いは書店員、読者、色んなステークホルダー様方がですよ。実売部数にして元が取れてない本を出す赤字作家みたいなのが当社の本を売れなくしていますと。『日本国紀』が虚構じゃないと誰かいいましたっけ? 当社の本がますます繁盛する様に言ってくれないと。これが社会のルールじゃ、ございませんこと? 当たり前どころの話じゃないでしょこれ。なんでさ、自分のところから本出してる作家が当社の悪口いうの。虚構かいてるやつがだよ。虚構の歴史書いたらダメと。そしたら先ず天皇から責めるべきじゃん。わが国の史書もどきの系譜。『古事記』からはじまってるよね。これも当然嘘八百ですよ。読んだことあるよね。最初からしてうそだよ。嘘で固められた地歩。それが出版業界ではございませんでしたか? 天皇が嘘書かせてまきちらしてきたんだからさ。作家の本がちゃんとした歴史書だと誰かがいいました?
気持ち悪いねえ、売文屋どもの出版社脅しは。幻冬舎の社長がかわいそう。だって売文屋どもは彼をみせしめにして、自分が有利になるよう他の出版社を脅迫してるつもりでしょうが。政治思想の違い如きで。卑しいやつらだねえ。前から小説屋どもは嫌いだったけど、というのも2ch文学板とかいうところで連中の実態をつぶさに見て、こんな悪徳まみれの極悪人どもが滅びないわけないと完璧に悟ったからだが、これは近づかなくて正解極まりなかったですね。今後とも近づかない様にします。本当にやくざまがいだ、出版屋を脅迫とか。
大勢でよってたかって1人を虐げる。しかもその社長の方が正論いってるからな。『日本国紀』、私のウィキの記事が直接剽窃され、悪解釈の文脈で直接のってましたと。だからって私が怒ってる? 「アハハハ」と思ってるよ。大騒ぎするほどの話じゃないよ。歴史は虚構じゃないの。史家をなめてるのよ。
私のところ。『大日本史』という歴史書を書いた先人がいるのね、私の県。その人の隠居所兼書斎を描いた伝統工芸の団扇があってつねに私の左斜め上にかかってるのね。西山荘行けばいい。彼の生涯の仕事って、そこらの小説書きみたいなレベルじゃないんです。厳格な考証は虚構を徹底的に排するものなの。俗書が売れますと。そんなのどの時代のどの地点でも、都会ならまあ先ず変わらないですよ。都会ってそんなもんですから。俗人が多いから都会なんです。もし立派な研究書が売れるなら、それは知識人、学者、研究者の間でですから。作家が書いた虚構の本、司馬遼太郎の様なもんですよ。俗塵の世界だよ。
歴史というのは過去にどの様なことがあったか、史料や実地検証を元に客観的事実を記述すべきもので、誰かがどこかでこの様に書いていた、というのはそのまま「Aという人がこう書いている」と書かないといけないんですよ。それが虚構を排することになる。この意味で学校の歴史教科書も虚構の本だよ。
『日本国紀』は出典がないからダメ、というのも間違ってる。なぜなら虚構は当人の思想を記述してるものだからだ。史書の偽装を施した小説というのがこの本なんですね。『古事記』や『日本書紀』と同じ体裁を踏襲している。どちらも殆どが嘘ですからね。まあ端的に言うと神話の書き方をしてるだけ。
『大日本史』は全部漢文だから読み通した人ほぼいないと思う。私も一巻の途中くらいまでしか読んでいない。だけど書き方としては正史の書き方をしていて、事実しか書かない様にしている形式は分かる。事実として分かっていることしか書かない姿勢に徹した本は立派な史書で、見ればわかるはずですよ。立派な歴史書もあれば下らん俗書もあるし、別に出版表現の自由ってそういうのを含めたものなんだから、或る歴史観をもった人が通俗書をまきちらしたからって世俗の人らしか影響受けないよ。歴史家といっても一流から三流までいるからね。そこらの教授レベルは二流以下です。本物は本物としているの。
私も死ぬまでには『大日本史』も全部読むかもしれないよ。ただ、きちんとした正史がどういう形式か知っていれば、そこらの通俗書に触れても免疫ができてるから一々怒ったりなんてしないんだよ。
世界を確実に変えるのはどういうものか。それは本物です。これは間違いなくいえますよ。科学的事実というのは世界を変える。歴史も科学です。或いは歴史観を伴うなんらかの政治哲学であれ、本物と偽物はありますよね。マルクスがいいましたね、世界を変えるのが大事だと。それは真理をつかむことです。私達は『大日本史』がどれほど日本と世界を変えたか知っています。殆どの人が読み通していないのに、あの本は皇統を整理し、維新の原因となり、現政府の基礎を作り、人類に植民地侵略に抗う勇気を与えた。学問は世界を変えます。商業出版は真の学問と何の関係もありません。真理のみに注目して下さい。
今回、神話みたいな歴史書風の小説で怒ってる小説家の皆さんは、あなたらが普段やってる嘘つきを反省したらどうですか? 嘘で金儲けてる商売人でしかない小説屋が、なぜ日本史に恣意的な色つけて流布した作家を叩くのか。司馬遼太郎もとんでもなく悪い嘘つきだからね。嘘の色が違うと怒るとは何かね?
要は「御用作家は気にいらねえ」と、「流用三昧で金儲けはずるい」といいたいんだろうけど、出版社の社長の判断としては当社から出版してる分際で当社の本を売れなくするやつは困るな、って当然の話ではなかろうか? 金儲けしないと破産する立場の人と、他に幾らでも出版先ある素浪人では立場が違う。
因みにこないだ100億円で売れた『うさぎ(ラビット)』のジェフクーンズは流用の権化だし、あの彫刻自体も子供用のおもちゃかなんかの流用シリーズだから。美術界だとウォーホルやリキテンシュタインくらいから流用は王道の手法になってて訴訟されても文脈になってるから。文芸はその点遅れている。例えば音楽でもリミックスとか歌ってみたとか流用的な手法は沢山あるけど、文芸でいうと、詩歌だと本歌とりはかなり昔からあったが小説だとない。小説は文芸界の中でも一番遅れてる分野だ。俺が実験小説沢山書いても何の反応もない。雑魚の集まりで後進的な足の引っ張り合いしてる商業界でしかない。ウォーホルの『花』は非常にいい絵だけどあれもどっかの写真家の写真を勝手に流用して引き伸ばし、シルクスクリーンでまきちらしたから訴訟され、確か罰金払ってた気がするけど美術館にも収められ教科書にも載っている。二次著作権がある今日ではもっと流用の幅も広まってるといえるな。流用は盗作ではないと。
まあ全員で幻冬舎の社長を叩いてる風だったので、私はそういう全体主義というか全会一致の幻想が本当に生理的に気持ち悪くて堪えられないので集団いじめしてる側を迎撃する意味で以下のことを書いたが、俺も最初から反安倍かつ皇室廃止論者なので政治思想面で『日本国紀』に共感は何もできないけどな。
俺が書いたウィキの部分は慶喜公の部分ですね。私が記述した筈の文章をほぼそのまま引用してあって、しかもその解釈を非常に悪意で恣意的にしてた様でしたね。慶喜公は父上から幕府に弓を引いても皇室に弓を決して引くな、ゆめ忘るるなかれ、といわれた庭訓を守ったのみと維新後に伊藤博文に言ってる。これは『徳川慶喜公伝』で慶喜公自身が伊藤に言ったのを渋沢栄一が聞いた話で、慶喜公の生前に出版された筈なので彼も記述を確認したろうし、事実でしょう。つまり百田氏は慶喜公は臆病だったといってるが全くの間違いですね。第一次長州征伐の陣頭指揮してました。百田氏は水戸学に無知です。
記者の標的
下らない記者とやらにずけずけ批判をぶつけ
そいつの無能を暴いてやれ
連中の一生など他人の不幸を切り売りし
下らない肩書きで身を固め
ごみみたく嘘をまきちらしているだけ
己の裁いているつもりの加害者たちが
真の被害者だと知ってもなお
やつらの標的はお前なのだから
そいつの無能を暴いてやれ
連中の一生など他人の不幸を切り売りし
下らない肩書きで身を固め
ごみみたく嘘をまきちらしているだけ
己の裁いているつもりの加害者たちが
真の被害者だと知ってもなお
やつらの標的はお前なのだから
恥
都会人は自分の住む場所がいなかと知らない
そのせいで多くの恥をかき初めて
自分が井の中の蛙だったと知るのだ
彼らが世界の中心だと思っている場所など
無用なまま幸福に暮らす人達がこれ程いるとは
そして彼らが誇っているすべてが虚無だとは
豊かに暮らす外の世界を見るまで知らない
そのせいで多くの恥をかき初めて
自分が井の中の蛙だったと知るのだ
彼らが世界の中心だと思っている場所など
無用なまま幸福に暮らす人達がこれ程いるとは
そして彼らが誇っているすべてが虚無だとは
豊かに暮らす外の世界を見るまで知らない
人として
救いを超えた世界を探す
お前はだれからも望まれない
お前の前にも後にも無の音符がとりまき
旅先の店先にぶら下げられている
だからあきらめて放り投げ
なにも成し遂げられない動物として
二足歩行のサルどもの一員となり
下らない生涯をくり返したのだろう
価値のない労働
無限の後悔の中で
人として
お前はだれからも望まれない
お前の前にも後にも無の音符がとりまき
旅先の店先にぶら下げられている
だからあきらめて放り投げ
なにも成し遂げられない動物として
二足歩行のサルどもの一員となり
下らない生涯をくり返したのだろう
価値のない労働
無限の後悔の中で
人として
首相に反省力がない以上、安倍氏と自民に投票している有権者を直接叩くべき
首相が無能だ、腐ってると非難してる人らは、矛先を間違えている。無能で腐敗したダークトライアドなんて探せばごろごろいるが、そんなのをわざわざ首相に選んでる人達が悪いだけ。山口4区の有権者の一部と、自民党に投票している人達が無能で腐敗したダークトライアドを自ら選ぶ、真の巨悪なのだ。山口県4区の有権者の一部と、自民党に投票した愚図が悪いのであって、彼らは悪意か暗愚かどちらか故にダークトライアドの独裁者をもちあげている。安倍氏が幾ら外道でも普通に有権者の一部がそんなの選ばなければいいだけなのだから。反省力がない首相と分かってるだろうに。本丸は山口4区の人らだよ。
私は生まれて1度も自民党に投票したことはないし、今後もしないだろう。保守とかいうただ無能なだけの後進的下衆なんてのは理解もできないし、そうなりたいとも思わない。一歩でも進歩しなければ競争相手に潰されるだけである。少なくとも進歩的政党、つまり自民党以外にしか投票する意味はない。
山口4区の有権者の一部と、自民党に投票した人達が「極悪人」だからあんなのがいつまでも権力の座に居座ってると冷厳に認識し、これらの人達の罪を問い責めあぐむべきだ。
ちなみに天皇支持者だか皇室維持論者もただの愚図だからね。断言するが。そんなのとつるんでてもろくな人生にならないだろうよ。主権在民と矛盾する身分差別だか人種差別だか性差別だかの遺構をいつまでも持ち上げてるのはなぜですか。その人達が馬鹿だから以外の理由はない。その人達が差別される側なのに喜んでいるのですからね。米国や中国を御覧なさい。どこの誰が自分を超えた身分からの差別を認めているのか。時代遅れです。
思想が進歩したら過去の制度なんてすぐ撤廃でいいんだよ。でなければなぜいつまでも古代のままでいなかったのか。狩猟採集民を続けていればよかったではないか? なぜ唯物史観宜しく情報文明まで進んできたのだね? 既に人権が広範に認められるに至った。主権者が、いまだに天皇陛下万歳じゃないよ。あなたがこの国を統治しているのであり、間接選挙で首相を任命してるわけでしょ? ならばあなたを超えた身分なんて認めなくていい。国民が最上の地位にあり、国民自身を統治すればよい。神道教祖を象徴だかいってるのは完全に政教一致のおしつけですよ。私は神道信者じゃないんだから。
私は生まれて1度も自民党に投票したことはないし、今後もしないだろう。保守とかいうただ無能なだけの後進的下衆なんてのは理解もできないし、そうなりたいとも思わない。一歩でも進歩しなければ競争相手に潰されるだけである。少なくとも進歩的政党、つまり自民党以外にしか投票する意味はない。
山口4区の有権者の一部と、自民党に投票した人達が「極悪人」だからあんなのがいつまでも権力の座に居座ってると冷厳に認識し、これらの人達の罪を問い責めあぐむべきだ。
ちなみに天皇支持者だか皇室維持論者もただの愚図だからね。断言するが。そんなのとつるんでてもろくな人生にならないだろうよ。主権在民と矛盾する身分差別だか人種差別だか性差別だかの遺構をいつまでも持ち上げてるのはなぜですか。その人達が馬鹿だから以外の理由はない。その人達が差別される側なのに喜んでいるのですからね。米国や中国を御覧なさい。どこの誰が自分を超えた身分からの差別を認めているのか。時代遅れです。
思想が進歩したら過去の制度なんてすぐ撤廃でいいんだよ。でなければなぜいつまでも古代のままでいなかったのか。狩猟採集民を続けていればよかったではないか? なぜ唯物史観宜しく情報文明まで進んできたのだね? 既に人権が広範に認められるに至った。主権者が、いまだに天皇陛下万歳じゃないよ。あなたがこの国を統治しているのであり、間接選挙で首相を任命してるわけでしょ? ならばあなたを超えた身分なんて認めなくていい。国民が最上の地位にあり、国民自身を統治すればよい。神道教祖を象徴だかいってるのは完全に政教一致のおしつけですよ。私は神道信者じゃないんだから。
ある愛国者による都内講演会の記録
資本主義より信用できるしくみがある?
勿論資本主義以外でだが
(会場笑い)
金儲けが人類を救うと学校で教わった
だから僕らはこの国にきた
(会場拍手)
さあ歌おう
大日本帝国万歳!
(会場合唱)
それでは会場の皆さん
料金はこちらです
貧乏人は失せろ
ここは陛下の聖地だぞ
(会場爆笑)
勿論資本主義以外でだが
(会場笑い)
金儲けが人類を救うと学校で教わった
だから僕らはこの国にきた
(会場拍手)
さあ歌おう
大日本帝国万歳!
(会場合唱)
それでは会場の皆さん
料金はこちらです
貧乏人は失せろ
ここは陛下の聖地だぞ
(会場爆笑)
匿名の犯罪幇助
「匿名で誹謗すればええやん」
と或る神奈川出身の東京人が言う
大勢の極悪人がそこに群れ
大挙して悪業を蓄積していった
犯罪の山は手に負えなくなり
日本を完全な地獄にした
自殺者は天に届き
死体で埋まった地上は血で溢れ
はじめに犯罪の場を与えた東京人は
フランスから相変わらずカネを貪った
と或る神奈川出身の東京人が言う
大勢の極悪人がそこに群れ
大挙して悪業を蓄積していった
犯罪の山は手に負えなくなり
日本を完全な地獄にした
自殺者は天に届き
死体で埋まった地上は血で溢れ
はじめに犯罪の場を与えた東京人は
フランスから相変わらずカネを貪った
納税奴隷の育成
私は幸せですよ?
なぜなら大金をもっているから
あなたは不幸です
なぜなら私より貧乏だから
これが日本のルールなので
ではあなたは金儲け競争しなさい
死ぬまでです
私より幸せになりたいですと?
それはできない相談です
なぜなら私は皇族なので
あなたは永遠に不幸なのです
さあ働いて!
なぜなら大金をもっているから
あなたは不幸です
なぜなら私より貧乏だから
これが日本のルールなので
ではあなたは金儲け競争しなさい
死ぬまでです
私より幸せになりたいですと?
それはできない相談です
なぜなら私は皇族なので
あなたは永遠に不幸なのです
さあ働いて!
はりつけ
あなたには途方もない才能があります
だからただ働きしてください
そうです無償で
しかも一生
どうしてか?
凡愚でうずまったこの世でねたまれない為
はいそれだけ
なにも得てはなりませんよ
ただ苦労だけ背負いしぬ
そして神になる
天才伝説として
下らない世界の救世主
はりつけになるのです
だからただ働きしてください
そうです無償で
しかも一生
どうしてか?
凡愚でうずまったこの世でねたまれない為
はいそれだけ
なにも得てはなりませんよ
ただ苦労だけ背負いしぬ
そして神になる
天才伝説として
下らない世界の救世主
はりつけになるのです
機械の教え
労働はえらいんだぞ
資本家のいうとおりにするんだ
金持ちの命令に従っておけば間違いない
そして無職をいじめるんだ
一文無しの連中はごみ以下だ
とにかく働くんだぞ
働くってのは命令に従うんだ
そうだ上にいわれたとおりにするんだ
何も考えずひたすらあちこち行け
いいか一番偉いのは機械だ
資本家のいうとおりにするんだ
金持ちの命令に従っておけば間違いない
そして無職をいじめるんだ
一文無しの連中はごみ以下だ
とにかく働くんだぞ
働くってのは命令に従うんだ
そうだ上にいわれたとおりにするんだ
何も考えずひたすらあちこち行け
いいか一番偉いのは機械だ
自称文化
「搾取したいので交尾してくれますか?
そうどす
交尾どす
あなた様みたいな奴隷はんがな
繁殖してくれへんと搾取できひんのやわ」
なるほど桂離宮はこんなもんね
御所といい庶民を見下しみくだし
奴隷制を強いてきた歴史遺産とやら
なんとすばらしいのでしょう
「ほなおおきに」
自称文化はええどすな
そうどす
交尾どす
あなた様みたいな奴隷はんがな
繁殖してくれへんと搾取できひんのやわ」
なるほど桂離宮はこんなもんね
御所といい庶民を見下しみくだし
奴隷制を強いてきた歴史遺産とやら
なんとすばらしいのでしょう
「ほなおおきに」
自称文化はええどすな
批判
批判は無意味だと
脳がサル位の下衆がいう
それならそれでよいが
実際にお前は神なのか
あなた様に落ち度などなにもなく
生まれて死ぬまで過ちなどしないので
外道のざれごとに耳を貸さず
的外れの悪口などどうでもいいので
目を塞ぎみなかったことにしよう
批判は無価値だと
脳がごみ未満の君はいう
脳がサル位の下衆がいう
それならそれでよいが
実際にお前は神なのか
あなた様に落ち度などなにもなく
生まれて死ぬまで過ちなどしないので
外道のざれごとに耳を貸さず
的外れの悪口などどうでもいいので
目を塞ぎみなかったことにしよう
批判は無価値だと
脳がごみ未満の君はいう
現人神のお告げ
神より偉大な君主
天地を超え
遙かなる時空の地平線をすべる
無限のかなたより来たる
散りぢりの世々をまといて
あなたの前には何もなく
あなたのあとにも無しかない
時の底に眠りし民草も
この邪悪なる覇道によりて
永世の奴隷たる営みを喜ぶであろう
さあ崇めるのだ
日本国を
下僕たる神道信者どもよ
天地を超え
遙かなる時空の地平線をすべる
無限のかなたより来たる
散りぢりの世々をまといて
あなたの前には何もなく
あなたのあとにも無しかない
時の底に眠りし民草も
この邪悪なる覇道によりて
永世の奴隷たる営みを喜ぶであろう
さあ崇めるのだ
日本国を
下僕たる神道信者どもよ
すばらしい芸術
漫画はすばらしいですよ
アニメはうつくしいです
ゲームはおもしろいです
衆愚がそうほざくので
私はその通りかなと思っていた
だから余りの幼稚さに驚き
こいつらが本物の馬鹿だと悟ってから
まだ連中の発狂がやまないので
この国は動物園以下だと
軽蔑しながら眺めていた
大金を手にする漫画家の横で
アニメはうつくしいです
ゲームはおもしろいです
衆愚がそうほざくので
私はその通りかなと思っていた
だから余りの幼稚さに驚き
こいつらが本物の馬鹿だと悟ってから
まだ連中の発狂がやまないので
この国は動物園以下だと
軽蔑しながら眺めていた
大金を手にする漫画家の横で
呟き
誰もがあなたを愛している
誰もがあなたの前で賞賛する
あなたが愛されるべき存在だと
さも両手に溢れる花束をもち
天に嘉された存在だと
誰もがそう思い込んでいた
大金があなたにあると気づいた人々は
あなたを憎みながら陥れた
誰もがあなたを愛していると
両手に溢れる札束をもち
あなたは呟いた
誰もがあなたの前で賞賛する
あなたが愛されるべき存在だと
さも両手に溢れる花束をもち
天に嘉された存在だと
誰もがそう思い込んでいた
大金があなたにあると気づいた人々は
あなたを憎みながら陥れた
誰もがあなたを愛していると
両手に溢れる札束をもち
あなたは呟いた
美術館
私は素晴らしい絵を描く
そしてそれが人類を救済する
しかし人類は私に感謝しない
人類は私を見殺しに贅沢三昧に耽る
なぜなら彼らは邪悪だから
では私は何を救ったのか
救うべきでさえない極悪人どもを
死すべき存在を
地獄に住まう下衆どもを
私の絵の行き先を尋ねても
見えてくるのは死体の山だ
そしてそれが人類を救済する
しかし人類は私に感謝しない
人類は私を見殺しに贅沢三昧に耽る
なぜなら彼らは邪悪だから
では私は何を救ったのか
救うべきでさえない極悪人どもを
死すべき存在を
地獄に住まう下衆どもを
私の絵の行き先を尋ねても
見えてくるのは死体の山だ
民主主義も資本主義も皇室も信用ならない
もし資本主義者、つまり商人、労働者のいうことが正しいなら、皇室に俺が払ってる税金分捕られるくらいなら100円でも200円でも取り返して、今すぐ近所の自販機いってコーラ買って飲みますよ、となるよね。それが正義だ、というのが資本主義だもんね。そして私もそのほうが幸せだよ。
「自分のリターンは?」「いくらくれるの?」「で、皇室が俺にもたらす収益の額は?」「俺が年間払ってる税金以下のリターンしかよこさない制度なんて今すぐ潰せよ」これで終わりだよね、議論。
もし皇室が善だというなら有益だというなら、私に生活保護以上のカネでもよこせばいいじゃないですか? この極悪国民日本人という連中は、朝から晩まで寝ずに働いても1円もよこさないんですよ。その極悪国民を洗脳し贅沢三昧してる殺人邪教祖、しかも侵略犯の末裔をなんで犠牲者の私が崇めるの? カネ払ってやってる私が、しかも全資産が30数万くらいの私が、なんで極悪邪教祖だか私から搾取する一方の極悪日本国だか極悪日本国民だかを崇め奉るの? 謎でしかない。どこをどう間違えると虐げられる側が虐げる側を崇めると思うんだろう。当然だが「すぐ消えろごみ」以外の感想がないんだけど。1400年だか2679年だか知らんが我々日本人を侵略して、散々奴隷化して搾取してきた中国人さんの末裔がですよ。その暴力団の末裔如きがなにゆえに私の生活費から金を分捕り、ヤクザと群れて威張り散らしているのか。ほんとコーラ1本のがあんたらより価値あるよ、としかいいようがないですよ。
結局、皇室の存在は、東京都民だか京都府民だか京都市民だかがヤクザの親玉を擁して全日本人を見下す手段に過ぎないわけですよ。どうだこのオウム真理教の親分以上に邪悪な殺人教祖は、逆らったら配下の暴力団がお前を脅迫するんだと。それだけの話に何で俺がカネを払うのか。まじでコーラ1本返してよ。
皇族の存在は日本の誇りだ論者いるよね。私はこの種の人達は本物の馬鹿だと思ってます。なぜならあなたは皇族じゃないからですよ。あなたはただの庶民、貧乏人、血統が卑しいという扱いで、犯罪したら逮捕だし何の特権ももっていない。邪教祖に同一化してるんだろうが、それは防衛機制だよ。
卑しい人が溢れるSNS。下衆の心魂を眺めるほど民主主義が信用ならないと分かる。
「自分のリターンは?」「いくらくれるの?」「で、皇室が俺にもたらす収益の額は?」「俺が年間払ってる税金以下のリターンしかよこさない制度なんて今すぐ潰せよ」これで終わりだよね、議論。
もし皇室が善だというなら有益だというなら、私に生活保護以上のカネでもよこせばいいじゃないですか? この極悪国民日本人という連中は、朝から晩まで寝ずに働いても1円もよこさないんですよ。その極悪国民を洗脳し贅沢三昧してる殺人邪教祖、しかも侵略犯の末裔をなんで犠牲者の私が崇めるの? カネ払ってやってる私が、しかも全資産が30数万くらいの私が、なんで極悪邪教祖だか私から搾取する一方の極悪日本国だか極悪日本国民だかを崇め奉るの? 謎でしかない。どこをどう間違えると虐げられる側が虐げる側を崇めると思うんだろう。当然だが「すぐ消えろごみ」以外の感想がないんだけど。1400年だか2679年だか知らんが我々日本人を侵略して、散々奴隷化して搾取してきた中国人さんの末裔がですよ。その暴力団の末裔如きがなにゆえに私の生活費から金を分捕り、ヤクザと群れて威張り散らしているのか。ほんとコーラ1本のがあんたらより価値あるよ、としかいいようがないですよ。
結局、皇室の存在は、東京都民だか京都府民だか京都市民だかがヤクザの親玉を擁して全日本人を見下す手段に過ぎないわけですよ。どうだこのオウム真理教の親分以上に邪悪な殺人教祖は、逆らったら配下の暴力団がお前を脅迫するんだと。それだけの話に何で俺がカネを払うのか。まじでコーラ1本返してよ。
皇族の存在は日本の誇りだ論者いるよね。私はこの種の人達は本物の馬鹿だと思ってます。なぜならあなたは皇族じゃないからですよ。あなたはただの庶民、貧乏人、血統が卑しいという扱いで、犯罪したら逮捕だし何の特権ももっていない。邪教祖に同一化してるんだろうが、それは防衛機制だよ。
卑しい人が溢れるSNS。下衆の心魂を眺めるほど民主主義が信用ならないと分かる。
関西から移民した東京都民達の素描
「カネを貪れ! 差別をまきちらせ!」
東京で関西人が言う。
「カネが全てや。ええから黙れや! 納豆臭いねん」
中国朝鮮から入り込んだ極悪人達が商売人として威張り散らす。
「港区が偉いんや。黙れや!」
「ギャハハ」
「皇族に従って納税しとけや」
「臭いねん」
計54人の極悪人達が日本中に散らばって言う。
「カネや、カネや!」「臭いねん」「差別大好きやで」
なるほどこれが関西人の望んだ世界。
では彼らは幸せだというのか。
「もっとカネや!」「ええから黙れや!」「カネ儲けやで」
東京中に関西から流れてくる衆愚。
今日も卑しい商売で国中を不幸にしていく。
「原発なんて田舎もんにおしつけろや!」「臭いねん」
東京で関西人が言う。
「カネが全てや。ええから黙れや! 納豆臭いねん」
中国朝鮮から入り込んだ極悪人達が商売人として威張り散らす。
「港区が偉いんや。黙れや!」
「ギャハハ」
「皇族に従って納税しとけや」
「臭いねん」
計54人の極悪人達が日本中に散らばって言う。
「カネや、カネや!」「臭いねん」「差別大好きやで」
なるほどこれが関西人の望んだ世界。
では彼らは幸せだというのか。
「もっとカネや!」「ええから黙れや!」「カネ儲けやで」
東京中に関西から流れてくる衆愚。
今日も卑しい商売で国中を不幸にしていく。
「原発なんて田舎もんにおしつけろや!」「臭いねん」
真の商人
わしらは偉大や
なぜならわしらはカネを儲けるからや
わしらはカネの為ならなんでもするで
わしらは邪教祖を崇め殺人と差別の歴史をもち
わしらは帰化人やから
わしらは東京都民やから
わしらは京都市民やから
わしらは神々の手の平の上でカネを貪るんや
わしらは農民や発酵食品を侮辱し
わしらは東海道を東へ行く真の商人なんや
なぜならわしらはカネを儲けるからや
わしらはカネの為ならなんでもするで
わしらは邪教祖を崇め殺人と差別の歴史をもち
わしらは帰化人やから
わしらは東京都民やから
わしらは京都市民やから
わしらは神々の手の平の上でカネを貪るんや
わしらは農民や発酵食品を侮辱し
わしらは東海道を東へ行く真の商人なんや
日本人正社員の特権待遇は撤廃されるべき
終身雇用制はそろそろやめますね、と大企業がいいだしてるのは、自民としては株価があがって望ましい(なぜか株価あげて格差ひろげると庶民が歓喜する。株持ってないんだから相対的に損してるのに景気回復と勘違いする)わけだから、一体だれが怒ってるかというと、正社員になりたがってる人らでしょ?
終身雇用制をやめる、全体を非正規雇用あつかいにすると、日本株を持ってる人(資本家)は総じて株主還元がふえるからラッキーとなる。そして正社員に新卒採用されなかった人ら、或いは正社員になりたくなかった人らからしても、正社員からの社会的差別の土台が崩され、恨み晴らしとなる。
大体、GAFAだかFAANGが素晴らしいといってるならそこの勤続年数が平均1~5年くらいで超絶短いのは? 日本だって会社を渡り歩く技術者の集まりにしないと保身第一の無能が居残って実力次第にならないでしょ、と。中国も米国と同じくらい短期と。
http://tamakino.hatenablog.com/entry/2018/06/12/080000
https://uslifelog.com/tech-tenure/
(次の2つは勤続年数の中央値)
https://matthew-sg.hatenablog.com/entry/2019/05/02/190822
https://hackerlife.co/blog/san-francisco-large-corporation-employee-tenure
(以上で中央値・平均値いずれもFAANG技術者の勤続年数がほぼ3年以内とわかる)
日本国民全般は「正社員」という特権待遇の身分制を維持し、社会保障の代わりにしようという国家社会主義そのものの発想をしながら、なぜか私企業にすぎない経団連大企業のせいにしている。一言でいうと後進性そのものではないだろうか。私の勘違いなのかもしれないが、米中企業の方が成績優秀なので。
経営の観点からいったら、無能はさっさと首にし渡りの技術者でも最優秀なのを囲った方がいいに決まってるんだから、3年でもなんでもいいでしょう? 雇われてるだけ感謝しろよという話で。それが偉ぶって正社員とほざき、米中の神級の技術者も3年でやめてるのに日本のごみは15年も居座っていると。経団連は温情でごみを雇い家族を養わせてやっているのに、逆に経団連に噛みつくなんてお門違いもいいところ、寧ろ社会保障は政府の責任なのに安倍には生活保護きりすてさせ役人にも水際作戦とか意味不明な悪事させ喜んでいる。日本人労働者の異質さ、心得違いが甚だしい。だから生産性低いのでしょ。
「社員個々人の生産性なんてどうでもいいのでござんす、労組もどうでもいいでござんす。正社員で生活保障を企業がする。これが日本流儀でござんすよ」と、日本商人どもは言っている。しかしこれで成功するならいいけど、普通に負けまくっている。だから全部非正規で期間雇用にしますよと。正論では?
全部非正規にしたら長期勤続で技術保守ができないんですよと。これが主要な反論でしょ。この論理の怪しさは、じゃあFAANGは? BATだかBATH(Baidu、Alibaba、Tencent、Huawei)は? となる。経団連大企業が時価総額で負けてるのに何を保守しているのか。謎極まりない話である?
経営って金儲けなんだから、利害関係者を全員納得させいかに企業の時価総額をあげていくかの競争といいかえてもいいでしょ。それが資本主義なのだから。保守しますとかいって負けても誰も責任とらない。つまりは日本正社員がごみすぎるから切る、社会保障は政府がやってくれ、と当然の話になるわけだ。竹中平蔵氏みたいに派遣会社で政商行為してた人が悪者扱いされているし、実際に悪者かもしれないけど、社会保障をしっかりすることでカバーすればよかったのに、自分らで自分らの安全網を撤去させてたのが日本人労働者だったじゃないですか。だから私はずっと社民政策で生保捕捉率あげろといっていた。
正社員は自分らが身分制で守られた武士階級だくらいの威張り方で、無職ニートその他を本当に完全に人権侵害レベルで差別しまくってきていたと。侮辱や名誉毀損はいうまでもなく、そもそも人間扱いせず自殺においつめている場面もよくみた。だから正社員には何の威厳も尊さもないと思う。自業自得だよ。
終身雇用制をやめる、全体を非正規雇用あつかいにすると、日本株を持ってる人(資本家)は総じて株主還元がふえるからラッキーとなる。そして正社員に新卒採用されなかった人ら、或いは正社員になりたくなかった人らからしても、正社員からの社会的差別の土台が崩され、恨み晴らしとなる。
大体、GAFAだかFAANGが素晴らしいといってるならそこの勤続年数が平均1~5年くらいで超絶短いのは? 日本だって会社を渡り歩く技術者の集まりにしないと保身第一の無能が居残って実力次第にならないでしょ、と。中国も米国と同じくらい短期と。
http://tamakino.hatenablog.com/entry/2018/06/12/080000
https://uslifelog.com/tech-tenure/
(次の2つは勤続年数の中央値)
https://matthew-sg.hatenablog.com/entry/2019/05/02/190822
https://hackerlife.co/blog/san-francisco-large-corporation-employee-tenure
(以上で中央値・平均値いずれもFAANG技術者の勤続年数がほぼ3年以内とわかる)
日本国民全般は「正社員」という特権待遇の身分制を維持し、社会保障の代わりにしようという国家社会主義そのものの発想をしながら、なぜか私企業にすぎない経団連大企業のせいにしている。一言でいうと後進性そのものではないだろうか。私の勘違いなのかもしれないが、米中企業の方が成績優秀なので。
経営の観点からいったら、無能はさっさと首にし渡りの技術者でも最優秀なのを囲った方がいいに決まってるんだから、3年でもなんでもいいでしょう? 雇われてるだけ感謝しろよという話で。それが偉ぶって正社員とほざき、米中の神級の技術者も3年でやめてるのに日本のごみは15年も居座っていると。経団連は温情でごみを雇い家族を養わせてやっているのに、逆に経団連に噛みつくなんてお門違いもいいところ、寧ろ社会保障は政府の責任なのに安倍には生活保護きりすてさせ役人にも水際作戦とか意味不明な悪事させ喜んでいる。日本人労働者の異質さ、心得違いが甚だしい。だから生産性低いのでしょ。
「社員個々人の生産性なんてどうでもいいのでござんす、労組もどうでもいいでござんす。正社員で生活保障を企業がする。これが日本流儀でござんすよ」と、日本商人どもは言っている。しかしこれで成功するならいいけど、普通に負けまくっている。だから全部非正規で期間雇用にしますよと。正論では?
全部非正規にしたら長期勤続で技術保守ができないんですよと。これが主要な反論でしょ。この論理の怪しさは、じゃあFAANGは? BATだかBATH(Baidu、Alibaba、Tencent、Huawei)は? となる。経団連大企業が時価総額で負けてるのに何を保守しているのか。謎極まりない話である?
経営って金儲けなんだから、利害関係者を全員納得させいかに企業の時価総額をあげていくかの競争といいかえてもいいでしょ。それが資本主義なのだから。保守しますとかいって負けても誰も責任とらない。つまりは日本正社員がごみすぎるから切る、社会保障は政府がやってくれ、と当然の話になるわけだ。竹中平蔵氏みたいに派遣会社で政商行為してた人が悪者扱いされているし、実際に悪者かもしれないけど、社会保障をしっかりすることでカバーすればよかったのに、自分らで自分らの安全網を撤去させてたのが日本人労働者だったじゃないですか。だから私はずっと社民政策で生保捕捉率あげろといっていた。
正社員は自分らが身分制で守られた武士階級だくらいの威張り方で、無職ニートその他を本当に完全に人権侵害レベルで差別しまくってきていたと。侮辱や名誉毀損はいうまでもなく、そもそも人間扱いせず自殺においつめている場面もよくみた。だから正社員には何の威厳も尊さもないと思う。自業自得だよ。
2019年5月17日
なぜ皇室廃止が必要といえそうか
スノーデンが漏らしたとされる「スズメバチの巣作戦」に根拠はないとするブログ、すなわち「米英以(以は以色列でイスラエルの漢字表記の略)政府の情報機関によってイスラム国(IS、ISIS、ISIL)が捏造され、イスラエルの周囲に反イスラム国際世論の的となる仮想敵を作り出すのを目的としている」根拠はないとするブログがある。
当該報道の一例(https://archive.is/swaqT)
日本語訳(http://archive.is/jto1G)
当該報道を陰謀論として否定するブログ(http://archive.is/gR9JL)
最後にあげたブログではそもそもスノーデンのNSAキャッシュに当作戦の記述がないことを根拠に、中東に広まるデマだと結論している。
がもしただのデマとしても、なぜこの種の陰謀論が出現したか省みると、米英仏以軍らが明らかに罪のないイスラム圏の諸国を一方的に侵略していることへの疑義だろう。そして過去の日本史、世界史を鑑みても、米英仏軍らは既にこの種の侵略を世界各地でやってきた。いわゆる植民地侵略の時代からの伝統手法が「敵の同士討ちを煽る」内乱作戦、『アテルイ伝』で桓武天皇が「蝦夷を以て蝦夷を討つ」といい実際、幕末も東北の日本人同士に殺し合わせた新政府軍のやり口だ。例えば茂木健一郎氏は坂本龍馬という歴史上の人物を大層ほめちぎるが、この人はスコットランド商人から反政府勢力に武器を横流しし、大金を懐手にしていた死の商人だ。結果、最後の内乱(戊辰戦争)の直接原因となり、数万人規模の日本人同士の殺し合いで大量死が起きた。今日でいう内乱罪人なわけだ。
今日、中東で起きている大規模内乱の直接原因が、「スズメバチの巣作戦」でいうとおりの起源(つまり米英以政府による内乱戦術)をもつとはいいきれないが、過去には似た例があった以上、全くありえない話とも私は思わないのだ。そして現時点でも日本国民の圧倒的多数は素朴に、米軍の善悪を問わない。
再び幕末の例でいうと、当時の水戸学者らは朝鮮を除く周辺諸国全てが植民地化されたのを前提に、統一国家の形成・国防理論として尊攘論を唱え全国に遊説した。結果、国防意識ができ統一に成功した。が薩長は上述の坂本に唆され内乱分子となり国内侵略を始め、英仏の公使は幕府との内乱を煽っていた。将軍が自己犠牲によって東西最大勢力同士の最終戦争は避けられたが、少なくともあの時、英仏がやりたがっていたのは正義の名を借りた内乱誘導である。例えばインディアンの中でポカホンタスの様なスケープゴートの役割を福沢諭吉は義塾生の金玉均に担わせようとしたが、失敗し脱亜論者に転化したのだ。
小泉純一郎首相(当時)が米軍の片棒を担ぎ、イラク戦争に参加したのは、大量破壊兵器がなかった以上、単なる侵略戦争への加勢だった。シリア騒乱についても同じ文脈があてられる。安倍首相は米国製の武器を買い、以国へ(彼の兄が重役を務める会社系列である)三菱系含む武器を売り込みに行った。総じて米英仏以日の各政府は、起源はどうあれイスラム国鎮圧という名目で、中東の国々への侵略戦争を戦争屋の金儲けになるとみているのだ。簡単にいうとケインズ政策の最も凶悪な形が侵略戦争になっている。これは日本史で戊辰・日清・日露戦争くらいから既にそうだった節もあり、亡国の引き金だった。戦争誘導で国内産業を振興させようとする意図は、当然だが人類の大量死とひきかえだ。死の商売といわれるゆえんで、坂本龍馬が生き残っていたら更に大儲けしながら幾重の人類をアジア各地で殺戮しまくる凶弾供給元になったに違いない。
何がいいたいか。この種の蛮行に与するのは罪悪だというのだ。
皇室廃止は政教分離によって宗教戦争の火元をとりのぞく意味があると私はいった。例えば十字軍の類は現実的判断を超えた少年兵を生み出し、会津戦争でいう白虎隊状態になったわけで、宗教的聖戦意識を思想の根元から除去しておけば上述の戦争屋の悪意に政府・軍隊・自衛隊を操られる危険を予め防げる。日本史でいうと、はじめは坂本龍馬の私利私欲が、最終的に第二次大戦に至る火種になったといえるが、最初の火種がいかに小さくみえても戦争屋が暴力団を操るかぎり火事は拡大を続ける。終局では人間魚雷と原爆のぶつけあいになった。
でブッシュがWTC(World Trade Center)を破壊され怒るのは彼が資本主義信者だからだ。
例えば資本主義信者ではない場合。色々な知識を総合し資本主義がただの一宗教だと知り狂信を免れている。なので資本主義の象徴、いわば聖堂であるWTCをイスラム過激派に破壊されても、「アダムスミス対ムハンムドで戦争はないだろう」と冷静に内治を優先できたわけで、イラク侵略まで無用だったのだ。ラディンの逮捕は必要だったかもしれないが、かといって無関係でしかない一般市民を大量虐殺しまくったイラク戦争は凶悪な上に雑すぎる侵略で、勿論、何の必要もなかった。資本主義教の聖典『国富論』と『コーラン』が対立する内容を含んでいたとしても、鵜呑みで殺し合いなど無意味。それが政治だ。
より具体的にいうと、『国富論』では見えざる手として市場放任が正当化される。一方『コーラン』では善意からの喜捨(寄付)を前提に、イスラム教徒が異教徒に攻撃されたら殺してでも立ち向かえよと書いてあるわけだ。市場放任だけじゃダメ、貧しい人に寄付しなさい、そして売られた喧嘩は買えよと。で、この部分はあんま詳しくないが、ラディンがなんで9.11の加担者側になってるかというと、およそブッシュ父が湾岸戦争時にマディーナという聖地に異教徒である米軍を軍事侵攻させたので、喧嘩売ってると判断し、「異教徒に攻撃されたら殺してよい」とする聖戦の教義に該当する復讐、として企てたと。米国政府の教義はアダムスミスに遡ると原則は市場放任で、途中でワシントン演説に遡れる孤立主義が入り、今のトランプの米国第一、だけど金儲けはさせろよ、という傲慢な自警団風のものになるわけだ? で、日本の自衛隊はイスラム過激派との戦い、つまりテロとの戦いに属軍として利用されていると。
では私の話だけど、私は15才のとき、磐城高校の美術の授業で、絵は一生できそうだと思って絵描きになろうと決心し、その後20年間実に色々な苦労をしその画業を続けてきた一人の男である。じゃあなんで私が自衛隊の中東侵略なんかに加担者みたいにいわれなきゃならないの? って話である。
上に書いたところでは
1.イスラム過激派vs資本主義信者は戦争屋の都合。
2.安倍首相は米国政府のでくで自民党支持者も同じ。
3.皇室も自己神格化の邪教で信者に大量殺人させてきた狂人一家の部類。
4.金儲け思想なんかで人殺しなんてしてられないし悪者扱いされたくない。
という話である。
最終結論をいうと、
1.皇室廃止で少なくとも神道教徒の戦争誘発を避けたい。
2.資本主義信者(特に戦争屋)の暴挙を防ぎ対米追従のテロとの戦い(イスラム過激派への仮想敵視)はやめさせねばならない。
3.中東のイスラム圏を一方的に敵視し、米英仏以などの旧連合国側を正義視するのは歴史観の歪み。
皇室廃止、つまり皇室民営化・民間宗教法人化には議論百出するであろう。なにせこの人らの洗脳度といったら凄まじく、朝のテレビつけたら「皇室アルバム」とかいって西洋古典音楽を背景に国税でひたすら上品ぶり、「おはよう茨城」(嘗て早朝に放送してたテレビ番組)の前後くらいで全国民を洗脳しまくっていたくらいなのだ。首都圏だけの話か?
ただ、私がなんで思想的前衛として「でも、共和政が約11万8600年も続いていたのが事実なのに、高々1400年だか2679年しか歴史のない中国人侵略者如きが偉いので?」といえるかだが、確かに先人である義烈両公が国体論とかいう幻想の共同体理論を作ってたからだ。国体を否定すればすぐ私の立場にこれる。
あとこないだアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のロンギヌスの槍(磔刑後キリストを突いて聖性を否定した異物)で悠仁君を脅してた被疑者。あそこまでしなくても「皇太子なんざ人なんだから神でも神の子孫でもなく、武力討伐されたら終わりの暴力団幹部の子なんすよね」っていえば済むだけの話である。この王権神授説の否定は、ジョンロックがとうの昔に『統治二論』でやって政教分離、名誉革命の理論的基礎になったわけで、日本人全般がちゃんと勉強してないだけの話だ。
当該報道の一例(https://archive.is/swaqT)
日本語訳(http://archive.is/jto1G)
当該報道を陰謀論として否定するブログ(http://archive.is/gR9JL)
最後にあげたブログではそもそもスノーデンのNSAキャッシュに当作戦の記述がないことを根拠に、中東に広まるデマだと結論している。
がもしただのデマとしても、なぜこの種の陰謀論が出現したか省みると、米英仏以軍らが明らかに罪のないイスラム圏の諸国を一方的に侵略していることへの疑義だろう。そして過去の日本史、世界史を鑑みても、米英仏軍らは既にこの種の侵略を世界各地でやってきた。いわゆる植民地侵略の時代からの伝統手法が「敵の同士討ちを煽る」内乱作戦、『アテルイ伝』で桓武天皇が「蝦夷を以て蝦夷を討つ」といい実際、幕末も東北の日本人同士に殺し合わせた新政府軍のやり口だ。例えば茂木健一郎氏は坂本龍馬という歴史上の人物を大層ほめちぎるが、この人はスコットランド商人から反政府勢力に武器を横流しし、大金を懐手にしていた死の商人だ。結果、最後の内乱(戊辰戦争)の直接原因となり、数万人規模の日本人同士の殺し合いで大量死が起きた。今日でいう内乱罪人なわけだ。
今日、中東で起きている大規模内乱の直接原因が、「スズメバチの巣作戦」でいうとおりの起源(つまり米英以政府による内乱戦術)をもつとはいいきれないが、過去には似た例があった以上、全くありえない話とも私は思わないのだ。そして現時点でも日本国民の圧倒的多数は素朴に、米軍の善悪を問わない。
再び幕末の例でいうと、当時の水戸学者らは朝鮮を除く周辺諸国全てが植民地化されたのを前提に、統一国家の形成・国防理論として尊攘論を唱え全国に遊説した。結果、国防意識ができ統一に成功した。が薩長は上述の坂本に唆され内乱分子となり国内侵略を始め、英仏の公使は幕府との内乱を煽っていた。将軍が自己犠牲によって東西最大勢力同士の最終戦争は避けられたが、少なくともあの時、英仏がやりたがっていたのは正義の名を借りた内乱誘導である。例えばインディアンの中でポカホンタスの様なスケープゴートの役割を福沢諭吉は義塾生の金玉均に担わせようとしたが、失敗し脱亜論者に転化したのだ。
小泉純一郎首相(当時)が米軍の片棒を担ぎ、イラク戦争に参加したのは、大量破壊兵器がなかった以上、単なる侵略戦争への加勢だった。シリア騒乱についても同じ文脈があてられる。安倍首相は米国製の武器を買い、以国へ(彼の兄が重役を務める会社系列である)三菱系含む武器を売り込みに行った。総じて米英仏以日の各政府は、起源はどうあれイスラム国鎮圧という名目で、中東の国々への侵略戦争を戦争屋の金儲けになるとみているのだ。簡単にいうとケインズ政策の最も凶悪な形が侵略戦争になっている。これは日本史で戊辰・日清・日露戦争くらいから既にそうだった節もあり、亡国の引き金だった。戦争誘導で国内産業を振興させようとする意図は、当然だが人類の大量死とひきかえだ。死の商売といわれるゆえんで、坂本龍馬が生き残っていたら更に大儲けしながら幾重の人類をアジア各地で殺戮しまくる凶弾供給元になったに違いない。
何がいいたいか。この種の蛮行に与するのは罪悪だというのだ。
皇室廃止は政教分離によって宗教戦争の火元をとりのぞく意味があると私はいった。例えば十字軍の類は現実的判断を超えた少年兵を生み出し、会津戦争でいう白虎隊状態になったわけで、宗教的聖戦意識を思想の根元から除去しておけば上述の戦争屋の悪意に政府・軍隊・自衛隊を操られる危険を予め防げる。日本史でいうと、はじめは坂本龍馬の私利私欲が、最終的に第二次大戦に至る火種になったといえるが、最初の火種がいかに小さくみえても戦争屋が暴力団を操るかぎり火事は拡大を続ける。終局では人間魚雷と原爆のぶつけあいになった。
でブッシュがWTC(World Trade Center)を破壊され怒るのは彼が資本主義信者だからだ。
例えば資本主義信者ではない場合。色々な知識を総合し資本主義がただの一宗教だと知り狂信を免れている。なので資本主義の象徴、いわば聖堂であるWTCをイスラム過激派に破壊されても、「アダムスミス対ムハンムドで戦争はないだろう」と冷静に内治を優先できたわけで、イラク侵略まで無用だったのだ。ラディンの逮捕は必要だったかもしれないが、かといって無関係でしかない一般市民を大量虐殺しまくったイラク戦争は凶悪な上に雑すぎる侵略で、勿論、何の必要もなかった。資本主義教の聖典『国富論』と『コーラン』が対立する内容を含んでいたとしても、鵜呑みで殺し合いなど無意味。それが政治だ。
より具体的にいうと、『国富論』では見えざる手として市場放任が正当化される。一方『コーラン』では善意からの喜捨(寄付)を前提に、イスラム教徒が異教徒に攻撃されたら殺してでも立ち向かえよと書いてあるわけだ。市場放任だけじゃダメ、貧しい人に寄付しなさい、そして売られた喧嘩は買えよと。で、この部分はあんま詳しくないが、ラディンがなんで9.11の加担者側になってるかというと、およそブッシュ父が湾岸戦争時にマディーナという聖地に異教徒である米軍を軍事侵攻させたので、喧嘩売ってると判断し、「異教徒に攻撃されたら殺してよい」とする聖戦の教義に該当する復讐、として企てたと。米国政府の教義はアダムスミスに遡ると原則は市場放任で、途中でワシントン演説に遡れる孤立主義が入り、今のトランプの米国第一、だけど金儲けはさせろよ、という傲慢な自警団風のものになるわけだ? で、日本の自衛隊はイスラム過激派との戦い、つまりテロとの戦いに属軍として利用されていると。
では私の話だけど、私は15才のとき、磐城高校の美術の授業で、絵は一生できそうだと思って絵描きになろうと決心し、その後20年間実に色々な苦労をしその画業を続けてきた一人の男である。じゃあなんで私が自衛隊の中東侵略なんかに加担者みたいにいわれなきゃならないの? って話である。
上に書いたところでは
1.イスラム過激派vs資本主義信者は戦争屋の都合。
2.安倍首相は米国政府のでくで自民党支持者も同じ。
3.皇室も自己神格化の邪教で信者に大量殺人させてきた狂人一家の部類。
4.金儲け思想なんかで人殺しなんてしてられないし悪者扱いされたくない。
という話である。
最終結論をいうと、
1.皇室廃止で少なくとも神道教徒の戦争誘発を避けたい。
2.資本主義信者(特に戦争屋)の暴挙を防ぎ対米追従のテロとの戦い(イスラム過激派への仮想敵視)はやめさせねばならない。
3.中東のイスラム圏を一方的に敵視し、米英仏以などの旧連合国側を正義視するのは歴史観の歪み。
皇室廃止、つまり皇室民営化・民間宗教法人化には議論百出するであろう。なにせこの人らの洗脳度といったら凄まじく、朝のテレビつけたら「皇室アルバム」とかいって西洋古典音楽を背景に国税でひたすら上品ぶり、「おはよう茨城」(嘗て早朝に放送してたテレビ番組)の前後くらいで全国民を洗脳しまくっていたくらいなのだ。首都圏だけの話か?
ただ、私がなんで思想的前衛として「でも、共和政が約11万8600年も続いていたのが事実なのに、高々1400年だか2679年しか歴史のない中国人侵略者如きが偉いので?」といえるかだが、確かに先人である義烈両公が国体論とかいう幻想の共同体理論を作ってたからだ。国体を否定すればすぐ私の立場にこれる。
あとこないだアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のロンギヌスの槍(磔刑後キリストを突いて聖性を否定した異物)で悠仁君を脅してた被疑者。あそこまでしなくても「皇太子なんざ人なんだから神でも神の子孫でもなく、武力討伐されたら終わりの暴力団幹部の子なんすよね」っていえば済むだけの話である。この王権神授説の否定は、ジョンロックがとうの昔に『統治二論』でやって政教分離、名誉革命の理論的基礎になったわけで、日本人全般がちゃんと勉強してないだけの話だ。
醜悪な夜景
東京近辺の夜景ってなんでこんな醜いんだ。褒めてる人がいるけど美意識が違いすぎてびびる。東京界隈の夜景って世界一醜いレベルだな。なぜかは全く分からないけど。人間の底抜けの醜さしか感じない。
よく、というか毎日、新宿の超高層ビルの最上階から夜景みてたけど、あの頃も人間がアリみたいに見えてあまり美しいと思えなかった。
原発で田舎に公害まきちらしながらカネを貪ってる下衆の集まりだから、醜悪な外道の巣に過ぎないわけで、それが美しい筈もない。
醜さとは悪徳の塊だ。
よく、というか毎日、新宿の超高層ビルの最上階から夜景みてたけど、あの頃も人間がアリみたいに見えてあまり美しいと思えなかった。
原発で田舎に公害まきちらしながらカネを貪ってる下衆の集まりだから、醜悪な外道の巣に過ぎないわけで、それが美しい筈もない。
醜さとは悪徳の塊だ。
目的さえない朝
無力な自分を時代が押し流し
やがて跡形もない夜がくる
大地震のなか見た景色
でもなにができる
魔法より手早く宇宙を切り刻み
手に余る自由を手に入れても
あなたの前に残る誰もいない街で
存在さえ消え失せ月燈籠が無を照らす
けどなにがいえる
存在さえ時の気のせい
早く立ち上がるのだ
存在さえ失われる前に
自分など見えなくなり
やがて目的さえない朝がきても
やがて跡形もない夜がくる
大地震のなか見た景色
でもなにができる
魔法より手早く宇宙を切り刻み
手に余る自由を手に入れても
あなたの前に残る誰もいない街で
存在さえ消え失せ月燈籠が無を照らす
けどなにがいえる
存在さえ時の気のせい
早く立ち上がるのだ
存在さえ失われる前に
自分など見えなくなり
やがて目的さえない朝がきても
貴族
争いごとは沢山だ
喜びも消え失せ
あなたの声だけを頼りに
真っ暗闇を遡る
時は遙か夢幻を超え
あなたの現に散っていく
大切な人は去り
無数の声だけが響いている
悲しむまでもない
私はこの金儲け社会に居場所はなく
単にみせしめに生きているのだ
貴族という名の生け贄として
あなたの声が私を導き
やがて答えにいざなうだろう
喜びも消え失せ
あなたの声だけを頼りに
真っ暗闇を遡る
時は遙か夢幻を超え
あなたの現に散っていく
大切な人は去り
無数の声だけが響いている
悲しむまでもない
私はこの金儲け社会に居場所はなく
単にみせしめに生きているのだ
貴族という名の生け贄として
あなたの声が私を導き
やがて答えにいざなうだろう
悪徳の分析
軽蔑に足る人達の属性をよく観察し、なぜ彼らがその属性をまとうか分析せよ。悪徳がなぜ或る属性を帯びたのか。原因が分かればきっと失敗を避けられる筈だ。
しばしば属性と悪徳は一致していない。同じ属性をまとっていて善徳の者もいるからだ。属性と悪徳の関係が相関か、擬似相関か、それ以外の偶然の一致か見分け、悪徳自体を取り出せば属性に覆われた事の真相が分かる。
しばしば属性と悪徳は一致していない。同じ属性をまとっていて善徳の者もいるからだ。属性と悪徳の関係が相関か、擬似相関か、それ以外の偶然の一致か見分け、悪徳自体を取り出せば属性に覆われた事の真相が分かる。
2019年5月16日
「仰られる」は「仰る」より古語に近いが二重敬語としては「仰せになられる」の方が一重敬語と解される余地がない最上表現
(『論語』で孔子曰くを「孔子がおっしゃられた」と現代語訳するのは、「孔子がおっしゃった」の方が正しいとの指摘ツイートへ)
二重敬語は最上表現ですよ。古語の方が伝統・格式のある表現で、ビジネス敬語(商人敬語)はここ50年くらいの日本人商人の一部が勝手に捏造した偽敬語です。曰くはここでただ「仰った」程度の意味ではないですよ。孔子は儒教の聖人で、この様に申し上げていらせられた、心して聴けの意。「申し上げていらせられた」も申し上げるが謙譲語で、申し上げる(皆様にお言いになる)+いらせられる(おなさいになる)で、曰く、のたまわくかいわくかいずれかは「聖人様がこの様に皆さんに仰せられました」ってニュアンスだと思いますよ。今から調べますけど。
因みに天皇は神道で自称神の子孫だけど現人神ではないと当人らが言ってる上に伝統的にもそう(神でないからしばしば出家した(仏門に入った)といっていいでしょう)なので、孔子は聖人ですから、日本語ではかつて二重敬語を天皇に使ってたとはいえ、孔子に使わないのは格式表現としておかしい。
「お前も天皇に二重敬語使ってないじゃないか」というかもしれないが、孔子にも簡約のために使ってないのであって、「曰く」は『論語』で弟子らが聖人の聖なることばを記述した表現であるから、その訳としてふさわしいのを選んだという話です。
白川静によると、曰(エツ)の字は祝詞(のりと)など神意を告げる書を収める器(∀の下部を丸くしたもの)のふたを少しあけて、中の祝禱(シュクトウ)の書を見ようとする形。即ち「曰く(のたまわく、が最も訓として古義に近いと白川はいう)」は、「神意が示される」という意味だそうです。したがって白川の解釈によれば『論語』の「曰く」は、神の心を示すことばで、本来は単なる敬意の強調である二重敬語を超えた日本語表現が必要になるが、その様な表現はありません。天皇は歴史上、皇帝と教祖(自称神の子孫)を兼ねた人ではあるが聖人ではないし、神意を述べる人ではないからですね。
「おっしゃる」は、本来「仰せになる」であり、即ちこれの略か訛りでしょう。したがって「仰せになる」を受動態にすると「仰せられる」になります。これをあなたは二重敬語と誤解した。「仰る+られる」だと思ったわけです。確かにそう解釈もできますが、二重敬語としても間違っていないという話。
更に古語辞典を調べると、「おほせらる(仰せらる)」として元の形が載っており、由来は連語で動詞「おほす」未然形+助動詞「らる」。ご命令になる、との意。「おほす」は「負はす」から変化し自分のことばを相手に負わせるため「命令する」、の意になった(のちに「言う」の尊敬語)。「らる」はいわゆる「られる」で受動の意。
「仰す+られる」が古語の解釈であるから、前に出した「仰せになる」は一体正しい表現か? となってしまうが、私の意見ではこれも正しいと思います。お+~なる(お喜びになる、みたいな尊敬表現)の拡大解釈として仰すを解釈した結果でしょう(以下に「仰す」+「~なる」の単純解釈も記述あり)。即ち仰るは現代語化された仰せらるの商人俗語版です。
まとめますと、
1.おっしゃる(仰る)は古語仰せらる(仰せられる)を拡大解釈か単純化し約めた現代商人版
2.孔子は儒教の聖人かつ曰くは神意を開く意なので正確には最上敬語の表現が必要
3.二重敬語は伝統的に最上表現かつ古語は格式が高いので「仰せらる」を現代口語化し「おっしゃられる」でよし
で、もしこの様な思考経路(といっても直観だけど)を経て『論語』曰くの訳語「おっしゃられる」が、あなたが指摘するよう二重敬語の禁忌(商人は忙しいから、或いは皇族じゃないから一重敬語のほうが簡単でいいみたいな意味での通俗的慣行ですね)と解釈できなくもないなら、もっとふさわしい敬語は?
既に述べたよう、ただの「仰る」ではそこらの会社員の上司と同等程度の扱いになってしまいます。弟子らは孔子の死後に『論語』をまとめ、聖なることばを後生に残したのであり、これは聖典であるからキリスト教でいう『聖書』、イスラム教でいう『コーラン』にあたる様な物で、社長級の話じゃないです。
もう少し調べました。「仰せになる」は、「仰(おほ)す」の連用形「仰せ」+「~になる」で、尊敬の意味が入った言い方との解釈がでてきた。私は上で「お~+なる」の文頭のおが、「お」ほすに適用され混同されたと解釈したが、これは文法的に拡大解釈しすぎかもしれませんね。
もう複雑になりすぎてなに言ってるかわからないかもしれないが、あなたは
古語 仰す+ら(れ)る → 仰ら(れ)る
ではなく
現代語 仰せになる+られる → 仰せになられる → おっしゃられた
と解釈し、煩雑なので、「られる」を省いた 仰る が一重敬語では? といいたかったんでしょうね?
古語においては「仰す」は初め命令するの意味だが徐々に他動詞の尊敬語になったから、その連用形「仰せ」+受動の助動詞「ら(れ)る」で、受身の尊敬語「仰せら(れ)る」が存在したと。
現代語の「仰る」からみると、古語「仰せられる」が二重敬語に見えるが、古語では二重敬語ではないですね。
「仰せになられる」は「仰せになる+られる」で二重敬語。「おっしゃられる」は古語では一重敬語、現代語では仰るという短縮表現との対比で二重敬語と受け取られる可能性も、あなたが指摘したよう残っている。
私は古語風に仰られたを使ったが、誤解を招かない為には「仰せになられた」のがいいね。なぜ「おっしゃられた」より「仰せになられた」の方が「聖人が言った」の敬語表現でいいかといえば「おっしゃられた」は古語の一重敬語(おほせられけりの現代語風)か現代語の二重敬語的解釈の2つの解釈がありうるが、「仰せになられた」だと二重敬語の余地しかないからです。最上表現と解され易い。
ただの敬語と多重敬語の尊敬度差を分かり易くすると次のもの。
多重敬語「こちらにおはしますおかたをどなたと心得る。おそれおおくもさきの副将軍、水戸光圀公にあらせられまするぞ」
敬語「こちらにいらっしゃる方をどなたと心得る。おどろくな、さきの副将軍、水戸光圀公でござるぞ」
二重敬語は最上表現ですよ。古語の方が伝統・格式のある表現で、ビジネス敬語(商人敬語)はここ50年くらいの日本人商人の一部が勝手に捏造した偽敬語です。曰くはここでただ「仰った」程度の意味ではないですよ。孔子は儒教の聖人で、この様に申し上げていらせられた、心して聴けの意。「申し上げていらせられた」も申し上げるが謙譲語で、申し上げる(皆様にお言いになる)+いらせられる(おなさいになる)で、曰く、のたまわくかいわくかいずれかは「聖人様がこの様に皆さんに仰せられました」ってニュアンスだと思いますよ。今から調べますけど。
因みに天皇は神道で自称神の子孫だけど現人神ではないと当人らが言ってる上に伝統的にもそう(神でないからしばしば出家した(仏門に入った)といっていいでしょう)なので、孔子は聖人ですから、日本語ではかつて二重敬語を天皇に使ってたとはいえ、孔子に使わないのは格式表現としておかしい。
「お前も天皇に二重敬語使ってないじゃないか」というかもしれないが、孔子にも簡約のために使ってないのであって、「曰く」は『論語』で弟子らが聖人の聖なることばを記述した表現であるから、その訳としてふさわしいのを選んだという話です。
白川静によると、曰(エツ)の字は祝詞(のりと)など神意を告げる書を収める器(∀の下部を丸くしたもの)のふたを少しあけて、中の祝禱(シュクトウ)の書を見ようとする形。即ち「曰く(のたまわく、が最も訓として古義に近いと白川はいう)」は、「神意が示される」という意味だそうです。したがって白川の解釈によれば『論語』の「曰く」は、神の心を示すことばで、本来は単なる敬意の強調である二重敬語を超えた日本語表現が必要になるが、その様な表現はありません。天皇は歴史上、皇帝と教祖(自称神の子孫)を兼ねた人ではあるが聖人ではないし、神意を述べる人ではないからですね。
「おっしゃる」は、本来「仰せになる」であり、即ちこれの略か訛りでしょう。したがって「仰せになる」を受動態にすると「仰せられる」になります。これをあなたは二重敬語と誤解した。「仰る+られる」だと思ったわけです。確かにそう解釈もできますが、二重敬語としても間違っていないという話。
更に古語辞典を調べると、「おほせらる(仰せらる)」として元の形が載っており、由来は連語で動詞「おほす」未然形+助動詞「らる」。ご命令になる、との意。「おほす」は「負はす」から変化し自分のことばを相手に負わせるため「命令する」、の意になった(のちに「言う」の尊敬語)。「らる」はいわゆる「られる」で受動の意。
「仰す+られる」が古語の解釈であるから、前に出した「仰せになる」は一体正しい表現か? となってしまうが、私の意見ではこれも正しいと思います。お+~なる(お喜びになる、みたいな尊敬表現)の拡大解釈として仰すを解釈した結果でしょう(以下に「仰す」+「~なる」の単純解釈も記述あり)。即ち仰るは現代語化された仰せらるの商人俗語版です。
まとめますと、
1.おっしゃる(仰る)は古語仰せらる(仰せられる)を拡大解釈か単純化し約めた現代商人版
2.孔子は儒教の聖人かつ曰くは神意を開く意なので正確には最上敬語の表現が必要
3.二重敬語は伝統的に最上表現かつ古語は格式が高いので「仰せらる」を現代口語化し「おっしゃられる」でよし
で、もしこの様な思考経路(といっても直観だけど)を経て『論語』曰くの訳語「おっしゃられる」が、あなたが指摘するよう二重敬語の禁忌(商人は忙しいから、或いは皇族じゃないから一重敬語のほうが簡単でいいみたいな意味での通俗的慣行ですね)と解釈できなくもないなら、もっとふさわしい敬語は?
既に述べたよう、ただの「仰る」ではそこらの会社員の上司と同等程度の扱いになってしまいます。弟子らは孔子の死後に『論語』をまとめ、聖なることばを後生に残したのであり、これは聖典であるからキリスト教でいう『聖書』、イスラム教でいう『コーラン』にあたる様な物で、社長級の話じゃないです。
もう少し調べました。「仰せになる」は、「仰(おほ)す」の連用形「仰せ」+「~になる」で、尊敬の意味が入った言い方との解釈がでてきた。私は上で「お~+なる」の文頭のおが、「お」ほすに適用され混同されたと解釈したが、これは文法的に拡大解釈しすぎかもしれませんね。
もう複雑になりすぎてなに言ってるかわからないかもしれないが、あなたは
古語 仰す+ら(れ)る → 仰ら(れ)る
ではなく
現代語 仰せになる+られる → 仰せになられる → おっしゃられた
と解釈し、煩雑なので、「られる」を省いた 仰る が一重敬語では? といいたかったんでしょうね?
古語においては「仰す」は初め命令するの意味だが徐々に他動詞の尊敬語になったから、その連用形「仰せ」+受動の助動詞「ら(れ)る」で、受身の尊敬語「仰せら(れ)る」が存在したと。
現代語の「仰る」からみると、古語「仰せられる」が二重敬語に見えるが、古語では二重敬語ではないですね。
「仰せになられる」は「仰せになる+られる」で二重敬語。「おっしゃられる」は古語では一重敬語、現代語では仰るという短縮表現との対比で二重敬語と受け取られる可能性も、あなたが指摘したよう残っている。
私は古語風に仰られたを使ったが、誤解を招かない為には「仰せになられた」のがいいね。なぜ「おっしゃられた」より「仰せになられた」の方が「聖人が言った」の敬語表現でいいかといえば「おっしゃられた」は古語の一重敬語(おほせられけりの現代語風)か現代語の二重敬語的解釈の2つの解釈がありうるが、「仰せになられた」だと二重敬語の余地しかないからです。最上表現と解され易い。
ただの敬語と多重敬語の尊敬度差を分かり易くすると次のもの。
多重敬語「こちらにおはしますおかたをどなたと心得る。おそれおおくもさきの副将軍、水戸光圀公にあらせられまするぞ」
敬語「こちらにいらっしゃる方をどなたと心得る。おどろくな、さきの副将軍、水戸光圀公でござるぞ」
アニメオタクの一部には無教養を兼ねたかなりの不良がいる
オタクはこちらから何もしていないのに、向こうから喧嘩売ってくる(3人)ということをツイッターで学習したので、今後、天敵と見なす。しかもどいつもこいつも知的には最低級のやつらでなぜ絡んできたのかわからない。完全に復讐されたくてやっている以外の理由が想像もつかない。自分から喧嘩を売ってきて、復讐されないことがあると思ったのだろうか? アニメオタク達のうちたった3人ではあるけれど、自分から喧嘩を売ってくるということは、当然だが報復の危険があるということなのだから、身の程を知るべきだ。
アニメオタクとか呼ばれてる人達にここまでたちの悪い悪徳もちの愚物連中が混じっているとは全く知らなかった。社会的に差別されてる哀れな連中だとばかり勘違いしていた。自分から喧嘩を売りまくるばかりか幼稚な作品を偶像崇拝し、しかも自分より優れた人達(劇画の鑑賞においてもっと成熟した、又はより深く批評的な趣味判断のできる人達。或いは理解力のもっと高い人達)を逆に侮辱するとか、信じられない。正直いってオタクというのは、大衆商業芸術にたかっている、暗愚な連中というのが現実らしい。さもなくば全く知性のかけらもない作品を崇め奉り、幼稚園児未満の言動で喧嘩をあたり構わず売りまくるばかりか、あまつさえその種の喧騒に全く無関係でしかない純粋美術家に罵倒を加える等するはずもないのだから。
現代美術の主要な敵ってオタクアートだったのか。そこまで真剣に天敵だと思ってなかったが、今回完全に理解した。まさに不良連中だ。行儀が悪いどころの騒ぎではなくそもそもアートと呼べる代物ですらなく(何しろ欧米美術の概念であるアートそのものを全く無視しているので)、何一つとして礼儀作法を守らないばかりか人を完全に馬鹿にしており、やることは辺り構わず罵倒し、自分達の暗愚を自慢しまくる虚栄心の塊で、しかも頭の中身もからっぽなら内心は穢れきった差別心で一杯になっているとは何事か。
自分は今の今までサブカルチャーが主要な美術館や美術展で完全に排除されてるのはただの嫌がらせの類なのではないかと思っていたのだが、普通に理の当然だった。なぜならそのサブカルチャーの核心部分に分け入ってみたら、とんでもない愚物が差別をまきちらしているだけだったのだ。悪意で。
村上隆氏とその擁護者だった東浩紀氏の両氏は本当にとんでもないことをやったものだ。オタク達が実質どんなものか知っていてやったのだろうか? もし知っていてやったなら犯罪者に華を持たせた(犯罪を励ました)みたいなものだし、知らなかったならなぜ勉強せずにそんなことをしたのか不思議でならない。
今後、オタクアート関係には一切関わらない。二度と。俺の前で切腹してきても許す余地ないね。こっちは何にもしていないのだから。
アニメオタクとか呼ばれてる人達にここまでたちの悪い悪徳もちの愚物連中が混じっているとは全く知らなかった。社会的に差別されてる哀れな連中だとばかり勘違いしていた。自分から喧嘩を売りまくるばかりか幼稚な作品を偶像崇拝し、しかも自分より優れた人達(劇画の鑑賞においてもっと成熟した、又はより深く批評的な趣味判断のできる人達。或いは理解力のもっと高い人達)を逆に侮辱するとか、信じられない。正直いってオタクというのは、大衆商業芸術にたかっている、暗愚な連中というのが現実らしい。さもなくば全く知性のかけらもない作品を崇め奉り、幼稚園児未満の言動で喧嘩をあたり構わず売りまくるばかりか、あまつさえその種の喧騒に全く無関係でしかない純粋美術家に罵倒を加える等するはずもないのだから。
現代美術の主要な敵ってオタクアートだったのか。そこまで真剣に天敵だと思ってなかったが、今回完全に理解した。まさに不良連中だ。行儀が悪いどころの騒ぎではなくそもそもアートと呼べる代物ですらなく(何しろ欧米美術の概念であるアートそのものを全く無視しているので)、何一つとして礼儀作法を守らないばかりか人を完全に馬鹿にしており、やることは辺り構わず罵倒し、自分達の暗愚を自慢しまくる虚栄心の塊で、しかも頭の中身もからっぽなら内心は穢れきった差別心で一杯になっているとは何事か。
自分は今の今までサブカルチャーが主要な美術館や美術展で完全に排除されてるのはただの嫌がらせの類なのではないかと思っていたのだが、普通に理の当然だった。なぜならそのサブカルチャーの核心部分に分け入ってみたら、とんでもない愚物が差別をまきちらしているだけだったのだ。悪意で。
村上隆氏とその擁護者だった東浩紀氏の両氏は本当にとんでもないことをやったものだ。オタク達が実質どんなものか知っていてやったのだろうか? もし知っていてやったなら犯罪者に華を持たせた(犯罪を励ました)みたいなものだし、知らなかったならなぜ勉強せずにそんなことをしたのか不思議でならない。
今後、オタクアート関係には一切関わらない。二度と。俺の前で切腹してきても許す余地ないね。こっちは何にもしていないのだから。
小室圭氏を引き摺り下ろそうとする圧力は恨みそのもの
小室圭氏を叩く日本人大衆は、それをルサンチマン(恨み)を解消する手段にしている。だが皇族(眞子内親王)の婚約相手がもつ世俗性を欠格事由としているのはただの言い訳で、もともと彼を非難する日本人一般は小室氏より遥かに愚劣なのは明らかで、だからこそ強者である彼を引き摺り下ろそうとする。
日本人右翼は馬鹿殿をもちあげすぎ
日本人右翼一般がなぜ安倍晋三氏や麻生太郎氏といった総理・副総理が馬鹿殿じみていても必死になって持ち上げ続け、忖度しまくるかだが、これは天皇が無能でも「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」で、義公を通じた『古文孝経』序の教えがそのまま踏襲されているからだといっていいであろう。そもそも義公以前にこの種の擬制があったから、将軍統治が出現後も、公徳も実権力もない天皇だの建前だけの公家が居残っていたわけで、単にこの論理は日本の伝統的な組織のあり方を、中国古典を引用し指摘したものともいえる。
『荒野行動』で見られた日中の文化差
「皇室民営化論」で中国人は云々と書いたけど、これは中国人を悪く言うものではなく、また日本人を褒めているものでも全然ない。文化が違うだけで、先ず優劣はない。なぜなら日本には日本の欠点があって中国の方が優れてる面もあるからだ。
具体的に『荒野行動』でいうと、仲間と協力し敵グループを倒す演習で(ランダムで5人ずつ2集団に分かれサバイバルゲームする。ゲーム内でいう「団体競技場」)、自分がやったかぎり中国人は普通に何人であれ仲間を助けてくれるし、どっちかといえば精神力も強くて最後の1人になっても諦めずに戦う傾向があった。つまり個人主義で動くのだ。協調性の有無でいっても中国人は十分すぎるほどあるから強い上に賢く、それどころか僕が2階に煙弾なげて踏み込んだらいるはずの敵がいない。で、逃げたかと思って1階におりたら、人気のない部屋に敵がじっと待っており背後から奇襲された。こういうずる賢さみたいなのは日本人とやると先ずみられない。そのうえ僕が、仲間がやられてるのに気づかなくて助けなかったら「助けろ助けろ」とチーム全員で大合唱された。日本ではこういうことはなくて、気を使ってか何も言わずに消える。つまり中国人も協調性もあれば勝利の為なら空気も形成するし、そこは彼らの強さでもあるし礼儀がどうとか関係ないわけだ。
日本人はどうかというと、確かに最初に挨拶するとほぼ確実に子供でも返すので物凄く礼儀正しい様に見えるが、実はこれは「しつけ」でそういいなさいと親とか学校にいわれてる癖で、いわないと気持ち悪いからいうのだ。なぜそういえるかというと、現実に戦ってる中では無礼なこととか平気でいうのだ。そして日本人プレイヤーの特徴は、ほぼ確実に群れること、集団主義的に動くことで、中国人みたく1人で生き残ってでも戦おうとすると、他の人達は空気読まないやつと見なして勝手に逃げるのである。だから最後1人だけ残って戦う羽目になって負けてしまう(中国人みたいに待っててくれなくて、2局やるんだけど1局目で勝負を捨てて、ゲーム自体から落ちて(ゲームをやめて)しまうのです)。これでは勝利がどうとかいえないであろう。それどころか、日本人の特徴として「勝てば官軍負ければ賊」を地で行く行動原理みたいなので動いており、形勢不利になったとみるや我先に逃げ出してしまうのだ(勝負の最中で仲間はまだ戦ってるのに、自分だけ勝手に落ちる)。武士道どころの話ではない。中国人は最後の1人でも粘る傾向があるから、時に1人で逆転され凄いと思ったが、日本人は一般に逃亡し消える。
日本人のよい点もあって、心理的距離が近く、服装を褒める定型文とかいってもありがとう、とか返ってきたり、まあ如何にも古代中国人が「倭」と呼んだそのものの性質で、よく言えば優しいのかもしれないがなよなよしている。そしてばらけて行動しないから一網打尽で負けか団塊で勝つかどっちかが多い。
んじゃ中国人プレイヤーの悪い点は何かというと、幾つかあるけどとりあえず定型文を雑につかってて、元々性格が雑なのか知らないがまちがったことをいう。助けてって意味で適当にボタンおして「ここに物資があります」とかいったり、最初からいってるがそもそも呼びかけてもまず雑だから返答しないのだ。戦い自体は全然雑ではないというか日本人より凄すぎる精度で一撃必殺決めまくってきたりするからシステムがずれてるだけの可能性もあるけど、往々にして服装も雑だ。多分、日本で言う大阪人的がさつさを数十段上にしたみたいな感じで、他人相手で気を使わないところはどうでもいいって感じなんだろう。
『荒野行動』はボイスチャットといって声をだせるんだけど、やってる人がつけてるとその人らがどういう状況でやってるか分かる。大体は失礼極まりないこという西日本の人が多い。九州とか関西の人はそこまで気をつかわないからだろう。それで中国語わからないからかもしれないが、日本人のが失礼だ。定型文だと丁寧に見える返答なのに、それはただの形式で、ボイスチャットだと仲間に気を使わないどころか友達とやってて別の人を貶したりとか平気でいっている。そういうのは九州弁だか関西弁だかに多くて東北弁とかでは先ずない。方言そのままでいってるからどこの人かわかってしまうのだ。
標準語というか首都圏方言で上品な人が多いかというとそれも先ずなく、素の少女にとんでもないシモネタ連発してる南関東人(つまり東京方言に近い)おじさんみたいなのがいて、一緒にやってた中高生男子ぽいのも僕も気分悪くしたこともある。
ま地域差もあるが日本人の礼儀なんて基本、形だけって話だ。
どうでもいい情報だけど、面白かったのは、小学校低学年くらいの子がボイスチャットで父親らしきのから「勉強しろ」と怒られてて、「お父さんは悪い奴なんだ。僕はゲームがやりたいんだ」と念仏みたいに唱えてた。勉強しろって親からいわれたこと1度もない僕は趣味が勉強なんだから怒らない方がいい。
あと礼儀は心がこもってなきゃ意味ない、真心がこもっていてこそ礼が意味をなす、というのが儒教の立場で、『論語』で孔子が「剛毅木訥仁に近し」「巧言令色鮮し仁」と対比させ「人に仁がなければ礼などどうでもいい」(決して礼儀不要という意味ではない。別の所で孔子は「礼を知り、学ばねば一人前になれない」(『論語』季子第十六、一三。尭曰第二十、三)といっている)と語ってるわけだから、仁の方が礼の本質なのだ。礼は仁を形にするものにすぎない。
原文 「子曰、人而不仁、如礼何。」(『論語』八佾第三、三)
訓読 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。
現代語訳 孔子がおっしゃられた。「もし人に仁がなければ、礼など何になるのか」
「自分に克って礼に立ち返るのが仁だ」(『論語』顔淵第十二、一)との孔子の定義によると、礼儀正しさとは、進んで放恣を避ける仁の心(思いやりの心)を指す。
具体的に『荒野行動』でいうと、仲間と協力し敵グループを倒す演習で(ランダムで5人ずつ2集団に分かれサバイバルゲームする。ゲーム内でいう「団体競技場」)、自分がやったかぎり中国人は普通に何人であれ仲間を助けてくれるし、どっちかといえば精神力も強くて最後の1人になっても諦めずに戦う傾向があった。つまり個人主義で動くのだ。協調性の有無でいっても中国人は十分すぎるほどあるから強い上に賢く、それどころか僕が2階に煙弾なげて踏み込んだらいるはずの敵がいない。で、逃げたかと思って1階におりたら、人気のない部屋に敵がじっと待っており背後から奇襲された。こういうずる賢さみたいなのは日本人とやると先ずみられない。そのうえ僕が、仲間がやられてるのに気づかなくて助けなかったら「助けろ助けろ」とチーム全員で大合唱された。日本ではこういうことはなくて、気を使ってか何も言わずに消える。つまり中国人も協調性もあれば勝利の為なら空気も形成するし、そこは彼らの強さでもあるし礼儀がどうとか関係ないわけだ。
日本人はどうかというと、確かに最初に挨拶するとほぼ確実に子供でも返すので物凄く礼儀正しい様に見えるが、実はこれは「しつけ」でそういいなさいと親とか学校にいわれてる癖で、いわないと気持ち悪いからいうのだ。なぜそういえるかというと、現実に戦ってる中では無礼なこととか平気でいうのだ。そして日本人プレイヤーの特徴は、ほぼ確実に群れること、集団主義的に動くことで、中国人みたく1人で生き残ってでも戦おうとすると、他の人達は空気読まないやつと見なして勝手に逃げるのである。だから最後1人だけ残って戦う羽目になって負けてしまう(中国人みたいに待っててくれなくて、2局やるんだけど1局目で勝負を捨てて、ゲーム自体から落ちて(ゲームをやめて)しまうのです)。これでは勝利がどうとかいえないであろう。それどころか、日本人の特徴として「勝てば官軍負ければ賊」を地で行く行動原理みたいなので動いており、形勢不利になったとみるや我先に逃げ出してしまうのだ(勝負の最中で仲間はまだ戦ってるのに、自分だけ勝手に落ちる)。武士道どころの話ではない。中国人は最後の1人でも粘る傾向があるから、時に1人で逆転され凄いと思ったが、日本人は一般に逃亡し消える。
日本人のよい点もあって、心理的距離が近く、服装を褒める定型文とかいってもありがとう、とか返ってきたり、まあ如何にも古代中国人が「倭」と呼んだそのものの性質で、よく言えば優しいのかもしれないがなよなよしている。そしてばらけて行動しないから一網打尽で負けか団塊で勝つかどっちかが多い。
んじゃ中国人プレイヤーの悪い点は何かというと、幾つかあるけどとりあえず定型文を雑につかってて、元々性格が雑なのか知らないがまちがったことをいう。助けてって意味で適当にボタンおして「ここに物資があります」とかいったり、最初からいってるがそもそも呼びかけてもまず雑だから返答しないのだ。戦い自体は全然雑ではないというか日本人より凄すぎる精度で一撃必殺決めまくってきたりするからシステムがずれてるだけの可能性もあるけど、往々にして服装も雑だ。多分、日本で言う大阪人的がさつさを数十段上にしたみたいな感じで、他人相手で気を使わないところはどうでもいいって感じなんだろう。
『荒野行動』はボイスチャットといって声をだせるんだけど、やってる人がつけてるとその人らがどういう状況でやってるか分かる。大体は失礼極まりないこという西日本の人が多い。九州とか関西の人はそこまで気をつかわないからだろう。それで中国語わからないからかもしれないが、日本人のが失礼だ。定型文だと丁寧に見える返答なのに、それはただの形式で、ボイスチャットだと仲間に気を使わないどころか友達とやってて別の人を貶したりとか平気でいっている。そういうのは九州弁だか関西弁だかに多くて東北弁とかでは先ずない。方言そのままでいってるからどこの人かわかってしまうのだ。
標準語というか首都圏方言で上品な人が多いかというとそれも先ずなく、素の少女にとんでもないシモネタ連発してる南関東人(つまり東京方言に近い)おじさんみたいなのがいて、一緒にやってた中高生男子ぽいのも僕も気分悪くしたこともある。
ま地域差もあるが日本人の礼儀なんて基本、形だけって話だ。
どうでもいい情報だけど、面白かったのは、小学校低学年くらいの子がボイスチャットで父親らしきのから「勉強しろ」と怒られてて、「お父さんは悪い奴なんだ。僕はゲームがやりたいんだ」と念仏みたいに唱えてた。勉強しろって親からいわれたこと1度もない僕は趣味が勉強なんだから怒らない方がいい。
あと礼儀は心がこもってなきゃ意味ない、真心がこもっていてこそ礼が意味をなす、というのが儒教の立場で、『論語』で孔子が「剛毅木訥仁に近し」「巧言令色鮮し仁」と対比させ「人に仁がなければ礼などどうでもいい」(決して礼儀不要という意味ではない。別の所で孔子は「礼を知り、学ばねば一人前になれない」(『論語』季子第十六、一三。尭曰第二十、三)といっている)と語ってるわけだから、仁の方が礼の本質なのだ。礼は仁を形にするものにすぎない。
原文 「子曰、人而不仁、如礼何。」(『論語』八佾第三、三)
訓読 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。
現代語訳 孔子がおっしゃられた。「もし人に仁がなければ、礼など何になるのか」
「自分に克って礼に立ち返るのが仁だ」(『論語』顔淵第十二、一)との孔子の定義によると、礼儀正しさとは、進んで放恣を避ける仁の心(思いやりの心)を指す。
皇室民営化論
共和政が「絶対に」正しく、全人類は完全平等たるべきで、当然ながら王侯貴族みたいな制度は「絶対に」間違っていて全滅させるべきである、とする立場は、恐らく考え方としてはかなり正しいのでいずれそうなると思う。
一方、会社もそうだが人の公徳には落差がある。
たとえば起業家の伝記を読めばわかるが、圧倒的に周囲の労働者と発想からして違うとか、努力の精度が違う類の人達が自ら危険(起業リスク)を冒し、大出世していくわけだ。生存バイアスにすぎないというかもしれないが、実際、だれでも社長にしたらそこで業績の差がつくから殆どの会社は潰れる。能力差があるから歴代将軍みたいな強い武士と、そこらの一兵卒が分かれたのであって、最初に身分差があるのではない。ところが共和政論者の中には能力差を無視し、全員一兵卒にせよ、という無理な論理をとっている人がいる。正直、共産主義者の一部にもこういう考えの人がいるのではないだろうか。
問題は身分が制度化され、形骸化した場合で、これがまさに象徴王政とか象徴天皇制になる。名誉会長がずっと不動でしかも無能の状態だ。
徳川光圀(義公)の論理(大義名分論)は、公徳に応じ速やかにトップ交代せよとする中国の論理(易姓革命論)を否定していて、皇族が馬鹿殿でも守りぬけという。日本人全般はまさに義公の論理、大義名分を重んじているから昭和天皇が本物の暗君(結果から見ればそういうほかあるまい)でも、敗戦後すら普通に万歳三唱していた。ところで西洋の象徴王政も、これと似た君主無答責の立場だ。特にイギリス議会が発祥地で、そもそも王は実権を剥奪されている。
問い「無能な名誉職は維持すべきか? (もしくは共和政の論理を全面的に貫くべきか?)」
米中は、この点でいうと実利・合理の立場から、公徳に欠けた皇帝だの、無能な会長だのはさっさと排除してしまう。日英は逆に形式・擬制を重んじ、無能でも伝統だとかいって馬鹿殿をかばう。日英(その他の象徴王政の国々)がやってるのは単なる時間稼ぎで、なぜそこまでして費用負担がかさむ偽君主をもちあげるのかだが、これは一言でいうと保守的だから、保守性はIQの低さと関係しているので幼稚だからとなる。しかし日英人などは逆にその幼稚さを合理化し、格式がある自分らは偉いという。
私が王侯貴族も時には悪くないというのは、この種の擬制ではない。寧ろ物凄く公徳の高い傑出した個人がいたら、その人が絶対王政をとった方が全体の公益だという意味で、商人でいえばジョブズみたいな人物を指しているのだ。
だから私の立場は先ず義公の立場と相当違う。現に皇室廃止論者だし、民間宗教法人化し自分らの寄付だか営業収益で儀式し、政治したくば立候補すれば? という話だ。しかも西洋はじめ象徴王政を、本音をいうと「演芸」「ごっこ」の類だから結構な猿回しどすなあと思って眺めていて、馬鹿にしている。しかしこの種の本音をいうとイギリス人などは若干怒るかジョークだと思われるので、敢えてぼかしてるだけで本音からいうと、幼稚な連中だなとしかいえない。同じことを皇族をありがたがっている東京都民だの京都市民だの、その他の知事だの役人へも思ってるが、問題になるから例外にしかいわないのだ。
確かにこの種の擬制にも一理ある。上品ぶる俗物根性の結晶だから、その中には本当に上品なもの(いわば教養、悟り)を偽装手段として扱う鼓舞が含まれる。「私の息子は何々大学の博士ですのよ」「あら、うちは知人が海外の何々研究所の所員ですの」みたいなのだ。あほ臭いがえせ上流はこの程度だ。
私の論理では、真の王侯貴族は実力次第で勝手に出現してくる個人や少数集団のことで、この種の人達はただただ有益だ。そこで最初にあげつらった全員一列論みたいなのは否定される。組織は基本、実力に応じ指揮系統が立てられるべきで、公知公徳の面で無能が上位者だと、その集団は先ず絶対に負ける。
結論をいえば、擬制をとってる組織はそれだけ無駄が多く、無能の命令に従い失敗した責任は部下がかぶったり、忖度して成功したら手柄は上位者のものになってしまったり、まさに平成自民党だとか大企業病な日本企業みたいになってしまう。皇族が有害なのも同じ意味でだろう。だから私は「外国が擬制をとる」のはその国民が馬鹿だから寧ろ愛国的(日本ひいき)な意味で、「立派な王室ですこと」とかいってりゃいいのであり現にそうしているのだ。「象徴王政やめろ、共和政がいい」とはっきりいって「そうする!」と返すほど賢い国民相手ならいいが、保守を説得なんて意味ない。逆に自国が潰れたら困る(これは政府が代わるという意味ではなく、自分が迷惑こうむりたくないという意味でだが)なら、「無能な皇族もちあげてんじゃねーよ」って本音を言ったらいいのである。だから私は紳士としてそこまではっきりいわないが、「皇室はやめたほうがいい」「共和政で」みたいな少し角を丸めた言い方をしているのだ。
もっと深くいうとだ、そもそも義公の論理は愛国主義に基づいているわけだ。中国と日本は違う、日本は独自だ、日のいずる処の天子が沈む処の天子につつがなしや、この論理だ。だが平和憲法は米軍のおしつけ論者もそうだが、天皇自体が中国神話上の三皇で皇帝制兼多神教たる神道も中国由来と忘れている。つまりどこの国からきたものであれ、そんなのどうでもいいし、他国と似てようが違ってようが物のよしあしでよければ使う、駄目なら捨てるでいいのだ。思想もだ。和魂洋才の論理は、それ以前なら国風文化の時に使われた。和魂漢才だったわけだ。これは愚考というべきである。
例えば『荒野行動』というゲーム(昨今日本で流行のPC・スマートフォン用ビデオゲーム)。これは海外のサーバーも日本サーバーもあるんだが、「国際サーバー」ではほぼ中国人がやっている。そこで試合前に組む人らに既存の定型文で挨拶すると誰も返さない。礼儀知らずなわけだ。日本サーバーでこれをいうと、子供でも返す。儒教の美質は日本が継承している。(これは文化多元論の一例で、日中の文化間の優劣ではなく違いを語っており、民族・国籍差別の旨は一切含んでいない。詳しくは「『荒野行動』で見られた日中の文化差」)
では儒家が教えた通りに礼儀正しくなった日本人を、儒教を馬鹿にし道教だの法家だのでなんでもOK、実利第一としてきた中国人みたいに再び変えましょうか、それともどれも中国思想だから、和という『礼記』『論語』の援用概念も捨てて、弥生人渡来前の原型たる縄文人の自然崇拝に帰りますかという話だ。
ちなみに、愛国主義を更に極端にしたものといっていい、国粋主義的な民族純化の考えで漢字排除したのが有名な韓国のハングル統一であって、似た論理は明治政府の廃仏毀釈にもあたる。そんで、この民族純化の原型は愛国主義であり、つまりは義公や紫式部や聖徳太子とかの国風化理論にあるわけである。
私がいいたいのは、この国風化理論みたいなのは、江戸・平安時代を文化面で評価する時とか歴史教科書にも普通に出てくるが、あとガラパゴス化を肯定的に評価する時(サブカルチャーを褒める時)にも出てくるが、物のよしあしと関係ない。それでいったら戦艦大和はB29より凄い、と無理な論理になる。9条がどこ由来だからダメ、石原慎太郎が散々ほざいてたが、全く関係ない。9条自体が日本に役立つか、有害かを問う。これでいい。よければ海外製品を使ってもいい。日本独自の物に改良したがる傾向はあるがローカライゼーションであってどこの国でもそうしている。独自性もどうでもいいのだ。
だから義公の論理、すなわち水戸学は、明治以後の日本政府や日本人が普通にかなり体化していて無意識に採用しているわけだけど(松陰や西郷が学んで、新政府の原型になったので部分的に採用されている)、「中国の歴史と違う」風にする為に理論構築した部分、つまり尊皇論の類は、問い直すべきなのだ。
具体的にいえば、義公は「中国は易姓革命(公徳で皇帝が代わる)だから日本は大義名分(天皇は不動で次位が代わる)で。あと中国は君臣の義が乱れ亡国したから、日本では君臣一体にするためダメ天皇でもひたすら順位継承で(故に本来の順位継承者の南朝が正統)」といった。松陰はこれを受け中華皇帝風の一君万民論を展開し「天皇の下に臣民は平等」とした。我々が象徴天皇を政府に入れてるのは、知ってるかしらないかに関わらず、この2人の考えをここ150年間の首相が採用したからだ。「中国と違う国にしてもダメならダメじゃん、同じ部分があってもいい(愛国主義の脱構築、又は国際主義)」とか、「天皇も人でしょ。天は人の上に人をつくらず(自然権含む人権)」とかは、ここ150年間、完全無視されている。
私も上に書いたよう、共和政で国民による国民の為の政府をつくらないかぎり、災害時に政府が天皇避難させ国民は後回しとか、税はむ主権在民の公僕でありながら意味不明な行動とることになるだろうし(私がじゃなくて政府がそういう行動とるかもしれないという意味)、さっさと皇室民営化しないといけないと思っている。政教分離は西洋由来だろうけどいいのだ。
一方、会社もそうだが人の公徳には落差がある。
たとえば起業家の伝記を読めばわかるが、圧倒的に周囲の労働者と発想からして違うとか、努力の精度が違う類の人達が自ら危険(起業リスク)を冒し、大出世していくわけだ。生存バイアスにすぎないというかもしれないが、実際、だれでも社長にしたらそこで業績の差がつくから殆どの会社は潰れる。能力差があるから歴代将軍みたいな強い武士と、そこらの一兵卒が分かれたのであって、最初に身分差があるのではない。ところが共和政論者の中には能力差を無視し、全員一兵卒にせよ、という無理な論理をとっている人がいる。正直、共産主義者の一部にもこういう考えの人がいるのではないだろうか。
問題は身分が制度化され、形骸化した場合で、これがまさに象徴王政とか象徴天皇制になる。名誉会長がずっと不動でしかも無能の状態だ。
徳川光圀(義公)の論理(大義名分論)は、公徳に応じ速やかにトップ交代せよとする中国の論理(易姓革命論)を否定していて、皇族が馬鹿殿でも守りぬけという。日本人全般はまさに義公の論理、大義名分を重んじているから昭和天皇が本物の暗君(結果から見ればそういうほかあるまい)でも、敗戦後すら普通に万歳三唱していた。ところで西洋の象徴王政も、これと似た君主無答責の立場だ。特にイギリス議会が発祥地で、そもそも王は実権を剥奪されている。
問い「無能な名誉職は維持すべきか? (もしくは共和政の論理を全面的に貫くべきか?)」
米中は、この点でいうと実利・合理の立場から、公徳に欠けた皇帝だの、無能な会長だのはさっさと排除してしまう。日英は逆に形式・擬制を重んじ、無能でも伝統だとかいって馬鹿殿をかばう。日英(その他の象徴王政の国々)がやってるのは単なる時間稼ぎで、なぜそこまでして費用負担がかさむ偽君主をもちあげるのかだが、これは一言でいうと保守的だから、保守性はIQの低さと関係しているので幼稚だからとなる。しかし日英人などは逆にその幼稚さを合理化し、格式がある自分らは偉いという。
私が王侯貴族も時には悪くないというのは、この種の擬制ではない。寧ろ物凄く公徳の高い傑出した個人がいたら、その人が絶対王政をとった方が全体の公益だという意味で、商人でいえばジョブズみたいな人物を指しているのだ。
だから私の立場は先ず義公の立場と相当違う。現に皇室廃止論者だし、民間宗教法人化し自分らの寄付だか営業収益で儀式し、政治したくば立候補すれば? という話だ。しかも西洋はじめ象徴王政を、本音をいうと「演芸」「ごっこ」の類だから結構な猿回しどすなあと思って眺めていて、馬鹿にしている。しかしこの種の本音をいうとイギリス人などは若干怒るかジョークだと思われるので、敢えてぼかしてるだけで本音からいうと、幼稚な連中だなとしかいえない。同じことを皇族をありがたがっている東京都民だの京都市民だの、その他の知事だの役人へも思ってるが、問題になるから例外にしかいわないのだ。
確かにこの種の擬制にも一理ある。上品ぶる俗物根性の結晶だから、その中には本当に上品なもの(いわば教養、悟り)を偽装手段として扱う鼓舞が含まれる。「私の息子は何々大学の博士ですのよ」「あら、うちは知人が海外の何々研究所の所員ですの」みたいなのだ。あほ臭いがえせ上流はこの程度だ。
私の論理では、真の王侯貴族は実力次第で勝手に出現してくる個人や少数集団のことで、この種の人達はただただ有益だ。そこで最初にあげつらった全員一列論みたいなのは否定される。組織は基本、実力に応じ指揮系統が立てられるべきで、公知公徳の面で無能が上位者だと、その集団は先ず絶対に負ける。
結論をいえば、擬制をとってる組織はそれだけ無駄が多く、無能の命令に従い失敗した責任は部下がかぶったり、忖度して成功したら手柄は上位者のものになってしまったり、まさに平成自民党だとか大企業病な日本企業みたいになってしまう。皇族が有害なのも同じ意味でだろう。だから私は「外国が擬制をとる」のはその国民が馬鹿だから寧ろ愛国的(日本ひいき)な意味で、「立派な王室ですこと」とかいってりゃいいのであり現にそうしているのだ。「象徴王政やめろ、共和政がいい」とはっきりいって「そうする!」と返すほど賢い国民相手ならいいが、保守を説得なんて意味ない。逆に自国が潰れたら困る(これは政府が代わるという意味ではなく、自分が迷惑こうむりたくないという意味でだが)なら、「無能な皇族もちあげてんじゃねーよ」って本音を言ったらいいのである。だから私は紳士としてそこまではっきりいわないが、「皇室はやめたほうがいい」「共和政で」みたいな少し角を丸めた言い方をしているのだ。
もっと深くいうとだ、そもそも義公の論理は愛国主義に基づいているわけだ。中国と日本は違う、日本は独自だ、日のいずる処の天子が沈む処の天子につつがなしや、この論理だ。だが平和憲法は米軍のおしつけ論者もそうだが、天皇自体が中国神話上の三皇で皇帝制兼多神教たる神道も中国由来と忘れている。つまりどこの国からきたものであれ、そんなのどうでもいいし、他国と似てようが違ってようが物のよしあしでよければ使う、駄目なら捨てるでいいのだ。思想もだ。和魂洋才の論理は、それ以前なら国風文化の時に使われた。和魂漢才だったわけだ。これは愚考というべきである。
例えば『荒野行動』というゲーム(昨今日本で流行のPC・スマートフォン用ビデオゲーム)。これは海外のサーバーも日本サーバーもあるんだが、「国際サーバー」ではほぼ中国人がやっている。そこで試合前に組む人らに既存の定型文で挨拶すると誰も返さない。礼儀知らずなわけだ。日本サーバーでこれをいうと、子供でも返す。儒教の美質は日本が継承している。(これは文化多元論の一例で、日中の文化間の優劣ではなく違いを語っており、民族・国籍差別の旨は一切含んでいない。詳しくは「『荒野行動』で見られた日中の文化差」)
では儒家が教えた通りに礼儀正しくなった日本人を、儒教を馬鹿にし道教だの法家だのでなんでもOK、実利第一としてきた中国人みたいに再び変えましょうか、それともどれも中国思想だから、和という『礼記』『論語』の援用概念も捨てて、弥生人渡来前の原型たる縄文人の自然崇拝に帰りますかという話だ。
ちなみに、愛国主義を更に極端にしたものといっていい、国粋主義的な民族純化の考えで漢字排除したのが有名な韓国のハングル統一であって、似た論理は明治政府の廃仏毀釈にもあたる。そんで、この民族純化の原型は愛国主義であり、つまりは義公や紫式部や聖徳太子とかの国風化理論にあるわけである。
私がいいたいのは、この国風化理論みたいなのは、江戸・平安時代を文化面で評価する時とか歴史教科書にも普通に出てくるが、あとガラパゴス化を肯定的に評価する時(サブカルチャーを褒める時)にも出てくるが、物のよしあしと関係ない。それでいったら戦艦大和はB29より凄い、と無理な論理になる。9条がどこ由来だからダメ、石原慎太郎が散々ほざいてたが、全く関係ない。9条自体が日本に役立つか、有害かを問う。これでいい。よければ海外製品を使ってもいい。日本独自の物に改良したがる傾向はあるがローカライゼーションであってどこの国でもそうしている。独自性もどうでもいいのだ。
だから義公の論理、すなわち水戸学は、明治以後の日本政府や日本人が普通にかなり体化していて無意識に採用しているわけだけど(松陰や西郷が学んで、新政府の原型になったので部分的に採用されている)、「中国の歴史と違う」風にする為に理論構築した部分、つまり尊皇論の類は、問い直すべきなのだ。
具体的にいえば、義公は「中国は易姓革命(公徳で皇帝が代わる)だから日本は大義名分(天皇は不動で次位が代わる)で。あと中国は君臣の義が乱れ亡国したから、日本では君臣一体にするためダメ天皇でもひたすら順位継承で(故に本来の順位継承者の南朝が正統)」といった。松陰はこれを受け中華皇帝風の一君万民論を展開し「天皇の下に臣民は平等」とした。我々が象徴天皇を政府に入れてるのは、知ってるかしらないかに関わらず、この2人の考えをここ150年間の首相が採用したからだ。「中国と違う国にしてもダメならダメじゃん、同じ部分があってもいい(愛国主義の脱構築、又は国際主義)」とか、「天皇も人でしょ。天は人の上に人をつくらず(自然権含む人権)」とかは、ここ150年間、完全無視されている。
私も上に書いたよう、共和政で国民による国民の為の政府をつくらないかぎり、災害時に政府が天皇避難させ国民は後回しとか、税はむ主権在民の公僕でありながら意味不明な行動とることになるだろうし(私がじゃなくて政府がそういう行動とるかもしれないという意味)、さっさと皇室民営化しないといけないと思っている。政教分離は西洋由来だろうけどいいのだ。
2019年5月15日
秋篠宮文仁親王殿下は国事である皇位継承順位を私徳に過ぎない悌より軽視する発言等の公私混同をやめるべき
どうせ身分制度なんて復活しようもないし、王侯貴族といっても封建時代にある程度の地位にあった人達の名残にすぎないが、アマゾンプライムにあったから『英国王のスピーチ』の直後に『海街diary』をみたら思いっきり日本人庶民の話で、余りに卑しくて愕然とした。封建道徳は全く馬鹿にできない。
『英国王のスピーチ』のあらすじ
1.イギリス国王の次男が幼児に厳しすぎる躾けや乳母の虐待を受け、吃音症になって演説がうまくできず悩んでいた。
2.父が亡くなり兄が即位するが、兄は離婚歴のあるアメリカ人女性と恋愛関係になり、国教会の定めで王のままでは結婚できない。
3.弟は吃音を治すため色々な医者にかかるがどれもダメで、最後に或るオーストラリア人医師にかかると徐々に発音できる様になる。
4.その医師と仲良くなった頃、医師は「お兄さんよりあなたの方が国王にふさわしい」というが、弟は無礼な庶民めと兄をかばって治療を打ち切る。
5.弟は国の行方と兄の身を案じるが、兄はパーティで弟の吃音をからかいつつ「お前は『ハムレット』のよう俺を王座から追い落とそうとしているのか」と言う。
6.兄はアメリカ人女性と結婚し退位、弟に王座が巡ってくる。
7.いよいよ吃音を直さねば王位継承式(戴冠式)すらまともにできなくなった弟は、「王が謝罪するには長い時間がかかる」と独特の言い回しで医師へ謝り、再び吃音の治療をする。
8.医師と二人三脚の努力のかいもあり式は無事済むが、その後、今や王となった弟は自らの式を映したテレビのニュースで、自分と対照的に極めて演説の巧みなヒトラーを見る。
9.イギリスはチャーチル首相の決定でヒトラー率いるドイツと戦争状態に突入、王に宣戦布告の文をラジオ放送でよみあげる役割が回ってくる。
10.王は医師のつきそいの元、「君には感謝している」と述べながら、いよいよ演説に臨む。
11.宣戦布告は若干いいよどんだ箇所はあったものの、却って威厳がある様に聴こえ、文明国の勝利を誓う宣言文の演説は、植民地含む全国民に報じられ成功した。
12.医師が後姿を見守る中、王は妻子と共にバルコニーへお手振りに出ると、集まった数え切れないほど多くの国民達が彼を称賛していた。
この映画をみてから、『海街diary』をつけてみたら、冒頭からわけのわからん日本人庶民同士が交尾していて、その女の方が家に帰ると妹だかなにかが何があったの? と聴き、「大人は色々あるのよ」と姉みたいなのがいう。これでびっくりして、余りのギャップに、やはり王侯貴族の存在意義も感じた。
『英国王のスピーチ』の中で、弟の王は自分がただの人形で、議会が決定した役割を演じるに過ぎない歴史的地位を皮肉がるが、しかもそのお仕着せの役割すら満足にできない(吃音で、首相に渡された演説文がうまく発音できない)自分の残念さを、医師との発声練習のなかで思わず吐露する。
皇室批判者の中には皇族が人権を持たないことを哀れだとする理由で、皇室廃止を望む人達がいる。彼らが指摘しているのはこの種の象徴君主(天皇の場合は兼教祖)の不自由さだろう。
私がこの映画をみて感じたのは、象徴王権の擬制が名誉革命以後にできた類型とすれば、イギリス史の文化的な性質だ。イギリス人自身、この象徴王政が議会の苦肉の策だと知っていて、一度は放伐した王座に別の国からひっぱってきた人を就けたのは保守派との妥協策だったのだろう。論理的には議会が主権をもつ点でまとまったが、イギリスが内在した不条理さはアメリカ独立で証明され、第二次大戦後は「古きよき国」を偽装している。
この映画は障害の克服というある種の克己論が含まれ、障害は社会の側にあって取り除くべきは偏見だ、とする近年の障害観からみれば大分古い。
また弟が悌で自らの治療まで打ち捨てたにもかかわらず兄は公私混同を貫く点で、伯夷叔斉や徳川光圀(義公)の逆類型であり、イギリス王室が形骸化した制度だとよく示している。
義公は「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と、英議会の「王は誤れない(King can do no wrong)」と同じ君主無答責の立場をとる(「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」は『古文孝経』序に見られる文。易姓革命論と相反するので、義公の尊皇思想にふさわしい考え方として彼の『常山文集』巻十五の序文に援用されたのだろう)。つまり水戸学は政教一致論ではあったが、イギリス議会と君主無答責の点では等しかった。明治以後の政府も君主無答責の立場をとり続けている。天皇大権は消え、教祖を兼ねる皇室が残った。また義公は兄をさしおき世襲した負い目を、伯夷叔斉の禅譲から学んで高松の松平家との継嗣交換で償ったが、この映画(史実)の兄弟は寧ろ逆で、兄(エドワード8世)が順位を無視し、しかも公私混同で弟(ジョージ6世)に地位を譲る。
即ち
1.義公は代替わりで君主無答責(大義名分論、象徴君主制)を応用し、世襲の順位継承を当主の公徳より優先した
2.義公は悌で兄の子に禅譲した(いわゆる水戸黄門が御隠居な理由)
3.エドワード8世(映画中の兄)は公私混同で禅譲した(動機は国の為でなく恋)
4.ジョージ6世(映画中の弟)は悌より公徳を優先し禅譲しなかった(義公の逆。世襲順位より公徳を優先した)
こうしてみるとジョージ6世の政治哲学は、義公のものとかなり違う。確かに映画中では兄を思いやっていたが、史実では兄を見限り許可なしの帰国を禁じたとある(ウィキペディアにはそうあるが真実だろうか?)。
ジョージ6世は君主無答責を利用しているのに自らは順位をかえ 悌<公徳 の行動をとったので、劇中でも兄から「ハムレットの王(兄の地位を弟が簒奪した)」に喩えられた。しかし例えば文仁は皇位に就けないと発言し、いわば悌を優先する旨を述べた。王位継承を巡り、悌、公徳、順位の問題がある。
1.悌の有無
2.公徳の有無
3.順位の正誤
当映画ではこの3つの要素が王位継承を巡って描かれているが、
義公は 順位>公徳>悌
ジョージ6世は 公徳>順位>悌
の優先順位だったといえる。つまり日本とイギリスは継承の哲学が違う。英国王は中華皇帝に近いのだ。
前述の義公「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と英議会「王は誤れない(King can do no wrong)」は似て非なる哲学で、同じ君主無答責ではあるが、日本版は形式的継承順位の方が優越し(故に南朝正統論を明治天皇が認めた)、公徳はその次位に置かれる。イギリスでは公徳を順位に優越する。伯夷と叔斉の譲り合いが義公の哲学に反映され、明治政府から現皇室に流れ込んでいるのかもしれない。この君主無答責観の差を、日本のものは順位主義、イギリスのは公徳主義とすると、歴代中華皇帝の易姓革命論は公徳主義に基づくもの故、日本独自の継承観が義公の中で差異化として構想されたのかも。
文仁は年取ってからでは皇位に就けないと発言したが、謎だ。順位が優越なら就ける筈だ。悌の方が順位より優先なのか。一種の公私混同というべきだ。兄の手前で謙遜か、兄を敬う気持ちでいったにせよ軽率だ。憲法でも、皇室の伝統でも継承順位が決まっているのに国事である皇位の継承より私徳に過ぎない悌を優先する時点で、文仁こと秋篠宮文仁親王殿下に公徳が欠けているのは明らかというべきだ。
『英国王のスピーチ』は弟のジョージ6世が王位に就き、公徳を悌に優先するまではいいが、義公ほど深く順位主義の君主無答責を学ばず、兄のエドワード8世を軽視する史実については日本の方がまだましだ。しかし文仁は悌を公徳や順位より優越する発言をしているから、彼らから何かを学んでもらいたい。
『英国王のスピーチ』のあらすじ
1.イギリス国王の次男が幼児に厳しすぎる躾けや乳母の虐待を受け、吃音症になって演説がうまくできず悩んでいた。
2.父が亡くなり兄が即位するが、兄は離婚歴のあるアメリカ人女性と恋愛関係になり、国教会の定めで王のままでは結婚できない。
3.弟は吃音を治すため色々な医者にかかるがどれもダメで、最後に或るオーストラリア人医師にかかると徐々に発音できる様になる。
4.その医師と仲良くなった頃、医師は「お兄さんよりあなたの方が国王にふさわしい」というが、弟は無礼な庶民めと兄をかばって治療を打ち切る。
5.弟は国の行方と兄の身を案じるが、兄はパーティで弟の吃音をからかいつつ「お前は『ハムレット』のよう俺を王座から追い落とそうとしているのか」と言う。
6.兄はアメリカ人女性と結婚し退位、弟に王座が巡ってくる。
7.いよいよ吃音を直さねば王位継承式(戴冠式)すらまともにできなくなった弟は、「王が謝罪するには長い時間がかかる」と独特の言い回しで医師へ謝り、再び吃音の治療をする。
8.医師と二人三脚の努力のかいもあり式は無事済むが、その後、今や王となった弟は自らの式を映したテレビのニュースで、自分と対照的に極めて演説の巧みなヒトラーを見る。
9.イギリスはチャーチル首相の決定でヒトラー率いるドイツと戦争状態に突入、王に宣戦布告の文をラジオ放送でよみあげる役割が回ってくる。
10.王は医師のつきそいの元、「君には感謝している」と述べながら、いよいよ演説に臨む。
11.宣戦布告は若干いいよどんだ箇所はあったものの、却って威厳がある様に聴こえ、文明国の勝利を誓う宣言文の演説は、植民地含む全国民に報じられ成功した。
12.医師が後姿を見守る中、王は妻子と共にバルコニーへお手振りに出ると、集まった数え切れないほど多くの国民達が彼を称賛していた。
この映画をみてから、『海街diary』をつけてみたら、冒頭からわけのわからん日本人庶民同士が交尾していて、その女の方が家に帰ると妹だかなにかが何があったの? と聴き、「大人は色々あるのよ」と姉みたいなのがいう。これでびっくりして、余りのギャップに、やはり王侯貴族の存在意義も感じた。
『英国王のスピーチ』の中で、弟の王は自分がただの人形で、議会が決定した役割を演じるに過ぎない歴史的地位を皮肉がるが、しかもそのお仕着せの役割すら満足にできない(吃音で、首相に渡された演説文がうまく発音できない)自分の残念さを、医師との発声練習のなかで思わず吐露する。
皇室批判者の中には皇族が人権を持たないことを哀れだとする理由で、皇室廃止を望む人達がいる。彼らが指摘しているのはこの種の象徴君主(天皇の場合は兼教祖)の不自由さだろう。
私がこの映画をみて感じたのは、象徴王権の擬制が名誉革命以後にできた類型とすれば、イギリス史の文化的な性質だ。イギリス人自身、この象徴王政が議会の苦肉の策だと知っていて、一度は放伐した王座に別の国からひっぱってきた人を就けたのは保守派との妥協策だったのだろう。論理的には議会が主権をもつ点でまとまったが、イギリスが内在した不条理さはアメリカ独立で証明され、第二次大戦後は「古きよき国」を偽装している。
この映画は障害の克服というある種の克己論が含まれ、障害は社会の側にあって取り除くべきは偏見だ、とする近年の障害観からみれば大分古い。
また弟が悌で自らの治療まで打ち捨てたにもかかわらず兄は公私混同を貫く点で、伯夷叔斉や徳川光圀(義公)の逆類型であり、イギリス王室が形骸化した制度だとよく示している。
義公は「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と、英議会の「王は誤れない(King can do no wrong)」と同じ君主無答責の立場をとる(「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」は『古文孝経』序に見られる文。易姓革命論と相反するので、義公の尊皇思想にふさわしい考え方として彼の『常山文集』巻十五の序文に援用されたのだろう)。つまり水戸学は政教一致論ではあったが、イギリス議会と君主無答責の点では等しかった。明治以後の政府も君主無答責の立場をとり続けている。天皇大権は消え、教祖を兼ねる皇室が残った。また義公は兄をさしおき世襲した負い目を、伯夷叔斉の禅譲から学んで高松の松平家との継嗣交換で償ったが、この映画(史実)の兄弟は寧ろ逆で、兄(エドワード8世)が順位を無視し、しかも公私混同で弟(ジョージ6世)に地位を譲る。
即ち
1.義公は代替わりで君主無答責(大義名分論、象徴君主制)を応用し、世襲の順位継承を当主の公徳より優先した
2.義公は悌で兄の子に禅譲した(いわゆる水戸黄門が御隠居な理由)
3.エドワード8世(映画中の兄)は公私混同で禅譲した(動機は国の為でなく恋)
4.ジョージ6世(映画中の弟)は悌より公徳を優先し禅譲しなかった(義公の逆。世襲順位より公徳を優先した)
こうしてみるとジョージ6世の政治哲学は、義公のものとかなり違う。確かに映画中では兄を思いやっていたが、史実では兄を見限り許可なしの帰国を禁じたとある(ウィキペディアにはそうあるが真実だろうか?)。
ジョージ6世は君主無答責を利用しているのに自らは順位をかえ 悌<公徳 の行動をとったので、劇中でも兄から「ハムレットの王(兄の地位を弟が簒奪した)」に喩えられた。しかし例えば文仁は皇位に就けないと発言し、いわば悌を優先する旨を述べた。王位継承を巡り、悌、公徳、順位の問題がある。
1.悌の有無
2.公徳の有無
3.順位の正誤
当映画ではこの3つの要素が王位継承を巡って描かれているが、
義公は 順位>公徳>悌
ジョージ6世は 公徳>順位>悌
の優先順位だったといえる。つまり日本とイギリスは継承の哲学が違う。英国王は中華皇帝に近いのだ。
前述の義公「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と英議会「王は誤れない(King can do no wrong)」は似て非なる哲学で、同じ君主無答責ではあるが、日本版は形式的継承順位の方が優越し(故に南朝正統論を明治天皇が認めた)、公徳はその次位に置かれる。イギリスでは公徳を順位に優越する。伯夷と叔斉の譲り合いが義公の哲学に反映され、明治政府から現皇室に流れ込んでいるのかもしれない。この君主無答責観の差を、日本のものは順位主義、イギリスのは公徳主義とすると、歴代中華皇帝の易姓革命論は公徳主義に基づくもの故、日本独自の継承観が義公の中で差異化として構想されたのかも。
文仁は年取ってからでは皇位に就けないと発言したが、謎だ。順位が優越なら就ける筈だ。悌の方が順位より優先なのか。一種の公私混同というべきだ。兄の手前で謙遜か、兄を敬う気持ちでいったにせよ軽率だ。憲法でも、皇室の伝統でも継承順位が決まっているのに国事である皇位の継承より私徳に過ぎない悌を優先する時点で、文仁こと秋篠宮文仁親王殿下に公徳が欠けているのは明らかというべきだ。
『英国王のスピーチ』は弟のジョージ6世が王位に就き、公徳を悌に優先するまではいいが、義公ほど深く順位主義の君主無答責を学ばず、兄のエドワード8世を軽視する史実については日本の方がまだましだ。しかし文仁は悌を公徳や順位より優越する発言をしているから、彼らから何かを学んでもらいたい。
2019年5月14日
日本政府は全国民福祉で幸福度向上を目的にとりあえず累進課税を強化し、どれ程で金持ちが逃げ出すか社会実験すべき
(共産主義国を実現すべきとのツイートへ)
事実上、格差拡大の頂点に絶対的階級の皇族財閥や資本化を据える自民党が最大の支持率をもつ日本の民主主義制度下では、共産主義を実現するには議会選挙の暴力革命か、安倍晋三氏みたいな独裁者に預金封鎖を実行させるしかない。そして暴力革命より、自民党の独裁者を唆した方が実現が速やかでしょう。
全国民の預金封鎖は日本政府の赤字国債が実質的に返済不能になっている現状から、既に日本維新の会の藤巻健史議員が予想していることであり、安倍政権がこのまま居直れば可能性がある筈です。国民側が安倍政権か自民党を支持し続けるだけで、政府破綻前に私有財産を取り上げる可能性がある。日本政府が今後の税収で赤字国債(政府の国民・銀行等への債務)返済を賄えない以上、円価下落と同時に新札発行しかなく、国民の総意が財政破綻を認めれば、市場の混乱を防ぐため政府は預金封鎖しないといけなくなる可能性がある。共産主義の観点からいえば、この隙を狙い資本家の預金をとりあげ得る。
MMT(現代貨幣理論)は「政府が国債を償還不能でも(無限の赤字国債があっても)財政破綻と認めなくてよい」という立場で、自民党の現在と等しい。しかし共産主義から見れば「政府(中央銀行)による円の増刷は絶対に認めない。ただし国債償還不能な以上、財政破綻と認めよ」と自民党に迫ればいい。
(暴力革命による労働者階級の議会占拠が必須とのツイートへ)
全共闘で挫折したじゃないですか? シールズもデモに過ぎなかった。既に安倍氏が国家社会主義化に邁進しているし、議会政治を主張する社民党が存在するのに、これから暴力革命が可能だとしても自衛隊以上の武力が必要になります。先ずそれを作る過程で警察権力の目をかいくぐる必要がありますね。
私は労働者と経営者・資本家は思考の質が違う、つまり経済に関する理解度や知恵に差があると思うので、労働者的思考のみの集団は企業統治でさえ満足に行えないと思います。いいかえれば一国二制度をとらないかぎり、経済的には純粋な国有企業のみ・私有財産否定体制では他国に大幅に搾取されてしまう。もし日本で共産党が政権をとったとしても、既に中国が隣にいる以上、資本主義経済との両立を図る以外の道はないのではないですか? 国有企業対中国企業では製品サービスに大差ができてしまい、かなり早い段階で日本経済が中国企業等、外資に占領されてしまいますからね。
(単に一国にとどまらない世界革命が必要であるとのツイートへ)
世界革命論の理想の高邁さに対して米国含む西側諸国、そして中共自身の変節が高いハードルで、日本人自体も、労働者側が皇族に洗脳され、資本家に憧れ、平等より格差の上に立てればいい、と浅薄な発想に陥ってますからね。自己責任論みたいな新自由主義の一部を、労働者自身がニート差別に使っている。まあ共産主義自体、皆労働を目指しAIの登場以後を予想していなかったので、これから多くの労働が自動化され仕事がなくなるか、変質していく中で一体どういう新理論になるのか。有閑階級どころか国民の殆どが暇をもてあます状態になったら、共産主義全体が全員直耕的な過去の理論となるかもしれない。
共産主義について考えてて気づいたが、皆労働の理想は暇人(有閑階級)と余り調和していない。また資本家でも経営者など兼ねてて忙しい人もいるし、貧乏でも暇(誰のこととはいわないが)なのもいる。
また搾取なき労働って、全労働者が等しい給与なので長時間労働者が金持ちになってしまうのでは?
ニート差別って日本人労働者の相当数が暇人を蔑視する考え(「働かざる者食うべからず」)をもっていて、その暇人の一部には資本家とか企業オーナーも含まれるから貧富に関わらず労働信仰の教義をもっていない人を差別していることになる。憲法上の勤労の義務を、労働者階級に限定しているともいえる。
究極のところ全人類が暇で、やりたくもない労働から解放された状態の方が、明らかに理想として上だと思うのだが共産主義者はこれにどう反論するのか?
カネ(貨幣)の機能は教科書には
1.価値尺度 価値をはかる物差し
2.交換手段 商品交換の仲立ち
3.貯蔵手段 富を蓄える
4.支払い手段 信用取引を清算する
5.世界貨幣 国際取引を決済する
と書いてあるが、カネ儲けしてる人らって他人を見下す目的が大きいので、格差自体が目的なのでは? 蓄財で交換・支払いに使える価値尺度を沢山もっているのだぞとステータスシンボルにする、しかも他人を実際に支配する権勢欲が資本主義者の心底にあるもので、単に社会に良質な製品サービスを届ける、という建前と別の動機があると思う。
つまり共産主義は、商人の強欲さを余りに素朴に見すぎでは?
もし搾取なき企業を作ったとして、それは柄谷行人のいう協会主義(associationism)によれば生協とか農協がそれになるわけだが、単に株式会社以外の組織形態を認めるにすぎないから、単に株主利益より個々の組合員の取り分がふえることになるだけで、従業員持株会社みたいなもんだろう。
格差逓減が幸福度を上げるのは、途上国や北欧の方が日米や他先進国より主観的に幸せと言う人が多い為かなり信憑性が高いが、日本人一般って間接占領コンプレックスで米英に追従的だから格差大好きでしょ。先ず金持ちは努力した証拠みたく持ち上げ貧民を見下すし、皇族の階級も認めてるじゃないですか?
共産主義の世界革命論(全人類、資産も所得もありうるだけ平等たるべし。さすれば幸福であろう)という熱い理想は大変高邁ではあるのだが、これを他国におしつけようとした瞬間、大抵の国々の主要な支配層が発狂するだろうことに加え、日本国民の中ですら格差大好きの人達が全力で阻止してくるよね。そして共産主義の世界革命論が致命的な点は、ただ乗り(フリーライダー)や、暇好きや、金儲け好きや、仕事中毒の人や、協同組合や、株式会社以外の資本家が支配していない会社を除いて、単純化して搾取を捉えすぎで、そもそも商売全体が客の搾取ともいえるから儲ける限り等価交換ではないことだよ。
また現実の市場では適当に業務をやったふりしてる労働者の方が私財をなげうつ資本家や休みなく血反吐はいて働く経営者より金を儲けているなんて場面も出てくるくらいで、ピケティのr>gすらごく巨視的な抽象化された話に過ぎない。要は労働者は資本家・経営者に比べて損することが少ないともいえる。
上に書いたよう私有財産なき国有企業が一律賃金に統一しても、赤い貴族と別文脈で、長時間労働マニアの金持ちが出てくる。私有財産制を否定することと、一律労働で成果を分配することは矛盾しているわけだ。全人類の能力が同じ機械でなければ成果は平等にならないので、累進課税でごまかすしかない。
結局、共産主義は上記の矛盾が甚だ多く、実践中の中国でも一国二制度を選んだ。先富論の延長でいずれ全企業を国有化する建前かもしれないが。逆に日本やノルウェーの方が企業を国有化している。
思うに市場では組織の多様な形を認めつつ、累進課税を強化するのが現実的では? 共産主義者は協同組合で働けば搾取が少ない組織人になれる。幸福度の観点から高福祉化をはかるには高税率が必要だが、貧民からはそもそも搾り取れない。格差大好きならより高いハードル(税率)を超えればいいだけだ。
格差主義者「金持ちになって貧民どもを見下し、贅沢三昧して皇族ぶりたい!」
自由至上主義者「(租税回避地から)税金高い日本人ども、やーい、ざまあ」
この2つの人達は似て非なるものだ。いや、実は世界規模での格差主義者が自由至上主義者とも言えるが。
政府は自由至上主義者(広義で多国籍企業もそうだろう)が海外流出するのを危惧していた様だが富裕層数は世界2位だか3位になったのだからその懸念は払拭された。今度はどれだけ累進課税したら金持ちが逃げ出すか、社会実験してみるべきだ。どうせ米中以上に富裕層集めても格差地獄になるだけなので。
事実上、格差拡大の頂点に絶対的階級の皇族財閥や資本化を据える自民党が最大の支持率をもつ日本の民主主義制度下では、共産主義を実現するには議会選挙の暴力革命か、安倍晋三氏みたいな独裁者に預金封鎖を実行させるしかない。そして暴力革命より、自民党の独裁者を唆した方が実現が速やかでしょう。
全国民の預金封鎖は日本政府の赤字国債が実質的に返済不能になっている現状から、既に日本維新の会の藤巻健史議員が予想していることであり、安倍政権がこのまま居直れば可能性がある筈です。国民側が安倍政権か自民党を支持し続けるだけで、政府破綻前に私有財産を取り上げる可能性がある。日本政府が今後の税収で赤字国債(政府の国民・銀行等への債務)返済を賄えない以上、円価下落と同時に新札発行しかなく、国民の総意が財政破綻を認めれば、市場の混乱を防ぐため政府は預金封鎖しないといけなくなる可能性がある。共産主義の観点からいえば、この隙を狙い資本家の預金をとりあげ得る。
MMT(現代貨幣理論)は「政府が国債を償還不能でも(無限の赤字国債があっても)財政破綻と認めなくてよい」という立場で、自民党の現在と等しい。しかし共産主義から見れば「政府(中央銀行)による円の増刷は絶対に認めない。ただし国債償還不能な以上、財政破綻と認めよ」と自民党に迫ればいい。
(暴力革命による労働者階級の議会占拠が必須とのツイートへ)
全共闘で挫折したじゃないですか? シールズもデモに過ぎなかった。既に安倍氏が国家社会主義化に邁進しているし、議会政治を主張する社民党が存在するのに、これから暴力革命が可能だとしても自衛隊以上の武力が必要になります。先ずそれを作る過程で警察権力の目をかいくぐる必要がありますね。
私は労働者と経営者・資本家は思考の質が違う、つまり経済に関する理解度や知恵に差があると思うので、労働者的思考のみの集団は企業統治でさえ満足に行えないと思います。いいかえれば一国二制度をとらないかぎり、経済的には純粋な国有企業のみ・私有財産否定体制では他国に大幅に搾取されてしまう。もし日本で共産党が政権をとったとしても、既に中国が隣にいる以上、資本主義経済との両立を図る以外の道はないのではないですか? 国有企業対中国企業では製品サービスに大差ができてしまい、かなり早い段階で日本経済が中国企業等、外資に占領されてしまいますからね。
(単に一国にとどまらない世界革命が必要であるとのツイートへ)
世界革命論の理想の高邁さに対して米国含む西側諸国、そして中共自身の変節が高いハードルで、日本人自体も、労働者側が皇族に洗脳され、資本家に憧れ、平等より格差の上に立てればいい、と浅薄な発想に陥ってますからね。自己責任論みたいな新自由主義の一部を、労働者自身がニート差別に使っている。まあ共産主義自体、皆労働を目指しAIの登場以後を予想していなかったので、これから多くの労働が自動化され仕事がなくなるか、変質していく中で一体どういう新理論になるのか。有閑階級どころか国民の殆どが暇をもてあます状態になったら、共産主義全体が全員直耕的な過去の理論となるかもしれない。
共産主義について考えてて気づいたが、皆労働の理想は暇人(有閑階級)と余り調和していない。また資本家でも経営者など兼ねてて忙しい人もいるし、貧乏でも暇(誰のこととはいわないが)なのもいる。
また搾取なき労働って、全労働者が等しい給与なので長時間労働者が金持ちになってしまうのでは?
ニート差別って日本人労働者の相当数が暇人を蔑視する考え(「働かざる者食うべからず」)をもっていて、その暇人の一部には資本家とか企業オーナーも含まれるから貧富に関わらず労働信仰の教義をもっていない人を差別していることになる。憲法上の勤労の義務を、労働者階級に限定しているともいえる。
究極のところ全人類が暇で、やりたくもない労働から解放された状態の方が、明らかに理想として上だと思うのだが共産主義者はこれにどう反論するのか?
カネ(貨幣)の機能は教科書には
1.価値尺度 価値をはかる物差し
2.交換手段 商品交換の仲立ち
3.貯蔵手段 富を蓄える
4.支払い手段 信用取引を清算する
5.世界貨幣 国際取引を決済する
と書いてあるが、カネ儲けしてる人らって他人を見下す目的が大きいので、格差自体が目的なのでは? 蓄財で交換・支払いに使える価値尺度を沢山もっているのだぞとステータスシンボルにする、しかも他人を実際に支配する権勢欲が資本主義者の心底にあるもので、単に社会に良質な製品サービスを届ける、という建前と別の動機があると思う。
つまり共産主義は、商人の強欲さを余りに素朴に見すぎでは?
もし搾取なき企業を作ったとして、それは柄谷行人のいう協会主義(associationism)によれば生協とか農協がそれになるわけだが、単に株式会社以外の組織形態を認めるにすぎないから、単に株主利益より個々の組合員の取り分がふえることになるだけで、従業員持株会社みたいなもんだろう。
格差逓減が幸福度を上げるのは、途上国や北欧の方が日米や他先進国より主観的に幸せと言う人が多い為かなり信憑性が高いが、日本人一般って間接占領コンプレックスで米英に追従的だから格差大好きでしょ。先ず金持ちは努力した証拠みたく持ち上げ貧民を見下すし、皇族の階級も認めてるじゃないですか?
共産主義の世界革命論(全人類、資産も所得もありうるだけ平等たるべし。さすれば幸福であろう)という熱い理想は大変高邁ではあるのだが、これを他国におしつけようとした瞬間、大抵の国々の主要な支配層が発狂するだろうことに加え、日本国民の中ですら格差大好きの人達が全力で阻止してくるよね。そして共産主義の世界革命論が致命的な点は、ただ乗り(フリーライダー)や、暇好きや、金儲け好きや、仕事中毒の人や、協同組合や、株式会社以外の資本家が支配していない会社を除いて、単純化して搾取を捉えすぎで、そもそも商売全体が客の搾取ともいえるから儲ける限り等価交換ではないことだよ。
また現実の市場では適当に業務をやったふりしてる労働者の方が私財をなげうつ資本家や休みなく血反吐はいて働く経営者より金を儲けているなんて場面も出てくるくらいで、ピケティのr>gすらごく巨視的な抽象化された話に過ぎない。要は労働者は資本家・経営者に比べて損することが少ないともいえる。
上に書いたよう私有財産なき国有企業が一律賃金に統一しても、赤い貴族と別文脈で、長時間労働マニアの金持ちが出てくる。私有財産制を否定することと、一律労働で成果を分配することは矛盾しているわけだ。全人類の能力が同じ機械でなければ成果は平等にならないので、累進課税でごまかすしかない。
結局、共産主義は上記の矛盾が甚だ多く、実践中の中国でも一国二制度を選んだ。先富論の延長でいずれ全企業を国有化する建前かもしれないが。逆に日本やノルウェーの方が企業を国有化している。
思うに市場では組織の多様な形を認めつつ、累進課税を強化するのが現実的では? 共産主義者は協同組合で働けば搾取が少ない組織人になれる。幸福度の観点から高福祉化をはかるには高税率が必要だが、貧民からはそもそも搾り取れない。格差大好きならより高いハードル(税率)を超えればいいだけだ。
格差主義者「金持ちになって貧民どもを見下し、贅沢三昧して皇族ぶりたい!」
自由至上主義者「(租税回避地から)税金高い日本人ども、やーい、ざまあ」
この2つの人達は似て非なるものだ。いや、実は世界規模での格差主義者が自由至上主義者とも言えるが。
政府は自由至上主義者(広義で多国籍企業もそうだろう)が海外流出するのを危惧していた様だが富裕層数は世界2位だか3位になったのだからその懸念は払拭された。今度はどれだけ累進課税したら金持ちが逃げ出すか、社会実験してみるべきだ。どうせ米中以上に富裕層集めても格差地獄になるだけなので。
2019年5月13日
日本人一般は格差主義者
(特権階級である皇族や資本家を否定しなければならない、とするツイートへ)
資本家を否定すると私有財産制を制限することになり、いわゆる共産主義国にしないといけなくなり、今ある会社も貯金も政府が召し上げる(政府が国有化する)必要がある。そして過去の例では政府には市場の競争が働かず需給を見誤るので、他国と比べて生産性が低下し、労働意欲も減り経済的に失敗する。
安倍政権は日銀と年金機構に日本株(日経ETF等)を大量に買わせ、事実上、既に国内企業の約半分以上が国有化されている。つまり令和初期の日本は半分以上、社会主義国である。さらに日本株(国内企業)の政府保有分をふやし、国民の預金封鎖を行えば共産主義国といえる。マルクスは資本主義は社会主義段階を経て共産主義に至るという歴史観(唯物史観)をもっていた。
(正確には、社会主義からより高次な共産主義に至る二段階論それそのものを唯物史観と呼ぶのではなく、唯物史観は単に人間が自然・社会の中で生産様式を基盤とし制度や考え方を生むとする歴史観、即ち下部構造と上部構造によって歴史発展を説明する学説だが、彼個人としては二段階論を含むもの。二段階論は、マルクス『ゴータ綱領批判』が原典で、1章の 'In a higher phase of communist society, ...' から始まる節による。『ゴータ綱領』はドイツ社会主義労働者党の宣言文で、マルクスはそれを低次と批判して高次な共産主義を説いた為、上記解釈が生まれた。なお弁証法的唯物論は人間が自然・社会で生きていく中で精神を歴史的に形成したと考える、唯物史観の下敷きとなる考え方)
現時点の日本は、これに照らせば社会主義から共産主義に至りつつあるので、自由民主主義を標榜する政党がそれを進めているという皮肉はあるが、マルクスの予言通りに運行されている。
一方、米英仏など西側の主要先進国は、北欧や英仏などが福祉国家をめざし社民主義体制(民主主義の中で社会主義を実現しようとする体制)をとる場面はありつつも、全体としてマルクス史観を否定している。特に米国は私有財産制を前提とした資本主義が永続する前提で、社会主義すら否定する傾向がある。
では今後、日本で「資本家の否定」、即ち私有財産制を否定し政府が預金封鎖等を行うか、累進課税の度合いを高め所得税・相続税等の最高税率を上げる強度の社会主義をとる方に進むべきかだ。既に述べたよう計画経済の不能と労働意欲の低減によってこの方向は全体の生産性低下を伴う危惧がある。2019年時点で、北欧は一人あたりGDP、或いは一人あたり国民所得で日本以上なのに、高税率・高福祉を兼ねている。つまり社会主義といっても、市場の自由度を高くしておけば計画経済にならないし、労働意欲も低下しない可能性がある。ノルウェー政府年金基金・ファンドがあるのも日本の先駆者といえる。ノルウェーの一人あたりGDP・国民所得が高いのは油田があるせいではないか、というのが通説だが、それなら日本人もその種の高付加価値をうみだせる何らかの資源開発なり、産業をつくるしかない。ノルウェーと日本の違いでいえば税率で、格差逓減の為に高税率・高福祉を容認するべきか否かだ。日本人一般の公共心や政治的民度は恐らくノルウェーより遥かに低く、社民主義を理解できない。社民党の支持率を見れば一目瞭然である。それどころか彼らは軽減税率の意味もわからないのでOECD諸国並みの消費増税に反対している。つまり格差逓減といっても高税率・高福祉を容認できるほど賢くないのだ。いいかえれば日本人一般はノルウェー人一般に比べ利己的で公共心が低く、国民全体の幸福度より私利を優先する国民性をもっているので高税率・高福祉を真似そうにない。それで米国風の格差拡大(新自由主義)を支持し、資本家や富裕層、自民党員、皇族らがひたすら有利になる体制を選好している。
日本の資産・所得格差の指標である相対貧困率は先進国で米国に次ぎ、2番目だ。そして日本人の保守主義者らも、このことを誇りに思い、寧ろ格差の頂点付近に君臨する皇族を象徴化したがっている。しかもこの種の思想に基づく自民党が最大の支持率をもつ。つまり日本人一般は格差主義者なのである。
資本家を否定すると私有財産制を制限することになり、いわゆる共産主義国にしないといけなくなり、今ある会社も貯金も政府が召し上げる(政府が国有化する)必要がある。そして過去の例では政府には市場の競争が働かず需給を見誤るので、他国と比べて生産性が低下し、労働意欲も減り経済的に失敗する。
安倍政権は日銀と年金機構に日本株(日経ETF等)を大量に買わせ、事実上、既に国内企業の約半分以上が国有化されている。つまり令和初期の日本は半分以上、社会主義国である。さらに日本株(国内企業)の政府保有分をふやし、国民の預金封鎖を行えば共産主義国といえる。マルクスは資本主義は社会主義段階を経て共産主義に至るという歴史観(唯物史観)をもっていた。
(正確には、社会主義からより高次な共産主義に至る二段階論それそのものを唯物史観と呼ぶのではなく、唯物史観は単に人間が自然・社会の中で生産様式を基盤とし制度や考え方を生むとする歴史観、即ち下部構造と上部構造によって歴史発展を説明する学説だが、彼個人としては二段階論を含むもの。二段階論は、マルクス『ゴータ綱領批判』が原典で、1章の 'In a higher phase of communist society, ...' から始まる節による。『ゴータ綱領』はドイツ社会主義労働者党の宣言文で、マルクスはそれを低次と批判して高次な共産主義を説いた為、上記解釈が生まれた。なお弁証法的唯物論は人間が自然・社会で生きていく中で精神を歴史的に形成したと考える、唯物史観の下敷きとなる考え方)
現時点の日本は、これに照らせば社会主義から共産主義に至りつつあるので、自由民主主義を標榜する政党がそれを進めているという皮肉はあるが、マルクスの予言通りに運行されている。
一方、米英仏など西側の主要先進国は、北欧や英仏などが福祉国家をめざし社民主義体制(民主主義の中で社会主義を実現しようとする体制)をとる場面はありつつも、全体としてマルクス史観を否定している。特に米国は私有財産制を前提とした資本主義が永続する前提で、社会主義すら否定する傾向がある。
では今後、日本で「資本家の否定」、即ち私有財産制を否定し政府が預金封鎖等を行うか、累進課税の度合いを高め所得税・相続税等の最高税率を上げる強度の社会主義をとる方に進むべきかだ。既に述べたよう計画経済の不能と労働意欲の低減によってこの方向は全体の生産性低下を伴う危惧がある。2019年時点で、北欧は一人あたりGDP、或いは一人あたり国民所得で日本以上なのに、高税率・高福祉を兼ねている。つまり社会主義といっても、市場の自由度を高くしておけば計画経済にならないし、労働意欲も低下しない可能性がある。ノルウェー政府年金基金・ファンドがあるのも日本の先駆者といえる。ノルウェーの一人あたりGDP・国民所得が高いのは油田があるせいではないか、というのが通説だが、それなら日本人もその種の高付加価値をうみだせる何らかの資源開発なり、産業をつくるしかない。ノルウェーと日本の違いでいえば税率で、格差逓減の為に高税率・高福祉を容認するべきか否かだ。日本人一般の公共心や政治的民度は恐らくノルウェーより遥かに低く、社民主義を理解できない。社民党の支持率を見れば一目瞭然である。それどころか彼らは軽減税率の意味もわからないのでOECD諸国並みの消費増税に反対している。つまり格差逓減といっても高税率・高福祉を容認できるほど賢くないのだ。いいかえれば日本人一般はノルウェー人一般に比べ利己的で公共心が低く、国民全体の幸福度より私利を優先する国民性をもっているので高税率・高福祉を真似そうにない。それで米国風の格差拡大(新自由主義)を支持し、資本家や富裕層、自民党員、皇族らがひたすら有利になる体制を選好している。
日本の資産・所得格差の指標である相対貧困率は先進国で米国に次ぎ、2番目だ。そして日本人の保守主義者らも、このことを誇りに思い、寧ろ格差の頂点付近に君臨する皇族を象徴化したがっている。しかもこの種の思想に基づく自民党が最大の支持率をもつ。つまり日本人一般は格差主義者なのである。
公共消費論
(「日米の企業文化は倫理観の差もありつつ主に力勝負で半ば無理やり作り変えられてきた」の続き)
あなたが「投資を含む二次的消費」や「家計の効率」を、単なる一次的消費より経済発展に重要だ、と考える立場について、より詳しく(できたら経済学的に)考えてみます。興味があったらお読みください。
先ず大阪(旧大坂)商人は「汚く稼いで綺麗に使う」といわれていたよう、商人が淀屋橋など町橋を盛んに架けていた。つまり江戸の商人に比べ公共財に近い消費の仕方を賞賛する傾向があった。あなたのいう消費は、恐らくこの類の公共投資を、私人が代行する場合、特に当てはまる面があると思います。対して消費に色をつけない立場もあり、「江戸っ子は宵越しのカネをもたない」東京経済の特徴といわれていた。この俗諺は蓄財より消費の方が優越してた楽観的な江戸っ子、旧東京都民の経済観が現れていると解釈できます。例えばZOZOの前澤友作氏も(多分千葉県民でしょうが)消費するほど金儲けに繋がると言う。
財の分類図(財に競合性、排除性を想定し、それらの組み合わせを4象限に分け、それぞれ私財、共有財、会員財、公共財とするもの)でいえば、江戸っ子的消費は全消費を肯定するが、大坂商人的消費は特に公共財への消費を肯定する傾向がある、といいかえられます。あなたのいう二次的消費は、公共投資と賭博への消費(私的財への投資)を比較していた通り、後者の要素を含んでいると考えられる。即ち二次的消費とは、特に非排除的かつ非競合的な傾向がある財への消費を指している。しかも単に空間的にのみならず、時間的にも将来の経済活動を有利にする類の耐久的な公共財があり、公益性がより長期に渡る公共財が考えられる。これを時間的公共財とします。例えば、事故後の原発は公害が将来に渡るので時間的公共財がなんらかの有害さを含む場合です。
因みに私の作った概念だと、複利性を持つ耐久財(複利耐久財)と、瞬間的に費やされ効果が蓄積されない消費財(瞬間消費財)という対立概念があり、時間的公共財は複利耐久財の一種ともいえるでしょう。
また「家計の効率」という概念ですが、家計は典型的な経済主体の概念では、一般的に消費主体とされているが、この概念では家計も部分的に生産販売(利益追求)の主体にされている。特にこの場合は個人投資による収益を含め考えられているので、企業から賃金以外の投資収益が想定される。いいかえれば江戸っ子的消費の主体として家計が考えられていない。なぜなら江戸っ子的消費では家計が非効率、つまり時間的公共財ではないどころか瞬間消費財に投資(消費)しても、それは肯定されるからです。家計の効率(家計単位のROA向上)という考え方は需要を一部制限又は自主規制する。いわば家計の効率を追求すると消費の一部へ抑制効果があり、特に瞬間消費的な私的財(例えばスマホガチャ)の需給が減る結果になります。あなたも指摘していましたが、これは第一に部分的に公私混同なのではないでしょうか。つまり江戸っ子的消費は公害でなければ自由なわけです。第二に家計の効率は、ここでは貯蓄を危険資産に振り向ける誘因を含む(例えば株式投資は不確定的に損し得る)ので、或る家計が安全を最優先する傾向があるなら株式等の投資収益を排除するのに加え、実際に企業の単位でも他の企業への投資は効率という面で、金融業者を除けば一般に望ましくない。もっというと純粋に利益追求するなら本業で競合他社に優越する必要があり、家計単位で生産販売すると考えた場合も、金融業を本業にしていない人の場合、投資収益に頼る際の総資産利益率は単なる競合に依存する可能性があります。つまり他の個人投資家に比べ無能なら株式投資は時に家計を貧しくする。
結局、「投資を含む二次的消費」は公益性の高い時間的公共財のうち複利耐久性が高いものを選好させるという意味で、一種の公徳を含んでいるといえますが、この財への消費を投資という一般語で呼ぶのは曖昧なので、「公共消費」又はより一般化し「皆の為の消費」というと分かり易いかもしれません。例えば老人が一生かけ蓄財し莫大な投資収益が貯まっていても相続者がいなければ死後、国庫返納される。家計は企業のよう公共性をもっていない。したがって非効率で瞬間消費的な私的財に全てを費やしていても、それもまた個人の自由なわけです。ただの成金と豪商への敬意の差が出る程度でしょう。
最後に付け加えると、偕楽園は水戸の徳川家が私庭の一部を愛民思想に基づき公共財にしたもの(公共消費)で入場無料だったのですが、元マイクロソフト社員の現知事がはじめて、庭の一部を有料化し会員財にしたがり幾らか議論されてます。ビルゲイツならどうしたでしょうかね?
あなたが「投資を含む二次的消費」や「家計の効率」を、単なる一次的消費より経済発展に重要だ、と考える立場について、より詳しく(できたら経済学的に)考えてみます。興味があったらお読みください。
先ず大阪(旧大坂)商人は「汚く稼いで綺麗に使う」といわれていたよう、商人が淀屋橋など町橋を盛んに架けていた。つまり江戸の商人に比べ公共財に近い消費の仕方を賞賛する傾向があった。あなたのいう消費は、恐らくこの類の公共投資を、私人が代行する場合、特に当てはまる面があると思います。対して消費に色をつけない立場もあり、「江戸っ子は宵越しのカネをもたない」東京経済の特徴といわれていた。この俗諺は蓄財より消費の方が優越してた楽観的な江戸っ子、旧東京都民の経済観が現れていると解釈できます。例えばZOZOの前澤友作氏も(多分千葉県民でしょうが)消費するほど金儲けに繋がると言う。
財の分類図(財に競合性、排除性を想定し、それらの組み合わせを4象限に分け、それぞれ私財、共有財、会員財、公共財とするもの)でいえば、江戸っ子的消費は全消費を肯定するが、大坂商人的消費は特に公共財への消費を肯定する傾向がある、といいかえられます。あなたのいう二次的消費は、公共投資と賭博への消費(私的財への投資)を比較していた通り、後者の要素を含んでいると考えられる。即ち二次的消費とは、特に非排除的かつ非競合的な傾向がある財への消費を指している。しかも単に空間的にのみならず、時間的にも将来の経済活動を有利にする類の耐久的な公共財があり、公益性がより長期に渡る公共財が考えられる。これを時間的公共財とします。例えば、事故後の原発は公害が将来に渡るので時間的公共財がなんらかの有害さを含む場合です。
因みに私の作った概念だと、複利性を持つ耐久財(複利耐久財)と、瞬間的に費やされ効果が蓄積されない消費財(瞬間消費財)という対立概念があり、時間的公共財は複利耐久財の一種ともいえるでしょう。
また「家計の効率」という概念ですが、家計は典型的な経済主体の概念では、一般的に消費主体とされているが、この概念では家計も部分的に生産販売(利益追求)の主体にされている。特にこの場合は個人投資による収益を含め考えられているので、企業から賃金以外の投資収益が想定される。いいかえれば江戸っ子的消費の主体として家計が考えられていない。なぜなら江戸っ子的消費では家計が非効率、つまり時間的公共財ではないどころか瞬間消費財に投資(消費)しても、それは肯定されるからです。家計の効率(家計単位のROA向上)という考え方は需要を一部制限又は自主規制する。いわば家計の効率を追求すると消費の一部へ抑制効果があり、特に瞬間消費的な私的財(例えばスマホガチャ)の需給が減る結果になります。あなたも指摘していましたが、これは第一に部分的に公私混同なのではないでしょうか。つまり江戸っ子的消費は公害でなければ自由なわけです。第二に家計の効率は、ここでは貯蓄を危険資産に振り向ける誘因を含む(例えば株式投資は不確定的に損し得る)ので、或る家計が安全を最優先する傾向があるなら株式等の投資収益を排除するのに加え、実際に企業の単位でも他の企業への投資は効率という面で、金融業者を除けば一般に望ましくない。もっというと純粋に利益追求するなら本業で競合他社に優越する必要があり、家計単位で生産販売すると考えた場合も、金融業を本業にしていない人の場合、投資収益に頼る際の総資産利益率は単なる競合に依存する可能性があります。つまり他の個人投資家に比べ無能なら株式投資は時に家計を貧しくする。
結局、「投資を含む二次的消費」は公益性の高い時間的公共財のうち複利耐久性が高いものを選好させるという意味で、一種の公徳を含んでいるといえますが、この財への消費を投資という一般語で呼ぶのは曖昧なので、「公共消費」又はより一般化し「皆の為の消費」というと分かり易いかもしれません。例えば老人が一生かけ蓄財し莫大な投資収益が貯まっていても相続者がいなければ死後、国庫返納される。家計は企業のよう公共性をもっていない。したがって非効率で瞬間消費的な私的財に全てを費やしていても、それもまた個人の自由なわけです。ただの成金と豪商への敬意の差が出る程度でしょう。
最後に付け加えると、偕楽園は水戸の徳川家が私庭の一部を愛民思想に基づき公共財にしたもの(公共消費)で入場無料だったのですが、元マイクロソフト社員の現知事がはじめて、庭の一部を有料化し会員財にしたがり幾らか議論されてます。ビルゲイツならどうしたでしょうかね?
2019年5月12日
日米の企業文化は倫理観の差もありつつ主に力勝負で半ば無理やり作り変えられてきた
(株式投資で自分年金を作れば政府の社会保障費増に、国民側が対応できるとするツイートへ)
もともと賦課方式とかいう現役世代の払った分を高齢世代に直接渡してた年金を、少子化で維持できないことが明らかで年金機構が株買うことで水増ししようとした。で君らが貯金を日本株に突っ込むと間接的に年金に行くともいえるから、或る意味、騙されてんだよ。将来に消費を先送りしてるだけだから。そもそも積み立て投資って50代とか60代にならないとろくに資産ふえないわけだから、その頃になってから消費するといっても若者みたいに欲しい物ないのが一般的なわけで、子供もいなければ余計使い道ない。じゃあなんで積み立てていたのかといえば高齢者に貢ぐ為でしたとなる。
君は、同世代との資産格差で、年寄りになって貧乏な同級生を見下せたら楽しいなっていいたいんだろうけど、現にカネ持ってる年寄りみてると「こいつら先に何もないのに、はやくしねばいいと思われながら蓄財してばかじゃないのか」ってみえるよ? つまり年下からは悪徳貪欲老人に過ぎない。
(ローソンが無人店舗に設備投資したことを例に、事業投資は企業の生産性・利益率に繋がるとのツイートへ)
上の理屈だと投資家は儲かっても従業員が省かれる。ローソンの株もってない従業員は「個人支出or投資額がさらに増える」から排除されたままでしょ? 無人店舗で企業の利益率があがっても個人の消費支出が増えるわけではないと。
「事業投資すれば利益率が上がる」のは経営が成功した場合でしょう。
(フリーターら経済弱者も投資収益で豊かになるので、NISA等の個人投資が有用とのツイートへ)
問題は、日本の株式市場ってバブル以後、最高値更新してないわけで、しかも日銀・GPIFの持分が多すぎて(半分以上が政府保有)、利益に連動した健全な市場じゃないでしょ? つまり右肩上がりになるとは限らない。何しろ少子化がとまってない。
(公共事業で消費的に無駄な施設は負の遺産、投資的に道路の社会基盤整備に使えば生産性向上につながるよう、消費より投資を重視し家計の効率をひきあげれば、結果的に経済拡大になり、消費が増えるとするツイートへ)
1.政府が建設国債を発行などして行う「公共投資」と、個人投資家が貯蓄の一部を企業に貸す「個人投資」は、前者が公益、後者が私利を目的にしている点で同列に語り得ない。効率の観点でも両者は異なる判断が必要。例:橋は或る企業の利益追求と無関係に住民の利便性のため維持される。
2.家計の効率(あなたのいうのは恐らく投資に回す貯蓄の額って意味でしょ)を追求すると、顕示的消費など奢侈品の分とか切り捨てられる上に、消費は先送りされるのでその時点で縮小するでしょ? 特に投資収益が期待通りに行かなかったら、将来も消費拡大に繋がるとは限らない。
(ただの消費は無駄が多く、パチンコ等にカネを使うより投資など生産性向上に使う方が、国も個人も経済的に豊かになり、カネ回りもよくなるとするツイートへ)
SANKYOって上場してるでしょ? そんで政府もカジノ推進してるでしょう? まあたとえが適切じゃないだけだろうけど。パチンコも換金は違法かもしれないけど、娯楽産業ではある。任天堂だって花札メーカーだったじゃないですか。
要するにカネを将来の収益が見込める方に回せといいたいのでしょ。
(資産運用で効率的経済システムにしないと将来が危ういので、国と個人の両方から今までのしくみや生き方を今からでも改善していくのが重要とのツイートへ)
『生涯投資家』によると日本の上場企業ってぬるい馴れ合いしてて、本気で株主還元とかしてないから改革は実に骨が折れるし、全体が潰れるのを待つ方が早い気もするよ。
堀江貴文氏と村上世彰氏は、あなたの様な志をもっていた先駆者だけど、どっちも素で東京地検に潰された。片や風説の流布、偽計取引、片やインサイダー疑惑。ゴーン氏も似た感じで、日仏合同企業を目指す改革者なので狙われた可能性がある。それだけ既得権益の保身が激しい国だって話。
君は何らかの改革者としてやってけばいいと思うけど、私は村上氏の本を読み、これは正面きって戦うだけ無駄だなと思ったんで、主な日本企業が自滅しまくるのを待ち、潰れたあとで買い取るなり新企業で駆逐する方が簡単に企業統治を浸透させれると感じます。荒野行動もそうすけど、戦いたくないです。国家権力を敵に回すというか、明らかに暴力の規模が違う、しかも愚かなだけの相手との面倒ごとを避けたいという意味で、戦わざるを得ない場面なら戦いますが、日本企業は株主還元なんて理解するほど賢くないですよ!
(家計の効率とは個人の生産性で、総資産100万で月収20万と、総資産50万で月収20万なら後者の方が生産効率がよく、貯金のみより投資もする個人の方が高効率とするツイートへ)
家計のROAを計算し、家計も利益追求の単位とすると、他の企業への投資に振り向けてたらその家計は貸借対照表の流動資産の有価証券にそれを充当するわけで、もしこれを株主(いないけど)が見たら「事業投資に向けろ、さもなくば返せ」っていうべきなのでは? 多分、事業してない前提なんだろうけど。
「家計の効率」がROAのことというのは分かったので、そして消費に回す分は、君の考えだと家計事業の収益の余分として考えられていて、持ち株会社風の家計なので投資収益の一部を回すことになってんでしょうね。まあ投資家が考えそうな話ではあるけども、一般人はそうは考えてないよね。ローンとか。
ま、既得権益と戦って得してる人って見たことないというか、一種の愚劣さだと思うけど。荒野行動でいう特攻勢でしょ。
演技として戦う振りするなら分かるけど、本気で衝突して死んでも誰も助けてくれないだけの話だろ。
(一般人には国家、思想や主義などは複雑なので、プラス収入のため積立NISAしよう、みたいにもっと小さい視点でいい、とするツイートへ)
上に書いたよう詐欺じゃないすか? 一種の。君は前から楽観論をとるけど、普通に考えて少子化で政府が半分もカネ突っ込んでる株式市場が、健全な利益をあげて成長していくって可能性、想定できないよ。
まあ1つは内需7割(貿易依存度3割)の国で、政府は日経ETFとか買ってるから株価が個別の企業業績に連動してないわけですよ。しかも東芝、東電みたいに公金で救済措置みたいなことまでするから、国家社会主義市場でしかない。歴史上そういう計画経済じみたのは失敗してきた。バブル以後の最高値を、あれだけ政府が買い煽りやって超えていない。日経PERもPBRも低いまま、なぜかといえばこの国の成長は期待されていない。少子化な上に企業の平均ROEが低い、なぜならサラリーマン経営者の馴れ合いで株主還元しない。君は官製株高に乗っかったのを成功体験だと思ってる。
君の嫌いなジム・ロジャースは北朝鮮に投資しようと大韓航空の株買ったといっていた。日本株はもう売ったと。どっちかといえば日銀がいつまで日経ETFを持ち続けるか知らないけど、予定調和で株価はさがっていくでしょ。日銀が儲かっても消費用のお金じゃないんだから意味ないので、売るしかないもの。
ま、株価なんて予言できないから、市場から資金引き上げる人が出てきたら下がるだけの話で、確かに利益に連動して上がることがあるとしてもそれは健全な株式市場で、企業は株主の持ち物と理解してる健全な企業の場合でしょ。ただ日銀の保有分は市場放出するときがくるからその分は下がるのでは?
(将来株価は予想できず、積立方式で取得株価を平準化させるのが一般的、故にNISAも同方式とするツイートへ)
金融庁のその理屈、積み立て投資で皆儲かる、ポートフォリオ理論に基づいたら分散投資になるから失敗しづらい、長期分散積立でGOというやつ。私色々勉強したけど、それで成功してる投資家いないだろ。
有名投資家レベルで君のいう金融庁方式で成功者いる?
政府が「貯金を株・投信に突っ込め。だって政府はお前らに年金出す余裕ないから、社会保障もできたらしないので、自分でiDeCoとNISA使ってなんとかしろよ」っていいたいだけだろう? 投資家側からしたら結構笑える理屈だと思います。投資市場に金出させる一方の買い煽りを政府がやってるんです。確かに、平均リターンで数%くらいは得られるかもしれない。だから全く根拠がない理屈でないのはわかる。そして君だってその範囲で十分と考えてるから政府の買い煽りに協賛しているのだろう。問題はその収益は、途上国の預金金利と同じか低いくらいの話で日本の経済成長率の低さをカバーしていない。途上国の成長速度とかお金の増え方に全然おいつけないけれども、自分で積立投資してた人達の収益は、政府がほうって置く人達よりありますよ、いや有る予定です(日銀ある限り)、ですから、資産格差は自己責任です、と。これが現金融庁が厚労省と一緒になって国民にいいたいことですよ。
本来、政府がいうべきことは、「国民みなが成長するのを後押しします」か、「政府は市場に干渉しません。ただし安全網はばっちりです」か、いずれかだと思います。前者は不景気の時に限定的にだけケインズ政策としてやられてきた、財政出動というやつ。もう常態的で狂っているので誰も指摘しないけど。
(積立、いわゆるドルコスト平均法は金融業界の最も伝統的な取引方法で、有名投資家にはベンジャミン・グレアム、ウォーレン・バフェット、チャールズ・マンガー、ウォルター・シュロス、カーン・ブラザーズなどが居る、とするツイートへ)
その中でグレアムとバフェット、マンガーは知ってるけど、彼らはグレアムが割安株投資、バフェットとマンガーは少なくともバフェットはグレアムの弟子なので最初は割安株(しけもく)投資、途中からはマンガーと共に企業の内在価値への投資なので、積立というのは語弊がある。途中で沢山買ってるもの。
多分君は平均購入単価を下げる為に取得時期をずらすことを、広義で積立、しかも特にドルコスト平均法と呼んでいるのだろうけど、金融庁の定義する積立と上記の3人は違うと思う。金融庁の積立は一生かけて少しずつ貯蓄するイメージだけど、彼ら3人はPERや予想株価を使って安い株を長期保有するので。
「最も伝統的な取引法」と君は積立、ドルコスト平均法を言う。根拠は何ですか。
因みに私の知る限り、バフェットとマンガーはドルコスト平均法、つまり株価の変動に関わらず定期的に徐々に或る株を購入する手法とはある程度違う観点から平均取得単価を下げていると思うので、それにあてはまらないと思います。彼らは企業の計算済み内在価値とのずれに投資しているのが私の知っている所です。
話のつづきですけど、企業の利害関係者は
1.株主
2.経営者
3.従業員
4.取引先
5.顧客
などがいるとします。
それで日本企業は、従業員持株会や会社同士の株式持合いなどがあって株主が経営を十分監督できておらず、しかも従業員が出世して経営者になる慣行で従業員中心だったり(これ自体は時に悪いことではないでしょう)、経営者自身が株主のオーナー企業があったり、要するに資本と経営が分離してない。これは日本企業の構造で、米国企業は違う。米国は株主が会社の所有者で経営に口を出すこともしばしばだし、経営者と従業員もどちらかといえば乾いた関係なので日本より解雇が容易だったりして従業員の生活を守る為に経営を犠牲にすること(窓際族みたいなの)は少ない。オーナー企業は非上場が多いと。
『生涯投資家』によれば村上世彰さんや、堀江貴文さんはどちらかといえば米国企業文化の合理性を当然視していて、日本もそうなって然るべきだろうと敵対的買収、株式公開買い付けで、企業の形を保身する既存経営者との戦いを演じたのだが、頑強な抵抗にあった上に、武士道的倫理観で逮捕されたと。
で私の意見では、上にあげた利害関係者の組み合わせの慣行って、一種の文化だと。実際、新卒一括採用みたいな慣行も自分から維持してて海外と全然違うけど直す気がないでしょう? 終身雇用制は非正規雇用法以後、維持不要になったからリストラ解雇で放棄してただけで海外と同じ理由からではない。しかも日本企業文化が全て劣っているとはいえず、中年の子供いる男性の方が業績に関わらず給与が高い基本構造って、経営者の一種の温情でそうしていたわけです。オーナー同士の古馴染みで株を持ち合うのも合理性からいうと風上に置けないけど信義で裏切り易い人を排除しているわけです。あなたは「企業」を投資を含む二次的消費に向け改革しようという。しかし上記のよう、日本人一般って独特の文化感覚で投資家は金の亡者、又は不労所得でサイコパス度の高い闇のデイトレーダー、又は優待生活の貧乏臭い変人みたいなイメージで、株主を尊重してない。逆に正社員が偉そうなわけです。
私はこの様な日本の企業文化を、一株主、一経営者が大胆に変えようとし武士道で潰され、白馬の騎士様の仇討ちだみたいに解釈されてる現状をみるに、あなたのいう改革って本当に必要なのかなと思う。森永卓郎さんは会社は従業員、取引先、顧客の持ち物と思っていたという。
つづめていうと、日本人の道徳規範は伝統的な武士道(金儲けは卑しい、公を私より優先すべし)、また和を以て貴しと為す(皆が平等)で、これらが企業文化の中で株主価値の追求を後回しにさせているかもしれない。しかし資本主義化は米国の影響下で確実に浸透してるから上記の事件が摩擦として起きる。日本企業は、特に従業員持株会がある会社組織の場合、実際に従業員自身が株主を兼ねているので、似た構造なのに海外(中国)でもファーウェイがあるけど、労働組合以前に株主と従業員の利害対立が緩和されてたりすると。いいかえれば合理的な株主統治って実は、米国文化に過ぎないのかもしれない。
でこれはどうでもいい情報かもしれないが、映画『スディーブ・ジョブズ』をみました。彼は起業家として自宅ガレージでアップルを作り、詐欺まがいの手法で共同創業者のウォズから金をせしめたり、盗作でビルゲイツから裏切られたりして成長し、目先の利益を度外視した製品開発で株主から排除される。全員がスーツに身を包んだ株主総会の場でジョブズだけあの格好で椅子にも座らず、キャビネットだか机だかに脚を放り出しなめた態度で臨んでいて、そこは脚色されてもいるだろうけど要するに彼は株主価値を軽視する。つまり米国文化の中ですら企業統治って複雑な利害対立に過ぎないという話です。その映画はジョブズが捨て子で学生時代に交尾しつつLSDやって涙を流し、子供を捨てる親が居るなんて信じられないといい恋人に同情されるのだが、彼自身、経営に夢中でその恋人との子を認知せず、その娘の名をつけた特製コンピューター(リサ)開発の失敗で、上記のアップル解雇後にやっと家庭を築く。でアップル社は株主のいうとおり目先の利益追求で迷走し、業績悪化しまくって終にジョブズに泣きつくが、ジョブズは一計を講じアップル創業時に資金を提供してくれた株主や彼に頼ってくれた経営者を裏切って次々解雇し、彼自身の社内独裁体制を築く。それで我々のもつアイフォンだのを作ったという筋。
米国文化としての企業統治、株主資本主義も、いわゆる最大の持株会社バークシャーハサウェイの力があって徐々に作られてきた一慣行にすぎず、村上世彰氏の「物言う株主」の概念もバフェット以前にはそこまで当然視されなかったのかもしれない。だから日本文化も同じで、改変はできるが力勝負という話。
もともと賦課方式とかいう現役世代の払った分を高齢世代に直接渡してた年金を、少子化で維持できないことが明らかで年金機構が株買うことで水増ししようとした。で君らが貯金を日本株に突っ込むと間接的に年金に行くともいえるから、或る意味、騙されてんだよ。将来に消費を先送りしてるだけだから。そもそも積み立て投資って50代とか60代にならないとろくに資産ふえないわけだから、その頃になってから消費するといっても若者みたいに欲しい物ないのが一般的なわけで、子供もいなければ余計使い道ない。じゃあなんで積み立てていたのかといえば高齢者に貢ぐ為でしたとなる。
君は、同世代との資産格差で、年寄りになって貧乏な同級生を見下せたら楽しいなっていいたいんだろうけど、現にカネ持ってる年寄りみてると「こいつら先に何もないのに、はやくしねばいいと思われながら蓄財してばかじゃないのか」ってみえるよ? つまり年下からは悪徳貪欲老人に過ぎない。
(ローソンが無人店舗に設備投資したことを例に、事業投資は企業の生産性・利益率に繋がるとのツイートへ)
上の理屈だと投資家は儲かっても従業員が省かれる。ローソンの株もってない従業員は「個人支出or投資額がさらに増える」から排除されたままでしょ? 無人店舗で企業の利益率があがっても個人の消費支出が増えるわけではないと。
「事業投資すれば利益率が上がる」のは経営が成功した場合でしょう。
(フリーターら経済弱者も投資収益で豊かになるので、NISA等の個人投資が有用とのツイートへ)
問題は、日本の株式市場ってバブル以後、最高値更新してないわけで、しかも日銀・GPIFの持分が多すぎて(半分以上が政府保有)、利益に連動した健全な市場じゃないでしょ? つまり右肩上がりになるとは限らない。何しろ少子化がとまってない。
(公共事業で消費的に無駄な施設は負の遺産、投資的に道路の社会基盤整備に使えば生産性向上につながるよう、消費より投資を重視し家計の効率をひきあげれば、結果的に経済拡大になり、消費が増えるとするツイートへ)
1.政府が建設国債を発行などして行う「公共投資」と、個人投資家が貯蓄の一部を企業に貸す「個人投資」は、前者が公益、後者が私利を目的にしている点で同列に語り得ない。効率の観点でも両者は異なる判断が必要。例:橋は或る企業の利益追求と無関係に住民の利便性のため維持される。
2.家計の効率(あなたのいうのは恐らく投資に回す貯蓄の額って意味でしょ)を追求すると、顕示的消費など奢侈品の分とか切り捨てられる上に、消費は先送りされるのでその時点で縮小するでしょ? 特に投資収益が期待通りに行かなかったら、将来も消費拡大に繋がるとは限らない。
(ただの消費は無駄が多く、パチンコ等にカネを使うより投資など生産性向上に使う方が、国も個人も経済的に豊かになり、カネ回りもよくなるとするツイートへ)
SANKYOって上場してるでしょ? そんで政府もカジノ推進してるでしょう? まあたとえが適切じゃないだけだろうけど。パチンコも換金は違法かもしれないけど、娯楽産業ではある。任天堂だって花札メーカーだったじゃないですか。
要するにカネを将来の収益が見込める方に回せといいたいのでしょ。
(資産運用で効率的経済システムにしないと将来が危ういので、国と個人の両方から今までのしくみや生き方を今からでも改善していくのが重要とのツイートへ)
『生涯投資家』によると日本の上場企業ってぬるい馴れ合いしてて、本気で株主還元とかしてないから改革は実に骨が折れるし、全体が潰れるのを待つ方が早い気もするよ。
堀江貴文氏と村上世彰氏は、あなたの様な志をもっていた先駆者だけど、どっちも素で東京地検に潰された。片や風説の流布、偽計取引、片やインサイダー疑惑。ゴーン氏も似た感じで、日仏合同企業を目指す改革者なので狙われた可能性がある。それだけ既得権益の保身が激しい国だって話。
君は何らかの改革者としてやってけばいいと思うけど、私は村上氏の本を読み、これは正面きって戦うだけ無駄だなと思ったんで、主な日本企業が自滅しまくるのを待ち、潰れたあとで買い取るなり新企業で駆逐する方が簡単に企業統治を浸透させれると感じます。荒野行動もそうすけど、戦いたくないです。国家権力を敵に回すというか、明らかに暴力の規模が違う、しかも愚かなだけの相手との面倒ごとを避けたいという意味で、戦わざるを得ない場面なら戦いますが、日本企業は株主還元なんて理解するほど賢くないですよ!
(家計の効率とは個人の生産性で、総資産100万で月収20万と、総資産50万で月収20万なら後者の方が生産効率がよく、貯金のみより投資もする個人の方が高効率とするツイートへ)
家計のROAを計算し、家計も利益追求の単位とすると、他の企業への投資に振り向けてたらその家計は貸借対照表の流動資産の有価証券にそれを充当するわけで、もしこれを株主(いないけど)が見たら「事業投資に向けろ、さもなくば返せ」っていうべきなのでは? 多分、事業してない前提なんだろうけど。
「家計の効率」がROAのことというのは分かったので、そして消費に回す分は、君の考えだと家計事業の収益の余分として考えられていて、持ち株会社風の家計なので投資収益の一部を回すことになってんでしょうね。まあ投資家が考えそうな話ではあるけども、一般人はそうは考えてないよね。ローンとか。
ま、既得権益と戦って得してる人って見たことないというか、一種の愚劣さだと思うけど。荒野行動でいう特攻勢でしょ。
演技として戦う振りするなら分かるけど、本気で衝突して死んでも誰も助けてくれないだけの話だろ。
(一般人には国家、思想や主義などは複雑なので、プラス収入のため積立NISAしよう、みたいにもっと小さい視点でいい、とするツイートへ)
上に書いたよう詐欺じゃないすか? 一種の。君は前から楽観論をとるけど、普通に考えて少子化で政府が半分もカネ突っ込んでる株式市場が、健全な利益をあげて成長していくって可能性、想定できないよ。
まあ1つは内需7割(貿易依存度3割)の国で、政府は日経ETFとか買ってるから株価が個別の企業業績に連動してないわけですよ。しかも東芝、東電みたいに公金で救済措置みたいなことまでするから、国家社会主義市場でしかない。歴史上そういう計画経済じみたのは失敗してきた。バブル以後の最高値を、あれだけ政府が買い煽りやって超えていない。日経PERもPBRも低いまま、なぜかといえばこの国の成長は期待されていない。少子化な上に企業の平均ROEが低い、なぜならサラリーマン経営者の馴れ合いで株主還元しない。君は官製株高に乗っかったのを成功体験だと思ってる。
君の嫌いなジム・ロジャースは北朝鮮に投資しようと大韓航空の株買ったといっていた。日本株はもう売ったと。どっちかといえば日銀がいつまで日経ETFを持ち続けるか知らないけど、予定調和で株価はさがっていくでしょ。日銀が儲かっても消費用のお金じゃないんだから意味ないので、売るしかないもの。
ま、株価なんて予言できないから、市場から資金引き上げる人が出てきたら下がるだけの話で、確かに利益に連動して上がることがあるとしてもそれは健全な株式市場で、企業は株主の持ち物と理解してる健全な企業の場合でしょ。ただ日銀の保有分は市場放出するときがくるからその分は下がるのでは?
(将来株価は予想できず、積立方式で取得株価を平準化させるのが一般的、故にNISAも同方式とするツイートへ)
金融庁のその理屈、積み立て投資で皆儲かる、ポートフォリオ理論に基づいたら分散投資になるから失敗しづらい、長期分散積立でGOというやつ。私色々勉強したけど、それで成功してる投資家いないだろ。
有名投資家レベルで君のいう金融庁方式で成功者いる?
政府が「貯金を株・投信に突っ込め。だって政府はお前らに年金出す余裕ないから、社会保障もできたらしないので、自分でiDeCoとNISA使ってなんとかしろよ」っていいたいだけだろう? 投資家側からしたら結構笑える理屈だと思います。投資市場に金出させる一方の買い煽りを政府がやってるんです。確かに、平均リターンで数%くらいは得られるかもしれない。だから全く根拠がない理屈でないのはわかる。そして君だってその範囲で十分と考えてるから政府の買い煽りに協賛しているのだろう。問題はその収益は、途上国の預金金利と同じか低いくらいの話で日本の経済成長率の低さをカバーしていない。途上国の成長速度とかお金の増え方に全然おいつけないけれども、自分で積立投資してた人達の収益は、政府がほうって置く人達よりありますよ、いや有る予定です(日銀ある限り)、ですから、資産格差は自己責任です、と。これが現金融庁が厚労省と一緒になって国民にいいたいことですよ。
本来、政府がいうべきことは、「国民みなが成長するのを後押しします」か、「政府は市場に干渉しません。ただし安全網はばっちりです」か、いずれかだと思います。前者は不景気の時に限定的にだけケインズ政策としてやられてきた、財政出動というやつ。もう常態的で狂っているので誰も指摘しないけど。
(積立、いわゆるドルコスト平均法は金融業界の最も伝統的な取引方法で、有名投資家にはベンジャミン・グレアム、ウォーレン・バフェット、チャールズ・マンガー、ウォルター・シュロス、カーン・ブラザーズなどが居る、とするツイートへ)
その中でグレアムとバフェット、マンガーは知ってるけど、彼らはグレアムが割安株投資、バフェットとマンガーは少なくともバフェットはグレアムの弟子なので最初は割安株(しけもく)投資、途中からはマンガーと共に企業の内在価値への投資なので、積立というのは語弊がある。途中で沢山買ってるもの。
多分君は平均購入単価を下げる為に取得時期をずらすことを、広義で積立、しかも特にドルコスト平均法と呼んでいるのだろうけど、金融庁の定義する積立と上記の3人は違うと思う。金融庁の積立は一生かけて少しずつ貯蓄するイメージだけど、彼ら3人はPERや予想株価を使って安い株を長期保有するので。
「最も伝統的な取引法」と君は積立、ドルコスト平均法を言う。根拠は何ですか。
因みに私の知る限り、バフェットとマンガーはドルコスト平均法、つまり株価の変動に関わらず定期的に徐々に或る株を購入する手法とはある程度違う観点から平均取得単価を下げていると思うので、それにあてはまらないと思います。彼らは企業の計算済み内在価値とのずれに投資しているのが私の知っている所です。
話のつづきですけど、企業の利害関係者は
1.株主
2.経営者
3.従業員
4.取引先
5.顧客
などがいるとします。
それで日本企業は、従業員持株会や会社同士の株式持合いなどがあって株主が経営を十分監督できておらず、しかも従業員が出世して経営者になる慣行で従業員中心だったり(これ自体は時に悪いことではないでしょう)、経営者自身が株主のオーナー企業があったり、要するに資本と経営が分離してない。これは日本企業の構造で、米国企業は違う。米国は株主が会社の所有者で経営に口を出すこともしばしばだし、経営者と従業員もどちらかといえば乾いた関係なので日本より解雇が容易だったりして従業員の生活を守る為に経営を犠牲にすること(窓際族みたいなの)は少ない。オーナー企業は非上場が多いと。
『生涯投資家』によれば村上世彰さんや、堀江貴文さんはどちらかといえば米国企業文化の合理性を当然視していて、日本もそうなって然るべきだろうと敵対的買収、株式公開買い付けで、企業の形を保身する既存経営者との戦いを演じたのだが、頑強な抵抗にあった上に、武士道的倫理観で逮捕されたと。
で私の意見では、上にあげた利害関係者の組み合わせの慣行って、一種の文化だと。実際、新卒一括採用みたいな慣行も自分から維持してて海外と全然違うけど直す気がないでしょう? 終身雇用制は非正規雇用法以後、維持不要になったからリストラ解雇で放棄してただけで海外と同じ理由からではない。しかも日本企業文化が全て劣っているとはいえず、中年の子供いる男性の方が業績に関わらず給与が高い基本構造って、経営者の一種の温情でそうしていたわけです。オーナー同士の古馴染みで株を持ち合うのも合理性からいうと風上に置けないけど信義で裏切り易い人を排除しているわけです。あなたは「企業」を投資を含む二次的消費に向け改革しようという。しかし上記のよう、日本人一般って独特の文化感覚で投資家は金の亡者、又は不労所得でサイコパス度の高い闇のデイトレーダー、又は優待生活の貧乏臭い変人みたいなイメージで、株主を尊重してない。逆に正社員が偉そうなわけです。
私はこの様な日本の企業文化を、一株主、一経営者が大胆に変えようとし武士道で潰され、白馬の騎士様の仇討ちだみたいに解釈されてる現状をみるに、あなたのいう改革って本当に必要なのかなと思う。森永卓郎さんは会社は従業員、取引先、顧客の持ち物と思っていたという。
つづめていうと、日本人の道徳規範は伝統的な武士道(金儲けは卑しい、公を私より優先すべし)、また和を以て貴しと為す(皆が平等)で、これらが企業文化の中で株主価値の追求を後回しにさせているかもしれない。しかし資本主義化は米国の影響下で確実に浸透してるから上記の事件が摩擦として起きる。日本企業は、特に従業員持株会がある会社組織の場合、実際に従業員自身が株主を兼ねているので、似た構造なのに海外(中国)でもファーウェイがあるけど、労働組合以前に株主と従業員の利害対立が緩和されてたりすると。いいかえれば合理的な株主統治って実は、米国文化に過ぎないのかもしれない。
でこれはどうでもいい情報かもしれないが、映画『スディーブ・ジョブズ』をみました。彼は起業家として自宅ガレージでアップルを作り、詐欺まがいの手法で共同創業者のウォズから金をせしめたり、盗作でビルゲイツから裏切られたりして成長し、目先の利益を度外視した製品開発で株主から排除される。全員がスーツに身を包んだ株主総会の場でジョブズだけあの格好で椅子にも座らず、キャビネットだか机だかに脚を放り出しなめた態度で臨んでいて、そこは脚色されてもいるだろうけど要するに彼は株主価値を軽視する。つまり米国文化の中ですら企業統治って複雑な利害対立に過ぎないという話です。その映画はジョブズが捨て子で学生時代に交尾しつつLSDやって涙を流し、子供を捨てる親が居るなんて信じられないといい恋人に同情されるのだが、彼自身、経営に夢中でその恋人との子を認知せず、その娘の名をつけた特製コンピューター(リサ)開発の失敗で、上記のアップル解雇後にやっと家庭を築く。でアップル社は株主のいうとおり目先の利益追求で迷走し、業績悪化しまくって終にジョブズに泣きつくが、ジョブズは一計を講じアップル創業時に資金を提供してくれた株主や彼に頼ってくれた経営者を裏切って次々解雇し、彼自身の社内独裁体制を築く。それで我々のもつアイフォンだのを作ったという筋。
米国文化としての企業統治、株主資本主義も、いわゆる最大の持株会社バークシャーハサウェイの力があって徐々に作られてきた一慣行にすぎず、村上世彰氏の「物言う株主」の概念もバフェット以前にはそこまで当然視されなかったのかもしれない。だから日本文化も同じで、改変はできるが力勝負という話。
右翼は愛国扇動してほしいなら私に大金をよこせ
日本人全般「お前には応援してもらいたくないから1円もやらね」
これで愛国しないのはおかしいとかいって虐めてくるんだから、右翼ってどれだけ人の気持ちがわからないの?
私に大金よこしたらいいじゃないですか。そしたら応援してくれといっても、はあ、お金くれるならいいですよ、となるじゃないですか。一円もよこさず、絵描きさんを無職扱い、犯罪者予備軍あつかいで虐めていて、文化を大切にする国じゃねーよ。その国、芸術家の地獄だよ。
右翼は猛省し、私に大金をよこすことだね。そしたら横山大観みたいに日本の象徴を美化して描いてやるから。
これで愛国しないのはおかしいとかいって虐めてくるんだから、右翼ってどれだけ人の気持ちがわからないの?
私に大金よこしたらいいじゃないですか。そしたら応援してくれといっても、はあ、お金くれるならいいですよ、となるじゃないですか。一円もよこさず、絵描きさんを無職扱い、犯罪者予備軍あつかいで虐めていて、文化を大切にする国じゃねーよ。その国、芸術家の地獄だよ。
右翼は猛省し、私に大金をよこすことだね。そしたら横山大観みたいに日本の象徴を美化して描いてやるから。
日本人一般は私にカネをろくにくれないけちな上にサルみたいに幼稚かつ悪徳に満ちていて個人的に全然親しめない件
私は私を億万長者にするか、最大の名誉と権力を与える国や地域に移民します。もっといえば私が最も幸せに暮らせる国へ行きとうございます。そして皆もそうすべきです。私達は自分を最も活かせる場所に移動すべきだからです。
私が私の最も得意な絵を描き、それを売ろうとします。ところがこの国民はそれを買いません。そして餓死させようと生殺しにして、絵だけみていいねとか適当なことをいって、自分はちゃっかり労働でカネを儲けています。だから私は日本国民も日本国も嫌いなんです。好きになれる筈もないじゃないですか。私にばんばんお金くれまくるなら分かりますよ。そういう国民が「私達が好きでしょう?」っていってくるなら。そりゃ嫌いという筈もないと。実際、そういうユーチューバーいるでしょ? 子供向けに阿呆なことをして大金をせしめている。つまりそれだけ幼稚な国民、愚民の国なんですよね。
単に愚民の集まりなばかりか、私から見たら下品極まりないものに大金使ってたり、本当に下らないものにたかって人気だとかいっている。私の知能からすると、周りがサルにしか見えない、昔から。サルと同じ人類だとは全然思えなかったので、一度も親しみを感じたことさえない。似た言葉を話す人達の殆どがサルにしか見えない時、一体、その人は周りにうろちょろしている生命体を同類だと思えますか? そしてその集団の一部にされるのが嬉しいと思いますか?
私はこの島に生きてきて、同じ島民に本当に馬鹿みたいなろくでもない奴らだなと思った経験が全体のほぼ全てだったので、死を恐れるという気持ちが分からない。だってそんな地獄みたいな経験が過ぎ去ったらラッキーじゃないですか? かといって早く終わらせる理由もないけど。どうせ終わるのですから。この島民は私より遥かに精神年齢が低い人達なのではないかと思う。だからみてても何にも面白くない。ばかじゃないの? とは常に感じるけど。ではもっと精神年齢の高い集団に属すればいいのでは、という話だが、探したけどいなかった。英語習って移民すればって話なんだが、母語よりできない。
私は一時期、普通に英語を中心に読み書きしようと思って実際にそうしてたんだけど、私がその頃つきあいだしたというか自分が助けようと思った女が英語読めないといったから、その人に読ませるために戻ってしまった。無視して英語だけやってりゃよかったんだろうか。母語より得意になれないと思うが。
「母語より第二言語が得意になれない以上、母語の能力を高めた方が、言語流暢性にとって有徳」という立場を私はとった。これが正しかったとしても、今度は私と同じかそれ以上に精神年齢の高い言説がなかなか見つけられないので退屈する結果になった。ツイッター、ずっと全然面白くない。
私が私の最も得意な絵を描き、それを売ろうとします。ところがこの国民はそれを買いません。そして餓死させようと生殺しにして、絵だけみていいねとか適当なことをいって、自分はちゃっかり労働でカネを儲けています。だから私は日本国民も日本国も嫌いなんです。好きになれる筈もないじゃないですか。私にばんばんお金くれまくるなら分かりますよ。そういう国民が「私達が好きでしょう?」っていってくるなら。そりゃ嫌いという筈もないと。実際、そういうユーチューバーいるでしょ? 子供向けに阿呆なことをして大金をせしめている。つまりそれだけ幼稚な国民、愚民の国なんですよね。
単に愚民の集まりなばかりか、私から見たら下品極まりないものに大金使ってたり、本当に下らないものにたかって人気だとかいっている。私の知能からすると、周りがサルにしか見えない、昔から。サルと同じ人類だとは全然思えなかったので、一度も親しみを感じたことさえない。似た言葉を話す人達の殆どがサルにしか見えない時、一体、その人は周りにうろちょろしている生命体を同類だと思えますか? そしてその集団の一部にされるのが嬉しいと思いますか?
私はこの島に生きてきて、同じ島民に本当に馬鹿みたいなろくでもない奴らだなと思った経験が全体のほぼ全てだったので、死を恐れるという気持ちが分からない。だってそんな地獄みたいな経験が過ぎ去ったらラッキーじゃないですか? かといって早く終わらせる理由もないけど。どうせ終わるのですから。この島民は私より遥かに精神年齢が低い人達なのではないかと思う。だからみてても何にも面白くない。ばかじゃないの? とは常に感じるけど。ではもっと精神年齢の高い集団に属すればいいのでは、という話だが、探したけどいなかった。英語習って移民すればって話なんだが、母語よりできない。
私は一時期、普通に英語を中心に読み書きしようと思って実際にそうしてたんだけど、私がその頃つきあいだしたというか自分が助けようと思った女が英語読めないといったから、その人に読ませるために戻ってしまった。無視して英語だけやってりゃよかったんだろうか。母語より得意になれないと思うが。
「母語より第二言語が得意になれない以上、母語の能力を高めた方が、言語流暢性にとって有徳」という立場を私はとった。これが正しかったとしても、今度は私と同じかそれ以上に精神年齢の高い言説がなかなか見つけられないので退屈する結果になった。ツイッター、ずっと全然面白くない。
日本が存続する必要はない
女が低学歴だと出産が早くなり、子供の数も増えるのは、母親が子供に与えたがる教育費と関係あると思われ、確かに単なる数の面では女に経済力がないか、高い教育を与えない国々の方が人口が殖え易い。逆に女を高学歴化し、経済力も与えると少子化し易いので、絶滅させたければ非常に有効な方法になる。先進国は移民によって補っているけど、途上国側は人口増になり易い条件(女性の低学歴、低経済力)があるからそれで人口維持されているか、先進国内に低学歴・低経済力の人口供給地があるかいずれかだ。
仏教の理想からいうと人類は絶滅すべきなので、女へ徹底的に教育し、経済力も与えるといい。
「なぜ女が低学歴・低経済力だと子供がふえやすいか」。子供に与えるつもりの教育費が、低学歴な母親と同程度だと子供の数がふやせるから、というのが主要な原因と思われるが、顕示的消費とも関係がある可能性がある。高学歴・高経済力の女は、つきあう相手も同程度になり、仲間で貧乏にふるまえない。教育費を無償化しても先進国では途上国に比べ大して合計特殊出生率があがっていないのは、顕示的消費の方に真の理由があるからかもしれない。そもそも女の経済力が高くするには基本的に高学歴化する必要があるが、それをすると女は子供を生まない傾向になる。つまり子育てを嫌い、顕示的消費に走る。
日本人全般は自分から絶滅したがるので、普通に女へ徹底して高学歴化を施し、男以上に給与だの収入を与え、現に絶滅させたらいいと思う。解脱ということだ。人類に生存価値がある証拠はない。なぜなら人類絶滅後も宇宙が続くのは明らかだからだ。ネアンデルタール人も滅びたのだから日本人も絶滅すればいい。女に高い教育を与え続けることでそれが可能である。
なぜ日本人全般が絶滅したがるかといえば、元々、生存する意欲も意義もない病的集団だからなのではないか? セロトニン値が恒常的に低いのは常に不幸さを感じている印だから、生きていくのに向いていない。男女同権の建前で女を高学歴化する方に世論を誘導すれば、お望みの通り、或る時点で消滅する。
これまで色んな日本人をみてきたけど、ほぼ全員死んだ方がいい様な悪徳もちとかただの愚物だったから、絶滅にまっしぐらでも何の同情もわかないし、よかったねとしか言い様がない。女に過度の教育を与える方向に世論誘導したら、自動的にもっとましな世界になるんだからどんどん社会進出させなよ。勿論どうやってましになるかといえば、高学歴女が見栄はって下らない消費生活をして絶滅しまくるから、身の程を知っている別の種族が質素な家庭を築いて増加し、ブランド物に踊り狂うろくでもない阿婆擦れ日本女を駆逐するという流れだけど。でも東京みたかぎり本当に自業自得だと思う。
どうせ日本って俺にまず1円もよこさないんだから、存続しなくていいよ。
仏教の理想からいうと人類は絶滅すべきなので、女へ徹底的に教育し、経済力も与えるといい。
「なぜ女が低学歴・低経済力だと子供がふえやすいか」。子供に与えるつもりの教育費が、低学歴な母親と同程度だと子供の数がふやせるから、というのが主要な原因と思われるが、顕示的消費とも関係がある可能性がある。高学歴・高経済力の女は、つきあう相手も同程度になり、仲間で貧乏にふるまえない。教育費を無償化しても先進国では途上国に比べ大して合計特殊出生率があがっていないのは、顕示的消費の方に真の理由があるからかもしれない。そもそも女の経済力が高くするには基本的に高学歴化する必要があるが、それをすると女は子供を生まない傾向になる。つまり子育てを嫌い、顕示的消費に走る。
日本人全般は自分から絶滅したがるので、普通に女へ徹底して高学歴化を施し、男以上に給与だの収入を与え、現に絶滅させたらいいと思う。解脱ということだ。人類に生存価値がある証拠はない。なぜなら人類絶滅後も宇宙が続くのは明らかだからだ。ネアンデルタール人も滅びたのだから日本人も絶滅すればいい。女に高い教育を与え続けることでそれが可能である。
なぜ日本人全般が絶滅したがるかといえば、元々、生存する意欲も意義もない病的集団だからなのではないか? セロトニン値が恒常的に低いのは常に不幸さを感じている印だから、生きていくのに向いていない。男女同権の建前で女を高学歴化する方に世論を誘導すれば、お望みの通り、或る時点で消滅する。
これまで色んな日本人をみてきたけど、ほぼ全員死んだ方がいい様な悪徳もちとかただの愚物だったから、絶滅にまっしぐらでも何の同情もわかないし、よかったねとしか言い様がない。女に過度の教育を与える方向に世論誘導したら、自動的にもっとましな世界になるんだからどんどん社会進出させなよ。勿論どうやってましになるかといえば、高学歴女が見栄はって下らない消費生活をして絶滅しまくるから、身の程を知っている別の種族が質素な家庭を築いて増加し、ブランド物に踊り狂うろくでもない阿婆擦れ日本女を駆逐するという流れだけど。でも東京みたかぎり本当に自業自得だと思う。
どうせ日本って俺にまず1円もよこさないんだから、存続しなくていいよ。
哲学は思想史の巨人の肩に乗って構築される
(哲学は過去の文章を読む必要はあるにせよ積み重ねがなく、各自が横一列に並んで垂直高飛びをしている状態、とするツイートへ)
哲学は個人が個人として作る体系だから、個々人と共に生まれて完結し、受け継がれないみたいな哲学観って、カントが純粋理性批判の冒頭で書いてた気がするけど、これは間違いですね。我々は弁証法とか定言命法とか無知の知とか脱構築とか、過去の哲学者のつくりあげた肩に乗って思考しますから。
哲学は個人が個人として作る体系だから、個々人と共に生まれて完結し、受け継がれないみたいな哲学観って、カントが純粋理性批判の冒頭で書いてた気がするけど、これは間違いですね。我々は弁証法とか定言命法とか無知の知とか脱構築とか、過去の哲学者のつくりあげた肩に乗って思考しますから。
被差別妄想は劣等感の裏返し
(アジア女性もアジア人だからもてない、というツイートへ)
私は全宇宙で世界で最も持てますがそれは私が人類ではないからです。差別とは心の中にある妄想、そう、あなたの抱えている劣等感にすぎないのです。考えても御覧なさい、日本人も日本人を差別するでしょう? しかし人類の差別など人類の間でしか通じないことをお忘れではありませんか。
私は全宇宙で世界で最も持てますがそれは私が人類ではないからです。差別とは心の中にある妄想、そう、あなたの抱えている劣等感にすぎないのです。考えても御覧なさい、日本人も日本人を差別するでしょう? しかし人類の差別など人類の間でしか通じないことをお忘れではありませんか。
文法的破格は新たな意味を生じさせる
(誤字ツイートについて)
それと、全然関係ないですが、いますね を いるんじゃないですかね に書き換えようとして、いるんじゃないますね に合成されたという点は、非常に面白い言い回しで、文法的破格として今後も見習おうと思いました。
それと、全然関係ないですが、いますね を いるんじゃないですかね に書き換えようとして、いるんじゃないますね に合成されたという点は、非常に面白い言い回しで、文法的破格として今後も見習おうと思いました。
カネにならない仕事は多様な意義を含む
お前ら書いても書いても1円にもならない囀りをなんで飽きもせず毎日垂れ流しているのだ? 資本主義者ならツイッター社の広告収益以外に何の利益にもならないじゃないか? お前らがツイッター社の株をもってて、連投してるならわかるがな。所詮、資本主義信者なんて世俗派の癖に偉そうにいってるが。カネにもならないやりとりを求めてさえずってんだろうに。つまりはお前らも俺と変わらんアーティストなわけだな? 表現自体に喜びがあるから小鳥だってツイートしてんだろうに。
本物の資本原理主義者なら、本気で1円にもならない作業は全部廃して、徹底的に利益追求してる筈なんだが。だからツイッターに居る筈もないし、見てる暇もない筈なんだ。情報収集とはいえ雑音が多すぎるし、このさえずりも見てる暇ない筈なんだから。
インフルエンサーと称する情報商人だかネット芸人だかが、金儲けの手段として顧客受けする情報を流しているのですと。そういうんでしょ。SNSを個人事業主だか会社の宣伝媒体にすると。本当にそうなのかな。バフェットもジェフベソスもそんなに頻繁にツイートしてないけど。
貴殿ら資本主義者と違って私は一円にもならない仕事の方が楽しいんだけど。カネになるかどうかって他人の好みが入るから。私は私の好みだけ100%で仕事したいから。それで資本主義者の一人が、悪徳商人は安全だとかいってるけど、そんなら原発どけろよ。
(「宣伝になる」との返信ツイートへ)
例えば私はウォーレンバフェットという投資家をフォローしています。しかし彼は「ウォーレンは家にいる」といったきり、ろくに何も言わない。それが模範だといえませんか? 資本原理主義者ならです。彼より儲けているなら話は別です。
(「資本家のタイプ次第では息抜きに使う」との返信ツイートへ)
資本原理主義の定義があなたと私では違う。私は「金にならないことは何もしない」という究極の私利追求を暮らしの全局面に適用する人をそう定義していて、あなたのいう息抜きする人はそこからいうと資本世俗主義者です。資本原理主義はより利益になることに全神経を集中し、私利以外の全倫理も捨てていて、寧ろ最大の場合、私利の為に命も捨てます。与沢翼さんが「カネに魂を売った」と動画の中で言っていた。彼を超えて資本原理主義を追求すると、金儲けの為に自殺するとかでてくるかもしれない。聖戦思想は来世の救済を前提に現世の命を捨てることを義とします。資本原理主義者がもし存在すれば、彼らは来世の大金を現世の金儲けより義とするかもしれないので、なんらかの教義で生まれ変わってからの大富豪化を約束(洗脳、自己洗脳)されれば、普通に現世ではどんな大悪業もすると思います。
ご存知かと思いますが、ドラクエ1の最後のボス、竜王は、世界の半分をやるから仲間にならないかと勇者であるあなたにいいますよね。同じ様に、ある資本原理主義者(例えば秘密結社とか)が、お前の死後にお前の子孫は代々財閥にしてやろう、しかしお前自身には死んでもらうがいいか? ともちかける。
資本主義は欲望充足の遅延に基づいて、いわばマシュマロテストの成績として蓄財する教義です。消費すればお金はなくなるからですね。清教徒思想の中ではこの遅延を実際に、来世に先送りしていました。だから雪だるま的な資本蓄積が起きた。つまり資本原理主義の原型がカルヴァン思想ということです。
あなたと私の間で認識のずれが生じているのは、資本原理主義に強度を認めるかどうかです。私は強度の資本原理主義者は、ツイート自体が原則金儲けにならないから、一般的に先ずここにいないだろうというのです。与沢さんは宣伝ツイートを直接売ってましたがね。ユーチューブ投稿は主に収益目的ですね。ツイッターはツイッタラーに直接、広告収益を還元しない商売型です。ピグもそうでした。潰れました。グーグルは鼓舞として収益を投稿者に与え、有名ユーチューバーを億万長者にし、圧倒的な業績の差もツイッター社につけました。つまり、ツイッタラーは原則として大きく搾取されているということです。ツイッターは、(ユーチューブ等と違って)間接的換金しかできない。これが私が最初にしたツイートの意味です。しかも私は寧ろこれを芸術家の職人魂に近いものとして、半ば自虐ユーモアを込めて賞賛する文脈に置いたのです。カネにならない仕事を喜んでできること。無償奉仕も、貴族精神も含まれます。
本物の資本原理主義者なら、本気で1円にもならない作業は全部廃して、徹底的に利益追求してる筈なんだが。だからツイッターに居る筈もないし、見てる暇もない筈なんだ。情報収集とはいえ雑音が多すぎるし、このさえずりも見てる暇ない筈なんだから。
インフルエンサーと称する情報商人だかネット芸人だかが、金儲けの手段として顧客受けする情報を流しているのですと。そういうんでしょ。SNSを個人事業主だか会社の宣伝媒体にすると。本当にそうなのかな。バフェットもジェフベソスもそんなに頻繁にツイートしてないけど。
貴殿ら資本主義者と違って私は一円にもならない仕事の方が楽しいんだけど。カネになるかどうかって他人の好みが入るから。私は私の好みだけ100%で仕事したいから。それで資本主義者の一人が、悪徳商人は安全だとかいってるけど、そんなら原発どけろよ。
(「宣伝になる」との返信ツイートへ)
例えば私はウォーレンバフェットという投資家をフォローしています。しかし彼は「ウォーレンは家にいる」といったきり、ろくに何も言わない。それが模範だといえませんか? 資本原理主義者ならです。彼より儲けているなら話は別です。
(「資本家のタイプ次第では息抜きに使う」との返信ツイートへ)
資本原理主義の定義があなたと私では違う。私は「金にならないことは何もしない」という究極の私利追求を暮らしの全局面に適用する人をそう定義していて、あなたのいう息抜きする人はそこからいうと資本世俗主義者です。資本原理主義はより利益になることに全神経を集中し、私利以外の全倫理も捨てていて、寧ろ最大の場合、私利の為に命も捨てます。与沢翼さんが「カネに魂を売った」と動画の中で言っていた。彼を超えて資本原理主義を追求すると、金儲けの為に自殺するとかでてくるかもしれない。聖戦思想は来世の救済を前提に現世の命を捨てることを義とします。資本原理主義者がもし存在すれば、彼らは来世の大金を現世の金儲けより義とするかもしれないので、なんらかの教義で生まれ変わってからの大富豪化を約束(洗脳、自己洗脳)されれば、普通に現世ではどんな大悪業もすると思います。
ご存知かと思いますが、ドラクエ1の最後のボス、竜王は、世界の半分をやるから仲間にならないかと勇者であるあなたにいいますよね。同じ様に、ある資本原理主義者(例えば秘密結社とか)が、お前の死後にお前の子孫は代々財閥にしてやろう、しかしお前自身には死んでもらうがいいか? ともちかける。
資本主義は欲望充足の遅延に基づいて、いわばマシュマロテストの成績として蓄財する教義です。消費すればお金はなくなるからですね。清教徒思想の中ではこの遅延を実際に、来世に先送りしていました。だから雪だるま的な資本蓄積が起きた。つまり資本原理主義の原型がカルヴァン思想ということです。
あなたと私の間で認識のずれが生じているのは、資本原理主義に強度を認めるかどうかです。私は強度の資本原理主義者は、ツイート自体が原則金儲けにならないから、一般的に先ずここにいないだろうというのです。与沢さんは宣伝ツイートを直接売ってましたがね。ユーチューブ投稿は主に収益目的ですね。ツイッターはツイッタラーに直接、広告収益を還元しない商売型です。ピグもそうでした。潰れました。グーグルは鼓舞として収益を投稿者に与え、有名ユーチューバーを億万長者にし、圧倒的な業績の差もツイッター社につけました。つまり、ツイッタラーは原則として大きく搾取されているということです。ツイッターは、(ユーチューブ等と違って)間接的換金しかできない。これが私が最初にしたツイートの意味です。しかも私は寧ろこれを芸術家の職人魂に近いものとして、半ば自虐ユーモアを込めて賞賛する文脈に置いたのです。カネにならない仕事を喜んでできること。無償奉仕も、貴族精神も含まれます。
2019年5月11日
差別観を解除する為により多様な認知要素を学ぶことが誤りを避ける為に必須
まあ、差別に関する知能は、自分が論拠にしているGordon Hodson "Bright Minds and Dark Attitudes" 2012、でいうgeneral
intelligenceがどう定義されてるかによる。しかし話がIQに及ぶと遺伝要素が6~7割(安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』)という見解もある。つまり差別に関する知能が、集団認知を単純化しすぎる癖に依存しているとすると、ゴードン・ホドソン氏のいう一般知能とIQに、或る程度の関係があるかもしれない(IQは知能全体と別個の要素だから、全く同じものではないのではないか)? いいかえれば遺伝要素が6~7割ある可能性も出てくる。つまり差別し易さには生まれつきの要素があるかもしれない。ゴードン・ホドソン論文では言語・非言語IQや、4つの認知能力測定(のIQ?)が使われてるみたいだけど、そこでいう一般知能がIQ全体と厳密に一致していないと私は思った(つまり差別に特有の知能があると考えた)けど、確かにこのうちの遺伝要素がどの程度かは考察の余地がある。「差別」をどう定義するかにもよるが、或る集団の属性を特定の事実と異なる傾向だと根拠なく思い込む偏見の持ち易さとその強度だとすると、これが認知バイアスに対する自己修正能力の低さだといっていいから、その種の知能が精神年齢の肉体年齢に対する百分率たるIQとある程度関係がある可能性が高い。実際、肉体年齢に関わらず精神年齢が高くなれば、集団への認知バイアスを自己修正する為のより多くの知識、或いは認識を得る要素がより多くあるわけだから、差別は一般にし辛くなる。つまり集団への認知バイアスに使われている知能は、IQと同じ要素も含んでいて、且つ、個別の部分もあるはずだ。
まとめると、「生まれつき知能が低い」といったときの知能とは特称していない限りゴードンホドソンと同じ一般知能の意味だが、限定すればここでいう差別し易さの知能(集団認知バイアスの傾向)のうち、遺伝的要素を含むもの、といえる。
「或る人の差別し易さのうち、遺伝要素を認めるのは、差別にあたらないのか?」 これは単なる言葉遊びにすぎず、差別の定義を悪意ある文脈においているにすぎない。
では「或る人の(知能の一部が持つ)差別し易さのうち、遺伝要素が真に存在するのか?」だが、少なくとも現時点の科学では、上述のゴードンホドソン論文がIQ計測を含むものであれば、全てが確定的にとはいえないにせよ、存在する可能性が高いといえるだろう。つまり同論文が真なら、それが言語・非言語IQで、数字想起、形を描く課題、単語定義、単語間パターンと類似性の識別、これら4つの認知能力によるIQも、部分的に遺伝しているかもしれない。つまり差別し易さと、遺伝する知能の部分には、一定の相関関係があるかもしれない。
私は上に書いた通り、「全てのIQが差別し易さと相関関係を持つ」とは思わないし、「差別し易さには知能の一部があてられている以上、知能全体と関係ない」と思う。そして遺伝要素があるかといえば「現時点では、差別し易さに遺伝要素がある可能性がある」と思うが、疑いが全くないわけではない。いいかえると、「生まれつき知能が低いから差別する」とは、確かに特定の知能、差別し易さの知能の部分に関して遺伝要素があれば真だといえるのではないか? 日本語の特性上、冠詞がないので、ここでいう知能は知能全体なのか知能一般なのか特定の知能なのか明示されなかったが、特定知能のことだ。
返信した人はこの日本語に冠詞がないという特徴を、いわば乱用して、「生まれつきの知能」を知能全体か知能一般とわざわざ混同させようとする文脈において最初のツイートを批判しているといえるけど、上記でそれが単なる揚げ足取りだと論証できたのではないか? わざわざ訂正が面倒だったが。
「生まれつき知能が低いから差別する」と誰かが言ったとき、これは、現時点の科学知識に基づけば知能全体のことではありえない、と多重知能仮説ですぐ分かる話だし、仮に知能一般とするとしても確かにIQの一部に遺伝要素があり認知バイアスと関係があることも知れているので、わざわざ指摘する部分か?
後天的に自己の陥り易い認知バイアスを解除し、より集団なり個人なり、何らかの対象を現実に即して認識できる様になっていくのが精神的成長もしくは社会学の経過だといえるが、それ以前の遺伝要素があることと、後天的学習や批判的思考の訓練によって正しい認識を得られることには関係がない。いうまでもないことだが、全人類が一切の差別抜きに世界を認知できればそれが理想の状態かもしれないが、この世では認知バイアスを思考の単純化として人類の脳は選好し易い。つまりどちらかといえば差別し易さとは単なる脳の特徴に過ぎず、度合いがあるだけなのだ。その傾向自体は差別と無関係だ。
差別についてより詳細に考えると、そもそも差別は認知の単純化だから脳は多少あれしているのであり、それが事実と相反する要素を多くもつ場合は不条理になる上に、人間集団にあてられると人権侵害となるだけで、何らかの共通属性の特徴を同定するための思考の癖といえる。脳の幼稚さの一種だ。そうであればIQ(精神年齢の肉体年齢に対する百分率)が差別と関係しているとしても不思議はなくて、経験か学習で例外的要素を多く認知していれば集団属性の単純化にためらう結果になる。つまり脳が対象の識別において認知する要素が多いと、或る特徴との類比で個性を逆算する傾向が弱くなるわけだ。IQも脳の特徴の一種で、遺伝要素が半分以上あるとされるから、差別し易さには遺伝要素がある可能性は相当ある。しかし後天的影響で特定の差別観をもつかは決定される上に、当人が認知の癖を直せば修正の余地がある。「常識とは18歳までに見つけた偏見のコレクション」風に差別観も当人の収集の一種と。差別は事実を妄想と取り違えているわけだから現実の認識を誤っている為、当人の悪徳の一種である。差別はする側のみに全原因があってされる側には皆無である。他人が誰かを差別していても、基本的には差別観を持つ人自身の落ち度となるに過ぎない。
重要なのは自分の差別観を最大限解除することだ。
或る集団属性を、脳は類比によって別集団にも適用し易い。子供はりんごを赤と覚えたら赤いものは全てりんごだと思う様に。この単純化された類比の作用を、実証的、反証的、批判的思考その他によって無限に解除し続けてはじめて、人類はより正確に現実を認識し、自らの誤りを避けられる。
まとめると、「生まれつき知能が低い」といったときの知能とは特称していない限りゴードンホドソンと同じ一般知能の意味だが、限定すればここでいう差別し易さの知能(集団認知バイアスの傾向)のうち、遺伝的要素を含むもの、といえる。
「或る人の差別し易さのうち、遺伝要素を認めるのは、差別にあたらないのか?」 これは単なる言葉遊びにすぎず、差別の定義を悪意ある文脈においているにすぎない。
では「或る人の(知能の一部が持つ)差別し易さのうち、遺伝要素が真に存在するのか?」だが、少なくとも現時点の科学では、上述のゴードンホドソン論文がIQ計測を含むものであれば、全てが確定的にとはいえないにせよ、存在する可能性が高いといえるだろう。つまり同論文が真なら、それが言語・非言語IQで、数字想起、形を描く課題、単語定義、単語間パターンと類似性の識別、これら4つの認知能力によるIQも、部分的に遺伝しているかもしれない。つまり差別し易さと、遺伝する知能の部分には、一定の相関関係があるかもしれない。
私は上に書いた通り、「全てのIQが差別し易さと相関関係を持つ」とは思わないし、「差別し易さには知能の一部があてられている以上、知能全体と関係ない」と思う。そして遺伝要素があるかといえば「現時点では、差別し易さに遺伝要素がある可能性がある」と思うが、疑いが全くないわけではない。いいかえると、「生まれつき知能が低いから差別する」とは、確かに特定の知能、差別し易さの知能の部分に関して遺伝要素があれば真だといえるのではないか? 日本語の特性上、冠詞がないので、ここでいう知能は知能全体なのか知能一般なのか特定の知能なのか明示されなかったが、特定知能のことだ。
返信した人はこの日本語に冠詞がないという特徴を、いわば乱用して、「生まれつきの知能」を知能全体か知能一般とわざわざ混同させようとする文脈において最初のツイートを批判しているといえるけど、上記でそれが単なる揚げ足取りだと論証できたのではないか? わざわざ訂正が面倒だったが。
「生まれつき知能が低いから差別する」と誰かが言ったとき、これは、現時点の科学知識に基づけば知能全体のことではありえない、と多重知能仮説ですぐ分かる話だし、仮に知能一般とするとしても確かにIQの一部に遺伝要素があり認知バイアスと関係があることも知れているので、わざわざ指摘する部分か?
後天的に自己の陥り易い認知バイアスを解除し、より集団なり個人なり、何らかの対象を現実に即して認識できる様になっていくのが精神的成長もしくは社会学の経過だといえるが、それ以前の遺伝要素があることと、後天的学習や批判的思考の訓練によって正しい認識を得られることには関係がない。いうまでもないことだが、全人類が一切の差別抜きに世界を認知できればそれが理想の状態かもしれないが、この世では認知バイアスを思考の単純化として人類の脳は選好し易い。つまりどちらかといえば差別し易さとは単なる脳の特徴に過ぎず、度合いがあるだけなのだ。その傾向自体は差別と無関係だ。
差別についてより詳細に考えると、そもそも差別は認知の単純化だから脳は多少あれしているのであり、それが事実と相反する要素を多くもつ場合は不条理になる上に、人間集団にあてられると人権侵害となるだけで、何らかの共通属性の特徴を同定するための思考の癖といえる。脳の幼稚さの一種だ。そうであればIQ(精神年齢の肉体年齢に対する百分率)が差別と関係しているとしても不思議はなくて、経験か学習で例外的要素を多く認知していれば集団属性の単純化にためらう結果になる。つまり脳が対象の識別において認知する要素が多いと、或る特徴との類比で個性を逆算する傾向が弱くなるわけだ。IQも脳の特徴の一種で、遺伝要素が半分以上あるとされるから、差別し易さには遺伝要素がある可能性は相当ある。しかし後天的影響で特定の差別観をもつかは決定される上に、当人が認知の癖を直せば修正の余地がある。「常識とは18歳までに見つけた偏見のコレクション」風に差別観も当人の収集の一種と。差別は事実を妄想と取り違えているわけだから現実の認識を誤っている為、当人の悪徳の一種である。差別はする側のみに全原因があってされる側には皆無である。他人が誰かを差別していても、基本的には差別観を持つ人自身の落ち度となるに過ぎない。
重要なのは自分の差別観を最大限解除することだ。
或る集団属性を、脳は類比によって別集団にも適用し易い。子供はりんごを赤と覚えたら赤いものは全てりんごだと思う様に。この単純化された類比の作用を、実証的、反証的、批判的思考その他によって無限に解除し続けてはじめて、人類はより正確に現実を認識し、自らの誤りを避けられる。