自分より遙かに愚かな人々に何かを教える手間は、少なくともそれが対価を伴わなければほぼ無用の沙汰である。愚かな人々は自らの業に従うからだ。
啓蒙主義はこの点で自由が理解される以前の考え方に過ぎず、特に孔子のいう下人(理解力のない人々)に向けての説教は全く意味を為さない。寧ろ往々にして下人らは彼らの妄信に逆らう真理に感情的反発をしながら何らかの反抗をするものだが、それは彼らの知性が低いのみならず、元々彼らに向上心がないからでもある。彼らはその種の無知や不徳の中で生涯を終えることを望んでもいる。つまり啓蒙は下人にとって完全に余計なお世話なのである。
孔子のいう通り中人(理解力の中程度の人々)以上にしか啓蒙の意味はない。特に上人(理解力の高い人々)は自ら学ぶのだから啓蒙といっても細部の指摘又は大局的助言で十分だが、中人はしばしば啓蒙により下人集団から上人集団への道筋を見つけるかもしれない。つまりこれが『孟子』でいう「教育」と呼ばれる分野で、孔子が『論語』でいう啓発の本質的な意味である。啓蒙を下人への教化を含む概念として使う福沢諭吉の様な愚民観の持ち主は、これらの儒学的定義でそれを使っていない。彼の啓蒙の定義は、百科全書派を主としたフランス啓蒙主義の影響下にあるのだ。
我々が通俗科学としてみるもの、例えばメンタリストとか大衆媒体における脳科学者の立ち回りは上述の啓蒙主義を踏襲している。ヒトラーがいう「大衆の中で最も愚かな者にあわせた」演説が学者らからただの金儲けの為に真理を極端に単純化したり、説明の為に歪め誤解を招く仕方で解説する仕事は軽蔑され勝ちである。それというのも啓蒙は自由にとって元々無用なばかりか護送船団的な最遅速を余儀なくし、結果、知識そのものを矮小化して観衆に信じ込ませ、大抵ある種の洗脳に近い状態を呈するからである。いいかえれば占い、スピリチュアルの様な疑似科学よりましだとしても通俗科学は単なる宗教として自然哲学(今日のいわゆる科学、自然学)と道徳哲学(形而上学、後自然学)を低俗化させてしまう。つまり真理を疑義する活動であるはず哲学の本道から多くの人々を逸らし、当時の科学教を正しいものと教え込んでしまうのだ。
この種の過ちから身を退け為すべきなのは真理探求の道に帰ることだが、啓蒙家ぶりを反例にただ根本的疑義の中に生きるのが賢明だ。そして啓発そのものも必要十分なだけ行えばいいのであり、もし収入に困るでもなければわざわざ教授、教師の類に学者が身を落とすべきではない。世俗的職業と全く別の所に知識水準はある。