2019年5月19日

善意は最高幸福の中身

我々は性悪が他人を不幸にする目的で生きているのを忘れがちだ。連中は他人を嗜虐するのが最大の生きがいで、そもそもこの為に人生を送っている。だから性悪への唯一で最善の対処は連中に触れないことだ。
 一方、商人全般もこの性悪と同じ目的で生きている。いいかえれば彼らの動機は他人を比較的な地位財で見下すことである。なぜ彼らがかねを貪るかといえば他人を搾取する為でしかない。商人生活に適応できるのは性悪な人々で、彼らは嗜虐が最終目的のラットレースを死に至るまで続ける。
 この世で商人社会の中で幸福さが一向に高まらないのは以上の道理による必然で、結局彼らは不幸を買う為の努力をして死ぬ。だから賢明な人ははじめから商わない。
 物質的快楽は打ち止めになるのが知れているが、単に性悪が他人に優越感を得る目的でかねを集めても一定限度以上で見下せる相手が減るからだ。そして性善の人は最初からその種の虚栄をみてとり、悪徳の都会に近寄らず質素な田舎町でくらせば競争の必要もないと知っている。中庸の徳は今日もまた正しく、かねを巡る無数の悪徳ははじめから他人に妬ませる目的しかない都会、もしくは性悪共の生態を離れてこそ避け得る。
 ピーターシンガーがいうとおりこの世で幸福さを高めたくばただひたすら利他の行いを積み重ねればよい。積善は最も簡単に救いの信念を得る方法だからだ。カルヴァン思想の中でと同じく自らが救われるとの確信が、我々がこの世で得られる最高の資産である。それは自分が常に揺るぎなく最善の行いをし尽くしたとの満足感の度合いでしかない。だが自らのかね儲けのため仕事してきたとしか思えない人は、結局自分の生を比較的地位財でしか合理化できない。これが幸福になれないかねもちの正体だ。
 アダムグラントは経済的成功を利他行動と兼ねる人を理想化しているが、実は清貧な利他主義者の方が幸福感が高い。それは自分が善良な存在だと信じられる人が、少なくとも非地位財の中で最上の宝というべき善意を高めていくからだ。相利によっては永久に仮言命法的偽善心しか満たされない。