2019年5月22日

資本主義教は誰も救わない

同時代の多数派、又は自分と似た職業の人々がもつ価値観を絶対視なり信仰している人は、過去においてその種の価値観が或る人を制度に縛りつける役割を果たしていたと悟っていない。だから現代商人が「金儲け」を倫理的に合理化しているのは、別の時代、又は別の価値観からみればただの狂信である。
 現代商人は自分達が資本主義という搾取体系の中で、金儲けを続ければ自己救済されるという教義を完全に宗教として狂信している。そして彼らはこの考えを他人にも当然の如くおしつけたがるので、彼らの妄想の中では貧富が人格的価値その他におきかえられてしまう。金持ちが神、貧民はごみと彼らはいう。資本主義教を疑義することは現代商人の中では最大の禁忌の一つで、それをした途端、彼らの行いが合理化(言い訳)できなくなるので狂人扱いし、思考の外にこの疑いを排除しようとする。丁度、封建時代の商人らが身分差別を当然視していた様に。
 商人達は金儲けの癖で、世間の物に所有権を主張しはじめる。この土地は自分の物だ、この機械は、この音楽は自分の物だと。結果、世界を商人らの傲慢が排他的な悪意で占有しあう。つまり国だ。商人の親玉は軍隊を雇い人殺しをはじめる。それが皇室でありつまりは悪徳商人の権化なのである。
 仏教国は確かに、資本主義教に対する最後の防波堤だ。ブータンやチベットがなくなれば我々の世界は商人が『リヴァイアサン』でいう「万人の万人に対する戦い」をくり返す血みどろの収奪戦だけで埋められ、その最終結果は封建制と何も変わらない超少数者か、唯一の大金持ちによる全人類への専制だろう。
 生まれつき商才のないだけの人(しばしば他の分野で社会的有益性が極めて高い天才を含む)を、搾取し、見下し、虐げ、自己責任だと罵り、場合によっては社会保障を与えず餓死させ、これが資本主義教だ、とのたまう。一体この種の露悪のどこに尊ばれる理由があるというのか。商人の傲慢に他ならない。生存者バイアスで洗脳し、他人を金儲けに走らせる商人向け啓発書。つまりはここで教義とされているのは搾取を善行と思い込めという典型的な付加価値信仰であり、資本家に都合がいいラットレースの煽りでしかない。
 一方それら商人、労働者全体はこの教義の中で一生過ごし死ぬのを名誉と考えている。
資本主義狂信者たちが密集しているアリの巣の様な都心で十年近く過ごした私が見つけたのは、その教義がただの悪意に他ならないという真理だった。「他人をもっと貪ろう」。この教義が欧米人を唆し世界侵略を企てたのであり、東京にやってきた薩長土肥や関西地方の暴力団も同じ野望で地獄を作ったのだ。
 私は自分自身を資本主義者にする為に、なるだけ資本主義の有利な点を集め、自分自身をその教義遂行の担い手にするようこの数年間、過労で気を失いかけるくらいの努力を重ねた。その結果得たのは、この教義を信仰できるのは相当の愚物だけだという認識だった。余りに矛盾が多すぎかつ実行不能だからだ。資本主義社会の象徴というべき東京都で暮らし、そこが地獄の如き環境だと悟ってのち、なおもこの教義を改善すればなんとか使い物になるのではないかと果てなき努力をこの数年間私はくり返した。しかし全くそれが不可能であるばかりか、寧ろますます不幸をまきちらす装置が資本主義と分かるだけだった。